2009/07/20

「トトロの森」という名の重み──狭山丘陵

2009.7.11
【東京都、埼玉県】

 関東地方は梅雨明けが発表され、連日暑い日が続いています。
 よく「梅雨明け10日」(暑さの厳しい晴れの日が続く)と耳にしますが、関東地方だけが梅雨明けという変則的な状況のせいでしょうか、今年の本格的な夏の到来は、もう少し先のようです。
 それでも、各地を襲っている梅雨末期の大雨が、関東だけは「もうありませんよ」の予報は当たっているようなので、納得できるところです。


 村山貯水池(多摩湖)(Map)(東京都)

 幼少期の体験によると思いますが、どうも「貯水池」という響きには、イコール「遠足」というイメージがあります。
 通っていた小学校から、子どもの足で徒歩1時間半程度(?)の場所に貯水池があり、歩いた覚えがありますし、この地(後述のユネスコ村を含め)も訪れた記憶があります。
 その時にどう感じたかは別にしても、「貯水池に行ったこと」は印象に残っていますから、施設の存在を記憶に焼き付けることはとても大切なことと思われます。
 通った高校が前者の貯水池の近くにありましたが、当時は近寄ろうともしませんでした。
 そんな年頃の「気分」って、何なんでしょうね? 心中までは覚えていませんが、部活のランニングにしても近寄らなかったことだけは覚えています……

 ここは1924年に完成し、東京近郊の水源のひとつとされています。
 東村山浄水場、境浄水場に原水を送水するそうですが、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場及び三園(板橋区)浄水場にも送水するそうです。
 そんな送水ネットワークがあること、初めて知りました。さすがと言うか、安心な暮らしには、それだけのライフライン整備が必要なようです。

 付近一帯には、西武グループによるレジャー施設群が密集しています。
 ダム脇には西武遊園地があり、遊園地と西武球場を結んでいる、西武山口線という路線があります。
 以前は「おとぎ列車」という遊戯施設の一部でしたが、1984年から新交通システムとして再スタートしたそうです。
 車窓からゴルフ場が見えるのですが、丘陵地帯を「地形のまんま」に設定したコース(斜面に芝生を植えただけ?)には驚きました。
 プレイヤーたちは夢中でしょうから、気にならないのかも知れませんが、コースを回るだけでも「いい運動になりそうだ」と思ってしまいます……


 旧ユネスコ村(現在ゆり園)(Map)(埼玉県)

 何だか、お供えの花のようですが、花の盛りを過ぎたので入園無料の「ゆり園」から撮ると、花が少ないのでこうなってしまいます(背景は西武ドーム。試合中なので声援が響き渡っています)。
 ──話しはそれますが、現在暮らしている新丸子の中原街道沿いでは、旧盆(7月15日が中日)に「迎え火」「送り火」の風習を続けている家が多いことに驚きました。街道沿いでは、古くからの家が代々続いているようです。


 以前この場所には、ユネスコ村というテーマパーク(世界各地の家屋や建造物のレプリカを展示した施設)があり、幼少期に遠足等で何度か訪れ、大きな風車があったと記憶しています。
 時期は忘れましたが再訪したことがあり、建造物群がハリボテの子供だまし的なモノであることを知り、ガッカリした覚えがあります。

 ユネスコ村は、1951年〜1990年まで営業の後、1993年から「ユネスコ村大恐竜探検館」として再開したそうですが、それも2006年で閉館し、現在は園内の一部が「ゆり園」となっています。

 大きな風車は丘の上にあったという記憶があるのですが、こんな急傾斜地にさまざまな建物があったとは思いませんでした。
 おそらくガキの頃は、この坂を駆け上がっていたんだろうと思います。
 もう、階段を上がるだけで汗だくです……


 山口貯水池(狭山湖)(Map)(埼玉県)


 人口増加の著しい当時の東京市近郊への水源確保のため、上述の村山貯水池に隣接して建設され、1934年に完成したそうです。
 「水源地はできるだけ近場がいい」との発想はとてもよく理解できますが、ここからの供給量は限られています。
 工事中には、奥多摩湖の準備が始まっていたそうですから、おそらくここは、つなぎ的な施設として考えられていたようです。

 それでも東京近郊の水瓶と考えられていたため、二つの貯水池周辺には水源保護林が確保されており、東京近郊としてはとても貴重な、広域にわたる自然林が残されることになります。
 看板には、絶滅危惧種のオオタカも生息するとありましたから、かなりの広さがあるのだと思われます。
 裏(北)側には大学の施設もあるようなので、アプローチだけでもと足を踏み入れたのですが、水辺にありがちなホテルが並んでいるので、引き返しました……


 トトロの森(Map)(埼玉県)

 1988年公開の映画『となりのトトロ』において、舞台設定のモチーフにされたと言われる丘陵地が、この周辺になるそうです。
 ──もっと北側の、西武新宿線の狭山市駅方面であると勘違いしていました。

 付近一帯の狭山丘陵では、以前から自然環境や文化財等の保護運動が続けられていて、1990年「トトロのふるさと基金委員会」を立ち上げ、ナショナル・トラスト活動(寄付金や会費などによって森林や海岸、歴史的建造物を買い上げ、保全を行う活動)が始まったそうです。
 宮崎駿監督の賛同を得て「トトロ」の名称を使用しており、時折、宮崎さんが参加したイベントが、ローカルニュースで取り上げられていますが、組織にとっては大きな広報活動になります。
 2008年11月時点でこの団体は、所沢市内に9ヶ所のトラスト地(信託地:一定の目的に従って管理・処分を任せた土地。その合計面積は約1万5567平方メートル)を所有していて、その合計金額は約2億480万円に及ぶそうです。
 また、近くの東村山市(東京都)の雑木林を、宅地開発から守るために集められた募金を東村山市に寄付し、市側ではこの寄付金を活用して緑地を買い取ることにしたそうです(住民が「主」なのです)。
 ──近隣に、実在の地名として「八国山」の名があるそうです。映画での「七国山病院」を想起します。余談ですが、大阪府高槻市の保育施設の送迎用として「ネコバス」(デザインはちがいます)が走っていました。


 ここは、上述の貯水池の川下側にあたるので、水源地保全区域等には当たりません。
 それゆえ地元の人たちにとっては腹立たしい開発が、続けられてきたのかも知れません(それって西武批判?)。
 対象企業は他にも多数あるでしょうが、近隣住民の方々がここまでの行動を起こすというのは、とても大きな問題です。
 開発をするのは資金力のある企業になるのでしょうが、地元の人たちにも納得できるものを目指すべきで、それを放置してきた自治体に対する住民たちの「抗議ののろし」とも受け止められます。
 これは地域住民が、お金儲け側に群がっていた地方行政に対する「No !」を突きつけたことになります。

 「トトロの森」という名を利用する団体にとっては、知名度があるので応援を受けやすいと思われる反面、子どもたちの夢を育んできた「名」を汚してしまうと、リアルタイムから接してきた親世代を含めた人々にも、失望を与えることになります。
 何たってそこには、子供心を忘れられない大人(?)を含めた多くの人たちの「夢と希望」が込められているのですから……(これは応援です)


 ※「ポニョの浦」(広島県 福山市 鞆の浦)の、埋立て架橋計画問題は、何としても計画変更してもらいたいので、機会がありましたら足を運んでいただきたいのと、その率直な感想を広めていただきたい、と切に望んでおります。
 しつこいかも知れませんが、わたしはあのノスタルジックな景観を保った港を「瀬戸内海のヘソ」(最重要地域)と思っております。

