2019/04/08

深川の華

2019.3.31【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_20

 春の訪れ、季節の変わり目を実感しようと、数週間前に訪問した地を再度歩きましたが、花の盛りはまだ早かったように。




 東京では桜の満開情報から数日経過し、多くの人が3月最後の週末に花見を計画したようですが、木場公園では「ちと早い」と感じたのではないか。「は〜やく来い!」の春待ち気分は分かるが、開花発表の現場に群れる人が年々増える様子も、少々入れ込みすぎのように。
 近年、開花後の花冷えで長持ちする年が増えましたが、今年は天気・気温とも条件の悪い日が長く続き、うずうずしていた連中(わたしを含め)が飛び出したくなるタイミングだったように(啓蟄のような日)。花は少なくても、自分たちがサクラ色に染まれば満足ですもんね。
 右は近所の冬木町会らしく、町内会の付き合いは多少面倒でも、仲の良さ(?)、暮らしやすさが下町の良さとアピールしているようにも。


 上は、公園に隣接する深川消防署の訓練の様子(この日は日曜日)。
 ご近所さんが公園で飲み食いして騒いでいる時も、普段と変わらず設備の点検・訓練を欠かさない隊員の方々には本当に頭が下がります(ゴンドラから公園の様子を見ているのでは)。われわれはみなさんを頼りにして、日々の生活を送らせてもらっています。
 非番日の静かな公園で、花を眺めてまったりしてくださいませ……




 「どうしたんだい、女ひとりでもの悲しげに花を見つめて」なんて聞こえそうと感じたのは、花の季節+神社の催し(富岡八幡宮骨董市:下)から、寅さん映画の場面を想起したためで、彼女は男と一緒だったというオチも。
 水路が交差する上の東富橋(とうとみばし)付近の花を期待していましたが、咲き揃うのはもう少し先らしい。


 富岡八幡宮参道に並ぶ着物姿の集団は、映画の制作発表のような華やかさがありますが、囃し立てる取り巻きオヤジの声から想像される年代のようです(表現が難しい…)。詳しい理由はわかりませんが(稽古事の仲間?)、ハレ姿はこの場所でと八幡宮にたたずむ姿に「深川の華」という表現が浮かびました。
 育ててもらった町で胸を張る姿はまぶしく、華やかさでの恩返しを受け止める寛容さも下町の魅力のように。


 夏の京都で見られる川床の東京版 かわてらす(上の奥)が、この春 割烹 金柳(門仲唯一の料亭)の店先オープンしましたが、桜でよくわかりません。目新しいため店先にもかかわらず、わたしを含めズカズカ入り込む人で大混雑のため、お客さんも落ち着けないことと(広くないので仕方ない)。
 現在は一部だけですが、今後は石島橋~巴橋間全域のかわてらす化を目指すそうで、現在石島橋を通行止にして利用する飲食スペースは狭いので、実現すれば店舗・花見客双方に喜ばれることと。
 この季節には、日本橋付近で見かける背の低いクルーズ船も入ってくるため、水路も混雑しています。


 以前深川とされた地区(清澄付近の小名木川、越中島)を含め、お江戸深川さくらまつりとして深川観光協会が取り仕切る範囲の帰属意識は、富岡八幡宮の氏地と重なるようです。
 地域に暮らす人々の信条には、仲間意識と協調性、行動の迅速さが感じられ、そこで一緒に仕事をしたら仕切りと手際の良さに、ほれぼれするのではないかと。ひとたび衝突したら大変らしいも、後は引かないと聞いてますが……

2019/04/01

水辺利用の変遷──深川沖(越中島)

2019.3.16【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_19

 江戸時代は海辺の行楽地でしたが、黒船来航から軍事目的で利用されるようになります。現在は人工的な環境ですが、いまの江戸っ子は活用法を探っているように……


大横川

 江戸時代の永代通りは海沿いの道で、門前仲町付近では後に海岸沿いに整備された大横川(運河)と並ぶ様子が見られ、海沿いに軒を連ねた料亭はにぎわったようです。
 当初の江戸前とは、隅田川や深川付近で捕れるウナギを称したそうで、富岡・不動詣で帰りに江戸前のウナギという趣向は、当時のテッパンだったと。
 現在付近の料亭は一軒となりますが、河川敷地を利用した川床(かわゆか)が整備され、飲食スペース「かわてらす」として営業が始まりました(清洲橋付近のテラスも同じ枠組みらしい)。
 右は付近の石島橋で、親柱に松ぼっくりが描かれ(花火の絵かと)脇に松が植えられているのは、旧海岸線をアピールするためか。

