2010.8.21
【東京都】
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よみうりランド(Map)
先日の旧向ヶ丘遊園とは近接していましたが、当時のすみ分けとして、庶民のガキが行く向ヶ丘と、少しませたガキが行くよみうりランドという印象がありました。
そんな戦略が功を奏し、よみうりが生き残ったと思っていましたが……
よみうりランドが、遊園地・ゴルフ場・読売ジャイアンツ球場・ヴェルディグラウンド等を運営していることは知ってましたが、競馬場(川崎・船橋)やオートレース場(船橋)等の運営会社(旧川崎競馬倶楽部)が母体だったとは驚きました(公営化されても施設運営を行っているそう)。
新聞社がギャンブル関連会社に出資することは、渡辺恒夫(ナベツネ:政財界に太いパイプを持ち暗躍したとされる)がトップにいても問題視されないことと、同じくらいうさんくさく感じられます。
よみうりが取り組んできたスポーツ振興事業(若年層の育成等)とは、社会貢献という皮をかぶった、笹川良一の船舶振興会ばりのカモフラージュのように思えてきます。
そこで思い出したのが、むかし子どもの好きなモノとして「巨人・大鵬・卵焼き」と言われたことを、大鵬関は「お金を使って強くなったチームと一緒にしないで欲しい」と憤慨していたインタビューです。
努力一筋に歩んできた人だけに、巨人の背景に見え隠れするうさんくささとは、一線を画したいと考えたのかも知れません。
それにしても、日本人が精神的に弱くなりつつあることを、近ごろの相撲界は見事に暴露し、日本人力士が横綱になれない訳を、受け手側が想像しながら理解できるよう、言葉少なに説明してくれます……
隣接するジャイアンツ球場では、イースタンリーグの巨人vs楽天戦が行われています。京王よみうりランド駅からは、283段ある「巨人への道」なる階段を登るそうです。
以前、同駅からのアクセスには、長〜いエスカレーター(スカイロード)がありましたが、現在はスカイシャトル(ロープウェイ)が運行しており(共に有料)、この写真はそのゴンドラから撮ったものです(夏のゴンドラ内はご想像の通りサウナ状態です)。
ガキの時分は小田急沿線に住んでいたので(小田急線読売ランド前駅からバス)、その長〜いエスカレーターに乗る機会が無く、あこがれていたことを思い出します。
庶民的な向ヶ丘遊園派のため、多く来た印象はないのですが、地形の起伏も含めて、敷地はこんなに狭かったかと驚きました。
現在ではそれを逆手に取り、スカイシャトル等の高さを利用した立体感の演出により、起伏のある立地が生かされてると感心しました。
写真右の、最も大きなコースター「バンデット」と、下写真の木造コースの「ホワイトキャニオン」は共に、整備のため休業中でした。
夏休み期間中の土曜日に、目玉と思われる2大コースターがそろって休業とは、乗るつもりはなくてもちょっと驚きです。
無理して事故を起こすよりも、万全な状態で営業してもらうことが一番です。
夏は遊園地よりプールのかき入れ時ですから、人員をプールに回しているのかも知れません。
プール施設は、外部からシャットアウトされていて、のぞくこともできませんが、かなりの人出があるようです。
ここのプールは「流れるプール」のはしりだったこともあり、当初は「向ヶ丘遊園のプールは流れない」と文句を言ってたような気がします。
半分逆光だと水アメ細工のようにも見えますが、もう少し建築物としての美しさがあるかと思ったものの(わたしの観察力が足りないのか?)、事故は起こせない使命感から「ガッチリ建てましょう」と、強度が必要な個所に様々な筋交いが入れられているようです。
施設全般のイメージが以前とは違いすぎるので調べてみると、飽きられないようにリニューアルを繰り返したようで、営業終了した施設の中にむかしの印象を見つけました。
・水中バレエ劇場
水槽の中で人魚か竜宮城かという舞いを、見てみたいと焦がれていました。
・モノレール
園内を周回する施設のイメージは、いまの東京ディズニーランドか?
