2015/12/28

空の広さも皇居の魅力

2015.12.19【東京都】──「内濠を歩く_1」

 今回から、江戸時代の平川(神田川・日本橋川)および玉川上水を利用した、江戸城内濠周辺を歩きます。二重橋前スタートと考えましたが、写真は違う橋です。




日比谷公園


 高校生時分は映画『スター・ウォーズ』第一作(エピソード4)を、当時の日劇で観たいとミーハー的感覚で映画街に足を運びましたが、近頃は人ごみを避けたく機会も減り、ビル群を抜け皇居に接した際の「空が広い!」感慨も忘れていました。
 近頃ではビルが高くなった分、そのインパクトは大きくなったのではないか?
 新作『スター・ウォーズ』公開の騒ぎはどうかと思いますが、ハリソン・フォード&ファルコン号をチラつかせる宣伝には、第一作のワクワク感がよみがえってきます……


 江戸時代まで海だった(日比谷入江は日比谷公園〜馬場先門奥まで続いた)様子を想像すると、海辺に造られた江戸城の姿が浮かんできます。
 防御・海運には適していたが、井戸水に塩分を含むため、玉川上水開通まで上水に悩まされる土地柄でした。
 上の東京クリスマスマーケットは、トイレが増設されるほどのイベントながら初体験。
 背後のビルを入れまいと思ったが、この方が日比谷公園らしいかと。


皇居前広場


 以前一般参賀で皇居に入った際、上の正門石橋を右から渡り、奥で折り返すように左から右へ渡った橋が二重橋の記憶があるも(それが正解)、手前に二連のアーチ橋(二重橋に間違えやすい)があるため、いつも自信を失います。
 天皇に関心も無いのに大挙して押し寄せる中国系の観光客は、中国共産党に関心を持たずに人民大会堂を訪れる日本人観光客同様、「観光コース」を回れば満足なのでしょう。


 冷たい北風が吹きつける皇居前広場には風を避ける場所はありませんが、繁華街のビル風に比べればここの方がいさぎよく風を受けられると思ったりします。
 上のような柳の街路樹が少ないのは管理の手間かも知れませんが、京都祇園の白川沿い風は無理にしても、このしなやかさは日本人好みではないか? とも……


法務省旧本館


 旧司法省庁舎としてドイツ人建築家により設計され(1895年)、関東大震災は耐えるが空襲で壁面と床以外は焼失しました。
 米軍の空爆はかなり精度が高いと考えると、ドイツ人が関わった建物は「焼き尽くせ」と狙われたのかも知れません。
 江戸時代この一等地に、関ヶ原の戦い前から敵対した米沢藩上杉家藩邸があったとは驚きます。外様大名を城の膝元に置く幕府の狙いは「締め付け:負担増、監視」と思われますが、謙信から受け継がれる「結束力」により耐え続けたのでしょう。


最高裁判所


 正面の威厳ある姿に負けず、背面も必要以上にごつごつしたデザインで存在感を示す建物は、裁きには様々な側面から洞察する必要がある、とのコンセプトか? 確実に言えるのは「和」の佇まいではない、ということです。
 衆議院選挙の際、最高裁判所裁判官国民審査を求められますが、判断材料がないためどうしていいものかといつも困ります(罷免された裁判官はいないそう)。
 近頃よく目にする「一票の格差」の違憲判決を軽視する政治の態度は、支持基盤の保持・擁護目的に見えますが、本来先生方の役割は「地域活性」じゃないの? と、一応言いたくなります……


国立劇場

 演劇は映画と違い、限られた観客の前で生身の演者が振る舞うため入場料が高いのは当然で、関心はあっても手が出ないのが正直なところか。
 この絵を選んだのは、映画『ひとひらの雪:1985年』の、津川雅彦と秋吉久美子のツーショットが思い浮かんだためです。
 映画の善し悪しに関係なくシーンを想起した瞬間は、当時へのタイムスリップを楽しめたりします。
 でも当時、そんな愛憎劇をどう感じていたのか?


追記──あっぱれ、澤穂希!

