2011/07/18

暑さをなごませる川面の風──多摩川

2011.7.9
【東京都】

 夏休み前に夏が来た! と盛り上がっても、この夏は節電で公共屋外プールの開設期間が短縮されているようなので、子どもたちは「どこで遊べばいいの?」とストレスを感じているかも知れません。
 晴天続きはうれしいのですが、近ごろの暑さに手加減はないので、暑さに少し慣れるまではご用心下さい……


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 国民がエネルギー源までを真剣に考えはじめた、本質的な意味での「エコ元年」となる夏の暑さ対策として、自宅の日よけ等が話題ですが、「冷房の効いた」公共施設・ショッピングセンター等、人が集まる場所に出かけるのもひとつの手と思います。
 涼むつもりが余計な買い物をしたり、映画を観ちゃったという行動は、消費活性化につながるので、社会の潤滑剤になります(エネルギーを自宅で浪費せず消費が活性化します)。

 そこで今回は、余計な買い物をしたくない方に、川辺で涼をとってはいかが? との提案になります。
 川という場所は周辺では最も低い場所にあたり、低地や谷地形が続き障害物(山や建造物)が無いため、水神とされる「龍の道」に例えられるような、風通しのいい場所になります。
 日差しを避ける場所や手段があれば、心地よく過ごせる環境と思います。

 この日歩く東横線多摩川駅周辺は自宅から徒歩圏内で、多摩川に架かる丸子橋(中原街道)を歩いて渡ります。
 橋のたもとの堤防は南西に面しており、おひさまの恋しい季節には日光浴目的で結構人気の場所になります。
 しかしこのカンカン照りの昼下がりでは、日差しに焼かれたコンクリートは熱かろうに、挑む人がいます。
 海外の方のようですが、お尻冷やしグッズなど準備しているのだろうか?
 テレビで目にする海外の猛暑レポートでも、背景に水着姿で読書している姿を見かけます。
 暑くてもクールに振る舞うことが万国共通の「粋」であるならば、彼女も「江戸っ子には負けない!」心意気なのかも知れません……(絶対暑いってば!)


調布取水堰(Map)

 調布取水堰は1936年に作られ1970年まで利用されますが、多摩川の水質悪化により生活用水の供給を停止し、現在は工業用水道として三園浄水場(板橋区)に送水されます(当時、堰の下流側では洗剤の泡が飛び散ったそう)。


 堰は東横線のすぐ脇にあり、通勤途中に川の様子を目にして十数年(間断期間あり)になります。
 その初めのころに大規模な浚渫工事(土砂撤去)が行われて以来、年々土砂が堆積する経年変化を観察していますが、浚渫後は川底だった場所もアッと言う間に土砂が堆積し、スッカリ緑に覆われています。
 河川管理側の姿勢として、工業用水の取水である緊張感の無さと、防潮堰の役割(海水進入防止)が果たせればいいという重要度の低さが、見て取れるような気がします。

 取水堰には高水位の記録(上写真:網越しに撮影)が記されています。
 右側に記された平成19年の高水位は大阪在住で実際に見ていませんが、立ち位置からその高さを想像すると、上述女性の足元まで水位が上がったかも知れません。
 左右で数値と線の高さが違うのは、おそらく基準面の高さが変更になったのではあるまいか?
 理由は違いますが、大震災被災地で地盤沈下の激しい地域では、これまでの記録が記された堰など構造物自体の高さが変わってしまったので、この先に記される記録には大きなギャップが生じてしまうことでしょう。


多摩川台公園(Map)

 多摩川台公園は「田園調布古墳群」で有名ですが、以前、堰から組み上げた水を上水道として供給するための調布浄水場がありました(1918年〜上述の理由で1967年廃止)。
 跡地には浄水場のろ過池・沈殿池が、水生植物園として残されています。
 地下貯水場も活用されているらしく、右写真はその換気塔のようで、所々にポコポコと立っています(映画『天空の城ラピュタ』を想起します)。

 ここは以前紹介したあじさいの名所(もう枯れかけてました)であり、春には車窓から見える桜色に染まる丘に、季節を実感する方も多いのではないでしょうか。
 公園から望む多摩川の景色は「多摩川八景」に選定され、落ち着けるスポットもあり、昼間っから宴会をする集団がいたりします(蚊にお気をつけて)。


