2009.4.24
【東京都】
都電荒川線(Map)
「次の電車が近づいてきたので、間もなく発車します」のアナウンスで、おもむろに始発の早稲田停留所を出発します。
都電荒川線では、昼間の運行ダイヤは決められておらず、電車間隔を感覚で(?)見計らいながら運行されているようです。
遠足でしょうか、幼稚園児がウジャウジャ乗っていた電車は満員で、乗降に時間がかかりますから後ろの電車は詰まってしまいます。
そこは心得たもので、先行電車との間隔を開けるように時間調整しながら運行していたようです。
団体の、特に子どもたちの引率者とすれば、みんな同じ電車に乗せたいでしょうし、そんな気持ちも理解できますから「混んでいるなぁ」とは思いながらも「気をつけてね」と、手を振っています。
利用者たちは、都民の足としてゆずりあって利用しましょう、という基本理念を承知しているんですね。(だって、しょうがねえだろー
)
仕事で利用していたころ、時間に余裕を持って乗るんですが、早稲田で降りたときはいつも急ぎ足になっていたこと思い出しました。
乗車すると意識から時間感覚が消え去り、時間の概念から解放された錯覚をするようで、降りた瞬間に現実に引き戻されます。
その時、天使のわけまえ(ワインやウィスキーの熟成中に樽の中身が少し蒸発すること)のように、何分か縮められたような気がしたことがあります。
仕事中はoffモードになってはいけない、という忠告なのかも知れません……
そんな「効率を求めないシステム」で運行している限り、利益は上がらないとは思われますが、利用者にとって最大の魅力とは運賃の安さとも思われます(都電全線160円、都バス23区内200円)。
同じ行き先で単純に利用運賃を比較すると、安価な鉄道、高価なバスとなりますが、設備等にかかる経費は鉄道の方が高価ですから、都側にすれば効率的とは言えません。
ですが、鉄道路線が少ないためバス路線のとても多い京都市内では、LRT(Light Rail Transit:軽量軌道交通)方式等の公共交通システムの導入が検討されています。
京都のそれは「京都議定書:地球温暖化防止京都会議」がはじめにありきとしても、エコを目指しています。
だからといって東京が「非効率でもエコを目指す」都市になるとは思えませんが、この路線を存続する姿勢だけでもアピールできればとは思います。(右上写真2枚は大塚駅前停留所)
庚申塚(こうしんづか)停留所(Map)
巣鴨の地蔵通り商店街にある喫煙スペースで、近所のおじいさんのお話しが聞けました。
「むかし住んでいた尾久(おぐ:荒川区)周辺には下町の人情があったが、この付近にはまるでない。荒川線に縁があって近所に住んでいるが、こんなに違うのかと驚いた」と、長屋暮らしについて話してくれました。
いったい、どの辺りにその境界線があるのでしょうか?
時代もあるのでしょうし、「豊島区じゃ、道路でタバコ吸ったら罰金取られるんだ」に込められた不満(罰金取られたのか?)があるのかも知れません。
「おばあちゃんの原宿」などと言われますが、「とげぬき地蔵: 高岩寺(こうがんじ)(曹洞宗)」前の「巣鴨地蔵通り商店街」は、全長800mくらいですが、どこの店にも活気があるのでお年寄りが楽しく散策できそうですし、景気の悪さを忘れさせてくれる明るさを提供してくれます。
右写真は「洗い観音」で、自分の具合の悪い個所をなでると快方に向かうとされ、参拝者のお目当てになります。
この像は2代目になり、以前はお地蔵さん的なフォルムをしており、タワシでゴシゴシやられたおかげで「多分この辺りが目だろう」というような姿(顔面周辺の損傷が激しかった=よくなりたいと願う人が多い)だった記憶があります(現在はタワシ禁止のようです)。
飛鳥山停留所(Map)
飛鳥山公園は桜で有名ですが、渋沢栄一(日本資本主義の父と言われる)旧邸の保存展示や、博物館、展示館が3つもあります(入りませんでした)。下写真は旧邸で、近ごろ好きなガラスの写り込みとその奧に見える絵です。
江戸時代の桜の名所は上野だけだったようで、花見時期には風紀が乱れること(むかしから発散の場だった?)を憂いた徳川吉宗が、庶民向けの桜の名所として整備したんだそうです。
都電荒川線は、元の王子電気軌道を東京都(当時は東京市)が買収したそうで、専用軌道を持つ路線だったため、都電の全面廃止に際しても残されることになったそうです。
路面電車とは「道路上に敷設された軌道(併用軌道)を走行する電車」とあり、併用軌道とされる区間は右写真の王子駅前〜飛鳥山間しか残されていないのに、荒川線は路面電車とされています(駅ではなく停留所と言います)。
しかし江ノ電も、江の島〜腰越間に併用軌道があるにもかかわらず、路面電車ではないそうです(確かに駅と言います)。
また、併用軌道内においての振るまいが荒川線の場合は、自動車と同等に扱われています。
地方の路面電車(長崎・函館等)では、軌道上に車がいたら「そこのけそこのけ、電車が通る」のごとく、警笛を鳴らして追い散らして電車が走った記憶があります(違ってたらご指摘下さい)。東京ルールがあるんでしょうかね。
われわれも「チンチン電車」と呼んだりしますが現在その鐘は、発車前に乗車・降車用両方のドアが閉じた際に2回鳴らすんだそうです。
以前は車掌さんが運転手への合図に鳴らしたそうですが、今どきはワンマンカーですから、乗客への合図的なもののようです。
それでものうのうと歩いてきて、ドアを開けさせて平然と乗り込んでくるおばさんがいます。
その時に鳴らされる「チンチン」は、その乗客へのアピールだと思っています……
王子駅前停留所(Map)
飛鳥山公園付近で武蔵野台地の高台「山の手」から、隅田川・荒川の流れる「川の手」に下り、汚水のたれ流し問題が発覚した王子駅に至ります。
──そういうことをきちんとやっておかないと、豚インフルエンザ等の感染拡散源となる危険性があります。ニュースを見ていると、われわれは『感染惑星』という映画の中にいるようで、不安が現実になるのか? そんな戦慄に襲われてしまいます。
この辺りを、巣鴨のおじいさんがいう「人情の境界線」と考えるととても分かりやすく、「山手」(高台)に対する「下町」(低地)という、まさに地理的分類の境界と共に実感できます(語源としても、地形区分から線引きされたそうです)。
江戸時代には、軍事上の理由から大名屋敷等は台地上に建てられ、周辺にその家臣の武士等が住み、庶民たちは運河や水路が発達し、商いが盛んな低地である下町に暮らしたそうです。
そこで生活したことがないので分かりませんが、下町を歩いていると「暮らしやすいんだろうなぁ」という、空気を感じることができます。
便利な場所じゃないが、それは不便じゃない。禅問答のようですが、それを「必要としない」なら、不便という認識は生まれません。
しかしおじいさんのように、荒川区にあって、豊島区にないものを「足りない」と感じた人には、不便極まりない地域(巣鴨付近)ということになってしまいます。
栄町停留所(Map)
停留所近くにある、東京書籍印刷のかまぼこ屋根の工場を眺めた後、JR東日本の尾久車両センター(車両基地)付近に何か面白い絵はないかと、歩きました。
しかし巨大車両基地ですから、行けども反対側に横断する道がありません。
戻るのはシャクなのでかなり遠回りになるのを覚悟しつつも、尾久駅に通じる地下通路を発見したときは胸をなで下ろしました。
汚れているのかと思ったら、とても清潔感のある地下通路で驚きました。
近隣住民の方々の生活道路であると同時に、JRの職員も途中の扉から出てきましたから、24時間利用者がいるのでホームレスも居座れないようです。
「上野発の夜行列車」の整備場も必要なので、この巨大な車両基地の移転は難しいかと思われます。
フェンスには、あきらめ半分の「今世紀中(21世紀)の不便解消は実現できないのか?」の、小さな看板が見えたりもしました。
線路に囲まれたこの地域に対する提案としては、横断(地下)通路は増設できるように思いますが、納得できない場合はJRに買い上げてもらって移転するくらいしか思いつきません。
荒川車庫前停留所(Map)
ずっと昔(1977年)、NHKドラマ「男たちの旅路」シリーズ(山田太一作、鶴田浩二、森田健作、水谷豊、桃井かおり等が出演したガードマンの物語)に、老人たち(笠智衆、殿山泰司、藤原鎌足等)がこの車庫内の電車に立てこもるという、いまでも印象に残っている作品がありました。
ここは、上述のJR東日本の車両基地とは比べものにならないほど小さく、5分で一回りできるような規模です。
老人たちの社会への反抗がテーマでしたが、それをこんなにも身近な存在であり、愛着もあったであろう都電のこぢんまりとした車庫で実行したという設定が、その現場に立って初めて実感できましたし、その老人たちの節度を感じさせてくれ、再見したくなりました。
──シリーズには他にも、車いすでの移動が必要な方たちを描いた作品もあり、バリアフリー化が進む町の様子を目にするたびに、思い起こしたりしています。見てない人には何のこっちゃ? ですよね……
その後三ノ輪橋停留所まで行き、ジョイフル三ノ輪商店街にて、昔から変わらないであろうラーメンを食べて(スープ美味しかったです)、帰途につきました。
──近ごろ「キレイぢゃない中華料理店」(歴史がありそうの意です。失礼!)で、昔ながらのラーメンをいただくことを、とても楽しみにしています。あまり期待できませんが(また失礼)、サッパリした醤油味で具も最小限なので、夕飯までのつなぎにはなります。
前回までの山の手側は、どこも開発の手が迫っていて落ち着いて暮らせない気がする、などと巣鴨のおじいさんに話したら「人情の厚みが違うんだよ。下町だって先はわからんよ」の答えが返ってくるような気がしてきました……
以前、朝日新聞の地域面のタイトルが「川の手」であることに疑問を感じたと書きましたが、それが「ステータス」であることを、ようやく理解できた気がします。
上野や神田は境界線上ですが、下町側の威勢が良かったでしょうし、浅草や深川はバリバリの下町であるということが、その境界線をまたいで比較することによって実感できた思いがしました。
──行程中に車窓の景色が変わる様子を見ていると、自分の意識も変化していることを、感じられた気がします。
別れ際にわたしの「どうも」の後、おじいさんに「ごめんください」と言われ、「お気をつけて」くらい言えないのか、この出来損ないが! と思うも後の祭り。
「日々是精進ですよ、中年の兄ちゃん」と喝を入れられた気がしました……
2009/04/28
2009/04/22
思い入れのある者は急ぐべし──下北沢
2009.4.15
【東京都】
駒場公園(Map)
「駒沢」ではなく「駒場公園」なので、あまりなじみが無いかと思われます。
東京大学の駒場キャンパス(教養学部)と、駒場リサーチキャンパス(先端科学技術研究センター、生産技術研究所)に挟まれた場所にある庭園です(京王井の頭線駒場東大前下車)。ちなみにここは目黒区で、区立公園になります。
この地には昭和初期、加賀百万石と言われた(石川県)旧前田家の駒場邸が建てられ、現在も保存公開されています(洋館は土・日・祝日のみ公開)。
まあ「前田の殿様」ですから、これくらいの屋敷を持っていても不思議はないのですが、時代も変わり明治以降は華族令によって「侯爵(こうしゃく)」と呼ばれていました。
華族令とは貴族階級を規定する法令で、(偉い順に)公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に階級分けされたそうです。