 江戸期の深川沖には砂州が広がりましたが(現 越中島)、周辺の水路開削の際に土砂捨て場とされ陸地となります。その後、江戸のごみ捨て場が永代島から越中島周辺に移され埋立てが加速します。

 江戸で牡丹が流行した時分に牡丹栽培が盛んだったことから、川沿いに牡丹町の名が残されます。
 右の蔵(町内神輿蔵かと)に江戸文字で町名が記されるように、深川八幡祭りでは町名がアイデンティティとなります。以前神輿蔵は各町内にあるものでしたが、都心では土地の確保が難しいため、神社境内に長屋のような蔵を見かけることが多くなりました。
 現在、古石場川親水公園に牡丹園が整備されている。

 右は住宅に囲まれた黒船稲荷神社で、浅草で火災に遭いこの地に移転しますが、現在も浅草に同名の神社があるのは、元の地で再建されたように。宝を積んだ黒船に白狐が乗っていたとの言い伝えも、両神社に残ります。
 黒船には、ペリー艦隊に限らず欧米諸国から来航した船の総称的な意味合いもあり、上は黒い宝船が海の彼方から富と幸運を運んできた説話のようです。

 「四谷怪談」の作者 鶴屋南北(4代目。3代目までは役者らしい)は、神社の敷地内にあった家で亡くなったそう。当時は木々に囲まれる様から「すずめの森」と呼ばれ、創作活動にはもってこいの環境だったようです。


調練橋

 黒船来航後、越中島付近は海防訓練を行う越中島調練場(銃隊調練場、水泳道場)とされ、そこに架けられた橋は名称だけを残して撤去され、右のカメラ背後の水路も埋め立てられました。
 佐久間象山の砲術塾(勝海舟・吉田松蔭・橋本左内らが学んだ)が永代に、長州藩大砲鋳造場が洲崎(東陽町)付近にあったのは、付近に桟橋があったためか。

 明治期に越中島練兵場とされた時分の練兵衛橋が、大島川水門付近に残ります。観兵式に訪れた明治天皇の御前で初めて国歌が演奏されたらしいが、現在の君が代とは異なる君が代だった、についてはリンク先参照。
 その後は当然、軍の施設とされることに……



 本校は、大久保利通の命を受けた岩崎弥太郎が、1875年(明治8年)に設立した三菱商船学校が母体で、海運に軸足を置く弥太郎にも意義のある事業だったように。
 右の明治丸(構内で保存展示)は、明治天皇の北海道・東北地方巡幸に使用され、帰港日(7月20日)が海の記念日(現在の海の日)のルーツらしい(当時、天皇の地方訪問は軍の視察が目的でした)。
 1925年(大正14年)から東京高等商船学校(海軍学校)となり、学生は海軍予備生徒とされ、有事の軍務従事が定められます。

 下の相生橋は佃島(月島)との間に架かる橋で、途中の中之島は燈明設置のために埋め立てられた人工島ではないかと(現在も灯台がある)。


 右は大横川の黒船橋乗船場にあるカヌーの艇庫。
 周辺の運河は、スカイツリー付近の北十間川までつながっており、途中の扇橋閘門も通過できるらしい(水上バイクは通行禁止)。船を持たないので利用機会はないが、カヌーくらいなら持てるかも?(運ぶのが大変そう)
 大きな船が行き来する隅田川は危険そうですが、付近の運河ならのんびり楽しめそう。

 桜の季節には、和船に乗った新内流し(2人1組で三味線を弾き合わせながら川面を流す)や嫁入り船が登場するそうで、これはぜひとも見学せねば!


