2019/10/28

歴史を伝える責務──荻窪

2019.10.19【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_47

 荻窪の町は、善福寺川や青梅街道の方向軸(北西〜南東)に発展し、中央線の東西方向とは斜行するため、慣れないと歩きづらい印象があります。


 右の、阿佐ヶ谷の顔といえるパールセンター商店街は、旧鎌倉街道を整備したもので、当初民家は数件程度しかない場所が、1922年(大正11年)阿佐ヶ谷駅開業により一気に活性化します(翌年の関東大震災以降、下町から被災者が流れ込み、急激に人口が増えます)。
 昭和には井伏鱒二、与謝野晶子、太宰治などが移住し、荻窪にかけて文士村と呼ばれたが、戦争の強制疎開により商店街は更地となります(中島飛行機東京工場に近い)。
 戦後に阿佐谷七夕まつりが始まり、商店街の名称は「真珠の首飾りのように結び合って繁栄したい」との願いから、現在の名称とされます。

 戦後の闇市がパールセンターとなり間もなく、都内最初の歩行者専用道路(歩行者天国)とされ、阪神淡路大震災を教訓に、アーケードの屋根を火災防止のため開閉式にします。

 古道を整備した商店街は曲線を描くため、新しい中杉通り(右)との距離が狭く中途半端な区画には、古い建造物や店舗が残されています。
 中杉通りの欅(漢字書けません)並木は、戦後に地元有志が植樹したものですが、これまでは大木に頼りがいを感じたものの、近頃の強烈な台風を経験すると、倒れてきたらどうしよう、と思ってしまいます……


 上は、金魚(鯉、フナ)の釣り堀 寿々木園(すずきえん)(1924年)。「金魚なら触れる」女性も訪れるため、家族連れやアベックも混じり客層は幅広く、子供も結構釣っているので、にぎやかに楽しめそうです(1時間3匹まで持ち帰り可)。
 常連らしきオヤジは、釣れた途端にリリースしています(針を外す用具も貸してくれるらしい)。近頃は高価な金魚は泳いでいないため(以前は十万もする金魚が釣れたそう)、キャッチ&リリースを楽しむようです。
 NHK ドキュメント72時間で紹介されたような、楽しげな雰囲気が感じられました。


 上の西郊ロッヂング(せいこう)は1938年に建設され、2001年改修後は賃貸住宅とされます(国の登録有形文化財)。リンク先の後半に見られる賃貸共用部分は、モダンなホテルのよう。本館は旅館「西郊」(1930年)。
 オーナーが「当時の荻窪は、軽井沢のような閑静な避暑地として知られていた」と話すように、昭和初期は別荘地的な地域だったようです。


 大田黒公園(上・右 音楽評論家 大田黒 元雄 邸を整備し1981年開園)は、前回訪問が心に残り再訪を楽しみにしていましたが、残念ながら暗い空模様。
 上のイチョウ並木(巨木!)や池周辺のもみじの紅葉は、とても絵になりそうです(紅葉ライトアップも行われます)。
 仕事場だった洋館(右:1933年)は記念館とされ、ピアノや蓄音機などの展示や、流れるクラシック音楽を聴きながら庭を眺めるサロンは(演奏会ができるよう椅子が並んでいる)、心が解放されるような趣で、とても落ち着けます。


 上は、近衛文麿(このえ ふみまろ)邸の荻外荘(てきがいそう:奥)を整備した荻外荘公園(芝生のみ)。
 戦争直前まで首相だった近衛は、対米戦争の協議をこの地で行うも(荻外荘会談)、開戦に傾く形勢を止められず内閣総辞職し、のちの首相 東條英機が開戦に踏み出します。みずから手を下してないがA級戦犯として裁かれる決定を受け、ここで自殺しました。
 建物を史跡として復元・整備し公開する計画はなかなか進みませんが、親子連れが園内で縄跳びする姿を目にすると、子供たちに伝えるための施設の必要性を感じます。


追悼──八千草 薫さん

 直前まで出演依頼を受けていたそうで(倉本 聰 作品)、復帰を目指しながら幕を閉じたとすれば、役者として本望ではないかとも……
 登場シーンでは、ずっと姿を追ってしまう存在感を示しながらも、「あら、そうだったの…」と、バツの悪い場面での表情が可愛らしかった(失礼!)印象が強く残ります。
 ありがとうございました。

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