 自分で書きながらも上記の文章を振り返ると、宮崎監督の問題提起は見事に伝わってきている、ことに気付かされます。
 各映画に対する評価のデコボコは横に置いといても、映画群から感じることは「信念の大切さ」なんだと思います。

2009/07/13

梅雨は恵み、と感じる──国分寺崖線、お鷹の道

2009.7.5
【東京都】

 府中刑務所(Map)


 有名な施設の割には訪れる機会のない場所で、初めて歩いたのですが(よく来る人ってどんな人?)、ここが日本最大の刑務所なんだそうです。
 収容者数が増加しているので、恒常的に定員を上回る3,000名以上の受刑者を抱えているそうです(税金からの支出が増えていることになります)。
 ですがわたしは、塀の中よりも「三億円事件(1968年)」の事件現場としてのインパクトの方が、強く残る世代に含まれます。
 訪問の動機も、当時を想起させる痕跡が何か残ってはいまいか、というものでしたが、あっさりと打ち消されました。
 近ごろ作りかえられたこの外壁(塀)には、「景観賞」なるプレートが貼られてありますし、事件現場とされる「学園通り」沿いには住宅が建ち並び、自動車の交通量も多く、自転車やジョギングの人も頻繁に行き来しています。
 いくら日本最大の刑務所とは言え「塀の外」は、庶民が暮らす空間ですから、往来を促進することで暗いイメージや記憶を払しょくし、明るい雰囲気作りから犯罪防止を目指そうとする主旨は、とてもよく理解できました。
 ──でも今回は、薄汚れたコンクリートの刑務所らしい(?)「塀」が見たかった、というのが本音です……


 上写真は、服役者の入出所ゲートになります。
 映画などで目にする、鉄の扉が開いて釈放者が「シャバ」に出てくる光景は、一般人は見ることが出来ないようです。
 左下にある「釈放者を出迎える方へ」の看板には、釈放者の家族および身元引受人以外は立ち入るな、とあります。
 シャバ(娑婆)という言葉は、仏教では「煩悩や苦しみの多いこの世」との意味になるそうです。
 塀の中の服役者が使うにしては、とても哲学的な表現に思えましたが、おそらく極刑を受けずに「この世」に戻ることができる、という安堵感を表す言葉なのではないでしょうか。

 撮影位置の背後に、ゆうちょ銀行のATM施設(現金引き出し機)がポツンと立っていて、とてもリアルな存在感がありました。
 ゆうちょに預金のある釈放者に限られますが、これぞ純然たる「利用者のための施設」です。
 古くなりますが、映画『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健さんが、出所後に最初のビールをがぶ飲みするにも、現金が必要ですものね……
 このATM施設の強盗を考える人はいないと思われるので(監獄直行を覚悟していれば別)、最も安全な施設(?)かも知れません。


 国分寺跡(Map)

 国分寺とは、741年に聖武天皇が、当時流行した天然痘から国民を守るため、律令体制下の各国(地方豪族たち)に建立を命じた寺院で(国分寺のいわば総本山を東大寺とし、大仏を建造)、国分寺と国分尼寺(こくぶんにじ)をペアで、国府付近(武蔵国の場合は府中)に作らせたそうです(国分尼寺という存在自体、知りませんでした)。
 この地には当時、七重塔があったとされ、その礎石とされるものが残されています(右写真は金堂の礎石)。
 実家に近い神奈川県の海老名市には、相模国の国分寺があったとされ、そこにも七重塔があったと聞きます。
 五重塔は現在でも見られますが、七重塔は全国の国分寺だけに認められたもので、九重塔は天皇の権威を示すために作られたことがあるそうです(焼失)。
 仏教では、奇数が陽(偶数を陰)とされるので、奇数階層の建造物になるようです。
 ──藤原鎌足を祭った談山神社(たんざんじんじゃ:奈良県)には十三重塔があります。


 武蔵国分寺(Map)


 武蔵国分寺(門柱に刻まれた文字には迫力がある)は、規模は小さくも現存しています。
 上述の国分寺跡とされる場所にあった建造物は、鎌倉時代末期の1333年、幕府勢力と新田義貞率いる反幕府勢が衝突した、分倍河原(ぶばいがわら)の戦いにより、焼失したそうです。
 その後、新田義貞によって再建されたものが、この武蔵国分寺(真言宗)とされています。

 日本各地から集められた多様な植物群が境内に植えられ、「万葉植物園」として維持管理されているので、植物に興味のある方には楽しめる一画と思われます(わたしが見ても、特にコメントは浮かびません……)。


 真姿(ますがた)の池(Map)


 上述の武蔵国分寺の近くに「お鷹の道・真姿の池湧水群」があります。
 ここは国分寺崖線(がいせん:武蔵野台地を多摩川が浸蝕した崖の連なり)の下部から、まとまった湧水のある地域で、以前紹介した野川公園を流れる野川の源流のひとつになり、東急田園都市線の二子玉川駅付近で多摩川に合流しています。

 由来としては、玉造小町という美人がらい病(ハンセン病)を患い、国分寺の薬師様に願かけをしたところ神童が現れ「この池の水で顔を洗え」とのお告げに従ったところ、元の容貌に戻ったという伝説によるそうです。
 それだけキレイでおいしい水なので、汲みに来る方もいるそうです。環境省選定の「名水百選」に選ばれているとのこと。
 上写真も、浮かんでいる落ち葉と、右側に点々としている木もれ日の反射光以外は、池の底の光景ですから、透明度が理解いただけると思います。


 お鷹の道(Map)


 このネーミングには、色恋の絡んだエピソードがあるのかと思いきや、江戸時代に徳川家の鷹場(鷹狩りの地)だったことにちなむそうです。
 メインの水源地は、上述の真姿の池付近になりますが、同じような地形(崖線)が続くので、あちこちから湧水が流れていると思われます。
 近隣住民の方々の努力で、水路の確保と景観の保持が行き届いているので、とても落ち着いた散策路となっており、ホタルが生息しているそうです。
 観察できる時期は限られているでしょうが、それは草花や野菜を育てることと似ているように思われます。
 水は供給されるので、流れ周辺の手入れを怠らなければ、毎年見られるわけですから、湧水地付近に暮らす方々に科せられた義務であり、特権と言えるかも知れません。


 水に恵まれており、平坦な土地であったことから、国府(府中)や国分寺が置かれ、武蔵国の中心とされた理由が、とてもよく理解できました。


 殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園(Map)

 JR国分寺駅の近くにありますが、谷戸(丘陵地の谷あいの低地)の名の通り公園内には、平面図からは見て取れない高低差が存在しています。
 たかだか10数mの高低差にしても、初めての訪問なのでウロウロと何度も上り下りさせられると、この日の疲れが一気に足にきてしまいます。
 ここは、大正初期に江口定條(さだえ:三菱→満州鉄道副総裁)の別荘として整備され、昭和に岩崎家(三菱財閥)の別邸とされたそうです(施設名の由来は旧地名によるそうです)。

 右写真の花の脇に、カワラナデシコの立て札があり、子連れのお母さんも「ナデシコだよー」と、子どもに話していました。
 花にはうといものの、最初に思い浮かんだ「キキョウじゃない?」の印象を帰ってから調べたら、やはりそのようです。