・アイススケート場
へたっぴでは(入れなかった気もする)滑るのも気後れしそうな、高速スケーターがとばす400mトラックリンクがありました(小学生時代の大会で優秀な成績を残した友人はそこで練習したそうです)。
変化し続ける施設が目指すものは、来場した「その日」を印象に残すことなのでしょう。でも今回の場合は、関心あっての訪問でも思い出までは作れなかったので、記憶に生き続けるのはガキのころの印象になるのだと思います……
今どきの乗り物って、逆さの状態で静止するんですね。
それって恐怖感とかじゃなくて、人をいたぶるような「非日常体験施設」との印象があり、「いいセンスとは思えない」と書きたくて撮りました。
上写真を撮ろうと運転開始をベンチで待っていると、ニコニコ笑顔の可愛らしい30歳前後と思われる女性2人組が、周囲には目もくれない様子で歩いていく姿を目にしました。
しばらく時間は空いたのですが、次のアトラクション(?)で彼女たちと再会します。
女性もバンジージャンプで飛び降りるんだ、と思っていたら、先ほどの「ニコニコ笑顔」の彼女でした。
飛び降りて、ベルトを外してもらった途端、興奮して手が付けられない子どものように、ケラケラ笑い転げてしまい、周囲が引いてしまうような状態でした。きっと普段は分泌されない、物質が出ちゃったんでしょうね。
その姿を目にして、彼女は発散するためにここを目指していたんだと、先ほどの期待に満ちた表情を理解できた気がしました。
わたしはNGですが(年と共に高所が苦手になりました)、男が飛ぶ時って、見栄や勢いという気がしますが、女性にはそんな「ストレート」な飛び方があるのかと、ちょっと怖く感じます。
彼女の相棒はそれほどストレスがないのか、カメラを構えた手がしびれるくらい台の上でためらっていました。
それでも落下後は、爽快そうな表情で立ち去っていきましたから、クセになるのかも知れません。
上の写真は、その後に飛んだお母さんですが、何のためらいもなく飛んでいました(下から見上げる子守のお父さんの方がビビッてるようでした)。
わたしが見ている間に飛んだのは女性ばかり(4人)ですから、ストレス発散の荒技として紹介すれば、もっと流行るのかも知れません。
でも、彼女や奥さんに「これからちょっと飛んでくるわ」とか言われると、そんなにたまってるのかと、ビビッてしまいそうです……
2010/08/30
2010/08/23
鉄橋のあったころ──登戸
2010.8.7
【神奈川県】
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川崎市の多摩川に面した地域には、暴れ川とされた多摩川の氾濫原(はんらんげん:洪水時に河道が氾濫する範囲の平野部)が広がっており、以前は農耕地に利用するための用水路が、網の目のように整備されていました。
現在は下水路とされ、簡易的なフタをした歩道が、住宅地とされた合間をぬうように残されています。
コンクリート板のフタが安定しない場所を踏むと「ゴン!」と傾くところに、自治体のいい加減さというか、多すぎて手の回らない状況がうかがえます。
久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)(Map)
ここは、多摩川から取水した二ヶ領(にかりょう)用水を各地域に分配する、久地円筒分水という施設です。
二ヶ領用水は江戸時代(1611年)に完成し、この一帯では「稲毛米」とされる上質な米が作らたそうです(ガキ時分の印象である果実類の農地は、転作後の光景になります)。
むかしから、農耕を主ななりわいとして生活してきた民族ですから、水をめぐる争いが絶えなかったことは、容易に想像できます。
江戸時代にも分水施設はありましたが、その配分率に納得できない農民たちの騒動が絶えなかったそうです。
1941年(昭和16年)に作られたこの施設は、円形のわき出し口から4方向に分流する先の灌漑面積に応じた比率を、円周の角度で分水しています(上写真で、3方向に分水されているのが分かりますが、それ以外は4番目のメインとなる水路に流されます)。
角度を測った人もいたと思われる、誰が見ても納得できるようにディスプレイしたところが画期的と思います。
また二ヶ領用水はこのすぐ手前で平瀬川とクロスする際(一部平瀬川に合流)、平瀬川の下をくぐってここにわき出させています。
現在は国の登録有形文化財とされますが、もう水争いをする農地は残されておらず、周辺住民の憩いの場(桜の名所が多くある)という役目に変わりました。
以前水路に沿って歩いたことがありますが、近所の水路は下流のJR南武線鹿島田駅付近で下水に流されているのを目にし、「それはないだろ!」とガッカリしたことがあります……(きれいな水ではないので、仕方ないか)
旧向ヶ丘遊園(Map)
「何これ?」という、記憶に訴える類の写真なのですが、分かる人もいるのでは? 旧向ヶ丘遊園の、入口正面にあった白い階段の現在の姿です。
てっきり入れると勘違していて、完全な企画倒れとなりました。
遊園地の営業は2002年終了しますが、名所とされる「バラ園」だけは、川崎市が近くにある生田緑地の一部とすることで、管理を引き継ぎました。
そこだけなら入場可能と思っていましたが季節限定だそうで、この時期は完全に閉鎖されていました。
もうモノレールの軌道も撤去され、記憶をたどるきっかけすら無くなっていました(ガキ時分には、夏はプール、冬はスケートとよく通いました)。
手前のシート部分では「藤子・F・不二雄ミュージアム(仮称)」の建設が進められています。「ドラえもん」なら受けるとは思うも、通りやすそうな企画書を出したものだ、とも。
ちゃんと調べずに「あの階段を登るぞ」と気合い入れてもね……
登戸(Map)
ようやく完成(2008年)した印象のある、複々線の小田急線多摩川橋梁です(登戸〜向ヶ丘遊園駅の下り線は未完成)。
以前、鉄道の橋は鉄橋と決まっていたので、小田急沿線に住んでいたころは、眠りこけていても鉄橋を渡る音で「登戸だ」(まだ寝られる)と察知できたものでした。
今どきはコンクリートの橋になってしまい、どこを走っているのか判別できません。
計画当初はすごい橋ができそうだと思っていましたが、気付いてみれば、東横線や田園都市線はすでに複々線の橋が架けられてますから、小田急には連続複々線化工事(代々木上原〜向ヶ丘遊園)の成果として、混雑率の改善で驚かせてもらいましょう(でも、ラッシュ時の小田急線に乗って確認したくないなぁ。混雑するとされる東横線でも、小田急には及ばないと感じます)。
川岸からのんびり眺めていると、ロマンスカー(全席指定の特急車両)の種類が増えたのと、土曜日のせいか本数が多いことに驚きました。
ガキの時分には、オレンジ色の2型式しかなかったのですが、ミュージックホーン(パン、パン、パン、パ〜ン♪)が聞こえると振り向いたものです。
近ごろは騒音とされるらしく、市街地では鳴らさないそうですから、いまの子どもたちは静かにロマンスカーを見送っているのだろうか?
