2019/04/29

時代──日本橋

2019.4.13【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_22

 平成の幕開けは昭和天皇崩御に伴うもので厳粛さがありましたが、令和の始まりは平成天皇の配慮のおかげもあり、歓迎の気持ちを持って迎えられそうです。


 メディアは(金をかけず持ちネタで構成できるため)こぞって平成史を振り返らせようとしますが、それを見ずとも兜町を歩けば、バブル崩壊時の証券取引所の光景や、山一証券の破綻会見がよみがえりますし、銀行への公的資金(税金)投入や借金棒引きなど、金融大手には社会のルールが適用されず驚いたことが思い浮かびます。
 現在の景気対策とされる政策も、景気の良さそうな話は耳にするばかりで実感はないのに、雲行きが怪しくなった途端に庶民が煽りを食わされた経験から、政治パフォーマンスの宣伝としか受け止められません。
 統計不正が問題視されるように、判断基準に透明性・分かりやすさがなければ納得は得られないのではないか。


 日本橋高島屋の玄関には平成天皇・皇后の成婚パレードで使用と同型の儀装馬車が展示されており、この日お二人で見学された様子をニュースで目にしました。
 同時代で知る天皇は二人ですが、ひとり矢面に立たされた(背負ったのかも知れないが)昭和天皇以上に、人々と同じ目線で対話するよう努めた平成天皇からは、象徴天皇を模索する強い意思が感じられました。もちろん天皇の努力に違いないが、皇后のサポートや助言が大きな役割を果たしたことと(嫁ぐ際の心意気を貫いた姿勢は立派)。
 大きな災害は多かったが、戦争のない時代として終えられたことを昭和天皇に報告することが、平成天皇の使命だったのかも知れないと……

 令和天皇にはその志を引き継いでもらいたいし、皇后の存在は今後ますます重要になるので、周囲(国民を含め)が不安を感じるのであれば、無理をしないようサポートする関係があってもいいのではないかと。

 その一方で、天皇の配慮による準備期間をいいことに、はしゃぐ政府の様にはうんざりさせられました。
 上奏(天皇に事情などを申し上げる)に何度も皇居へ足を運んだ首相は行きたがったように見えたし、「令和おじさん」への期待感から事前の会見でニヤニヤする官房長官の表情は、見ている方が恥ずかしくなりました。おそらく記憶に残るのは、手話通訳の方になるのではないか……


 日本橋一丁目の神輿に「日本一」と記し自慢したことを、京橋地区はうらやましがったようです。
 江戸時代に鳶で編成された町火消し(自治消防団)の中でも、八重洲・日本橋・京橋を管轄した二番組の ろ組、せ組は競い合う存在で、子どもたちは他地区の子ども神輿に参加できても、勢いづいて日本橋地区に入った京橋の町神輿は、日本橋の鳶頭(かしら)に潰されたんだとか。
 近頃地域活性のため、連合渡御(地域を越えた合同の神輿巡行)が実現すると、京橋の人々は日本橋の橋上で御輿を差せた(上に差し上げる)ことを喜んだとのこと。
 いまどきは人材不足で神輿の担ぎ手も周辺からの助っ人が必要なため、不審者の侵入を防ぐために半纏を揃えるそうで、半纏のプライドも変わりつつあるように……


 上は、日本橋たいめいけんに近い洋食店ビストロ デ ノンキ(以前はうなぎ割烹店)で、以前も玄関前の鉢を撮ったことがあり波長が合うようなので、今度ぜひ。看板メニューは「生うにのスパゲッティ」とのこと。

写真 上から
 街路樹の新芽が芽吹き始めた野村證券脇の歩道
 高島屋 玄関に展示の儀装馬車
 高島屋 屋上
 日本橋一丁目神輿が展示されるコレド日本橋
 日本橋一丁目神輿
 ビストロ デ ノンキ
 日本橋

2019/04/22

身の危険を感じる──茅場町

2019.3.24【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_21

 茅場町駅で乗り換えるようになり、町ではなく駅のホームのイメージが浮かぶようになったのは、朝に夕に緊張を強いられるためかと……




 門前仲町から永代橋で隅田川を渡ると、川岸に続く隅田川テラスを歩きたくなります。
 前方にそびえる異様な佃島の高層マンション群は、上海に立ち並ぶディスプレイ的なビル群のようで、人が暮らす様子は思い浮かばないが、「高層マンションは子育てに向かない」ことは想像できます。
 上は中央大橋の裏側で、橋のカーブに沿って吊り下げられた作業用の足場(?)もデザインのように見えます。構造も贅沢な造りで、建設当初(1993年)は化粧板で隠されたらしいが、バブル後は「どうせ見てないでしょ」と、化粧もしなくなったのか?




