2009/08/17

天狗とハイヒール──高尾山

2009.8.9
【東京都】

 今回足を運んだ高尾山は、東京・神奈川に暮らす人々には、身近なハイキングコースとして親しまれていると思います。
 ガキの頃から何度となく登った印象や、「ハイヒールで登れる山」と言われることからも、「あんなの山じゃない」という気分を、どことなく持ち合わせています。
 でも近ごろでは、平地はよく歩くものの山登りには自信がないので、ケーブルカーで登りました……
 それじゃ、山登りと言えないじゃん!

 下りだけでも、翌日(だったことにホッとしたりして)ふくらはぎがバリバリに痛く、悲鳴を上げていました……


 高尾山薬王院(Map)

 山の頂にある薬王院は、744年聖武天皇の勅命により、東国鎮護のために開かれ、真言宗智山派の関東三大本山(残る2つは、川崎大師平間寺と成田山新勝寺)では最も歴史があるそうです。
 空海さんの真言密教のお寺なのに、世間的には天狗のお寺として親しまれています。
 1375年京都醍醐寺から来た僧侶が、飯縄権現(いづな or いいづなごんげん)を祭ったことから、飯縄信仰の霊山とされ修験道の道場として人気が高まったそうです。
 飯縄権現とは、長野県飯縄山(Map)に対する山岳信仰が発祥とされる神仏習合の神で、白狐に乗り、剣と縄を持った烏天狗(右写真は大天狗)の姿をしているそうです。
 戦勝の神として信仰され、足利義満、上杉謙信、武田信玄等の武将たちに信仰されたようです。

 ──上写真は、大天狗(鼻の高い天狗)像。下写真は、ホラ貝を吹きながら本堂に向かう山伏姿の僧侶。ホラ貝を吹くことには、悪霊退散、山中での修験者同士の意思疎通、熊よけ等の意味があるそうです。ちなみに「ホラ吹き」とは、仏法の説教を熱心に行う様からきたそうで、法螺貝は見た目以上に大きな音が出ることから、大げさなことを言う人をそう呼んだそうです。


 天狗の一般的なイメージは鼻の高い容姿になりますが、それを「大天狗」と呼び、鼻先が尖ったもの(尖ったマスクを付けたような容姿)を「小天狗」もしくは「烏天狗」というそうです。
 奈良時代の役行者(えんのぎょうじゃ)から始まったとされる山岳信仰が、鎌倉時代から修験僧(山伏)の広がりを生み、その姿が天狗と呼ばれるようになったそうです(山伏も山を飛ぶように駆けていたことでしょう)。
 庶民が山地を異界として畏怖した時代には、山で起きる怪異現象や、天狗(語源は、怪音をたてて空を飛来するもの(火球、隕石)とされる)のイメージに、山伏の姿が重ねられ呼ばれるようになったようで、そのころから天狗を山の神と考える風習が広まったそうです。
 しかしそこには、他宗派からの軽蔑の表現(そんな行為は修行と認められない)も含まれているそうです。


 「天狗になる」の言葉通り、天狗は慢心の権化とされていて、その始まりは、彼らが「教えたがり魔」であるとの言いつたえによるようです。
 仏教六道(りく or ろくどう:天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のほかに天狗道があるそうで、仏道を学んでいるので地獄に堕ちないが、邪法を用いるため極楽にも行けない「無間(むげん)地獄」(仏教八大地獄の周辺に存在する小規模な地獄。これじゃ分からんね…)との見解もあるそうです。
 ですが、そこには日本人に愛されそうな「あいまいな存在」としての特徴が現れているような気がします。
 人間に似た容姿を持ち、山間地においては超人的な身体能力を発揮し、空も飛ぶと考えられていながらも、われわれを守ってくれるわけでもない「畏怖(いふ)されるだけの存在」であっても、神として祭ろうと考える心理は、説明不要な「存在感」ゆえのことと思われます。
 また、古事記・日本書紀などに登場する、天孫降臨の案内役であるサルタヒコ(猿田彦)は、長身で長い鼻を持つことから、天狗のイメージと混同されていることも、日本的であると思ってしまいます……

 そんな「原始宗教」(アニミズム的な「八百万(やおよろず)の神」等)を理解する感性を持っている民族が、海外から先進国と見られていることは、驚くべき事なのかも知れません。
 不信心と考えられているわたしたちですが、万物(自然界)を慈しむ気持ちこそが、信仰心につながることを、世界に向かってアピールできたら、と思うのですが、いかがでしょうか?

 ──上写真は、かつて火渡りの儀式(?)等が行われたように思える修行場。下写真は、滝行に使われている琵琶滝(右奧)。


 高尾山の名をよく目にするのは、自動車の窓に貼られた交通安全の、真っ赤なもみじ型のステッカーではないでしょうか。
 お寺の紋章には、もみじの葉が3枚あしらわれており(右写真)トレードマークのようで、もみじステッカーは交通安全以外にもいろいろあるようです。

 近ごろ夕刻に高尾山を訪れる人が増えているそうで、それは「高尾山ビアマウント」(山上ビアガーデン)の人気によるもので、開場1時間前から行列が出来ていました。
 ずいぶん前ですが、親戚一同で訪れたことがあって、景色の見事さに見とれたものの、夜の山はとても冷えるので「寒い」と言いながら降りてきた印象があります。
 都心近くには山がないので、屋上ビアガーデンで我慢するしかありませんが、機会がある方にはオススメ出来ると思います。


 いい機会なので、天狗のうちわとゲタについて調べてみましたが、「うちわであおぐと鼻が高くなる」「一本歯の高ゲタは俊敏に動くことが出来る」等の記述にしか出会えませんでした……(上写真は、ゲタが納められる社)
 形状が似ていることから、植物のヤツデの葉(八枚に裂けた葉)の方に「天狗のうちわ」との異名がついたそうです。

 登山口付近に、大きな天狗のお面が飾ってあったと記憶していたのですが、見あたらないので探してみましたが、勘違いだったのか?
 記憶のある方がいたらお聞かせ下さい。


 高尾山 山麓(Map)

 下りは、ガキ時代の記憶をたどり、滝(琵琶滝:上へ3枚目の写真)の道を歩きました。
 山上の杉並木も立派でしたが、古くから修験道の霊場とされたおかげで、山麓一帯の森林保護は各時代で続けられ、東京近郊としては驚くほどの自然林が残されています。
 また驚いたのが、年間の登山者数が世界一の山であるということです。
 確かに人は多いのですが、団体でも訪れやすい山で(企画する側として立案のしやすい場所になるのでしょう。学生時代に来た覚えがあります)、アクセスも悪くないので気軽に立ち寄れることは確かです。
 そんな登山者の多い高尾山を見込んで(東京都ですし)、この地に「エコツーリズムの本部」となってもらってはどうだろう? と思ったりしました。