以前は、休日の多摩川に浮かぶボートがとても楽しそうに見えましたが、この日は川面に浮かぶボートはありません。
炎天下の川岸では、釣り人も橋の下の日影に集まりますから、ボートをこぎ出すには勇気が必要です。夏場の貸しボート屋は、商売にならないでしょうね。
今どき「多摩川でボート乗ろう!」なんてデートは流行らないようですが、アベックが乗る手こぎボートには、純朴な可愛らしさが感じられました。
そんな鉄橋のあったころを振り返ってみると、鉄橋ってスカスカなので日よけにならないし、雨宿りもできなかったことを思い出します(あの騒音をよろこんでいたのか?)。
それに比べ、コンクリートの橋の下は居住性がいいので、自宅近くの橋の下にはホームレスが寄りついてしまいます。
子どもの脅しに使われてた「お前は橋の下で拾われて……」も、ピンとこなかったのでしょう、川へ行くと橋の下で遊んだ記憶があるので、ホームレスの気持ちも理解できる気がします(バーベキューの連中にも通じるのか?)。
川岸には、昔ながらのバラックの飲食店が健在です。
何だか、川沿いを走ってきた自転車乗りのオッサンたちのたまり場になっていました。
河川敷(堤防の内側)への新たな出店は認められないようで、二子多摩川の店が堤防工事で撤去された現在、多摩川沿いで存続する店はここの3軒だけかも知れません。
付近の花火大会は1985年で打ち切られたそうです(見に来た覚えある)。
理由はあるにしても、花火大会がなくなってしまうと、地元住民の元気も奪ってしまうような気がしてなりません……
2010.8.15
丸子日枝神社(ひえじんじゃ) 山王祭(Map)
土曜日の午前中、近所の丸子日枝神社「山王祭」の「ピーヒャラ」「ワッショイ」というにぎやかな様子に目を覚ましました。祭り自体は前日の金曜日から始まっていたそうです。
8月13日(金)が宵宮(前夜祭)、14日(土)が例大祭、15日(日)が大神輿渡御(おおみこしとぎょ:巡行)との日程ですから、「子ども神輿の後に、大人の神輿が通ります」などという、自治会的なイベントではありません。
担ぎ手たちは気合いの入ったいでたちで「粋さ」をアピールしますし、各町内に「休憩所」が設営され、担ぎ手たちをねぎらう準備が整えられます。
現在の新丸子周辺の土地柄(通勤に便利なため、古くからの家をマンションに建て替える家が多い)ゆえ、マンションの入口に下写真のちょうちんが下げられたりします(ここは道を挟んだおとなりさんの建物で、ここも建て替え準備をしているようです)。
日枝神社とは、比叡山麓にある日吉大社から分祀された神社の社号になります(日枝は比叡山の旧名にあたる)。
809年に、桓武天皇の孫に当たる兄弟が、東方地域を治めるためこの地に「丸子山王権現」を開き、大山咋神(おおやまくいのかみ:山王様)と、大物主神(大国主神:出雲神話に登場する大地を象徴する神)が祭られます。
神輿のルーツとされる「日吉型渡御祭」(ここでも行われる神輿を激しく振る様式)は、豊作や大漁を願う庶民の流儀で、元は天皇の行幸を模した「王朝型神幸祭」とされるそうです。
「渡御」には、水のみそぎを受けるイメージがあるので、以前は多摩川に入っていたのかも知れません(現在は行われない)。
近ごろは担ぎ手も、見る側も「目立つ部分」に目を奪われがちですが、海外の方には「神輿=Portable Shrine(持ち運び可能な神社)」と、説明されているそうです。
その表現の方が本質を示しているように思えますし、その理解からは、迫力はあっても「何て野蛮な人種だろう」(エスニック:民族特有の習慣 とは、こんな時に使われる表現なのでしょう)と思われているかも知れません。
でも、老若男女が「神様お願い!」(テンプターズを想起してしまうわたし)と大騒ぎする姿にこそ、わたしたちのアイデンティティがあるのかも知れない、とも思います……
P.S. 夏の甲子園で、沖縄の興南高校が春夏連覇しました(東海大相模は地元なので、双方応援していました)。
ウチナー(沖縄人)へのエールのつもりで、意見を書かせてもらいます。
彼らは、さぼらなかった、のだと思います。
それができれば、ナイチャー(本土人)に負けないことを彼らが証明してくれた、と考えていいのではないかと思います。
ウチナーの人たちは、さぼり癖(失礼)を克服すれば(あくせく動き回れの意味ではない)、ポテンシャルは高い人たちと思うので、球児たちの快挙を自分たちに置き換えて、自信を持って立ち上がるべき時ではないかと思います。
米軍基地の問題はもはや、やる気のないナイチャーに任せるのではなく、自分たちでコツコツと活動していかないと、いつまでも「なめられたままの存在」に甘んじることになってしまいます(ナイチャーとしてもあきれました)。