 女子サッカー皇后杯の決勝戦は、澤選手の決勝ゴールでINAC神戸レオネッサが優勝しました。
 観る者の期待、チームメートの「ラストゲームは優勝で!」、そして「澤さんに決めて欲しい!」とボールを集める思いに応えた「強さ」には、言葉がありません。
 現役選手やこれから目指す者にも、彼女の「背中」は大きな目標となることでしょう。


追記──今年もっとも印象に残ったのは「リポビタンD」のロゴ

 W杯の試合は無理でも、ラグビー日本代表の分厚い胸板には「リポビタンD」のロゴがまぶしく輝いていました。「ファイト一発!」にふさわしいスポンサー契約ですが、これだけのハイリターンに対してボーナスを出す姿勢が、大正製薬の好感度をもう一段高めたのではないか? そんな好循環は外野の目にもうらやましく映ります。

2015/12/21

潮が香る町名──日本橋○○町

2015.12.5【東京都】──「日本橋川を歩く_5」

 今回は、兜町の日本橋川対岸にあたり、潮の香りが伝わる町名が「日本橋○○町」と残される周辺を歩きます。




日本橋小舟町(にほんばしこぶなちょう)


 浅草寺の大提灯にある小舟町ってここだったんですね。
 江戸期から関東大震災で壊滅的被害を受けるまで日本橋の魚河岸があった町で(その後築地に移転)、威勢よく活気があったでしょうから、浅草寺での存在感も納得です。
 日本橋三越まで徒歩10分程度の路地には、現在も下町らしい町並みが残りますが、建て替えを機にこぎれいになっていくのは当然の流れです。
 上は、レトロなビルに店を構える雑貨店。


小網神社(日本橋小網町)


 現在改修中で全貌は目にできませんが、「どぶろく祭り:新嘗祭」では「ススキミミズク」が配られるそう(有料)。川向こうは「茅場」町ですから、一面が葦原だった時分からの慣習ではないか? 雑司が谷鬼子母神と同じ言い伝えが残りますが、場所柄こちらがルーツではないかと。
 上はまゆにおみくじを入れた「まゆ玉おみくじ」で、そんな使い方は「おカイコ様に申し訳ない」ように思うが、一本の糸で紡がれたまゆのように「縁が一本の糸で結ばれますように」と願うものらしく、その説得力に女性が引き寄せられています。
 家康が付近の網引きを気に入り、肴御用を命ぜられ町名の由来になったらしい。


日本橋蛎殻町(かきがらちょう)


 小舟町、小網町からは生活感が伝わるが、この名称は「海だった?」と響きます。
 中央区のホームページには「昔は漁師の小網の干し場であり、牡蠣の殻の堆積した海浜であったらしいのですが、町名の由来は明らかではありません」とあります。
 水天宮はこの町に属しますが、現在社殿改築のため浜町の明治座付近で仮住まい中。
 隣接する人形町の庶民的なにぎわいは、明治座観劇後の人の流れのようで、人も町も気取りが無く親しみやすさを感じます。
 名物「人形焼き」ではなく「たい焼き」に行列ができるのは、時の流れか?


霊岸島(れいがんじま)

 前回歩いて以来、金田一耕助が現れそうな名称と共に忘れられないのが、「こんにゃく芸者」(江戸時代に埋立てられた島は地盤が軟弱なため「こんにゃく島」と呼ばれ、そこで働く芸者の通称)のキャッチーな語呂です。
 当時の歓楽街は町外れの水辺にあるため(吉原遊廓の前身は人形町にあった)、似たような形容がありそうです。
 映画に『温泉こんにゃく芸者:中島貞夫監督 1970年』がありますが、関係無さそうなのでリンクは控えます。
 右は、日本橋川(奥)と亀島川を仕切る日本橋水門。

 名称は、島に霊巌寺を建立した僧侶 霊巌に由来し、後に京都知恩院の住持(責任者)となる人物。
 後の大火により一帯は焼失したため、寺は深川に移転し、大名屋敷も郊外に転出します。
 ですが跡地には、他地域の防火対策により移転を迫られた庶民が移り住んだとは、どういうこと?

