2019/05/27

行事が告げる季節感──京橋

2019.5.11【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_25

 日本橋が架けられた江戸時代の下町は神田・日本橋・京橋だけとされますが、町の名は明治期に誕生した京橋区(銀座・築地・佃島等を含む)で広まったそうです。


 右は、旧ブリヂストン本社ビル(ブリヂストン美術館)跡地に建設中のミュージアムタワー京橋(アーティゾン美術館)で、奥にはこれより高いビルが建設中。
 休館前のコレクション展に足を運ぶも、大混雑で諦めたことがあり、2020年開館後もしばらくはゆっくり観られないかも知れません。写真で目にするような絵が数多くあるので人気は当然とも。
 美術館に気後れせずに入れるようになったのは、高校時代の課題で見学に来たおかげと感謝しています。

 手前は旧ツムラビル(津村順天堂)建設時に設置されたキリン像で、キリンは漢方の王様とされるらしい。

 京橋の由来は想像通り、東海道起点の日本橋から「京へ上る最初の橋」によりますが、埋め立てられた京橋川には首都高速が通されています。橋の欄干に擬宝珠(ぎぼし)があったのは日本橋、京橋、新橋だけで、幕府の京都に通じる道への配慮のようです。

 江戸初期の日本橋・京橋周辺には、同業種を集めた職種名を持つ町が城下町(下町)として整備され、京橋川沿いには材木や竹を扱う職人が暮らしました。
 明治期に日本橋の古美術商が評判となったことから、道具屋から美術商となる者が軒を連ね、日本橋〜京橋に続く骨董通りを形成し現在に至ります(右はまたシブ過ぎと言われそう)。

 右は「どれでも7,000円」と階段に絵を並べるギャラリー(?)。売る側もプロなのに、叩き売りの中にお宝が隠れていたりするいい加減さと、価格設定の不透明さが美術品の価値(幻想)を維持しているようで、相場の裏付けが理解できません(株価動向の「気分」的なもの?)。

 ビジネス街の夜間人口は減る一方としても、2017年京橋全体の人口が299人とは驚きました。地域の消防団に居住者はいないため不測の事態に何もできず、防災訓練も企業主体で行われるらしい。
 これでは祭りに担ぎ手の助っ人が必要になるのは当然かと……

 江戸時代から大相撲開催前日には、太鼓を打ち取組を知らせて回る「ふれ太鼓」がひいき筋を巡回してきたそうです(下)。正装で挨拶を受ける姿には、祭事(奉納行事)の使者を迎えるような姿勢が感じられ、大相撲を季節の行事として受け入れる生活の暦が、現在の都心でも受け継がれているように。横綱 鶴竜の名しか見当たらないのは、白鵬が休場の告知らしい。
 ここは旧片倉工業本社ビル跡を再開発した東京スクエアガーデン(2013年)で、片倉工業は富岡製糸場の建物等を富岡市に寄贈した会社。

 右は旧京橋近くの竹河岸通りの年代を感じる建物。


 右の明治屋京橋ビル(中央区指定有形文化財)は、再開発された京橋エドグラン(2013年)の一部として改修されました。明治屋からはジャムしか思い浮かばず、以前三ツ矢サイダーを発売していたそうですが、どちらもかなり前にお付き合いはなくなりました。

 人の出入りが多い場所なのでしばらく待ちましたが、身動きせずスマホに集中する女性の様子から、いまどきは待ち合わせに遅れても心配する必要はなさそうとも(ずーっとこの姿勢のままです)。

 付近の目印となったのは、常々「この場所にふさわしくない」と眺めていた「スーパーホテル」の看板でした……

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