多摩川浅間神社(Map)

 右写真は多摩川浅間神社の境内で、ここではお皿に願いを書いて奉納するらしいので、「お皿に願いを書き奉納」と調べますがまるでヒットしません。
 これは神道で用いられる祭器具の「平瓮(ひらか:平たい土製の容器)」で、「お皿ではない!」という強い主張が検索結果から感じらた気がしました。
 日本書紀には、神武天皇の大和入りに際し「天香具山(あまのかぐやま)の土で平瓮(ひらか)を作り祈れ」の神の啓示に従い、敵を降伏させたという記述があるようです。
 各地の名所で目にする皿投げはここにたどり着くと思われ、宮崎県の青島神社では「天の平瓮(あめのひらか)投げ」とされています。
 観光地で耳にする「瓦投げ」のルーツと思ったものの、調べると「瓦投げは遊び」とキッパリと切り捨てられていることからも、そこには「意図的な力」が存在しているように思え、信用できない印象が強まった次第です。

 ちなみに漢字の「瓮」(か、へ、もたい)は「甕」(かめ)に通じる意味があるそうです。
 その字が読めなかった庶民が、文字に「瓦」が含まれることから「かわら」と読んだことは想像できますし、神社側がそれに腹を立てたことも、とても理解しやすく感じます(これは勝手な推測です……)。

 江戸時代この付近で採れた鮎は幕府に献上され、第9代将軍家重は鵜飼を楽しんだことから多摩川の鮎は名を高めます。
 現在も古びた「鮎焼き」の看板を車窓から目にしますが、それは「鮎の姿焼き」ではなく「あん入りの人形焼」のようです。

 1925年(大正14年)開設の「多摩川園(〜1979年)」は、「温泉遊園地 多摩川園」としてオープンし、当初はヘルスセンター的な(?)「大人の遊園地」で、俗っぽい「川っぷち文化」を楽しむ行楽地だったようです。
 昭和の初めには川遊び客の料亭が並び、屋形船で鵜飼いの鮎漁を楽しんだそうです。
 そんな歴史をふまえると、以前この地で目にした立川談志のはまり様も、場所柄ゆえかと納得したりして……(失礼!)。


上野毛(Map)

 東急大井町線上野毛駅に移動し、改装工事中と知りながらも足を運んだ五島美術館前の通りです。
 東京急行電鉄(東急)創設者である五島慶太の美術コレクションを保存展示するため、没した翌年1960年に設立されます。国宝『源氏物語絵巻』の所蔵で有名らしいのですが、見られなければ無用の情報です。

 右写真はその前の通りですが、道の反対側から伸びた大木の幹が斜めに道路を横切っています。根のある場所も五島一族の敷地と思われますが、これって普通は怒られますよね?
 考えてみましたが、自治体の「五島様のご意向ですから、特例とさせていただきます」とのへりくだり方よりも、「うちの土地に道路を通したいと言ったのはそっちでしょ」の方が、納得しやすいように思えます。
 そんな「木の1本や2本でガタガタ言うな」の主張が通った時代の、おおらかさが感じられるような気がします。


 上野毛駅から多摩川へと下る切り通しの稲荷坂途中に、上野毛稲荷神社があります。
 どうもこの神社は、それまでの村の鎮守であった六所神社が移転したため、北野神社の移転もしくは分祠(本社の神を別の神社にまつること)に向けて、地域住民の手により崖線の斜面を切り開き土地を確保し、神様を招致したようです。
 上写真の灯ろうは地震で崩れたのかも知れませんが、このあっけらかんとした姿は「修復費用の寄付お願いしま〜す!」とのアピールに見えてきます。
 大震災に限らず日本の社会は、そんな助け合う気持ちによって続いてきたことを再確認させられます。

 切り通しの反対斜面には上野毛自然公園がありますが、整備工事中で立ち入ることができません(この一帯が工事中?)。
 ガッカリですが、そのおかげで下写真のブドウ畑に出会えました。


 住宅地内に存在感を示して残る一画だからでしょうか、ガキ時分のイメージである「多摩川河川敷の果実畑(ナシ、ブドウ…)」を想起して、応援したい気持ちにさせられます。
 広くないゆえ手入れが行き届いているようにも見え、品質向上の自負は達成できても収入との両立は難しいのではないか、という印象を受けました(兼業なら可能なのか?)。


