2009/06/22

「水の器」の七変化──多摩川に沿って

2009.6.16
【東京都、神奈川県】

 今回は近所を流れる多摩川沿いにあじさいを追いかけました。
 よく見かける球状のあじさいはセイヨウアジサイで、日本種であるガクアジサイの改良品種だそうです。
 咲き始めは白っぽくも、次第に色が変わることから「七変化」とも呼ばれるそうですが、ウシ、ヤギ、人には中毒を起こす毒性があるそうなのでお気をつけ下さい。って、食べたりしませんよね……
 花の色は、生育土壌の養分構成やpH(酸性度)によって変わるとも言われますが、同じ花(色づいているのは萼(がく)だそう)でも、咲き始めと終わり頃では色が変わるそうです。

 あじさいの学名は「水の容器(大量の水を吸収し蒸発させる等の説もある)」、語源は「あづさい(集真藍:藍色の集まり)」だそうですが、どちらもいい表現と思います。
 ただ、漢字表記の「紫陽花」は唐からの伝承を間違って(ライラックと取り違えたとも)広めてしまったと言われています。
 前回の菖蒲(これをアヤメと読む?)や杜若(カキツバタ)に加え、植物名の漢字表記にはいい加減なモノが多いという印象を受けてしまいます。

 昭和記念公園(Map)

 飛行場の跡地を公園化したため、基本的にどの施設も、敷地面積が広いという贅沢さがあります。
 広い空間において、さらにその広さをアピールしようとするデザインやコンセプトには、あまり遭遇したことが無いような気がします。
 どの場所でも広々とした印象が感じられる公園になっており、わたしはこのセンスがとても好きです。
 気持ちがいいものですからつい歩き回ってしまい、実際に広い公園ですから、いつも帰りはドロドロに疲れてしまいます……
 歩きたくなるような場所が都内にあるのですから、オススメしたいのですが入園料は400円です。
 それをどうとらえるかは、行ってみて判断してください。


 これこれ、これがむかしのあじさい! じゃなかったかなぁ……
 子どものころの記憶だと思うのですが、あじさいの葉っぱは上写真のように、緑に白い模様が混じっていた、というイメージが残っています。
 今回見た中ではこの一種類だけなので一般的とは思えませんから、家の近くにそんな種類のあじさいがあっただけの、ローカルな体験なのだろうか?
 そんな印象のある方がおられましたら、あじさい談義でもしましょう。


 この公園の正式名称は国営昭和記念公園といい、昭和天皇の在位50年を記念して1983年に開設されました。
 元は陸軍立川飛行場で、終戦後米軍に接収され立川基地となり、滑走路拡張に反対する地権者との衝突で「砂川事件(裁判で憲法と日米安全保障条約の矛盾をしめすものとして注目された)」が起きた場所になります。
 まだ西側には、跡地開発について国・都・自治体の綱引きにより手つかずの地域があるそうですが、できるだけ住民の意思を取り入れた利用方法を考えてもらいたいと思います。
 昭和天皇の存命中に付けられた公園の名称に従って(?)、2005年に昭和天皇記念館が開館しました(未見)。
 その必要性については、意見が分かれると思われますが、この施設は、国民からの募金(約14億円)によって作られたんだそうです(管理する財団の理事には企業名も見えるので割り引いて考えてください)。

 しかし、ここで目から鱗(ウロコ)がポロリと……
 東国には天皇陵が2つ(大正、昭和天皇陵)八王子にあるだけで、関連の寺社も明治神宮だけです(明治天皇陵は京都伏見桃山)。
 昭和天皇は存命中に「神から人間」なったわけですから、死んだらまた神に、とするには抵抗感が強いかも知れません。
 しかし、さまざまな時代を生きた人々の思いが具現化された場(寺社や庭園等)こそが、歴史の語り部となっていることを、京都や奈良を歩いて思い知らされた経験があります。
 近畿地方では時代と共に、多くの思いが幾重にも積み重ねられてきたからこそ、現代でも関心の尽きない日本文化の歴史や伝統が光を放っているのだと思われます。現在でも卑弥呼の墓か? と、にぎやかです。
 東京は、京都・奈良とは異なる性格の都市と思われるので、同じものを目指すことは無理と思われますが、「歴史を残す・刻む」ことを、将来に向けて考えるべきではないか、と思われます。
 まさか、東京タワーや高層ビルが数百年後まで残されているとは思えません。
 明治維新や昭和を「激動の時代」と表現しますが、この国の歴史スケールからすると、東京は「(明治天皇を含めても)天皇陵3つ分」だけの、ほんの一部分でしかない、子どものような都市と言えるのかも知れません。
 ──都(みやこ)はこれまでも、幾度となく移されてきましたから、先のことは分かりません。つい先頃まで「首都機能移転」についての意見が飛び交っていましたし……


 府中 郷土の森博物館(Map)

 ご存知と思われる荒井由実の「中央フリーウェイ」に登場する「右に見える競馬場、左はビール工場」の舞台近くで、JR府中本町駅(競馬場最寄り駅)から歩くと、高速道路をくぐり、ビール工場の前を通ります。
 ここには公園だけでなく、府中市の歴史民族資料館やプラネタリウムなどがあり、市の文化施設が集まった一画になっています。
 隣接して交通公園、総合体育館やグラウンドなどもあるので、全部含めるとかなり広大な面積に公共施設が作られていることになります。


 「とっても素敵な公園ね」と、車いすのおばあさんが褒める理由には、手入れの行き届いた公園であることはもちろんですが、「バリアフリー」であることも含まれているのではないかと思われます。
 その言葉を耳にして「なるほど、車いすの方が多いわけだ」と納得させられます。
 草木や自然環境を楽しむ公園に土地の起伏は付き物で、そこを段差を気にせず回るためには、傾斜を緩やかにするための、かなり遠回りになるスロープが必要になります。
 この公園では、設計段階からバリアフリーを意識していたようで、わたしたちもバリアフリーと意識せずに歩いて回ることができます。


 しかし園内の一部には、近ごろ商店街などでよく目にする、表面をわざとデコボコにしたブロック状の石を、デコボコをアピールするように埋め込んである路面がありました。
 あれって、車いすや、お年寄りがよく押している車輪付き買い物カゴ(車輪付き旅行鞄も同様)にとっては、通行しづらいと思うのですが、それでも普及する理由って何かあるのでしょうか(オシャレな商店街を気取るため?)。
 水たまり防止とも思えませんし、滑り止めのつもりでも、転ぶ危険性の方が高まると思われます。
 自動車や自転車の速度を抑制する効果はあるかと思われますが、不便を与えない方策を考えてもらいたいと思います。




 妙楽寺(Map)(神奈川県)

 以前から、おぼろげながら存在は知っていたのですが、ようやく足を運びました。
 最寄り駅はJR南武線の宿河原で、閉園になった向ヶ丘遊園(現在生田緑地)の尾根続きにあたる場所になります。
 ですので、旧向ヶ丘遊園正面にあった「100段階段」分の坂を(リフトは無いので)登ることになります(古いローカルな話しでスミマセン)。
 ──下写真:前日雨が降ったので、いい具合に水滴が残っている、と思ったのですが、他の花にはありません。誰かが霧を吹いたんだと思われます。


 お寺の説明には、源頼朝の弟である全成(ぜんじょう)が威光寺の院主となり大きく発展し、その志をこの妙楽寺が継いだとあります。
 しかし、川崎市の記述は「威光寺と妙楽寺との間の因果関係が推定される」というもので、他も「天台宗(比叡山延暦寺の教え)の寺」程度しか見あたらないので、私見としては関連のあるお堂等だったのではないか、と思われます。