 上は日本水準原点を定める際に使用された霊岸島水位観測所ですが、その役割は三浦半島 油壺に移管され、現在はモニュメント的存在に(観測は継続中)。
 付近に江戸幕府が築いた江戸湊があり、開削された新川(現在埋め立てられた)沿いに酒問屋、亀島川沿いに米穀問屋が並んだように、地の利を求める業種が集まる地域でした。渋沢栄一が尽力した東京湾汽船(現 東海汽船)もこの地に始まります。

 現在は埋め立てが進み隅田川の一部とされますが、河口だった雰囲気が残るようで落ち着ける場所です。

 上の中央区立明正(めいしょう)小学校(明治期創立の学校が合併)は、明石小学校同様、関東大震災後に整備された復興小学校で、旧建物のモダンなデザインを踏襲し改築されたもの(上のリンク先)。卒業後は築地の先の銀座中学校まで通うそう。
 右はかなり味のある(?)、亀島川の八丁堀側にある設備会社の事務所。区画整理は行われないため、周囲には狭い区画に建て替えられた新しい家屋が並びます。

 新川地区は旧京橋区に含まれますが、箱崎や深川とのつながりが強く富岡八幡宮の氏子地域に属するため、深川八幡祭に参加しています。台場、有明、豊洲地区も富岡八幡宮の氏子地域だそう。


日本橋茅場町

 江戸城の築城当時は茅が生い茂る湿地で、家康が茅商人を移住させたことが地名由来とされます。当時の家は屋根に茅が使われたため、またたく間に発展したそう。
 付近は町名の通り旧日本橋区に含まれる永田町 日枝神社の氏子地域で(日本橋周辺は氏子地域)、祭礼時の御旅所(神輿の休息所)とされた神社が、後に日枝神社 日本橋摂社(境外の小規模な神社)とされます(下)。

 右の亀島川沿いにある歴史を感じる建物(1927年:昭和2年)は、水運が盛んだった様子を見ていたかも知れません。外車は絵になると分かっているのに、何で日本車のデザインはスマートにならないのか……


 茅場町駅は地下鉄 東西線と日比谷線の接続駅で、乗り換えの階段は西船橋(北千住)側しかないため、朝夕のラッシュ時には大渋滞します。混雑は仕方ないも、狭いホームですれ違う際には、転んだ巻き添えで線路に転落する身の危険を感じます。注意を促すための人間ホームドア(ホームの端で両手を広げて並ぶ)を考えた人は、自分でその場に立ったことがあるのだろうか?
 日本一の混雑路線解消への改良工事とされる、ホーム延伸と階段・エスカレーター新設は2022年度供用開始予定とありますが、ホームドア設置が25年予定というのは順番が違うような気がします……
(左は東葉高速鉄道の車両)


2019/04/15

春は隅田川

2019.4.6【東京都】

 もちろん花見がメインですが、花見客の浮かれる様子も楽しいので、昨年の上野に続き今年は浅草の雑踏に挑みます。


隅田川 墨田区側

 新入社員研修の集団か、墨田区役所前でスーツ姿の若い女性たちが「こんな時に来られて!」と舞い上がっています。浮かれる気持ちはみな同じですから、はしゃぐ様子を目を細めて眺めています。
 下の水上バスは外国人観光客も多いため、混雑で乗降に時間がかかるらしく、接岸待ちの船が並んで待っている状況です。この日のフワフワと浮ついた空気感が外国人観光客にも伝わる様子は、ゆるんだ表情から見て取れます。写真では伝わらない「春の迫力」を体感してもらえただろうか?