 最近では、観光・ハイキング気分で屋久島や北海道の山等を気軽に歩こうとする、中高年が多いと耳にします。
 言葉は悪いですが、そんな中高年たちが各地の自然環境を踏み荒らさぬように、知名度に引かれるだけで「自然を知らない」人たちへの「ネイチャー・スクール」を、この地に開いてはどうか? と思ったりしました。
 高尾山だって、雨が降ったら大変なことになる「山」であること等を、この地から発信してもらえれば、多くの人の耳に届くのではないか、とも思われます。
 わたし自身、多少バカにしている高尾山でも、結構リアルな山であることを再認識させられた思いでおります……

 実際にハイヒールで歩く方を見かけました。
 天狗の高ゲタを意識した訳ではないのでしょうが、一本歯の高ゲタのような俊敏性は得られないと思われます。
 今どきは、ビアガーデンの開場待ちで散歩している方もいるでしょうから、デートだとハイヒールも仕方ないのでしょうか?
 しかし、そんな認識の延長が、山を軽視した登山での遭難事故につながるように思えてなりません……

 とりあえず、東京都(Map)に関しては、このあたりで終了と考えています。
 また、何か企画があったら歩きたいと思います。

2009/08/10

残された森の声──高幡不動、多摩動物公園

2009.8.1
【東京都】

 この日歩いた多摩丘陵は、高尾山の東のふもと付近から、東は多摩川付近、南は横浜市の円海山(横浜横須賀道路釜利谷ジャンクション付近)まで及ぶ、東京都・神奈川県に広がる丘陵地帯になります。

 縄文時代には海水面が高かったことから(都心の低地は海でした)、丘陵地帯には点々とその時代の遺跡が数多く残されています。
 海水面が低下した弥生時代からは、谷戸と言われる谷の下に農地を開いて、稲作等の農業が始まったそうです。

 1950年代から周辺一帯の開発が進み、里山とされた緑や田園風景が失われ、いまに至っています。
 元もと丘陵地域なのでどの地も傾斜地ですから、決して安心して住める地ではないと思われます……

 Wikipediaの説明が分かりやすいと思ったので、引用させてもらいます。
 ──映画『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)ではこの丘陵の開発が取り上げられ、また、映画『耳をすませば』(1995年)ではこの丘陵が開発された住宅地が舞台となっている。

 開発に異議をとなえても止めることなどできず、それを受け入れた地においては、どんな夢が描けるのかを模索する姿が想起されます。

 むかしながらの多摩丘陵にふれられる散策路が、高幡不動〜多摩動物公園〜多摩テック(2009年9月閉園予定)〜平山城址公園〜野猿(やえん)峠(甲州街道脇の「ホテル野猿」の看板はまだあるのだろうか?)に整備されているそうです。
 多摩地域に残された森は、綱渡りのように歩く程度の、ほんの限られた場所だけになってしまったようです……


 高幡不動(金剛寺)(Map)

 高幡不動の名は通称で、金剛寺(こんごうじ)という真言宗(空海)のお寺になります。
 「金剛」の名は、総本山である高野山の金剛峯寺(こんごうぶじ)の名や、その祈りに「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)と唱えられたりする、真言宗においてのキーワードになります。
 密教徒(真言宗を含む)の間では「大乗」「小乗」に対して「金剛乗」とされるそうですが、密教が仏教に含まれるかについては見解が分かれるそうです。
 わたしにもそんな印象があって、日本向けに練り直された教えではないかと思う面があり、そこにこそ、空海(弘法大師)の力が発揮されたように思われます。


 通称の通り本尊は不動明王で、真言密教の本尊である大日如来の化身とされるそうです。
 世間では「お不動さん」として親しまれていますが、日本人向きの信仰(即身成仏)であることを、この「お不動さん」の表現からも感じることが出来ます。
 成田山新勝寺(成田不動)とともに、関東三大不動のひとつとされるそうですから(もうひとつの候補には3寺ほどあるそうです)、その人気ぶりがうかがえます。


 多摩地域を歩けば「トシちゃんに当たる」印象のある土方歳三ですが、ここが菩提寺となるそうで、銅像が建てられています。
 ──その名から新撰組ではなく、むかしのコミック「マカロニほうれん荘」を連想するなど、新撰組への関心の薄さを自覚しています。

 実家の土方家が保存・展示している資料館や、お墓も近くにあるそうなので、若かりしころはこの辺りを走り回っていたのかも知れません。
 江戸時代の多摩地域は、雑木林が広がる山里のような土地柄だったでしょうから、出身者が侍に出世した(当人もよろこんでいたらしい)となれば、一躍名士〜郷土の誇りとされた様子が、現在でも見て取れる印象があります。
 この地域では他に有名人がいないこともあるのでしょうが、多摩でひとり勝ちの「トシちゃん人気」(これまで何度かふれましたが)に接することが出来たのは、とてもいい見聞だったと思います。


 多摩動物公園(Map)

 ガキの頃、多摩動物園といえば「ライオンバス」でしたし、インド王宮のような塔が並んだ建物がとても印象に残っていました(塔は健在です)。
 ──当時、何でインドと思ったのだろう? 知らずともタジマハール等をイメージしていたのだろうか?

 この日は比較的気温は低かったのですが、お昼寝タイムでしょうか「ライオンは(日陰で)寝ている」個体が多く、写真の彼女だけがそれらしく振る舞い、見学者をよろこばせていました。
 現在でも人気があるようですから、子どもの興味の対象が変わっていないことへの安堵感と、手軽さという「親の感覚」も変わっていないのかも知れない、と思ったりしました……


 象はどこの動物園でも、こちらに顔を向けてくれた印象が無いので、思わずシャッターを切りました。耳も開いてくれましたし……(アフリカゾウ)
 見聞が広まってくると(年をとると)動物園とバカにしてしまう面もありますが、「こんな姿は初めて見た」という動物園ならではの光景に出会えることがあるので、足を運んでいるのだと思います。


 下写真はグレビーシマウマで、右方向が頭になります。
 左側の足の付け根あたりのしま模様が、とっても不思議に思えました。
 シマウマのストライプ模様は、全部ストレートで1本なのかと思っていたら、途中で切れていたり、他とつながったりしています。
 中でも、つながりそうでつながらない模様には、何かお互いの意志があるようにも思えてきます。

 ここで、視点のネガ・ポジを切り替えます。
 上記までは、白毛を模様と見た表現になりますが、お腹が白いことを踏まえると「白地に黒い模様が入る」と考えた方が自然に思えてきます。
 そんな視点で考えると、黒毛の模様が変化・移動していくことになります。
 下腹部あたりでは黒い模様が枝分かれしており、その辺りが模様の調整個所(変化の始まり)のようにも見え、途中で枝分かれしている模様を付け替え直していくと、キレイなしま模様が完成するようにも思えてきます。
 しかし、当のシマウマがそれを完成型としているかは、疑わしいですよね。
 だって、人間が勝手に「ストレートなストライプ」を望んでいるだけなのかも知れませんもの……
 シマウマの気持ちを推測すると、遠くから見るとストライプ模様は、草原の風景に埋もれて判別しにくい、と考えられているそうです。