二子玉川ライズ(Map)

 右写真は二子玉川駅ホームから見えるスーパー堤防建設工事区域に立つ木で、同工事区域から移植されたそうです。
 かなり長い間ネットがかけられたままの状態ですが、木を守るためというか、周辺に落ち葉をまき散らさない対策という気もします。
 付近には現在でも「工事反対」のメッセージが見られますから、新たな火種を作らないための配慮かも知れません。

 二子玉川東口方面では「二子玉川ライズ」とされる大規模再開発が進行中で、遠くからも目にできる27階建のマンション(筆頭に3棟)が立ち並びます。
 高島屋側と比べると中途半端なイメージを一気に払しょくすべく、ドカンドカンと騒がしくホコリが舞っています。

 東横線から「あんなに高い建物を作っちゃって」と眺めていましたが、田園都市線から振り返ると「あらま、武蔵小杉の方こそ節操がない」と、思い知らされた気がしました……

 帰路は、堤防の上の多摩堤通りを通るバスで多摩川駅に戻りましたが、途中に「温室村」というバス停があります。
 大正時代〜昭和初期、付近にガラス張りの温室が立ち並びはじめ、玉川温室村として知られるようになり、見学者や研究生が集まるほどとなります(カーネーションやメロン栽培)。
 日本における、近代施設による園芸発祥の地とされますが、現在その名残はバス停名だけだそうです。

 この日は梅雨明け発表の日で、強烈な日差しに照りつけられ暑かったものの、川面の風が心地よかったことを伝えるつもりでしたが、週明けに勤め先で「もう焼けてる」と指摘されました。
 川沿いには日差しをよける場所が無いので、日よけ対策万全でお楽しみ下さい(全然、オススメになってない……)。


追記1
 サッカー女子ワールドカップで、日本代表「なでしこジャパン」が初優勝しました。
 準々決勝ドイツ戦に勝ってから、開催国ドイツをはじめ海外の評価が高まって以降も、当初と変わらない執念のような気迫が感じられた印象があります。
 「アマゾネス軍団」のような海外の壁の間を、軽快にすり抜ける小柄な「大和撫子」の姿には、体格差のイメージをひっくり返してくれる痛快さがありました(なでしこの花言葉「勇敢」等)。
 決勝で対戦したアメリカ選手のコメントに「彼女らを後押しするものがあったような気がする」とありました。
 震災の有無は受け止め方の問題で、彼女たちは初めてのチャンスを自分たちの力でつかみ取ったのですから、胸を張るべきと思います。
 日本は元気づけてもらいました。おめでとうございます!


追記2
 セシウム牛肉が全国にばらまかれてしまいました。これで、食の安全対策や海外観光客の誘致も一からやり直しです。この国の信用がゼロに戻ったことになります。
 いかんとも表現しがたい事態なので、寺社の住職的な例え話にすると、安全と思われていた地域の作物が人間の体に入る前に、牛が身代わりになってくれたと考え、秋の収穫期までに全食品の安全性を検査しなさい、と受け止めるべきではないか? と思うところです。
 誰もが、何で人と一緒に牛は避難しないんだろう? と思っていたはずです(そこを掘り下げると、被災者農家まで加害者にされるおそれがあります)。
 牛だけでは済まされないでしょうから、全出荷物の検査を行わない限り、福島県(だけでは済まなくなる)は「ノーモア」でなく「ノー」とされてしまいます……

2011/07/11

古代からのヒルズ──田園調布

2011.7.2
【東京都】

 現在東横線沿いを歩いていますが、田園調布はちょっと特異な環境なので、テーマ探しに窮しました。
 邸宅を撮る気もしないし(撮ったらセコムが鳴りそう?)、田園調布学園の娘たちを撮るには桜の季節がいい(これも怒られるか?)、などなど。
 そこで高級住宅街のヒルズと、多摩川沿いの丘陵地に点在する古墳群を結びつけようと思った次第です。


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御岳山古墳(みたけやまこふん)(Map)

 等々力渓谷沿いにある等々力不動尊門前の、目黒通り反対側にあたる御岳山古墳(みたけやまこふん)は、土日入場可のはずが門は閉まっています。
 単なる怠慢じゃないの? と思うも、あきらめて門前からの写真です。


