2017/08/14

風の通り道──多摩川河川敷

2017.7.22【東京都】──「丸子川を歩く_4」

 わたしが草野球をしていた相模原市は、グラウンド環境に恵まれていたようで(土地だけはあった?)、河川敷グラウンドを利用した記憶は無いため、灼熱の河川敷グラウンドを走り回る姿がたくましく見えます。



矢沢川との交差地点

 この日は等々力駅から出発したので、等々力渓谷(矢沢川)を歩く間は涼めるなんて期待すると、「こんなに短かったっけ?」と感じるようです(右)。

 丸子川(旧六郷用水)は下流に水を運ぶ役目から、以前は矢沢川の上を横断していましたが、役目を終えた現在は矢沢川に合流しています(下左:矢沢川 右:丸子川)。
 丸子川下流には水質保全のため、付近から汲み上げた水が流されており、見た目には透明度のある水なので、流域の住民も納得するのでは。


 東急大井町線 尾山台〜九品仏付近の段丘斜面はなだらかなため、ヒルズ的住宅街のイメージに近そうと。

 旧武蔵工業大学は、2009年東横学園女子短期大学との合併で東京都市大学とされ、キレイになっていました。
 お似合いのペアか分からないが、東急系列内での立て直し策らしい。
 先日、青山学院女子短期大学が学生募集を停止しましたが、学校法人はどこも先細りが予測されるので、四年制大学の生き残り競争も待ったなしではないか。


田園調布八幡神社

 神社にある手水(ちょうず)の水は、いかつい表情の龍の口から流れるものを多く目にしますが、背後から見るとカワイイ姿だったりします。
 多摩川の両岸に同じ地名が残るのは、流路の定まらない暴れ川だったためですが、江戸期から玉川上水等の取水が始まり、明治期からの砂利採取により環境が激変したため、龍神は棲めなくなったようにも。
 多摩川の管理は資源利用推進が主体で、防災意識が欠如していたため、ドラマ『岸辺のアルバム』の題材とされた、多摩川堤防決壊の水害を引き起こすことになります。
 堰堤爆破のニュース映像は強く印象に残ります。

 ここは守ろうとする水路なので結びつかなかったが、用水路ならば育った地域にいく筋もありました。
 近所の用水路跡(水は流れない)には柵がないため子どもの遊び場となり、所々にある線路等のアンダーパス用の深みに落ちる事故を何度か耳にしましたが、どこの水路にもそんな記憶がありそうです(防止対策が後手となる行政の過失)。

 写真右手には、住宅街に隣接した調整池があり、夏どきは虫が多そうで近隣の家は大変なのではないか? とも。


多摩川河川敷


 炎天下の多摩川河川敷グラウンドで、テニスや野球に汗するのは無理でも、付近での日差しの避け方を思い出したので日陰から観戦します。
 川っぷちには立派な木が並ぶので日差しを避けられますし、川は心地いい風の通り道なのでひと息つけます。
 試合を眺めていればセンスのいい選手は分かりますし、まぐれのヒット(?)や、好プレーを応援するだけでも、結構楽しかったりします。
 プレーしていた時分はギャラリーに「ヒマですね〜」と言いたかったが、見る側になると「ここ涼しくて気持ちいいよ〜!」と、伝えたくなったりも。
 炎天下での試合の後に木陰で飲むビールは最高でした!


 以前は巨人軍多摩川グラウンド(上はB面)でしたが、1998年河川敷を管理する国との借用契約満了をもって返還されます(対岸には日ハムのグラウンドもあった)。
 以前は手っ取り早くグラウンドを確保するため、河川敷の利用が多かったようですが(国や自治体も誘致したのでしょう)、大雨で水没すれば多大な改修費がかかりました。
 川崎側にあった独身寮にジャイアント馬場・王さんが暮らしたことや、「巨人の星」に描かれたことなど、ガキ時分の伝説がいまもよみがえります……


追記──8月9日

 この日は、一般的に「長崎に原爆が投下された日」として認識されますが、事務所移転先のロシア大使館周辺は、別の認識により物々しい雰囲気に包まれます。
 太平洋戦争末期に日ソ中立条約を破棄したソ連が、南樺太・千島列島・満州国等に侵攻を開始した日にあたるため、右翼系団体の抗議活動を抑止する警備体制がスゴイことに。
 朝から警官、機動隊に加え広報等が集結し、道路には複数のバリケードが設置され、路肩には警察車両が並び車線を狭めて、車の流れを完全にコントロールしています。
 街宣車は近寄れないため、代表者が門前まで徒歩で歩み寄り声明文を読み上げますが、団体はいくつもあるためスケジュール調整するらしく、入れ替わり立ち替わりで一日中続きます(17時頃に終わるのは、迷惑条例等に抵触するためか?)。
 やらねば日本の右翼がなめられる(?)パフォーマンスの遂行は、彼らが請け負った「仕事」のようにも……

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