 ここは、コアラが日本に初めてやってきた(1984年)地のひとつで、当初はかなり盛り上がっていた記憶があります。
 写真も眠っている姿ですが、一日約20時間程度眠るそうです。コアラ館は安眠を守るためでしょうか、とても暗いので、ブレずに撮れたのはラッキーでした。
 主食のユーカリの葉から栄養分や水分を摂取するものの、ユーカリには毒素が含まれるため消化が悪く、栄養分も少ないため、省エネのために寝て過ごすのだそうです。
 ──食べ物の消化に時間のかかるテングザルも、食後は消化されるまで眠って待つと、テレビで見ました。

 「コアラ」とはアボリジニの言葉で「水を飲まない」という意味なんだそうです。
 オーストラリアでは抱くこともできますが、爪は鋭いので引っかかれる危険性があります。でも、あのフサフサの毛並みに触ってみたい気持ちは、とてもよく分かります。
 記憶はたどれないのですが、その毛並みの「繊細な毛の感触」を手のひらが覚えていました。
 ですが、場所も覚えていないのですから、当時の関心の薄さがうかがい知れます(オーストラリアだったかなぁ…)。

 下写真はオランウータンの子どもですが、とても人気があるようで、もの凄い望遠レンズを抱えた(アマチュアと思われる)カメラマンたちが群れていて、驚きました。
 注目されている子どもなのかと調べてみても見あたりませんから、オランウータンの撮影会(?)だったのでしょうか?
 って、そんなのあるの? 水着も着てないし……


 多摩動物公園は、丘陵地帯の斜面に沿って各動物たちの飼育舎が点在しているので、一周するとハイキングくらい上り下りをさせられますから「今日は歩いた〜」という実感を得ることが出来ます(汗はダクダク……)。
 この年になると視野も広がるので(休憩が多いだけ?)、周囲にも視線が向き「いい雑木林が残されている」と感じることができたりします。
 ヒグラシの鳴き声(カナカナカナ)を久しぶりに耳にすると、風情があると言うのか、ガキの時分の「遊びの時間がもう終わる」と感じた、一種のさみしさがよみがえってきます。
 いまどき、住宅街では耳に出来ませんから、当時はそれだけ身近に自然があった(身近に里山的な環境があった)ということになります。

 帰りは、多摩モノレール(レールの設置高度が高い上、山を上り下りするので、ジェットコースターのような迫力が楽しめます。是非、先頭の席で楽しんでみてください)で、多摩センターに出たのですが、もうビックリ!
 開発期の様子や、サンリオピューロランド開設くらいまでは知っていましたが、現在のこの姿がほぼ完成型なのでしょう。
 都市計画があまりにも人工的過ぎて、便利ではあっても面白味を感じることのできない「不思議な町」になっていました。
 開発計画が進められた時代(1950年代〜)における「未来都市」の姿なのでしょうけれど、そんな反省が横浜港北ニュータウン等に反映されているようにも思われます(別に好きなわけではありません)。

 具体的なイメージは持っていませんが、「現在描く未来都市の絵」ってどんな姿なのでしょう?
 実現した時に「何考えてたんだか?!」と、言われないようなビジョンを持たないといけません。行政に期待はできないので、自分たちで明確に持つ必要があるのかも知れません。

 『平成狸合戦ぽんぽこ』のタヌキたちは、共存のために人間に化けて生活することを選びましたが、もう彼らの帰る場所は、この多摩丘陵からは失われてしまった、という印象です。
 だから「狸オヤジ」が、人間界をかっ歩するようになったのでしょうか?
 どっちも困っちゃうんですけど……

2009/07/27

生活を守るために──羽村の堰、横田基地

2009.7.19
【東京都】

 関東地方ではぐずついた天気が続くので「梅雨明け時期見直しか?」とも言われています。そんな時の用語に「戻り梅雨」なんて言葉があるんですね。
 九州・中国地方では大雨による被害が続いており、「まさかうちが被害に遭うとは…」の声をインタビューで耳にしました。
 「観測史上最多となる降水量」等のニュースをよく耳にする近ごろですが、温暖化の影響等が心配される将来では、安全な土地は思っているほど広くないのかも知れません……
 

 羽村の堰(せき)(Map)

 羽村の堰(正式名称:東京都水道局羽村取水堰)とは、多摩川から玉川上水に流れを誘導する取水施設(水源)になります。
 玉川上水の開削は江戸幕府による事業で、江戸市中への飲料水供給を目的として、この地から四谷大木戸(現在の新宿区四谷)までの43kmに渡って築かれ、1653年に開通しました(江戸開府は1603年)。
 現存経路の開削は半年余りで完成したそうですが、その前には2度(日野、福生(ふっさ)からの取水経路)の失敗があったようです。
 庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負ったものの、2度の失敗で資金が底をつき、自分たちの家を売って費用に充てたそうです。
 その功績に対して「玉川姓」の使用が許され、「玉川兄弟」と呼ばれるようになり、銅像が建てられるに至ったそうです。 めでたし、めでたし……


 右写真は、玉川上水最上流地点の様子です。
 ご覧のように、かなり豊富な水量が確保されています。
 玉川上水から想起されるのが、作家太宰治の入水自殺ですが、現場とされる三鷹市付近の現在の流れは小川のようで、とてもその場所で自殺したとは考えられない状況となっています。
 では、どこに流れているのかと言うと、この少し下流で取水され東村山浄水場に送られており、またその下流では、現役の農業用水(新堀用水)にも取水されているようです。
 下流域では需要が減ったため流量は少なくなり、水路の面影だけとなっていますが、上流の流れは現在でも、東京近郊の飲料水の水源として活用されているそうです。


 多摩川と玉川上水の分岐点(両側に流れのあるどん詰まり)の地は、東京都が整備している多摩川沿いの散策道「たまリバー50キロ」の終点にあたります。
 堰を見下ろすベンチでは、ゴール到着後の満足げな表情をしたサイクリストたちが、談笑をしています。
 ──この地には「歳の鬼あし多摩川50km」というマラソン大会があるそうです(歳とは土方歳三からの引用)。

 わたしも分割しながらですが、河口付近(羽田)から立川までは歩いているので、近いうちにそのフィニッシュを決めに来たいと思います。

 上写真、堰の下の流れは多摩川で、右下のおじさんは流れの中に陣取って釣りをしています。
 釣果は分かりませんが、最高の避暑だろうと思われます。寒いくらいではあるまいか?


