2019/08/19

様々な祈りの地──九段下、飯田橋

2019.8.3【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_37

 ピーカンの猛暑の中を日差しを避けながら歩くも、熱中症対策として(?)2度もカフェに自主ピットインします。結構バテバテ……


築土神社(つくど)

 創建時は津久戸村(現 大手町)で平 将門の首(首塚)を祀るも、江戸城築城のため田安郷(現 北の丸公園)に、城の拡張工事により筑土八幡神社隣接地に(新宿区筑土八幡町には神楽坂 白銀町と同時か)、空襲を受け現在の九段北に移転し、ようやく落ち着けたように。
 この地へのこだわりは、武道館の氏神とされるためらしく、将門の黒馬に由来する勝守(かちまもり)は、武道(柔道・剣道 等)を志す人々に人気があるそう。戦いに敗れた人物でも坂東(箱根より東の関東)では誇りのようです。
 九段北地区は靖国神社で東西に分断されるため、東側は築土神社、西側は日枝神社の氏子地域になるそう。



 大鳥居からの参拝が正しい様が見て取れます(右)。
 軍人、軍属 等を主な祭神として祀る神社で、中央の大村益次郎の像から起源が明治期であることが分かります。彼は日本陸軍創始者との評価からこの神社に祀られますが、初代の陸軍大将である西郷隆盛は西南戦争での反乱により、それまでの功績や名誉は消し去られたようです(庶民に親しまれる人柄ゆえ、銅像の立地は上野公園がふさわしいと)。
 戊辰戦争における新政府軍側の戦没者を合祀し、幕末の志士 吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作 等々も維新殉難者として合祀したのは官軍側の論理で、評価というものは立場によって変わります。異を唱えるつもりはないが(慰霊する気持ちはある)、近代日本史については、各自が評価できる程度に学ぶ必要があるように。

 現在、天皇の存在を支える神道が強制されないように、靖国神社の戦没者を祀る方針もひとつの宗教活動とすれば、閣僚の個人的な信仰による支持者へのアピール(政治利用)は可能としても、近隣諸国の揚げ足を取るような批判に対しては、各個人の信念に基づいた説明をきちんとすべきと。
 国が管理する千鳥ケ淵戦没者墓苑には、朝鮮半島・台湾出身者で遺族に引き渡せない遺骨も納骨されています(アメリカはここを慰霊します)。

 下の神池庭園(しんち)の池が、底の石までピッカピカなのは、清掃が終わったばかりのためか。以前、濁った水を泳ぐ鯉を目にした記憶があります。


 現在桜の名所とされる外濠公園(江戸城外濠の土手)は、明治期以降も「この土手、登るべからず」とされますが、1921年(大正10年)法政大学の移転以来、土手に入り込む学生があとを絶たず問題視されたため、大学が東京市(当時)に「土手の開放」を求め、27年(昭和2年)外濠公園として開放されます。それって法大生の自慢になるのか?


 上の飯田橋グラン・ブルームは、以前の東京警察病院、富士見町教会 等を再開発した施設で、オフィス・商業棟、住宅棟や教会棟があり、足下に外濠を望みます。

 現在、飯田橋駅はホーム移設工事中で(カーブにあるホームは傾斜があり、ドアとの隙間も広く危険)、西口(新宿側)の長い通路付近がホームになるそうです(新しいホーム付近には旧牛込駅があった)。旧飯田町駅(貨物駅)と旧牛込駅が飯田橋駅として統合される際、中間のカーブにホームが作られたのは、東口の目白通りに都電が通っていたためか。




 ここは都内最強の「縁結びパワースポット」とされ、参拝に並ぶ若い(?)女性から「このオヤジ何?」という目で見られていたように。
 伊勢神宮の分霊が祀られる「東京のお伊勢さま」とされ、以前の日比谷から関東大震災後に移転します(大正天皇の結婚式が行われ、それを契機に神前結婚式が創始されます)。
 上は境内で育て祭祀に使用すると思われる稲。

 飯田橋駅付近は九段から続く丘陵地の縁にあたるため、傾斜地の裏道には階段の路地が健在です。どんなに急でも坂道は車を通すためのものですから、こんな路地の方がのんびり歩けるように……


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