追記──連続テレビ小説「まんぷく」終了

 現在では当たり前でも存在しなかった時分に、「お湯を注げばできるラーメン」(チキンラーメン)や「容器に入ったヌードル≠ラーメン」(カップヌードル)を作ると説明してもイメージできないのは当然で、食文化革命前の人々の感覚を想像することは新鮮でしたし、初体験のインパクトを思い出させてもらいました。
 食品の開発は夫婦の二人三脚が可能でも、旺盛なチャレンジ精神と、道のりを楽しめる夫婦ゆえたどり着けたとする物語には、朝ドラにふさわしい爽快感がありました。
 注目を集めた母親(武士の娘:松坂慶子)は、子供に対する愛情は常に持っていても、自己中心的な願望をストレートに表現するわがままな存在かと見ていましたが、自分の母にもそんな面があると思い当たってからは、誇張はあっても一般的な母親像ってこんな感じかも? と納得させられました。
 夫婦役の安藤 サクラ、長谷川 博己は、回を重ねるごとに楽しそうに演じるようで、そんな空気感もとても楽しめました。「万引き家族」に続き彼女ならではの演技を見せてくれた安藤 サクラの今後を楽しみに。

2019/03/25

0.5mの安堵感──門前仲町

2019.3.9【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_18

 付近を通りるたび「この雰囲気!」とまったりするのは、永代通りのアーケードを「これあると助かるだろ」と押し売りするような空気感に、温もりを感じるためかと。



 約6年ぶりに参道を歩いてみると、参詣客の多さは変わらないが年齢層は若返ったようで、雰囲気があっさりしたように感じます。高齢化社会でも外出可能な人は減るため、参道の店舗も様変わりしているようです。
 代替わりもしくはオーナーが変わったためか、若向けのシャレた店が目につき、カップル、若い女性や若めのおばさん(?)グループの割合が高くなり、参道が軽やかになった気がします。足取りは軽やかに見えても、願い事の重さは変わらないことと……

 右の、ひょっとこや狐のお面は日本独自でしょうから、外国人旅行者へのアピールにはもってこいと思うし、狐も右下のようなバリエーションが増えると、キャラクターの幅が広がるのではないかと。

 成田山 東京別院誕生には、江戸時代の歌舞伎役者 市川團十郎の貢献が伝わります。彼が成田山 新勝寺(真言宗智山派)に帰依(信仰)し、不動明王が登場する芝居の人気から不動明王信仰に火がつき、永代寺(富岡八幡宮の別当:神社を管理する寺)で行われた成田不動の「出開帳」が、深川不動堂の始まりとされます。
 門前仲町は永代寺(全盛期は広大な寺院だった)の門前町が発展した町で、以前は付近も深川とされました。永代寺は明治維新の神仏分離令により廃寺となりますが、門前の地に再興されます。

 梵字を並べた本堂周辺に建物が増設されたように、前回訪問時よりもにぎわっているようです。




 上の深川公園は永代寺の跡地で、1873年(明治6年)飛鳥山・上野・芝・浅草と共に日本最初の公園とされます。
 グラウンドは、少年野球が複数可能な広さがあるも、背後を横切る首都高速に圧迫感を覚えます。気持ち的にはあそこにぶつけてやりたいと思っても、高さがあるのでちょっと無理だろうなぁ(ここの住所は富岡)。

 永代通り沿いにはアーケードの商店街が続きますが、生鮮品を扱う店がほとんどないのは、付近で創業した赤札堂(スーパー、上野ABAB経営)が便利なためか。ですがそこは下町、一本裏の道には右の産直販売(露店とはいえネギをモップに立てかけて売るかなぁ?)や、店先で魚を干す店があったりします(炙れば大丈夫。一夜干し美味しいよね〜)。


 下は以前、森下店に入ったことがある魚三酒場。16時開店の直後なので待ち時間は覚悟と思うが、「やっぱり並んでるよ」と目にしても気にせず並ぶ人々で列が伸びていきます。森下店の印象は「ちゃんとしたネタを使っている」「コストパフォーマンス◎」「充分満足」でしたから、魚好きの飲んべえが喉をカラカラにして並ぶのも理解できます。
 ですが、ここはとにかく騒がしく、店のオススメに逆らうと時間がかかる下町の飲み屋なので、混雑・やかましさは我慢できない、注文にこだわる方はご遠慮ください。
 当初は、左側の「子供連れお断り」「他店で飲んだ方お断り」の張り紙を撮ろうと思ったが、こちらの方が伝わりそうなので(列はまだ続きます)。


