2019/07/15

丘の上から見守る──外神田

2019.6.29【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_32

 今年初めて見学した神田明神 神田祭に感じるものがあったので、機会を見つけて参拝に行かねばと考えていました。



 神田明神は、以前大手町付近にあった伊勢神宮の御田(おみた=神田)を鎮めるため、大己貴命(大国主神)を祭った神田ノ宮(730年)を起源とします。のちに平 将門の首が近くに葬られ、東国(関東地方)平氏の崇敬を受けたことから祭神に加えられます。
 江戸城増築に伴い現在地に遷座し(1616年)、江戸総鎮守とされます(主な対象は下町かと)。将軍上覧のため祭の山車が江戸城中に入ったと自慢することも含め、すべて家康の狙い通りに事が運んだようで、見事な手腕と感心します。
 右は、文化交流館「EDOCCO(エドッコ)」(2018年 こんな施設がとビックリ)に飾られる、少彦名命(えびす様)のオブジェ。

 江戸時代は末広町付近まで神田とされますが、神田川が通されると川の北側+神田明神の丘陵地は外神田と呼ばれるようになります(命名・受け入れ側とも日本らしい)。
 神田明神は氏子地区(ほとんどが低地)を見守る丘の上に位置し、江戸初期の下町(神田・日本橋・京橋)で利用する生活用水路に近ため水の守護役としたならば、付近をまちづくりの要と考えた家康の眼力の鋭さがよく理解できます。
 神幸祭の、一の宮 大己貴命(だいこく様:縁結びの神)、二の宮 少名彦命(えびす様:商売繁昌の神)、三の宮 平将門命(まさかど様:除災厄除の神)鳳輦の渡御は、地域住民の安寧を祈るもので、それを見守る姿から、鎮守様を大切にする下町意識が健在であることが見て取れました。

 境内にアニメラブライブ!のポスターが貼られるのは、物語の舞台であるとのアピールらしく、聖地として若者の関心を集めるチャンスをモノにしたい、との意気込みが感じられます(周辺のロケーションもいい場所柄です)。

 右は門前の甘味処に飾られる、かき氷の砕氷機の横パネル。鉄製で重そうですがレトロなデザインが懐かしい。

 下の湯島聖堂孔子廟として江戸時代に建設されたもので、同様の施設はベトナムやマレーシアにもあるらしく、受け入れられる「教え」から、受け入れられない「主張」(南シナ海諸島の勝手な占有)はなぜ生まれたのか? と。


 土曜午後の御茶ノ水周辺は学生たちで溢れています。いっとき大学では郊外キャンパスの設置が盛んでしたが(学生に不評)、近頃は都心回帰が進むためかこれまで以上に若年化した印象を受けます(1・2年生の教養課程も戻った?)。男たちに生意気な印象はなく、高校生のような幼い若さばかり感じます(線の細い連中が集まるのか?)。周辺の楽器店関係者や客筋にも、精神若め、神経細め(アーティストを目指すの意)の連中が多いことも影響していそうと。
 それは自分の感覚がオヤジ化したせいとしたら、もう進行は止められませんよね……
 右は、狭い路地にある飲み屋。



 ロシア出身のニコライ(日本の大主教)は、明治初期(1872年)に拠点を函館からこの地に移し、信者拡大の成果を収めます。長く続いた江戸の世が終わり、土地を持たず将来への不安感を抱き心細い東京庶民に染み込んだようにも。関東大震災による火災で焼失しますが、再建という目標に向かうことで結束を強めたのではないか(神田明神、湯島聖堂も同じ)。
 洋の東西を問わず信仰対象との位置関係は、見上げて祈り、上から守られることに安らぎを覚えるようですが、現在の大聖堂は丘の上に立つビル群からの、上から目線にさらされているように見えてしまいます……


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