2015/11/30

大手町で振り返る夢

2015.11.21【東京都】──「日本橋川を歩く_2」

 今回歩いた大手町は、サラリーマンが働きやすい印象からとても好きな町ですが、現在の猛烈な再開発により、オヤジたちの楽園は排除されてしまうのではないか、とも……




俎橋(まないたばし)

 俎橋から九段坂上に望む靖国神社鳥居後方に、市ヶ谷にある防衛省の巨大アンテナが見通せます。
 二つの施設が直線的に並ぶ光景は偶然としても、「靖国:国を安らかに治める」への備えは、常に欠かせないものと感じさせられます。

 靖国神社での爆発物事件は、世界で頻発するテロ事件との関連はないにしても、同一宗教内での見解の相違が暴発する「喧嘩」は、国内でも頻繁に起きています。
 宗教に限らず、個人、団体、国家の都合で「主張」を繰り返すだけでは、解決の糸口も見いだせません。


雉子(きじ)橋


 日本橋川は左の橋へ流れますが、正面の首都高速の地下は内濠に通じるらしく、江戸城東側の内濠が旧平川の流れを利用して築かれた名残りのようです。
 旧平川の新しい流路とされた日本橋川は、当初東京駅八重洲口の外堀通り沿いに旧日比谷入江に流れ込みましたが、後に隅田川へ通じる道三堀に付け替えられます。
 江戸幕府開府当初は、防御施設整備、上水確保、水害対策や物資運搬用の水路に加え、日比谷入江を埋め立てる都市整備などもあり、てんやわんやだったようです。




 上は、庁内の展示スペース気象科学館ラジオゾンデという高層気象観測用バルーンで、南大東島で実物を目にしたことがあります。
 暗い場所に展示され、カメラのオートフォーカスが機能せず困っていたら、案内の方が明るい場所に運んで支えてくれました(何ともやさしいこの手を公開せねば!)。
 今年の気象庁ハイライトは、7月観測開始のひまわり8号による観測精度の向上(生き物のような雲の動きを表現!)ですが、三菱電機製と自慢げな彼は三菱の回し者か?

 右は地震波伝播の様子を模型化したもので、P波(縦揺れ:奥に直進する振動)とS波(横揺れ:進行方向とは直角の上下・左右に振動)の挙動がよく分かります。
 その名を口にするのも久しぶりですし、食いついた瞬間は、学生時分と同じ目をしていたのでは、とも。
 他に大きな展示施設があるのか、ここは入門編的ですが、盛り上がっちゃったんで「もっと見たい!」と。
 船による気象・海洋観測活動も重要なのに、庁内では肩身が狭いのかパネルだけです(身近でないのも確か)。


 向かう道すがら(入庁は2度目)、いまも抱く「自然現象観測」への関心は、小学時代の天体観測に始まり、新田次郎さんの小説(『芙蓉の人』『富士山頂』等)により肉付けされたのであろうと、10代のあこがれがよみがえります。
 夢の実現はもう無理ですが、アンテナを張り続けていれば知識や視野は広まるもので、自分なりの満足感は得られると納得できましたし、今回の訪問でいい夢を見ていたことを、再確認しました(上の庁舎も移転計画があるそう)。



 大手町は北端で日本橋川に接しますが、猛烈な勢いで進む再開発のおこぼれ的な配慮か? 川沿いに大手町川端緑道が整備されました。
 現在、気象庁前の錦橋から鎌倉橋の先までですが、将来はJRの高架をくぐり常盤橋まで伸びる計画らしい。
 大手町で働いた若い時分は、隙間なく建てられたビルで仕事をするもんだと思い込んでおり、上空に伸びればゆとりを生み出せるなどとは、思ってもいませんでした。

 右は緑道に展示される球状太陽電池。平面より効率いいらしいが、成果が上のLED1個では説得力不足じゃない?