 門前の案内板によれば「五世紀後半から六世紀中葉の築造と考えられる円墳で、副葬品の七鈴鏡(しちれいきょう:都指定有形文化財)が良く知られる」とあります。
 七鈴鏡は、中国製の鏡をまねて国内で作られたらしく、鏡の回りに7つの鈴が飾られ祭祀(さいし)で使用された記録が残ります。出土品には古代の音色を耳にできるものもあり、なごませてもらえそうです。
 群馬県を中心とした北関東に多く出土するので、毛野国(けのくに、けぬくに、けぬのくに)の祭祀形態が南関東にも及んだと考えられています。
 東京都内で最も古いとされる田園調布古墳群(4世紀末)が、北に向かって点在する並び方や年代から、権力者の勢力が次第に北側へ移動していったと推測されています。
 それは、2~3世紀に存在したとされる邪馬台国(奈良 or 九州?)が、東国に勢力を広めた時期と考えられ、その勢力に侵攻されたのか、反発したのか、この付近の権力者が毛野国と親密になるきっかけとも受け止められます。

 毛野国には上野国(こうずけのくに:現在の群馬県とほぼ同じ)と下野国(しもつけのくに:現在の栃木県とほぼ同じ)が置かれ、毛州(もうしゅう)と呼ばれ、合わせた両毛(りょうもう)の名がJR両毛線のルーツになります。


狐塚古墳(きつねづかこふん)(Map)

 古墳の話題になるといつも「あぁ、奈良行きてぇ〜!」の願望が、じんわりと静かにこみ上げてきます。
 JR桜井線纒向(まきむく)駅近くで見つかった「神殿跡」候補とされる遺跡などの前に立つことを想像すると、タイムマシンで行ってきたかのような、陶酔の瞬間を体験できるのだろうと思ってしまいます。
 学術研究による有力説が確立されていないテーマについては、素人が勝手な想像や仮説を立てても文句付けられることはありません。
 現物を目にできないものを研究対象とする点では、考古学も地球科学(わたしの専攻)もロマンチックな学問と言えるかも知れません。
 明日香(飛鳥)桜井周辺には、言葉では説明できない、この国に暮らす者を「引きつける力」のあることが思い出されます……

 右写真は狐塚古墳で、多摩川方面が見晴らせる公園となっています。
 こんな場所に墓を作れば、故人もさぞよろこぶだろうと思いますが、ここは多摩川の崖線(がけ)の際に立地します。
 宅地開発や道路整備により、傾斜に対する印象もゆるやかになりましたが、昔は絶壁のような場所だったことでしょう(写真の見晴らしは川崎市の武蔵中原駅方面)。


八幡塚古墳(はちまんづかこふん)、宇佐神社、傳乗寺(Map)

 八幡塚古墳(築造時期は5世紀中頃と推定)は現在、宇佐神社が管理しているようで立ち入れませんが、古墳の南斜面には映画の舞台となりそうなこぢんまりとした境内があります。
 ここは源頼義(みなもとよりよし:八幡太郎義家の父、源頼朝・義経はやしゃご)が1051年安部一族(東北地方の豪族)討伐の際に、この尾山(尾山台由来の地)に陣を張り勝利を誓い、戦勝後ここに八幡社を建て神に勝利を報告したそうです。


 一段下がった坂の下に傳乗寺(伝乗寺:浄土宗)が並びます(上写真は敷地内構造物のはり飾り)。
 始めに尾山の古墳が造られ、神社、お寺と並ぶ様子が、この地の歴史を示しているようです。
 象徴的な山という自然造形を信仰の対象とする日本人の心は、自然崇拝として古代人から受け継がれてきたように思えます。
 それが継続的だったか分かりませんが、後世の人々がそれを古墳と知った上で神仏を祭ったことは、庶民の関心を集めるには最適の場所と考えたからでしょう。
 古代神道とは、そんな祖先の歴史・文化を巧みに利用したものかも知れません。

 地名の補足として、江戸時代中期に「小山村」とされるも、明治時代に小山(現在の武蔵小山)と紛らわしいため「尾山」と漢字を変えたそうです。
 東急大井町線「尾山台」駅名の由来は、付近の小字名「尾山」と「台」地区に接していたため、合わせて「尾山台駅」としたそうです。
 「山」と「台地」がなぜ重複しているのか? との質問に対する回答にありました。


寮の坂(Map)