 右は墨田区役所近くの枕橋の街灯と京成線の橋脚で、以前付近に隅田公園駅があったそう。


 枕橋が架かる北十間川の北側は向島で、見番通りにある向嶋墨堤組合(旧見番で、料理屋・芸者屋・待合の三業組合事務所)が、墨堤桜まつりに出店する芸妓(げいぎ)茶屋(リンク先YouTube)では、所属の芸妓さんが給仕をしてくれます。
 こんな笑顔で見つめられ、座敷の合間に同伴で夜桜散策してくれたら、ジジイも老骨に鞭打って頑張っちゃいます。夕刻の墨堤(隅田川の土手)に芸妓さんを見かけたら、狐にだまされてもいいと桜橋を渡ってしまいそう……
 現在も登録の芸妓衆は120人以上いるらしいが、芸者・半玉(はんぎょく:見習い)・かもめ(アルバイト)を募集していますから、繁盛しているようです。


隅田川 台東区側

 浅草は東京随一の観光地ですから台東区側の人出は多く、外国人や若者の集団など客層も広いため、墨田区側が芸妓さんのおもてなしや、東京スカイツリーでいくらアピールしても勝てそうにありません(スカイツリー人気も陰り始めたとか)。
 浅草寺周辺には年中お祭りのような華やかさがあり、そのざわざわ感は人を引き付けますし、花見の喧騒も取り込んでしまうバイタリティーは敵なしのように(外国人観光客は川より寺のようです)。
 にぎわいを墨田区側から川越しに眺めるのは一興でも、背景にスカイツリーが見える浅草側が人気なのも当然で、墨田区はどうあがいても引き立て役らしい。

 近頃では、浴衣を着る外国人観光客が多いようで、和装で人力車に乗る様子を目にすると、わたしも一度は経験しておきたいと。いまどきの浅草では車夫も当然英語を話しますし、おしゃべりな英会話は喜ばれると思うも、右のおばちゃんはうんざりしているように(通じてない?)。
 浅草寺境内では、アジア系の方が好む鮮やかな色や、大きな柄の浴衣が目につきますが、われわれには子供が着る柄のように見えてしまいます。ですがその手の柄は人気があるらしく、レンタル店でも品揃えが豊富なようです。

 「花:瀧廉太郎」に歌われた「春のうららの 隅田川」の景色は変わっても、われわれには春のにぎわいを川に求める習性があるようで、隅田川に引き寄せられます……


4.7 西葛西


 見る者にとっての球春は選抜高校野球ですが、多くの高校球児にとっては春季大会になります。近所の江戸川区球場(愛称はエドキュー)で春季東京都高等学校野球大会が行われており、日曜ということもあり応援でスタンドは満席(関東一高 6-0 日大鶴ヶ丘)。選抜大会が終わるのを待っていた球児や関係者にとっての球春は、いまです。

 右は新左近川親水公園の斜面を滑り降りる子供たち。傾斜は急なのに、飽きることなく駆け上っていきます。

 花が散った途端に真冬の寒さが戻り震えましたが、間隙をぬって咲ききった花の生き様は見事と……


追記──ブラックホール撮影に成功

 光を発しない(抜け出せない)存在なのでそれ自体の撮影はできないが、周囲のガスを可視化してブラックホールシャドウを浮かび上がらせました。世界各地の望遠鏡で同時観測するプロジェクトはずいぶん前に耳にしましたが(2006年初観測らしい)、世界中の研究者が協力して成し遂げたことは素晴らしい第一歩と。
 「事象の地平面:観測者に光が届かない領域」の先にあるブラックホール内部の観測は無理でも、強力な重力源から噴出されるジェットの観測から手がかりが得られるかも知れません。人間の探究心はいつも不可能の先に向けられてきたので、期待してしまいます。

2019/04/08

深川の華

2019.3.31【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_20

 春の訪れ、季節の変わり目を実感しようと、数週間前に訪問した地を再度歩きましたが、花の盛りはまだ早かったように。




 東京では桜の満開情報から数日経過し、多くの人が3月最後の週末に花見を計画したようですが、木場公園では「ちと早い」と感じたのではないか。「は〜やく来い!」の春待ち気分は分かるが、開花発表の現場に群れる人が年々増える様子も、少々入れ込みすぎのように。
 近年、開花後の花冷えで長持ちする年が増えましたが、今年は天気・気温とも条件の悪い日が長く続き、うずうずしていた連中(わたしを含め)が飛び出したくなるタイミングだったように(啓蟄のような日)。花は少なくても、自分たちがサクラ色に染まれば満足ですもんね。
 右は近所の冬木町会らしく、町内会の付き合いは多少面倒でも、仲の良さ(?)、暮らしやすさが下町の良さとアピールしているようにも。