きっと「殿様と侯爵と、どっちが偉いんかね?」という疑問があったでしょうね。
侯爵は貴族院議員となれる特権を持っていたそうですから、お飾りであっても偉かったようです。
第二次世界大戦敗戦後の1947年(昭和22年)、日本国憲法(現憲法)の施行によって貴族院と華族制度は廃止され、そんな階級も消滅します。
現代においては、貴族階級という言葉の響きにはどうも「いやらしさ」を感じてしまうのですが、「殿様」という響きには、何か憎めない「おおらかさ」があるようにも感じられます。
それは、水戸黄門など庶民派として描かれるお殿様の人気が高かったりと、時代劇をうのみにし過ぎるせいかも知れません(バカ殿は関係ないと思います)。
本物の殿様の前では頭も上げられず、お姿も拝めなかったことでしょう……
上写真は同じ殿様屋敷「和館」の広間にある化粧板に映るガラス戸と庭の様子。
東大先端研(Map)
何年か前に東大先端研(先端科学技術研究センター)を見学させてもらったことがあり、写真の建物内にある直径3mの風洞施設を目の前にし、鳥肌を立てて食い入るように眺め回していたことが思い出されます(子どものようでした)。
風洞施設とは、巨大な筒を横にして風を流し、対象物を観察する測定スペース(5m程度)の先にある筒で風を吸い込む設備です(トンネルの間が5m程度見えているイメージ)。
1930年(昭和5年)に作られたそうで、戦闘機のゼロ戦、YS-11(国産旅客機)、東海道新幹線などの実験に使用され、現在ではスキージャンプの練習などに使われるそうです。
その風洞施設は航空研究所時代に作られたもので、当時この研究所では、エンジンの試作や機体に使用する合金等、最先端の研究・開発が行われていました。
そこから生み出された「当時最新鋭」の戦闘機が、戦争につぎ込まれていったことになります。
現在の先端研では「情報」「バイオ」「環境エネルギー」「材料」「バリアフリー」「社会」という研究分野をテーマにしているそうです。
それらが、実現・完成したらすごいだろうという期待感は、戦前の戦闘機に対するものとさほど変わらないと思われます。
重要なのは、平和的な利用だけに制限できるか、ということですよね!(賛同を求めています)
下北沢(Map)
下北沢駅では井の頭(いのかしら)線は高架なので、地上を走る小田急線が地下化すれば(現在工事中)、その空間を再利用できることになり、東京都、世田谷区は駅周辺の市街地整備計画を進めています。
区画整理により、道路を新設して(緊急車両の通行を含め)駅前にロータリーを作り、バス停を設置する計画だそうです。
ですが、国の都市再開発法の市街地再開発事業には含まれておらず、一般的な「再開発」とは言わないそうなので、反対派も交渉での上積みはあまり望めないかも知れません。
そこで都側が気前よかったりすると、後で知事が怒るというような構図が想像されますが、いつになったら改善されるのでしょうか?
小田急線では延々と複々線化工事が続いていますが、現在工事中である下北沢駅付近の完了予定は2013年度だそうです。
計画には、いにしえの出来事と思えるような、代々木上原からの千代田線接続工事(昭和53年開通)も含まれているそうで、もう追いかけるのやめました。まだ新宿方面にも工事計画があるんですって。
そうそう「輸送力増強設備投資のための運賃値上げ」(工事費を前倒して運賃に上乗せする:乗客に借金)がそのままではあるまいか?
何でも「特定都市鉄道整備促進特別措置法」という、10年以内の積み立てを可能とするが工事終了後は利用者に還元する、という法律があるんだそうです。
でも小田急のように、部分完了したら次の区間が始まる、という方式では、わたしたちの目の黒いうちには値下げの恩恵は受けられそうにありません。
でもこれはある意味、将来への投資であるわけで、年長者が後継者への還元(お金ではなく便利さ)を期待した積み立てになるわけですから、ビジョンとしては成り立つと思われます。
困るのは正反対の構図になる年金制度です。官庁に任せていては、らちが明かないので、何かいいモデルのアイディア(これからでも、団塊世代をその気にさせて積み立てさせる方策等)はないでしょうかねぇ?
小劇場、ファッション街、飲み屋はいまも健在ですが、わたしの記憶には上写真(2枚)の駅前食品市場の印象が強く残っていました(ガキのころ、父方の伯母と買い物に行った思い出かも知れません)。
1980年代までは栄えていたそうですが、いまや風前のともしびです。
経営者の高齢化等もあったのでしょうが、町が生まれ変わる時期がちょうど潮時なのかも知れません(戦後の闇市の名残なんだそうです)。
若いころからこの駅を利用しており、小田急線下りホームの先頭車両付近で電車を待つとちょうど正面に、渋めのビリヤード場が見えていました。
ずっと「大人の世界」と感じていて、一度だけ入った記憶があります。「なるほど、こんなもんか」と感じたことが思い出されます(あこがれなんてそんなものですよね)。
そのホームからの絵が撮りたくて真っ先に向かってみれば、工事用の鉄板に覆われていて何も見えませんでした(営業はしていました)。
下北沢の風景が変わってしまうのは時間の問題です。思い入れのある人は急ぐべし!
代々木八幡宮(Map)
訪問の動機は前回感じた「駅名は知っているのに訪れたことのない場所」へ行ってみよう、というものです。
鎌倉幕府第2代将軍、源頼家の家来によって建てられた、鶴岡八幡宮の流れをくむ神社だそうです。
参道に敷き詰められた玉石が印象的で、場所柄も小高い丘にあり、たたずまいには貫録があります。
しかしこの丘からは、縄文時代の住居跡などが発見されており、代々木八幡遺跡の史跡に指定されているそうです。
神社を建てたときには、そんなこと考えてもみなかったことでしょう。
見晴らしのいい場所だ、と思ったら先客がいた、というのは良くある話しで、縄文〜鎌倉時代までの日本人の感性は似かよったもののようですが、さて、平成時代の感性はというと……
神社前の山手通りに巨大な建造物が何本も立っています。何だと思います?
首都高中央環状線(C2)の建設は地下方式と聞いていたので、この上に道路を作るものではありませんし、これはもう完成型です。
地下道路の排気ガスを排出するための換気塔なんだそうです(45mの高さがあるそう)。
平成時代の願いとは「排気ガスよ、天まで届け!」というものになるのでしょうか?
その反論として首都高速道路(株)は、「地下には9ヵ所に換気塔が設置され、地下の排気ガスはここから濾過装置を使って、二酸化炭素を90%、浮遊粒子を80%除去して排出されるため、地上を車が走るより、ずっと環境に優しい道路と言えます」という、優等生的に胸を張った設計理念を披露しています。
ならば、走る車を全部そうした方が、全国的にも「はるかに、エコ!」なのでは、と思ってしまうのですが……
そこは譲って、この場を実験場として効果が確認されたなら、他でも導入してもらいたいと思います(お金掛かりそう…)。
しかしそこには、いくらお金が掛かろうとも、東京は世界に誇れるニッポンのシンボル都市にする必要がある、という意図が見える気がします。
それは東京が、それだけ劣悪な環境であることを認めていることにもなるのですが……
代々木公園(Map)
薄紅色の花はもう十分なので黄色い花を撮りたいと、菜の花の記憶をたどって代々木公園まで歩きました。
あるにはあったのですが、花壇に植えられている程度しかありませんでした。
以前は他でも、菜の花をよく見かけた気がするのですが、何か絵になる風景には出会えません。
これからテーマにしてちょっと探してみます。
──隣接する明治神宮は、菖蒲の季節にと考えています。
【東京都】
駒場公園(Map)
「駒沢」ではなく「駒場公園」なので、あまりなじみが無いかと思われます。
東京大学の駒場キャンパス(教養学部)と、駒場リサーチキャンパス(先端科学技術研究センター、生産技術研究所)に挟まれた場所にある庭園です(京王井の頭線駒場東大前下車)。ちなみにここは目黒区で、区立公園になります。
この地には昭和初期、加賀百万石と言われた(石川県)旧前田家の駒場邸が建てられ、現在も保存公開されています(洋館は土・日・祝日のみ公開)。
まあ「前田の殿様」ですから、これくらいの屋敷を持っていても不思議はないのですが、時代も変わり明治以降は華族令によって「侯爵(こうしゃく)」と呼ばれていました。
華族令とは貴族階級を規定する法令で、(偉い順に)公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵に階級分けされたそうです。
きっと「殿様と侯爵と、どっちが偉いんかね?」という疑問があったでしょうね。
侯爵は貴族院議員となれる特権を持っていたそうですから、お飾りであっても偉かったようです。
第二次世界大戦敗戦後の1947年(昭和22年)、日本国憲法(現憲法)の施行によって貴族院と華族制度は廃止され、そんな階級も消滅します。
現代においては、貴族階級という言葉の響きにはどうも「いやらしさ」を感じてしまうのですが、「殿様」という響きには、何か憎めない「おおらかさ」があるようにも感じられます。
それは、水戸黄門など庶民派として描かれるお殿様の人気が高かったりと、時代劇をうのみにし過ぎるせいかも知れません(バカ殿は関係ないと思います)。
本物の殿様の前では頭も上げられず、お姿も拝めなかったことでしょう……
上写真は同じ殿様屋敷「和館」の広間にある化粧板に映るガラス戸と庭の様子。
東大先端研(Map)
何年か前に東大先端研(先端科学技術研究センター)を見学させてもらったことがあり、写真の建物内にある直径3mの風洞施設を目の前にし、鳥肌を立てて食い入るように眺め回していたことが思い出されます(子どものようでした)。
風洞施設とは、巨大な筒を横にして風を流し、対象物を観察する測定スペース(5m程度)の先にある筒で風を吸い込む設備です(トンネルの間が5m程度見えているイメージ)。
1930年(昭和5年)に作られたそうで、戦闘機のゼロ戦、YS-11(国産旅客機)、東海道新幹線などの実験に使用され、現在ではスキージャンプの練習などに使われるそうです。
その風洞施設は航空研究所時代に作られたもので、当時この研究所では、エンジンの試作や機体に使用する合金等、最先端の研究・開発が行われていました。
そこから生み出された「当時最新鋭」の戦闘機が、戦争につぎ込まれていったことになります。
現在の先端研では「情報」「バイオ」「環境エネルギー」「材料」「バリアフリー」「社会」という研究分野をテーマにしているそうです。
それらが、実現・完成したらすごいだろうという期待感は、戦前の戦闘機に対するものとさほど変わらないと思われます。
重要なのは、平和的な利用だけに制限できるか、ということですよね!(賛同を求めています)
下北沢(Map)
下北沢駅では井の頭(いのかしら)線は高架なので、地上を走る小田急線が地下化すれば(現在工事中)、その空間を再利用できることになり、東京都、世田谷区は駅周辺の市街地整備計画を進めています。
区画整理により、道路を新設して(緊急車両の通行を含め)駅前にロータリーを作り、バス停を設置する計画だそうです。
ですが、国の都市再開発法の市街地再開発事業には含まれておらず、一般的な「再開発」とは言わないそうなので、反対派も交渉での上積みはあまり望めないかも知れません。
そこで都側が気前よかったりすると、後で知事が怒るというような構図が想像されますが、いつになったら改善されるのでしょうか?
