2016/05/23

格差を実感する──広尾

2016.5.1【東京都】──「渋谷川水系を歩く_11」 笄川(こうがいがわ)

 江戸時代、西外れの丘陵地に並んだ武家屋敷は、明治期に皇族・華族の屋敷とされます。また、元麻布にアメリカ公使館が置かれてからは、警備上の理由(近くに集めたい)により周辺を大使館候補地としたそうです。




 丘の上に鎮座する超高額の「ヴィンテージ・マンション:1984〜86年建設」の中はのぞけそうもないが、こちらも「べつにいいか」ってところです(右は駅への道)。
 以前は隣接の日本赤十字社医療センター所有地で、相場の半額で売却されるなど、不可解な点があったそう(元は久邇宮(くにのみや)家所有地:昭和天皇の皇后生家)。
 赤十字社は戦争傷病者救護を目的に発足しますが、日本では天皇の軍隊(皇軍)救護目的に発足し、皇室が援助したため、名誉総裁は代々皇后、副総裁も皇族とされます。
 そのような組織では、民間企業と不動産取引を行なう際に、監査役を置かないことが慣例なのか?


 日赤医療センターに向かう「ちぃばす:港区の地域コミュニティバス」が通る、狭いバス通りが付近のメインストリートらしく、個人的には好感を抱くも、自治体の地域再開発ビジョン(古い家屋や区画整理)は、ヴィンテージ・マンションのようなイメージ(1枚目写真)を目指したいのでは?
 夢で若者を踊らせるにも、肝心の頭数が増える見込みはありません。そんな時代なのにアベノミクスがアピールするのは、大きな金が動くビジネスの環境整備だけで、はなから庶民そっちのけの政策が、格差拡大を後押ししていると感じる場所柄です。
 上は、外苑西通り沿いのレストラン。




 園内には、旧笄川(こうがいがわ)水源のひとつとされた森が残されています。
 森や水辺をかける子どもには絶好ですが、限られた運動場でボール遊びをする子どもたちは、密集のためもうもうと上がる砂埃の中でボールを追いかけています。ガキ時分って、砂をジャリジャリ味わいながら走り回りましたっけ……
 隣接地にあるテニスコートや野球場も付近では貴重な施設と思われ、起伏ある地域での遊び場確保の難しさがうかがえます。
 また、限られた緑地にママ友や外国人の輪が点在する光景は、イヤミなくなじむ地域色の印象はあるが、いずれにせよ窮屈さがつきまといます。


広尾駅周辺

 以前歩いた駅西側の商店街同様、東側にも古い町並みが残ります。戦渦を逃れた地区もあるらしいが、おそらく焼け野原の川沿いに建ち並んだのではないか。
 高台の武家屋敷跡に建てられた外国大使館の中に、ドイツ大使館があり、戦争中は同盟国でしたが、降伏後には大使館・領事館の職務執行停止を通告したそう。敵の配下となれば当然の対応だが、数ヶ月後に日本も降伏します。
 1990年ドイツ再統一後は、大使館も再統一されました。

 聖心女子大学は戦後久邇宮邸跡に建てられ、皇后 美智子さん、元国連難民高等弁務官 緒方貞子さん(第一期生)の母校で、何ものぞけない「鉄壁の花園」の印象です。
 右は大木を取り込んだ外観のフラワーショップ、下は駅近くの民家。


 江戸時代の天現寺橋付近は「広尾の原」と呼ばれ、将軍の鷹狩に利用される低地でしたが、東京市〜都が河川整備により、自治体が利用可能な土地を造成します。
 右のカメラ背後に、都営広尾アパート(以前は都電の車庫)が、渋谷川を挟んだ地に都立広尾病院があります。
 丘の上にある日赤医療センターとの違いに驚くも、前身の東京市避(ひ)病院(1889年:明治22年)は、伝染病専門病院(隔離病舎)のためこの地が選定されました。
 放送中の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』で、片岡鶴太郎が強調する東京弁(「ひ」→「し」の発音)のため、当時は避(ひ)病院が、死(し)病院と誤解されたそう……
 右は、目をこすりたくなるような曇りガラスが貼られる「広尾コンプレックス」。


追記──沖縄在日米軍の犯罪を防ぐには、退場のシナリオしかない。

 繰り返される米軍関係者による事件に接し、沖縄の人々がアメリカや日本からも「なめられている」と感じるのは当然です。自浄作用が機能しない連中に何を求めても無理なので、退場のシナリオを考えるべきではないか。
 自国で対処する場合の予算と、防衛計画の見直し(持ちこたえる日数の設定)等を、全国民で議論する必要性を感じます。

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