 右は店舗外から、野菜保冷庫に雪だるまやXmas飾りを施した季節感をのぞいた絵。
 雪だるまは、氷ではなくただの飾りらしい。

 橋をくぐる「日本橋クルーズ」の船は、日本橋川〜神田川〜隅田川を巡る観光船。
 以前NHK『ブラタモリ』で目にした、日本橋を船から見上げる眺めは楽しそうなので、是非一度。
 現在の日本橋川は、飾りっけのないコンクリートに覆われていますが、護岸ディスプレイを工夫すれば「水都東京」という新たな魅力が生まれるのではないか? とも。
 右は、日本橋川が隅田川に合流する付近の豊海橋。


 上の霊岸島水位観測所周辺では、月島の高層マンション群が頭の上に見えても、開けた水路が開放感を与えてくれます。
 ここは、日本の水準測量(高低差測量)の聖地とされる地で、以前日本で最初の全国平均水面の観測所(日本の高さの基準:現在は油壺験潮場)があり、付近に設置される日本で最初の水準点は、「交無号」と名付けられるほど重要な存在です。
 大地震後には地盤の隆起・沈下があるため、変動を続ける大地は常に観測し続ける必要がありますが、現在はGPSが概要をフォローしてくれます(革命的!)。

 今回で「神田川流域」の散策は終了です。
 これまでは、流域の都市化に伴い流路をコンクリートで固め、洪水と戦う宿命を背負うイメージしかなかったが、思いのほか時間を要した広い流域(支流の善福寺川、妙正寺川等)を歩くことで、都心部の主要河川とされる姿を認識できたと思います。


追記──澤穂希選手 引退

 闘志あふれるプレーを続けられないと感じたのですから、燃え尽きたということなのでしょう。
 どこからも彼女に対する「陰口」を耳にすることのない人格と、サッカーに取り組む姿勢には、敬服しかありません。
 彼女が新たなステージに引き上げたと言っていい「日本女子サッカー」を、現状からさらにステップアップさせてくれることと期待しています。
 お疲れ様でした!

2015/12/14

西洋化の実験室──兜町

2015.11.28【東京都】──「日本橋川を歩く_4」

 今回は、日本橋に隣接する金融の中心地兜町を歩きますが、まるで用の無い町なので、おそらく初めてではないかと。



 明治維新当時の周辺は「西洋化の実験場」のようで、競って西洋風の建築物を造りましたが、関東大震災の被害を受けたことで、耐震性を意識した「日本向け西洋建造物」が生み出され現代に至ります。
 銀行:第一国立銀行、郵便局:日本橋郵便局、百貨店:三越など「日本で初めて」とされる施設が、五街道起点の陸路や、当時日本橋にあった魚河岸への水路が開けた、流通の中心地で始まったのは当然と言えそうです。
 付近に通された日本初の私鉄「馬車鉄道」は、路面電車〜東京市電(後の都電)となります。
 右は付近のレストラン。


兜神社

 兜町の由来には、平将門の兜を埋めて塚にした、源義家が奥州遠征の際に暴風を鎮めるため鎧を沈めて祈り(鎧橋の由来)、帰途に兜を埋めたなどと伝わります。
 いずれの言い伝えからも「戦の支度を解く」場であった様子がうかがえますが、現在では兜や鎧ではなく、頭脳を武器に戦いが繰り広げられる戦場となりました(株取引に重要なのは、頭脳だけじゃないような気がしますが)。
 右の証券界の守り神は、「商売繁盛」ではなく取引業務の無事を祈るため、派手さではなく堅実さが求められた姿のようです。


東京証券取引所

 よく目にする矢印のロゴは「営業中 なう」という意味のようで、取引のない土曜日には表示されないらしい。
 兜町はビジネス街の中で、週末に最も人気の無い町ではないか? 市場休業日は出勤してもやることがない(休日出勤無し)としたら、何とハッピー! なんてことはないか……
 株券売買立会場での取引(大勢が指でサインを出していた)が終了後は、皆パソコンの前で鼻をほじっているのか?(どうもジジ臭いイメージがあり、失礼!)
 内部見学は平日のみですが、是非一度!


