2016/05/16

「風街」に吹く風とは?──西麻布

2016.4.30【東京都】──「渋谷川水系を歩く_10」 笄川(こうがいがわ)



西麻布

 青山霊園南端の低地には、外苑西通り沿いの流れや根津美術館庭園の流れ等が合流する場所柄から、水田が広がっていたとのこと。
 霊園とされる(1872年:明治5年)以前は青山家の下屋敷でしたから、庭園だったのではないか。
 右は、以前の川筋や町並みの面影が残る一画にあるレストランですが、そのようななごりがマンション等の建物にバッサリ断ち切られる光景は、仕方ないと思うも寂しさを覚えます。

 少し下流側にある、生活道(上)と流路(下)の段差が見られる場所から、本郷の谷筋を想起しました。
 以前は土手だった斜面も宅地化され(左側、右側は空き地)、旧土手に並ぶ住宅列を挟んだ二筋の道路が、寄り添って続きます。
 土手の所有権は以前から明確だったのか? 空襲を受けた焼け野原では、空き地と見れば勝手に家を建てたとしても、それを商売としたやからもいたのではないか。
 たくましさは理解できますが、旧川筋は「地質的な弱線」なので、補強や万が一の備えを忘れずに(熊本地震では、地盤の液状化現象は川筋に発生しました)。

 六本木通りと外苑西通りの西麻布交差点には、アイスクリームのホブソンズ日本1号店(西麻布店)があります。
 若い時分目にした際に、デートで使えるとインプットしましたが、結局役立つ機会はありませんでした。

 右は、はす向かいにある蔵をイメージした飲み屋で、外国人には受けるようでも、雰囲気だけとの印象です。
 と感じるのはわたしがズレているためで、この界隈で口コミを目指すには、内容ではなく話題性の方が重要なようです。


 付近を調べるうちに、忘却の彼方に消えていた「風街」というイメージに再会します。
 作詞家の松本 隆が「はっぴいえんど」時代(2ndアルバム『風街ろまん:1971年』)から表現し続けるもので、彼が生まれ育った西麻布界隈を思い描いたものらしい。
 周辺には、いまもバブル期の遺構のような装飾過多な建物が目に付きますし、そこで働く連中には『風をあつめて(リンク先はYouTube)』? 「金を」じゃないの? と返ってきそうな空気が漂います。
 谷筋で風があつまる場所柄は変わらないとしても、現在この町には、どんな風が吹いているのだろうか。

 右のような装飾をよろこびそうな顔には、お騒がせな連中(清H、海老Z)しか思い浮かびませんし、商売する側も一般常識とはかけ離れていそう。

 学校や公園に残る、笄橋(こうがいばし)の由来は色街と思い込んでいたが、東京オリンピック(1964年)に際して外苑西通りが建設されるまで片田舎だったと知り、調べ直しました。
 江戸時代の武士は、髪の乱れを整えるために太刀に笄を差し、江戸市中に入る際はこの橋付近で髪を整え身支度したことから、橋の名が広まったようです。
 人影が少なかった地ゆえ説得力があるようにも。


追記──第68回 東京みなと祭 晴海ふ頭 5月14日

 前回目にした消防艇の放水練習はこの祭のためですが、「水の消防ページェント」(リンク先は動画)とされる催しは翌15日のため、目にできませんでした。

 レインボーブリッジを背にした舞台では、子どもたちが踊りまくっています。われわれの若い時分は、極少数派のバレエか、ピンクレディーの振り付けをまねる程度でしたが、ガキ時分からレッスンする時代ですから、世界で活躍するダンサーが続々誕生すること楽しみに!


 上は、サンダーバード装備のような移動式のタラップ。こんな年になってもサンダーバードを想起するのですから、幼少期に受けたインパクトはいくつになっても消えないようです。

 右は、数m下のクッションに飛び降りる遊具施設の台上で、なかなか飛べない娘の様子。「飛びにきたんでしょ?」と、背後に立ちプレッシャーをかけるお姉さんに「押しちゃダメだよ!」とハラハラしたが、マニュアル通りの説得もむなしく、結局NGのサイン。
 そもそもこんな遊具施設は無くていいようにも……


追記──賭けの対象にもならない、都知事辞任の動向

 国際政治学者が金にルーズなのは勝手だが、都知事としての政治資金を我が家の財産のように流用する人物に、都政を任せられないと都民が考えるのは当然です。
 前知事に続く金銭のだらしなさには呆れますが、そもそも東京都自体が腐っていると受け止められては、リオに続いて東京五輪も不安視されてしまいます。
 海外からの視線は冷徹で、日本という国は信用ならないが、メガシティ東京は沈まないだろう、と猶予されていることを肝に銘じるべきではないか。

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