2016/12/26

江戸・東京の玄関口──北品川

2016.12.17【東京都】──「目黒川を歩く_22」

 江戸時代の目黒川は、旧東海道付近で海側の砂州に行く手を阻まれ大きく蛇行し、京浜急行 北品川駅付近まで北上したそうで、付近の船だまりは旧河口の名残りになります。



 旧東海道は、緑の北品川駅と右側水色の海(低湿地)の間を通りました。

北品川の迷宮


 前回歩いた路地は周縁地のようで、京浜急行 北品川〜新馬場駅付近には楽しげな迷宮の本丸(?)が広がります。
 生活動線の路地には、狭くても「抜けられる」ことが求められるので、初めてでも「きっと大丈夫!」とズンズン進めるが、たまに建て替えによる行き止まりに遭遇すると「抜け道くらい確保しとけ!」のグチがでます。
 付近の共同井戸(現役でも飲用はNG?)を利用するお年寄りの姿から、迷宮の暮らしやすさが伝わってきます。

 新馬場の駅名は、江戸期の品川宿に常備された馬の施設に由来(競馬場ではない)。上は、眞宗正徳寺。


旧目黒川河口付近


 江戸期の品川湊は、江戸市中の浅瀬に向かう小型船への積み替え港としてにぎわったため、遊んで暮らす人(ビッグコミックオリジナルでまだ連載中!『浮浪雲』の生業は船問屋?)って、結構いたかも知れません。
 宿場と港が隣接する場所柄から、物語の猥雑な空気を想像するのは主客転倒でも、分かりやすい気がします。
 陸・海路とも江戸玄関口の認識から、品川台場(台場小学校付近)を築きペリーの黒船を横浜まで退かせますが、律儀に玄関から入ってくるゴジラの上陸を自衛隊は防げませんでした(右が上陸地とされる)。
 ゴジラも登場時のダークサイドは薄れ、背後の天狗のような、畏怖し、敬う隣人的存在となったようにも……

 船だまりの対岸には、空襲をまぬがれた戦前の住宅が残る一画があります。保存展示施設のように小ぎれいで、品川区 しながわ百景「北品川の古い民家の家並み」のプレートもあるが、区が保存しているわけではなさそう。
 ですが、生活感の無い家がそのまま残されるのは、まるっと買収が完了するまで壊さないで、程度の要望は伝えているようにも(保存運動中?)。
 付近は品川宿の外れで現品川駅に近いが、鉄道は旧東海道より陸側に敷かれたため、旧中山道 妻籠宿のように時代から取り残されましたが、そのおかげで石畳が残る迷宮のような町並みが生きながらえたようです。

 上の古民家に近い右のワンルームマンションからは、横浜寿町のドヤ街で目にした、一般的なマンションを仕切りワンルームに改造した建物を想起します。
 現在暮らす古い公団アパートは、間取りは狭くても一間程度の窓はあり、それが半分の部屋を想像すると窮屈な監獄のようで、カプセルマンションと表現したくなります。
 また、うちのアパートには玄関を開けっ放しの怪しげな中華系住人(?)がいるためか、都心の狭い部屋は悪事の根城とされるのでは? と不安を感じたりしますが、自分を含めどの部屋もそう見られているのかも知れません。

 屋形船の並ぶ光景を目にすると心躍ってしまうのは、船に「非日常のイメージ」を抱くためか。
 屋形船の始まりは、大名の豪華な船をまねようと、舟に小屋を乗せた姿の屋根船とのこと。
 戦争により衰退し、高度成長期の水質汚染・河川護岸工事などの影響で下火となるが、バブル期に盛り返したのは、「船遊び」の響きにある贅沢感によるのかも。
 クルーズ船とはまるで違うため、外国人旅行者にも人気がありそうですが、天井をもう少し高くしないとね……
 料理もおいしくなったでしょうから、ぜひまた!


追記──火の用心!

 糸魚川の大火以来、火事のニュースをよく目にするのは注意喚起のためか。
 先日、麻布十番の火事の煙を目にしました。火は見えないが、煙が盛んになってから近所の消防署からサイレンの音が聞こえたので、第一陣が到着し援軍要請する時点で火事はピークだったと想像されます。
 糸魚川の火事では、消防車到着時点ですでに消防能力を越えていたようで、地域住民による初期消火の奮闘も強風の中では無力でした。
 今回の迷宮で出火したら瞬く間に延焼しそうですから、何より火の用心を!

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