2013/05/27

水都江戸をたどる──小名木川、仙台堀川

2013.4.28【東京都】──大江戸線から、ちょいと(?)寄り道

 門前仲町〜清澄白河付近の人工水路「小名木川」と「仙台堀川」を歩きたく、連休中に「荒川ロックゲート」からブラブラですが、結構歩きました……


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荒川ロックゲート(Map)

 ロックゲート閘門(こうもん)とされる二つの門を持つ施設で、水位が異なる荒川(奧)と旧中川(手前)の水の高さを調整し船を航行させます。
 手前の海抜ゼロメートル地帯の水害を防ぐ要の施設で、
この日の水位差は陸地側-2.1mとのこと。

 相互航行可能な一方通行で、1サイクル20分程度を目指すため、水の出し入れはかなり速いようです。
 門内はエンジン停止のため、右の小舟はロープにつかまっても流れに翻弄されますが、その後反対側から入ってきたシーカヤックのオール使用はOKらしい。
 独り占めとは言え両側は観覧席のようで、舞台でひとり踊る「さらし者」的な心境かも知れません……


水陸両用バスのスプラッシュポイント(Map)


 一般道でも見かけた奇妙なバスは、都内初とされる水陸両用バス「SKY Duck」で、船首に車両ナンバープレートが見えます(2013年運行開始)。
 現在「東京スカイツリーコース」「亀戸コース」があり、どちらも「旧中川・川の駅」付近の「スプラッシュポイント」から川へダイブします。
 遠い場所でも「ズドーン」の音と、水しぶきの迫力が感じられます(撮れなかった)。
 このまま荒川ロックゲートへ向かうと思ったら、この水路でじゃぶじゃぶするだけらしい(確かにゲート往復だけで40分かかります)。

 足を運ぶ機会の少ない東大島付近ですが、アトラクション的な楽しさがあり、水辺から経験してみたい気持ちが高まります。


小名木川 クローバー橋(Map)


 1590年秀吉の命で駿河から関東に国替えさせられた徳川家康は、江戸城を中心としたインフラ整備に着手します。
 現在千葉県行徳付近の塩田から塩を運ぶ際、当時の東京湾には浅瀬が広がり座礁する船が多いため、小名木四郎兵衛に建設を命じた運河が小名木川の由来となります。
 後に年貢米の運搬路として栄え「スプラッシュポイント」付近に船番所が置かれます。

 上は小名木川と横十間川交差地に架けられるクローバー橋で、船舶用の交差点ミラーが設置されています。
 歩行者・自転車には非常に便利な橋で、同じ道を戻りたくないと考えると、元の場所に戻るには遠回り&迷いそうで、架橋前は不便以前に川向こうを知らなかったのでは?


小名木川 扇橋閘門(Map)

 高度成長期以前は、物輸主力の船舶で水路はにぎわいますが、地盤沈下による1976年荒川側の水門閉鎖から、2005年荒川ロックゲート完成まで水路は閉鎖されます。
 荒川ロックゲートは、海水流入を防ぐ施設ですが、この扇橋閘門(PDF)は、西の隅田川と東の荒川側で最大3mある高低差を調整するための閘門になります。
 ゼロメートル地帯の中にも高低差があり、その間を行き来するために水位調整が必要とは驚きました。考えてみれば、全体が一様に沈下するわけもありません。


旧仙台堀川(Map)


 小名木川の海側に平行する仙台堀川(付近にあった仙台藩邸に由来)も利用されなくなりますが、高潮被害のため1982年埋め立て〜仙台堀川親水公園とされます。
 江東区マップ(PDF)の、水路を埋め立てたと思われる公園施設は、不要のためではなく防災対策のようです。

 公園内「野鳥の島」には、サギの姿が見られます。
 清澄庭園では毎回目にするので、住み着いているのかと思いましたが、水路沿いに多く見かけます。
 人間には分からないも、鳥には「干潟の断片」として暮らせる環境が、数多く残されているのかも知れません。


東京都現代美術館・木場公園(Map)