 前身の東京株式取引所は、日本初の公的な証券取引機関でしたが、戦後GHQにより投機的な取引が制限され、世界基準のルールに従う東京証券取引所が設立されます。
 米軍は東京を空襲する際、戦後の占領統治ビジョンに従い、兜町を含む日本の中枢機関周辺の攻撃を控えたとされます。
 庶民を焼き払い、中枢機関を生かし利用する占領軍のやり方には憤りを感じますが、日本軍も同じだったのかも知れません……

 上の郵便受けや右の二重扉は、周囲に木造家屋が多かった時代の防火対策で「信用の糸口は防火設備」という時代背景がうかがえます(いまも必須条件だが)。
 関東大震災で火災の被害を受けても、木造の家を建てるしかない庶民にとって石造りのビルは堅牢に見え、安心感を与えたことでしょう。
 ですが、次の大地震でどうなるか分からないので、可能な限りの準備をしておくべきと、現在暮らす公団アパートは取り壊されます(平成30年4月30日までとされました)。


阪本小学校

 右は中央区立阪本小学校にある像で、小学校のホームページにも『少女』 山本正道氏作 1992年としかないが、小学校の門にふさわしい像と感じます。
 見る側の受け止め方で、遊ぶ友達を待っている、雨の日に迎えの親を待っている(長靴に見える)など、日々子どもたちは違った解釈ができるのではないかと。
 ここは、関東大震災後の復興事業で建築され(1928年:昭和3年)、明石小学校の仲間とされる都内最古の小学校のひとつで、小説家 谷崎潤一郎の母校。


茅場町(第2井上ビル)

 右は、亀島川に面した味わいのあるビルで、映画の撮影に使えそうな空気感を持ちます。
 以前水路沿いに発展した町の名残りのようですが、当初のモダンが現在のレトロとして利用されるためには、頑丈な建物を作る必要があります。
 建設当時(関東大震災後の1927年)の、いかに頑丈な建物を造るかというテーマが現在のエコの原点と考えると、時代のトレンドを目指す際にも、「将来のビジョン」をしっかり持つ物だけが生き残るように感じました。


追記──金星探査機「あかつき」復活!

 軌道投入失敗から5年の間、背水の陣で最後のチャンスに向け準備を重ねてきた関係者の執念に、拍手を送ります。
 研究とは「あきらめないこと」と耳にしますが、それは日常生活や社会生活も同じで、苦境を乗り越えた先には大きな達成感・期待感が持てるはずです。


追記──ノーベル賞ウィークの笑顔!

 受賞決定から授賞式までは、これまでの研究活動に対する「ごほうび」のような笑顔の日々が続きますし、その姿を目にしたわれわれも明るい気持ちになれます。
 1901年に始まる同賞はスウェーデンの機関が決定するもので、授賞式が行われるストックホルムの町は「功績を讃え、学ぶ」という、前向きな文化を構築してきました。
 笑顔にあふれる町では、物質文化から解き放たれる瞬間が経験できそうです……


追記──テレビ東京ドラマ「釣りバカ日誌~新入社員 浜崎伝助」終了

 映画シリーズが始まった頃「漫画とイメージが違う」の声を聞きましたが、回を重ねるうちに馴染めたように、世界観を楽しみたいとすれば「次は映画!」でしょう。
 三国連太郎さんも、映画を愛し続けた映画バカ(大きな借金をして映画を作った)ですから、きっと「スクリーンで観てみたいですね」と言ってくれるのではないか……

2015/12/07

日本の中心を歩く──日本橋

2015.11.21【東京都】──「日本橋川を歩く_3」

 今回は、江戸時代に五街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)の起点として定められ、明治期以降も「日本の中心」として認知される日本橋周辺を歩きます。



日本銀行

 右は日本銀行の紋章で、6個の千両箱の上に立つライオンが、両側から「日」の図案を支えます。
 建物の設計者 辰野金吾(東京駅も設計)が、イギリスの国章など、ライオンをあしらう欧州の紋章にならったものらしいが、日本と関わりのない動物ですから、それこそ「欧米か!」です。
 当時日本であまり知られない動物を用いることで、「開国の世」をアピールし、視線を世界に向けさせる狙いがあったのか?
 1957年発行「聖徳太子像の5千円札」の絵柄として馴染みのある世代は、ガキの時分から「百獣の王」の認識を持っていましたから、「強さの象徴」程度には感じていたのだと思います。


 上は、日銀と三井本館の間に残される消火栓で、一帯の遺構を保存する流れらしい。
 アメリカのTVドラマ『宇宙家族ロビンソン』のロボットを想起した、で伝わるか?


