2019/07/29

城跡らしさを残す──竹橋

2019.7.13【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_34

 竹橋といえば東京国立近代美術館の印象があり久しぶりにと思ったが、学生服姿の集団がゾロゾロ向かう姿を目にし、またの機会にしようと……


 近頃、気象庁が発表する防災気象情報(気象・地震・火山 等)に対して、精度に加え人命を守るための訴求力が求められるようになりました(確かに伝わりにくいと感じる面はあった)。オオカミ少年のように大げさな警報では見向きされなくなりますが、江戸川区の「ここにいてはダメです」レベルのインパクトが必要かも知れないと。

 大手町リニューアル後は、左の気象庁(移転先は2020年完成予定)や右の東京消防庁アンテナもビルの陰となります。住所は大手町でも竹橋駅の目の前(左は日経ビル)。
 下のサーバーマシンが並ぶような色気の無いビル群は、効率性を検討した結果のデザインなのでしょう。


 平川門に通じる平川橋(下)は、橋脚・橋台は石造りで脚桁は鉄骨らしいも、上部の木製装飾のおかげで以前の雰囲気が感じられます(擬宝珠は江戸時代のもの)。
 諸大名は江戸城正門である大手門(三の丸大手門)から登城し、大名の家臣は三の丸で控えましたが、ここは三の丸の正門とされます。通用口的な性格のようで、徳川御三卿の登城口、奥女中の通用門「お局御門」、死者や罪人を運び出す「不浄門」とされました。現在も通行量が少ないためこの姿が維持できるのかも。


 下は毎日新聞が入るパレスサイドビル玄関で(1966年)、以前の毎日新聞ニュース タイトルバックにビル外観が使われていたことを思い出します。
 昭和天皇がビル屋上から皇居を眺める写真と記事が、地下の輪転機で印刷される様子を視察したように(地下5階まである)、以前の新聞印刷所は編集部署に隣接しており、アナログ時代には駆け込める距離にある必要がありました。
 以前の読売新聞も本社内に印刷所があり、大手町に新聞輸送のトラックが並びましたが、通信を含めデジタル化が進んだ現在はどちらも移転しました。


 下のエレベーターホールは、現在でも斬新な印象を受けるカッコいいデザインです。利用ボタンがホール中央付近にありどれも比較的等距離なので、「あっちが来たか…」の不満を感じません(人間があるじである優位性を保てる)。
 この構造は屋上階まで続くも(屋上は非開放日)半分のエレベーターはその階まで来ません。デザイン・利便性は優れていてもいまどきは、そのムダな空間を有効活用できないのかと叩かれますから、このように魅力的な空間はもう作れないかも知れないと。


 右の北桔橋門(はねばし)付近の石垣に、2016年熊本地震で石垣は崩れるも、縦一列の隅石(すみいし)が熊本城施設を支えた姿を想起します。周囲の石たちとは違い、力学的なバランス計算の上で成型〜積み上げられたのでしょう。
 この曲線を数式で表してみたいと話していた高校の数学の先生は、実現できたのだろうか……

 下は東京国立近代美術館に隣接するレストラン入口。
 美術館では、2018年に亡くなられたアニメーション監督 高畑 勲 展が開かれており、学生服姿の集団がゾロゾロ向かう姿に、いい課題を与えてもらったと(旧ブリヂストン美術館での課題がいい見聞になったとの思いが残ります)。


追記──TOKYO 2020まで1年

 気合を入れたチケット購入の申し込みですが、落選表示を目にし難しさを思い知らされました。当初販売枚数(およそ)780万枚に約512万人が申し込み、1枚でも当たったのは約96万人で、約68万枚の追加販売が発表されますが、希望チケットの追加販売はないためThe Endです。一応都民としての盛り上げ役は果たしましたし……
 近頃旅行会社から発表された、プラチナチケットをセットにした高額ツアー販売を目にすると、これから出そうな「チケットプレゼント!」に申し込もうかと(一般販売されないチケットは結構ありそう)。
 隅田川花火大会が毎年台風に悩まされる時期だし、ビール片手にテレビ観戦だ! と……