小田急線では延々と複々線化工事が続いていますが、現在工事中である下北沢駅付近の完了予定は2013年度だそうです。
計画には、いにしえの出来事と思えるような、代々木上原からの千代田線接続工事(昭和53年開通)も含まれているそうで、もう追いかけるのやめました。まだ新宿方面にも工事計画があるんですって。
そうそう「輸送力増強設備投資のための運賃値上げ」(工事費を前倒して運賃に上乗せする:乗客に借金)がそのままではあるまいか?
何でも「特定都市鉄道整備促進特別措置法」という、10年以内の積み立てを可能とするが工事終了後は利用者に還元する、という法律があるんだそうです。
でも小田急のように、部分完了したら次の区間が始まる、という方式では、わたしたちの目の黒いうちには値下げの恩恵は受けられそうにありません。
でもこれはある意味、将来への投資であるわけで、年長者が後継者への還元(お金ではなく便利さ)を期待した積み立てになるわけですから、ビジョンとしては成り立つと思われます。
困るのは正反対の構図になる年金制度です。官庁に任せていては、らちが明かないので、何かいいモデルのアイディア(これからでも、団塊世代をその気にさせて積み立てさせる方策等)はないでしょうかねぇ?
小劇場、ファッション街、飲み屋はいまも健在ですが、わたしの記憶には上写真(2枚)の駅前食品市場の印象が強く残っていました(ガキのころ、父方の伯母と買い物に行った思い出かも知れません)。
1980年代までは栄えていたそうですが、いまや風前のともしびです。
経営者の高齢化等もあったのでしょうが、町が生まれ変わる時期がちょうど潮時なのかも知れません(戦後の闇市の名残なんだそうです)。
若いころからこの駅を利用しており、小田急線下りホームの先頭車両付近で電車を待つとちょうど正面に、渋めのビリヤード場が見えていました。
ずっと「大人の世界」と感じていて、一度だけ入った記憶があります。「なるほど、こんなもんか」と感じたことが思い出されます(あこがれなんてそんなものですよね)。
そのホームからの絵が撮りたくて真っ先に向かってみれば、工事用の鉄板に覆われていて何も見えませんでした(営業はしていました)。
下北沢の風景が変わってしまうのは時間の問題です。思い入れのある人は急ぐべし!
代々木八幡宮(Map)
訪問の動機は前回感じた「駅名は知っているのに訪れたことのない場所」へ行ってみよう、というものです。
鎌倉幕府第2代将軍、源頼家の家来によって建てられた、鶴岡八幡宮の流れをくむ神社だそうです。
参道に敷き詰められた玉石が印象的で、場所柄も小高い丘にあり、たたずまいには貫録があります。
しかしこの丘からは、縄文時代の住居跡などが発見されており、代々木八幡遺跡の史跡に指定されているそうです。
神社を建てたときには、そんなこと考えてもみなかったことでしょう。
見晴らしのいい場所だ、と思ったら先客がいた、というのは良くある話しで、縄文〜鎌倉時代までの日本人の感性は似かよったもののようですが、さて、平成時代の感性はというと……
神社前の山手通りに巨大な建造物が何本も立っています。何だと思います?
首都高中央環状線(C2)の建設は地下方式と聞いていたので、この上に道路を作るものではありませんし、これはもう完成型です。
地下道路の排気ガスを排出するための換気塔なんだそうです(45mの高さがあるそう)。
平成時代の願いとは「排気ガスよ、天まで届け!」というものになるのでしょうか?
その反論として首都高速道路(株)は、「地下には9ヵ所に換気塔が設置され、地下の排気ガスはここから濾過装置を使って、二酸化炭素を90%、浮遊粒子を80%除去して排出されるため、地上を車が走るより、ずっと環境に優しい道路と言えます」という、優等生的に胸を張った設計理念を披露しています。
ならば、走る車を全部そうした方が、全国的にも「はるかに、エコ!」なのでは、と思ってしまうのですが……
そこは譲って、この場を実験場として効果が確認されたなら、他でも導入してもらいたいと思います(お金掛かりそう…)。
しかしそこには、いくらお金が掛かろうとも、東京は世界に誇れるニッポンのシンボル都市にする必要がある、という意図が見える気がします。
それは東京が、それだけ劣悪な環境であることを認めていることにもなるのですが……
代々木公園(Map)
薄紅色の花はもう十分なので黄色い花を撮りたいと、菜の花の記憶をたどって代々木公園まで歩きました。
あるにはあったのですが、花壇に植えられている程度しかありませんでした。
以前は他でも、菜の花をよく見かけた気がするのですが、何か絵になる風景には出会えません。
これからテーマにしてちょっと探してみます。
──隣接する明治神宮は、菖蒲の季節にと考えています。
2009/04/17
ガンバロー! 駅前商店街──世田谷線沿線
2009.4.11
【東京都】
三軒茶屋(Map)
この町の印象とは、情報誌「ぴあ」がまだ月刊もしくは隔週刊だったのころの、写真もモノクロでペラペラだった雑誌を小脇に抱えて、映画館に通った思い出になるんだと思います。
映画館(中央劇場、三茶シネマの2館)は健在でしたが、よろこぶ前に「大丈夫なの?」と心配してしまいます(応援の気持ちはあるのですが)。
そんな頃ここは「二番館」ではなかったか?
二番館とは、大きな劇場でロードショウが終了後に、人気の下火になった作品を2〜3本立てで上映し、1本分の料金もしくは低価格で観ることができた映画館(写真の看板を見るといまも2本立てかも知れません)。
館内が汚かろうが、椅子が堅くてお尻が痛かろうが、内容がゴッチャになろうが、全部観終えるまで何時間も夢中になってかじり付いていました。
高校・大学時代の、映画に熱中していたころには、二番館や名画座によく通いましたし、映画館をハシゴすることが楽しかったこと、思い出されます。
それがいまや「近ごろの映画は長すぎる」なんて思っているんですから……
駅前の一等地に当たる地域ですから、不動産屋が上写真を見たら「まだ空が見えてる。後ろの空間で商売しろ」なんて話しになるのでしょうか。
その場所には下写真のような、むかしから変わらない飲み屋街や、エコー仲見世商店街が営業を続けています。
開発推進派ではないのですが、さすがにこの場所は、将来もずっとこのままで存続できるとは思えません。
ジワジワと包囲網が狭まっているようですが、どうせ再開発をするならば虫食い的ななし崩しではなく、都市計画をきちんと立てて進めてもらいたいと思います。
東急世田谷線は、田園都市線の三軒茶屋駅と、京王線の下高井戸駅間を5.0kmで結ぶ、専用軌道を走る路面電車です。
開業当時は玉川線(現田園都市線とほぼ同経路で渋谷〜二子玉川を結ぶ)の支線だったそうです。
玉川線本線は国道246号線を車と走る併用軌道(道路上に敷設された軌道)のため、首都高速道路の建設と、地下鉄建設に伴い廃線となりました(当時は銀座線を延長する計画だったそう)。
少し寄り道しますが、当初の田園都市線は大井町線直通だったので(大井町〜溝の口)、渋谷へは行けなかったそうです。
そういえば以前、渋谷〜二子玉川間の地下部分を「新玉川線」と呼んでいたことがありましたね。路面電車時代のなごりを残そうとしたようですが、2000年から現在の名称に統一されたそうです。
もどりますが、世田谷線の線路は専用軌道であることと、繁華街を結ぼうとする等のルート設定により自由曲線となってしまい、都市計画や道路整備等に組み込むことができずに、むかしのままに存続されているようです。
以前は前身緑色の、愛きょうのある都電風車両(江ノ電へ譲渡されたものもあるそう)だけだったのですが、新交通システム風な車体デザインの、カラーバリエーションが豊富な車両に変わっていました(9種あるそうです)。
何だか、ユニクロかベネトンの電車が走っているようにも思えたのですが、見慣れてないだけなんでしょうね。
ガキのころ、むかしから色分けをしていた井の頭(いのかしら)線では「○○色が来た」と喜び、旧型の緑色の車両(京王電鉄もむかしは緑色:決まりがあったのかも知れません)が来るとガッカリしたものです。
いまの子どもたちも、そんな風に楽しんでいるのかも知れません。
松陰神社(Map)
駅名にもなっているのでご存知の方も多いかと思われますが、訪れた人は多くないかも知れませんね。
松陰神社には、長州藩出身で幕末の思想家である吉田松陰がまつられています。
神社は、松陰の墓所のあるこの地と、生誕地である山口県萩市にあり、学問の神とされています。
松陰が「安政の大獄」で処刑された後、高杉晋作等の松陰門下生の手で、当時長州藩主の別邸があったこの地に改葬されたそうです。
上写真の建物には「松下村塾(しょうかそんじゅく)」の看板が掛けられていますが、上記の理由からレプリカになります(掛け軸の絵は松陰の姿)。
ですが、高杉晋作がこの地にやって来たことは事実のようです。現在の東京を歩いても、長州藩関連の史跡はあまり目にしない気もしますし、晋作の名前を懐かしく感じたりしました。
それも当然のようで、徳川幕府が長州征伐の際にこの地も壊されたそうです。
明治になって木戸孝允(きどたかよし)等の手で修復されたとき、徳川氏(篤姫の関連は不明)から奉納された水盤(右写真)が墓前に置かれてあります。
別の場所には寄進された石灯籠が並んでおり、一番手が元藩主の毛利家で、伊藤博文の名前が続きます。
吉田松陰と高杉晋作、伊藤博文は師弟関係であったのですが、伊藤博文にとって晋作とは戦場で命を預けた上官のような存在だったようで、直立不動の姿勢をとったと聞きます。
初代総理大臣となった伊藤博文ですが、師たちへの敬意は忘れなかったようです(好感度アップで、旧千円札が1050円くらいになったか?)。
門下生たちの尽力により、松陰さんもその後は静かに眠っておられることでしょう。
豪徳寺(ごうとくじ)(Map)
駅名は知っているのに訪れたことのない場所シリーズではないのですが、小田急線・世田谷線はかなり利用していながらも、ここは初めてかも知れません(現在利用している東横線の祐天寺も行ったことありません)。
ここには、幕末期の大老であった井伊直弼(いいなおすけ)の墓があります。
天皇の許しを得られぬまま、アメリカとの日米修好通商条約に調印し、将軍後継者も自らの裁量で決するなど、さまざまな方面から反発を受けるも、反対する者たちを弾圧した事件である「安政の大獄」を断行した人物です。
そのため「井伊の赤鬼」と憎まれ「桜田門外の変」にて暗殺されます。
わたしも「悪政者」的なイメージしか持ってなかったのですが、昨年の大河ドラマ「篤姫」では、思い入れが可能な人物像として描かれていて、新たな直弼像に接した思いがあり、見事な人物造形であると(篤姫が持つ包容力の表現であったとしても)、とても印象に残っています。
「安政の大獄」で処刑された吉田松陰と、それを命じた井伊直弼の墓がこれほど近くにあるというのは、史実からうかがえる開国を迫られた中での幕府 vs 倒幕勢力という対立軸や感情論ではなく、結果的には「ニッポンをどげんかせんといかん!」という「志」においては、近しい存在であったからなのかも知れません……
豪徳寺(曹洞宗)には「招き猫」発祥の地とする言いつたえがあるそうです。
井伊直弼の先祖が、白い猫に招き入れられたおかげで落雷を避け、法話を聞かせてもらえたことをよろこび、ここを井伊家の菩提寺としたとのこと。
ここでは「招福猫児(まねぎねこ)」というのだそうで、招猫観音(まねぎねこかんのん)への願いが成就したら、お礼に招福猫児を納めるのだそうです。
その招福猫児は、右手を挙げて小判は持たないんだそうです。
「先生、ハーイ!」の姿や、「みんなで不況を乗り切ろう、オーッ!」という姿にも見え、小判を持った猫が「お金をおいで、おいで!」している様子よりも、感情移入しやすいように感じられました。
追記として、滋賀県の彦根城のマスコットキャラクターである「ひこにゃん」のルーツは豪徳寺にあるんだそうです。
井伊家は近江彦根藩主(彦根城主)ですから、上述の「手招きする白猫の伝説」の著作権は彦根にあるとも言える訳で、それを元ネタに作られたキャラクターなんですって(他にネタが無いというか、単にネコを使いたかっただけとも)。
理由はどうであれ、人気が出ればしめたもので、彦根城では子どもたちの「ひこにゃ〜ん!」の歓声がすごいんですよ。
世田谷八幡宮(Map)
豪徳寺や世田谷線の宮の坂駅が近くにあるので、付近の歴史を整理します。
1091年が世田谷八幡宮の起源とされ、1366年に現在の豪徳寺の地に吉良氏(赤穂浪士で有名な吉良上野介の先祖)が城を構え、1480年に豪徳寺の前身となる弘徳院を開き、1945年に宮の坂駅が開業したとのこと(駅名はこの神社脇にある坂の名前に由来するそうです)。なんて、どうでも良かったか?