 奧に見える建物は、紅葉亭という茶室で、岩崎家の所有時に作られたそうです。
 現在は青葉ですが、手前にはカエデ等の紅葉する木々があるので、晩秋の季節には見事な光景が目にできそうです。

 この地の斜面下にも湧水個所があり、庭園の池に流れ込んでいます。
 同じ湧水とはいえ、池にしてコイなどを放しては水の清らかさは失われてしまいます。
 庭園設計においての水盤というデザインだったり、海を想起させる存在がよろこばれたのでしょうか?
 もしわたしが、キレイな湧水のある庭を持ったなら、池は作らず流れるままにして、ホタルが生息できる環境を保ちたい、と思ったりしました。


 いまどきの七夕の短冊は、発色も鮮やかなビニール系の素材を使った、カラフルなものなんですね。
 確かに、色紙の短冊に願いを書いていた時分、雨に濡れたりすると、色紙の染料まで流れ落ちてしまったのは、悲しいものがありました。
 七夕の晩には、天の川は見えずとも夜空は見えていたので、子どもたちもお願いはできたのではないでしょうか……

2009/07/06

冷し中華の季節──府中基地跡、府中の森公園

2009.6.27
【東京都】

 晴れると30℃を超え、雨が降れば25℃以下という近ごろですから、体調管理にはお気をつけ下さい。でももうじき、逃げ場のない暑い空気に覆われます……
 この日は梅雨の中休みの晴天で、関東地方はかなり暑い一日でした。
 そんな時には、のどごしに涼しさが欲しくなりますが、目に入ってくる「冷し中華 始めました」のポスターには、オアシスを見つけたような救いを感じてしまいます。
 期待している味は、醤油ベースのつゆ+お酢+マスタードで、残ったつゆを「酸っぱい+辛い」表情で飲みたいという、妙な食欲がわくのですから、食欲が減退するこれからの季節には、もってこいのメニューと思われます。
 年をとるごとに、汗をかいたりすると「酸味」が欲しくなるようで、それは補給後に「ホッ」と、体が落ち着いたと思える瞬間に実感したりします……


 府中基地跡(Map)

 「府中」という地名は、「国府所在地」(奈良・平安時代に、律令国の国司が政務を行う施設が置かれた地)を指すものなので、日本各地に存在しています(甲府は甲斐府中の略等々)。
 大化の改新(645年:飛鳥時代)により、武蔵国(无邪志と表記されているそう)の国府がこの地に置かれたので、関東の中心地として栄えたようです。
 当時の関東には、武蔵国足立郡(東京都足立区と埼玉県東南部)、武蔵国埼玉郡笠原郷(埼玉県鴻巣市)、武蔵国入間郡(埼玉県入間市)付近に国造(くにのみやつこ)といわれる豪族の本拠がありましたが、争いが絶えなかったので、そんな地を避けてここに武蔵国の国府が置かれたそうです。
 また、鎌倉時代には鎌倉街道(上道:かみつみち)が南北に、江戸時代には甲州街道が東西に整備されたそうですから、かなり古くからにぎわっていた土地になるようです。



 この地訪問の動機とは、前回紹介した「廃虚めぐり」の関連サイトにて、現在も残されているとの情報を見つけたので「是非とも!」と足を運びました。
 管理に必要な道路等の整備は行われていますが(敷地内を走る車がありました)、建造物に関しては手を加えてないようで、左の建物は使用されなくなった当時のままのようです。
 この状況下で、鉄塔や、パラボラアンテナだけが草木に覆われていないのは不自然な訳ですから、メンテナンスされていることと思われます。
 敷地北側では区画がとても入り組んでいて、民家の軒先をかすめるようにフェンスが張られています。
 基地建設時に家屋があったなら、こんな立ち退きはさせないでしょうから、おそらく住宅の方がギリギリまで攻めていったように見えます。
 住宅のすぐ隣に、廃虚となって木々に覆われた米軍の施設がある様子は、奇妙なコントラストを生み出していました。


 府中の森公園(Map)

 この公園の名称はローカルニュースなどで、水遊びをする子どもたちの映像と共に印象に残っていました。
 また「府中の森芸術劇場」の名も耳にしたことがあるかと思われますが、他にも「府中市美術館」「生涯学習センター」等が、公園に併設されています(隣接して航空自衛隊の施設および官舎があります)。
 この一帯は以前、府中基地に使用されていましたが、返還後の再利用計画により現在に至っています。
 ──わたしにはこれまで、府中基地があったという認識がありませんでした(知っていたのは調布と立川)。

 府中基地は1939年に、陸軍燃料廠(しょう)として設置されました。
 この「燃料廠」とは、石油資源を持たない日本が長引く戦争に備えるため、航空・自動車燃料等の自前調達を目指した施設なんだそうです。
 ここでは、石炭からの人造石油精製(石炭に油が残っているとは知りませんでした)や、原油からの燃料抽出量向上等の研究が行われたそうですが、成果は上がらなかったようです。
 何とも涙ぐましい努力というか、追いつめられた国家は何をしでかすか、理解や予測も不可能になってしまいます(北朝鮮を想起しました)。
 しかしそんな事態は、燃料資源(石油類)を自給できない日本が、資源を求めて第二次世界大戦へと突入してしまうひとつの理由となります。
 ──敷地内にある自衛隊基地のホームページには「官民あげての技術開発は、戦後のわが国の重化学工業の発展に大きく貢献しました。」とあります。化学には明るくないので理解できていませんが、おそらく無駄ではなかったのでしょう……

 戦後は米軍に接収され、在日米軍司令部と空軍司令部が設置され、1975年横田基地に移転するまで使用されていたそうです。
 返還後、かなりすったもんだがあったようですが、跡地は大蔵省(現関東財務局)、地方自治体(東京都)、防衛庁(現防衛省)で分割して利用することになったそうです。
 元からあった自衛隊の施設はそのまま存続し、自治体割り当て地域には学校やこの公園施設、霊園等が作られましたが、旧大蔵省分の土地は現在も手つかずのまま、塩漬けにされています。
 そのシンボル的な存在が、アンテナ群です。
 敷地内に残されている建物の多くは、植物に覆われて廃虚感を漂わせていますが、どうもこの施設はまだ稼働しているようです。
 同時多発テロ(2001年)以降、ゲートを警備していたそうですから、米軍の活動を補佐しているのかも知れません。

 ──子どもたちの水遊びの写真につける文章ではないとは思いますが、「右写真の女の子可愛かった」などと書いては主旨が変質してしまいます……


 浅間山(せんげんやま)(Map)

 この写真からは、映画等でみられる、敵のレーダー施設の破壊に向かうような状況を思い浮かべてしまいます(前写真と同じものの別アングル)。
 ──しゃがんで撮りましたし、虫にも刺されました……


 こんなところに「山」と呼ばれる場所があったとは知りませんでした。
 どうもこの一帯だけ、大昔の多摩川の流れに浸食されずに残された場所なので「山」という名称になっているようです(周囲からは30m程度の高さ)。
 山の頂には浅間神社(せんげんじんじゃ)が祭られていますから、富士山信仰との関連が想像されます。
 浅間神社は火之神を祭った、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本宮とする神社で、日本全国に約1300社あるそうです。
 ほこら付近からは望めませんが、展望所とされる場所では、富士山方面の視界は整備されて(切り開かれて)います。
 残念ながら、この日は拝むことができませんでした。

