2013/02/25

レールは曲がるものなのです──潮見、辰巳

2013.2.11【東京都】──「ベイエリアウォーク⑳」


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越中島貨物駅(Map)

 右は塩浜にある越中島貨物駅付近に残る軌道跡です。
 以前豊洲〜晴海間で見かけた、廃線後も残る鉄橋に続く鉄路の痕跡で、これが見たくて足を運びました。
 元は東京都港湾局専用線で、リンク先のような路線がありましたが1989年に全廃されます。
 その路線図からは、築地市場にある扇形建屋の理由や、ゆりかもめはこの経路沿いに作られた様子が読み取れます(以前、竹芝桟橋手前で線路を渡った記憶がある)。
 
 右のカメラ後方にある越中島貨物駅(住所は塩浜:リンク先の路線図右上)の貨物輸送は1997年に廃止され、現在は東京レールセンター(ロングレールの製造・配送施設)の輸送基地とされます。

 
 ロングレール(200m以上の長さ)の普及効果は実感できますが(継ぎ目通過時の騒音低減、走行の安定や高速化など)輸送方が不明で、現場で溶接すると思っていました。
 レールを運ぶ専用の貨車があっても、200mのレールではカーブを曲がれない! と思うも、レールが曲がってくれるそうです。
 カーブで使用するレールは角度を合わせた特注品ではなく、真っすぐなレールを現場でたわませて固定します。
 真っすぐだったレールが描くカーブならば、レールを積んだ貨車も通れるわけで、なるほど道理と納得させられました……

 上写真右は塩浜〜枝川を結ぶ「しおかぜ橋:歩道」。正面歩道の先がJR京葉線のトンネル出口で、その奧に越中島貨物駅(東京レールセンター)がある。


潮見、枝川(Map)


 上下2枚は潮見から枝川を望みます。
 旧倉庫をゴミ収集車の車庫としているようです。上の空間が遊んでるように見えますが、奧には屋内の作業場があるのかも知れません。

 水路を隔てた隣には、水辺に沿った長〜い「木場南スカイハイツ」があります。
 裏手には倉庫や工場が並ぶ、長さ250m程度×奥行き30m程度の敷地に建つ、以前は岸壁だった? という細長い土地の再利用のようです。
 運河のような海でも「シーサイド」には、視線が気にならない開放感がありそうです。


 明治末期から大正時代にかけて行われた河川・運河しゅんせつ工事の土砂により、塩浜、枝川、豊洲、潮見などの地が埋め立てられます(泥が多そうで、大震災時に東京レールセンターでは液状化があったそう)。
 江戸時代の埋立では、その年代ごとに人や文化が根付きましたが、明治以降の埋立はスピードが速い上、商工業地に提供されたため、用事の無い人には「あの辺」とされる無関心地域となってしまいます。
 駅のある豊洲や潮見では、降りたことがないのに勝手なイメージを作ってしまい、なかなか歩こうと思えなかったのが本音です(年々変わっているようです)。


辰巳(Map)


 京葉線の車窓から見えるユニークな建造物「東京辰巳国際水泳場:上」は、現在大規模補修工事中のため近づけず、楽しみな被写体だったのにこんな写真しか……

 近年では「このプール=北島康介」的な印象がありましたが、「康介さんを手ぶらで帰らせる訳にはいかない!」と奮起し、結果を残す後輩たちも育ってきましたし、選手も世代交代するリニューアルの時期かも知れません。


 ちょっと脱線ですが、表記が同じ「辰巳芸者(たつみげいしゃ)」との関係が気になっていました。
 『辰巳芸者とは深川(江東区付近)で働く芸者のことで、深川は江戸から辰巳(東南)の方角にあったことに由来する』
 この説明だけで双方とも一件落着ですから、膨らんでいた妄想も一瞬でしぼみます……