 門前仲町駅の「この出入口は海抜0.5m」表示を目にし、ちょっとショックを…… 区民の方には申し訳ないが、これまで江東区は全域がゼロメートル地帯と思い込んでいました。
 転居時に調べた地盤高図を見直してみれば、東側の荒川周辺がもっとも沈下が激しく、亀戸〜大島〜南砂町付近や、江戸川区の荒川沿い(西葛西を含む)に最低レベルの区域が点在しますが、西側の隅田川沿いの沈下は軽微らしい。
 状況を正しく理解すると、地域文化の歴史、隅田川に架かる橋の多さ(避難しやすさ)に加え「プラス0.5m」と、生活条件を満たす魅力的な地であることを納得できます。
 暮らしやすさの基準で「物価」の比重は大きいが、それと引き換えに手放していることをきちんと認識しておく必要があります。



追記──イチロー引退

 彼が残した記録は報道されるように数多くありますが、一時「彼は個人記録のためにプレーしている」との批判的な意見を耳にしたことがあります。また、2006、09年WBCでのチームリーダーとしての存在感、勝負に懸ける闘志(もっとも印象に残る姿)に対して、「なんでそんなタイトルのために頑張るんだ」というのがメジャーリーグ側の見解でした。
 ですが、記録を重ねファンやチームメイトからの期待が高まるたび、彼の精神も充実してきたように見えたし、WBCでもメジャーの選手が自国チームに参加し名誉を競うようになり、アメリカも本気にならなければ勝てないほど、各国が力を入れる大会になりました(お金ではなく名誉が浸透したように)。
 そこに挑む姿勢こそが、野球選手(個人の技術を磨き、チームの勝利に貢献する)のあるべき姿だし、野球少年の夢を育ててくれたのではないかと。
 素晴らしいプレーやチャレンジの数々をありがとうございました!
 今後の彼に最もふさわしいと思われる「WBC監督」の姿を楽しみに。


追記──三陸鉄道全線開通

 鉄道が開通したことによって、これまで被災地が分断されていたことに気づかされます。被害が広範囲に及んだこともあり、これまで地名は知っていても位置関係を知る拠り所がなかったが、これからは沿線全域に目が届くようになることと。
 これを弾みとするためラグビーワールドカップ後も、『あまちゃん』のように三陸鉄道沿線の人々を描き、活気づけられるような後押しはできないかと……

2019/03/18

残したい思い──深川

2019.3.2【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_17

 混雑する通勤電車の中で門前仲町駅を通る際は、いつも「どこを歩こうか?」と考えながら気を紛らわしています。




 隅田川テラス(川沿いに整備された遊歩道)に降りると、遠くで工事中の清洲橋が山のように見えたので寄り道を。橋を富士山に見立て、その背後にスカイツリーという絵を壁画にする銭湯がありそう、と思う気分が下町らしさとも。
 現在、国の重要文化財とされる3橋(勝鬨橋永代橋、清洲橋)では、TOKYO 2020に向けたお色直し(長寿命化工事)が行われており、築地大橋(2018年開通)を含めた12橋のライトアップが新しくなるようで、また楽しめそうです。
 立ち位置の清洲橋醸造場(ビール工場)&バーベキューレストラン『PITMANS』テラスは、堤防の上から川を眺められるので花火大会の眺めが良さそう。