 古神道(こしんとう:神道の源流である日本古来の信仰)には山岳信仰の要素が含まれますし、仏教にも山に対する畏敬の念が示されています。
 「山を拝む」という信仰心を理解できるわれわれだからこそ、他国からは不信心等と言われながらも、信仰の多様性(自由)に関して寛容でいられるようにも思われます。

2009/06/29

安心な「翼をください」──調布飛行場周辺

2009.6.20
【東京都】

 調布飛行場は現在も、伊豆諸島(大島、新島、神津島)向けのコミューターが発着する空港として機能しています。
 一度くらいは利用したいと思うものの、結局「のんびりとフェリーで」を選んでしまうので(近ごろは高速船もあるそう)、まだ実現していません。したがって、ここは初めての訪問になります。
 東京にある空港にしてはローカル色が漂っていて、とてものんびりとした印象があります。
 とは言え、当然ながらその周囲は市街地に囲まれているので、「ジェット機の騒音に比べればまだマシ」という比較ではなく、「飛行機は落ちるもの」という危険性においては、厚木基地や沖縄の普天間基地周辺と変わりません。


 味の素スタジアム(東京スタジアム)(Map)

 以前と言っても、かなり古い記憶からの引用(1970〜80年代)になりますが、甲州街道を八王子方面に向かい、調布インターを過ぎた右側には、高い並木が壁のように続いている場所がありました。
 その木々のすき間からは、日本ではあり得ない(米軍住宅でしか見られない)ような、まぶしい緑のじゅうたんが見えた記憶があります。
 後述しますが、その木々の奧には旧米軍家族居住区の「関東村」があったそうで、返還後に並木の中ほどを切り開いてスタジアムが作られました。

 現在、サッカーのFC東京や、東京ヴェルディの本拠地になっており、最寄り駅は京王線の飛田給(とびたきゅう)になります。
 以前は周囲に何もないローカルな駅だったのですが、スタジアム効果で立派な駅になっていました。
 この飛田給の名称は、むかし、荘園の領主から民衆に給与した田畑を給田(きゅうでん)といい、この周辺の領主が飛田姓だったため飛田給田地から、飛田給となったそうです。
 世田谷区にも給田の地名があり、気になっていました。


 近ごろはやりの命名権(ネーミングライツ)契約により、競技場等の名称を貸与することで運営の助けとなるのであれば、運営会社にはとても有り難い収入源になると思われます。
 確かにこの名称は、スポーツニュース等でよく耳にするのでなじみつつあると思われます。

 命名権絡みで話が飛びますが、歴史も長い施設である渋谷公会堂(1964年東京オリンピックの重量挙げ競技の会場だったそう)を、突然「C.C.Lemonホール」などと言われても、「新しい施設ができたのか」くらいにしか思えないのではないでしょうか?
 黄色い広告に覆われたたたずまいを目にして、「ネーミングライツ契約とはこういうことなのね」と、これまでの記憶が「Paint It Yellow !(黄色に塗りつぶせ)」という思いがしました(契約料年間8000万円、契約期間は2006年10月1日からの5年間)。
 自治体(渋谷区)の考えも確かに理解できるところですが、でもわれわれの記憶はいくら積み上げても「お金にならない」と否定されたような、裏切られたような印象を受けてしまいます。
 ──渋谷区ではこれ以外にも、公衆トイレの命名権も募集しているそうです。「○○トイレの前を右折です」などと目立つような、ド派手な施設になるのだろうか?


 調布飛行場(Map)


 飛田給の駅を降りたときから、「ブルルルルー」というプロペラ機のエンジン音が聞こえ、ジェット機が発着できない離島の小さな空港に来たような「懐かしさ」が感じられます。
 ジェットエンジンと比べると、あのプロペラ機の「羽音(と表現したくなる)」からは、とても暖かみが感じられる気がします。
 滑走路の端には下写真のような丘があり、ベンチが設置されています。
 日照りの時は暑そうですが、この時間のような曇天のなら、いつ出入りするか分からないプロペラ機の発着を眺めるのは、羽田空港の慌ただしい飛行機の列を見るのとは違い、のんびりと落ち着いて見学できるように思われます。


 付近では過去に、上記のようなことを書いては怒られそうな事故(1980年に中学校の校庭に飛行機が墜落)もあり、「調布飛行場を考える市民の会」では、騒音、ストレス、危険性等から、早期閉鎖を訴えています。
 離島に向けた行政サービスである、都営コミュータ空港の役割としての緊急時の支援や救命活動等よりも、つり竿やゴルフバックを持つ客が目立つばかりで(わたしも利用したいと考えています……)、地元には何の利益もないとの主張です(緊急活動が多いのも困りますが)。
 都営コミュータは必要と思われますが、島民側からしても行き先は羽田の方がはるかに便利なわけで、どんな理由でこの場所に空港が必要と考えているのか、聞いてみたい気がします(都知事は「羽田はお金を稼ぐ施設」なんて言いそうな気がします)。
 ──ずっとむかしに関わりのあった、航空測量関連の施設(航空写真を撮るための飛行機および資材)を置くための空港は必要に違いないのですが……

 ここは、1941年に軍民共用の飛行場として開設されましたが(大規模な立ち退きを強いられたと看板にありました)、第二次世界大戦に突入すると、東京に飛来するB-29爆撃機などの迎撃に向かう戦闘機が飛び立ったそうです。
 当然、戦後はアメリカに接収されますが、現在のグラウンドや大学施設のある西側地域は、水耕農場(人糞堆肥を使用しない)とされ、「衛生的野菜」の生産場となったそうです(とても威圧的な表現で、カチンときます)。
 その後、代々木にあった米軍家族の居住施設を、東京オリンピックの選手村に使用するため、1965年にその代替施設としてこの場所に「関東村」が作られました(元居住者たちのコミュニティサイトもあるそうです)。
 関東村は1973年まで使用され、返還後は2000年頃に完成した現在の大学施設等が作られるまで、塩漬けにされていたそうです。
 ──きっとその塩漬けの期間に、甲州街道脇の「高い並木が壁のように続く」風景を横目に走っていたんだと思います。

 調べているうちに、その塩漬け期間の廃墟を警備していた人と、廃墟が撮りたくて不法侵入して追い出された人が、10数年後に連絡を取り合ったという、面白いサイトを見つけたのでアドレスを紹介します(http://www.tomosakata.com/kantomura1.htm)。


 野川公園(Map)

 ここは調布飛行場の北側にあたり、この日の気象条件から、飛行機は公園の上空をかすめるように着陸していました。
 立派な木の多い公園なので視界が開けず、低空で飛ぶ羽音(エンジン音)だけが響いてくると、やはり不気味な印象を受けます。
 公園の入り口付近に、幕末期に新選組局長として名をはせた近藤勇生家跡とされる一画があります。

 結局こんな写真しか撮れなかったのですが、木立と芝生が交互にある公園なので、以前はゴルフ場では? と思っていたら、国際基督教大学(ICU)所有のゴルフ場だったそうです。
 大学がゴルフ場ですか、とも思ったのですが、設立にはマッカーサーも尽力したそうですから、その経緯も見えてきますよね。
 国際基督教大学の敷地には、第二次世界大戦まで「東洋一」と言われた中島飛行機(戦後解体され、富士重工業、プリンス自動車工業等に分割)の研究施設があったそうで、東京ドーム13個分もの広さになるそうです。

 右写真の足元に広がる、木々に覆われた落ち葉地帯はふっかふかの感触で、こんな状態になるまで何十年かかるのだろう? と思われるような「腐植土を育てよう」とする意志が感じられます。
 いたるところに枯れ葉や枝を積み上げる区画を見かけましたし、そんな公園側の方針はしっかりと伝わって来ました。
 ここに落とし穴を作られたら見事にはまりそう、と思いながらも、ふかふかの落ち葉がクッションになって、落ちても痛くなさそうな印象もあります。
 でも、ニオイはキツそうですが……
 ここでは、当たり前のようにクワガタムシが見られるそうです(そうでしょうねぇ!)。
 今どきでは、そのように守られている森の近くに暮らす子どもたちを「恵まれた環境に育った」と表現するのかも知れません……
 もう都内には残されてないと思われますが、閉鎖されたゴルフ場があったなら、このような有効利用を目指しませんか?!