 ここでも車いすで外を散策する団体と遭遇しました(そういう日だったのだろうか)。
 でもここは、通路も狭く石畳もデコボコしている、バリアだらけのお寺です。
 最終的にはマンツーマンでの対応が必要になりますから、介護の方も総動員と思われる物々しさで、寺院内の交通整理もしていました。
 そこまでしても、ここのあじさいが見たい、見せてあげたい、というプロジェクトだったようです。
 写真にもあるように、あじさい山を見渡すことができるお寺ですし、時季も良かったと思うので、満足してもらえたのではないでしょうか。
 それにしても、介護の方々の責任の重さを、目の前で見せつけられた気がしました。
 「外に出たい」という要望もとても良く理解できますが、出先で転んだりしただけで大けがに結びつきます。
 自身に非は無くとも、その責任を問われてしまうのは介護の方なわけですから、そうさせてあげたいという気持ちをバックアップする制度などが必要ではないでしょうか。
 何か起きた場合、その家族に「外に連れ出すなんて大きなお世話」などと言われかねません。
 それで「善意の押し売り」みたいに言われたのでは、やってられませんよね……


 多摩川台公園(Map)

 ここは以前、野毛大塚古墳の項でふれた田園調布古墳群のある多摩川台公園(最寄り駅は東急東横線多摩川駅)で、自宅から徒歩で20分程度の場所にあります。
 公園には何度か足を運んでいましたが、あじさいの季節は初めてで、広くはないながらも「あじさいの丘」というコンセプトはしっかり伝わってくる一画です。
 そういえば、駅前の商店街(たいしたこと無いんですが)で、ちょうちんをぶら下げて「あじさい祭り」みたいなことやってましたね。
 女性の二人連れに「ここがいちばーん!」と、ベストポジションに陣取られてしまうと、他に腰掛ける場所が無かったりするベンチの配置になっています。
 ベンチはほとんど、多摩川を望む場所にあるのは、とてもよく理解できるのですが……

 ここは桜もキレイで、東横線の車窓から多摩川沿いに見える桜色の丘はここになります。


 むかし、こんなスイミングキャップが流行っていませんでしたっけ?

2009/06/15

雨の季節の楽しみ方──明治神宮、外苑

2009.6.9
【東京都】

 今年はなんだか
 「もう時季になったから発表しちゃえ!」
 という「無理やり梅雨入り宣言」の印象があります。
 とは言え、誰が反論するわけでもありませんから、社会はその発表のまま「梅雨入り」を受け入れることになります。
 季節感なんですから、アバウトでいいとも思うのですが、これも社会を管理することにつながっていることなのでしょう……

 明治神宮(Map)

 ここは、明治神宮の敷地内にある御苑(ぎょえん:代々木御苑とされるそう)の菖蒲田(しょうぶだ)になります。
 施設の名称も「菖蒲田」ですから「菖蒲の花」と思っていましたが、その区別はややこしいことになっています。
 菖蒲とは、端午の節句に湯船に浮かべ「菖蒲湯」に使う植物ですが、それと写真の植物は別物なんだそうです。
 菖蒲湯に使う植物はサトイモ科で、写真のものは「花菖蒲」という植物で、アヤメ科なんだそうです。
 よく耳にする「いずれアヤメかカキツバタ」(美しさの優劣も付けがたいが、区別もしがたい)の双方とも同じアヤメ科に属しており、また、当て字だそうですがアヤメを「菖蒲」と書くんだそうです。
 そんな漢字の使い方を始めた人も、その違いを分からなかったのでは、と思ってしまいます。
 ──ちなみにカキツバタは「杜若」の漢字が当てられますが、「とじゃく」と読むヤブミョウガという別種の漢名と混同されたとあります。いい加減でも、通じればいいと考えられているのでしょう。


 少し早いかと思ったのですが、ちょうど見頃のようでした。
 この花は、色や形がとても特徴的であるため個性を表現しやすく、日本の気候にも適しているようで、江戸時代から品種改良が盛んなんだそうです。
 株の根本に立てられた品種名はどれも個性的な名称なのですが、数が多すぎて逆に関心をそがれてしまいます。
 この花は湿気を好むため、みずみずしさを失った途端にその輝きを失うばかりか、周囲にある盛りの花を邪魔してしまいます。
 それは花の個性と言うか、品種改良に精を出した人々の自己主張のようにも思われます。


 この地はご存知のように、明治天皇を奉る神社になりますが、1912年(明治45年)に崩御した際には、立憲君主国家としては初めてとなる君主の大葬だったため、その死に関する法律はなかったんだそうです。
 確かに、存命中に「死んだらどうする?」という法律は作りづらいだろうとは思われます。
 1914年(大正3年)に皇后であった昭憲(しょうけん)皇太后が亡くなると、国民からおふたりを奉る神社を求める機運が高まり、1920年(大正9年)に創建されたそうです。

 明治新政府発足に向けて、天皇が初めて東国に向かうにあたり、彼自身は、東国に骨を埋める覚悟を持っていたのだろうか?
 でも、時代が動いていくにつれて「京には戻れない」ことは、自覚していったことと思われます(明治天皇陵は京都伏見桃山にあります)。
 そんな心情を察すると、その決意に賛辞を送りたい気持ちと、東国に初めて来てくれた天皇を讃えたいと考える、庶民の心情も理解できる気がします。

 創建当初の主要な建物は、1945年( 昭和20年)第二次世界大戦の空襲に遭い、焼失したそうです(再建は1958年)。

 【トップページに掲載したものは、下写真(水面に映る花菖蒲の影)を180°回転したものです】


 江戸時代初期のこの地には、加藤家(加藤清正:秀吉・家康の家臣で、初代熊本藩主。その子である忠広が住んでいた)の屋敷があり、その後は井伊家の下屋敷の庭園とされたそうです。
 明治の時代から代々木御苑とされ、明治天皇、昭憲皇太后がたびたび訪れるお気に入りの庭だったようで、そんなゆかりの地として神社創建の場所が選定されたそうです。
 境内の大きな看板には、この地で詠んだおふたりの歌が記されています。
 明治神宮は2004年に、神社本庁(伊勢神宮を本宗と仰ぎ、日本全国約8万社の神社を包括する宗教法人)から独立して、単立神社となったそうです。
 勉強不足でおぼろげながらも、神社神道とは主旨が違うという気がするので、その選択は正しいようにも思えるのですが、単立神社として運営されている他の有名どころには、靖国神社、日光東照宮(家康)、鎌倉宮(後醍醐天皇の子、護良(もりなが)親王を明治天皇が奉った)等があるそうです。
 後者の2つは個人を奉る施設なので明治神宮に近いと思われますが、前者はそんなくくりに属さない「特別なもの」という性格が浮かび上がってきます。
 今さら取り立てて騒ぐことではないのかも知れませんが、時の流れにまかせておけばいい、というのも無責任に感じられます。


 御苑内には、現在も自噴していて菖蒲田の水源にもなっている清正井(きよまさのいど 上写真)があります。
 前述の通り、江戸時代には加藤清正の子・忠広が住んでいたにしても、清正が暮らしたのかについては定かではありません。
 それでも清正が掘ったと、伝説は言い張るのですから、異議をとなえるのはやめにしましょう。
 明治神宮のホームページにも「昔から言い伝えられてきた伝説はすなおに受けとめ、語り継いでいきましょう」とありました……

 以前はヒシャク等が置いてあり、飲めたと思うののですが、今回は「都合により飲用を禁止します」の看板が立てられていました。
 それって、どういう都合なのかを看板で説明するべきではないか、と思うのですが、その主旨は「すなおに受けとめましょう」なのだろうか……


 明治神宮の森を歩いた方は分かると思いますが、足を踏み入れるとうっそうと茂った木々が、かなり好き勝手に伸びているので「ちょっと薄暗いね」の声が聞かれるような森になっています。
 そんな森が、これだけの規模で保全されている地域は、都心では他にないと思われます。
 神宮創建時の議論のひとつに「どの植物を植えたら100年後に自然の森になるか」というものがあったそうです(当時は畑だった)。
 議論の結果、シイやカシ等の照葉樹を植えることにしたのですが、当時の総理大臣である大隈重信首相から「神宮の森は当然杉林にするべきだ」という横やりが入ったそうです。
 彼のイメージには、伊勢神宮や日光東照宮の杉並木等があったようですが、その通りになっていたらいまどきは、花粉アレルギーの方の目の敵にされていたことでしょう……
 「総長(早稲田大学の創立者)、それは古い!」と言われたか定かではありませんが、植物学者たちのビジョンが正しかったことは、本日の印象からも伝わったのではないかと思います。
 でも、繁殖期で気が立っているのか知りませんが、都心の森ではカラスの多さに閉口させられます……

 神社の境内では、奉納された酒樽が飾られているのをよく目にしますが、ここにはワイン樽も並べてありました。これって昔からありましたっけ?