ここは、以前の鎌倉の項に登場した源義家(みなもとよしいえ:八幡太郎)が、東北遠征の帰途に戦勝のお礼として宇佐神宮(うさじんぐう:大分県)の分霊をまつったことを起源とするそうです。
上写真は、沖縄の闘牛場のような観客席を備えた相撲の土俵になります。
以前ここでは奉納相撲が行われ、その勝敗によって作物の豊作・凶作を占ったそうです。
現在でも毎年秋の例祭には、東京農業大学の相撲部が奉納相撲を行っているとのことです。
「季節感を大切にする」ことは、農大の本来の使命でもあると思えるので、「大根踊り(両手に大根を持つ踊り)」以外の収穫踊りも創作していただき、農業従事者を元気づけると共に「旬の食材」をアピールしてもらいたいとも思います。
下高井戸(Map)
4年間通った大学のキャンパスがある町なので、さまざまな思い出もあるはずなのですが、かなり自分の中で風化している(記憶が途切れているって、寂しすぎ?)ことに気付かされました(相棒とルームシェアしていたのはとなりの松原駅の近く)。
──もちろん、その場に立つことでよみがえってくる記憶も多々あります。
バカ騒ぎして周囲に迷惑を掛けたであろうことは自覚しているのですが、そんな時期を過ごさせてもらったことへの、感謝の気持ちを忘れないようにしなければ、という思いになりました。
もうわれわれの花見は終わっていて、中学の同級生の娘さんがこの大学に通っていると聞くような年代なわけですから、次世代のために花を育てなければいけないんですよね。
この駅前にも、市場と称するアーケードや小さな商店が密集している一画があります。
以前は迷路のようだったのですが、いまではそれも短くなりすぐに抜けてしまうと、ガラーンとした空き地が広がっていました。
ここも、もう風前のともしびなのかも知れません。大きな商業施設を作るほどの面積はありませんから、マンションか?
線路の反対側には以前、上述の三軒茶屋の映画館以上にボロボロな劇場がありました。上映中にネズミが走り回るし、トイレのニオイが客席まで漂ってくるような映画館で、大島渚の『愛のコリーダ』を観た覚えがあります。
さすがに建て替えて、上はマンションになりましたが、ビルの中で映画館はいまだに営業を続けていました。
時と共に利用者の要望も変わっていくわけですから、商売のやり方にも工夫が必要になってくるのだと思いますが、大切なのは「スピリット」であり、町を愛する気持ちであることを、感じさせられた気がします(学生は騒がしいが、住みやすい町ですもの)。
三軒茶屋も、下高井戸も、近い将来に大きな変革が押し寄せてくるように思われますが、その後に「キレイになったけど、昔と変わらないねぇ。また来るよ!」と言えるような変化であることを、期待しております。
──と書いていて「下北沢も変わっちゃう」ことを思い出したので、次回行ってみます。
※同窓会通信:「ちえ」「きくや」は健在、「アイアン」は消滅、以上。
──むかしよく通った飲み屋の消息です。
【東京都】
三軒茶屋(Map)
この町の印象とは、情報誌「ぴあ」がまだ月刊もしくは隔週刊だったのころの、写真もモノクロでペラペラだった雑誌を小脇に抱えて、映画館に通った思い出になるんだと思います。
映画館(中央劇場、三茶シネマの2館)は健在でしたが、よろこぶ前に「大丈夫なの?」と心配してしまいます(応援の気持ちはあるのですが)。
そんな頃ここは「二番館」ではなかったか?
二番館とは、大きな劇場でロードショウが終了後に、人気の下火になった作品を2〜3本立てで上映し、1本分の料金もしくは低価格で観ることができた映画館(写真の看板を見るといまも2本立てかも知れません)。
館内が汚かろうが、椅子が堅くてお尻が痛かろうが、内容がゴッチャになろうが、全部観終えるまで何時間も夢中になってかじり付いていました。
高校・大学時代の、映画に熱中していたころには、二番館や名画座によく通いましたし、映画館をハシゴすることが楽しかったこと、思い出されます。
それがいまや「近ごろの映画は長すぎる」なんて思っているんですから……
駅前の一等地に当たる地域ですから、不動産屋が上写真を見たら「まだ空が見えてる。後ろの空間で商売しろ」なんて話しになるのでしょうか。
その場所には下写真のような、むかしから変わらない飲み屋街や、エコー仲見世商店街が営業を続けています。
開発推進派ではないのですが、さすがにこの場所は、将来もずっとこのままで存続できるとは思えません。
ジワジワと包囲網が狭まっているようですが、どうせ再開発をするならば虫食い的ななし崩しではなく、都市計画をきちんと立てて進めてもらいたいと思います。
東急世田谷線は、田園都市線の三軒茶屋駅と、京王線の下高井戸駅間を5.0kmで結ぶ、専用軌道を走る路面電車です。
開業当時は玉川線(現田園都市線とほぼ同経路で渋谷〜二子玉川を結ぶ)の支線だったそうです。
玉川線本線は国道246号線を車と走る併用軌道(道路上に敷設された軌道)のため、首都高速道路の建設と、地下鉄建設に伴い廃線となりました(当時は銀座線を延長する計画だったそう)。
少し寄り道しますが、当初の田園都市線は大井町線直通だったので(大井町〜溝の口)、渋谷へは行けなかったそうです。
そういえば以前、渋谷〜二子玉川間の地下部分を「新玉川線」と呼んでいたことがありましたね。路面電車時代のなごりを残そうとしたようですが、2000年から現在の名称に統一されたそうです。
もどりますが、世田谷線の線路は専用軌道であることと、繁華街を結ぼうとする等のルート設定により自由曲線となってしまい、都市計画や道路整備等に組み込むことができずに、むかしのままに存続されているようです。
以前は前身緑色の、愛きょうのある都電風車両(江ノ電へ譲渡されたものもあるそう)だけだったのですが、新交通システム風な車体デザインの、カラーバリエーションが豊富な車両に変わっていました(9種あるそうです)。
何だか、ユニクロかベネトンの電車が走っているようにも思えたのですが、見慣れてないだけなんでしょうね。
ガキのころ、むかしから色分けをしていた井の頭(いのかしら)線では「○○色が来た」と喜び、旧型の緑色の車両(京王電鉄もむかしは緑色:決まりがあったのかも知れません)が来るとガッカリしたものです。
いまの子どもたちも、そんな風に楽しんでいるのかも知れません。
松陰神社(Map)
駅名にもなっているのでご存知の方も多いかと思われますが、訪れた人は多くないかも知れませんね。
松陰神社には、長州藩出身で幕末の思想家である吉田松陰がまつられています。
神社は、松陰の墓所のあるこの地と、生誕地である山口県萩市にあり、学問の神とされています。
松陰が「安政の大獄」で処刑された後、高杉晋作等の松陰門下生の手で、当時長州藩主の別邸があったこの地に改葬されたそうです。
上写真の建物には「松下村塾(しょうかそんじゅく)」の看板が掛けられていますが、上記の理由からレプリカになります(掛け軸の絵は松陰の姿)。
ですが、高杉晋作がこの地にやって来たことは事実のようです。現在の東京を歩いても、長州藩関連の史跡はあまり目にしない気もしますし、晋作の名前を懐かしく感じたりしました。
それも当然のようで、徳川幕府が長州征伐の際にこの地も壊されたそうです。
明治になって木戸孝允(きどたかよし)等の手で修復されたとき、徳川氏(篤姫の関連は不明)から奉納された水盤(右写真)が墓前に置かれてあります。
別の場所には寄進された石灯籠が並んでおり、一番手が元藩主の毛利家で、伊藤博文の名前が続きます。
吉田松陰と高杉晋作、伊藤博文は師弟関係であったのですが、伊藤博文にとって晋作とは戦場で命を預けた上官のような存在だったようで、直立不動の姿勢をとったと聞きます。
初代総理大臣となった伊藤博文ですが、師たちへの敬意は忘れなかったようです(好感度アップで、旧千円札が1050円くらいになったか?)。
門下生たちの尽力により、松陰さんもその後は静かに眠っておられることでしょう。
豪徳寺(ごうとくじ)(Map)
駅名は知っているのに訪れたことのない場所シリーズではないのですが、小田急線・世田谷線はかなり利用していながらも、ここは初めてかも知れません(現在利用している東横線の祐天寺も行ったことありません)。
ここには、幕末期の大老であった井伊直弼(いいなおすけ)の墓があります。
天皇の許しを得られぬまま、アメリカとの日米修好通商条約に調印し、将軍後継者も自らの裁量で決するなど、さまざまな方面から反発を受けるも、反対する者たちを弾圧した事件である「安政の大獄」を断行した人物です。
そのため「井伊の赤鬼」と憎まれ「桜田門外の変」にて暗殺されます。
わたしも「悪政者」的なイメージしか持ってなかったのですが、昨年の大河ドラマ「篤姫」では、思い入れが可能な人物像として描かれていて、新たな直弼像に接した思いがあり、見事な人物造形であると(篤姫が持つ包容力の表現であったとしても)、とても印象に残っています。
「安政の大獄」で処刑された吉田松陰と、それを命じた井伊直弼の墓がこれほど近くにあるというのは、史実からうかがえる開国を迫られた中での幕府 vs 倒幕勢力という対立軸や感情論ではなく、結果的には「ニッポンをどげんかせんといかん!」という「志」においては、近しい存在であったからなのかも知れません……
豪徳寺(曹洞宗)には「招き猫」発祥の地とする言いつたえがあるそうです。
井伊直弼の先祖が、白い猫に招き入れられたおかげで落雷を避け、法話を聞かせてもらえたことをよろこび、ここを井伊家の菩提寺としたとのこと。
ここでは「招福猫児(まねぎねこ)」というのだそうで、招猫観音(まねぎねこかんのん)への願いが成就したら、お礼に招福猫児を納めるのだそうです。
その招福猫児は、右手を挙げて小判は持たないんだそうです。
「先生、ハーイ!」の姿や、「みんなで不況を乗り切ろう、オーッ!」という姿にも見え、小判を持った猫が「お金をおいで、おいで!」している様子よりも、感情移入しやすいように感じられました。
追記として、滋賀県の彦根城のマスコットキャラクターである「ひこにゃん」のルーツは豪徳寺にあるんだそうです。
井伊家は近江彦根藩主(彦根城主)ですから、上述の「手招きする白猫の伝説」の著作権は彦根にあるとも言える訳で、それを元ネタに作られたキャラクターなんですって(他にネタが無いというか、単にネコを使いたかっただけとも)。
理由はどうであれ、人気が出ればしめたもので、彦根城では子どもたちの「ひこにゃ〜ん!」の歓声がすごいんですよ。
世田谷八幡宮(Map)
豪徳寺や世田谷線の宮の坂駅が近くにあるので、付近の歴史を整理します。
1091年が世田谷八幡宮の起源とされ、1366年に現在の豪徳寺の地に吉良氏(赤穂浪士で有名な吉良上野介の先祖)が城を構え、1480年に豪徳寺の前身となる弘徳院を開き、1945年に宮の坂駅が開業したとのこと(駅名はこの神社脇にある坂の名前に由来するそうです)。なんて、どうでも良かったか?