 庶民の町として知られる名称は、江戸時代に摂津国(現 大阪府)から移住し、小名木川北側(当時の森下付近は漁師町)を開拓した深川氏に由来し、南側の湿地の名もなき開拓地を含めた広い地域が深川とされました。現在も町名として門前仲町北側の狭い地域に残ります。
 江戸の大火を受け、隅田川対岸に広がる茅野(かやの)の開拓が始まり、両国橋が開通すると寺院や庶民が移転し、一帯は急速に都市化しました。
 周辺は東京大空襲で焼き尽くされたため、被害を免れた墨田区京島付近のような無秩序さはなく、狭いながらもきちっと区割りされた町並みが整備されています。
 上は、屏風絵のような慧然寺(えねんじ)。右は富岡のインテリアショップ? いまどきはおしゃれじゃないと、東京メトロ沿線広告の石原さとみが来てくれません(もう来たんだっけ?)。


 上の八幡橋(元 弾正橋:以前は宝町の楓川に架けられた)は、旧 八幡堀を整備した遊歩道に架けられる人道橋で、ではなく鉄を主材料とした鉄橋としては日本最古で、国の重要文化財とされます。
 何をするわけでもないのに、つい誘われてしまう場所が点在しているのは、残っているのではなく、残そうとする思いが受け継がれているように。子供が関心を抱く遊び場には地域の特性があり、遊ぶことから思いを感じてくれれば、バトンは繋がるのではないかと。

 付近で起きた2017年富岡八幡宮殺人事件(宮司の後継問題による血縁間の事件)はまだ記憶に新しく、大空襲で焼失した社殿を再建した宮司は、神社本庁 事務総長就任の評価を受けますが、祖父が築き上げたものを三代目が失墜させました。



 江戸時代初期、永代島(当時は島だった)に祭られた「永代嶋八幡宮」に始まり、現在の門前仲町は永代寺(神社を管理する寺)の門前町として発展します。
 富岡八幡宮の祭礼 深川八幡祭は、江戸三大祭(日枝神社の山王祭、神田神社の神田祭り)の一つとされ、「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と語られます。
 また江戸勧進相撲発祥の神社とされ、横綱力士碑に横綱の名が刻まれることから、稀勢の里も土俵入りを奉納しましたが……
 右は境内の婚儀殿(結婚披露宴会場)前に飾られる絵で、色気を振りまく姿は子宝祈願のようにも。

 空襲の被災状況を目にした昭和天皇の「これで東京もとうとう焦土になったね」の言葉が、心に刻まれています。

 かつて3基あった神輿は関東大震災で焼失し、右の一の宮神輿は1991年に作られたもので、日本一の黄金大神輿とされる千貫神輿(高さ4m、重さ4.5トン:千貫 = 約3.75t)の巨大さには圧倒されますし、金箔だけでなくダイヤ、銀、プラチナ等も飾られるそう。
 これは、佐川急便グループ会長の寄贈によるもので推定10億円とか。これぞバブルの象徴! ですが、形として残ってよかったとも。
 ご推察通り重くて担げないため(交代で担ぐ人手が足りないそう)お出ましになったのは一度きりとのこと。3年に一度、隣に置かれる二の宮神輿(重さ2トン、推定1億円)が担ぎ出されます。

 周辺で古い町名が残されるのは、氏子町会の名を守りたいためでは? と思うほど、八幡宮と祭りは求心力と華を持つ存在のようです。



2019/03/11

水彩都市を演出する──木場

2019.2.23【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_16

 江東区が目指す「隅田川、荒川、東京湾に囲まれた水と緑豊かな水彩都市」の構成要素のひとつである水路は、身近な風景として生活の一部になっていますから、どうアピールするかにかかっているように。




 ここは平久川(へいきゅうがわ)を挟んだ木場の西側地区で、江戸城築城の際の石置き場&加工場とされた歴史が地名に残ります。付近では関東大震災後からたびたび町名が改正されますが、残そうとしたのはよほど思い入れのある名称のためかと。
 旧古石場川(現親水公園)に架かる琴平橋(上)は、石を運ぶ船は事故が多いため、海の神である「琴平神社:こんぴらさん」を建立した名残ではないか、と勝手な想像をしましたが、漁師町の神様だったそう(港には必ず神社があります…)。
 古石場文化センターにある小津安二郎展示コーナー(深川出身の映画監督)を見学してみると、気取って見えたのは下町気質の振る舞いと感じられ、愛すべき庶民だったように。