2019/07/22

江戸下町のマスターピース──神田

2019.7.6【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_33

 冠に神田とつく町名が多いのは、1947年神田区+麹町区の合併で千代田区が発足する際、名称を残したい声を反映したもので、現在も愛着を持つ住民が多く暮らすように。


神田駿河台

 御茶ノ水周辺は起伏があり広さを感じにくいためか、再開発ビルは高さでアピールしているように見えます。
 御茶ノ水ソラシティ(2013年 旧日立製作所本社ビル)には宇宙航空研究開発機構(JAXA)が入ると知り(本社は調布)、2回の着地を成功させたはやぶさ2の無事帰還を祈らねばと。チャレンジなくして前進なしとはいえ、2回目の着地断念〜帰還の選択肢を切り捨てた英断を応援しましたが、その吉凶は帰還するまで分かりません……

 ビルの谷間に佇むGallery蔵(右)は、淡路町にあった書庫蔵を移築したもので、カメラ背後に淡路小学校跡地を再開発したWATERRAS(ワテラス)への橋が架けられています。


神田淡路町、神田須田町

 旧連雀町一帯(現 須田町・淡路町)は空襲から奇跡的に焼け残ったおかげで、「神田まつや」「神田藪蕎麦」「いせ源」「竹むら」等の老舗が現存します。右は、土曜午後でも行列が途切れない まつや(10人弱なら短いのか? 藪蕎麦に行列はなかった)。

 以前靖国通りを挟んだ地には、幕府御用市場の多町市場(たちょう)があったそうで、当時の周辺には通り町筋(江戸下町のメインストリート:現 中央通り)や水路も多いため、流通の中心地とされました。その後も神田青物市場として発展しますが、関東大震災後の復興事業で1928年(昭和3年)秋葉原に移転〜89年太田市場に統合されます。


神田多町

 周辺では現役の歴史的建造物や有形文化財を多く見かけるため、その度に足が止まり前に進めません。その一方、現状変更に届け出義務のない区画には、大きなクレーンが立ちビルの建設工事が行われています(広い敷地確保は難しいため、背だけは高くしたいように)。
 文化財等の指定により建物保存の道は開けますが、街並みを残して欲しいと望むことは、都心では非現実的なのかも知れません。だからこそ、旧連雀町一帯は街並みとして残してもらいたいと願ってしまいます。
 右は、店舗前面の銅板外壁は緑青(ろくしょう)の青緑色なのに、側壁は真っ赤な建物。素材が違うのか?

 周辺では宅地の隙間に残される祠を多く見かけます(右は松尾神社)。江戸期の職人町(税金の代わりに幕府の役務を義務付けられた)時代のものは大火で、その後の防災に備えた町も関東大震災や戦災により失われたので(戦災を免れた地域もある)、昭和期の再建かも知れません。
 日常の生活では、暮らし始めの時分は町の鎮守など関心がなくても、長く暮らすうちにふと気になったりします。周辺には代々暮らす住民が多いため、鎮守である神田明神への祈りが、町内の祠を大切にする気持ちにつながるようにも。
 そこから江戸っ子ルール「三代続いて江戸生まれ」が語られたなら、ますます魅力的に感じられます。

 「土地を知るには祭りを見よ」的な表現があるか不明だが、神田祭を目にして神田を知らないことに気づき、ここ数回の道草(?)を経てようやく足を踏み入れました。
 この日の帰り道で、中央通りを神田から日本橋へ歩いた際に(神田祭とは逆方向)、祭りの列が三越前で中央通りに入ってからクライマックスに向かうことを思い出し、この道が神田明神の参道であることに気づきます。
 神輿渡御は朝から氏子地域を隈なく巡り、この先も中央通りだけでなく、下のガードを抜け神田駅前、多町や鍛冶町に立ち寄り、末広町、秋葉原を周回して、丘上の社に戻ります。秋葉原は大変な盛り上がり!(リンク先Youtube)。

