2020/03/02

要衝に築かれた軍都の記憶──十条台

2020.2.1【東京都】

 前回までの西が丘、赤羽、十条から王子に至る高台は、軍施設(戦後は米軍基地)に占有された地域で、そんな一帯をたどりたいと思っていました。



 上の埼京線沿いに続く飾り気のない壁は、旧陸軍 東京砲兵工廠銃砲製造所を囲う壁で、米軍接収後もそのまま利用した施設も多いため、米軍基地の壁の記憶に重なります。
 日露戦争中(1905年:明治38年)に、小銃弾薬の増産を図るため後楽園周辺から移転した施設で、後述の施設を含めた敷地の西側境界にあたります。
 下は内側の様子で、レンガ塀にモルタルを塗り頑強さを誇示し、冷たい印象(近寄るべからず)を演出したのではないかと。ガキ時分に近所の米軍施設の壁にボールを投げた際の鈍い音から、「頑丈ではなさそう」の印象を思い出しました……


 施設のルーツは幕末期の加賀藩下屋敷にさかのぼるそうで、石神井川の水を利用して大砲を製造した施設が明治期以降も引き継がれ、板橋火薬製造所〜軍工場へと至ります。
 日露戦争当時は、周辺に火工廠稲付射場、東京陸軍兵器補給廠 等があり、軍用鉄道も敷かれますが、戦後すべて米軍に接収され、TOD(Tokyo Ordnance Depot:東京兵器補給廠)とされます(兵器補給廠、戦車練習場、赤羽ハイツ(米軍住宅)、極東陸軍地図局・第29工兵大隊、米軍板橋射場 等々)。
 想像するだけでゾッとしますが、壁を見かけても「ふ〜ん」と反応する世代に対して、戦争を知らないわれわれの世代にも、伝えるべき経験があると実感しました……


 旧軍用地とされたのは、埼京線 北赤羽駅〜京浜東北線 上中里駅付近に及ぶ広大な地域で、現在周辺で広い敷地を持つ、都営桐ヶ丘アパート赤羽自然観察公園NTC(ナショナルトレーニングセンター)東洋大学総合スポーツセンター帝京大学病院東京家政大学 等は、返還後に作られた施設になります。
 上は、北区中央公園(米軍接収時は王子キャンプ(野戦病院))から見える、隣接の陸上自衛隊 十条駐屯地の通信施設。


 年配の方は「軍都」と呼ぶほど関連施設が多い地域は、隅田川の流れと武蔵野台地の崖に守られる場所柄ゆえ、古くから上中里に平塚城、赤羽に稲付城が築かれる要衝とされました。はるか昔に、坂上田村麻呂(平安時代の征夷大将軍)が陣を張った、との言い伝えも残ります。

 上・右は中央公園文化センター(旧東京第一陸軍造兵廠本部)で、1971年返還後はサークル・グループの学習・文化活動の場とされます。威厳を感じる外観ですが、内部は公民館のようなわかりやすさを目指す掲示物のせいか、フレンドリーな印象に。


 王子神社は、石神井川が武蔵野台地を深く侵食し、隅田川に流れ込む高台のキワに位置するため、シンボリックな存在感があります(JR線は崖下の低地を通る)。
 鎌倉時代に熊野新宮 浜王子を勧請し、旧称 王子権現としたことが地名由来とされ、例大祭はお守りの御槍から「槍祭」と呼ばれます(上の神輿は2017年に新調)。十条銀座商店街周辺も王子神社の氏子だそう。


追記──2020年2月29日(土) 歩きやすい東京駅

 学校の休校、イベントの自粛要請を受けた週末、東京駅の利用者は普段と比べかなり少ないため(キャリーケースを引く姿が少ない)、「これくらいだと歩きやすい」と感じます。人出頼みの店舗は厳しそうですが、地域封鎖の予防策と考えるべきとも(封鎖されたら売上はゼロです)。
 街中には、東日本大震災時分のような「見えない敵を警戒する」緊張感が漂いますが、今回は一人ひとりにできることがありますから、実行しつつ静かに改善の推移を見守るしかないかと……

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

私は1980年代産まれですが、自衛隊の敷地だった頃(現在の赤羽自然観察公園)、敷地内に戦車が走ってましたよ。

稲付中学校に通っていた頃も夏になると訓練で戦車が走っていました。道路挟んですぐ向かいの敷地に戦車が走行していたので、夏場で窓を開けていたこともあり、振動と音が凄まじく授業中先生の声が聞こえなかった思い出があります。排気ガスの臭いも凄かったですね。

壁に囲まれた敷地を近くの団地から見下ろすと、狭い敷地に何台も戦車が走っていて、それはもう圧巻でした。父が子供の頃も走っていたそうです。
都内で、しかもすぐ近くを戦車が走ってる最中授業を受けていたと思うと、なかなか貴重な体験をしていたんだなと思います。