旧タイムライフビル跡地


 期間は短かいもここで働く際、大手町に詳しくない人でもビル名を知る名士的な印象があり、TIMELIFE誌のディスプレーはカッコ良かったが、奇妙な形状の建物で決して使い勝手のいいビルとは思えませんでした。
 ですが、アメリカの連中はオフィスを個室に区切るため、鰻の寝床のようなビルでも各部屋に窓があればOK? だったようにも。
 再開発を待つ駐車場とされた狭い土地に立ち、かなわなかった『TIME 日本版』の夢を振り返ります。


大手町ビルヂング:1958年竣工(再開発未定)

 ビルの地下店舗は、オヤジたちの要求に応えてくれる「コンビニ街」の印象があります。
 右は、そんなビルで唯一デザイン性を感じる階段ですが、立ち位置の階で目に付く空き店舗は、周辺の再開発の影響かも知れません。
 でも、新しいビルに馴染めないオヤジたちは、やはりここの焼魚定食の方が落ち着くことでしょう。

 ここで腹ごしらえをして、銀座に繰り出す「大人スタイル」を教えてくれた方は亡くなられましたが、楽しかった思い出として残ります。

 修行を終え正式な社会デビュー(?)をしたのは、30歳を過ぎて「この町で襟を正してから」の印象があります。
 ここで働く人はエリートではなく、刺激に満ちた環境でアイディアの具象化を目指す人々であると気付き、「ならば自分にも!」と奮い立ち、この町を胸を張って歩くと、「負けねえぞ!」の勇気が湧いてきたものです。
 官庁街とは異なる礼儀正しい人々に、一瞬でも「交ぜてもらえた」ことは大きな財産になっています。
 右の写真に込めた愛情が伝わればと……


追記──原節子さんが亡くなられました

 生前から「生ける伝説」とされた原さんが、伝説となる日が……
 映画が娯楽の主流だった全盛期に、今井正、黒澤明、成瀬巳喜男等々、巨匠の作品に出演し、小津安二郎監督作品で世界の注目を集めますが、小津監督の活動停止とともに身を引かれました。
 「わたくし、ずるいんです:背景に戦争の影が潜む『東京物語』の名ぜりふ」と心を砕く姿には、高倉健さんの寡黙さ同様、日本人が持つ「美徳」への訴求力がありました。
 いかなる巨匠が原さんと名作を作り上げたとしても、『東京物語』『晩春』の世界にはかないませんし、木下惠介&高峰秀子コンビも素晴らしかったが、小津安二郎 vs. 原節子は日本映画最強タッグとして心に刻まれています。
 これまで、ありがとうございました! これからも楽しませていただきます。


追記──羽生結弦「やってやる!」と、世界最高得点で優勝

 自分の限界に挑むアスリートが、異次元とされる難プログラムも「血のにじむ練習」でクリアできると、勝算を持って挑んだところに世界トップのスゴ味を感じます。
 クリア後には、このプログラムが「次の目標」となることを踏まえて、「もっと素晴らしい演技を目指す」と宣言します。
 錦織クンに続き有言実行する若者たちは、オヤジたちと違う生き物に思え「将来を頼んだぞ!」と、われわれは早く幕引きした方がいいのでは? と思ったりします……

2015/11/23

自由な空気感が心地いい──神保町

2015.11.3【東京都】──「日本橋川を歩く_1」

 今回から、江戸時代に水害対策や濠の造成などの改修が繰り返された旧平川の、残された流路である日本橋川を歩きます。
 ほとんど首都高速に覆われるので、その周囲を歩かないと絵にならないだろうと……




 伊勢神宮の流れを受ける社の所在は知るも、初めて足を運びます。開設には大隈重信が尽力しますが、後の変遷は説明できそうもないので、リンク先を参照下さい。
 神前結婚のスタイルは、大正天皇の結婚の儀を元にここで確立されたそうで、歴史が浅いというか、以前はそんなことできなかったんでしょうね。
 参拝者男女比「1:9」の女性を引きつけるのは、万物のムスビを司る造化三神が祭られるためで、東京一有名な縁結び神社の自負も納得できる人出です。
 どうりで足が向かなかったわけだ……


日本橋川分岐(リンク先の絵が分かりやすい)

 前回の外濠が神田川に合流する飯田橋駅付近から、日本橋川が分岐する小石川橋付近一帯は、水の要衝というより低湿地帯だったようです。
 江戸開府当時の平川には、外濠(紅葉川)・神田川・谷端川鶏声ヶ窪筋の流れが集まり、日比谷入江(現在の和田倉門付近)に流れ込むため水害も多く、幾度となく流れが付け替えられました。
 洪水対策に加え、平川を天然の濠とする事業として「北から攻めてくるのは伊達政宗」と警戒する家康に、お茶の水付近の水路開削(現神田川)を命じられ、みずから攻め手を封じたことで、恭順が認められたとのこと。

 付近には、中央本線のルーツである甲武鉄道「旧飯田町駅:旧貨物駅付近」の案内があります。
 開通当初、東京のターミナル駅として賑わった様子は、付近に立ち並ぶ「東京農業大学開校の地」「日本大学開校の地」等々、案内の多さにうかがえます。