 かつて上述の傳乗寺は坂の上にあり、僧侶の学寮が併設されたことから「寮の坂」とされます。
 下写真の道標に刻まれる左側の「籠谷戸:ろうやと」とは、多摩川の流れがこのがけを洗っていた室町時代、奥沢城(現九品仏浄真寺)への武器・兵糧の陸揚げに利用された場所だそうです。
 江戸時代には傳乗寺が、川崎側の泉沢寺と九品仏浄真寺の中間拠点とされ、寮の坂(写真右側)は軍用道路の性格が強かったそうです。


 古代からのヒルズには、等々力渓谷のように丘陵地を狭い幅ながら深く浸食してできた、急傾斜の谷が数多く刻まれています。
 今回ルート設定時の、古墳の丘陵伝いに歩けば起伏はないだろうの予測は大ハズレでした(並行する環状八号線をイメージしたのが間違い)。
 削り残された岬のような場所が、ヒルトップとして古墳建造の最適地であることを、目で見て初めて納得できましたし、それが一列に並ぶ理由も歩いたことで理解できた気がします。

 暑さの中そんな谷間のアップダウンを何本も突っ切って息も上がり、これは熱中症ヤバイかも? とヘロヘロなのに、住宅地なので自販機すら無い……


ぽかぽか広場(Map)

 ここは「ぽかぽか広場」とされる公園で、玉川浄水場の西側跡地に都営住宅と共に作られました(1997年開設)。
 玉川浄水場は1970年、取水源である多摩川の水質悪化により生活用水の供給を停止したため、その一部に上述の施設が作られます(現在は、工業用水道として三園浄水場(板橋区)に送水)。

 これも「周辺環境に配慮した公園作り」なのでしょうが、知らないわたしは「ここは古墳」(下写真)と思い登っていました。
 傾斜地なので「山」に見えましたが、隣接する浄水場からは小高い丘程度のものです。
 芝生に覆われた開けた場所ですが、この日差しの下ではさすがに人出もありません。


 すぐ隣には「お嬢様学校」とされる、田園調布雙葉(ふたば)学園(1941年開校)がありますが、こんな窮屈な場所柄なのかと驚きます。
 「幼きイエス会」を設立母体とするクリスチャン学校のため、第二次世界大戦へと向かうこの国では、望むような土地の確保は難しかったのかも知れません。

 卒業生には、皇太子妃雅子とその母、長嶋三奈とその母等々の名前が並びます。
 その中に、テレビ朝日アナウンサー前田有紀の名前がありました。
 以前、テレ朝に隣接する六本木ヒルズのエスカレーターで見かけたことがあります。背が低く(失礼)とても可愛らしい姿は、テレビのイメージ通りの印象がありました。
 脱線ついでに、こちらもエスカレーターですれ違った先輩の上山千穂(以前ニュースステーション担当)は、一目見てこんな事いうのは大変失礼ですが「コイツやっぱり変!」という落ち着きの無さがイメージ通りでした……


宝来公園(Map)

 田園調布住宅街の一画に「宝来公園」という緑のオアシスがあります。
 南西向きの斜面なので、分譲すれば人気の高い場所柄と思いますが、1925年(大正14年)付近の開発に際し、武蔵野の原風景を後世に伝えようと汐見台(東京湾が望めたのでしょう)の一画が公園として残されます。


 近ごろ、東京近郊の公園として管理される雑木林を歩く際、「この大木はどこまで育てるつもりなのだろう?」と感じることがあります。
 平和の象徴という側面もあるのでしょうが、公園の大木は大切に守られるので、若木が育とうにも地表に光が差さない公園が多いように思います。
 雑木林とは人里近くにある林のことで、人が生活のために利用(伐採など)することで、若木が成長し林の世代更新がうながされてきました。
 自然のままに残すべき森とは区別される身近な林のイメージとしては、所々地面に日が差し込み若木が見られる、コントラストのある林の方が親近感を覚えるのでは、と思ったりします。
 
 世田谷区は「おもいはせの路」(国分寺崖線散歩道)という、九品仏浄真寺〜二子玉川駅に6.7kmの散策コースを設定しており、所々に案内板が設置されているのがとても助かりました(住宅地は目印になるものが少ない)。


カトリック田園調布教会(Map)