 区の取り組みとして、殺風景な水路に架けられるトラス橋などの橋をアピールすれば絵になりますし、デザインには下町らしい見栄やこだわりが見られるので、地域文化として注目されることと(上は1984年竣工の白妙橋)。この構造が立地の制限(橋脚を作れない等)によるとしたら立派な売りになるのでは。

 付近は倉庫や工場が並ぶ地域ですが、何と言っても木場駅は地下鉄東西線で大手町(東京)駅まで4駅という便利な場所なので、施設が移転した跡地には次々マンション等が建てられ、人口は増える一方のように(保育園が2つある)。イトーヨーカドー(ギャザリア)は近くても、住宅地としての整備にはまだ時間がかかりそうです。


 上は以前、越中島貨物駅から豊洲・晴海方面へ伸びていた東京都港湾局専用線の遺構(意図的に残されるようなのでモニュメント?)。この先の豊洲方面にも、跡地の形状が分かる駐車場や水路の橋脚が残るらしい。
 周囲の遺構は残しても、本丸の豊洲(旧東京ガス工場→豊洲市場)は「マジやばい」ため、盛り土をしたものの……(小池都知事が引き下がったのはヤバさを学習したためかと)。晴海の埋立地は主に港湾・流通関連会社に売却されたので、建設中の五輪選手村も大丈夫らしい。

 右のしおかぜ橋は汐見運河を渡る人道橋で、その先のJR京葉線、越中島貨物駅を渡るアーチ橋とつながっています。後者の見栄えは立派だが、スペースが無いにしてもやり過ぎの印象と。

 一帯には工場用地向けの広い区画割が多い中、しおかぜ橋周辺だけは町工場向け程度の区画とされ、工場兼住居も入り混じりこまごまとしています。
 工場跡地の再開発に規模の大小はないようで、歯抜けとなった跡地には住宅が建てられ、小さいながらも工場用地に宅地化の波が押し寄せるように見えます。
 そんな状況のためか、右の写真を撮っていると(再生紙を扱う倉庫)、事務所から出てきたおばちゃんが「何を撮っているの?!」と、クレームのような口調で声をかけてきます。周辺では様々な話が飛び交うらしく、神経質になるのも当然で、不審者を目にしたらすぐに追っ払っているようです。
 こんなどうでもいい写真を撮ってれば疑われます。

 右は木場にある、屋形船・釣り船の深川吉野屋の船着場を水門の外から見た絵(前回の逆方向)。
 この門を閉じると奥側が内堀になります。手前側も非常時には、5箇所の水門で東京湾と仕切られ外堀となるので、高潮・津波等の際には二重に守られることになります。しかしそれは、周囲の堤防がきちんと機能した場合の話で、弱い場所が決壊し堤防内部が水没する被害を近頃よく目にします。
 堤防内部には当然排水ポンプが設置されていても、いざという時に役に立たなかったという話も耳にするので、教訓を生かすためにも、念を入れた準備・訓練が必要ではないかと。




 フジクラ(旧藤倉電線)工場跡地の再開発による複合施設で、オフィスビル6棟、商業施設(イトーヨーカドー、109シネマズ木場等)、レストラン街等のある敷地はかなり広く、この施設のおかげで木場周辺のイメージが格段に上がったことと。
 レストラン街で見かけたキッチンジローに数十年ぶりに入ってみると(場所柄ゆえ店内はこぎれい)、キャベツにかけたソースの変わらない味から、若い時分の食生活の記憶がよみがえりました。年齢とともに好みも変わったと思っていたが、「あっさり好みになった?」と味覚で実感すると、ちょっと驚きます……

 右はフジクラ 木場千年の森(ビオガーデン)のネコヤナギ(後日の絵)。

2019/03/04

背筋が少し伸びるころ──木場公園

2019.2.17【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_15

 まだ冬物は手放せませんが、日差しのもとでジワッと汗ばむ陽気にこわばった体もほぐれ、背筋が少し伸びてきたと感じるように……



 木場公園といえば木場の角乗(水に浮かぶ角材上での妙技披露は10月の区民祭り)で、リンク先のように人出は凄そうですが、近くなったので一度は見なければと。
 「火事と喧嘩は江戸の華」の火災では、材木商の木材が延焼の原因とされ、日本橋界隈から転々とし木場深川町に落ち着きましたが、1969年貯木場が新木場に移転し跡地に公園が整備されました。
 近頃木材を運ぶトラックを目にしないように、流通形式が変わったため、現在新木場の貯木場は使用されないようですが、木材加工工場等は現在もあるため漂う木の香りから、環境省のかおり風景100選に選ばれたそう。