 元祖「木場」は生まれながらの下町ですが、火事の多い当時は木材需要で栄えました。
 そんな地に流れ着いた芸者が、飾らない土地柄から「芸は売っても色は売らない」の心意気で、男性用の羽織姿で客をもてなし評判となります。
 その様子から、舞妓・芸妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「粋」、とされます。
 口説きベタの心情としては、辰巳芸者の方が乗りやすいのは確かですが、一度でいいから舞妓はんと同席の夢こそ……


2013.2.24
「東京マラソン2013」


 沿道を巻き込んだ『東京祭り』として定着し7年目とのこと。
 ちょうどアパート前付近が給水ポイントとされるため、給水をサポートするボランティアの人数も多いのですが、道路に散乱する紙コップの数も尋常ではありません。
 そんな様子を目にすると、普段口うるさく言われる「ちゃんと片付けてよ!」の小言に対する、うっぷん晴らしのようにも見えてきます。
 ボランティアの方が片付けるそばから、コップが投げつけられます。
 ランナーの特権? と思うやからは、投げつけられる人の気持ちを理解すべきです。


追伸
 WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)日本代表も、ようやく堅さが取れ、地に足がついたように見受けられました。
 確かにスター不在ですが、監督・コーチ・選手たちは、やるべきことを理解しているのですから、実戦では「甲子園球児」のようなひたむきさで取り組んでもらえれば、いい結果につながると期待し、応援します!

2013/02/18

海の果てを見つめた──越中島

2013.2.2【東京都】──「ベイエリアウォーク⑲」


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東京海洋大学(Map)

 2003年に東京商船大学(前進は三菱商船学校:1875年大久保利通が岩崎弥太郎に命じ創設された私学)と東京水産大学(1888年設立)が統合された、日本で唯一の海洋研究・教育を行う国立大学で、品川にもキャンパスがある。

 右の第一観測台(1903年:明治36年建設)は、当時の航海には欠かせない航海天文学の観測施設で、屋根のドーム部分は手動で回転したそう。
 このような施設を目にするといまでも「カッコイイ」と感じる、天文少年時代の触覚が目を覚まします。

 先日の隕石落下は「宇宙からのかめはめ波」のようで、逃げようのない危機の存在に驚愕させられました。
 毎年地球には、直径20cm、重さ10kg程度のものが約800個も落下する(燃え尽きるものを含め)と聞けば、もう祈るしかないので「隕石除け」のお守りを作ったら受けるか? とも……


 上の明治丸はイギリス製帆船(1873年:明治6年)で、日本に現存する最古の「鉄船」で、明治天皇が乗船しました。
 天皇が東北方面から横浜に戻った日が「海の記念日:7月20日」とされ、祝日「海の日:7月の第三月曜日」のルーツとは知りませんでした。
 国の重要文化財ですが、老朽化による大規模修復の募金を受付ています。


 上は2月まで閉館中の「百周年記念資料館」前に飾られる岩石。
 手前に横たわる玄武岩は、練習船が寄港したミクロネシア・クサイ島の酋長からの贈り物で、「Xusaie 1937」の表記が見えます。
 異国からの訪問者が少ない当時は、歓迎として「岩石」を持たせる風習があったのかも知れません(現地の城壁の石らしい)。
 現在も「石の通貨」が流通するとされますが、例えば「クサイ島の石は珍しいので、おにぎり○個の価値がある」という、骨董品的な性格のようです。
 島国特有の「海の果てを見つめる心情」を理解できる民族としては、雨ざらしとはいえ島の酋長の思いを伝える展示ですし、わたしにはしっかりと伝わりました。


中の島周辺(Map)


 上写真奧「中の島」から貯木場のような施設を目にし、豊洲にあるマンションのテラスから望みます。
 出入りは可能ですが私有地なので監視されているらしく、声は掛けられないも管理の方が出てきました。それがセキュリティの「売り!」ですよね。
 悪いことはしませんが「次から気をつけよう」の抑止力になると実感です。
 確かに、手すりが邪魔なので植え込みの縁に上りました……