ここは、以前の鎌倉の項に登場した源義家(みなもとよしいえ:八幡太郎)が、東北遠征の帰途に戦勝のお礼として宇佐神宮(うさじんぐう:大分県)の分霊をまつったことを起源とするそうです。
上写真は、沖縄の闘牛場のような観客席を備えた相撲の土俵になります。
以前ここでは奉納相撲が行われ、その勝敗によって作物の豊作・凶作を占ったそうです。
現在でも毎年秋の例祭には、東京農業大学の相撲部が奉納相撲を行っているとのことです。
「季節感を大切にする」ことは、農大の本来の使命でもあると思えるので、「大根踊り(両手に大根を持つ踊り)」以外の収穫踊りも創作していただき、農業従事者を元気づけると共に「旬の食材」をアピールしてもらいたいとも思います。
下高井戸(Map)
4年間通った大学のキャンパスがある町なので、さまざまな思い出もあるはずなのですが、かなり自分の中で風化している(記憶が途切れているって、寂しすぎ?)ことに気付かされました(相棒とルームシェアしていたのはとなりの松原駅の近く)。
──もちろん、その場に立つことでよみがえってくる記憶も多々あります。
バカ騒ぎして周囲に迷惑を掛けたであろうことは自覚しているのですが、そんな時期を過ごさせてもらったことへの、感謝の気持ちを忘れないようにしなければ、という思いになりました。
もうわれわれの花見は終わっていて、中学の同級生の娘さんがこの大学に通っていると聞くような年代なわけですから、次世代のために花を育てなければいけないんですよね。
この駅前にも、市場と称するアーケードや小さな商店が密集している一画があります。
以前は迷路のようだったのですが、いまではそれも短くなりすぐに抜けてしまうと、ガラーンとした空き地が広がっていました。
ここも、もう風前のともしびなのかも知れません。大きな商業施設を作るほどの面積はありませんから、マンションか?
線路の反対側には以前、上述の三軒茶屋の映画館以上にボロボロな劇場がありました。上映中にネズミが走り回るし、トイレのニオイが客席まで漂ってくるような映画館で、大島渚の『愛のコリーダ』を観た覚えがあります。
さすがに建て替えて、上はマンションになりましたが、ビルの中で映画館はいまだに営業を続けていました。
時と共に利用者の要望も変わっていくわけですから、商売のやり方にも工夫が必要になってくるのだと思いますが、大切なのは「スピリット」であり、町を愛する気持ちであることを、感じさせられた気がします(学生は騒がしいが、住みやすい町ですもの)。
三軒茶屋も、下高井戸も、近い将来に大きな変革が押し寄せてくるように思われますが、その後に「キレイになったけど、昔と変わらないねぇ。また来るよ!」と言えるような変化であることを、期待しております。
──と書いていて「下北沢も変わっちゃう」ことを思い出したので、次回行ってみます。
※同窓会通信:「ちえ」「きくや」は健在、「アイアン」は消滅、以上。
──むかしよく通った飲み屋の消息です。
2009/04/11
花見にかこつけて──小金井公園、井の頭公園
2009.4.5
【東京都】
小金井公園(Map)
以前、花小金井(小平市)で暮らしたことがあり、そのころに訪れた小金井公園の桜のインパクトが忘れられずにおり、ようやく再訪がかないました。
ここは都立公園では最大規模の敷地だそうで(立川の昭和記念公園は国営)、砧(きぬた)公園と同じく紀元2600年記念事業(1940年:昭和15年 神武天皇即位紀元2600年を祝う行事)で計画された「小金井大緑地」が始まりとなるそうです。
桜と並びインパクトのあるのが「ツツジ山」で、小高い丘を花が埋め尽くす光景は見事です(見頃は数ヶ月後)。
当時は「それで地名を花小金井にしたのか」なんて思っていました。
テポドンが上空を通過しようが(この日でした)、近眼の日本人(?)の焦点は桜の花に合わせられており、上空を見上げても「雲ひとつない日本晴れ」と、「くしゃみ」か「あくび」をしていたのではあるまいか。
意図的に日曜日を狙ったのですが、まさしく「桜の満開の下の狂宴」が繰り広げられていました。
花の下は巨大な宴会場で、飲んで、食って、騒いで、酔っぱらってしまえばホコリっぽさなどは気にせずに、高いびきです。
お花見で騒がなくなって以来、そんな人込みに近寄らなくなりましたが、写真を撮るためには群衆の中に入る必要があります。
人物観察を目的にすることで、我慢できるようになってきたようです。
ここは東京都の管理する公園施設で、イベントを主催しているためかゴミ捨て場にも担当者がいて、量が多いので山積みになってますがきちんとまとめられています。
宣伝するわけではありませんが、これならゴミの心配もせずに安心して飲めるというものです。
品は悪くないと思うのですが、比較対象は上野公園であること自体が怪しく、結局「どこも一緒かぁ?」となって、「飲まなきゃソンソン!」という分かり切った落ちになってしまいます……
まだ花の盛りなのに、花びらで散るのではなく、花の形のまま地面に落ちているものを見かけたことはないでしょうか?
TVで見たのですが、あれはスズメが、がくの部分から切り取って裏側からミツを吸ったものが落ちているようです(子どものころツツジなどのミツを吸った要領)。
一般的に花というものは「甘いミツ」でミツバチ、虫、鳥などを呼び寄せ、受粉の手助けをしてもらうわけですから、これでは桜も迷惑であろうと調べてみると「ソメイヨシノは受粉して種ができてもそこから発芽はしない」とありました。
それは、エドヒガンとオオシマザクラの交配から生みだされた園芸品種なので、増やすためには人の手で接木(つぎき)や挿し木する必要があるからだそうです。
でも、手間のかかる品種が何で全国的に広まっているのかというと、江戸時代末期に育成され、当時から若木でも花をつけることが好まれたらしく、明るさが求められていた戦後の焼け跡にこぞって植えられたことで、全国区となったんだそうです。
戦前のことであれば、また大日本帝国の策略かと疑いの目で見たかも知れませんが、戦後の希望の象徴であると聞けば、より一層愛着が増してくる気がします。
しかしこれは、人の手によって作られた品種で、元をたどれば「最初のソメイヨシノのクローン」とも言えるわけです。
どうも、クローンという言葉の響きって好きになれません……
敷地内には「江戸東京たてもの園」という、レトロな建造物を集めた施設があります。
むかしは「なんだぁ〜」程度の規模だったのですが、かなりの存在感になっていました。
以前、千住にあったという銭湯が保存されているのにビックリ(価値の高い建造物だそうです)。銭湯が博物館入りする時代なんですねぇ。
いくら保存建造物であっても、習性として男湯に入りますよね?
これまた習性として、センターミラー(番台前の仕切りにある大きな鏡)越しに聞こえるにぎやかな声が気になり、番台前の扉を開いてみたい衝動に駆られたりしますよね? そこを通ってきました。
その扉の向こうでは、もちろん服を着た女の子たちが走り回っていました。
そして番台に上がりたい願望を持つ男子も多いんですよね? それはNGで、上がれないようになってました……
まだ明るいうちから、お父さんが子どもに「夜桜もあるから、まだ長いぞ〜」と。
元気というか、これが桜満開の効能でテンション上がるのでしょうが、お父さんの方が夜更かしを楽しんでいるようです。
明日は月曜日ですよ〜!