 京都(都)に通じる東海道側(日本橋西側)の日本橋・京橋は商人の町とされ、行儀を求められたようですが、日本橋東側の神田は城や城下町の整備に必要な職人の町とされたため、かなり自由な空気だったのではないか。
 江戸のまちづくりの要として、下町(神田・日本橋・京橋)への水路「通り町筋(現 中央通り)」を整備し、江戸総鎮守として丘上に神田明神を遷座し、鎮守と暮らすことを神田っ子の誇りに仕向けた家康の狙いは見事に成功します。
 そこで生活する人々の地域への愛着から、新たな庶民文化や粋なカッコよさが生まれたようで、「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ!」と、チャキチャキの江戸っ子に胸を張る心意気を理解できた気がします……(右は内神田)

 右は、中央通り沿いの丸石ビルディング(丸石=現 丸石サイクル)で、建設当時(1931年:昭和6年)1階は自動車のショールームでしたが、現在ペルシアジャパン(ペルシャ絨毯)のショールームとされる様に、自動車より絨毯の方がふさわしいと感じたのは、見事な内装が似合うためか。
 このビルがある鍛冶町は、1933年「神田鍛冶町一・二・三丁目」とされるも、1974年「神田」を廃した「鍛冶町一・二丁目」と、残した「神田鍛冶町三丁目」に分かれた経緯を持ちます(現地ではこの違いを誤表記と思った)。
 このビルに関しては、神田云々ではなく日本橋の仲間にしてもらいたかったのではないかと……


追記──「江戸川区水害ハザードマップ」への反応

 区民からかなり反響があったようで、区報に「皆さんからのご意見」が掲載されました。
「ここにいてはダメです」の表現にインパクトがあり過ぎるので戸惑っており、引っ越しも考える。
 等々、様々な意見が掲載されますが、区民が真剣に考えるきっかけになったことは、強い表現が功を奏したと言えます。
 これから災害時対策・対応を話し合い、協力して被害軽減を目指さねばなりません。

2019/07/15

丘の上から見守る──外神田

2019.6.29【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_32

 今年初めて見学した神田明神 神田祭に感じるものがあったので、機会を見つけて参拝に行かねばと考えていました。



 神田明神は、以前大手町付近にあった伊勢神宮の御田(おみた=神田)を鎮めるため、大己貴命(大国主神)を祭った神田ノ宮(730年)を起源とします。のちに平 将門の首が近くに葬られ、東国(関東地方)平氏の崇敬を受けたことから祭神に加えられます。
 江戸城増築に伴い現在地に遷座し(1616年)、江戸総鎮守とされます(主な対象は下町かと)。将軍上覧のため祭の山車が江戸城中に入ったと自慢することも含め、すべて家康の狙い通りに事が運んだようで、見事な手腕と感心します。
 右は、文化交流館「EDOCCO(エドッコ)」(2018年 こんな施設がとビックリ)に飾られる、少彦名命(えびす様)のオブジェ。

 江戸時代は末広町付近まで神田とされますが、神田川が通されると川の北側+神田明神の丘陵地は外神田と呼ばれるようになります(命名・受け入れ側とも日本らしい)。
 神田明神は氏子地区(ほとんどが低地)を見守る丘の上に位置し、江戸初期の下町(神田・日本橋・京橋)で利用する生活用水路に近ため水の守護役としたならば、付近をまちづくりの要と考えた家康の眼力の鋭さがよく理解できます。
 神幸祭の、一の宮 大己貴命(だいこく様:縁結びの神)、二の宮 少名彦命(えびす様:商売繁昌の神)、三の宮 平将門命(まさかど様:除災厄除の神)鳳輦の渡御は、地域住民の安寧を祈るもので、それを見守る姿から、鎮守様を大切にする下町意識が健在であることが見て取れました。

 境内にアニメラブライブ!のポスターが貼られるのは、物語の舞台であるとのアピールらしく、聖地として若者の関心を集めるチャンスをモノにしたい、との意気込みが感じられます(周辺のロケーションもいい場所柄です)。