 日本橋川は、後楽園の黄色いビル付近から日本橋を経て、霊岸島の脇で隅田川に流れ込みます。
 首都高速は付近で、神田川から日本橋川に進路を乗り換え都心に向かうため、ほぼ全流路が高架下とされます。


神保町周辺

 専修大学本部前に、開校当時の門が再現されています。
 以前この隣のビルに、イギリス金融情報誌の日本版を出版する会社があり、毎週通ったことを思い出します。国際的に信頼される情報誌ながら日本版はバブルと共にはじけ、移転後に『磯野家の謎』を大ヒットさせた出版社が入居したらしい(はじけても泡っぽい?)。

 俎橋(まないたばし)近くで存在感を示した、「旧今川小路共同建築:九段下ビル」は姿を消しました。

 神保町の中心を東西に分断する靖国通りには、「文化の境界線」とも言えるギャップが横たわります。
 南側の古書店街に対し、北側の裏道は歓楽街的な町並みで、気軽に入れそうな雰囲気だけに、大学街から本を探しに来た学生を手前で誘い込もうとする関門にも見えます。そんな立地から「人生劇場:パチンコ屋は健在」なのかとも(左奥ピンクの看板)。
 ですが、付近の気取らない店に集まるオヤジの様は、希少本に限らず「中古で十分」と古本を物色する精神に通じるようにも……

 一方、靖国通り南側の古書店街にも、三省堂書店裏口から続く裏道があり(すずらん通りとの間)、「ラドリオ」「ミロンガ」「さぼうる:上」等、アングラワールドへの呪文のような店舗は健在です。
 路地を曲がり店を目にするたびに「ここも入った」の記憶がよみがえり、「神保町でどれだけコーヒーを飲んだんかい?」と、改めて驚きます。
 以前の岩波ホールが持っていた独特の雰囲気(ミニシアターの先駆け)や、本を探して喫茶店に立ち寄る「神保町スタイル」にスッと馴染めたのは、必要以上に「人をかまわない」自由な空気感が心地よかったようです。

 神田神保町一丁目(すずらん通り南方)の再開発で、ジェイシティ東京となったビルに、「うちは大丈夫?」と世間を震撼させる「Asahi KASEI」の看板があります。
 要因は、一人で何役も担当させられる過重労働と、元請けのミスを押し付けられたためではないか、とも。
 再開発前の、狭い道に小規模な活版印刷、製本、配送の店舗が並ぶ「本の町を支える」雰囲気や、震災復興期からの建物は、愛着を感じる「町の風景」でした。

 隣接する学士会館は東京大学開設の地に建てられた(1928年:昭和3年)施設で、日本野球発祥の地(右のモニュメント)&同志社大学創設者の新島襄生誕地とのこと。


追記──「プレミア12」韓国戦敗退の詰めの甘さ

 7回まで躍動した大谷投手も、握力がなくなった印象での交代は仕方ないし、8回を押さえた則本を「9回も行っていいのでは」と、なぜわたしも思ったのか? 7回までは、8・9回はピッチャーを6人つぎ込んでも! と思っていたのに……
 そこが、WBCで優勝した原監督采配の厳しさとの違いです。
 決勝戦のクローザーに、ダルビッシュを指名する「最善の策」を選択することで、チーム内や見る側にも監督の「これで負けたら仕方ない」の覚悟を示しました。
 トーナメントでは高校球児のように、どの試合も全力で立ち向わねば、勝ち抜けないことを忘れてしまったようです……

2015/11/16

お堀を活用する──市ヶ谷〜飯田橋

2015.10.21【東京都】──「神田川を歩く_外濠2」

 本日も四ッ谷三丁目付近からスタートしますが、今回は、新宿通り(尾根道)北側の谷沿い(曙橋、防衛省)〜お堀沿いを歩きます。




曙橋付近(旧紅葉川)

 神田川の水源でもある武蔵野台地の地下水面は浅く、付近の分水嶺(新宿通り)を挟んだ両側は(反対側の新宿御苑は渋谷川の水源)、地下水が湧き出る地域でした。
 曙橋付近の急峻な谷筋(右:旧紅葉川)は、前回の荒木町付近にあったとされる景勝地の滝を始め、湧水量が多い複数の流れにより刻まれたようです。

 防衛省付近にエスニック系の飲食店が多いのは、怪しまれない国をカモフラージュしたスパイ活動の拠点? は、言い過ぎと思うも脇が甘い国なので……(失礼)



市ヶ谷

 以前、付近の職場に通った時分と変わらないと感じたのは、早い時期から企業が事務所を構えたため区画整理も進まず、妙に細長い古い区割りが残るためか?
 忘れることのできない阪神淡路大震災当時ですから、もう20年なんて、時の流れ、はやすぎ〜!