ここはなじみのある場所なので気軽な印象があるものの、最寄り駅(西武新宿線 花小金井、中央線 武蔵小金井)から結構遠かったりします……
2009.4.7
井の頭(いのかしら)公園(Map)
久しぶりです。「花見」という理由にかこつけて、昔なじみだった店の扉を開けた、という印象でしょうか。
ここはテレビドラマ「俺たちの旅」(中村雅俊は五十嵐淳子、田中健は古手川祐子ですが離婚、秋野太作は一時太地喜和子と結婚してたんですって! 金沢碧さんのサインいまでも持ってます。なんてタイムトリップしてしまいます)の舞台となっており、そんな世界にあこがれたこともあり、学生時代によく遊びに来ましたし、野郎同士の共同生活(先斗町で飲んだヤツと松原で、いまどきのルームシェア)をしてました。ちなみに、アパートの隣の部屋も、美容師修行中の野郎2人の共同生活でした。
上写真は、ドラマのタイトルバックにも出てきた井の頭公園駅脇の鉄橋で、当時は太鼓橋的な構造物だったのですが耐震補強のためでしょうか、その空洞部分がコンクリートで埋められていました。
おかげでテニスの壁打ちがしやすくなり(これもタイトルバックの絵にありました)、この日は子どもたちがやっていました。
そんな残像も薄れてきたこのごろですが、中村雅俊の長男が大麻所持で逮捕され、人もうらやむ夫婦と言われながら、幻想が崩れ落ちてゆく団塊世代の実態を目にしても、あまり驚かないのが昨今の社会のようです(そんな話しが多すぎます)。
東京の山の手といわれる地域には、武蔵野台地といわれる平坦面が広がっていますが(皇居や上野公園もその高台にあるそうです)、川の浸食などで削られた場所(崖線:がいせん)付近では、その斜面から湧水がよく見られます。
国分寺や等々力渓谷などで顕著ですが、赤坂、渋谷のような「傾斜地」を想起させる地名の場所でも、以前には湧水があったことと思われます(明治神宮には現在も湧水があります)。
ここは吉祥寺の駅側から見ると少しくぼんだ場所になり、むかしから「七井の池」と呼ばれる湧き水の豊かな地だったそうです。
その水を江戸市中で利用しようと、神田上水が作られ現在の神田川となっています。
銭湯が博物館入りでは、かぐや姫の「神田川」(小さな石鹸 カタカタ鳴った)の情景も、完全に「懐メロ」の世界になってしまいます……(ジジイになったということです)
ここには「井の頭自然文化園」という都立動物園が隣接しています。
高校時代の同級生が女の子に「井の頭動物園に行こうよ」と誘っていたことを、とてもやり手と感じたことがあり(イケメンじゃないんだけど)「そんな情報を仕入れなければ!」なんて考えたことを思い出しました。
いまとなってみれば、近所の子ども連れが陽気のいい日に、散歩に出かけるような施設なのですが、当時は「どんな場所なんだろう?」と興味津々だったんでしょうね。
吉祥寺の町も久しぶりに歩きました。
大きく・小さく変わった場所はありますが、基本は変わらない印象でした。
公園そばにある、やきとりの「いせや」はビルになっていましたが、これものれんを守るための方策なのでしょう。
駅前の「ハモニカ横町」は健在で「サトウのメンチカツ」の行列が相変わらず町の風景であることに、昔にタイムスリップしたような錯覚すら覚えます。
この地は、学生時代だけではなく、上記の花小金井在住時にもよく来ていたことを、町を歩くにつれて思い出してきました。
「ココ、昔からあった!」と、吸い寄せられるように入った店でオムライスをいただきました。手の込んだ「大人の味」でした。
狭くて、ゴミゴミして、オシャレで、若者も多いのですが、渋谷などと違って「ガキ向け」ではない、むかしから「大人の町」だったからこそ、足しげく通っていたであろうことを再確認できました。
現在の住まいからはちと遠いんですが、機会があればまた通いたいという気持ちが高まってきました。
「いせや」の焼き鳥で一杯、行きませんか?
●おまけ ジブリ美術館
この日は休館日でしたが、ここは完全予約制らしいのでどちらにしても入場はできません。
ロボット兵(『天空の城ラピュタ』に登場)には花が似合と思うので、もう少し飾ってあげてもいいと思いますが、まだ季節が早いのかも知れません。
バス通りに面しているのではなく、森の中にあって欲しかった気もします。
【東京都】
小金井公園(Map)
以前、花小金井(小平市)で暮らしたことがあり、そのころに訪れた小金井公園の桜のインパクトが忘れられずにおり、ようやく再訪がかないました。
ここは都立公園では最大規模の敷地だそうで(立川の昭和記念公園は国営)、砧(きぬた)公園と同じく紀元2600年記念事業(1940年:昭和15年 神武天皇即位紀元2600年を祝う行事)で計画された「小金井大緑地」が始まりとなるそうです。
桜と並びインパクトのあるのが「ツツジ山」で、小高い丘を花が埋め尽くす光景は見事です(見頃は数ヶ月後)。
当時は「それで地名を花小金井にしたのか」なんて思っていました。
テポドンが上空を通過しようが(この日でした)、近眼の日本人(?)の焦点は桜の花に合わせられており、上空を見上げても「雲ひとつない日本晴れ」と、「くしゃみ」か「あくび」をしていたのではあるまいか。
意図的に日曜日を狙ったのですが、まさしく「桜の満開の下の狂宴」が繰り広げられていました。
花の下は巨大な宴会場で、飲んで、食って、騒いで、酔っぱらってしまえばホコリっぽさなどは気にせずに、高いびきです。
お花見で騒がなくなって以来、そんな人込みに近寄らなくなりましたが、写真を撮るためには群衆の中に入る必要があります。
人物観察を目的にすることで、我慢できるようになってきたようです。
ここは東京都の管理する公園施設で、イベントを主催しているためかゴミ捨て場にも担当者がいて、量が多いので山積みになってますがきちんとまとめられています。
宣伝するわけではありませんが、これならゴミの心配もせずに安心して飲めるというものです。
品は悪くないと思うのですが、比較対象は上野公園であること自体が怪しく、結局「どこも一緒かぁ?」となって、「飲まなきゃソンソン!」という分かり切った落ちになってしまいます……
まだ花の盛りなのに、花びらで散るのではなく、花の形のまま地面に落ちているものを見かけたことはないでしょうか?
TVで見たのですが、あれはスズメが、がくの部分から切り取って裏側からミツを吸ったものが落ちているようです(子どものころツツジなどのミツを吸った要領)。
一般的に花というものは「甘いミツ」でミツバチ、虫、鳥などを呼び寄せ、受粉の手助けをしてもらうわけですから、これでは桜も迷惑であろうと調べてみると「ソメイヨシノは受粉して種ができてもそこから発芽はしない」とありました。
それは、エドヒガンとオオシマザクラの交配から生みだされた園芸品種なので、増やすためには人の手で接木(つぎき)や挿し木する必要があるからだそうです。
でも、手間のかかる品種が何で全国的に広まっているのかというと、江戸時代末期に育成され、当時から若木でも花をつけることが好まれたらしく、明るさが求められていた戦後の焼け跡にこぞって植えられたことで、全国区となったんだそうです。
戦前のことであれば、また大日本帝国の策略かと疑いの目で見たかも知れませんが、戦後の希望の象徴であると聞けば、より一層愛着が増してくる気がします。
しかしこれは、人の手によって作られた品種で、元をたどれば「最初のソメイヨシノのクローン」とも言えるわけです。
どうも、クローンという言葉の響きって好きになれません……
敷地内には「江戸東京たてもの園」という、レトロな建造物を集めた施設があります。
むかしは「なんだぁ〜」程度の規模だったのですが、かなりの存在感になっていました。
以前、千住にあったという銭湯が保存されているのにビックリ(価値の高い建造物だそうです)。銭湯が博物館入りする時代なんですねぇ。
いくら保存建造物であっても、習性として男湯に入りますよね?
これまた習性として、センターミラー(番台前の仕切りにある大きな鏡)越しに聞こえるにぎやかな声が気になり、番台前の扉を開いてみたい衝動に駆られたりしますよね? そこを通ってきました。
その扉の向こうでは、もちろん服を着た女の子たちが走り回っていました。
そして番台に上がりたい願望を持つ男子も多いんですよね? それはNGで、上がれないようになってました……
まだ明るいうちから、お父さんが子どもに「夜桜もあるから、まだ長いぞ〜」と。
元気というか、これが桜満開の効能でテンション上がるのでしょうが、お父さんの方が夜更かしを楽しんでいるようです。
明日は月曜日ですよ〜!
ここはなじみのある場所なので気軽な印象があるものの、最寄り駅(西武新宿線 花小金井、中央線 武蔵小金井)から結構遠かったりします……
2009.4.7
井の頭(いのかしら)公園(Map)
久しぶりです。「花見」という理由にかこつけて、昔なじみだった店の扉を開けた、という印象でしょうか。
ここはテレビドラマ「俺たちの旅」(中村雅俊は五十嵐淳子、田中健は古手川祐子ですが離婚、秋野太作は一時太地喜和子と結婚してたんですって! 金沢碧さんのサインいまでも持ってます。なんてタイムトリップしてしまいます)の舞台となっており、そんな世界にあこがれたこともあり、学生時代によく遊びに来ましたし、野郎同士の共同生活(先斗町で飲んだヤツと松原で、いまどきのルームシェア)をしてました。ちなみに、アパートの隣の部屋も、美容師修行中の野郎2人の共同生活でした。
上写真は、ドラマのタイトルバックにも出てきた井の頭公園駅脇の鉄橋で、当時は太鼓橋的な構造物だったのですが耐震補強のためでしょうか、その空洞部分がコンクリートで埋められていました。
おかげでテニスの壁打ちがしやすくなり(これもタイトルバックの絵にありました)、この日は子どもたちがやっていました。
そんな残像も薄れてきたこのごろですが、中村雅俊の長男が大麻所持で逮捕され、人もうらやむ夫婦と言われながら、幻想が崩れ落ちてゆく団塊世代の実態を目にしても、あまり驚かないのが昨今の社会のようです(そんな話しが多すぎます)。
東京の山の手といわれる地域には、武蔵野台地といわれる平坦面が広がっていますが(皇居や上野公園もその高台にあるそうです)、川の浸食などで削られた場所(崖線:がいせん)付近では、その斜面から湧水がよく見られます。
国分寺や等々力渓谷などで顕著ですが、赤坂、渋谷のような「傾斜地」を想起させる地名の場所でも、以前には湧水があったことと思われます(明治神宮には現在も湧水があります)。
ここは吉祥寺の駅側から見ると少しくぼんだ場所になり、むかしから「七井の池」と呼ばれる湧き水の豊かな地だったそうです。
その水を江戸市中で利用しようと、神田上水が作られ現在の神田川となっています。
銭湯が博物館入りでは、かぐや姫の「神田川」(小さな石鹸 カタカタ鳴った)の情景も、完全に「懐メロ」の世界になってしまいます……(ジジイになったということです)
ここには「井の頭自然文化園」という都立動物園が隣接しています。
高校時代の同級生が女の子に「井の頭動物園に行こうよ」と誘っていたことを、とてもやり手と感じたことがあり(イケメンじゃないんだけど)「そんな情報を仕入れなければ!」なんて考えたことを思い出しました。
いまとなってみれば、近所の子ども連れが陽気のいい日に、散歩に出かけるような施設なのですが、当時は「どんな場所なんだろう?」と興味津々だったんでしょうね。
吉祥寺の町も久しぶりに歩きました。
大きく・小さく変わった場所はありますが、基本は変わらない印象でした。
公園そばにある、やきとりの「いせや」はビルになっていましたが、これものれんを守るための方策なのでしょう。
駅前の「ハモニカ横町」は健在で「サトウのメンチカツ」の行列が相変わらず町の風景であることに、昔にタイムスリップしたような錯覚すら覚えます。
この地は、学生時代だけではなく、上記の花小金井在住時にもよく来ていたことを、町を歩くにつれて思い出してきました。
「ココ、昔からあった!」と、吸い寄せられるように入った店でオムライスをいただきました。手の込んだ「大人の味」でした。
狭くて、ゴミゴミして、オシャレで、若者も多いのですが、渋谷などと違って「ガキ向け」ではない、むかしから「大人の町」だったからこそ、足しげく通っていたであろうことを再確認できました。
現在の住まいからはちと遠いんですが、機会があればまた通いたいという気持ちが高まってきました。
「いせや」の焼き鳥で一杯、行きませんか?