 羽村市郷土博物館(Map)


 多摩川の対岸に市立の郷土博物館があるので、一息入れるつもりが、あまり涼しくありませんでした(28℃設定か?)。
 エコも分かりますが暑い日には、一服の清涼感も欲しい気がします。
 屋外にかやぶき屋根の古民家が保存されており、囲炉裏の火はこの季節も絶やされないようです。
 囲炉裏の火の熱は空気の対流を生むので、その温度差によって開け放たれた戸の外から自然の風が流れてきて、夏でも快適なんだそうです。
 その古民家の脇には、薪が積み上げられています(太めの薪は乾燥のために干されていました)。
 生活様式を伝えることを目指す施設なので、薪の蓄えも仕事のうちのようです。




 横田基地(Map)

 再訪の第一印象が「基地らしい基地だなぁ」というのは、「Air Base」(空軍基地)たる空港施設の広さはもちろん、フェンスの中の芝生はまぶしい緑ですし、基地城下町とも言える商店や関係者向けの住宅(木造平屋建てで、玄関の網戸が「バッタン」と閉まる家:マッチョな軍人が出てきたら怖いので撮れませんでした……)が、いまも健在で存在感を示していることによると思われます。
 現在もそんな印象があるのは、近郊では横須賀基地くらいでしょうか。厚木基地や司令部が置かれて注目される座間キャンプ周辺も、基地城下町的な雰囲気は皆無になりつつあります。
 ──ガキの頃の思い出として、横田基地を見晴らせるドライブインの屋上(3階建てくらいか?)から、観光バスの乗客もこぞって離着陸する米軍機を眺めていたことを覚えています(結構な人が集まっていました)。まだ庶民が飛行機に乗れない時代だったからでしょうか? 不思議な光景として記憶に残っています……


 1940年に、陸軍立川飛行場の付属施設である多摩飛行場として建設されますが、敗戦後の1945年アメリカ軍に接収されます。
 接収後の拡張工事により、北側では国鉄(現在JR)八高線と国道16号線が、南側では五日市街道の経路移設が生じたそうです。
 朝鮮戦争では出撃基地、ベトナム戦争では補給基地とされましたが、現在は「極東地域の輸送中継ハブ基地」とされるそうです。
 ──軍隊にもハブ基地は必要ですわなぁ……

 この基地に関しては書きたいことが多く、収まらないので、要点だけにします。
 ●「横田ラプコン(RAPCON: Radar Approach Control)」施設において、関東周辺(1都8県)の航空管制が行われ、米空軍の管制下に置かれているため、民間航空機はその空域を通れず遠回りするために、渋滞の原因になっているそうです。

 ●石原都知事が「民間共用化」を公約し、自衛隊との「共用化」から、民間チャーター便の就航を目指すそうですが、結局は調布飛行場程度のご機嫌取りで、周辺住民には歓迎されないのではあるまいか?

 ●国連軍の後方司令部が座間からこの地に移転したそうです。国連に対する施設提供を拒む理由はないにしても、いい顔をしたかったのでは? とも思ってしまいます。

 ここで主張したいのは
 ●「1971年に戦闘部隊が沖縄に移転した(させた?)」ということです。首都周辺に、煙が上がりそうな連中を置きたくない、という考えは理解できますが、沖縄に米軍を押しつけたのは、東京を重要視した日本国家である、ということです。
 ──沖縄の施政権が日本に返還されたのは翌年の1972年になります。

 基地には国を守るという大義があります。
 その基地周辺の民間地を守る義務は誰が負うのでしょうか?
 都知事が「これでも沖縄よりは安全なんだ!」なんて言ったら、どうしましょう……

 ここにはドデカイ、ゴルフ練習場があります(右上写真)。
 体力を持てあましている人には、これくらい広い練習場が必要なのだろうか?


 繁華街には及びませんが「福生ブランド」は健在のようで、電車に乗って訪れる若い女性の姿も見かけました。


●日食(神奈川県 等々力緑地)──7月22日(おまけ)


 46年ぶりに、日本で観測可能な皆既日食に向けての盛り上がりは、スゴイものがありましたが、残念ながら東京近郊の空は雲に覆われてしまいました。
 曇天だったため、暮らしを支えてくれる太陽に対しての畏怖(いふ)等を感じることもなく、「普段の曇り空と変わらない」としか思えなかったのは残念でした。
 ですが、たまたま雲間から顔を見せてくれた姿が、こちらとしては好都合なフィルターとなってくれたおかげで、わたしのカメラでも撮影が出来ました(これは拡大トリミングしています)。
 皆既日食の場にいないと、その意味が理解できないことをテレビ報道で理解しました。
 でも、洋上の船から見えたという、360度の水平線付近に広がる夕焼けのような光景は、ちょっと見てみたい気がしました。
 機会があれば、そんな体験をしてみたいと思ってしまいます……

2009/07/20

「トトロの森」という名の重み──狭山丘陵

2009.7.11
【東京都、埼玉県】

 関東地方は梅雨明けが発表され、連日暑い日が続いています。
 よく「梅雨明け10日」(暑さの厳しい晴れの日が続く)と耳にしますが、関東地方だけが梅雨明けという変則的な状況のせいでしょうか、今年の本格的な夏の到来は、もう少し先のようです。
 それでも、各地を襲っている梅雨末期の大雨が、関東だけは「もうありませんよ」の予報は当たっているようなので、納得できるところです。


 村山貯水池(多摩湖)(Map)(東京都)

 幼少期の体験によると思いますが、どうも「貯水池」という響きには、イコール「遠足」というイメージがあります。
 通っていた小学校から、子どもの足で徒歩1時間半程度(?)の場所に貯水池があり、歩いた覚えがありますし、この地(後述のユネスコ村を含め)も訪れた記憶があります。
 その時にどう感じたかは別にしても、「貯水池に行ったこと」は印象に残っていますから、施設の存在を記憶に焼き付けることはとても大切なことと思われます。
 通った高校が前者の貯水池の近くにありましたが、当時は近寄ろうともしませんでした。
 そんな年頃の「気分」って、何なんでしょうね? 心中までは覚えていませんが、部活のランニングにしても近寄らなかったことだけは覚えています……

 ここは1924年に完成し、東京近郊の水源のひとつとされています。
 東村山浄水場、境浄水場に原水を送水するそうですが、バックアップ用として東村山浄水場経由で朝霞浄水場及び三園(板橋区)浄水場にも送水するそうです。
 そんな送水ネットワークがあること、初めて知りました。さすがと言うか、安心な暮らしには、それだけのライフライン整備が必要なようです。

 付近一帯には、西武グループによるレジャー施設群が密集しています。
 ダム脇には西武遊園地があり、遊園地と西武球場を結んでいる、西武山口線という路線があります。
 以前は「おとぎ列車」という遊戯施設の一部でしたが、1984年から新交通システムとして再スタートしたそうです。
 車窓からゴルフ場が見えるのですが、丘陵地帯を「地形のまんま」に設定したコース(斜面に芝生を植えただけ?)には驚きました。
 プレイヤーたちは夢中でしょうから、気にならないのかも知れませんが、コースを回るだけでも「いい運動になりそうだ」と思ってしまいます……


 旧ユネスコ村(現在ゆり園)(Map)(埼玉県)

 何だか、お供えの花のようですが、花の盛りを過ぎたので入園無料の「ゆり園」から撮ると、花が少ないのでこうなってしまいます(背景は西武ドーム。試合中なので声援が響き渡っています)。
 ──話しはそれますが、現在暮らしている新丸子の中原街道沿いでは、旧盆(7月15日が中日)に「迎え火」「送り火」の風習を続けている家が多いことに驚きました。街道沿いでは、古くからの家が代々続いているようです。