 神宮外苑(Map)

 下写真は国立競技場のゲートからのぞいたものになります。
 若いころは大学ラグビー等を観に来たものですが、近ごろではこの辺りにも立ち寄らなくなりました。
 最後に来たのは、サッカーのストイコビッチの引退試合にひとりでのこのこ来て、当日券を買って入った時だった気がします。
 この日神宮球場では、全日本大学野球選手権大会が行われていたようで、声援が響いておりました。


 明治時代のこの地は陸軍の青山練兵場だったそうで、軍隊の観兵式(北朝鮮の軍事パレードと同様)はこの地で行われ、第二次世界大戦の出陣学徒壮行会は、現在の国立競技場建設前にあった明治神宮外苑競技場で行われたそうです。
 当時の若者への償いも含めてか、軍隊の敷地だった場所にはスポーツ施設が作られ、東京オリンピックのシンボルであった国立競技場は現在でも日本を代表する競技場ですし、神宮球場は大学野球の聖地とまで言われるようになりました。
 以前に比べれば、格段に文化度は高まったとは思えますが、現状がベストの有り様なのかは分かりません。
 しかし、後戻りだけはしないことを願いたいところです。
 ──神宮の花火って、戦没者への追悼の意味が含まれているのだろうか?


 上写真はご存知のイチョウ並木付近ですが、昔はここを軍人たちが隊列を組んで行進していたのかも知れません……


 青山霊園(Map)

 時間があったので青山墓地を歩きました。この中を歩くのは初めてです。
 青山という地名は、この地に屋敷を構えた青山忠成(愛知県岡崎市出身)に由来するそうです。
 青山家は父の代から家康に仕えており、忠成は第二代将軍秀忠の傅役(ふやく:親代わり)だったそうです。
 逸話には、この地に鷹狩に訪れた徳川家康の「馬で一回りした範囲の土地を屋敷地に与えよう」の言葉に青山忠成は、馬が死ぬまで駆け巡ることで広大な土地を賜った、という伝説があるそうです。

 その広大な土地は、明治維新後の1872年(明治5年)に、初めて公共団体の管理する墓地となったそうです。
 江戸時代には幕府公認の寺院の檀家になる義務があり、葬儀は檀家になった寺が行っていたそうです。
 それを、明治政府は「神仏分離令:神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神社と寺院を区別させる」「神葬祭許可の達:神道の葬儀を認める」を発し、神道による埋葬を許可(強要)するために、この地を神葬墓地としたそうです。
 しかしそれまでの、先祖代々の墓への埋葬を禁じられた庶民が反発したため、青山墓地は共葬墓地に変更され、公共墓地が増やされたそうです。
 ──神葬祭(しんそうさい)とは神道の葬儀で、これまで参列の経験は無いと思いますが、経済的との理由から増える傾向にあるんだそうです。

 何年か前になりますが、都心にある都立霊園の墓所を移転し、跡地を公園にする計画を耳にしたことがあります。
 結局、墓地返還の見通しが立たないということで、墓地と共存した公園づくりに方針転換したそうです。
 この霊園は極端な例かも知れませんが、お墓の問題はとても難しいと思われます。
 先祖や家族の墓はできるだけ近い方がいいのですが、みんながそれを実現すれば東京近郊はお墓だらけになってしまいます。
 慣習ですから、切り替えることは可能に思われますが、自分の決断で先祖の墓を放棄することは、ちょっと難しいことのように思われます……

 写真は霊園から、六本木ミッドタウンのビルを見上げています。

2009/06/08

人・物・鳥のスクランブル地帯──大井ふ頭周辺

2009.6.4
【東京都】

 城南島海浜公園(Map)

 公園を歩いていると「パン、パン」という音が盛んに響いてきます。
 工場の音かと思いきや、運河の向かい側にある羽田空港で、鳥を追い払うための威嚇音だったようです。
 先日も海外で、エンジンに鳥が吸い込まれて大変なことがありましたし、鳥害防止は空港運用上の重要事項になります。
 水辺にある空港ですから水鳥も多くいますし、近くの野鳥公園では鳥の生息域を確保して、観察のできる環境を整備しています。
 その一方で、飛行ルートからは排除させたいわけですから、かなり大変な取り組みだと思われます。

 ここは埋め立てられた島の、東京湾側と羽田空港側の海に面した一画を整備した公園で、人工の砂浜やバーベキュー施設などがあります。
 テトラポッド等が無いので、海がとても近い印象はあるのですが、そこにあるのは東京湾なんですよね……
 羽田空港等の夜景がキレイなのかも知れません。

 下写真奧の建物は航路標識で、船に信号を送る施設です。この「F」表示は航行制限無しのサインになります。


 JR大森駅からのバスを利用しましたが、第一京浜(箱根駅伝で走る道)から海側の広い道路は、何を運んでいるか分かりませんが、コンテナを牽引した大型トレーラーの交通量が非常に多い一帯になっています。
 これまで、臨海地域の奧まで立ち入ったことはなかったのですが、中央防波堤埋立地(現在のゴミ埋め立て地)へ続く道(海底トンネル)がある島、という関心から足を運びました。
 もちろん通行できませんし渡れないので眺めるだけなのですが、天気のせいかぼんやりとしか見えませんでした。
 ──お台場からバス路線があること、これを書いているときに知りました。残念……


 東京港野鳥公園(Map)

 近くでじっとしてくれたのはサギだけでした。警戒心はそれほど強くないのだろうか?
 鳥の名前も知らず、特に野鳥が好きでもないのに、野鳥観察公園によく足を運ぶのは、必要最低限の手入れしかされない自然環境に、接することができるからだと思います。
 ですが、観察小屋は目立たないように草むらなどの暗い場所にありますから、夢中になってファインダーをのぞいていると、靴下の上からも虫に刺されたりします。
 マイ双眼鏡をぶら下げ、結構気合いの入ったいでたちの親子(父と息子)が、かなり落胆したように「カワセミなんかいないじゃないか!」と吐き捨てて、ネイチャーセンター(観察・学習施設)を出ていきました。
 東京近郊でもカワセミが見られるようになったとはいえ、簡単に出会えないからこそ、出会えたときの喜びが大きいと思うのですが、それじゃダメなの?


 この公園は、大田市場(東京都中央卸売市場の一つで、青果物、水産物、花卉(かき)を扱います)に隣接した場所にあります。
 ──大田市場の各建物の屋根には、鯛、ぶどう、竹の子、カブ(花もあるそう)等のシンボルが飾られています。

 と言いますか、前回訪問時は公園を主体に考えていたので気がつかなかったのですが、地図を見ると、市場や倉庫などに使われずに余った土地を、公園に仕立て上げた様子が見て取れます。
 工場等を誘致する地区に作られた、都民のご機嫌取りのような施設で、恵まれた条件ではないにせよ、このような環境・施設を実現させた活動に対しては、声援を送るべきですよね。


 下写真は、月周回衛星「かぐや」の映像ではなく(間もなく役目を終え月面に墜落するそうです)、潮の引いた水辺に現れたハゼの住みかだそうです。
 ガキのころ、金沢八景(横浜)のハゼ釣り大会で、初心者でもバンバン釣れた記憶があって(天ぷらにして食べました)、ハゼを小馬鹿にし過ぎているのではないか、という自戒の気持ちがあります。
 ここで初めて接した子どもたちがどんな印象を持つのか、ちょっと聞いてみたい気がします。