 越中島にある清水建設技術研究所の建物では、ディスプレー的に免震装置をアピールしています。
 今回の大地震で効果が確認されたようですが、傾斜地などの設置には難しい面もあるため「ヒット」には至らないらしい。
 構造の詳しいことは分かりませんが、理論的には安全とされても、ゴムの「耐用年数や経験値」を持たない現在では、シェイプアップ器具の不具合とは意味が違うため、暮らしを託すには冒険的との印象を持ちます(開発者の方々には大変失礼!)。


 運河の船置き場ですが、カメラ位置はどん詰まり(その先は埋め立てられた)のため、水面が鏡のような絵が撮れました。
 今どきは門も施錠されるので難しいでしょうが、ガキの時分だったら怒られても遊んだし、昼寝の間に流されたなどの冒険譚が生まれたのでは、と思ったりします……


古石場川親水公園(Map)


 以前の古石場川(ふるいしばがわ)は、埋め立て後に親水公園とされます。
 現在も残る古石場の地名は、江戸城築城の石などの置き場・加工場に由来します。
 川とされますが、石など物流のための運河だったのでしょう。
 隣接地にも「牡丹町:江戸時代に牡丹を栽培する家が多かった」の古い名が残り、公園沿いには牡丹園があります(下写真手すりには牡丹の模様がある)。

 映画監督小津安二郎さんの生家が近所だそうです。


 橋の写真が続きますが、古い橋は頑丈に作られているため「守ってくれそう」な安心感があります(以前は鉄道が通っていたのか?)。

越中島は江戸時代のゴミの埋め立て処分場、と目にしたことがあります。
 当時流れ込んだ利根川河口は現在の浅草付近なので、山の手(高台)以外は一面湿地帯でした。
 利根川の流路変更などの環境整備により、埋め立ては上流側から行われますが、新たな土地に人が暮らし始めるとゴミ処理問題が生じ、小名木川(おなぎがわ)の海側(地下鉄新宿線の少し南)に位置する埋立地の多くは、ゴミ主体の埋め立てになります。

 霊岸島が「こんにゃく島」とされたように、当時この周辺には違う表現があったかも知れません。





越中島公園(Map)


 これまであまり好きではなかった湾岸の高層マンション群ですが、周辺を何度も歩くうちに慣れたらしく「そこにあるものだ」と、受け入れられるようになってきました。
 特に感慨は無いにしても、高層ビル付近での夕景の味わい方が分かった気がします。


 明治時代(1903年)佃島と越中島間には、左の木が茂る中の島を経由した木造の橋(相生大橋と小橋)が架けられますが、関東大震災で焼け落ちてしまいます。
 再架橋された当時は(1926年:大正15年)橋で島に渡ることが珍しいため、人気の観光地となります(上は旧相生大橋部分)。近ごろは夜景スポットとして人気があるそうです。

 越中島の名称由来は、江戸時代初期に旗本の越中守(えっちゅうのかみ:越中は現在の富山)の屋敷にちなむとされます。名士だったにしても、ピンと来ませんし「越中褌:ふんどし」くらいしか思い浮かびません。
 脱線ついでに、越中褌が普及したのは明治末期で、軍隊に徴兵された男子に支給され広まったとのこと。機能的とされたようです……


追記──高野悦子さん(岩波ホール総支配人)が亡くなられました。

 いつか訪れるにしても「ショック!」です……
 高校生時分に購読を始めた『キネマ旬報』で、年間ベストテン作品を毎年何本も上映する岩波ホールの存在を知り、『白夜:ロベール・ブレッソン監督』から通い始めます。
 いつもガラガラで「大丈夫?」の状況から、高野さんが目指したと思われる「映画を囲むカルチャーセンター」を実現するまでには、大変なご苦労があったに違いありません。
 そのかいあって現在の、表現は悪いが「ジジ・ババのカルチャーセンター」的な様相を呈する大盛況のホールを目にする度に、心の中で高野さんに拍手を贈っていました。