 以前この場所には、ユネスコ村というテーマパーク(世界各地の家屋や建造物のレプリカを展示した施設)があり、幼少期に遠足等で何度か訪れ、大きな風車があったと記憶しています。
 時期は忘れましたが再訪したことがあり、建造物群がハリボテの子供だまし的なモノであることを知り、ガッカリした覚えがあります。

 ユネスコ村は、1951年〜1990年まで営業の後、1993年から「ユネスコ村大恐竜探検館」として再開したそうですが、それも2006年で閉館し、現在は園内の一部が「ゆり園」となっています。

 大きな風車は丘の上にあったという記憶があるのですが、こんな急傾斜地にさまざまな建物があったとは思いませんでした。
 おそらくガキの頃は、この坂を駆け上がっていたんだろうと思います。
 もう、階段を上がるだけで汗だくです……


 山口貯水池(狭山湖)(Map)(埼玉県)


 人口増加の著しい当時の東京市近郊への水源確保のため、上述の村山貯水池に隣接して建設され、1934年に完成したそうです。
 「水源地はできるだけ近場がいい」との発想はとてもよく理解できますが、ここからの供給量は限られています。
 工事中には、奥多摩湖の準備が始まっていたそうですから、おそらくここは、つなぎ的な施設として考えられていたようです。

 それでも東京近郊の水瓶と考えられていたため、二つの貯水池周辺には水源保護林が確保されており、東京近郊としてはとても貴重な、広域にわたる自然林が残されることになります。
 看板には、絶滅危惧種のオオタカも生息するとありましたから、かなりの広さがあるのだと思われます。
 裏(北)側には大学の施設もあるようなので、アプローチだけでもと足を踏み入れたのですが、水辺にありがちなホテルが並んでいるので、引き返しました……


 トトロの森(Map)(埼玉県)

 1988年公開の映画『となりのトトロ』において、舞台設定のモチーフにされたと言われる丘陵地が、この周辺になるそうです。
 ──もっと北側の、西武新宿線の狭山市駅方面であると勘違いしていました。

 付近一帯の狭山丘陵では、以前から自然環境や文化財等の保護運動が続けられていて、1990年「トトロのふるさと基金委員会」を立ち上げ、ナショナル・トラスト活動(寄付金や会費などによって森林や海岸、歴史的建造物を買い上げ、保全を行う活動)が始まったそうです。
 宮崎駿監督の賛同を得て「トトロ」の名称を使用しており、時折、宮崎さんが参加したイベントが、ローカルニュースで取り上げられていますが、組織にとっては大きな広報活動になります。
 2008年11月時点でこの団体は、所沢市内に9ヶ所のトラスト地(信託地:一定の目的に従って管理・処分を任せた土地。その合計面積は約1万5567平方メートル)を所有していて、その合計金額は約2億480万円に及ぶそうです。
 また、近くの東村山市(東京都)の雑木林を、宅地開発から守るために集められた募金を東村山市に寄付し、市側ではこの寄付金を活用して緑地を買い取ることにしたそうです(住民が「主」なのです)。
 ──近隣に、実在の地名として「八国山」の名があるそうです。映画での「七国山病院」を想起します。余談ですが、大阪府高槻市の保育施設の送迎用として「ネコバス」(デザインはちがいます)が走っていました。


 ここは、上述の貯水池の川下側にあたるので、水源地保全区域等には当たりません。
 それゆえ地元の人たちにとっては腹立たしい開発が、続けられてきたのかも知れません(それって西武批判?)。
 対象企業は他にも多数あるでしょうが、近隣住民の方々がここまでの行動を起こすというのは、とても大きな問題です。
 開発をするのは資金力のある企業になるのでしょうが、地元の人たちにも納得できるものを目指すべきで、それを放置してきた自治体に対する住民たちの「抗議ののろし」とも受け止められます。
 これは地域住民が、お金儲け側に群がっていた地方行政に対する「No !」を突きつけたことになります。

 「トトロの森」という名を利用する団体にとっては、知名度があるので応援を受けやすいと思われる反面、子どもたちの夢を育んできた「名」を汚してしまうと、リアルタイムから接してきた親世代を含めた人々にも、失望を与えることになります。
 何たってそこには、子供心を忘れられない大人(?)を含めた多くの人たちの「夢と希望」が込められているのですから……(これは応援です)


 ※「ポニョの浦」(広島県 福山市 鞆の浦)の、埋立て架橋計画問題は、何としても計画変更してもらいたいので、機会がありましたら足を運んでいただきたいのと、その率直な感想を広めていただきたい、と切に望んでおります。
 しつこいかも知れませんが、わたしはあのノスタルジックな景観を保った港を「瀬戸内海のヘソ」(最重要地域)と思っております。

 自分で書きながらも上記の文章を振り返ると、宮崎監督の問題提起は見事に伝わってきている、ことに気付かされます。
 各映画に対する評価のデコボコは横に置いといても、映画群から感じることは「信念の大切さ」なんだと思います。

2009/07/13

梅雨は恵み、と感じる──国分寺崖線、お鷹の道

2009.7.5
【東京都】

 府中刑務所(Map)


 有名な施設の割には訪れる機会のない場所で、初めて歩いたのですが(よく来る人ってどんな人?)、ここが日本最大の刑務所なんだそうです。
 収容者数が増加しているので、恒常的に定員を上回る3,000名以上の受刑者を抱えているそうです(税金からの支出が増えていることになります)。
 ですがわたしは、塀の中よりも「三億円事件(1968年)」の事件現場としてのインパクトの方が、強く残る世代に含まれます。
 訪問の動機も、当時を想起させる痕跡が何か残ってはいまいか、というものでしたが、あっさりと打ち消されました。
 近ごろ作りかえられたこの外壁(塀)には、「景観賞」なるプレートが貼られてありますし、事件現場とされる「学園通り」沿いには住宅が建ち並び、自動車の交通量も多く、自転車やジョギングの人も頻繁に行き来しています。
 いくら日本最大の刑務所とは言え「塀の外」は、庶民が暮らす空間ですから、往来を促進することで暗いイメージや記憶を払しょくし、明るい雰囲気作りから犯罪防止を目指そうとする主旨は、とてもよく理解できました。
 ──でも今回は、薄汚れたコンクリートの刑務所らしい(?)「塀」が見たかった、というのが本音です……


 上写真は、服役者の入出所ゲートになります。
 映画などで目にする、鉄の扉が開いて釈放者が「シャバ」に出てくる光景は、一般人は見ることが出来ないようです。
 左下にある「釈放者を出迎える方へ」の看板には、釈放者の家族および身元引受人以外は立ち入るな、とあります。
 シャバ(娑婆)という言葉は、仏教では「煩悩や苦しみの多いこの世」との意味になるそうです。
 塀の中の服役者が使うにしては、とても哲学的な表現に思えましたが、おそらく極刑を受けずに「この世」に戻ることができる、という安堵感を表す言葉なのではないでしょうか。