 上は、公園に隣接する深川消防署の訓練の様子(この日は日曜日)。
 ご近所さんが公園で飲み食いして騒いでいる時も、普段と変わらず設備の点検・訓練を欠かさない隊員の方々には本当に頭が下がります(ゴンドラから公園の様子を見ているのでは)。われわれはみなさんを頼りにして、日々の生活を送らせてもらっています。
 非番日の静かな公園で、花を眺めてまったりしてくださいませ……




 「どうしたんだい、女ひとりでもの悲しげに花を見つめて」なんて聞こえそうと感じたのは、花の季節+神社の催し(富岡八幡宮骨董市:下)から、寅さん映画の場面を想起したためで、彼女は男と一緒だったというオチも。
 水路が交差する上の東富橋(とうとみばし)付近の花を期待していましたが、咲き揃うのはもう少し先らしい。


 富岡八幡宮参道に並ぶ着物姿の集団は、映画の制作発表のような華やかさがありますが、囃し立てる取り巻きオヤジの声から想像される年代のようです(表現が難しい…)。詳しい理由はわかりませんが(稽古事の仲間?)、ハレ姿はこの場所でと八幡宮にたたずむ姿に「深川の華」という表現が浮かびました。
 育ててもらった町で胸を張る姿はまぶしく、華やかさでの恩返しを受け止める寛容さも下町の魅力のように。


 夏の京都で見られる川床の東京版 かわてらす(上の奥)が、この春 割烹 金柳(門仲唯一の料亭)の店先オープンしましたが、桜でよくわかりません。目新しいため店先にもかかわらず、わたしを含めズカズカ入り込む人で大混雑のため、お客さんも落ち着けないことと(広くないので仕方ない)。
 現在は一部だけですが、今後は石島橋~巴橋間全域のかわてらす化を目指すそうで、現在石島橋を通行止にして利用する飲食スペースは狭いので、実現すれば店舗・花見客双方に喜ばれることと。
 この季節には、日本橋付近で見かける背の低いクルーズ船も入ってくるため、水路も混雑しています。


 以前深川とされた地区(清澄付近の小名木川、越中島)を含め、お江戸深川さくらまつりとして深川観光協会が取り仕切る範囲の帰属意識は、富岡八幡宮の氏地と重なるようです。
 地域に暮らす人々の信条には、仲間意識と協調性、行動の迅速さが感じられ、そこで一緒に仕事をしたら仕切りと手際の良さに、ほれぼれするのではないかと。ひとたび衝突したら大変らしいも、後は引かないと聞いてますが……

2019/04/01

水辺利用の変遷──深川沖(越中島)

2019.3.16【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_19

 江戸時代は海辺の行楽地でしたが、黒船来航から軍事目的で利用されるようになります。現在は人工的な環境ですが、いまの江戸っ子は活用法を探っているように……


大横川

 江戸時代の永代通りは海沿いの道で、門前仲町付近では後に海岸沿いに整備された大横川(運河)と並ぶ様子が見られ、海沿いに軒を連ねた料亭はにぎわったようです。
 当初の江戸前とは、隅田川や深川付近で捕れるウナギを称したそうで、富岡・不動詣で帰りに江戸前のウナギという趣向は、当時のテッパンだったと。
 現在付近の料亭は一軒となりますが、河川敷地を利用した川床(かわゆか)が整備され、飲食スペース「かわてらす」として営業が始まりました(清洲橋付近のテラスも同じ枠組みらしい)。
 右は付近の石島橋で、親柱に松ぼっくりが描かれ(花火の絵かと)脇に松が植えられているのは、旧海岸線をアピールするためか。

 江戸期の深川沖には砂州が広がりましたが(現 越中島)、周辺の水路開削の際に土砂捨て場とされ陸地となります。その後、江戸のごみ捨て場が永代島から越中島周辺に移され埋立てが加速します。

 江戸で牡丹が流行した時分に牡丹栽培が盛んだったことから、川沿いに牡丹町の名が残されます。
 右の蔵(町内神輿蔵かと)に江戸文字で町名が記されるように、深川八幡祭りでは町名がアイデンティティとなります。以前神輿蔵は各町内にあるものでしたが、都心では土地の確保が難しいため、神社境内に長屋のような蔵を見かけることが多くなりました。
 現在、古石場川親水公園に牡丹園が整備されている。