 東京都現代美術館(上)は新緑とも違和感なく、季節感を取り込む日本家屋がコンセプト? とても好きです。
 
 右は木場公園付近の仙台堀川ですが、このすぐ先から埋め立てられています。
 川の埋立とはいえ、3枚上の旧堤防から見える公園の高さまで埋め立てるのはかなり大変な工事と思われます。

 自分が暮らす地域と変わらないように見えても、地域全体が水面下に置かれる実態を目にし、「危機に囲まれて暮らす」様の一端を理解できたような気がします。
 そこに暮らす人々が、他の地域と変わらない日常を過ごす様子には、政府・自治体の注力を感じます。

 若葉の隣で真っ赤な葉をつける木があります。
 「春もみじ」という園芸品種のようで、さまざまに改良された品種があるらしいと知り、切りがなさそうと調べる手が止まりました……

2013/05/20

過去に学ぶべき震災復興の意識──下谷

2013.5.12【東京都】──大江戸線を歩く スピンオフ企画 「最後の同潤会アパート」


 先日の清澄白河付近で目にした、関東大震災直後に建設された鉄筋コンクリート住宅の文章を書くさなか、テレビで「最後の同潤会アパートが今月末に取り壊される」と知り、急ぎその週末に足を運びました。


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下谷神社(Map)

 上野駅正面玄関口に整備された高架歩道の昭和通りを渡った先で、裏道へ下るエスカレーターに誘われ、そのまま進むうちに祭礼の町に出くわしました。
 下町で最も早い夏祭り「下谷神社大祭」ですが、今年は本社神輿渡御(みこしとぎょ:町内巡行)が行われない「陰祭り」とのこと。
 とはいえ氏子衆が「陰」のわけもなく、神輿の休憩所や車が通る路上の二次会会場(?)では、道路で寝るやからもいる始末。
 周囲の目には危なっかしいも、それが「この日のために働いている」人たちの祭りなのでしょう。

 以前暮らした新丸子(川崎市)でも目にしましたが、参加表明である祭り提灯をつるす習慣には、子どもにも伝わるかわいらしさがあります。

 出店のメニューでは、少し前にトレンドだった牛串焼きの次を狙う(?)「チキンソテー」が目につきます。
 祭りの高揚感でガブッと、男を草食から肉食に豹変させる手助けになったりして?
 でも、鉄板の上で売れ残るとパサパサになりそう……




 上は現在もレトロな雰囲気が漂う、地下鉄銀座線稲荷町駅入口。
 稲荷町の由来は、元は伏見稲荷を勧請した下谷稲荷(現下谷神社)によります。

 関東大震災(1923年:大正12年)を受け、付近の都市計画は大きく揺らぎました。
 そのさなか、日本最初の地下鉄銀座線(浅草〜上野間)開業(1927年:昭和2年)、下谷小学校(1928年:昭和3年)や同潤会アパート(1929年:昭和4年)が竣工します。
 当時、地下鉄の先行開業区間とされた上野〜浅草間は、現在の銀座のような人気スポットだったため、復興のシンボルとすべく注力されたようです。


震災復興施設──同潤会「上野下アパート」(Map)

 ここは、関東大震災の復興事業で建設された同潤会アパートの中で、最後まで残された建物になります。
 当時の震災復興義援金などを元手とし、東京や横浜に16棟が建設されるも多くが戦禍で焼失しただけに、戦禍を乗り越え80年以上利用された姿は、当時託された「希望の大きさ」をしっかと後世に伝えたように見えます……

 テレビで5月末の取り壊しを知り、急ぎ足を運ぶと、同様の動機で集まったと思われる人だかりがあります(タクシーで乗り付けるお年寄りもいる)。






 防火・耐震対策や、再開発が求められることも理解できますが、右写真のように下町の景観になじむ姿は「下町文化遺産」ではないかと思ったりします。
 カメラ位置の道路に、祭り後の氏子衆が横たわる「今日だけは勘弁してくれ!」の醜態を、大目に見ようと「ゆるさ」が芽ばえるのは、文化への理解かも知れません。
 この日は「しょうがねぇなぁ〜」と許すも「明日からしゃんと働けよ!」が、下町気質なのでしょう。
 自分にもそれでいいと思う気持ちがあります……