ちょっと過激ですが、琉球が独立したら国籍を変えようかしら、と思ったりもします。
それは、日本で最も平和を求めている地域のひとつだと思えるから……
いい機会と思い書きました。
【神奈川県】
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川崎市の多摩川に面した地域には、暴れ川とされた多摩川の氾濫原(はんらんげん:洪水時に河道が氾濫する範囲の平野部)が広がっており、以前は農耕地に利用するための用水路が、網の目のように整備されていました。
現在は下水路とされ、簡易的なフタをした歩道が、住宅地とされた合間をぬうように残されています。
コンクリート板のフタが安定しない場所を踏むと「ゴン!」と傾くところに、自治体のいい加減さというか、多すぎて手の回らない状況がうかがえます。
久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)(Map)
ここは、多摩川から取水した二ヶ領(にかりょう)用水を各地域に分配する、久地円筒分水という施設です。
二ヶ領用水は江戸時代(1611年)に完成し、この一帯では「稲毛米」とされる上質な米が作らたそうです(ガキ時分の印象である果実類の農地は、転作後の光景になります)。
むかしから、農耕を主ななりわいとして生活してきた民族ですから、水をめぐる争いが絶えなかったことは、容易に想像できます。
江戸時代にも分水施設はありましたが、その配分率に納得できない農民たちの騒動が絶えなかったそうです。
1941年(昭和16年)に作られたこの施設は、円形のわき出し口から4方向に分流する先の灌漑面積に応じた比率を、円周の角度で分水しています(上写真で、3方向に分水されているのが分かりますが、それ以外は4番目のメインとなる水路に流されます)。
角度を測った人もいたと思われる、誰が見ても納得できるようにディスプレイしたところが画期的と思います。
また二ヶ領用水はこのすぐ手前で平瀬川とクロスする際(一部平瀬川に合流)、平瀬川の下をくぐってここにわき出させています。
現在は国の登録有形文化財とされますが、もう水争いをする農地は残されておらず、周辺住民の憩いの場(桜の名所が多くある)という役目に変わりました。
以前水路に沿って歩いたことがありますが、近所の水路は下流のJR南武線鹿島田駅付近で下水に流されているのを目にし、「それはないだろ!」とガッカリしたことがあります……(きれいな水ではないので、仕方ないか)
旧向ヶ丘遊園(Map)
「何これ?」という、記憶に訴える類の写真なのですが、分かる人もいるのでは? 旧向ヶ丘遊園の、入口正面にあった白い階段の現在の姿です。
てっきり入れると勘違していて、完全な企画倒れとなりました。
遊園地の営業は2002年終了しますが、名所とされる「バラ園」だけは、川崎市が近くにある生田緑地の一部とすることで、管理を引き継ぎました。
そこだけなら入場可能と思っていましたが季節限定だそうで、この時期は完全に閉鎖されていました。
もうモノレールの軌道も撤去され、記憶をたどるきっかけすら無くなっていました(ガキ時分には、夏はプール、冬はスケートとよく通いました)。
手前のシート部分では「藤子・F・不二雄ミュージアム(仮称)」の建設が進められています。「ドラえもん」なら受けるとは思うも、通りやすそうな企画書を出したものだ、とも。
ちゃんと調べずに「あの階段を登るぞ」と気合い入れてもね……
登戸(Map)
ようやく完成(2008年)した印象のある、複々線の小田急線多摩川橋梁です(登戸〜向ヶ丘遊園駅の下り線は未完成)。
以前、鉄道の橋は鉄橋と決まっていたので、小田急沿線に住んでいたころは、眠りこけていても鉄橋を渡る音で「登戸だ」(まだ寝られる)と察知できたものでした。
今どきはコンクリートの橋になってしまい、どこを走っているのか判別できません。
計画当初はすごい橋ができそうだと思っていましたが、気付いてみれば、東横線や田園都市線はすでに複々線の橋が架けられてますから、小田急には連続複々線化工事(代々木上原〜向ヶ丘遊園)の成果として、混雑率の改善で驚かせてもらいましょう(でも、ラッシュ時の小田急線に乗って確認したくないなぁ。混雑するとされる東横線でも、小田急には及ばないと感じます)。
川岸からのんびり眺めていると、ロマンスカー(全席指定の特急車両)の種類が増えたのと、土曜日のせいか本数が多いことに驚きました。
ガキの時分には、オレンジ色の2型式しかなかったのですが、ミュージックホーン(パン、パン、パン、パ〜ン♪)が聞こえると振り向いたものです。
近ごろは騒音とされるらしく、市街地では鳴らさないそうですから、いまの子どもたちは静かにロマンスカーを見送っているのだろうか?