 右は住宅に囲まれた黒船稲荷神社で、浅草で火災に遭いこの地に移転しますが、現在も浅草に同名の神社があるのは、元の地で再建されたように。宝を積んだ黒船に白狐が乗っていたとの言い伝えも、両神社に残ります。
 黒船には、ペリー艦隊に限らず欧米諸国から来航した船の総称的な意味合いもあり、上は黒い宝船が海の彼方から富と幸運を運んできた説話のようです。

 「四谷怪談」の作者 鶴屋南北(4代目。3代目までは役者らしい)は、神社の敷地内にあった家で亡くなったそう。当時は木々に囲まれる様から「すずめの森」と呼ばれ、創作活動にはもってこいの環境だったようです。


調練橋

 黒船来航後、越中島付近は海防訓練を行う越中島調練場(銃隊調練場、水泳道場)とされ、そこに架けられた橋は名称だけを残して撤去され、右のカメラ背後の水路も埋め立てられました。
 佐久間象山の砲術塾(勝海舟・吉田松蔭・橋本左内らが学んだ)が永代に、長州藩大砲鋳造場が洲崎(東陽町)付近にあったのは、付近に桟橋があったためか。

 明治期に越中島練兵場とされた時分の練兵衛橋が、大島川水門付近に残ります。観兵式に訪れた明治天皇の御前で初めて国歌が演奏されたらしいが、現在の君が代とは異なる君が代だった、についてはリンク先参照。
 その後は当然、軍の施設とされることに……



 本校は、大久保利通の命を受けた岩崎弥太郎が、1875年(明治8年)に設立した三菱商船学校が母体で、海運に軸足を置く弥太郎にも意義のある事業だったように。
 右の明治丸(構内で保存展示)は、明治天皇の北海道・東北地方巡幸に使用され、帰港日(7月20日)が海の記念日(現在の海の日)のルーツらしい(当時、天皇の地方訪問は軍の視察が目的でした)。
 1925年(大正14年)から東京高等商船学校(海軍学校)となり、学生は海軍予備生徒とされ、有事の軍務従事が定められます。

 下の相生橋は佃島(月島)との間に架かる橋で、途中の中之島は燈明設置のために埋め立てられた人工島ではないかと(現在も灯台がある)。


 右は大横川の黒船橋乗船場にあるカヌーの艇庫。
 周辺の運河は、スカイツリー付近の北十間川までつながっており、途中の扇橋閘門も通過できるらしい(水上バイクは通行禁止)。船を持たないので利用機会はないが、カヌーくらいなら持てるかも?(運ぶのが大変そう)
 大きな船が行き来する隅田川は危険そうですが、付近の運河ならのんびり楽しめそう。

 桜の季節には、和船に乗った新内流し(2人1組で三味線を弾き合わせながら川面を流す)や嫁入り船が登場するそうで、これはぜひとも見学せねば!


追記──連続テレビ小説「まんぷく」終了

 現在では当たり前でも存在しなかった時分に、「お湯を注げばできるラーメン」(チキンラーメン)や「容器に入ったヌードル≠ラーメン」(カップヌードル)を作ると説明してもイメージできないのは当然で、食文化革命前の人々の感覚を想像することは新鮮でしたし、初体験のインパクトを思い出させてもらいました。
 食品の開発は夫婦の二人三脚が可能でも、旺盛なチャレンジ精神と、道のりを楽しめる夫婦ゆえたどり着けたとする物語には、朝ドラにふさわしい爽快感がありました。
 注目を集めた母親(武士の娘:松坂慶子)は、子供に対する愛情は常に持っていても、自己中心的な願望をストレートに表現するわがままな存在かと見ていましたが、自分の母にもそんな面があると思い当たってからは、誇張はあっても一般的な母親像ってこんな感じかも? と納得させられました。
 夫婦役の安藤 サクラ、長谷川 博己は、回を重ねるごとに楽しそうに演じるようで、そんな空気感もとても楽しめました。「万引き家族」に続き彼女ならではの演技を見せてくれた安藤 サクラの今後を楽しみに。