 ここは1931年カナダ・フランシスコ会の宣教師により創立されます。戦時下では困難に遭うも、終戦後は比較的早期に再開されたようです。
 本部は上述の宝来公園近くにありますが、この建物は隣の多摩川駅に近い丘の上にそびえます。
 教会の尖塔(せんとう)はシンボルですから、周囲から目につくように設計されますが、付近には起伏が多く緑も豊かで高い木もあり、歩いてみると思ったほど目立たない存在になっています(電車の車窓からはよく見える)。

 田園調布の町づくりは、ヨーロッパ(特にイギリス)の田園都市をめざした町作りがひな形とされます。
 西洋の町には教会等を中心として広がる様子が思い浮かびますが、日本での実現は無理としても、田園調布の町内(3丁目)に建てられれば御の字という気もします。
 何せこの町は「駅」という実用的な施設を中心に設計された、日本の町なのですから。
 でも車時代到来と共に高級住宅地化して以来、どれほどの住人が鉄道を利用しているのか東急電鉄に聞いてみたい気もします。
 豪邸の住民たちは鉄道を利用しているとは思えないので……

2011/07/04

ギリギリの夏を耐えるための希望──自由が丘

2011.6.25
【東京都】

 7月1日に、東京電力、東北電力管内の大口需要家に電力使用制限令が発動されました。これは1974年の石油危機以来約37年ぶりとなります。
 地下鉄駅のエアコンが止められる様子をニュースで見ましたが、車内・駅共に冷房が無かったころ、恥ずかしいくらい汗が止まらなかったことを思い出します。

 前回は火力発電の燃料節約が目的で、使用電力の総量を減らすため繁華街のネオンや広告灯の点灯を禁止し、テレビの深夜放送が無くなりました。
 その経験から「脱火力発電」→「原子力発電推進」に向かったのでしょう。
 今回その間違いに気付いた国民は、今度こそかじ取りを間違うまいと「脱原発」に向かうための第一歩として、この「節電の夏」を受け入れているのではないでしょうか。

 電力の大口需要家である工場等の土日操業が始まる様子を目にした際、社員の家族や下請け業者の家庭のすそ野まで協力するからこそ成り立つことに、目を向けるべきと感じました。
 島国民族特有のこの一体感こそ日本人の長所と感じられ、そのポテンシャルの高さにこの民族の凄みを初めて目にした気がします(戦争をしようと考えた時代には、想像もできない高揚感に包まれたことでしょう)。
 再生の準備に向けてエネルギーを蓄え始めたこの国は、「ギリギリの夏」を乗り切った後に大きく飛躍するはず。そんな期待を感じ始めました……

 日本発は技術だけでなく、ライフスタイルでも世界をリードする日が来るのではないだろうか?
 というか、そんな希望がなければ「やってられない夏」に突入です……



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九品仏(くほんぶつ)(浄真寺)(Map)

 法事が終わったようで、参列者たちが三々五々帰途に就きます。
 お寺でそんな方々の姿を見かけると、その情景と共に「家族」を描いた作品が深く印象に残る、小津安二郎監督の映画を想起し、走馬燈のようにさまざまなイメージがよみがえってきます。
 それは映画からの印象だけでなく、これまでの経験からもよみがえるため、気持ちが引き締まるのかも知れません。


 この地には、室町時代に世田谷吉良(きら)氏家来が居城とした奥沢城があり、その跡地に寺が建てられます。
 それゆえ周囲との差別化はキリッとしていて、墓地の配置には曲輪(or 郭:くるわ 城郭内を分かつ区域で、帯状に伸びる形状)を割り当てた様子が見て取れるところに、由来が感じられたりします。

 本堂での読経を扉を開けオープンにする姿勢には(ただ暑いから?)、お寺の存在意義を広めようとする意志があり、こういうお寺でこそ祈りたいと思わせる魅力が感じられます。
 七堂伽藍(金堂、講堂、塔、鐘楼、経蔵、僧房、食堂)が残るそうですが、塔はどこにあったのだろう……

 京都の浄瑠璃寺同様、9体の阿弥陀如来像を祭る「九品往生」(くほんおうじょう)の思想に由来することから「九品仏」と呼ばれるようになります(1678年開山:江戸時代)。
 その教えでは、人物・物の性質をまず上品・中品・下品に分け、それをまた一品ずつそれぞれ上・中・下の三品に分け「九品」とするそうで、「上品(じょうひん)」「下品(げひん)」の語源はこれによるのだそうです。
 3年に一度開かれる「お面かぶり(二十五菩薩来迎会)」の行事では、本堂と上品堂の間を菩薩の面をかぶった僧侶が渡るそうです。菩薩来迎の様子を表現するそうですが、向かう先が「上品」なのは当然ですよね……

