2019/07/01

記憶の手がかり──小伝馬町

2019.6.22【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_30

 江戸初期の下町とされる日本橋、京橋に続き神田を歩こうと小伝馬町に向かいますが、付近は日本橋小伝馬町なので単なる道草となりましたが、これも見聞ということで……





 モダンで存在感ある建物(1928年:昭和3年)は、これまでもいくつか目にした関東大震災(1923年:大正12年)後に建設された復興小学校で(1990年 日本橋小学校に統合)、現在十思スクエア(福祉施設や地域交流の場)として活用されます。
 この名称由来は、中国の歴史書「資治通鑑(しじつがん)」にある「十思之疏:天子がわきまえるべき10カ条の戒め」の「十思」と、当時の学区制で第十四小区に属した「十四」に音が通じるためらしい。なぜか芸術家 岡本太郎が通ったそう。

 江戸時代には伝馬町(てんまちょう)牢屋敷があり(発掘された建物基礎が保存・展示される)、処刑された吉田松陰終焉の碑にはこの日も花が供えられます。牢内では時代劇で目にする、囚人の自治的な身分制度が確立されていたそう。
 右は同敷地の十思公園に移設された石町時の鐘(こくちょう:現在の日銀付近)で、鐘の音を受け処刑が行われるため、鐘を遅らせて処刑を延ばしたとの逸話も残されます。
 小雨模様で気分がネガティブなためか、ホームレス(?)が雨宿りする絵に、小説 羅生門の情景を思い浮かべました(階上に人はいません)。
 牢屋敷は市谷監獄へ移され(1875年:明治8年)、慰霊のために下の大安楽寺が建立されます。





 江戸時代の付近には景勝地とされる旧 桜ヶ池(不忍池程度の広さ)があり、付近にあった茶屋の娘 お玉が身を投げたことからお玉が池とされ、その霊を祭る繁栄お玉稲荷大明神の祠(上)が残されます(新小岩 於玉稲荷神社へ遷座)。
 当時池の畔には、千葉周作の北辰一刀流道場 玄武館があり(お玉ヶ池の先生と呼ばれた)、学者が多く住んだことから江戸の学問の中心地とされ、佐久間象山の象山書院 等がありました。

 右は旧 浜町川埋め立て地ですが、中央に下水管が通されるため、両側には奥行きの狭いビル(10m程度)しか建てられない中途半端な状況に。

 右は、その先の靖国通りに架かる橋の地下に作られた大和橋ガレージの入口。この立地条件から、埋め立てられた旧三十間堀川 三原橋の地下街にあった、映画館 銀座シネパトスを想起しました(2013年閉館後、地下空間を埋めて太鼓状の橋を平らにする工事中)。土地の有効活用というより安上がりと飛びついたように感じますが、主導権が道路にあるのは仕方ないように。

 生き物である都市はいつの時代も変化を続けますが、記憶の手がかりが残されていれば、次の世代に伝えることができます。


 上は靖国通りの山手線等のガード下で、1925年(大正14年)神田駅〜上野駅間開業(環状運転開始)当時、もしくは戦後復興から線路を支え続ける姿には貫禄があります。

 梅雨らしさが見て取れる暗い絵のように、消化不良のまま帰路につきます……

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