2019/07/22

江戸下町のマスターピース──神田

2019.7.6【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_33

 冠に神田とつく町名が多いのは、1947年神田区+麹町区の合併で千代田区が発足する際、名称を残したい声を反映したもので、現在も愛着を持つ住民が多く暮らすように。


神田駿河台

 御茶ノ水周辺は起伏があり広さを感じにくいためか、再開発ビルは高さでアピールしているように見えます。
 御茶ノ水ソラシティ(2013年 旧日立製作所本社ビル)には宇宙航空研究開発機構(JAXA)が入ると知り(本社は調布)、2回の着地を成功させたはやぶさ2の無事帰還を祈らねばと。チャレンジなくして前進なしとはいえ、2回目の着地断念〜帰還の選択肢を切り捨てた英断を応援しましたが、その吉凶は帰還するまで分かりません……

 ビルの谷間に佇むGallery蔵(右)は、淡路町にあった書庫蔵を移築したもので、カメラ背後に淡路小学校跡地を再開発したWATERRAS(ワテラス)への橋が架けられています。


神田淡路町、神田須田町

 旧連雀町一帯(現 須田町・淡路町)は空襲から奇跡的に焼け残ったおかげで、「神田まつや」「神田藪蕎麦」「いせ源」「竹むら」等の老舗が現存します。右は、土曜午後でも行列が途切れない まつや(10人弱なら短いのか? 藪蕎麦に行列はなかった)。

 以前靖国通りを挟んだ地には、幕府御用市場の多町市場(たちょう)があったそうで、当時の周辺には通り町筋(江戸下町のメインストリート:現 中央通り)や水路も多いため、流通の中心地とされました。その後も神田青物市場として発展しますが、関東大震災後の復興事業で1928年(昭和3年)秋葉原に移転〜89年太田市場に統合されます。


神田多町

 周辺では現役の歴史的建造物や有形文化財を多く見かけるため、その度に足が止まり前に進めません。その一方、現状変更に届け出義務のない区画には、大きなクレーンが立ちビルの建設工事が行われています(広い敷地確保は難しいため、背だけは高くしたいように)。
 文化財等の指定により建物保存の道は開けますが、街並みを残して欲しいと望むことは、都心では非現実的なのかも知れません。だからこそ、旧連雀町一帯は街並みとして残してもらいたいと願ってしまいます。
 右は、店舗前面の銅板外壁は緑青(ろくしょう)の青緑色なのに、側壁は真っ赤な建物。素材が違うのか?

 周辺では宅地の隙間に残される祠を多く見かけます(右は松尾神社)。江戸期の職人町(税金の代わりに幕府の役務を義務付けられた)時代のものは大火で、その後の防災に備えた町も関東大震災や戦災により失われたので(戦災を免れた地域もある)、昭和期の再建かも知れません。
 日常の生活では、暮らし始めの時分は町の鎮守など関心がなくても、長く暮らすうちにふと気になったりします。周辺には代々暮らす住民が多いため、鎮守である神田明神への祈りが、町内の祠を大切にする気持ちにつながるようにも。
 そこから江戸っ子ルール「三代続いて江戸生まれ」が語られたなら、ますます魅力的に感じられます。

 「土地を知るには祭りを見よ」的な表現があるか不明だが、神田祭を目にして神田を知らないことに気づき、ここ数回の道草(?)を経てようやく足を踏み入れました。
 この日の帰り道で、中央通りを神田から日本橋へ歩いた際に(神田祭とは逆方向)、祭りの列が三越前で中央通りに入ってからクライマックスに向かうことを思い出し、この道が神田明神の参道であることに気づきます。
 神輿渡御は朝から氏子地域を隈なく巡り、この先も中央通りだけでなく、下のガードを抜け神田駅前、多町や鍛冶町に立ち寄り、末広町、秋葉原を周回して、丘上の社に戻ります。秋葉原は大変な盛り上がり!(リンク先Youtube)。

 京都(都)に通じる東海道側(日本橋西側)の日本橋・京橋は商人の町とされ、行儀を求められたようですが、日本橋東側の神田は城や城下町の整備に必要な職人の町とされたため、かなり自由な空気だったのではないか。
 江戸のまちづくりの要として、下町(神田・日本橋・京橋)への水路「通り町筋(現 中央通り)」を整備し、江戸総鎮守として丘上に神田明神を遷座し、鎮守と暮らすことを神田っ子の誇りに仕向けた家康の狙いは見事に成功します。
 そこで生活する人々の地域への愛着から、新たな庶民文化や粋なカッコよさが生まれたようで、「江戸っ子だってねぇ」「神田の生まれよ!」と、チャキチャキの江戸っ子に胸を張る心意気を理解できた気がします……(右は内神田)

 右は、中央通り沿いの丸石ビルディング(丸石=現 丸石サイクル)で、建設当時(1931年:昭和6年)1階は自動車のショールームでしたが、現在ペルシアジャパン(ペルシャ絨毯)のショールームとされる様に、自動車より絨毯の方がふさわしいと感じたのは、見事な内装が似合うためか。
 このビルがある鍛冶町は、1933年「神田鍛冶町一・二・三丁目」とされるも、1974年「神田」を廃した「鍛冶町一・二丁目」と、残した「神田鍛冶町三丁目」に分かれた経緯を持ちます(現地ではこの違いを誤表記と思った)。
 このビルに関しては、神田云々ではなく日本橋の仲間にしてもらいたかったのではないかと……


追記──「江戸川区水害ハザードマップ」への反応

 区民からかなり反響があったようで、区報に「皆さんからのご意見」が掲載されました。
「ここにいてはダメです」の表現にインパクトがあり過ぎるので戸惑っており、引っ越しも考える。
 等々、様々な意見が掲載されますが、区民が真剣に考えるきっかけになったことは、強い表現が功を奏したと言えます。
 これから災害時対策・対応を話し合い、協力して被害軽減を目指さねばなりません。

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