 浄土宗のお寺に、狭いながらも石庭がある。と、とらえるのではなく、以前このお寺では人々に心の静けさを伝えるための小さな石庭を造り、それを例えにして諭す話をしたと、とらえるべきという気がしました。
 いずれにせよ現代のわたしも「いい絵」と感じたのですから、作者の気持ちが伝わっていることは確かです。

 九品仏川の源流と思われる場所が寺の裏手にあり、公園になっています。
 すぐ脇から暗きょ化され、その上は狭い路地のような歩道とされています。水源にできない流れは役に立たないとの判断なのでしょうね(有効活用、安全確保もありますが)。


自由が丘(Map)

 当初の狙いとしては、繁華街をかっ歩する女性の足を撮りたかったのですが、現場で足だけ狙うように見えたのでは単なるフェチかスケベおやじになってしまうと、このくらいなら雰囲気が伝わるか? と方針修正しました。


 ここは「グリーンストリート」と称される遊歩道で、桜並木の下にベンチがズラーッと並ぶ憩いのスポットになります。
 この地下には、呑川(のみがわ)支流の九品仏川が暗きょ化され流れています(看板には「旧九品仏川」と記されます)。
 付近はゆるやかな傾斜地で坂が多く「ミニ渋谷」のようで、谷底の駅周辺から町が発展した点では似ているように見えます。

 東横線の開通時(1927年:昭和2年)は「九品仏前駅」として開設されますが、現大井町線が開通し(1929年:昭和4年)九品仏の門前に「九品仏駅」が設置されたため、本駅は地名から「衾(ふすま)駅」とされるところを、新しい名称を取り入れ「自由ヶ丘駅」(1966年「自由が丘駅」に改称)とされます。
 その名称は、東横線開通の年に開校した私学の「自由ヶ丘学園」に由来しますが、地域の通称としても浸透したため、目黒区誕生時(1932年:昭和7年)に、この地域は東京市目黒区自由ヶ丘とされます。

 これまで歩いた東横線の「碑文谷駅→学芸大学駅」「柿の木坂駅→都立大学駅」同様の安直な命名ととらえるのではなく、開通当時農村だった一帯で、いかに「将来性ある明るい町づくりを目指す」アピールするか腐心したおかげで、現在の人気が生まれたと考えるべきという気がします。

 右写真はテレビ等でよく見かける、ラ・ヴィータというショッピングモールですが、もう旬は過ぎたのか人出の少なさに驚きました。今どきはスイーツ・フォレスト?(スイーツのフードテーマパーク)
 池にはカルガモ親子が泳いでおり、チビのかわいさには思わず足を止めますが、人寄せガモのように見えてしまいます。
 上記いずれの施設にも関心はないものの、中規模程度の再開発はポチポチ見受けられ、その規模の再開発で人を呼び込めるところが、この地のブランド力なのでしょう。
 そんなサイズがこの町の身の丈に合っているように思えますし、流行の移り変わりの速さを物語っているのかも知れません。


奥沢神社(Map)

 この神社は自由が丘駅と目黒線奥沢駅の間にあり、九品仏の地にあった奥沢城の守護神として建立されます。


 「茅の輪」を目にし立ち寄りましたが、本来は写真上にある鳥居のしめ縄が「大蛇(竜?)」をかたどることで有名だそうです(気付きませんでした)。
 江戸時代この付近で疫病がはやった際、「藁で作った大蛇をかつぎ村内を回り鎮めよ」のお告げに従い、疫病が治まったことに始まる祭事が現在も伝承され、前年秋の祭りで使われた藁の大蛇が鳥居に結ばれています。

 茅の輪は、大祓(おおはらえ)という除災行事(6月と12月の末日に行われる)で、茅の輪を潜りけがれを払う儀式に使用されます。
 京都では何度か目にしても東京では珍しいと思っていたものの、近所の多摩川浅間神社にも伝承されていますから、ただ梅雨の時季に神社へ足を運ばなかっただけかも知れない、と思ったりします……