 忘れられないのが『Tomorrow─明日:黒木和雄監督』の初日舞台あいさつです。
 こちらも応援したい気持ちで初日第一回の上映に足を運び、その舞台で「日本映画にお客さんは足を運んでくれるのか? と眠れませんでしたが、こんなにも多くのお客様にお越しいただいて……」と、涙されました(そんな連続だったことでしょう)。
 ホールでの、ロベール・ブレッソン、ルキノ・ヴィスコンティ、アンドレイ・タルコフスキー等々の巨匠との出会いは、わたしの意識に豊かな広がりを与えてくれる「映画教室」のような場でした(上映交渉には自ら足を運び、監督とのツーショット写真が数多く飾られていた記憶があります)。

 映画への情熱を原動力に突き進み「岩波ホールという文化」を確立しましたが、あの方は最期まで「もっと多くの作品を知ってもらいたい!」だったのではあるまいか?

 高野さんの、映画を語る表情がとても好きでした……

 ありがとうございました!

2013/02/11

「こんにゃく芸者」が人気?──旧霊岸島

2013.1.26【東京都】──「ベイエリアウォーク⑱」



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鐵砲洲(てっぽうず)稲荷神社(Map)

 この日はJR京葉線八丁堀駅からスタートします。
 江戸時代埋め立て地として整備後に、八丁掘り(水路)が掘削されるも、結局1960〜71年に埋め戻されます。
 また、寺町から与力・同心の町とされた変遷からも、江戸のころから重要視された場所柄がうかがえます。

 右は、鐵砲洲稲荷神社の富士塚(富士山信仰による人工の塚)に立つ石碑(鉄砲洲の表記)。
 この地名は、江戸幕府鉄砲方の試射や大砲演習場だったことに由来し、福沢諭吉の蘭学塾(慶応義塾)はこの地に始まります(聖路加国際病院に近い)。




 島の名から場所が思い浮かばなかったのは、おそらく「日本の高さの基準とされる水準原点(国会議事堂前にある)は、霊岸島水位観測所で計測される東京湾平均海面(潮位の平均値)に基づく」の話題と思います。
 右手前が観測施設ですが、現在水準原点の標高は三浦半島油壷験潮所の観測値を用いるため、ここでは最低水位である荒川工事基準面(A.P. : Arakawa peil)という、東京付近のローカルな工事基準面に利用される潮位を観測しています。

 その名称はこの地にあった霊巌寺に由来する江戸時代の埋立地で、当時はまだ地盤が軟弱なため「こんにゃく島」とも呼ばれました。
 そのころ島には「こんにゃく芸者」がいる、と持てはやされますが、「こんにゃく島で働く芸者」の落ちだとか。
 うわさの質も今どきの週刊誌の見出しのようで、時代を経ても送り手・受け手側双方のオヤジたちは、決して「進化しないものなのです」……

 右の南高橋(みなみたかばし)では、関東大震災(1923年)で被災し架け替えられた両国橋の、被害が少なかった中央部分を補強したものが再利用されています。
 歩くと「何でこの橋だけ?」と目にとまります。


 先ほどの水位観測所付近では、ものすごい数の海鳥が羽を休めています。
 高層ビル群の谷間で、風の通り道と思われる場所ですが、彼らは風の穏やかな時間帯があることを知っているようです(フン害が大変)。
 その種類は分かりませんが、以前ゆりかもめは夜を海上で過ごすと読んだ覚えがあり、翌週の散策では、夕方に海へ向かう群れの姿を目にしました。


 潮の高い時間帯かも知れませんが、上の永代橋は背の低い観光船や屋形船でもやっと通れる高さしかありません。後部に立つ船頭がぶつかりそう……
 江戸時代は最下流のため背の高い橋が作られ、橋からの眺めが良かったそう。
 末永くの願いが込められた名称ですが、赤穂浪士が討ち入り後に渡り泉岳寺に向かう、深川富岡八幡宮の祭りに詰めかけた群衆の重みで崩れ落ちた、道路橋では日本初の鉄橋で市電も通されるが、関東大震災では床材に使用の木材が炎上し多数の犠牲者を出す、などの歴史があります。