 撮影位置の背後に、ゆうちょ銀行のATM施設(現金引き出し機)がポツンと立っていて、とてもリアルな存在感がありました。
 ゆうちょに預金のある釈放者に限られますが、これぞ純然たる「利用者のための施設」です。
 古くなりますが、映画『幸福の黄色いハンカチ』の高倉健さんが、出所後に最初のビールをがぶ飲みするにも、現金が必要ですものね……
 このATM施設の強盗を考える人はいないと思われるので(監獄直行を覚悟していれば別)、最も安全な施設(?)かも知れません。


 国分寺跡(Map)

 国分寺とは、741年に聖武天皇が、当時流行した天然痘から国民を守るため、律令体制下の各国(地方豪族たち)に建立を命じた寺院で(国分寺のいわば総本山を東大寺とし、大仏を建造)、国分寺と国分尼寺(こくぶんにじ)をペアで、国府付近(武蔵国の場合は府中)に作らせたそうです(国分尼寺という存在自体、知りませんでした)。
 この地には当時、七重塔があったとされ、その礎石とされるものが残されています(右写真は金堂の礎石)。
 実家に近い神奈川県の海老名市には、相模国の国分寺があったとされ、そこにも七重塔があったと聞きます。
 五重塔は現在でも見られますが、七重塔は全国の国分寺だけに認められたもので、九重塔は天皇の権威を示すために作られたことがあるそうです(焼失)。
 仏教では、奇数が陽(偶数を陰)とされるので、奇数階層の建造物になるようです。
 ──藤原鎌足を祭った談山神社(たんざんじんじゃ:奈良県)には十三重塔があります。


 武蔵国分寺(Map)


 武蔵国分寺(門柱に刻まれた文字には迫力がある)は、規模は小さくも現存しています。
 上述の国分寺跡とされる場所にあった建造物は、鎌倉時代末期の1333年、幕府勢力と新田義貞率いる反幕府勢が衝突した、分倍河原(ぶばいがわら)の戦いにより、焼失したそうです。
 その後、新田義貞によって再建されたものが、この武蔵国分寺(真言宗)とされています。

 日本各地から集められた多様な植物群が境内に植えられ、「万葉植物園」として維持管理されているので、植物に興味のある方には楽しめる一画と思われます(わたしが見ても、特にコメントは浮かびません……)。


 真姿(ますがた)の池(Map)


 上述の武蔵国分寺の近くに「お鷹の道・真姿の池湧水群」があります。
 ここは国分寺崖線(がいせん:武蔵野台地を多摩川が浸蝕した崖の連なり)の下部から、まとまった湧水のある地域で、以前紹介した野川公園を流れる野川の源流のひとつになり、東急田園都市線の二子玉川駅付近で多摩川に合流しています。

 由来としては、玉造小町という美人がらい病(ハンセン病)を患い、国分寺の薬師様に願かけをしたところ神童が現れ「この池の水で顔を洗え」とのお告げに従ったところ、元の容貌に戻ったという伝説によるそうです。
 それだけキレイでおいしい水なので、汲みに来る方もいるそうです。環境省選定の「名水百選」に選ばれているとのこと。
 上写真も、浮かんでいる落ち葉と、右側に点々としている木もれ日の反射光以外は、池の底の光景ですから、透明度が理解いただけると思います。


 お鷹の道(Map)


 このネーミングには、色恋の絡んだエピソードがあるのかと思いきや、江戸時代に徳川家の鷹場(鷹狩りの地)だったことにちなむそうです。
 メインの水源地は、上述の真姿の池付近になりますが、同じような地形(崖線)が続くので、あちこちから湧水が流れていると思われます。
 近隣住民の方々の努力で、水路の確保と景観の保持が行き届いているので、とても落ち着いた散策路となっており、ホタルが生息しているそうです。
 観察できる時期は限られているでしょうが、それは草花や野菜を育てることと似ているように思われます。
 水は供給されるので、流れ周辺の手入れを怠らなければ、毎年見られるわけですから、湧水地付近に暮らす方々に科せられた義務であり、特権と言えるかも知れません。


 水に恵まれており、平坦な土地であったことから、国府(府中)や国分寺が置かれ、武蔵国の中心とされた理由が、とてもよく理解できました。


 殿ヶ谷戸(とのがやと)庭園(Map)

 JR国分寺駅の近くにありますが、谷戸(丘陵地の谷あいの低地)の名の通り公園内には、平面図からは見て取れない高低差が存在しています。
 たかだか10数mの高低差にしても、初めての訪問なのでウロウロと何度も上り下りさせられると、この日の疲れが一気に足にきてしまいます。
 ここは、大正初期に江口定條(さだえ:三菱→満州鉄道副総裁)の別荘として整備され、昭和に岩崎家(三菱財閥)の別邸とされたそうです(施設名の由来は旧地名によるそうです)。

 右写真の花の脇に、カワラナデシコの立て札があり、子連れのお母さんも「ナデシコだよー」と、子どもに話していました。
 花にはうといものの、最初に思い浮かんだ「キキョウじゃない?」の印象を帰ってから調べたら、やはりそのようです。

 奧に見える建物は、紅葉亭という茶室で、岩崎家の所有時に作られたそうです。
 現在は青葉ですが、手前にはカエデ等の紅葉する木々があるので、晩秋の季節には見事な光景が目にできそうです。

 この地の斜面下にも湧水個所があり、庭園の池に流れ込んでいます。
 同じ湧水とはいえ、池にしてコイなどを放しては水の清らかさは失われてしまいます。
 庭園設計においての水盤というデザインだったり、海を想起させる存在がよろこばれたのでしょうか?
 もしわたしが、キレイな湧水のある庭を持ったなら、池は作らず流れるままにして、ホタルが生息できる環境を保ちたい、と思ったりしました。


 いまどきの七夕の短冊は、発色も鮮やかなビニール系の素材を使った、カラフルなものなんですね。
 確かに、色紙の短冊に願いを書いていた時分、雨に濡れたりすると、色紙の染料まで流れ落ちてしまったのは、悲しいものがありました。
 七夕の晩には、天の川は見えずとも夜空は見えていたので、子どもたちもお願いはできたのではないでしょうか……

2009/07/06

冷し中華の季節──府中基地跡、府中の森公園

2009.6.27
【東京都】

 晴れると30℃を超え、雨が降れば25℃以下という近ごろですから、体調管理にはお気をつけ下さい。でももうじき、逃げ場のない暑い空気に覆われます……
 この日は梅雨の中休みの晴天で、関東地方はかなり暑い一日でした。
 そんな時には、のどごしに涼しさが欲しくなりますが、目に入ってくる「冷し中華 始めました」のポスターには、オアシスを見つけたような救いを感じてしまいます。
 期待している味は、醤油ベースのつゆ+お酢+マスタードで、残ったつゆを「酸っぱい+辛い」表情で飲みたいという、妙な食欲がわくのですから、食欲が減退するこれからの季節には、もってこいのメニューと思われます。
 年をとるごとに、汗をかいたりすると「酸味」が欲しくなるようで、それは補給後に「ホッ」と、体が落ち着いたと思える瞬間に実感したりします……