2009/06/22

「水の器」の七変化──多摩川に沿って

2009.6.16
【東京都、神奈川県】

 今回は近所を流れる多摩川沿いにあじさいを追いかけました。
 よく見かける球状のあじさいはセイヨウアジサイで、日本種であるガクアジサイの改良品種だそうです。
 咲き始めは白っぽくも、次第に色が変わることから「七変化」とも呼ばれるそうですが、ウシ、ヤギ、人には中毒を起こす毒性があるそうなのでお気をつけ下さい。って、食べたりしませんよね……
 花の色は、生育土壌の養分構成やpH(酸性度)によって変わるとも言われますが、同じ花(色づいているのは萼(がく)だそう)でも、咲き始めと終わり頃では色が変わるそうです。

 あじさいの学名は「水の容器(大量の水を吸収し蒸発させる等の説もある)」、語源は「あづさい(集真藍:藍色の集まり)」だそうですが、どちらもいい表現と思います。
 ただ、漢字表記の「紫陽花」は唐からの伝承を間違って(ライラックと取り違えたとも)広めてしまったと言われています。
 前回の菖蒲(これをアヤメと読む?)や杜若(カキツバタ)に加え、植物名の漢字表記にはいい加減なモノが多いという印象を受けてしまいます。

 昭和記念公園(Map)

 飛行場の跡地を公園化したため、基本的にどの施設も、敷地面積が広いという贅沢さがあります。
 広い空間において、さらにその広さをアピールしようとするデザインやコンセプトには、あまり遭遇したことが無いような気がします。
 どの場所でも広々とした印象が感じられる公園になっており、わたしはこのセンスがとても好きです。
 気持ちがいいものですからつい歩き回ってしまい、実際に広い公園ですから、いつも帰りはドロドロに疲れてしまいます……
 歩きたくなるような場所が都内にあるのですから、オススメしたいのですが入園料は400円です。
 それをどうとらえるかは、行ってみて判断してください。


 これこれ、これがむかしのあじさい! じゃなかったかなぁ……
 子どものころの記憶だと思うのですが、あじさいの葉っぱは上写真のように、緑に白い模様が混じっていた、というイメージが残っています。
 今回見た中ではこの一種類だけなので一般的とは思えませんから、家の近くにそんな種類のあじさいがあっただけの、ローカルな体験なのだろうか?
 そんな印象のある方がおられましたら、あじさい談義でもしましょう。


 この公園の正式名称は国営昭和記念公園といい、昭和天皇の在位50年を記念して1983年に開設されました。
 元は陸軍立川飛行場で、終戦後米軍に接収され立川基地となり、滑走路拡張に反対する地権者との衝突で「砂川事件(裁判で憲法と日米安全保障条約の矛盾をしめすものとして注目された)」が起きた場所になります。
 まだ西側には、跡地開発について国・都・自治体の綱引きにより手つかずの地域があるそうですが、できるだけ住民の意思を取り入れた利用方法を考えてもらいたいと思います。
 昭和天皇の存命中に付けられた公園の名称に従って(?)、2005年に昭和天皇記念館が開館しました(未見)。
 その必要性については、意見が分かれると思われますが、この施設は、国民からの募金(約14億円)によって作られたんだそうです(管理する財団の理事には企業名も見えるので割り引いて考えてください)。

 しかし、ここで目から鱗(ウロコ)がポロリと……
 東国には天皇陵が2つ(大正、昭和天皇陵)八王子にあるだけで、関連の寺社も明治神宮だけです(明治天皇陵は京都伏見桃山)。
 昭和天皇は存命中に「神から人間」なったわけですから、死んだらまた神に、とするには抵抗感が強いかも知れません。
 しかし、さまざまな時代を生きた人々の思いが具現化された場(寺社や庭園等)こそが、歴史の語り部となっていることを、京都や奈良を歩いて思い知らされた経験があります。
 近畿地方では時代と共に、多くの思いが幾重にも積み重ねられてきたからこそ、現代でも関心の尽きない日本文化の歴史や伝統が光を放っているのだと思われます。現在でも卑弥呼の墓か? と、にぎやかです。
 東京は、京都・奈良とは異なる性格の都市と思われるので、同じものを目指すことは無理と思われますが、「歴史を残す・刻む」ことを、将来に向けて考えるべきではないか、と思われます。
 まさか、東京タワーや高層ビルが数百年後まで残されているとは思えません。
 明治維新や昭和を「激動の時代」と表現しますが、この国の歴史スケールからすると、東京は「(明治天皇を含めても)天皇陵3つ分」だけの、ほんの一部分でしかない、子どものような都市と言えるのかも知れません。
 ──都(みやこ)はこれまでも、幾度となく移されてきましたから、先のことは分かりません。つい先頃まで「首都機能移転」についての意見が飛び交っていましたし……


 府中 郷土の森博物館(Map)

 ご存知と思われる荒井由実の「中央フリーウェイ」に登場する「右に見える競馬場、左はビール工場」の舞台近くで、JR府中本町駅(競馬場最寄り駅)から歩くと、高速道路をくぐり、ビール工場の前を通ります。
 ここには公園だけでなく、府中市の歴史民族資料館やプラネタリウムなどがあり、市の文化施設が集まった一画になっています。
 隣接して交通公園、総合体育館やグラウンドなどもあるので、全部含めるとかなり広大な面積に公共施設が作られていることになります。


 「とっても素敵な公園ね」と、車いすのおばあさんが褒める理由には、手入れの行き届いた公園であることはもちろんですが、「バリアフリー」であることも含まれているのではないかと思われます。
 その言葉を耳にして「なるほど、車いすの方が多いわけだ」と納得させられます。
 草木や自然環境を楽しむ公園に土地の起伏は付き物で、そこを段差を気にせず回るためには、傾斜を緩やかにするための、かなり遠回りになるスロープが必要になります。
 この公園では、設計段階からバリアフリーを意識していたようで、わたしたちもバリアフリーと意識せずに歩いて回ることができます。


 しかし園内の一部には、近ごろ商店街などでよく目にする、表面をわざとデコボコにしたブロック状の石を、デコボコをアピールするように埋め込んである路面がありました。
 あれって、車いすや、お年寄りがよく押している車輪付き買い物カゴ(車輪付き旅行鞄も同様)にとっては、通行しづらいと思うのですが、それでも普及する理由って何かあるのでしょうか(オシャレな商店街を気取るため?)。
 水たまり防止とも思えませんし、滑り止めのつもりでも、転ぶ危険性の方が高まると思われます。
 自動車や自転車の速度を抑制する効果はあるかと思われますが、不便を与えない方策を考えてもらいたいと思います。