 右は門前の甘味処に飾られる、かき氷の砕氷機の横パネル。鉄製で重そうですがレトロなデザインが懐かしい。

 下の湯島聖堂孔子廟として江戸時代に建設されたもので、同様の施設はベトナムやマレーシアにもあるらしく、受け入れられる「教え」から、受け入れられない「主張」(南シナ海諸島の勝手な占有)はなぜ生まれたのか? と。


 土曜午後の御茶ノ水周辺は学生たちで溢れています。いっとき大学では郊外キャンパスの設置が盛んでしたが(学生に不評)、近頃は都心回帰が進むためかこれまで以上に若年化した印象を受けます(1・2年生の教養課程も戻った?)。男たちに生意気な印象はなく、高校生のような幼い若さばかり感じます(線の細い連中が集まるのか?)。周辺の楽器店関係者や客筋にも、精神若め、神経細め(アーティストを目指すの意)の連中が多いことも影響していそうと。
 それは自分の感覚がオヤジ化したせいとしたら、もう進行は止められませんよね……
 右は、狭い路地にある飲み屋。



 ロシア出身のニコライ(日本の大主教)は、明治初期(1872年)に拠点を函館からこの地に移し、信者拡大の成果を収めます。長く続いた江戸の世が終わり、土地を持たず将来への不安感を抱き心細い東京庶民に染み込んだようにも。関東大震災による火災で焼失しますが、再建という目標に向かうことで結束を強めたのではないか(神田明神、湯島聖堂も同じ)。
 洋の東西を問わず信仰対象との位置関係は、見上げて祈り、上から守られることに安らぎを覚えるようですが、現在の大聖堂は丘の上に立つビル群からの、上から目線にさらされているように見えてしまいます……


2019/07/08

厄を飛び越えろ!──湯島

2019.6.29【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_31

 江戸初期の下町とされる神田を歩こうと神田明神を目指しますが、季節の記憶から湯島天神まで足を伸ばします。




 湯島天神には、夏越の祓(なごしのはらえ)の季節(6月末)に縁を感じながらもご無沙汰していることを、神田明神が気づかせてくれました。
 祓(はらえ)は、罪・穢れや災厄等を心身から取り除くための神道の儀式で、一般に向けた大祓は6月と12月の晦日に行われます(お盆や新しい年を迎える準備とされる)。
 年末・年始ほど厳粛ではないが、神社らしい空気感に包まれるので「行っておこうか」と足を運ぶ方が多いようにも。
 茅の輪をくぐり病気や災いを免れるよう祈りますが、厄とは右のように飛び越えるべきものかもしれないと。
 上は門前の店先。


 以前目にした覚えのあるキキョウや(写真なし)、七夕を迎える準備を整え歳時記を伝えるような境内には、この国の風土での暮らし方が示されています(京都では暮らしに生き続けている)。
 この日も婚礼やお宮参りの姿を目にしたように親しまれるのは、無病息災を祈るにしても、ひょっとしたら「学問の神様」のご利益があるかも知れない、と期待する人が多いためでは? と感じるのは、自分がいまでもそう願う気持ちを抱くためかと……

 下は、旧岩崎邸が現在地に移転する前の煉瓦塀とのこと(天神に隣接)。




 本校は江戸時代の寺子屋を起源とし、学制施行(1870年:明治3年)前に開校した6小学校のひとつで、都内屈指の歴史を持ちます。
 関東大震災では高台にも火の手が及び全焼したため、復興小学校として鉄筋コンクリートの校舎が建てられます(当時は鉄筋コンクリート校舎+小公園のセットが防災都市のシンボルでした)。以前の校舎は十思(じっし)小学校のように曲線デザインの部分があったそうですが、1991年に改築され名残はありません(屋上にプールがあるらしい)。
 右は校庭で行われるサッカー(?)の様子を見守る保護者を、玄関のドア越しからのぞいたもの。

