2015/08/24

行楽地だった川の記憶──旧谷端川-2

2015.8.15【東京都】──「神田川を歩く_31」

 前回に続き神田川の支流で現在暗きょとされた、旧谷端川(やばたがわ:豊島区要町〜東京ドーム付近)の大塚駅〜小石川後楽園を歩きます。




大塚駅周辺

 大塚には三業地(料理屋・置屋・待合が営業)があり、知名度は低いが花街(かがい)の顔を持ちます。
 1919年に始まり、最盛期には芸者も150名を数え、F1ドライバーのミハエル・シューマッハ(スキー事故の回復は芳しくないらしい)も訪れたそう。
 山手線内側の旧谷端川沿いに広がり、現在も営業中と思われる料亭はあるが、掲示される「大塚芸者」の新聞切り抜きは日付が古く、「大塚三業組合」ホームページもアクセス不可で、現在の営業については確認が取れません。
 川沿いに遊興地が開けたのは、川が行楽地とされた時代背景によるのでしょう。

 鰻屋の勝手口で「愛知県一色産」の段ボールを目にし、「これは間違いない!」でもいくらするの? 庶民感覚では手が出ない存在になってしまいました……


占春園

 江戸期の松平頼元(徳川光圀=水戸黄門の弟)屋敷跡は、明治期に東京高等師範学校(後の東京教育大学)とされ、同学が筑波大学として移転後は、教育の森公園や文京区スポーツセンターとされます(現在も付属小学校や、放送大学との共同校舎がある)。
 隣接地には現在も松平屋敷庭園の「占春園」が残されますが、手入れの谷間らしく「庭園とは思えない」野趣あふれる雑木林(これが庭園?)の印象です。
 手入れ加減で表情が変化する姿を見せることも、庭園のあり方なのかと。


小石川植物園


 植物園前の消防署で上の訓練風景に遭遇し、見入っちゃいました。
 最初のポジション決めは入念でも、スルスルと進む速さに驚きます。
 装備は命綱だけに見えるが、お腹の部分だけ滑りやすい生地を使ったりするのか?
 でも、縦は滑りよく、横は滑りにくい生地でないと、ひっくりがえってしまいます……
 われわれには手のつけられない状況でも、ロープ1本で挑んでくれる勇気には感謝しかありません。万が一の際には頼りにさせてください!

 以前は江戸幕府の薬園(薬草を育てる地)で、「大塚薬園」に護国寺を建設するため、この地に移設されます(上の字面から想起した大塚製薬のルーツは徳島県)。
 明治期に東京大学の付属施設とされ、現在も東京大学大学院理学系研究科附属植物園ですから、花のディスプレイなどはありません。
 夏の花は少ないのですが、「温暖化に伴う熱帯に生息する花卉(かき)の生育研究」等で繁殖しちゃったら…… やっぱり夏の花は少なくていいと思いそうです。

 右は旧東京医学校本館(国の重要文化財)を移築したもので、内部の総合研究博物館小石川分館は本日休館。


こんにゃくえんま(源覚寺)


 「こんにゃくえんま:眼病治癒祈願」として知られる源覚寺にある「塩地蔵:治したい部位に塩につけると治癒する」には、塩がてんこもりです(上)。
 見た通り頭部と下半身への祈りが多いのは分かりますが、胴体を覆う前掛けは塗らせまいとの意図に感じられます。そこに塩を盛られたら単なる「塩の山」ですものね……


小石川後楽園


 小石川後楽園は、水戸徳川家初代藩主・徳川頼房(水戸黄門の父)が築いた庭園で、明治政府に奉還後は東京砲兵工廠(陸軍の兵器工場)とされます。
 こんな場所に? と思うも、東京では水に恵まれる平坦な空き地は限られます。
 関東大震災で被災後は小倉へ移転し、跡地は後楽園球場、遊園地、競輪場などのレジャー施設とされます。
 軍事施設跡地の平和利用でのお決まりですが、「どれだけ有効的な使い道か!」。いまからは想像できません。

 小石川の由来は読み通り、伝通院脇の小石が多い支流によるそうで、礫(れき)川とも呼ばれたらしいが、品のいい「こいしかわ」の響きが好まれたのではないか?


追記──東海大相模、夏の甲子園45年ぶり2度目の優勝!

 学校は実家の隣駅にあり、小学生時代にきりきり舞いさせられた2年先輩のピッチャーが、巨人原監督と共に甲子園で活躍したこともあり、いまも関心があります。
 わたしの記憶が確かなら(いいのだが…)、前回優勝した決勝戦のラジオ放送を、海水浴に向かう船上(沼津から西伊豆の戸田:へた)で聞き、海水浴でなく野球をやりたくなったこと思い出します。
 ローカルな話題ですが、小田急相模原商店街やイトーヨーカドーは優勝セールで賑わったのでしょう。おめでとうございます(前回決勝戦のニュース映像を見つけました)。

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