 右は駅のホーム下に見える市ヶ谷フィッシュセンター。外野の「釣れやしない」と、当事者の「やっぱりダメか」のベクトルは似ていても、ぼんやりと集中するリフレッシュは効果ありそうで、ハマちゃんのように「坊主は仕事に戻ります!」と、仕事への意欲が高まるかも?

 右は一目瞭然、「各駅停車と快速のスピードの違い」を撮った絵です(嫌いじゃない)。
 これは2本とも上り電車(右に進行)ですが、4本あるレール全部に電車が走ると左右の速度差が互い違いに見え、面白い絵になりそうです。
 土塁上の桜並木遊歩道は、ビルの谷間のオアシス的存在らしく(お堀の水は仕方ないが)、サラリーマンや学生が何とな〜く寄ってくる憩いの場となっています。


靖国神社

 明治期以降の、海外侵略戦争の愚かさを忘れてはいけないと国民は心に刻みますが、個人の心情による参拝を国民の代表のように語る姿は、国民の思いをないがしろにする無礼な行為と映ります。
 創建当初(1869年:明治2年)は明治維新に尽くした幕末志士を祭ったが、現在は戦争を主導した国の失政を国民に謝罪するための施設となります。
 施設の維持費は国民への慰謝料とも言えるが、秋のレビュー(←やる気のないページ)で、「支出を抑えるべき」と問題視する人が出てくるのは、戦後100年頃か……


飯田橋付近のお堀端

 以前のお堀には、市ヶ谷の釣り堀に加え、飯田橋ボート場の景色から、レクリエーション施設の印象がありましたが、現在はおしゃれな水上カフェ(下)が憩いの場となっています。
 ルーツとなる東京水上倶楽部(1918年:大正7年)のボート貸し出しは、現在も営業しているらしい。  
 飯田橋駅に隣接するが、人・電車・道路の騒音も、凹地のお堀では気にならないらしく、決してきれいなみなもではないが、都心に「なごみ?」をもたらしてくれるようです……(右は、お堀端のギャラリー)


 飯田橋の名画座「ギンレイホール:1974年開館」は健在で、神楽坂入口付近の大きな看板(現在は無い)に、誘われた方も多いのではないか。
 近ごろでは、体力が必要な2、3本立ては「もう無理!」と、意欲すら芽生えません。
 以前の「気力」「体力」に満ち1日何本でも挑めた様は、「食欲旺盛」だった時分を振り返る感慨に近いと思ったりします……


追記──ミャンマーの民主化革命が現実のものに!

 ミャンマー総選挙で、アウン・サン・スー・チーさん率いる野党が第一党となる勝利により、軍部支配の政治に終止符が打たれました。
 この爆発は、国民に蓄積された不満が解放される際に生まれるもので、外国からは判断が難しい国民の叫びを、初めて確認できた瞬間になります。
 民主化革命実現への多難な道を、同時代に考えさせてもらえたことはとても貴重な経験ですし、これからは、国の再構築に挑むスー・チーさんのお手並み拝見! です。
 彼女を美しいと感じるのは「迷いのない姿」が放つ輝きではないか、と……


追記──防げなかったフランスのテロ事件

 言い方は悪いが「やりたいようにやられた」テロ事件で、「パリに住みたくない」と思わせる犯行目的を達成されてしまいます。
 国内に潜伏する仲間の手引きとすれば、どの国にも起こりえる事態です。
 これは宗教戦争でなく、ドロップアウトした連中の母国への反抗と捉えると、武力での封じ込めばかりでなく、資金源となる「オイルマネー:支援者」を断ち切る、国際社会の包囲網の確立が重要になってきます。
 オランド大統領は「フランスは戦争状態」としましたが、これは紛争地域を越えて広がる戦争という認識を持つ必要があります。

2015/11/09

江戸城へ続く分水嶺──四谷

2015.10.18【東京都】──「神田川を歩く_外濠1」

 今回は、旧玉川上水終点の大木戸水番所(新宿御苑付近)から、外濠の最上流である四谷濠(真田濠:四ッ谷駅周辺)に至る、神田川水系の分水嶺(水系の境界)に通された新宿通り付近を歩きます。