 公園内の都市緑化植物園は、自分たちで手入れ可能な植物・庭の見本が並ぶようなガーデンで、手入れする方々も自分の庭のように愛着を持っているように見えます。庭を持てない人が草木を育てられる施設としたらマニアは集まるとしても、収拾がつかなくなりそうです。
 また、様々な犬&飼い主でにぎわうドッグランで大型犬が走り回る姿を見られないことも、飼育スペースや、庭を持てないためらしいが、この公園のサポートは庶民生活に多少のゆとりを与えてくれるのではないかと。

 今年の梅が遅いように感じたのは気候のせい?(千葉県の気候に近い西葛西は遅いのか)世田谷の羽根木公園は2月の終わりが見ごろだったようです。


 久しぶりに隣接の東京都現代美術館を見学しようと意気込んでいたが、改修工事中のためフェンスで囲われています。これまでは感じなかったが、目の前まで行って休館とされると、途端に「不便な立地」「雨の日には来ない」などと、ネガティブなことを考え始めてしまいます(美術館の建物はトラス橋をイメージしたものかと)。

 付近の水路に多くみられるトラス橋は、関東大震災の復興橋として架けられ頑強さが売りでしたが、周辺が地盤沈下したため橋と数mの高度差が生じます(橋や堤防等の構造物は地下に杭を打つため沈みにくい)。
 右の亀久橋のように、前面にある下町らしい小粋な飾りを見かけると、全部回ってトラス橋カタログを作ったら楽しそうと。

 江戸幕府は、一帯に広がる湿地に水路を通して水運に活用し、周辺住民は水路の土手を足がかりとして周辺を開拓したそうです(たくましき庶民!)。
 旧水路を整備した木場親水公園(右)の水辺が水路の底に作られているのは、地下に下水路を通して周辺の雨水を集めて排水するためではないか。そんな施設のおかげで、排水路を心配せず下写真のように水路が遊歩道より高い場所(肩の高さ)を通せるように。
 湿地だった江戸時代の再現にこだわる姿勢から、水彩都市を自称する江東区の意気込みを理解できましたが、水から町を守れない災害が頻発しているので、余裕を持った対策が必要ではないかと……



追記──米朝首脳のベトナム観光

 うまくいくとは思っていなかったが、あれが彼らの本気だったんだよね? 「予定通り」「収穫があった」としたらもう少しマシなコメントが出ていたはずと。成果への貢献をアピールすべく動き回った、日・韓・中・ロの取り巻きもシラケてしまいます。
 自国第一主義を掲げる国の代表は「外交シロウト」で当然とされたのでは、世界はどうなるのかと(国内体制の粛清では世界は変わらない)。双方とも外部の見解に耳を傾けないのだから何を言っても仕方ないが、ベトナム観光に付き合わされたマスコミ等の膨大な経費が、無駄遣いとならぬよう願いたいと……

2019/02/25

記憶は薄れても──旧洲崎

2019.2.10【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_14

 事前に情報を知らなければ普通の住宅街のようで、以前の痕跡は見当たりません。あえて言えば、碁盤目状の整然とした町並みから、何かの目的で整備されたのでは? と推測する程度か……


旧深川洲崎弁天町(東陽一丁目)

 この一画は、江戸時代の埋立地のため地盤沈下の影響を顕著に受けており(手前)、新しい基準による奥の埋立地との高低差は3m近くあります。
 当初は「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」から、初日の出の名所とされたことが、現 東陽町の名称由来ではないかと。
 大正期の付近には海水浴場が開設され(潮干狩りも楽しめた)、季節になると城東電車洲崎線(路面電車)は海に向かう人でにぎわったとのこと。
 洲崎遊郭(1888年:明治21年〜)、戦後 洲崎パラダイス(〜1958年:昭和33年 リンク先Youtubeの記録映画は当時の様子がよくわかる)とされた時分は出島のようで、橋を渡る必要がありました。