以前は、休日の多摩川に浮かぶボートがとても楽しそうに見えましたが、この日は川面に浮かぶボートはありません。
炎天下の川岸では、釣り人も橋の下の日影に集まりますから、ボートをこぎ出すには勇気が必要です。夏場の貸しボート屋は、商売にならないでしょうね。
今どき「多摩川でボート乗ろう!」なんてデートは流行らないようですが、アベックが乗る手こぎボートには、純朴な可愛らしさが感じられました。
そんな鉄橋のあったころを振り返ってみると、鉄橋ってスカスカなので日よけにならないし、雨宿りもできなかったことを思い出します(あの騒音をよろこんでいたのか?)。
それに比べ、コンクリートの橋の下は居住性がいいので、自宅近くの橋の下にはホームレスが寄りついてしまいます。
子どもの脅しに使われてた「お前は橋の下で拾われて……」も、ピンとこなかったのでしょう、川へ行くと橋の下で遊んだ記憶があるので、ホームレスの気持ちも理解できる気がします(バーベキューの連中にも通じるのか?)。
川岸には、昔ながらのバラックの飲食店が健在です。
何だか、川沿いを走ってきた自転車乗りのオッサンたちのたまり場になっていました。
河川敷(堤防の内側)への新たな出店は認められないようで、二子多摩川の店が堤防工事で撤去された現在、多摩川沿いで存続する店はここの3軒だけかも知れません。
付近の花火大会は1985年で打ち切られたそうです(見に来た覚えある)。
理由はあるにしても、花火大会がなくなってしまうと、地元住民の元気も奪ってしまうような気がしてなりません……
2010.8.15
丸子日枝神社(ひえじんじゃ) 山王祭(Map)
土曜日の午前中、近所の丸子日枝神社「山王祭」の「ピーヒャラ」「ワッショイ」というにぎやかな様子に目を覚ましました。祭り自体は前日の金曜日から始まっていたそうです。
8月13日(金)が宵宮(前夜祭)、14日(土)が例大祭、15日(日)が大神輿渡御(おおみこしとぎょ:巡行)との日程ですから、「子ども神輿の後に、大人の神輿が通ります」などという、自治会的なイベントではありません。
担ぎ手たちは気合いの入ったいでたちで「粋さ」をアピールしますし、各町内に「休憩所」が設営され、担ぎ手たちをねぎらう準備が整えられます。
現在の新丸子周辺の土地柄(通勤に便利なため、古くからの家をマンションに建て替える家が多い)ゆえ、マンションの入口に下写真のちょうちんが下げられたりします(ここは道を挟んだおとなりさんの建物で、ここも建て替え準備をしているようです)。
日枝神社とは、比叡山麓にある日吉大社から分祀された神社の社号になります(日枝は比叡山の旧名にあたる)。
809年に、桓武天皇の孫に当たる兄弟が、東方地域を治めるためこの地に「丸子山王権現」を開き、大山咋神(おおやまくいのかみ:山王様)と、大物主神(大国主神:出雲神話に登場する大地を象徴する神)が祭られます。
神輿のルーツとされる「日吉型渡御祭」(ここでも行われる神輿を激しく振る様式)は、豊作や大漁を願う庶民の流儀で、元は天皇の行幸を模した「王朝型神幸祭」とされるそうです。
「渡御」には、水のみそぎを受けるイメージがあるので、以前は多摩川に入っていたのかも知れません(現在は行われない)。
近ごろは担ぎ手も、見る側も「目立つ部分」に目を奪われがちですが、海外の方には「神輿=Portable Shrine(持ち運び可能な神社)」と、説明されているそうです。
その表現の方が本質を示しているように思えますし、その理解からは、迫力はあっても「何て野蛮な人種だろう」(エスニック:民族特有の習慣 とは、こんな時に使われる表現なのでしょう)と思われているかも知れません。
でも、老若男女が「神様お願い!」(テンプターズを想起してしまうわたし)と大騒ぎする姿にこそ、わたしたちのアイデンティティがあるのかも知れない、とも思います……
P.S. 夏の甲子園で、沖縄の興南高校が春夏連覇しました(東海大相模は地元なので、双方応援していました)。
ウチナー(沖縄人)へのエールのつもりで、意見を書かせてもらいます。
彼らは、さぼらなかった、のだと思います。
それができれば、ナイチャー(本土人)に負けないことを彼らが証明してくれた、と考えていいのではないかと思います。
ウチナーの人たちは、さぼり癖(失礼)を克服すれば(あくせく動き回れの意味ではない)、ポテンシャルは高い人たちと思うので、球児たちの快挙を自分たちに置き換えて、自信を持って立ち上がるべき時ではないかと思います。