 妙楽寺(Map)(神奈川県)

 以前から、おぼろげながら存在は知っていたのですが、ようやく足を運びました。
 最寄り駅はJR南武線の宿河原で、閉園になった向ヶ丘遊園(現在生田緑地)の尾根続きにあたる場所になります。
 ですので、旧向ヶ丘遊園正面にあった「100段階段」分の坂を(リフトは無いので)登ることになります(古いローカルな話しでスミマセン)。
 ──下写真:前日雨が降ったので、いい具合に水滴が残っている、と思ったのですが、他の花にはありません。誰かが霧を吹いたんだと思われます。


 お寺の説明には、源頼朝の弟である全成(ぜんじょう)が威光寺の院主となり大きく発展し、その志をこの妙楽寺が継いだとあります。
 しかし、川崎市の記述は「威光寺と妙楽寺との間の因果関係が推定される」というもので、他も「天台宗(比叡山延暦寺の教え)の寺」程度しか見あたらないので、私見としては関連のあるお堂等だったのではないか、と思われます。


 ここでも車いすで外を散策する団体と遭遇しました(そういう日だったのだろうか)。
 でもここは、通路も狭く石畳もデコボコしている、バリアだらけのお寺です。
 最終的にはマンツーマンでの対応が必要になりますから、介護の方も総動員と思われる物々しさで、寺院内の交通整理もしていました。
 そこまでしても、ここのあじさいが見たい、見せてあげたい、というプロジェクトだったようです。
 写真にもあるように、あじさい山を見渡すことができるお寺ですし、時季も良かったと思うので、満足してもらえたのではないでしょうか。
 それにしても、介護の方々の責任の重さを、目の前で見せつけられた気がしました。
 「外に出たい」という要望もとても良く理解できますが、出先で転んだりしただけで大けがに結びつきます。
 自身に非は無くとも、その責任を問われてしまうのは介護の方なわけですから、そうさせてあげたいという気持ちをバックアップする制度などが必要ではないでしょうか。
 何か起きた場合、その家族に「外に連れ出すなんて大きなお世話」などと言われかねません。
 それで「善意の押し売り」みたいに言われたのでは、やってられませんよね……


 多摩川台公園(Map)

 ここは以前、野毛大塚古墳の項でふれた田園調布古墳群のある多摩川台公園(最寄り駅は東急東横線多摩川駅)で、自宅から徒歩で20分程度の場所にあります。
 公園には何度か足を運んでいましたが、あじさいの季節は初めてで、広くはないながらも「あじさいの丘」というコンセプトはしっかり伝わってくる一画です。
 そういえば、駅前の商店街(たいしたこと無いんですが)で、ちょうちんをぶら下げて「あじさい祭り」みたいなことやってましたね。
 女性の二人連れに「ここがいちばーん!」と、ベストポジションに陣取られてしまうと、他に腰掛ける場所が無かったりするベンチの配置になっています。
 ベンチはほとんど、多摩川を望む場所にあるのは、とてもよく理解できるのですが……

 ここは桜もキレイで、東横線の車窓から多摩川沿いに見える桜色の丘はここになります。


 むかし、こんなスイミングキャップが流行っていませんでしたっけ?

2009/06/15

雨の季節の楽しみ方──明治神宮、外苑

2009.6.9
【東京都】

 今年はなんだか
 「もう時季になったから発表しちゃえ!」
 という「無理やり梅雨入り宣言」の印象があります。
 とは言え、誰が反論するわけでもありませんから、社会はその発表のまま「梅雨入り」を受け入れることになります。
 季節感なんですから、アバウトでいいとも思うのですが、これも社会を管理することにつながっていることなのでしょう……

 明治神宮(Map)

 ここは、明治神宮の敷地内にある御苑(ぎょえん:代々木御苑とされるそう)の菖蒲田(しょうぶだ)になります。
 施設の名称も「菖蒲田」ですから「菖蒲の花」と思っていましたが、その区別はややこしいことになっています。
 菖蒲とは、端午の節句に湯船に浮かべ「菖蒲湯」に使う植物ですが、それと写真の植物は別物なんだそうです。
 菖蒲湯に使う植物はサトイモ科で、写真のものは「花菖蒲」という植物で、アヤメ科なんだそうです。
 よく耳にする「いずれアヤメかカキツバタ」(美しさの優劣も付けがたいが、区別もしがたい)の双方とも同じアヤメ科に属しており、また、当て字だそうですがアヤメを「菖蒲」と書くんだそうです。
 そんな漢字の使い方を始めた人も、その違いを分からなかったのでは、と思ってしまいます。
 ──ちなみにカキツバタは「杜若」の漢字が当てられますが、「とじゃく」と読むヤブミョウガという別種の漢名と混同されたとあります。いい加減でも、通じればいいと考えられているのでしょう。


 少し早いかと思ったのですが、ちょうど見頃のようでした。
 この花は、色や形がとても特徴的であるため個性を表現しやすく、日本の気候にも適しているようで、江戸時代から品種改良が盛んなんだそうです。
 株の根本に立てられた品種名はどれも個性的な名称なのですが、数が多すぎて逆に関心をそがれてしまいます。
 この花は湿気を好むため、みずみずしさを失った途端にその輝きを失うばかりか、周囲にある盛りの花を邪魔してしまいます。
 それは花の個性と言うか、品種改良に精を出した人々の自己主張のようにも思われます。


 この地はご存知のように、明治天皇を奉る神社になりますが、1912年(明治45年)に崩御した際には、立憲君主国家としては初めてとなる君主の大葬だったため、その死に関する法律はなかったんだそうです。
 確かに、存命中に「死んだらどうする?」という法律は作りづらいだろうとは思われます。
 1914年(大正3年)に皇后であった昭憲(しょうけん)皇太后が亡くなると、国民からおふたりを奉る神社を求める機運が高まり、1920年(大正9年)に創建されたそうです。

 明治新政府発足に向けて、天皇が初めて東国に向かうにあたり、彼自身は、東国に骨を埋める覚悟を持っていたのだろうか?
 でも、時代が動いていくにつれて「京には戻れない」ことは、自覚していったことと思われます(明治天皇陵は京都伏見桃山にあります)。
 そんな心情を察すると、その決意に賛辞を送りたい気持ちと、東国に初めて来てくれた天皇を讃えたいと考える、庶民の心情も理解できる気がします。

 創建当初の主要な建物は、1945年( 昭和20年)第二次世界大戦の空襲に遭い、焼失したそうです(再建は1958年)。

 【トップページに掲載したものは、下写真(水面に映る花菖蒲の影)を180°回転したものです】


 江戸時代初期のこの地には、加藤家(加藤清正:秀吉・家康の家臣で、初代熊本藩主。その子である忠広が住んでいた)の屋敷があり、その後は井伊家の下屋敷の庭園とされたそうです。
 明治の時代から代々木御苑とされ、明治天皇、昭憲皇太后がたびたび訪れるお気に入りの庭だったようで、そんなゆかりの地として神社創建の場所が選定されたそうです。
 境内の大きな看板には、この地で詠んだおふたりの歌が記されています。
 明治神宮は2004年に、神社本庁(伊勢神宮を本宗と仰ぎ、日本全国約8万社の神社を包括する宗教法人)から独立して、単立神社となったそうです。
 勉強不足でおぼろげながらも、神社神道とは主旨が違うという気がするので、その選択は正しいようにも思えるのですが、単立神社として運営されている他の有名どころには、靖国神社、日光東照宮(家康)、鎌倉宮(後醍醐天皇の子、護良(もりなが)親王を明治天皇が奉った)等があるそうです。
 後者の2つは個人を奉る施設なので明治神宮に近いと思われますが、前者はそんなくくりに属さない「特別なもの」という性格が浮かび上がってきます。
 今さら取り立てて騒ぐことではないのかも知れませんが、時の流れにまかせておけばいい、というのも無責任に感じられます。