 下の旧下谷小学校の建設は1928年(昭和3年)で、中央区明石小学校(1926年:大正15年)などと共に、震災復興小学校として建てられました。
 1990年統合による廃校後は、使い道が決まらず廃虚のような姿ですが、現在も校庭は区の駐車場とされ人の出入りもあるので、建物も利用されているようです。
 このような存続を目指す扱いは珍しく、何とか再利用の道が見つかりますよう。


 関東大震災復興の際は、震災4年後に日本最初の地下鉄が開通し、小学校再建に+1年、アパート建設には+2年を要しました。
 時代や環境は違えど、復興の優先順位は変わらないでしょうから、過去の経験から学ぶ姿勢があれば、今回の復興も時間を要する認識と、その間必要となる避難民のケアを予測できたのではないか、という気がしてなりません。

 一方で、いまも古い建造物が残される上野付近には、行政力が及ばない地域があった? 「におい」がします。
 調べてみると、空襲で焼け野原とされた後、現在の東京メトロ車庫付近の旧下谷万年町周辺に、スラム街が広がっていたとあります。
 「におい」の元を探ろうとする気持ちは大切でも、知った途端に気分が沈むこともあります。
 教えてもらえないことは自分で学び、可能な限り正確な理解と発言を心がけねばなりません。
 右は合羽橋(かっぱばし)の顔。

追記──琉球? 程度の反応をされる「琉球民族独立総合研究学会」設立

 この学会は、琉球(沖縄)諸島に民族的ルーツを持つ人々が自治独立を目指し、学際的(分野を越えた)調査研究を進め「現在沖縄で繰り広げられる問題解決には独立しかない」と訴える団体で、わたしにも「やっときた!」の思いがあります。
 米軍の隣人として育った神奈川ですが、基地が減る度に「開放感」がありました。
 沖縄の米軍基地周辺を可能なだけ見て回りましたが、周辺には現在も改善の希望を見いだせない閉そく感が漂っています。
 本土人(やまとんちゅ)でさえ「沖縄をなめ過ぎ」と感じるも、その解決には沖縄人(うちなんちゅ)自身の行動が必要と思っていました。

 中国が沖縄に揺さぶりをかけるタイミングでの発足には、後ろにスポンサーが見え隠れする気もしますが、元もと琉球王国は大陸と大和の間に位置する島々に、外交処世術のバランス感覚によって成立した「非武装」の「知恵の国」でした。
 最大の課題は「経済力」ですが、両国との交渉で好条件を引き出せれば、独立国としての予算が組めるかも知れません(その際、米軍基地も優良収入に計上されるやも?)。
 「琉球は大陸との外交における『緩衝地域』だった」という、教科書には載っていないことを学習した政治家がどれだけいるのでしょう。
 これは沖縄の利益(立場)に立つ意見で、日本の不利益を含むため多くの日本人には受け入れられないことでしょう。それを裏返すと、沖縄の孤立が浮き彫りになります……

 それくらいの揺さぶりをかけないと、日本政府は本気で取り組もうとしないでしょうから、まさに「今でしょう!」の、いいタイミングと思えます。

2013/05/13

戦禍をくぐり抜けた建物たち──清澄白河

2013.4.27【東京都】──大江戸線を歩く_2


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清澄白河(Map)


 清澄通りと清澄庭園に挟まれた細長い土地に、関東大震災復興住宅の「東京市営店舗向住宅:1928年(昭和3年)建設」が現存し、営業中の店舗もあるので、現時点で85年現役ということになります。
 鉄筋コンクリート建築の少ない当時でも、外壁装飾(上写真右下)があることは、模様の意味は不明でも、装飾の意義を心得た人に作られた様子がうかがえます。

 上写真の階段構造は、狭い土地で踊り場を作れないためか?
 以前はこんな階段を見かけた印象もあり、防犯面では有効そうに思えます。


霊巌寺(Map)