旧玉川上水(新宿御苑、旧大木戸水番所 付近)

 玉川上水は多摩川の羽村堰で取水され、武蔵野台地を潤しながら江戸を目指し、旧大木戸水番所(下はその碑)から江戸市中へは、地中の水道管で配水されました。
 時代劇で目にする長屋の共同井戸は、その水道管から水を汲み上げるものらしく、確かに浅そうな井戸でした。

 地下に現存する旧水路は大雨時の排水路とされ、地上は玉川上水・内藤新宿分水散歩道に整備されます。
 右は木の実落下防止柵で、付近では「ボコ、ボコ」と当たると痛そうな音が頻繁に聞こえるので、柵は必要そうです(流れに落ちた際の水はね防止用かも)。

 付近から四谷に向かう新宿通りは、周辺の分水嶺(尾根道)を通されます。北側の旧厚生年金会館付近の坂は早稲田方面に続く神田川水系、南の新宿御苑の斜面は渋谷川水系と知ると、ここが江戸市中への配水地にふさわしい場所であると納得できます(赤坂や青山方面にも配水した)。
 水は高所から低所に流れることは、誰もが目で見て理解できますから、「どこを通せば江戸城まで水を届けられるか?」という道筋探しは、楽しそうにも感じられます。


荒木町(四谷三丁目駅付近)


 旧大名屋敷にあった、滝のある庭が明治時代に景勝地とされ、周辺に飲食街や花街が栄えた歴史を持ちます。
 名前は知るも初めての潜入で、通り両側に伸びるムカデの足のような行き止まりの路地に店が並ぶため、出口をふさがれたら観念させられそう、と……
 右写真の左側に見える電灯柱の遺構が多く残されるのは、町の意思のように感じられ、再開発に屈しない宣言のようにも見えました。
 上の光はビルの窓からの反射光ですが、淡い光線を楽しむ場所柄のわけもなく、日の当たらない低層飲屋街の花は、やはり夜に開くようです。

 かなり前ですが、付近の「随園菜館:2009年閉店」に職場仲間とよく足を運び、そこで「豆苗:エンドウの若菜」を覚えました。多少のエグさ(青さ)が酒のつまみにもってこいの味で、舌の記憶がよみがえります。

 四ッ谷駅に近いしんみち通り(右)には、何かの機会のために飲み屋情報の収集に足を運びます。
 ネット検索は最終手段で、飲み屋情報はやはり「鼻」と「足」で探さねばと。


四谷濠(真田濠)

 右は、外濠の最上流になる四谷濠(真田濠)で、江戸城への水道管が通る分水嶺付近を掘り下げたもの。
 真田の名は、関ヶ原合戦以降豊臣側についた弟 真田幸村(信繁)に対し、徳川側で戦った兄 信之によるもの。
 濠の建設工事には伊達・上杉家も参加したが、家康が信之を気に入った様が読み取れる気がします。
 戦時中に東京大空襲被害の瓦礫廃棄場とされ、その後埋め立てられ現在は上智大学のグラウンドとされます。


 上は千代田区の区民体育大会閉会式の様子(つまらない絵でゴメンナサイ)。
 四ッ谷駅〜市ヶ谷駅間の市ヶ谷堀は半分ほどが埋め立てられ、千代田区外濠公園総合グラウンドとされます。
 千代田区内にあるスポーツ施設は、神田にあるスポーツセンターとこのグラウンドだけらしく(郊外施設は小平市などにある)、広い土地を確保できない自治体には、遺構の保存ではなく目の前の土地に見えたようにも……(埋め立て後なら妥当な選択とも)

 人手による施設を経由した外濠の水は、飯田橋駅付近で神田川に合流します。


追記──岸恵子さんの姿がカッコいい!(市川崑 生誕100年記念映画祭)

 町中で見かけた「市川崑 生誕100年記念映画祭」のチラシの、岸恵子さんの姿に引き寄せられ手に取りました(リンク先)。『おとうと:1960年』(傑作!)の絵と思うが、立ち居振る舞いはキリッとしながらも、可愛い印象を受けたと思います。
 ハッとするカッコいい絵をみせてくれる市川さんにとって、「ちゃき ちゃき」動きまわる岸さんは、格好の被写体というかベストマッチの印象がありました。