●おまけ ジブリ美術館
この日は休館日でしたが、ここは完全予約制らしいのでどちらにしても入場はできません。
ロボット兵(『天空の城ラピュタ』に登場)には花が似合と思うので、もう少し飾ってあげてもいいと思いますが、まだ季節が早いのかも知れません。
バス通りに面しているのではなく、森の中にあって欲しかった気もします。
2009/04/07
春を実感する時──馬事公苑、千鳥ヶ淵
2009.4.2_3
【東京都】
花見というと、どうも気がはやったり、前のめりになりがちで、まだ咲いてもいない3月末の寒い中「決行!」された方もいたのではないでしょうか?
早い分には「飲み直し」も可能ですが、散ってしまえば「後の祭り」ですから、飲む理由が無くなってしまうことへの「焦り」のようにも思われます。
わたしたちの「春の季節感」とは、突然気温が20度を超える日があったり、「今年は気温の高い日が続き桜の開花が早まりそう……」によって、フライングする人はいたとしても「桜が満開になりました」の絵を見ないことには、実感できない方が多いのではないでしょうか。
昼間の気温が15度前後となる季節ですから、縮こまっていた心身が自然体に戻ることを体感できるのは確かです。
桜の花粉には「興奮剤」のような成分が含まれていると聞きましたが、わたしたちはそれを吸い込むことで覚醒し「春の訪れ」を実感する民族なのかも知れません(花粉症の方はどうなのでしょうか?)。
音楽業界はずいぶん前から「満開」のようで、「柳の下にドジョウは何匹いる?」の皮算用というか、「桜の下にしかドジョウはいない」と考えているようで「さくら〜♪」ソングオンパレードの節操の無さにはあきれてしまいます。
でも、明るい季節感を盛り上げてくれるのであれば、それに乗っかりましょうか? 春ですし……
馬事公苑(Map)
この日はとても風が強かったせいか、苑内に入る前から「ムムッ?」という香りが漂ってきます。
それは当然のこととしても、周辺には結構高級そうなマンションが並んでおり(高さ制限があるようで高層ビルはありません。もちろん買えませんがこの落ち着いた高級感はいいなぁ)そこにも漂っていると思われます。
馬による異臭を受け入れられるのであれば、馬以外にも広げられる可能性があるように思われます(ニワトリや豚はちとキツそう……)。
高級住宅街ではありますが工夫をすれば、方程式のような「空き地=マンション」以外の活用方法も見いだせるのではないか? と思ったりします。
この施設は、1940年東京オリンピック(戦争のため中止となったが、1964年の東京オリンピックで使用された)の馬術競技場として作られたそうで、周囲にはJRA(日本中央競馬会)の施設や職員住宅などがあります。
小田急線と田園都市線の中間あたりに位置しており、交通の不便な場所で東京農業大学が隣接しており、造営当時は大学の農場? のような光景ではなかったかと思われます。
──「昔の世田谷はタヌキの出るようなところ」との話しを、父方の伯母からよく聞かされていました。
外周の馬場はそのまま残されていて、歩行者は馬に気をつけてコースを渡ることになります。
その内側は障害レース用のコースになっていますが、普段は使用されないようで「子ども障害レース」で自由に走り回ったり、草の上に座り込みお弁当を広げる団体が散在しています。
座り込んだり、砂まみれになるのは勝手なんですけど、お馬さんはどこでも排泄しますからね。
きっと、マイルドに漂う香りに慣れてしまい、気にならなくなっているのかも知れません……
東京の市街地で馬の世話をすることに対して、周囲から好意的に受け止められていると思えることには、少し驚きました。
大学のサークルなどが練習しており、とても楽しそうに見え、久しぶりに乗りたい気分が高まったのですが、はて、ここで馬に乗るためにはどれくらいの費用がかかるのだろうか?
ここでは乗れないにしても、乗馬に関する夢として「クロスカントリーを駆けたいなぁ」という気持ちは現在も抱いています。
キョロキョロ景色を見ちゃうので、振り落とされそうですが……
上写真は「グラスアリーナ」という馬場なんですが、芝生の上からローラーをかけています。芝の手入れには、地面をならす作業も必要なんですね(芝を鍛えている?)。
競馬場の広大な芝コースも同様の整備が必要だとしたら、どれだけの労力がかかるのだろうか、想像すらできません……
もの凄く鮮やかなグリーンだったんですが、あまりキレイに撮れませんでした。機会があったら実際見てください「グリーングラス」(そんな競走馬いましたよね?)そのものでした。
砧(きぬた)公園(Map)
「世田谷に お花見行ったら みちのく参り」
何の宣伝文句かといえば、砧公園に隣接する世田谷美術館で開かれている「平泉 展」のバンフレットに載っていました。
これまでも、世田谷美術館には数多く行っている印象があったのですが、ふり返ってみると「ちょうどいいから花見のついでに行こう」というパターンが多かったことに気付きました。まさしく、企画者の思うつぼです。
「毎度ありがとうございます」の声が聞こえてくるようだと、今回初めて感じました……
平泉中尊寺は天台宗のお寺(比叡山延暦寺の最澄の教え)だそうです。
中尊寺と言えば金色堂が有名ですが、中尊寺経(一切経)というお経の巻物も金・銀で書かれています(そこで用いられた金銀は、権威の象徴ではなく仏への帰依の意思表示)。
自主独立の道を歩むことを目指したからなのか、仏像の表情や様式などからは、京都・奈良であまり目にしない素朴さが感じられました。
極楽浄土を描いたという庭園や風土などから、これまで出会ったことのない文化が感じられるのではないかと、平泉に行ってみたくなりました。
それこそ企画者の思うつぼですね……
この公園は以前ゴルフ場だったそうで、現在でもゴルフコースだったころをイメージできる場所があります。
そんなことを書こうと調べていたら「紀元2600年記念事業(1940年:昭和15年 神武天皇即位紀元2600年を祝う行事)として作られた大緑地」という記述を目にしました。
第二次世界大戦開戦の前年ですから「国威発揚」や「国体」の引き締めを徹底させるための行事だったようです(勝鬨橋はこの時作られたそうです)。
ちょうどそんな頃「贅沢は敵だ」などのスローガンが掲げられたそうです。
いまでは、よその国の上空を通過するミサイルを打ち上げた国のことを想起しますが、日本もかつてはそんな「身勝手な国」だったことを、忘れないようにしないと……
千鳥ヶ淵(Map)
季節を表す二十四節気(にじゅうしせっき)のひとつに「啓蟄(けいちつ:3月6日ごろ。冬ごもりしていた虫等が地面から出てくる季節)」がありますが、人が陽気に誘われて表を散歩し始めるのが、お花見の時期だと思われます。
この日は平日だったこともあり、お年を召した方が多く、お彼岸? の印象がありました。
人間向けの「啓蟄」に当たる季節の名称も必要なのでは? と思うも、その次はご存知の「春分」、その次が「清明(せいめい:花が開き万物が美しい季節)」となり4月5日ごろで、中国ではお墓参りの日に当たるそうです。
──昨年沖縄で遭遇した「清明祭(しーみー:お墓の前で一族が食事をする)」は、そこから来ているんですね。
お彼岸に墓参りをするのは日本独自の風習なんだそうです。
浄土思想の「極楽浄土は西方の遙か彼方にある」という教えから、春分・秋分に真東から昇り、真西に沈む太陽を礼拝して、ご先祖のいる極楽浄土(西方)に思いをはせるという習わしが定着したんだそうです。
「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉はとても納得できるのでよく使いますし、昼と夜の長さが同じころの季節感は、精神・肉体的にもとても重要であるように思えます。
でも、リタイアされた方々がみずからの意志で「外に出てみようか」と思うのはお花見の時期でしょうから、お墓参りも中国や沖縄に倣ってこの時期にしてもいいのではないか、と思ったりもします。
そんな違いを知ると、出無精になったお年寄りに対して「少し寒くても、お彼岸なんだから表に出てきなさい」と尻をたたくようにも思え、日本って厳しい国なのかも……
いざ表に出てみれば「テレビで満開なんて言うから人が出ちゃうんだよ」という人の多さ等、都会では外出をためらう理由が他にも多いことは事実です。
新宿御苑(Map)
上写真左に見える赤・白・ピンクの花は、同じ幹から伸びた枝に咲いています。
ハナモモという観賞用に改良された桃で、赤(平氏)と白(源氏)が同じ幹で競い合うように3色(ピンクは中間)を咲かせることから「源平桃」とも言われるそうです。
その年の気候等によって赤白の色味の強弱が変化するそうで、年ごとに楽しめるんだそうです。
キミたちサッカーに熱中してるけど、WBCはもう忘れちゃったの?(野球をやっている子どもたちもいます)
切り替えの遅いおっさんは、何だか惰性でナイター中継見ちゃってるんですけど……
新宿という場所柄でしょうか、子ども連れや海外の人が多く、そのせいか「happy spring day」という楽天的な明るさが感じられます。
ご想像通りの混雑ぶりですが、敷地が広いので開放感は得られると思います。
新宿の追記として、「末広亭」(落語の寄席)の前には、昼の部をやっているころから人だかりができていました。
末広亭の前に並ぶ行列を見たのは初めてかも知れません。近ごろの落語人気ってスゴイんですね、驚きました……(隣にある洋食屋「あづま」も健在で、以前はよくビフテキをいただきました)
地下鉄副都心線が開業した新宿三丁目駅付近の地下道が、ガラッとモダンに変わっていて驚きました。
何度も通っている場所なのに、迷い人となりそうなリニューアルです(写真だけ見せられたら分からないと思う)。
決していいイメージのなかった「新宿の地下道」も、チェンジが必要ということですね。
お上に近しい印象のある、千鳥ヶ淵と新宿御苑を比較して思い至ったのは、千鳥ヶ淵で感じた「お彼岸感」というものは錯覚ではなく、靖国神社や戦没者墓苑等に眠るとされる方々に対して、お上からたむけられた(仕向けられた)追想場の「祭壇の花」なのかも知れない、ということです。
戦争当時は軍用地だった北の丸公園を含む一帯を、どのように平和活用すべきかと思案した結論だったのではあるまいか?