三井本館(三井記念美術館)

 右は、関東大震災で被災した旧三井本館(1902年:明治35年)を、建替えたもの(1929年:昭和4年)で、関東大震災の2倍の地震にも耐えられる強度設計とのこと。
 金庫の扉は50トンあり、日本橋の通行を認められず船で運ばれたなど、近頃のグローバル社会では、そんな「企業の意地は不要」と海外投資家に却下されそうですが、当時の心意気が感じられます。
 三井財閥は、三井越後屋(三越・三井銀行)に始まるため、日本橋でも三越と三井本館は軒を連ねます。現在放映のNHK連続テレビ小説『あさが来た』(楽しんで見ている)では、主人公の実家にあたる。
 日本銀行の母体が三井銀行とは知りませんでした……


日本橋三越

 誰にも見られずにライオン像(1914年:大正3年設置)にまたがったり、触った受験生は合格するとされるらしく、ずっと像をいじる右のおばちゃんもまたがったのか?
 モデルはロンドンにある像で、関東大震災や戦火をくぐり抜けた強者にあやかりたい気持ちも理解できるが、ライオンを敬うルーツは旧約聖書の記述により、ユダヤ・キリスト・イスラム教に共通するらしい。
 ますます「そんなの関係ねー!」と思うが、当時の日本は「欧米化!」を目指していたのです……


日本橋

 日本道路網の始点とされる道路元標は、橋(道路)の中央に埋められ近づけず、頭上のシンボルを代替に。
 シンボリックな橋の上に、首都高速を建設した都市開発(1964年東京オリンピックに向けた道路整備)は汚点と批判され続け、ようやく地下化(?)に向けた動きもあるらしいが、かなりの大事業となりそうです。
 現在の橋は19代目で国の重要文化財ですから、多くの人が自慢できる景観を望んでいることは確かです。


東京日本橋タワー2015年竣工

 右は柱に貼られた化粧石ですが、そこから伝わるのは「地球の躍動感」ではなく、寄せ集めによる「混沌」?
 何をやろうが三越や高島屋(下2枚目)の「古典」にはかなわないため、現代アート風を選択したようにも。
 どうせなら、化石が見つかりそうな石の方が話題として広がると思うのは、少数派か?

 下はコレド日本橋ANNEXの、ガラス貼りのキッチン。
 厨房はに閉鎖空間的なイメージがあるが、ここならスタッフもリフレッシュできる? と思うも、彼らは集中していますから、外を眺めるヒマも無さそうです。



日本橋高島屋


 高島屋を訪れる機会はめったにないが、いつもテーマパークを思わせるようなエントランスのディスプレイに感心させられます。その時々の空気感を表現する場には、人々のあこがれの視線が注がれたのでしょう。
 「スゲエ!」と感心するが、関心の無さが見え見えのコメントでスミマセン……


追記──おばぁ(平良とみさん)が死んでしまったさぁ……

 ティダ(太陽)のような存在でしたが、われわれには想像もできない苦難や辛い思いを秘めながらも明るくふるまう心には、若者たちの未来を信じ応援する「沖縄戦経験者の使命感」があったに違いない。
 受け手側の年代で思い浮かぶのが、沖縄出身のモデル知花くららさんの「戦争や基地について知って欲しい」気持ちと「沖縄の自然や文化を見て欲しい」思いは同等で、そこにある大きな溝を「フラットに受け止める」心構えが備わってきた、と語る姿。
 孫の世代まで戦争経験者の思いをキチッと通せたおばぁ世代の努力は、先々まで語り継がれるでしょうが、ヤマト(本土人)にはこの先も伝わりそうにありません。
 まぶしい『ちゅらさん』の3ショットの写真(スーちゃんも不在)からは、沖縄離島ブームの火付け役の功績とともに、おばぁのようなチャーミング+たくましい女性が「甘えん坊の男を育てる」沖縄文化(?)がよみがえります……
 ありがとうございました! おばぁたちを忘れない沖縄は、きっと大丈夫です。