 この野鳥公園や大井ふ頭のある人工島には島の名称が無いようです。
 ですが埋め立て地名というものがあって、その名は「大井ふ頭その1」。隣接する城南島の埋め立て地名は「大井ふ頭その2」なんだそうです。
 そういえば、お台場のある13号埋め立て地にも島の名称はありませんよね?
 間もなく始まるらしい、「その1」と「その2」の間にある運河を埋め立てる工事が終了後に、新しい名称がつくのかも知れません。
 ということはやはり、東京湾をズズーッと埋め立てる計画があるように受け止められます。
 確かに、江戸時代から海に向かって生活域を広げてきたわけで、江戸開府前の古地図を見ると、江戸城(現皇居)辺りまで海だったことに驚いたりします。
 これまでは、海に向かって攻めていきましたが、これからの温暖化の時代(?)には、海水面が攻めてくることを考慮した埋め立て計画が、必要になるのかも知れません……


 東京貨物ターミナル駅(Map)

 上記大田市場の建物の地下から一本の線路が地上に現れ(川崎の臨海部までトンネルで続くらしい)、反対側にあるJRF(日本貨物鉄道)の敷地内へと続いていきます。
 この先には貨物用の車両基地があるのか? と向かってみると……


 この付近には「東京貨物ターミナル駅」という名前の駅があるんだそうです。
 敷地が広すぎてどこに何があるのか不明ですが、周囲には運送会社やさまざまな企業の大きな倉庫がありますし、東京湾側に面した岸壁は大井ふ頭になるので、数多くのブラックボックス(コンテナ)がここにたどり着き、運び出されているようです。
 この一帯が、東京における物流の一大拠点であることを、今回初めて認識しました(用事のない人は立ち入らない場所だと思われます)。
 ここでの光景もやはり、何を運んでいるのか中身は分かりませんが、わたしたちの生活に必要と思われるモノが、列をなした大型トレーラーで運ばれていくものになります。
 積み荷に危険なモノはないにしても、近ごろ事故のニュースをよく目にするので、運転には気をつけてくださいね。

 隣接して新幹線の車両基地があるのですが、その付近だけフェンスで目隠しされており、近くからの写真は撮れませんでした。
 陸橋の上から何か投げ込まれて、トラブルの原因になっても困るので、仕方ないですよね……


 鈴ヶ森刑場跡(Map)


 江戸時代(1651年)に開設された刑場で、旧東海道沿いの江戸の入り口とされる場所になります。
 第三代将軍徳川家光の政策によって、職にあぶれた浪人たちの犯罪が増えてしまったので、見せしめのために街道筋に開設されたそうです。
 処刑された人物には、丸橋忠弥(由井正雪と共謀し幕府転覆を謀った)、平井権八(演劇等では白井権八:金品目的の辻斬り)、八百屋お七(放火未遂)等がいるそうです。
 権八やお七などは、浄瑠璃や歌舞伎などの題材に取り上げられたおかげで、広く知られているそうです。
 わたしは詳しくはないのですが、白井権八(劇中名)からは幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ:侠客の元祖らしい。歌舞伎の場面で、権八を「お若けぇの、お待ちなせいやし」と呼び止めるセリフが有名だそうです)を連想する記憶を、どこかでインプットされたようです。
 大学時代バイト先で、そちらっぽい家庭に育った社員の方に「お前、バンズインチョーベエ知らないの?」と言われたのがとても印象に残っているのと、映画『泪橋』(あまりオススメではない)の印象がミックスされたのか?
 鈴ヶ森の刑場へ送られる罪人を見送った(立ち会う)のが「立会川」とされ、この世のなごりに振り返ったのが「涙橋」(濱川橋)とされるイメージは、なぜだか強烈に残っています。

 上写真の左の石には、丸橋忠弥が磔(はりつけ:こんな漢字使わないから読めない)された柱が、右にはお七が火炙り(ひあぶり)された柱が、それぞれ立てられたそうです(文字を打っていても怖くなる文字列です)。


 しながわ水族館(Map)


 規模は大きくありませんが、近所の方が散歩がてらに立ち寄れるような気軽な印象があります。
 イルカやアシカのショーもあり、突然予想もしていない方向から水しぶきを浴びた子どもが泣き出すような、親近感が持てる(?)サイズの施設です。

 この日目についたのがベビーカーを押した母子連れで、そんな赤ちゃんを連れてきても分からないんじゃないの? とも思ったのですが、お母さんのリフレッシュ、と割り切ればすんなりと理解できる気がしました。
 上写真はゴマフアザラシで、顔は左下側になります。

2009/06/01

水の流れ、人の流れ──等々力渓谷、戸越

2009.5.26
【東京都】

 等々力渓谷(Map)

 ここは、東京都23区内に残る数少ない渓谷、とされる場所になります(先日訪問した王子付近の石神井川にも、江戸時代には行楽地としてにぎわった滝があったと聞きます)。
 この川は矢沢川といい、小田急線の千歳船橋駅付近が源流とされるそうです(現在地下水路)。
 大きな川ではないことと、このあたりでは周囲の地面を10m近く浸食した谷地形となっていることで、開発されずに残された一帯といえるようです。
 渓谷と聞くと、山里的なイメージが膨らんでしまいますが、小川の散歩道程度を想像した方がガッカリしないで済むかも知れません。
 まあ一瞬とはいえ、谷の上にある市街地の状況を忘れられますし、整備された歩道がぬかるんでいるのも、崖からのわき水によるものですから
 「世田谷にこんな場所が?」
 「都市のオアシスのよう!」
 と、木々がうっそうと茂っていることに驚いてください。
 そんな異空間になじんだころに終点となってしまうのですが、まあ、都内の散歩道くらいに考えてもらえれば、いっときのリフレッシュは出来るのではないでしょうか……(平日でもパラパラ人は出ていました)


 上写真では表現できていませんが、葉の先からわき水の滴がしたたり落ちています。
 下写真が「轟(とどろき)の瀧」で、地名の由来になったそうです。
 ──横を歩いていたおじいさんたちの会話「むかし、轟夕起子って女優がいたじゃないか」「いたね」。確かにいましたが、分かる人はいませんよね……


 先日の目黒不動と同じように、この滝に打たれた修行僧も多かったようで、役行者(えんのぎょうじゃ:修験道の開祖)の名前も案内板にありました(彼は、伊豆大島に流されたという記録があるので、この地にも立ち寄った可能性がある、と言い張りたい心情は理解できます)。
 その崖の上に、等々力不動(真言宗)があります(右写真)。

 この等々力の地名は、多摩川を挟んだ神奈川県川崎市にも存在しています(Jリーグ川崎フロンターレの本拠地である等々力陸上競技場等)。
 元は、現在の世田谷区等々力の一部であったものが、多摩川の氾濫によって流路が変わり、飛地となり取り残された地域だそうです。
 1912年に中原村(現在の川崎市中原区)に編入され、そのまま等々力の地名は残ったそうです。
 他にも多摩川両岸に存在する同名の地名には、瀬田、野毛、宇奈根、丸子等があります。


 野毛大塚古墳(Map)

 東京の古墳といえば、田園調布付近の多摩川に面した高台にある、多摩川台公園の古墳群が知られます。
 東京ではその田園調布古墳群が最も古く(4世紀末)、その北に位置するこの野毛大塚古墳(5世紀始め)との関連性を、年代と共に権力者の勢力が北側に追いやられる過程と考えているらしい。
 邪馬台国は2~3世紀に存在したと考えられていて、その影響力が東国に及んできた時代だったのかも知れません。
 ──つい先日、卑弥呼の墓の有力候補と考えられていた「箸墓(はしはか)古墳」の造営年代が、3世紀中ごろという研究結果が発表されました。それで邪馬台国論争が決着するとは思えませんが、いずれにしても奈良県桜井市一帯は歴史ロマンが感じられる田園地帯でした。

