2015/06/01

鎮守の森と文化財の価値──練馬〜江古田

2015.5.16【東京都】──「神田川を歩く_20」

 今回は、神田川支流の妙正寺川支流である江古田(えごた)川水源付近を歩きます。



学田(がくでん)公園付近

 西武池袋線練馬駅周辺のデザインコンセプト「三角」&「とんがり屋根」は、「樹木」がモチーフとすぐ分かるほど、緑の多さがいい感じの練馬です。
 やはり外部者の目にも杉並と練馬の違いは一目瞭然などと、ナンバープレートの件を蒸し返しては怒られそう……


 江古田川水源とされる「学田公園:現在野球場+公園」付近に痕跡は残りません。
 隣接する畑(上)左には、練馬区の「7館構想:人口10万人当たり1館の区民体育館整備」のひとつ「中村南スポーツ交流センター」が建てられるなど、周辺のスポーツ施設不足解消のために埋め立てられたようです。
 江戸時代、千川上水(石神井川と神田川水系の間に通された玉川上水の分水)から引かれた水路跡の立派な並木に、名残りが感じられます。

 明治時代、南蔵院(後述)を間借りし小学校を開校させるが、当時の学校経費は村負担で運営が苦しいため、付近の官有沼地を開墾し収穫を学校経費にあてたことから、「田んぼは学田(まなびた→がくでん)」と呼ばれるように。
 湧水の畔に寺院が建てられる場所柄は、他の支流水源池と同じだったようです。




 この寺には歴史を感じさせる建造物が多く、江戸時代中期の建築とされる鐘楼門(上:階上中央に鐘がある)には、枯れてなお力強さが感じられます。
 寺に古くから伝わる「白龍丸:万病の良薬」が、世間から「南蔵院の投込み:まがい物」とされ販売差し止めとなるまで、南蔵院の財政を支えました。
 これは想像ですが、その反省から枯淡の道を歩む寺を地元民が支え現在に至るのでは、と考えると、そんな姿こそ寺本来のあり様と思えてきます……



 寺の要望通り(?)「川の流れのように〜♪」のようなオブジェ(?)を撮りました。説明は無いので曲のタイトルを「そのこころ」としていいのでは?(部分的な苔が全面を覆ったら、いい絵になりそう)
 寺の問いかけに対する答えは千差万別が当然で、言葉を交わさないやり取り(自問自答)を楽しみました(ここは禅寺でなく真言宗)。
 庭は広くないが、様々な植物が密集する様子から世話の手間がうかがえ、来訪者へのもてなしと受け止め楽しめましたし、いい出会いだったと門を後にします。


徳殿公園


 また渦巻き(?)の上は、仰向けで回転を続ける虫の波紋。
 立ち去る際、暗かったので「ちゃんと撮れたかなぁ?」が心配で、彼を助ける気持ちがみじんも無かったと反省します。
 ですが以前、手助けしたつもりのカナブンが何度もひっくり返る姿に、「余計なお世話!」と感じたことがあるので、「虫の波紋には意味がある」との解釈はありか?

 大名屋敷跡のような名称ですが、年貢を免れて得をした田んぼ(川沿いの湿地帯だったから?)で徳田→徳殿とは、自分も含めガッカリでゴメンナサイ……



 隣接する旧国立療養所中野病院(主に結核患者の養生所)跡地には、現在「江古田の森」公園施設(後述)+福祉保健施設の老人ホーム等が整備されます。
 旧療養所時代、退院を強いられた患者を受け入れるため、隣接地での「ベタニアの家」建設が、徳田教会(社会福祉法人慈生会)の始まりになります。
 現在は隣接地の病院運営から手を引き、介護等の支援に注力するそうです。
 内部事情はあるかも知れないが、身近な手助けの要請を重要視した判断は、教会らしい立ち位置と感じます。


江古田 氷川神社


 上の絵馬奉納所に漂う「森を敬う」空気感は、古来の「八百万の神」から続く精神として、肌で感じられます。
 背後に旧国立療養所中野病院建設前は、樹木がこんもりとした丘陵地で「鎮守の森」にふさわしい環境だったようですが、現在この裏は造成され「はげ山」とされます。
 その森に育まれたであろう江古田獅子舞(YouTube)(鎌倉時代から続く)を、中野区指定無形民俗文化財に指定しながら「鎮守の森」を「公園の森」と同様に境界線で区切る行政の姿勢は、地域文化を衰退させる危険性をはらんでいるように思えます。


江古田の森公園


 この森には、日差しを避けたい木陰、立派な大木、うっそうとした雑木林、広々とした芝生、花を楽しめる樹木など、テレビや映画で目にする療養所の庭の雰囲気があります。
 Plus(いまどきのアピール表現)防災公園として、「かまどベンチ」「耐震性貯水槽」「災害用トイレ」「調整池」等々が設置される、震災時に頼りになる森でもあります。
 ネパールの大地震で、屋内に戻れない人々が広場に集まったが、災害時に「あの公園に行けば何とかなる」と思えるだけで、どれだけ安心感があることか……


 追記──口永良部島、火山噴火時の避難に学ぶ事

 現在は、リアルタイム映像を見られる監視カメラが増えたおかげで、噴火時の様子を目にすることができ、その迫力に声を上げてしまいました。
 2014年8月の噴火経験を元にした準備により、迅速に全島民無事避難(けが数人)ができた行動を手本とすべきと感じました。
 噴火時には「番屋ヶ峰(避難所)へ」と小学生も認識し、町営フェリーは100人乗りだが緊急時には全島民+来訪者含め150人の乗船を認める許可を取っていた、などの事前準備が功を奏したが、離れた集落との連絡手段が無かったなどの課題も浮かび上がります。
 大小にかかわらず島はどこも「日本の縮図」ですから、今回の事例を教材に広域災害に備えるべきと感じました。
 学生時代にアルバイトで訪問したことがあり(記憶は薄れたが)、応援しています!

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