 1982年陸地との間を隔てた洲崎川(運河)を埋め立てた場所は、現在も堤防のように高くなっており、右は埋め立てた川の跡に作られた洲崎川緑道のトンネル。
 この上に遊郭へ渡る洲崎橋が架けられ、その入口に設置された洲崎大門(鉄の門柱:女性の逃亡を防ぐためかと)は空襲の被害を受けますが、戦後に洲崎パラダイスのアーチが設置されました(上の記録映画で見られる)。
 運河埋め立て後に橋は不要ないので平坦にすればいいと思うが、旧運河の堤防には現在も両岸の陸地地盤を守る役割があるようで、地盤強度に自信のないゼロメートル地帯では構造物を解体する選択肢はないのかも知れません。
 現在では遊郭時分の痕跡は消え、ここで働いた女性たちの供養碑だけが残されています。


 上の洲崎神社(リンク先の弁天池は駐車場に)は、海難除けの信仰を集めるも高潮の被害を受け、境内には付近を居住禁止とする波除碑(警告の碑)が設置されました。
 当時、神社前に店を構えた伊勢屋というそば屋が、丸い竹ザルにそばを盛って出したのが「ざるそば」の始まりとされるが、その店も高潮で流されたそう。後に描かれた歌川広重の浮世絵「深川洲崎十万坪」は、災害後の周辺を描いたものと解釈されています。
 右は、木場駅から神社へ向かう途中の新田橋(赤い橋)のたもとにある深川吉野屋(釣り船、屋形船)の船着場。周辺での海との関係は、人間の方が圧倒的に不利で肩身がせまそうなので、海の上で発散するためにも船は重要かも知れないと(付近は木場六丁目)。


江東運転免許試験場周辺(新砂一丁目)


 以前試験場周辺には、プロ野球チーム 大東京軍(後の松竹ロビンス〜現在のベイスターズ前身チームに吸収)本拠地の洲崎球場(1936〜43年)があったそうで、選手たちが球場入りする際に、遊郭の2階から手を振る選手がいたとか。また、満潮時に海水が浸入してコールドゲームになった、グラウンドから貝殻が出てきた、スタンドにカニがいたなどの伝説も。現在跡地周辺には、明治や日本デジタル研究所等のオフィスビルが並びます。
 上は西濃運輸 深川支店のかなり年季の入った設備ですが、まだ現役らしい。
 下のスカパー東京メディアセンターは「放送の発信源」らしいが、このアンテナだけで80chある放送を発信しているのだろうか。
 東陽町駅周辺のオフィスビル群から工場用地への切り替わりが急なのは、土地利用の切り替え中のようにも。





 朝のピークを過ぎた時間帯に利用していると、運行本数を減らし始める時間らしく時折「東陽町行き」を見かけますが、その車両はここに入ってくるのかと(地下なので引込み線に気づかなかった)。1967年東陽町駅開業時に開設されますが、それまでは旧国鉄 三鷹電車区等で検査を行っていたらしい。広さもありますが、長さが600m以上あり、ひと駅分くらいありそうです(東陽町〜木場駅間はそんな程度では?)。
 東西線の車両って「来たら乗る」だけで関心もないため、違いがわかりません……


追記──沖縄県民投票結果の扱い方を見届けるべき

 異論はあっても、県民投票結果として沖縄県民の意見が発信されました。
 この先は県民だけでなく国民も、議論ではなく沖縄の人々の気持ちを揺さぶって押し付けたことを、どう進めていくのかを見届ける必要があるのではないか。議論の余地がないとするなら、アメリカのように大統領を選出して、拒否権で決定を覆せばいいのか? われわれとしては、どのような進め方なら納得できるのかを考えるべきと。
 同じ日の天皇在位30年式典で歌われた、天皇・皇后による琉歌(沖縄歌謡)に込められた気持ち(尊重しあい島国で生きていく術)にこそ日本人らしさを感じます。