 関東にも古墳があったくらいですから、地域の有力者(それも邪馬台国と同様の文化を持った民族)が根付いていたと思われます。
 そこでハタと思ったのは、「東国の野蛮人」という認識はこんなころに芽ばえ始めたのではないか、ということです。
 いくら関東で勢力を広めたところで、当時の新しい文化は大陸からもたらされますから、地の利は西国(関西以西)にあるわけで、ジワジワと古い文化しか持っていない東方に圧力をかけてきたのではないでしょうか。

 古墳の斜面を滑り降りる子どもたちがいたようで、部分的にはげ山となってしまい、下草の養生中のようです。
 斜面があれば、そこを滑り降りたい衝動に駆られる気持ちは理解できますし、そんなワンパクさは褒めたいところですが、場所をわきまえさせる教育が不足しているようです。
 「そんなことをすると、バチが当たる」という、「たたりの力」が弱まってしまったのはとても残念と言うか、道徳教育においてとても由々しい事態ではないでしょうか?
 ──明治時代には、古墳を掘った人が血を吐いて死んだ、との話しが伝えられているそうです。


 武蔵小山 Palm商店街(Map)

 今回は、東急大井町線をめぐる予定だったのですが、自由が丘で目ぼしい写真が撮れなかったので、久しぶりに武蔵小山(目黒線)から戸越まで歩こうと、寄り道しました。
 TVコマーシャルでも目にする、東京では最長(800m)のアーケードが続く商店街です。
 商店街ですから個人商店が並んでいるわけですが、古くさい雰囲気は無く、世代交代がうまく進んでいるようですし、シャッターが閉まった店はほとんどありませんから、歩いていても楽しくなる、とても商店街らしい活気を持った通りになります。
 第二次世界大戦当時、商店街から多くの人々が満州に渡ってしまい、商店組合は解散したことがあるものの、クレジット制やポイントサービスの導入により、数字上でも活気を呈しているそうです。
 アーケードの入り口と出口付近に、立ち食い・飲みができそうな焼鳥屋があって誘われたのですが、まだ先もあるので、だ液だけ飲み込んで……


 戸越銀座商店街(Map)

 夕刻のちょうどいい時間帯に歩いたからでしょう、道の両側からとてもいいニオイが……
 それもさまざまなお総菜のニオイですから、食欲をそそらされてしまい、そこでは買わないにしても「今晩何を食べようか?」と考えながら歩いておりました。


 戸越の地名は、江戸を越えた土地「江戸越え」に由来し、当時は「とごえ」と呼んだそうです。
 日本で初めて「○○銀座」と名乗ったりと、本家銀座とのつながりは知られていると思われますが(銀座のレンガを譲り受け、水はけの悪かった通りに敷いた等)、むかしは湿地帯の広がる地域だったので、庶民たちが肩を寄せ合い集まることで、商店街が発達したのかも知れません。
 とても住めないと思われる条件の悪い場所を、住宅地として「開拓」してきたのは庶民パワーですから、この商店街の人の流れは地域に暮らしてきた人々による、ひとつの成果と言えるかも知れません。

 この商店街を初めて歩いたとき、ここが東京では最も長い商店街と感心したものですが、大阪の天神橋筋商店街を歩いたとき「どこまで続くの? もういいよ」(それもずーっとアーケードで、タコ焼き屋ばかり何十軒あるんだよ!)と思いながらも、途中で止められなかったこと思い出しました。
 ──戸越銀座商店街は約1.6km、天神橋筋商店街は約2.6kmあるそうですから、武蔵小山(800m)を加えてもまだ足りません。

 規模も大切な要素ですが、商店街の活気とお客の満足感、そして、この先も続けていって欲しいという気持ちは、どの商店街に対しても同じく願いたいところです。だったら、何か買えって?


 戸越公園(Map)

 東急大井町線の駅名にもなっていますが、江戸時代には熊本藩主・細川家の下屋敷があり、その後所有者は転々とし三井財閥に移ったものを、東京市の公園として開園した後、品川区に移譲されたそうです。
 ──上記の商店街からは坂を上がった高台になります。やはりお金に余裕のある方は山手に居を構えるようです。


 夕方になると、池にカワセミがやって来るとのことで、周囲のベンチには望遠レンズ付きのカメラを持ったオッサンたちが、モソモソ群れていました。
 そんな状況を説明してくれるおじさんがいるので、とても助かるのですが、おしゃべりが止まらないのには困ってしまいます。
 周囲からどんどん人が散っていくのは当然ですが、「失礼します」とあいさつすると、少々ムッとした表情をしながらも、別の人に盛んに話しかけています(初対面の人との別れ際って難しいですよね)。
 カワセミのように動作の素早い鳥などは撮れないとあきらめていますが、以前、上記川崎市にある等々力公園の池で見かけたことがあります。
 今どき東京都市部でも珍しくないというのは、あまりよろこばしいことではないように思われます(カワセミの勝手ですけれど)。

 右写真を撮っていて、「男の性ってこういうこと?」などと考えてしまいました。
 何で柵のある(ガードされている)暗い場所に、未知の存在を探ろうとするんでしょうねぇ。
 とは言え、もし、そこから何かを発見したならば称賛されるのですから、やめられないのかも知れませんね……

2009/05/25

灰色の町に映える緑の点描──白金、目黒

2009.5.19
【東京都】

 ここ何週か地下鉄南北線に沿って南下しています。
 久しぶりの目黒に降り立ったこの日、この町に通い始めたころを想起しました。
 以前勤めていた会社の目黒移転にあたり、事前の下見から参加していたので、自宅の引越と同じように新転地への期待感が高まり、ここはどんな町なんだろう、と楽しみだったこと思い出しました。
 それまで目黒付近で知っていたのは、美術館(庭園、目黒区立)と萬馬軒(ラーメン屋)だけでしたので、会社をベースに恵比寿や白金付近を歩けたことは、見聞が広まったと思っています。


 池田山公園(Map)

 ここは江戸時代、岡山城主・池田氏の下屋敷があったことから、付近の高台を「池田山」と呼ぶようになったそうです。
 「山」と言われるのも納得できる、崖のような傾斜地の高低差を、見事に利用した庭園となっていて、季節ごとに楽しめそうな空間を作り出しています。
 ここは「白金」としてもてはやされる地域とは、目黒通りを挟んだ反対(南)側になり、お寺が集まっている地域になります。
 印象としては谷中に近いものがあり、以前そこを歩くうちにこの公園にたどり着いた記憶があります。

 今回、道を間違え迷い込んだところがスンゴイ高級住宅街で、皇后(美智子さん)の実家である正田家があった(数年前に取り壊され、公園とされている:未見)土地柄とは知らなかったので、ちょっと驚きました(東五反田の住所表示がありました)。
 そんな場所をウロウロ、キョロキョロしていたのですから、防犯カメラに何度も映ってしまい、怪しまれていたかも知れません。
 高級住宅街の区画は「ピシッ」としていますが、それ以外の場所では、土地を知らない者は無駄にのぼりくだりさせられる印象があり、効率的に歩くためには等高線の入った地図が必要かも知れません。
 坂を登る自動車も低速ギアでうなりを上げる坂を、おばあさんが休み休み登っていきます。運動になっていいとの見方もありますが、坂の町に暮らすのはやはり大変そうです。


 三田用水(Map)

 この地域を歩こうと計画していたころ、TV番組「タモリ倶楽部」の「三田用水のこん跡を巡る!」という放送を見て、近いから行ってみようという動機で探し歩きました。


 三田用水とは、有名な玉川上水(多摩川の水を羽村から四谷まで引き込む水路)から現在の下北沢辺りで分流させ、東側の渋谷川水系と西側の目黒川水系の境目である台地上を通して、三田や大崎(上写真の右が三田、左が大崎方面への分水路)への飲用・農業用水路として開かれたものです。
 その地形を理解するには、恵比寿駅やガーデンプレイス辺りが分かりやすいかと思います。
 東側の天現寺方面と、西側の中目黒方面どちらにも下っていきますから、そんな場所が高台の頂上になります。
 そんな尾根のような場所を通さないと、品川付近まで続く高台に水を供給できないので、いろいろと工夫されていたそうです。
 驚いたことに、目黒駅前(西側:久米美術館前)に水路が通っていて、山手線の上を水道橋で横断していたんだそうです。
 またまた驚いたのが、1974年までサッポロビール恵比寿工場(現ガーデンプレイス)では、その用水を使用してビールが作られていたそうで、工場が水道水に切り替えることでようやく、三田用水が廃止されたということです。
 ──それまでエビスビールは、多摩川の水から作られていたんですね。当時わたしはまだ未成年ですから、その味を知りませんが……


