《ゆりかもめを歩く⑧ 芝浦ふ頭〜日の出》
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埠頭公園(Map)
首都高速に面した埠頭公園のペンギン像には、南極探検の先駆者である白瀬矗(しらせのぶ:白瀬中尉が一般的か)が、1910年(明治43年)南極に向け開南丸で芝浦埠頭を旅立った記憶が込められています(当時のふ頭はこの付近らしく、記念碑と南極観測船初代「しらせ」のスクリューが飾られます)。
白瀬氏は陸軍軍人の冒険家で、千島列島探検隊の経験から北極を目指しますが、1909年米国探検家ペアリーの北極点到達を知り、目標を南極に変更します。
時まさに「南極点」を目指す競争のさなか、ノルウェーのアムンゼン隊、イギリスのスコット隊南極点到達の一ヶ月後に上陸するも、困難のため極点をあきらめ帰還します。
ですが全員無事の帰還は、全滅したスコット隊はなし得なかったことです。
他国隊のようにスポンサーのいない白瀬隊は、国民からの義援金を活動資金に南極へ向かったことから、帰国後は国民から熱狂的に持てはやされますが、公演活動の収益はすべて借金返済に回されたそうです。当時の冒険家は、資金面でもワイルドでした。
その後の南極観測開始は1957年で、歴代の南極観測船は「宗谷:1957~1962」「ふじ:1965~1983」「初代しらせ:1983~2008」「2代目しらせ:2009~」と代替わりする。
船名「しらせ」は白瀬中尉にちなむと思いきや、現在自衛隊所属のため「艦名等を付与する標準=名所旧跡の名」準拠のため、人名ではなく南極の「白瀬氷河」からの引用という、アホくさい解釈が必要とのこと。
白瀬さんには、植村直己さんもあこがれたんだろうなぁ〜。
芝浦アイランド(Map)
江戸時代の海岸線は、現住所に残る「芝」地区に接していました(JR田町駅付近)。
由来としては「芝が生える場所」よりも、「すき間なくのりひび(のりの養殖施設)が続く海辺」の方がイメージを広げてくれます。
芝の沖を埋め立てた「芝浦」の命名は分かるところで、造成は1912年(明治45年)隅田川口改良工事のしゅんせつ土(砂泥)を、埋め立て地に転用する目的で始まります。
当然ながら、埋め立て事業は陸地側から沖に向かいますが、当時土砂輸送の主力は船であり、埋め立てやその後の活用にも、運河(水路)の存在は必須条件でした。
現在周辺地区には再開発の打診がありそうですが、水利の活用を目的に集まった人や企業には生活や業態が環境に根付くため、簡単に移転はできないでしょう。
再開発が進行中の現在でも、まだ「物流拠点」としての圧倒的な存在感(倉庫群)は健在です(立地の便利さ、従業員確保には一等地です)。
上の2枚は、芝浦アイランドとされる再開発島(運河に囲まれた地)の様子です。
以前の土地利用を調べると、南側にあった製糖工場以外は東京都が利用しており(下水道局ポンプ場・都営アパートは現存)、都電車両工場と操車場があったと知り、これまでの疑問が晴れました。
近ごろ改装オープンした、YANASE(外車ディーラー)本社前から芝浦アイランドへと続く広い道(片側3車線)が、運河の手前でぷつんと途切れる理由を探していました。
以前そこには運河を渡る都電専用橋(船路橋(ふなじばし))があり、そこに接続する都電レーンのため広い道が必要でしたが、都電廃止後もその道幅は変わらず現存します(あぁ、納得!)。
1972年都電は荒川線だけとなり、転用された都バス整備工場も1991年に閉鎖されます。
なぜ埋立地に都電の車庫があるかというと、関東大震災で既存工場が被災し、下町では元の土地での再建に時間がかかるため、新天地への移転が必要とされたためです。
東京湾の砂や泥で埋め立てられた地ですが「車両避難所」とされたのですから、地震の被害状況は違うにせよ、とりあえず液状化は無かったということになります。
大震災で被害を受けた浦安と同じ東京湾内での違いについては、技術では格段の進歩があってもそれを生かそうとしなかった「手抜き」以外に理由は見つかりません……
2枚上写真の船の係留施設付近では、船舶免許の教習と思われる様子が見られます。
なるほど、波のない運河で練習してから海へと出て行くようです。
運河という構造物は船の航行のため、キッチリと溝のような構造が求められます。
新築マンションから身近な海辺とはいえ、そんな場所に砂浜海岸は作れないので、上写真左の子どもたちのように固められた護岸で遊ぶしかありません。
広場は無くとも子どもたちは遊び方を見つけるようですが、大人たちは壁に守られた運河でないと船舶運転の練習もできないようです(海に出て大丈夫なのか?)。
シーバンス(Map)
浜松町の東芝本社ビルに隣接した運河沿いに「シーバンス」という複合ビルがあり、その中にダンスフロアとして利用できるホールがあります。
上はそこで開かれる「キッズダンスコンテスト」直前練習の様子です。
中央のコーチと右下に座るマネージャー? が盛んに声を掛け、ダンサーたちは、レンズとの間にあるガラスを鏡に見立て踊りを確認しているのか?