米軍基地の問題はもはや、やる気のないナイチャーに任せるのではなく、自分たちでコツコツと活動していかないと、いつまでも「なめられたままの存在」に甘んじることになってしまいます(ナイチャーとしてもあきれました)。
ちょっと過激ですが、琉球が独立したら国籍を変えようかしら、と思ったりもします。
それは、日本で最も平和を求めている地域のひとつだと思えるから……
いい機会と思い書きました。
2010/08/16
眺めのいい場所を求めて──岡本、用賀
2010.7.31
【東京都】
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静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)(Map)
多摩川河川敷にある二子玉川付近から都心へ向かうと、かなり急傾斜の国分寺崖線(がいせん:川が丘陵地を浸食したなごり)が立ちはだかります。
この付近の河川敷は、多摩川と野川が合流するため広くなっているので、坂の上から見下ろす光景には開放感があり、以前から人気があったことも納得できます。
二子玉川にできた高層マンションから見下ろすと、付近の地形の様子が手に取るように分かるんだと思います。
その坂の上(敷地は斜面下まで含む)に、静嘉堂文庫という、三菱財閥2代目総帥の岩崎弥之助(号を静嘉堂と称した)、4代目小弥太父子のコレクションから始まった、図書館・美術館があり、日本・東洋の古典・古美術品を収蔵・公開しています。
弥之助は、三菱財閥の創設者岩崎弥太郎の弟で、銀行・倉庫・地所・造船など経営の多角化に取り組み、その後第4代日本銀行総裁となります(経済界のリーダー的存在でした)。
ここでのツッコミどころは、彼の奥さんが土佐藩の要職を務めた、後藤象二郎(吉田東洋の教え子で徳川幕府擁護の立場であったが、龍馬の進言を受け入れ大政奉還を推進し、新政府の要職に就く)の長女であることです。
大河ドラマ『龍馬伝』ネタですが、現在までの放映では、階級制度の厳しい江戸時代の土佐藩において、後藤の部下である兄の弥太郎は、まだあごで使われる状況が描かれています。
その当時、弥之助と後藤の長女との結婚は、世間がひっくり返らない限り実現しようもない「ありえない話」だったはずです。
そんな驚天動地の出来事を、ドラマの巻末にでも添えてもらえればと思っています。
龍馬は、新しい日本を見ることなく死んでしまいますが、そこで幕引きにしないために、弥太郎をナビゲーターとしているのだと、期待しています……
ここは、弥之助の墓とされた丘陵地の一画に、文化施設を建てたもので、墓地の区域はそのまま残されています。
しかし何で成金というか成功者は、偉そうにまつられるのでしょう。財閥の総帥ともなると、周囲がはやし立てるのかも知れません。
眺めのよさそうな(現在は木がうっそうとしていて展望はない)高台へ向かう石段は、まるで神社仏閣の参道のようですし、そこに鎮座する廟(びょう:先人の霊を祭る建物)の存在感は、昔の賢人をたたえるようでもあります。
右写真の廟の扉には、人々の暮らしについて描かれているようです(近寄れず詳細不明)。
これは想像ですが、勤勉の大切さを説く、中国の故事から引用されているような印象を受けました。
ドラマの弥太郎には、立身出世物語の下地となる、踏みつけられても決してあきらめない姿勢が感じられ、これから巨万の富を築くことにも、納得できる部分があります。
でも、近ごろの富というものには、うさんくささや、バブリーな印象がつきまとうので、コツコツと努力を積み重ねることを、バカらしく感じてしまう面があるように思います。
岡本公園民家園(Map)
静嘉堂文庫に隣接する場所に岡本公園民家園がありますが、岩崎家に土地を分けてもらった印象を受けます。
国分寺崖線と、それに沿って流れる丸子川(上流は仙川)に挟まれた立地なので広くはありませんが、崖線からわき出る水が豊富なので、木々がうっそうと茂っています。
わき水を利用したホタルの飼育が行われますが、近ごろは数が少なくなったそうです。
そんな緑地の中に、瀬田に残されていた古民家が移築復元されています。
東京都とは言え昔の世田谷は、開発前の多摩地区と同様の農村でしたから、のんびりとした光景が広がっていたようです。
神奈川で古民家を目にしても「またか」と思うのに、川を隔てた東京では「世田谷にもこんな民家があったんだ」と、感心するのはなぜなんでしょう?