 江戸時代霊岸島に名を残した霊巌寺は、大火で焼き出されこの地に移転します。8代将軍徳川吉宗の孫で、老中を務めた松平定信の墓があります。
 幕府の都市防火対策で多くの寺社が移転させられ、現在付近に残る寺町が生まれました。
 隣接する「深川江戸資料館」の一服処で、来館者のおばちゃんが近所の人にスーパーの場所を尋ねると、「この辺は寺町だから何もないけど、(隣駅)森下や門仲の店には歩いていけますよ」という意識で暮らしているようです。

 右は霊巌寺門前にある「深川の出世不動尊:長専院」で、霊岸島からの移転組です。
 出世不動と聞いても「自分には関係ない」と気持ちがなえるのですが、それじゃダメの忠告を思い出しました。
 宝くじの話しで、「買わなきゃ当たらないから買う」に対し、「当てるつもりで買わなきゃ当たらない!」の意見に、その通りと納得させられました。
 運(運命)は自分で切り開かねば! ですが、結局買いそびれました……



 ここは、1933年(昭和8年)に建設された鉄筋コンクリート4階建ての民間アパートです。→外部写真
 霊巌寺本堂裏手に見え、外壁は今風に塗装されるも一目で古さが伝わるため、要チェック物件と誘われます。

 空襲で火の海になったと聞く地域で、上述の市営店舗とこのアパートが焼け残ったのはコンクリート製のおかげと思いがちですが、地域の人は「ここを守りたい」の意識から、バケツリレーで延焼を防いだそうです。

 手のかかる配管補修は、露出配管(室内・外に下水管が通る邪魔な構造:現在の部屋も同じ)のおかげで繰り返し行えたことが、建造物長持ちのポイントとのこと。
 ってことは、1966年に完成した現在暮らす建物もまだまだ使えるということかも知れません……


清澄庭園(Map)


ここは江戸時代の豪商・紀伊國屋文左衛門屋敷(紀伊國屋書店とは無関係)〜武家屋敷だった敷地を、明治期に三菱創業者岩崎弥太郎が買い取り、二代目弥之助が手を入れ庭園を整備しました。

 右は、連休で繰り出したアマチュア(?)モデルとカメラウーマン2人組の撮影風景で、遠慮無く石橋を占領しています。
 図々しさは女の特権(?)と勘違いさせたのは先達に違いありませんが、それをけ散らしていくのもおばちゃんたちと決まっています……



 清澄公園隣接地には、1875年(明治8年)日本で初めてセメント製造に成功した官営の深川セメント製造所(現太平洋セメント)があります。
 当時外来語のセメントを「摂綿篤」と表記したそう。

 付近には思った以上に工場が多く、その様子から過剰な地下水くみ上げによる地盤沈下を想起します。
 取り返しのつかない状況なので、いまさら蒸し返さないにしても、住民の「産業不在は困る」要望に対する謝罪と、「共に生きる覚悟」の表れと受け止めるのは、美談的な解釈に過ぎるか?



 清洲橋は鉄骨構造の吊り橋で、遠くからの「優美さ」と、間近での「力強さ」のギャップに、不器用なオヤジが「ロマンを目指した成果」の印象があります。
 当時には、ワイヤーを利用した曲線を描く技術はなくとも、「曲線らしさ」に挑む武骨な力業が感じられ「お見事!」と、エールを送りたくなります。

 国の重要文化財とされますから、これからも「武骨な美しさ」を楽しませてもらいましょう……


 ここに掲載するつもりだった、最後の同潤会アパート「上野下アパート」は、思いのほか楽しく膨らんじゃったので、次回報告します。


 追記──錦織圭の躍進!

 テニスのムチュア・マドリッド・オープンで、錦織圭(世界ランク16位)が、元世界ランキング1位のロジャー・フェデラー(現在世界ランク2位)を破りました!
 素人目には「あんなヤツらに、どうやって勝つんだ?」と、勝機すら思い描けないくせに、「近いうちにやってくれる」という期待感を抱いていました。
 強化育成プログラムから力をつけ、身の丈にあったスタイルを磨くことで、世界トップと互角に戦う姿を見せてくれます。
 彼はもちろん、後進に開かれた夢にも期待が膨らみます(応援団長の松岡修造もはりきって〜!)