付近の桜は、戦没者供養のために国の支援を受けて守られているのではあるまいか?(現在のあり方を批判するものではありません)
ボート乗り場では「1時間待ちです」の行列に並ぶ人が絶えないこと(にぎやかな場であること)を、近くに眠るとされる方々もよろこんでいると考え、遺族等の関係者が少なくなるこれから先も人が集まる場所であって欲しい、という意志とも受け止められます。
現在ではそこまで考えているとしても、後から付け足したんだろうなぁ……
【東京都】
花見というと、どうも気がはやったり、前のめりになりがちで、まだ咲いてもいない3月末の寒い中「決行!」された方もいたのではないでしょうか?
早い分には「飲み直し」も可能ですが、散ってしまえば「後の祭り」ですから、飲む理由が無くなってしまうことへの「焦り」のようにも思われます。
わたしたちの「春の季節感」とは、突然気温が20度を超える日があったり、「今年は気温の高い日が続き桜の開花が早まりそう……」によって、フライングする人はいたとしても「桜が満開になりました」の絵を見ないことには、実感できない方が多いのではないでしょうか。
昼間の気温が15度前後となる季節ですから、縮こまっていた心身が自然体に戻ることを体感できるのは確かです。
桜の花粉には「興奮剤」のような成分が含まれていると聞きましたが、わたしたちはそれを吸い込むことで覚醒し「春の訪れ」を実感する民族なのかも知れません(花粉症の方はどうなのでしょうか?)。
音楽業界はずいぶん前から「満開」のようで、「柳の下にドジョウは何匹いる?」の皮算用というか、「桜の下にしかドジョウはいない」と考えているようで「さくら〜♪」ソングオンパレードの節操の無さにはあきれてしまいます。
でも、明るい季節感を盛り上げてくれるのであれば、それに乗っかりましょうか? 春ですし……
馬事公苑(Map)
この日はとても風が強かったせいか、苑内に入る前から「ムムッ?」という香りが漂ってきます。
それは当然のこととしても、周辺には結構高級そうなマンションが並んでおり(高さ制限があるようで高層ビルはありません。もちろん買えませんがこの落ち着いた高級感はいいなぁ)そこにも漂っていると思われます。
馬による異臭を受け入れられるのであれば、馬以外にも広げられる可能性があるように思われます(ニワトリや豚はちとキツそう……)。
高級住宅街ではありますが工夫をすれば、方程式のような「空き地=マンション」以外の活用方法も見いだせるのではないか? と思ったりします。
この施設は、1940年東京オリンピック(戦争のため中止となったが、1964年の東京オリンピックで使用された)の馬術競技場として作られたそうで、周囲にはJRA(日本中央競馬会)の施設や職員住宅などがあります。
小田急線と田園都市線の中間あたりに位置しており、交通の不便な場所で東京農業大学が隣接しており、造営当時は大学の農場? のような光景ではなかったかと思われます。
──「昔の世田谷はタヌキの出るようなところ」との話しを、父方の伯母からよく聞かされていました。
外周の馬場はそのまま残されていて、歩行者は馬に気をつけてコースを渡ることになります。
その内側は障害レース用のコースになっていますが、普段は使用されないようで「子ども障害レース」で自由に走り回ったり、草の上に座り込みお弁当を広げる団体が散在しています。
座り込んだり、砂まみれになるのは勝手なんですけど、お馬さんはどこでも排泄しますからね。
きっと、マイルドに漂う香りに慣れてしまい、気にならなくなっているのかも知れません……
東京の市街地で馬の世話をすることに対して、周囲から好意的に受け止められていると思えることには、少し驚きました。
大学のサークルなどが練習しており、とても楽しそうに見え、久しぶりに乗りたい気分が高まったのですが、はて、ここで馬に乗るためにはどれくらいの費用がかかるのだろうか?
ここでは乗れないにしても、乗馬に関する夢として「クロスカントリーを駆けたいなぁ」という気持ちは現在も抱いています。
キョロキョロ景色を見ちゃうので、振り落とされそうですが……
上写真は「グラスアリーナ」という馬場なんですが、芝生の上からローラーをかけています。芝の手入れには、地面をならす作業も必要なんですね(芝を鍛えている?)。
競馬場の広大な芝コースも同様の整備が必要だとしたら、どれだけの労力がかかるのだろうか、想像すらできません……
もの凄く鮮やかなグリーンだったんですが、あまりキレイに撮れませんでした。機会があったら実際見てください「グリーングラス」(そんな競走馬いましたよね?)そのものでした。
砧(きぬた)公園(Map)
「世田谷に お花見行ったら みちのく参り」
何の宣伝文句かといえば、砧公園に隣接する世田谷美術館で開かれている「平泉 展」のバンフレットに載っていました。
これまでも、世田谷美術館には数多く行っている印象があったのですが、ふり返ってみると「ちょうどいいから花見のついでに行こう」というパターンが多かったことに気付きました。まさしく、企画者の思うつぼです。
「毎度ありがとうございます」の声が聞こえてくるようだと、今回初めて感じました……
平泉中尊寺は天台宗のお寺(比叡山延暦寺の最澄の教え)だそうです。
中尊寺と言えば金色堂が有名ですが、中尊寺経(一切経)というお経の巻物も金・銀で書かれています(そこで用いられた金銀は、権威の象徴ではなく仏への帰依の意思表示)。
自主独立の道を歩むことを目指したからなのか、仏像の表情や様式などからは、京都・奈良であまり目にしない素朴さが感じられました。
極楽浄土を描いたという庭園や風土などから、これまで出会ったことのない文化が感じられるのではないかと、平泉に行ってみたくなりました。
それこそ企画者の思うつぼですね……
この公園は以前ゴルフ場だったそうで、現在でもゴルフコースだったころをイメージできる場所があります。
そんなことを書こうと調べていたら「紀元2600年記念事業(1940年:昭和15年 神武天皇即位紀元2600年を祝う行事)として作られた大緑地」という記述を目にしました。
第二次世界大戦開戦の前年ですから「国威発揚」や「国体」の引き締めを徹底させるための行事だったようです(勝鬨橋はこの時作られたそうです)。
ちょうどそんな頃「贅沢は敵だ」などのスローガンが掲げられたそうです。
いまでは、よその国の上空を通過するミサイルを打ち上げた国のことを想起しますが、日本もかつてはそんな「身勝手な国」だったことを、忘れないようにしないと……
千鳥ヶ淵(Map)
季節を表す二十四節気(にじゅうしせっき)のひとつに「啓蟄(けいちつ:3月6日ごろ。冬ごもりしていた虫等が地面から出てくる季節)」がありますが、人が陽気に誘われて表を散歩し始めるのが、お花見の時期だと思われます。
この日は平日だったこともあり、お年を召した方が多く、お彼岸? の印象がありました。
人間向けの「啓蟄」に当たる季節の名称も必要なのでは? と思うも、その次はご存知の「春分」、その次が「清明(せいめい:花が開き万物が美しい季節)」となり4月5日ごろで、中国ではお墓参りの日に当たるそうです。
──昨年沖縄で遭遇した「清明祭(しーみー:お墓の前で一族が食事をする)」は、そこから来ているんですね。
お彼岸に墓参りをするのは日本独自の風習なんだそうです。
浄土思想の「極楽浄土は西方の遙か彼方にある」という教えから、春分・秋分に真東から昇り、真西に沈む太陽を礼拝して、ご先祖のいる極楽浄土(西方)に思いをはせるという習わしが定着したんだそうです。
「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉はとても納得できるのでよく使いますし、昼と夜の長さが同じころの季節感は、精神・肉体的にもとても重要であるように思えます。
でも、リタイアされた方々がみずからの意志で「外に出てみようか」と思うのはお花見の時期でしょうから、お墓参りも中国や沖縄に倣ってこの時期にしてもいいのではないか、と思ったりもします。
そんな違いを知ると、出無精になったお年寄りに対して「少し寒くても、お彼岸なんだから表に出てきなさい」と尻をたたくようにも思え、日本って厳しい国なのかも……
いざ表に出てみれば「テレビで満開なんて言うから人が出ちゃうんだよ」という人の多さ等、都会では外出をためらう理由が他にも多いことは事実です。
新宿御苑(Map)
上写真左に見える赤・白・ピンクの花は、同じ幹から伸びた枝に咲いています。
ハナモモという観賞用に改良された桃で、赤(平氏)と白(源氏)が同じ幹で競い合うように3色(ピンクは中間)を咲かせることから「源平桃」とも言われるそうです。
その年の気候等によって赤白の色味の強弱が変化するそうで、年ごとに楽しめるんだそうです。
キミたちサッカーに熱中してるけど、WBCはもう忘れちゃったの?(野球をやっている子どもたちもいます)
切り替えの遅いおっさんは、何だか惰性でナイター中継見ちゃってるんですけど……
新宿という場所柄でしょうか、子ども連れや海外の人が多く、そのせいか「happy spring day」という楽天的な明るさが感じられます。
ご想像通りの混雑ぶりですが、敷地が広いので開放感は得られると思います。
新宿の追記として、「末広亭」(落語の寄席)の前には、昼の部をやっているころから人だかりができていました。
末広亭の前に並ぶ行列を見たのは初めてかも知れません。近ごろの落語人気ってスゴイんですね、驚きました……(隣にある洋食屋「あづま」も健在で、以前はよくビフテキをいただきました)
地下鉄副都心線が開業した新宿三丁目駅付近の地下道が、ガラッとモダンに変わっていて驚きました。
何度も通っている場所なのに、迷い人となりそうなリニューアルです(写真だけ見せられたら分からないと思う)。
決していいイメージのなかった「新宿の地下道」も、チェンジが必要ということですね。
お上に近しい印象のある、千鳥ヶ淵と新宿御苑を比較して思い至ったのは、千鳥ヶ淵で感じた「お彼岸感」というものは錯覚ではなく、靖国神社や戦没者墓苑等に眠るとされる方々に対して、お上からたむけられた(仕向けられた)追想場の「祭壇の花」なのかも知れない、ということです。
戦争当時は軍用地だった北の丸公園を含む一帯を、どのように平和活用すべきかと思案した結論だったのではあるまいか?
付近の桜は、戦没者供養のために国の支援を受けて守られているのではあるまいか?(現在のあり方を批判するものではありません)
ボート乗り場では「1時間待ちです」の行列に並ぶ人が絶えないこと(にぎやかな場であること)を、近くに眠るとされる方々もよろこんでいると考え、遺族等の関係者が少なくなるこれから先も人が集まる場所であって欲しい、という意志とも受け止められます。
現在ではそこまで考えているとしても、後から付け足したんだろうなぁ……
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