 右は日本橋川が隅田川に流入する河口部にある、箱崎と霊岸島を結ぶ豊海橋(鋲止形式という古い形態)で、江戸時代初期までここが本来の神田川河口でした。
 現在神田川の水道橋〜浅草橋間は、洪水対策で開削された人工河川で、旧川筋(水道橋〜一ツ橋〜江戸橋へと続く首都高速の下)は日本橋川とされます。

 柱に取り付けられた箱は照明設備で、ライトアップされる姿は結構キレイです。

 現在霊岸島の住所表記は新川とされますが、右中央イエロー系の橋は霊岸橋、カメラが立つ橋右手の霊岸島交差点などに、名が残されています。

 音の響きから「悪霊島」「獄門島」など、横溝正史の金田一シリーズをイメージする年代としては、「こんにゃく芸者」目当てに繰り出したオヤジは数合わせで殺され、「そうか、分かった!」の警部がこんにゃく芸者の説明する間に、金田一が「ちょっと、気になることが…」と糸口を発見する状況を思い浮かべたりします。
 ここは都会の島ですが、過去帳を調べると「しまった、そんなことがあったのか!」という怨念があったりして……


 追記

 勤め先近くにある中国大使館周辺は何かにつけ騒がしいため、警官&バリケードが常時配備されています。
 それが今回の「レーダー照射」では右翼団体も本腰らしく、大使館前の道路はバリケードで通行不可とされ、一般車両も巻き込んだ大渋滞となりました。
 互いに「自国の正義」を強硬に主張し対立し続ければ、チンピラ(市民レベルの意)の小競り合いから国家間の争いへと発展しかねません。

 自分でも確かと思えるのは、大震災経験後「国民の団結感」「助け合い精神」の高まりが求心力となり、島国民族の一体感を再確認したことです。
 ですがそれを「愛国心」の元に集約し、国政を後押しさせようとする姿勢では、中国と変わりませんし、いつまでも立場の違いがぶつかり合うだけになります。

 喧嘩の仕方(緊張感ある外交)を知らないガキが、ひとこと発する度に後ろに立つ親(アメリカ)を確認するような状況ですが、ガキなりに正当性を訴え続けることで、世界の理解を求めることになるのでしょう。

2013/02/04

「ひとりもんじゃ」はNG──月島、佃島

2013.1.19【東京都】──「ベイエリアウォーク⑰」



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月島(Map)

 ガラス戸のムラに見える塗装は狙いなのでしょう、ルノアールの絵画のように見える絵になりました(右)。
 ここは撮影スタジオで「撮影中」の看板が出ています。
 都心のスタジオが好まれるのは、スタッフ集合に便利なためですが、ここは「気分を変えたい」際も遠すぎず、洋食に飽き「もんじゃでも食べたい」の気分転換にはいい環境かも知れません。
 外に出れば海辺の絵も撮れる場所柄です。

 佃島・月島は隅田川の河口に位置し、川から流れ出た土砂が堆積するため、航路の整備が必要になります。
 明治時代になると、航路確保のためしゅんせつした土砂で埋立地を造成し、その土地に国策の重工業化を目指した工場が建設されるという、上昇の連鎖が生まれます。

 工場開設当時(勝鬨橋の建設前)は築地との間に「月島の渡し」が運行されました。
 その付近に工場労働者相手の店舗が並んだのが、月島西仲通り商店街(もんじゃストリート)の始まりです。

 昼食には遅い時間ですが、人気のもんじゃ焼き店にはグループの行列があります。
 同じ焼き物でも、焼肉には哲学的とも言える「個人の間」があるので、ひとり焼き肉はNo Problemですが、お好み焼きは「焼けた!」の瞬間に一気に食べられませんし、チビチビ焼く気にもなれません。
 一方もんじゃは、焦げても酒のつまみになるため、ベチャベチャと「ひとりもんじゃ」で悦に入った表情になりそうです。
 そんな姿を想像するとゾッとするので、ひとりでは行かないと決めています。

 住宅密集地にこんな渡り廊下を作る感覚とは「燃えたらおしまい」の開き直りという気がします。消防署だけでなく、都市整備計画の対象となっていそうですが、ここは行政が立ち入れないグレーゾーンなのか?