東京は転入者が多すぎて、土地に根付いてきた人たちの割合が極端に低くなり、郷土のあり方も転入者に受けのいい、不動産関連会社の意向に沿ってきたような気がします。
地元自治体も、ようやく独自カラーを打ち出すようになりましたが、裏返すと「不動産が売れない(転入者が増えない)」ことによる焦りにも思えます。
これ以上国全体の人口は増えないとすれば、自治体間でも「住民」を奪い合う状況になるかも知れません……
付近の国分寺崖線の急坂に「岡本三丁目の坂」と呼ばれる坂があります。
わたしの中では『俺たちの旅』(1975年放映のテレビドラマ)の舞台である、紀子さん宅への坂道の光景に直結します。
両側の家並みが変わったのは当然ですが、交通の便がよくないせいか付近に高い建物はないので、坂を眺めていると、カースケ、オメダ、グズ六たちが、リヤカーを押している絵がよみがえってきます。
その坂は、晴れた日の富士山展望が見事なことから「東京富士見坂」のひとつとされています。
用賀プロムナード(Map)
今回の、用賀〜砧(きぬた)公園〜岡本〜二子玉川(今回は逆ルート)は、まま歩くルートですが、こんなに閑散とした砧公園は初めてと思います。
いくら緑はキレイでも水遊びはできないので、こんな猛暑の昼間に人が集まる場所ではないと、汗をぬぐいながら納得しました。
周囲のジョギングできるコースは木陰なので、まばらですが人出があります。
以前付近の住宅地で、家の通用口からジョギングスタイルで出てくる松任谷正隆氏と出くわしたことがあります。あちらも「あっ、見られちゃった」というタイミングで目が合いました。
中村雅俊氏(カースケ)も走ると聞いたことがあるので、周囲の目を気にせず走れるコースのようです。
用賀駅と砧公園・世田谷美術館の間に、用賀プロムナードとされる遊歩道があり、路面に瓦が敷き詰められるので「いらかみち」とも呼ばれます。
何で瓦なのか? については、淡路島産の瓦を使用している、とあるだけで、その理由までは見当たりません。
路面に百人一首や絵が描かれることから、丈夫で加工しやすく身近な素材との理由なのかも知れません。近所の方々にも評判はいいようです。
これをデザインしたのは、象設計集団という建築家集団で、沖縄の名護市役所庁舎(1981年建設。最初は廃虚となった城(グスク)を想起しましたが、年月を重ね色がくすみ、緑に覆われることで、目指す姿に近づいていくような印象を受ける、存在感のある建築物です) を手がけたそうです。
上写真は、砧公園側の入口にある鬼瓦。ちなみに、 鬼瓦職人のことを「鬼師」と呼ぶそうです。
サザエさん通り(桜新町)(Map)
特に見たいわけでもないのですが、できれば見る態勢を整えたいと思ってしまう「サザエさん」です。
日曜日の18:30〜19:00という時間帯に、テレビの前に座ってサザエさんを見ている事自体に、ホッとするのだと思います。
このように、テレビ番組が生活のタイムテーブルとなり続けているのは、他ではNHK7時のニュースくらいではないか?
なくても困らないが、目にできると落ち着く存在であることは確かです。
こちらも特に期待するモノはない「長谷川町子美術館」ですが、ある程度人が入っていることと、サザエさんがいまの子どもたちにも人気があることに、ホッとしたりしました……
断続的ですが、(記憶はないが)タラちゃん(3歳)くらいの年齢から見はじめ、カツオ(11歳)、マスオさん(28歳)をはるかに超え、次に目指すは 波平さん(54)だなんて、自分だけ年をとってるような気分にさせられます。
そんなキャラクターの年齢設定を調べていると、銭形警部(29歳)、サザエさんとヤッターマンのドロンジョは同じ24歳など、アニメキャラの年齢比較が流行っているとありました。
キャラクターは年をとらないにしても、みんな設定年齢より上に感じられるのは、声優さんが年を重ねているせいかも知れません……
上写真は駅前通の「花沢不動産?」なので、サザエさん通りではないのですが、マッチングのうまさに最もインパクトを受けた光景です。
商店街のいたるところにキャラクターが配され、町の活性化に利用しつつ、サザエさん(美術館)の宣伝にもなる、共栄を実現しています。
でもちょっと危険な組み合わせと思われたのが、サザエさん一家と寿司屋のコラボレーションです。キャラクターがネタにされてもいいの?