 府中基地跡(Map)

 「府中」という地名は、「国府所在地」(奈良・平安時代に、律令国の国司が政務を行う施設が置かれた地)を指すものなので、日本各地に存在しています(甲府は甲斐府中の略等々)。
 大化の改新(645年:飛鳥時代)により、武蔵国(无邪志と表記されているそう)の国府がこの地に置かれたので、関東の中心地として栄えたようです。
 当時の関東には、武蔵国足立郡(東京都足立区と埼玉県東南部)、武蔵国埼玉郡笠原郷(埼玉県鴻巣市)、武蔵国入間郡(埼玉県入間市)付近に国造(くにのみやつこ)といわれる豪族の本拠がありましたが、争いが絶えなかったので、そんな地を避けてここに武蔵国の国府が置かれたそうです。
 また、鎌倉時代には鎌倉街道(上道:かみつみち)が南北に、江戸時代には甲州街道が東西に整備されたそうですから、かなり古くからにぎわっていた土地になるようです。



 この地訪問の動機とは、前回紹介した「廃虚めぐり」の関連サイトにて、現在も残されているとの情報を見つけたので「是非とも!」と足を運びました。
 管理に必要な道路等の整備は行われていますが(敷地内を走る車がありました)、建造物に関しては手を加えてないようで、左の建物は使用されなくなった当時のままのようです。
 この状況下で、鉄塔や、パラボラアンテナだけが草木に覆われていないのは不自然な訳ですから、メンテナンスされていることと思われます。
 敷地北側では区画がとても入り組んでいて、民家の軒先をかすめるようにフェンスが張られています。
 基地建設時に家屋があったなら、こんな立ち退きはさせないでしょうから、おそらく住宅の方がギリギリまで攻めていったように見えます。
 住宅のすぐ隣に、廃虚となって木々に覆われた米軍の施設がある様子は、奇妙なコントラストを生み出していました。


 府中の森公園(Map)

 この公園の名称はローカルニュースなどで、水遊びをする子どもたちの映像と共に印象に残っていました。
 また「府中の森芸術劇場」の名も耳にしたことがあるかと思われますが、他にも「府中市美術館」「生涯学習センター」等が、公園に併設されています(隣接して航空自衛隊の施設および官舎があります)。
 この一帯は以前、府中基地に使用されていましたが、返還後の再利用計画により現在に至っています。
 ──わたしにはこれまで、府中基地があったという認識がありませんでした(知っていたのは調布と立川)。

 府中基地は1939年に、陸軍燃料廠(しょう)として設置されました。
 この「燃料廠」とは、石油資源を持たない日本が長引く戦争に備えるため、航空・自動車燃料等の自前調達を目指した施設なんだそうです。
 ここでは、石炭からの人造石油精製(石炭に油が残っているとは知りませんでした)や、原油からの燃料抽出量向上等の研究が行われたそうですが、成果は上がらなかったようです。
 何とも涙ぐましい努力というか、追いつめられた国家は何をしでかすか、理解や予測も不可能になってしまいます(北朝鮮を想起しました)。
 しかしそんな事態は、燃料資源(石油類)を自給できない日本が、資源を求めて第二次世界大戦へと突入してしまうひとつの理由となります。
 ──敷地内にある自衛隊基地のホームページには「官民あげての技術開発は、戦後のわが国の重化学工業の発展に大きく貢献しました。」とあります。化学には明るくないので理解できていませんが、おそらく無駄ではなかったのでしょう……

 戦後は米軍に接収され、在日米軍司令部と空軍司令部が設置され、1975年横田基地に移転するまで使用されていたそうです。
 返還後、かなりすったもんだがあったようですが、跡地は大蔵省(現関東財務局)、地方自治体(東京都)、防衛庁(現防衛省)で分割して利用することになったそうです。
 元からあった自衛隊の施設はそのまま存続し、自治体割り当て地域には学校やこの公園施設、霊園等が作られましたが、旧大蔵省分の土地は現在も手つかずのまま、塩漬けにされています。
 そのシンボル的な存在が、アンテナ群です。
 敷地内に残されている建物の多くは、植物に覆われて廃虚感を漂わせていますが、どうもこの施設はまだ稼働しているようです。
 同時多発テロ(2001年)以降、ゲートを警備していたそうですから、米軍の活動を補佐しているのかも知れません。

 ──子どもたちの水遊びの写真につける文章ではないとは思いますが、「右写真の女の子可愛かった」などと書いては主旨が変質してしまいます……


 浅間山(せんげんやま)(Map)

 この写真からは、映画等でみられる、敵のレーダー施設の破壊に向かうような状況を思い浮かべてしまいます(前写真と同じものの別アングル)。
 ──しゃがんで撮りましたし、虫にも刺されました……


 こんなところに「山」と呼ばれる場所があったとは知りませんでした。
 どうもこの一帯だけ、大昔の多摩川の流れに浸食されずに残された場所なので「山」という名称になっているようです(周囲からは30m程度の高さ)。
 山の頂には浅間神社(せんげんじんじゃ)が祭られていますから、富士山信仰との関連が想像されます。
 浅間神社は火之神を祭った、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本宮とする神社で、日本全国に約1300社あるそうです。
 ほこら付近からは望めませんが、展望所とされる場所では、富士山方面の視界は整備されて(切り開かれて)います。
 残念ながら、この日は拝むことができませんでした。

 古神道(こしんとう:神道の源流である日本古来の信仰)には山岳信仰の要素が含まれますし、仏教にも山に対する畏敬の念が示されています。
 「山を拝む」という信仰心を理解できるわれわれだからこそ、他国からは不信心等と言われながらも、信仰の多様性(自由)に関して寛容でいられるようにも思われます。

2009/06/29

安心な「翼をください」──調布飛行場周辺

2009.6.20
【東京都】

 調布飛行場は現在も、伊豆諸島(大島、新島、神津島)向けのコミューターが発着する空港として機能しています。
 一度くらいは利用したいと思うものの、結局「のんびりとフェリーで」を選んでしまうので(近ごろは高速船もあるそう)、まだ実現していません。したがって、ここは初めての訪問になります。
 東京にある空港にしてはローカル色が漂っていて、とてものんびりとした印象があります。
 とは言え、当然ながらその周囲は市街地に囲まれているので、「ジェット機の騒音に比べればまだマシ」という比較ではなく、「飛行機は落ちるもの」という危険性においては、厚木基地や沖縄の普天間基地周辺と変わりません。


 味の素スタジアム(東京スタジアム)(Map)