 自然教育園(Map)

 都心の一等地にこれだけの規模(Map参照)で、武蔵野の森が自然のままの姿で残されていることには、訪れる度に驚かされます。
 正式名称は「国立科学博物館付属自然教育園」ですから、国が管理しているようです。
 園内には屋敷(城)跡とされる、土塁跡(土を盛った城壁のような構造物)がいくつも残され、1400年前後(鎌倉時代末期)ここには「白金長者」の館があったとする看板も立っています。
 その長者は、銀を大量に所有していたので「銀長者」と言われたそうです。
 現在の地名である「白金(しろかね)」の由来は、上記の「銀」(辞書で引くと:しろがね)によるそうで、むかしは「しろかね」と発音したので、白金(はっきん:プラチナ)ではないようです。


 江戸時代は高松藩主(松平頼重)の下屋敷、明治時代は陸海軍の火薬庫、大正時代は白金御料地(皇室の財産)とされた経緯により、人の手から守られてきたこともあり、昭和24年(1949年)には全域が天然記念物および史跡に指定され、一般公開されるようになったそうです。
 おそらく「武蔵野の原生林」の保存を目指していると思われ、必要最小限の手入れしかしておらず下草も伸び放題なので、冬枯れの時期以外は、ちょっと見晴らしが悪くなります。
 グルッと回ると30分はかかるので、気分転換、日常逃避に十分利用できると思われます。
 出口の目の前は目黒通りなのでそのギャップの大きさから、逆にいいリフレッシュになったことを思い知らされたりします。
 ただ、唯一の難点がカラスの多さです。
 都市での自然林保護→カラスのねぐら、という方程式は変えられないんでしょうねぇ。
 カラスだけ駆除しても、自然林ではなくなってしまうのでしょうから……


 東京都庭園美術館(Map)

 このネーミングが見事ですよね。
 若い時分、その名前に引かれて、いつか訪れたいと思っていました。


 ここは1933年(昭和8年)に、朝香宮(あさかのみや)邸として建てられ、国の迎賓館に使われる等の経緯を経て、1983年(昭和58年)から都立美術館となったそうです。
 展示スペースは広くありませんが、建物が落ち着いた空気感を演出してくれるので、とても好きな空間です。
 静けさが欲しい(人出は少ない方がいい)反面、展示の規模によって展示室(部屋)の数が増減するので、なるべく大きな企画展示を狙って行った方が、いろいろな部屋を見ることができるので、より楽しめると思われます。

 自然教育園の敷地を区切って、建物や庭園を造成したと思われますが、ここはいい意味で「人工的」な一画になります。
 芝生広場の周りに外来種の大木を配したり、日本庭園(下写真)や、西洋庭園などもキレイに手入れされています。
 右写真の広場では、来園者が好きな場所にイスを持ち運ぶことができるので、日陰に移動することも可能です(右はおばさまたち歓談後の光景)。
 

 ここの西洋庭園には桜や梅が植えられていて、しゃれたテーブルセットに腰掛けて「ほら、桜がキレイよ」という状況を演出したいようです。
 ここは以前、迎賓館にも使われたそうなので、海外からのお客さんをもてなすための構成となっているのかも知れません。
 われわれは和洋折衷(せっちゅう)好きというか、生活の中では和にこだわることなく、機能的で便利なものは積極的に取り入れたがる性格を持っていると思われます。
 そのくせ、和で統一された空間などでは「やっぱり落ち着く」などとなごんだりします。
 日本庭園では、自然を取り込んで生かそうとしますから、そんな「あいまいさ」「はかなさ」が、やすらぎを与えてくれるのかも知れません。 
 今どき「和の空間」を経済活動で生かせる方は少ないでしょうから、それは「Off Time」の空間ということなのかも知れません。

 職場が目黒に移転すると決まったころには、この庭で息抜きができる、と思ったものですが、近いからといっていつでも来られるものでもありませんね……


 目黒不動尊(Map)

 ここは、瀧泉寺(りゅうせんじ:天台宗)といい808年(平安時代)に開かれたそうですが、繁栄したのは江戸時代だそうです。
 富籤(とみくじ:宝くじ)が行われ、独鈷滝(とっこのたき:下写真)を浴びると病気が治るとの信仰もあって、庶民の行楽地として人気が高まり、落語の題目である「目黒のさんま」は近くの茶屋が舞台とされる等、とても注目された存在だったようです。

 五色不動(ごしきふどう)のひとつで、三代将軍徳川家光が江戸の鎮護のため、江戸市中にある五つの方角の不動尊を選んで色を割り当て、目白不動(豊島区高田)、目赤不動(文京区本駒込)、目青不動(世田谷区太子堂)、目黄不動(台東区三ノ輪と江戸川区平井)としたそうです。
 ですが、江戸時代には目がつく不動が3つしかなかったものを、明治以降、5つとしたとの説もあるそうです。


 不動へ向かう参道で、中学生くらいの男の子がちょうど並ぶ感じで歩いていて、その子が目の前を右へ左へウロウロと蛇行しながら歩くのでこちらも歩きづらく、少し情緒不安定な子なのかと思っていました。
 つかず離れずしばらく彼を観察していると、どうも道の両側にあるお店の中をのぞいて、店の人の顔が見えたらあいさつをしているようです(だから右の店、左の店に近寄っていたんです)。
 タイミングが合えば「お帰りなさい!」と、お店の中から声が掛かるわけです。
 うわぁ、この子何なんだ? と思い、後を追ってみようかとも思ったのですが、不動に着いてしまいました。
 彼はどこかのボンボンなのかも知れませんが、もし、参道を通る子どもたちみんなが「あいさつをして帰りましょう」という取り組みであったとしたら、とても素晴らしいことであると感心させられてしまいます。
 この不動では、境内まで入らずとも道路からお祈りをする方の姿を見かけたことがあります。
 立ち寄る時間はないが、素通りはできないので、ここから失礼します、ということでしょうか(本当はそんな姿が撮れればと思っていたのですが)。
 そんな町だからこそ「あいさつ参道」が実現できるような気がしたのですが、いかが思われますか?

2009/05/18

三味の音が ビル風に乗る 神楽坂 と、麻布十番

2009.5.14
【東京都】

 わたしの勝手なイメージでしょうか、神楽坂(かぐらざか)という言葉のひびきから、江戸にはなかったとしても、雅(みやび)な雰囲気を想像してしまうところがあります。
 神楽とは、宮中の神事にかなでる舞楽のことですが、市中にある神社のお祭りで奉納されるものも、同じ言葉で表現されます。
 それは正しいのですが、頭の中には無意識のうちに、華やかで、雅な光景が広がっていたりします……

 何度か飲みに来ましたが、料亭などのあるディープな場所に足を踏み入れたことはないので、明るいうちにのぞきに行こうという趣旨になります。
 昼下がりの町中の主役は、おばさんたちであることに驚きました。とくに見て歩く場所もないでしょうから、目的は「食い気」であると思われます。
 料亭での昼の会席料理が人気のようで、それも楽しそうだと納得なのですが、「昼じゃ酒も飲めないんだろ〜?」と言う、そこのオッサン!
 酒席の時間帯ともなれば、のれんをくぐることもままならないのではありませんか?