 以前も目にした松井秀喜(先日引退表明)の写真が、増えたように思えます(もんじゃと似合いすぎ!)。
 よほど好きなのか? 訪問時に「うちも寄ってって!」と引きずり込まれたのか? 人の良さそうな彼の印象とこの町の人情がとてもマッチしそうで、「また来ちゃいました!」のような気もします……

 右はもんじゃ通りに残る古い交番(懐かしい!)。
 昔の交番の床は何段か高くなっていて、そこに立ち周囲を見回すお巡りさんが、エライ? コワイ? 存在であったことを思い出します。
 傾いてるように見えますが、そんな理由で解体しないで下さいね。

 もんじゃのルーツは、焼く際に文字を書いて遊んだ「文字焼き」とされ、子どもが遊びながら食べる様子が一番似合う気がします……


佃島(Map)

 佃島住吉神社は、徳川家康が関東に国替えとされる際(1590年:秀吉の命)大阪の漁師を招き、干潟を埋め立てた「佃島」に暮らようになった住民が、故郷(大坂住吉大社)から分祀を受け建立したことに始まります。

 住吉神社の例大祭は江戸でも歴史のある祭りとされ、「獅子頭宮出し」には神輿が通る道を清める意味があるそうで、築地の獅子祭りはここからの派生と思われます。
 宮神輿は「八角神輿:八角形の形状」と呼ばれ、船渡御(船で神が巡る)で隅田川をくだり、海の安全と豊漁を祈願します。

 2011年、170年ぶりに八角神輿が新調されますが、震災の影響からお披露目は翌年とされます(右は先代)。

 下のさい銭箱は、とにかく火事からは守りたい気持ちの表れのようです。


 佃島に隣接した旧石川島(現佃島高層マンション付近)には、江戸時代に設置された人足寄場(にんそくよせば:軽罪人などの自立支援施設)がありました。
 明治時代に同施設は監獄となり、巣鴨への移転後の跡地は工場(石川島播磨重工業:現IHI)や居住地とされます。いまでは企業名からもその名は消えました。

 葛飾北斎『富嶽三十六景』では、手前が石川島(古称は森島・鎧島→将軍から石川氏が拝領)で、佃島はその奧の民家の密集地から発展したように見えます。
 石川島でなく佃島の名が残されたのは、そこに根付く人々が生み出した「庶民文化の力」なのでしょう。

 中央区に右のような船だまりが残ることに驚きますが、手前のような放置された廃棄船がいくつも見られ、活気が失われていることは確かなようです。


 上は佃島北端に作られた、木造展望施設「佃テラス」。
 朝ドラ『瞳:2008年』で榮倉奈々ちゃんが踊った場所が、石川島公園「パリ広場」とされるのも驚きですが、高層マンション下にテラス作ってどうなの? という気もします。
 これは「東京アートポイント計画」とされ、木造建築のぬくもりある舞台(高層マンションと違う身近な高さ)から隅田川を眺めてもらいたい、との狙いらしい。

 高層マンション足下の佃島には、現役の銭湯が健在です。もんじゃストリート裏の長屋的な家屋には、風呂のない家も多くありそうです。
 日々の裸の付き合いから、交流や結束力も高まると思われ(京都の町屋家屋には風呂はないため、銭湯が多数存在する)、地域文化の芽が健在であるこの付近には、小さくも希望があるような印象を受けました。


追記

 先日「お茶は買うものだ」の習慣定着から、「家でお茶が入れられるの?」という若者がいる、との調査結果に驚きました。
 われわれは当たり前と思うことでも、きちんと伝えなければ「文化は途切れてしまう」という危機感を覚える年齢になった、ということのようです。
 発売当初、母親世代の人々が「お茶は買うものじゃない」とぼやいてから、20数年程度でしょうか……