 御苑内には、現在も自噴していて菖蒲田の水源にもなっている清正井(きよまさのいど 上写真)があります。
 前述の通り、江戸時代には加藤清正の子・忠広が住んでいたにしても、清正が暮らしたのかについては定かではありません。
 それでも清正が掘ったと、伝説は言い張るのですから、異議をとなえるのはやめにしましょう。
 明治神宮のホームページにも「昔から言い伝えられてきた伝説はすなおに受けとめ、語り継いでいきましょう」とありました……

 以前はヒシャク等が置いてあり、飲めたと思うののですが、今回は「都合により飲用を禁止します」の看板が立てられていました。
 それって、どういう都合なのかを看板で説明するべきではないか、と思うのですが、その主旨は「すなおに受けとめましょう」なのだろうか……


 明治神宮の森を歩いた方は分かると思いますが、足を踏み入れるとうっそうと茂った木々が、かなり好き勝手に伸びているので「ちょっと薄暗いね」の声が聞かれるような森になっています。
 そんな森が、これだけの規模で保全されている地域は、都心では他にないと思われます。
 神宮創建時の議論のひとつに「どの植物を植えたら100年後に自然の森になるか」というものがあったそうです(当時は畑だった)。
 議論の結果、シイやカシ等の照葉樹を植えることにしたのですが、当時の総理大臣である大隈重信首相から「神宮の森は当然杉林にするべきだ」という横やりが入ったそうです。
 彼のイメージには、伊勢神宮や日光東照宮の杉並木等があったようですが、その通りになっていたらいまどきは、花粉アレルギーの方の目の敵にされていたことでしょう……
 「総長(早稲田大学の創立者)、それは古い!」と言われたか定かではありませんが、植物学者たちのビジョンが正しかったことは、本日の印象からも伝わったのではないかと思います。
 でも、繁殖期で気が立っているのか知りませんが、都心の森ではカラスの多さに閉口させられます……

 神社の境内では、奉納された酒樽が飾られているのをよく目にしますが、ここにはワイン樽も並べてありました。これって昔からありましたっけ?


 神宮外苑(Map)

 下写真は国立競技場のゲートからのぞいたものになります。
 若いころは大学ラグビー等を観に来たものですが、近ごろではこの辺りにも立ち寄らなくなりました。
 最後に来たのは、サッカーのストイコビッチの引退試合にひとりでのこのこ来て、当日券を買って入った時だった気がします。
 この日神宮球場では、全日本大学野球選手権大会が行われていたようで、声援が響いておりました。


 明治時代のこの地は陸軍の青山練兵場だったそうで、軍隊の観兵式(北朝鮮の軍事パレードと同様)はこの地で行われ、第二次世界大戦の出陣学徒壮行会は、現在の国立競技場建設前にあった明治神宮外苑競技場で行われたそうです。
 当時の若者への償いも含めてか、軍隊の敷地だった場所にはスポーツ施設が作られ、東京オリンピックのシンボルであった国立競技場は現在でも日本を代表する競技場ですし、神宮球場は大学野球の聖地とまで言われるようになりました。
 以前に比べれば、格段に文化度は高まったとは思えますが、現状がベストの有り様なのかは分かりません。
 しかし、後戻りだけはしないことを願いたいところです。
 ──神宮の花火って、戦没者への追悼の意味が含まれているのだろうか?


 上写真はご存知のイチョウ並木付近ですが、昔はここを軍人たちが隊列を組んで行進していたのかも知れません……


 青山霊園(Map)

 時間があったので青山墓地を歩きました。この中を歩くのは初めてです。
 青山という地名は、この地に屋敷を構えた青山忠成(愛知県岡崎市出身)に由来するそうです。
 青山家は父の代から家康に仕えており、忠成は第二代将軍秀忠の傅役(ふやく:親代わり)だったそうです。
 逸話には、この地に鷹狩に訪れた徳川家康の「馬で一回りした範囲の土地を屋敷地に与えよう」の言葉に青山忠成は、馬が死ぬまで駆け巡ることで広大な土地を賜った、という伝説があるそうです。

 その広大な土地は、明治維新後の1872年(明治5年)に、初めて公共団体の管理する墓地となったそうです。
 江戸時代には幕府公認の寺院の檀家になる義務があり、葬儀は檀家になった寺が行っていたそうです。
 それを、明治政府は「神仏分離令:神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神社と寺院を区別させる」「神葬祭許可の達:神道の葬儀を認める」を発し、神道による埋葬を許可(強要)するために、この地を神葬墓地としたそうです。
 しかしそれまでの、先祖代々の墓への埋葬を禁じられた庶民が反発したため、青山墓地は共葬墓地に変更され、公共墓地が増やされたそうです。
 ──神葬祭(しんそうさい)とは神道の葬儀で、これまで参列の経験は無いと思いますが、経済的との理由から増える傾向にあるんだそうです。

 何年か前になりますが、都心にある都立霊園の墓所を移転し、跡地を公園にする計画を耳にしたことがあります。
 結局、墓地返還の見通しが立たないということで、墓地と共存した公園づくりに方針転換したそうです。
 この霊園は極端な例かも知れませんが、お墓の問題はとても難しいと思われます。
 先祖や家族の墓はできるだけ近い方がいいのですが、みんながそれを実現すれば東京近郊はお墓だらけになってしまいます。
 慣習ですから、切り替えることは可能に思われますが、自分の決断で先祖の墓を放棄することは、ちょっと難しいことのように思われます……

 写真は霊園から、六本木ミッドタウンのビルを見上げています。

2009/06/08

人・物・鳥のスクランブル地帯──大井ふ頭周辺

2009.6.4
【東京都】

 城南島海浜公園(Map)

 公園を歩いていると「パン、パン」という音が盛んに響いてきます。
 工場の音かと思いきや、運河の向かい側にある羽田空港で、鳥を追い払うための威嚇音だったようです。
 先日も海外で、エンジンに鳥が吸い込まれて大変なことがありましたし、鳥害防止は空港運用上の重要事項になります。
 水辺にある空港ですから水鳥も多くいますし、近くの野鳥公園では鳥の生息域を確保して、観察のできる環境を整備しています。
 その一方で、飛行ルートからは排除させたいわけですから、かなり大変な取り組みだと思われます。

 ここは埋め立てられた島の、東京湾側と羽田空港側の海に面した一画を整備した公園で、人工の砂浜やバーベキュー施設などがあります。
 テトラポッド等が無いので、海がとても近い印象はあるのですが、そこにあるのは東京湾なんですよね……
 羽田空港等の夜景がキレイなのかも知れません。