 神楽坂(Map)

 神楽坂と聞くと「芸者さんってまだいるのだろうか?」という方面に関心が向いてしまいます。
 東京六花街(かがい、と読むのが正しいそう。芸妓置屋、待合、料亭が集まる地域)とされ現在も、新橋、赤坂、神楽坂、芳町(人形町)、向島、浅草にあるそうですが、昔の面影を残す路地があるのは神楽坂だけだそうです。
 神楽坂には現在、組合所属の芸妓さんが約30名、料亭が9軒あるとのことで、路地を歩いていると三味線の音が聞こえてきたりします。
 東京の町中にいまでも三味線の音が響いている、という感慨は確かにあるのですが、ビルに囲まれた日陰で耳にしたせいでしょうか、どうも「くさくさとしたお座敷の様子」しか思い浮かんできません(怒られますね)。
 京都上七軒町で耳にしたおぼつかない三味線には、こちらも応援したい気持ちにさせられ、自分にもおおらかさが感じられる気がしましたから、やはり環境というものは大切なのかも知れません。

 坂の中ほどに「神楽坂の毘沙門さま」と親しまれる善国寺(池上本門寺の末寺で日蓮宗)があります。
 ここの本尊は毘沙門天(守護神四天王の一尊で、独尊として信仰の対象とされることもある)で、狛犬ではなく虎(右写真)が本殿を守っています。
 京都鞍馬寺も本尊が毘沙門天で、しもべである虎が両脇を固めていたこと、思い出しました(やはり、気になったことは記録しておくべきですね)。
 その流れでしょう、ここでは虎が描かれた絵馬(絵虎というのか?)に願いを書いて奉納しています。
 しかしあまり盛んではないようで、雨風で色あせた板がぶら下がったままになっています。
 そこに書き込まれた文面に「ニノ」の表記が多く目につきました。
 神楽坂を舞台としたTVドラマ「拝啓、父上様」に出演した二宮くんのことのようですが、2007年放映ですからもう2年間も絵馬は放置されていたことになります。
 そこに書き込まれた願いは、まだかなってないのかしら?

 とくれば、われわれの年代なら「前略おふくろ様」の、さぶちゃん(萩原健一:目黒で3度ほど見かけましたが事件後だったせいか、いつもいかつい表情をしていました)なんだと思うのですが、わたし番組を見てませんでした……
 舞台は東京下町とありましたが、あの舞台は神楽坂だったのでしょうか?
 調べるより、詳しい人がいそうな気がするので、ご存知でしたら教えてください。
 ──しかし、なんで路地ですれ違う板場姿の面々の目つきは印象が良くないんでしょう(いい人は皆無でした)。

 軒先に縄のれんをかけた、いい雰囲気の店がありました。
 昼間なので店内の様子は分かりませんが、むかしは「縄のれんを下げる店=居酒屋、一杯飲み屋」の意味で、「縄のれんで一杯」は庶民の表現ですから、われわれも気安く入れるのではないかと思ったのですが、さて……
 一度チャレンジしてみませんか?


 別の路地で店の門を撮っていると、取材拒否なのかも知れませんが「止めてください!」という店がありました(京都では一度もありませんでした)。
 往来に面している場所ですから、撮られても仕方ないと思うのですが、以前イヤな思いをしたのかも知れません(印象悪いのでもちろん載せてやりません)。
 近ごろ東京では、隠れ家的とされる「通を気取れる店」が流行っており、客の小さな優越感を守ることも店の売りなのかも知れませんが、もう少し胸を張った商売をしてもいいのでは?(結局そんな売りも、ハリボテでは?) という気もします。
 ──後で知りましたが、上写真の右側は料亭だそうで、この写真で怒られたなら素直に引き下がって、この項の文章も書かなかったと思います。でも、驚くような人たちが出てきたら、話しは別ですが……

 結論として、カメラをぶら下げて歩くと「何を探っているんだ?」と、目の敵にされる町なのかも?
 という情報が伝わればいいのかも知れません。
 京都とは違って東京の花街は、政財界等とのつながりを保つことで生き延びてきた面があるようで(雅さではなく実利のため)、保守的でなければ続けられない事情もあるように感じられました。
 ──京都の花街も幕末のころは、勢力争いに巻き込まれて客を選んだのでしょうが、あの時代は金儲けなどという生やさしい基準ではなく、生き残るために「どちらの客を選ぶか」という自立性が求められ、それも店によって異なったため、現在でも関心を持たれるドラマが生まれたように思われます。


 麻布十番(Map)

 右写真は、パティオ十番という多目的広場で、骨董市などが開かれるそうです。
 広くはないものの、外国大使館が多い土地柄で、欧風を意識したのか? と感じたのですが、実は戦後の区画整理の未着手部分で、ここだけ道幅が広く残されていたんだそうです。
 上記の広場もビルに囲まれていますが、この町に多いとされる老舗の店舗もほとんどがビルになっているので、そうなってしまうと現代風の派手な看板に圧倒されていまい、お店の確認もままなりません。
 地下鉄(南北線、大江戸線)が開通するまでは陸の孤島とされてきた地ですが、「行きたいけど不便だった」おばさんたちの関心は高かったようで、地下鉄開通効果が最も高いとされる地域なんだそうです。

 何でこの町に来たのかといえば、地図で見ると一ノ橋の川向こうに、古い町並みが残されているようなので、そこを歩いてみたいと思ってのことです(以下の写真周辺は初めて)。


 上部に首都高速が走る古川(上流は渋谷川)を渡った地域も、住所は麻布十番になります。
 ここにはいまでも、以前と変わらぬ生活環境で暮らしている方々がいますが、おそらく近ごろは暮らしにくくなっているのではないでしょうか?(将棋でいえば「詰み」の状況)
 だからといって、立ち退いた跡にそびえ立つであろう高層マンションに入居できればいい、というものでもないと思われます。
 しかし、開発会社(建設会社等)にとってはそれ以上のフォローはできないでしょうから、「お金で解決」となるのかも知れません……

 ここは東京タワーにも近いですし場所柄も、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の舞台設定に近しい環境と思われます。
 映画の設定をお借りすると、立ち退きを迫られた鈴木オート(堤真一)がいくら抵抗して暴れようとも、一家族の意志だけではどうにもならず、追い込まれてしまうという状況が、この地の現実なのかも知れません。
 映画の続編があったとしても、そんな結末にはして欲しくない、と思ってしまいます……


 話の種にと入った更科堀井(老舗のそば屋)ですが、とても品がよろしいようで、わたしの口には物足りない印象がありました。
 味の話は置いといて、そのそば屋でおばあさんが、日本酒をキュキュッと「そば屋で一杯」やってるじゃありませんか!?
 締めのそばを、ズズーッと手繰る(たぐる:江戸っ子の気取りの表現)勢いはさすがにありませんでしたが、カッコイイ! を通り越しています。
 下町とは違って、ちょっとひがみにも近しい感情を抱いたこと、しばらく忘れられないかも知れません。
 「他人の目を気にするこたぁない。わたしゃ、これが好きなんだよ!」と、生きていくべきなんですよね。おっと、これは下町の口調でしたか?

2009/05/11

現代も変わらぬ首都の弱点──隅田川上流部

2009.5.9
【埼玉県、東京都】

 今回は、先日都電荒川線の車窓から見かけた「町屋」付近を歩いてみたい、という動機から計画を練りはじめました。
 町屋も下町ですから隅田川まで足を伸ばそうかと考えはじめ、隅田川の河口付近(月島・築地)は歩いたので、始点となる水門付近も歩いておかねばと広がり、赤羽付近を目指そうと考えたのですが、そこからまた……
 東京メトロ南北線(目黒〜赤羽岩淵)はよく利用しますが、目黒側の東急電鉄とは反対側で直通運転している埼玉高速鉄道は未体験であるのと、埼玉県川口市の「キューポラ」の現状を見たかったので、さらに足を伸ばしました。


 川口(Map)

