入谷と下谷はどちらも「上野周辺」の認識なので、ちゃんと区別できるようにと歩きましたが……
東京15区・35区の時分は、下谷区(現 台東区西部)内に入谷町がありましたが、現在台東区の二つの町として昭和通りで接し、地下を通る日比谷線の駅名は入谷とされました。入谷朝顔市のネームバリューか?
付近に広がっていた千束池、姫ヶ池や湿地帯は、家康の命で埋め立てられ、上野山から見下ろした平地を「下谷」、付近の田んぼを「入谷」としたのは、低地のイメージでひとくくりにすると、下町っ子のプライドが許さなかったのか?
右の大正小学校(大正5年開校)は、旧校舎の曲線デザインを踏襲し建て替えられ(1994年)、外観が円筒形の階段にも柔らかな印象があります。
上・右写真前の道に残る金美館(きんびかん)通りの名称は、旧映画館によるもので、現 川崎チネチッタ親会社の母体となったそう。地域の映画館は人気低迷時分に、バタバタと閉館に追い込まれましたが、チネチッタにつなげたことは成功例と言えそうです(興行の世界は怪しげです)。
この通りは「吉原への道」として知られ(川崎を目指した理由も同じ?)、「夜の雑学 金美館通りの藤村さん」なんてYoutubeも目にします(紹介はしません)。
右の水上酒本店(創業明治33年、昭和4年 木造3階建て)の迫力ある姿には、見とれてしまいます。
右の小野照崎(おのてるさき)神社は、上野照崎(寛永寺隣接の輪王寺付近)に小野 篁(おののたかむら)を祀りましたが、寛永寺建立(1625年)のためこの地に移転します。篁は平安期の公卿(くぎょう)ながらも、夜間は冥府で閻魔大王の裁判の補佐をしていたと伝えられます。
境内にある、重要有形民俗文化財の下谷坂本の富士塚(富士山を模した人工の山)は、富士開山の6月30日と7月1日に一般登拝が可能だそう。
右は、まゆ玉みくじ(まゆの中におみくじが入っている)の結び処ですが、さわりごこちがいいので持ち帰る人も多いそう(ここは菅原道真も祀られる、芸能・学問・仕事の神様)。
上は、入谷朝顔市が開かれ「恐れ入谷の鬼子母神:きしもじん、きしぼじん」でも知られる、真源寺賽銭箱の紋。両脇は作物、巾着の中は魚のウロコのようで、五穀豊穣・豊漁祈願が込められるようです。安産と子育ての守護神とされるので、子どもの成長を支える糧を守る、ということでしょうか。
右は、釈迦が鬼子母神にザクロを勧めた、との話から植えられたようですが、それは日本での作り話らしい。
入谷朝顔市は、境内に農家が展示(奉納?)したことに始まり、明治期に周辺の朝顔が評判となり、にぎわうようになったそう。
最後の映画育ち?
NHK連続テレビ小説『エール』で注目された戦禍描写で、映画出身の二人が育ちの違いを見せてくれました。
讃美歌独唱が評判となった薬師丸ひろ子には、空襲場面で「この目力は高倉健さん仕込み?」と驚嘆させられ、吉岡秀隆には、『男はつらいよ』の「おいちゃん:下條正巳」の姿が重なり、「寅さんが目標でも、まずはまっとうな役から」の表現力に、引き込まれました。
子ども時分から映画で育った「戦争を知らない子どもたち」が、戦時下の人々を演じ感銘を与えられたのは、素晴らしい大先輩(先生)から学んだ「姿勢」によるのではないかと。
ですが、そんな彼らが最後の映画育ちとなりそうな状況には、さみしさを感じます……
0 件のコメント:
コメントを投稿