本編は、人出の多さが話題となった9月の4連休中のもので、浅草はかすめるだけのつもりが、にぎわいに飲み込まれ乗ってしまったものです……
日本堤とは、隅田川の氾濫原(洪水時に冠水する地域)を陸地化するために築かれた人工堤防で、浅草の待乳山聖天(まつちやましょうでん)から、三ノ輪の浄閑寺付近に至ります。大火により人形町から移転した遊郭から、吉原土手とも呼ばれました。
下は三ノ輪付近の名残で、土手(幅は10mもない)に並んだらしい建物の背面で、表も裏も道路のためこんな姿がむき出しのままです。
右は、五色不動(白・黒・赤・青・黄)の目黄不動がある永久寺の回廊。江戸時代は三色でしたが、明治期以降に黄・青が登場し、後付けで五色不動伝説とされたそう(目黄不動は江戸川区平井の最勝寺にもある)。
右は、五色不動(白・黒・赤・青・黄)の目黄不動がある永久寺の回廊。江戸時代は三色でしたが、明治期以降に黄・青が登場し、後付けで五色不動伝説とされたそう(目黄不動は江戸川区平井の最勝寺にもある)。
右は、旧吉原大門付近の土手の伊勢屋(天ぷら)、奥が桜なべ 中江(馬肉)で、吉原名物とされた店舗は、空襲から焼け残りました。桜鍋は滋養強壮に効果があるとの評判から、朝帰り、昼食、夕に繰り出す前の客が絶えず、周辺には多くの店が軒を連ねたそう。遠目に、歓楽街にも立派な庫裏のある寺院が、と思ったら、昼から呼び込みが立っていました……
東浅草・千束(吉原)付近から、江戸時代に遊郭への水上路とされた山谷堀跡が、山谷堀公園として整備されます。あしたのジョー像があるように、山谷とされる地域(地名は消滅)や土手通りの名称には、江戸期の辺境地だった記憶が残るようにも。
山谷堀の遊歩道を歩いていると、「カランコロン」と下駄の音が聞こえてきます。音から想像した光景を今戸神社境内で目にした瞬間、まぼろしかと、ときめきました。浴衣姿で下駄を鳴らし、神社に参拝する若い女性たちの姿があるだけですが、浅草らしい風情をしみじみと……
縁結びの神様とされるため、若い女性たちが目指すスポットのようで、2人掛けに3人座る状況から早く抜け出したい、と願うのでしょうね。
上の女性たちが終わるのを待って右の女性が参りますが、ひとりで祈る姿には重さを感じてしまいます(ゴメンナサイ、成就されますように……)。
前回の平日訪問は密を避けようとしたものですが、その際の物足りなさと比較し、「密でなければ浅草の魅力は味わえない」ことを、体感できた気がします。それは祭りと一緒で、中に入るつもりはないのに、いつの間にか引き込まれてしまう、活気が醸し出す魔力ではないかと。
戻ってきた人出を避けつつも、娯楽と奈落(?)が背中合わせの刺激こそが、浅草の魅力と納得させられます……
右は、待乳山聖天に供えられる大根(健康、良縁、和合を願う)。寺務所で売っていますが、持って来る方も見かけます。
この日は、感染防止の制限緩和を受け「予想を超える人出」だった4連休中で、感染拡大を危惧しましたが、2週間を過ぎた本投稿時も恐れていた事態にならず、ひとまずホッと。
海外からの入国受け入れが再開され、今後は段階的に枠が広げられます。警戒しつつクリアしなければ元の生活に戻れないわけで、それぞれのステップで予防対策を再確認することが大切になります。
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