 川口市は荒川に面した都・県(埼玉)境の町で、以前は鋳物産業(加熱して溶かした金属の加工)が盛んでした。
 「キューポラ」とは鉄を溶かす溶銑炉(ようせんろ)【製鉄に使う溶鉱炉(ようこうろ)とは違い、すでに鉄である銑鉄(せんてつ)や屑鉄等を原料として、それをコークスの熱や電気の作用で溶かす炉】のことで、排煙筒(右写真)が屋根から突き出していると炎や燃えたコークスが飛び散り、周囲に被害を及ぼしたそうです(この煙突の名称と思っていました)。
 その存在を知ったのは、映画『キューポラのある街』(1962年)によります。
 映画出演時の吉永小百合さん(当時17歳)は、ほっぺたがパンパンのはち切れんばかりの若さで躍動し、社会の片隅で凜(りん)として生きる少女のしんの強さを、全身で体現していた記憶があります。
 彼女自身、当時の私生活が貧乏であったことを自慢しているので、映画での姿は内面から出ていたものなのかも知れません。

 現在のJR川口駅前は、とりあえずの再開発は一段落したようですが、ドでかいマンションが林立しており、川の対岸である赤羽(東京都)を軽〜く見下ろしています。
 住宅にすっかり囲まれてしまった別工場の看板には、「以前から工場地帯であるこの地で操業しており…… ご迷惑をお掛けしないよう改善に努めております……」とありましたが、この先どれだけ続けられるのだろうか? 包囲網が迫っているのは事実です。
 この煙突を見つけるまで工場をいくつも回りましたし、年々その数は減っているようで、これまで町を支えてきた地場産業の役目は終わりつつあるようにも見えます。
 映画のイメージからは「キューポラのある街=貧しさ」を連想させる印象があったので、自治体としては払しょくしたい意識があるかと思いきや、川口市では「キューポラ」を、環境通貨や情報誌の名称に使用していたりします。
 もう、ジュン(吉永さんの役名)の生きた時代の町ではない、という自信があるならば、過去の遺産に頼るのではなく、未来志向のキャッチフレーズを考えるべき、とも思うのですが……


 岩淵水門(Map)

 赤羽・川口付近で、荒川、新河岸川(しんがしがわ)の流れが接近し、隅田川は新河岸川の全部と荒川の一部を取り込んで流れを始めます。
 この水門は、荒川から隅田川への水流を制御しています。
 江戸時代(1629年)より関東平野では、洪水防御、新田開発、舟運開発等を目的とした河川改修が始まり、「利根川の東遷、荒川の西遷」と呼ばれるような大工事が行われたそうです。
 利根川の東遷→現在の中川付近から銚子方面に向かう現在の流れとした。
 荒川の西遷→現在の元荒川付近から、入間川に付け替えて現在の隅田川の流れとした。
 それにより、上流部の新田開発、舟運開発は活発になりましたが、下流部の江戸市中では隅田川の洪水が多発するようになり、大正時代から20年近くをかけて右写真の岩淵水門付近から、現在の荒川本流となる荒川放水路を人工的に開削したんだそうです。

 そんな歴史を持つこの地は、現在でも首都洪水防御の要であるようです。
 先日、この付近での隅田川や荒川の氾濫(堤防が決壊)を想定した場合、水門近くの東京メトロ赤羽岩淵駅に水が流れ込み、都心の地下鉄路線が水没するおそれがある、とのシュミレーション結果を目にしました。
 地下鉄が止まるだけなら何とかできるのでは? と思うものの、今どきの地下鉄は郊外からのJR・私鉄各線と相互乗り入れをしていますから、地下鉄が止まると首都交通網が麻痺することになりかねません。
 これまで幾度となく繰り返されてきた自然との闘いですが、現代の文明を持ってしても制御不能のおそれがあります。
 しょせん無理とは思っていても、何とかしてもらわないと次の日から都市機能が麻痺してしまいます。
 温暖化によって海面の水位が上昇すれば、洪水の危険性は上流部へと拡大するおそれがあります。
 はて、現代文明はこれからどう「水」と闘い、付き合うべきなのでしょうか?


 上写真は、水門から5kmほど下流の小台(おだい)という場所で、分かりづらいですが、土手の右に荒川(放水路)、左に隅田川の川面が見えます。
 別の流れとはいえ湾曲して流れているので、堀切あたりまでは近くを流れていきます。
 ここが最も接近していると思われる場所で、両川は2〜300m程度まで接近しています。
 荒川放水路建設当時は、堤防だけだったと思われるのですが、いまではマンションや大型電気店まで建てられています。
 この地訪問の趣旨として「決壊の危険性があるのでは?」と思っていたのですが、しっかりと開発済みでした。
 危険そうな場所に住宅建設の許可を出してしまえば、そこを守る義務が生じるわけですから、都は自分の首を絞めているようにも思えてきます。

 この場所への交通手段としては、2008年3月に開業した都営の「日暮里・舎人ライナー」があります(「ゆりかもめ」と同じ新交通システム)。
 この電車は土曜日でも結構混雑していましたし、平日も予想以上の混雑で増発しているそうで、交通不便の解消として待ち望まれていたようです。


 町屋(Map)

 この駅前にも、いまどきは「町の義務?」とすら思える高層マンションが数棟建っています。
 でも、空を見上げない限り町の様子としては、住民レベルでの建て替え等の更新をポチポチ見かける程度ですから、ほどよい下町の風景が残されていて、路地散歩にはもってこいの環境に思えます。
 都電の町屋二丁目停留所から商店街を歩いてみると、それほど活気は感じられないのですが、何となく営業を続けているような商店がどこまでもダラダラと続いています(そんな光景は好きなのですが、褒め言葉になってませんね)。
 そんな枯れかけた商店街を歩いているうちに、いつの間にかタイムスリップして過去の時代に連れ込まれるのではないか? などと思わされる瞬間がありました。
 ──『異人たちとの夏』(1988年)という映画を想起しました。下町をさまよううちに、死んだ両親と出会う「異界」への扉を開く(映画では浅草だったか)、状況設定を思い出しました。

 というのも、そこかしこに連なる迷路のような路地にはかならず主のようなネコがいて、その姿がとても絵になっているので、徐々にその存在が気になってきます。
 別にネコ好きではないんですが、その姿が「おいで、おいで」と手招きしているように感じられるのか、構いたい気持ちにさせられます。
 それは、別世界への怪しげな誘いのようにも感じられますが(アニメのストーリーじゃないんだから)「知らないネコについて行っちゃダメよ!」といわれるまでもなく、垣根の中までは追えませんしね……
 しかしこれ、いつも悩むところで、他人の家に無断で入ってはいけない、と思うものの、その家だけの通路でも道路側に表札が出ていないと、しばし考えた後、人けが無ければ入ったりしちゃいます(これ見られていたらかなり怪しい!)。
 ホイホイ入っていっちゃう方なので、右写真のように「立ち入り禁止」と書いてもらえると、ネコではないので失敬せずに済むというものです(反省してないね)。
 でも、町の路地に迷い込んでタイムスリップするというのは、ありえるようにも思えるのですが……
 それは妄想としても、今度じっくり歩いてみたい町という印象を持ちました(ちょっと遠いんですけどね)。

 散策中の小さな公園で「ラジオ体操会場─年中無休─」という看板を見かけました。
 その前を、手ぬぐいをぶら下げたおじいさんがのんびりと歩いていきます。おそらく、ひとっ風呂あびに行くのでしょう。
 そんな情景を「当たり前」に保っている地域のようです。


 上写真は、町屋に近い三河島(みかわしま)水再生センター(下水処理施設)で、日本で最初の近代下水処理場なんだそうです。
 再生済みの水を隅田川に流していますが、飲料以外の上水として利用するためには、もう一段階の処理が必要だそうですから、処理後の水にもそれなりの汚れが含まれているようですが、環境基準とコストを考えれば仕方ないのでしょう。
 ここは、下水に含まれる汚れ物質を何度も沈殿させて取り除く施設なので、広大な沈殿池が必要となり、その上部をグラウンドや公園に整備して一般開放しています。
 ただ、屋外なのに塩素や消毒液のニオイが強烈なので、プールでテニスや野球をしている気分じゃないかと思われます(それも仕方ないんでしょうね)。

 今回、隅田川の水質については、上流の新河岸川から改善しなければきれいにならないこと、納得いたしました(無理であろうことを理解しました)。