 以前と言っても、かなり古い記憶からの引用(1970〜80年代)になりますが、甲州街道を八王子方面に向かい、調布インターを過ぎた右側には、高い並木が壁のように続いている場所がありました。
 その木々のすき間からは、日本ではあり得ない(米軍住宅でしか見られない)ような、まぶしい緑のじゅうたんが見えた記憶があります。
 後述しますが、その木々の奧には旧米軍家族居住区の「関東村」があったそうで、返還後に並木の中ほどを切り開いてスタジアムが作られました。

 現在、サッカーのFC東京や、東京ヴェルディの本拠地になっており、最寄り駅は京王線の飛田給(とびたきゅう)になります。
 以前は周囲に何もないローカルな駅だったのですが、スタジアム効果で立派な駅になっていました。
 この飛田給の名称は、むかし、荘園の領主から民衆に給与した田畑を給田(きゅうでん)といい、この周辺の領主が飛田姓だったため飛田給田地から、飛田給となったそうです。
 世田谷区にも給田の地名があり、気になっていました。


 近ごろはやりの命名権(ネーミングライツ)契約により、競技場等の名称を貸与することで運営の助けとなるのであれば、運営会社にはとても有り難い収入源になると思われます。
 確かにこの名称は、スポーツニュース等でよく耳にするのでなじみつつあると思われます。

 命名権絡みで話が飛びますが、歴史も長い施設である渋谷公会堂(1964年東京オリンピックの重量挙げ競技の会場だったそう)を、突然「C.C.Lemonホール」などと言われても、「新しい施設ができたのか」くらいにしか思えないのではないでしょうか?
 黄色い広告に覆われたたたずまいを目にして、「ネーミングライツ契約とはこういうことなのね」と、これまでの記憶が「Paint It Yellow !(黄色に塗りつぶせ)」という思いがしました(契約料年間8000万円、契約期間は2006年10月1日からの5年間)。
 自治体(渋谷区)の考えも確かに理解できるところですが、でもわれわれの記憶はいくら積み上げても「お金にならない」と否定されたような、裏切られたような印象を受けてしまいます。
 ──渋谷区ではこれ以外にも、公衆トイレの命名権も募集しているそうです。「○○トイレの前を右折です」などと目立つような、ド派手な施設になるのだろうか?


 調布飛行場(Map)


 飛田給の駅を降りたときから、「ブルルルルー」というプロペラ機のエンジン音が聞こえ、ジェット機が発着できない離島の小さな空港に来たような「懐かしさ」が感じられます。
 ジェットエンジンと比べると、あのプロペラ機の「羽音(と表現したくなる)」からは、とても暖かみが感じられる気がします。
 滑走路の端には下写真のような丘があり、ベンチが設置されています。
 日照りの時は暑そうですが、この時間のような曇天のなら、いつ出入りするか分からないプロペラ機の発着を眺めるのは、羽田空港の慌ただしい飛行機の列を見るのとは違い、のんびりと落ち着いて見学できるように思われます。


 付近では過去に、上記のようなことを書いては怒られそうな事故(1980年に中学校の校庭に飛行機が墜落)もあり、「調布飛行場を考える市民の会」では、騒音、ストレス、危険性等から、早期閉鎖を訴えています。
 離島に向けた行政サービスである、都営コミュータ空港の役割としての緊急時の支援や救命活動等よりも、つり竿やゴルフバックを持つ客が目立つばかりで(わたしも利用したいと考えています……)、地元には何の利益もないとの主張です(緊急活動が多いのも困りますが)。
 都営コミュータは必要と思われますが、島民側からしても行き先は羽田の方がはるかに便利なわけで、どんな理由でこの場所に空港が必要と考えているのか、聞いてみたい気がします(都知事は「羽田はお金を稼ぐ施設」なんて言いそうな気がします)。
 ──ずっとむかしに関わりのあった、航空測量関連の施設(航空写真を撮るための飛行機および資材)を置くための空港は必要に違いないのですが……

 ここは、1941年に軍民共用の飛行場として開設されましたが(大規模な立ち退きを強いられたと看板にありました)、第二次世界大戦に突入すると、東京に飛来するB-29爆撃機などの迎撃に向かう戦闘機が飛び立ったそうです。
 当然、戦後はアメリカに接収されますが、現在のグラウンドや大学施設のある西側地域は、水耕農場(人糞堆肥を使用しない)とされ、「衛生的野菜」の生産場となったそうです(とても威圧的な表現で、カチンときます)。
 その後、代々木にあった米軍家族の居住施設を、東京オリンピックの選手村に使用するため、1965年にその代替施設としてこの場所に「関東村」が作られました(元居住者たちのコミュニティサイトもあるそうです)。
 関東村は1973年まで使用され、返還後は2000年頃に完成した現在の大学施設等が作られるまで、塩漬けにされていたそうです。
 ──きっとその塩漬けの期間に、甲州街道脇の「高い並木が壁のように続く」風景を横目に走っていたんだと思います。

 調べているうちに、その塩漬け期間の廃墟を警備していた人と、廃墟が撮りたくて不法侵入して追い出された人が、10数年後に連絡を取り合ったという、面白いサイトを見つけたのでアドレスを紹介します(http://www.tomosakata.com/kantomura1.htm)。


 野川公園(Map)

 ここは調布飛行場の北側にあたり、この日の気象条件から、飛行機は公園の上空をかすめるように着陸していました。
 立派な木の多い公園なので視界が開けず、低空で飛ぶ羽音(エンジン音)だけが響いてくると、やはり不気味な印象を受けます。
 公園の入り口付近に、幕末期に新選組局長として名をはせた近藤勇生家跡とされる一画があります。

 結局こんな写真しか撮れなかったのですが、木立と芝生が交互にある公園なので、以前はゴルフ場では? と思っていたら、国際基督教大学(ICU)所有のゴルフ場だったそうです。
 大学がゴルフ場ですか、とも思ったのですが、設立にはマッカーサーも尽力したそうですから、その経緯も見えてきますよね。
 国際基督教大学の敷地には、第二次世界大戦まで「東洋一」と言われた中島飛行機(戦後解体され、富士重工業、プリンス自動車工業等に分割)の研究施設があったそうで、東京ドーム13個分もの広さになるそうです。

 右写真の足元に広がる、木々に覆われた落ち葉地帯はふっかふかの感触で、こんな状態になるまで何十年かかるのだろう? と思われるような「腐植土を育てよう」とする意志が感じられます。
 いたるところに枯れ葉や枝を積み上げる区画を見かけましたし、そんな公園側の方針はしっかりと伝わって来ました。
 ここに落とし穴を作られたら見事にはまりそう、と思いながらも、ふかふかの落ち葉がクッションになって、落ちても痛くなさそうな印象もあります。
 でも、ニオイはキツそうですが……
 ここでは、当たり前のようにクワガタムシが見られるそうです(そうでしょうねぇ!)。
 今どきでは、そのように守られている森の近くに暮らす子どもたちを「恵まれた環境に育った」と表現するのかも知れません……
 もう都内には残されてないと思われますが、閉鎖されたゴルフ場があったなら、このような有効利用を目指しませんか?!