元気盛りの小中学生でも、踊りの後には肩で息をするほどハードな動きです。
幼児から高校生までの若年層対象コンテストですが、群れても騒がない「本気モード」には、彼女たちの夢をのぞいてみたくなります。
とは言え、彼女たちの未来を「SPEED」にしか例えられない想像力では(AKBは違うでしょ?)、コメントする資格はなさそうですが、Good Luck !
TABLOID(Map)
ゆりかもめ「日の出」駅前の旧産経新聞社印刷工場を、オフィス・商業複合施設に転用した施設「TABLOID」の壁面です(パブのような施設はあるも入口が分からず未見)。
旧倉庫などの施設を改装し、都心では実現できない広いスペースの再利用が注目され久しいところです。
今どきはそんな施設でパーティーを開くようで、越してきた当初田町駅前で「この着飾った人たちは何?」と感じた理由を、ようやく納得できた気がします。
12月で「運河のある町」に引越して一年となりました。
運河を満たす海水は決して澄んではいませんが、「悪臭」のイメージもほとんど気にならならず、自然とベイエリア方面に足が向きます。
以前暮らした近所の多摩川河川敷も空が広く気持ちいいのですが、ドブ臭さは川の方が強かった印象があります。
物価は高く、スーパーも少ないので暮らしやすいとは思えませんが、交通の便利さだけは実感できます。
海好きとして、東京湾や運河も海と拡大解釈? できれば、人の往来が多い地域でも「より所」を実感できるようなので、精神的には落ち着けるような気がしています……
追記──大河ドラマ『平清盛』完。
「画面が暗い」「絵が汚い」など不評から視聴率は最低でも楽しめるドラマだった。
ナレーションを源頼朝役に託したことから、主題は「公家政治からの脱却」と理解できるので、武士たちのみすぼらしさこそが原動力と率直に受け止めるべきである。
本作で評価すべきは何といっても、平氏と源氏は同様に「武士の世」を目指す好敵手であり、お互いに不可欠な存在であったとの視点である。
清盛が公家社会に取り入るため身につけた「宮中文化」を排除する頼朝は、流罪とされた地での地方武士のつましい暮らしを、ないがしろにできない思いを基軸に据える。
その精神が、現在も華やかさが無い武士の都鎌倉に通じるものと思われる。
松山ケンイチはガキっぽく好きではないが、演じる年齢と共に感じた貫録は悪くない。
何といっても深田恭子のやる気には目を見はらされ、最期の入水シーンの表情は、保存しておきたいほど迫力があった。
出番は少ないも、義経役の神木隆之介くんのりりしさが「若武者」の存在感を際立たせ、これから大注目です!
それにしても受け入れがたいのは「双六遊び」の表現で、さいの目のように気まぐれに歴史が積み重ねられたような表現は、物語の提供者が「自身の才」を転がしているようで、とても納得できるものではない。
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