 天神脇の本郷通りが切通坂とされるように、天神は上野広小路から見上げる丘に位置します。多少不便でも静かな高台は災害の危険度も低く暮らしやすそうと感じますが、以前は天神の門前に見番(花街の事務所)が構え、門を出れば即 精進落とし(俗縁を断つ行事後に俗に戻る)という環境でした。それらの施設は地元の人々が運営したそうで、ホテル街への転換にも地域色が反映されているのではないか。
 フツーと思える若い娘が、明るい時間からわたしの目の前を通りホテルへ入っていきます。恥ずかしがる素振りも見せずまるで遊園地に入るかのように、古い世代の概念を軽々と飛び越えていきます……(若い時分は突き抜けたいと考えていました)
 右は霊雲寺

2019/07/01

記憶の手がかり──小伝馬町

2019.6.22【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_30

 江戸初期の下町とされる日本橋、京橋に続き神田を歩こうと小伝馬町に向かいますが、付近は日本橋小伝馬町なので単なる道草となりましたが、これも見聞ということで……





 モダンで存在感ある建物(1928年:昭和3年)は、これまでもいくつか目にした関東大震災(1923年:大正12年)後に建設された復興小学校で(1990年 日本橋小学校に統合)、現在十思スクエア(福祉施設や地域交流の場)として活用されます。
 この名称由来は、中国の歴史書「資治通鑑(しじつがん)」にある「十思之疏:天子がわきまえるべき10カ条の戒め」の「十思」と、当時の学区制で第十四小区に属した「十四」に音が通じるためらしい。なぜか芸術家 岡本太郎が通ったそう。

 江戸時代には伝馬町(てんまちょう)牢屋敷があり(発掘された建物基礎が保存・展示される)、処刑された吉田松陰終焉の碑にはこの日も花が供えられます。牢内では時代劇で目にする、囚人の自治的な身分制度が確立されていたそう。
 右は同敷地の十思公園に移設された石町時の鐘(こくちょう:現在の日銀付近)で、鐘の音を受け処刑が行われるため、鐘を遅らせて処刑を延ばしたとの逸話も残されます。
 小雨模様で気分がネガティブなためか、ホームレス(?)が雨宿りする絵に、小説 羅生門の情景を思い浮かべました(階上に人はいません)。
 牢屋敷は市谷監獄へ移され(1875年:明治8年)、慰霊のために下の大安楽寺が建立されます。





 江戸時代の付近には景勝地とされる旧 桜ヶ池(不忍池程度の広さ)があり、付近にあった茶屋の娘 お玉が身を投げたことからお玉が池とされ、その霊を祭る繁栄お玉稲荷大明神の祠(上)が残されます(新小岩 於玉稲荷神社へ遷座)。
 当時池の畔には、千葉周作の北辰一刀流道場 玄武館があり(お玉ヶ池の先生と呼ばれた)、学者が多く住んだことから江戸の学問の中心地とされ、佐久間象山の象山書院 等がありました。

 右は旧 浜町川埋め立て地ですが、中央に下水管が通されるため、両側には奥行きの狭いビル(10m程度)しか建てられない中途半端な状況に。

 右は、その先の靖国通りに架かる橋の地下に作られた大和橋ガレージの入口。この立地条件から、埋め立てられた旧三十間堀川 三原橋の地下街にあった、映画館 銀座シネパトスを想起しました(2013年閉館後、地下空間を埋めて太鼓状の橋を平らにする工事中)。土地の有効活用というより安上がりと飛びついたように感じますが、主導権が道路にあるのは仕方ないように。

 生き物である都市はいつの時代も変化を続けますが、記憶の手がかりが残されていれば、次の世代に伝えることができます。


 上は靖国通りの山手線等のガード下で、1925年(大正14年)神田駅〜上野駅間開業(環状運転開始)当時、もしくは戦後復興から線路を支え続ける姿には貫禄があります。

 梅雨らしさが見て取れる暗い絵のように、消化不良のまま帰路につきます……