 下写真奧の建物は航路標識で、船に信号を送る施設です。この「F」表示は航行制限無しのサインになります。


 JR大森駅からのバスを利用しましたが、第一京浜(箱根駅伝で走る道)から海側の広い道路は、何を運んでいるか分かりませんが、コンテナを牽引した大型トレーラーの交通量が非常に多い一帯になっています。
 これまで、臨海地域の奧まで立ち入ったことはなかったのですが、中央防波堤埋立地(現在のゴミ埋め立て地)へ続く道(海底トンネル)がある島、という関心から足を運びました。
 もちろん通行できませんし渡れないので眺めるだけなのですが、天気のせいかぼんやりとしか見えませんでした。
 ──お台場からバス路線があること、これを書いているときに知りました。残念……


 東京港野鳥公園(Map)

 近くでじっとしてくれたのはサギだけでした。警戒心はそれほど強くないのだろうか?
 鳥の名前も知らず、特に野鳥が好きでもないのに、野鳥観察公園によく足を運ぶのは、必要最低限の手入れしかされない自然環境に、接することができるからだと思います。
 ですが、観察小屋は目立たないように草むらなどの暗い場所にありますから、夢中になってファインダーをのぞいていると、靴下の上からも虫に刺されたりします。
 マイ双眼鏡をぶら下げ、結構気合いの入ったいでたちの親子(父と息子)が、かなり落胆したように「カワセミなんかいないじゃないか!」と吐き捨てて、ネイチャーセンター(観察・学習施設)を出ていきました。
 東京近郊でもカワセミが見られるようになったとはいえ、簡単に出会えないからこそ、出会えたときの喜びが大きいと思うのですが、それじゃダメなの?


 この公園は、大田市場(東京都中央卸売市場の一つで、青果物、水産物、花卉(かき)を扱います)に隣接した場所にあります。
 ──大田市場の各建物の屋根には、鯛、ぶどう、竹の子、カブ(花もあるそう)等のシンボルが飾られています。

 と言いますか、前回訪問時は公園を主体に考えていたので気がつかなかったのですが、地図を見ると、市場や倉庫などに使われずに余った土地を、公園に仕立て上げた様子が見て取れます。
 工場等を誘致する地区に作られた、都民のご機嫌取りのような施設で、恵まれた条件ではないにせよ、このような環境・施設を実現させた活動に対しては、声援を送るべきですよね。


 下写真は、月周回衛星「かぐや」の映像ではなく(間もなく役目を終え月面に墜落するそうです)、潮の引いた水辺に現れたハゼの住みかだそうです。
 ガキのころ、金沢八景(横浜)のハゼ釣り大会で、初心者でもバンバン釣れた記憶があって(天ぷらにして食べました)、ハゼを小馬鹿にし過ぎているのではないか、という自戒の気持ちがあります。
 ここで初めて接した子どもたちがどんな印象を持つのか、ちょっと聞いてみたい気がします。


 この野鳥公園や大井ふ頭のある人工島には島の名称が無いようです。
 ですが埋め立て地名というものがあって、その名は「大井ふ頭その1」。隣接する城南島の埋め立て地名は「大井ふ頭その2」なんだそうです。
 そういえば、お台場のある13号埋め立て地にも島の名称はありませんよね?
 間もなく始まるらしい、「その1」と「その2」の間にある運河を埋め立てる工事が終了後に、新しい名称がつくのかも知れません。
 ということはやはり、東京湾をズズーッと埋め立てる計画があるように受け止められます。
 確かに、江戸時代から海に向かって生活域を広げてきたわけで、江戸開府前の古地図を見ると、江戸城(現皇居)辺りまで海だったことに驚いたりします。
 これまでは、海に向かって攻めていきましたが、これからの温暖化の時代(?)には、海水面が攻めてくることを考慮した埋め立て計画が、必要になるのかも知れません……


 東京貨物ターミナル駅(Map)

 上記大田市場の建物の地下から一本の線路が地上に現れ(川崎の臨海部までトンネルで続くらしい)、反対側にあるJRF(日本貨物鉄道)の敷地内へと続いていきます。
 この先には貨物用の車両基地があるのか? と向かってみると……


 この付近には「東京貨物ターミナル駅」という名前の駅があるんだそうです。
 敷地が広すぎてどこに何があるのか不明ですが、周囲には運送会社やさまざまな企業の大きな倉庫がありますし、東京湾側に面した岸壁は大井ふ頭になるので、数多くのブラックボックス(コンテナ)がここにたどり着き、運び出されているようです。
 この一帯が、東京における物流の一大拠点であることを、今回初めて認識しました(用事のない人は立ち入らない場所だと思われます)。
 ここでの光景もやはり、何を運んでいるのか中身は分かりませんが、わたしたちの生活に必要と思われるモノが、列をなした大型トレーラーで運ばれていくものになります。
 積み荷に危険なモノはないにしても、近ごろ事故のニュースをよく目にするので、運転には気をつけてくださいね。

 隣接して新幹線の車両基地があるのですが、その付近だけフェンスで目隠しされており、近くからの写真は撮れませんでした。
 陸橋の上から何か投げ込まれて、トラブルの原因になっても困るので、仕方ないですよね……


 鈴ヶ森刑場跡(Map)


 江戸時代(1651年)に開設された刑場で、旧東海道沿いの江戸の入り口とされる場所になります。
 第三代将軍徳川家光の政策によって、職にあぶれた浪人たちの犯罪が増えてしまったので、見せしめのために街道筋に開設されたそうです。
 処刑された人物には、丸橋忠弥(由井正雪と共謀し幕府転覆を謀った)、平井権八(演劇等では白井権八:金品目的の辻斬り)、八百屋お七(放火未遂)等がいるそうです。
 権八やお七などは、浄瑠璃や歌舞伎などの題材に取り上げられたおかげで、広く知られているそうです。
 わたしは詳しくはないのですが、白井権八(劇中名)からは幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ:侠客の元祖らしい。歌舞伎の場面で、権八を「お若けぇの、お待ちなせいやし」と呼び止めるセリフが有名だそうです)を連想する記憶を、どこかでインプットされたようです。
 大学時代バイト先で、そちらっぽい家庭に育った社員の方に「お前、バンズインチョーベエ知らないの?」と言われたのがとても印象に残っているのと、映画『泪橋』(あまりオススメではない)の印象がミックスされたのか?
 鈴ヶ森の刑場へ送られる罪人を見送った(立ち会う)のが「立会川」とされ、この世のなごりに振り返ったのが「涙橋」(濱川橋)とされるイメージは、なぜだか強烈に残っています。

 上写真の左の石には、丸橋忠弥が磔(はりつけ:こんな漢字使わないから読めない)された柱が、右にはお七が火炙り(ひあぶり)された柱が、それぞれ立てられたそうです(文字を打っていても怖くなる文字列です)。


 しながわ水族館(Map)


 規模は大きくありませんが、近所の方が散歩がてらに立ち寄れるような気軽な印象があります。
 イルカやアシカのショーもあり、突然予想もしていない方向から水しぶきを浴びた子どもが泣き出すような、親近感が持てる(?)サイズの施設です。

 この日目についたのがベビーカーを押した母子連れで、そんな赤ちゃんを連れてきても分からないんじゃないの? とも思ったのですが、お母さんのリフレッシュ、と割り切ればすんなりと理解できる気がしました。
 上写真はゴマフアザラシで、顔は左下側になります。