きっとサザエさん一家が百歩譲ったのでしょう、店先の目玉メニューに出されていたのは、旬とされる「アナゴ丼」でした。
アナゴさんなら仕方ないかと……
【東京都】
より大きな地図で 多摩川 を表示
静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)(Map)
多摩川河川敷にある二子玉川付近から都心へ向かうと、かなり急傾斜の国分寺崖線(がいせん:川が丘陵地を浸食したなごり)が立ちはだかります。
この付近の河川敷は、多摩川と野川が合流するため広くなっているので、坂の上から見下ろす光景には開放感があり、以前から人気があったことも納得できます。
二子玉川にできた高層マンションから見下ろすと、付近の地形の様子が手に取るように分かるんだと思います。
その坂の上(敷地は斜面下まで含む)に、静嘉堂文庫という、三菱財閥2代目総帥の岩崎弥之助(号を静嘉堂と称した)、4代目小弥太父子のコレクションから始まった、図書館・美術館があり、日本・東洋の古典・古美術品を収蔵・公開しています。
弥之助は、三菱財閥の創設者岩崎弥太郎の弟で、銀行・倉庫・地所・造船など経営の多角化に取り組み、その後第4代日本銀行総裁となります(経済界のリーダー的存在でした)。
ここでのツッコミどころは、彼の奥さんが土佐藩の要職を務めた、後藤象二郎(吉田東洋の教え子で徳川幕府擁護の立場であったが、龍馬の進言を受け入れ大政奉還を推進し、新政府の要職に就く)の長女であることです。
大河ドラマ『龍馬伝』ネタですが、現在までの放映では、階級制度の厳しい江戸時代の土佐藩において、後藤の部下である兄の弥太郎は、まだあごで使われる状況が描かれています。
その当時、弥之助と後藤の長女との結婚は、世間がひっくり返らない限り実現しようもない「ありえない話」だったはずです。
そんな驚天動地の出来事を、ドラマの巻末にでも添えてもらえればと思っています。
龍馬は、新しい日本を見ることなく死んでしまいますが、そこで幕引きにしないために、弥太郎をナビゲーターとしているのだと、期待しています……
ここは、弥之助の墓とされた丘陵地の一画に、文化施設を建てたもので、墓地の区域はそのまま残されています。
しかし何で成金というか成功者は、偉そうにまつられるのでしょう。財閥の総帥ともなると、周囲がはやし立てるのかも知れません。
眺めのよさそうな(現在は木がうっそうとしていて展望はない)高台へ向かう石段は、まるで神社仏閣の参道のようですし、そこに鎮座する廟(びょう:先人の霊を祭る建物)の存在感は、昔の賢人をたたえるようでもあります。
右写真の廟の扉には、人々の暮らしについて描かれているようです(近寄れず詳細不明)。
これは想像ですが、勤勉の大切さを説く、中国の故事から引用されているような印象を受けました。
ドラマの弥太郎には、立身出世物語の下地となる、踏みつけられても決してあきらめない姿勢が感じられ、これから巨万の富を築くことにも、納得できる部分があります。
でも、近ごろの富というものには、うさんくささや、バブリーな印象がつきまとうので、コツコツと努力を積み重ねることを、バカらしく感じてしまう面があるように思います。
岡本公園民家園(Map)
静嘉堂文庫に隣接する場所に岡本公園民家園がありますが、岩崎家に土地を分けてもらった印象を受けます。
国分寺崖線と、それに沿って流れる丸子川(上流は仙川)に挟まれた立地なので広くはありませんが、崖線からわき出る水が豊富なので、木々がうっそうと茂っています。
わき水を利用したホタルの飼育が行われますが、近ごろは数が少なくなったそうです。
そんな緑地の中に、瀬田に残されていた古民家が移築復元されています。
東京都とは言え昔の世田谷は、開発前の多摩地区と同様の農村でしたから、のんびりとした光景が広がっていたようです。
神奈川で古民家を目にしても「またか」と思うのに、川を隔てた東京では「世田谷にもこんな民家があったんだ」と、感心するのはなぜなんでしょう?
東京は転入者が多すぎて、土地に根付いてきた人たちの割合が極端に低くなり、郷土のあり方も転入者に受けのいい、不動産関連会社の意向に沿ってきたような気がします。
地元自治体も、ようやく独自カラーを打ち出すようになりましたが、裏返すと「不動産が売れない(転入者が増えない)」ことによる焦りにも思えます。
これ以上国全体の人口は増えないとすれば、自治体間でも「住民」を奪い合う状況になるかも知れません……
付近の国分寺崖線の急坂に「岡本三丁目の坂」と呼ばれる坂があります。
わたしの中では『俺たちの旅』(1975年放映のテレビドラマ)の舞台である、紀子さん宅への坂道の光景に直結します。
両側の家並みが変わったのは当然ですが、交通の便がよくないせいか付近に高い建物はないので、坂を眺めていると、カースケ、オメダ、グズ六たちが、リヤカーを押している絵がよみがえってきます。
その坂は、晴れた日の富士山展望が見事なことから「東京富士見坂」のひとつとされています。
用賀プロムナード(Map)
今回の、用賀〜砧(きぬた)公園〜岡本〜二子玉川(今回は逆ルート)は、まま歩くルートですが、こんなに閑散とした砧公園は初めてと思います。
いくら緑はキレイでも水遊びはできないので、こんな猛暑の昼間に人が集まる場所ではないと、汗をぬぐいながら納得しました。
周囲のジョギングできるコースは木陰なので、まばらですが人出があります。
以前付近の住宅地で、家の通用口からジョギングスタイルで出てくる松任谷正隆氏と出くわしたことがあります。あちらも「あっ、見られちゃった」というタイミングで目が合いました。
中村雅俊氏(カースケ)も走ると聞いたことがあるので、周囲の目を気にせず走れるコースのようです。
用賀駅と砧公園・世田谷美術館の間に、用賀プロムナードとされる遊歩道があり、路面に瓦が敷き詰められるので「いらかみち」とも呼ばれます。
何で瓦なのか? については、淡路島産の瓦を使用している、とあるだけで、その理由までは見当たりません。
路面に百人一首や絵が描かれることから、丈夫で加工しやすく身近な素材との理由なのかも知れません。近所の方々にも評判はいいようです。
これをデザインしたのは、象設計集団という建築家集団で、沖縄の名護市役所庁舎(1981年建設。最初は廃虚となった城(グスク)を想起しましたが、年月を重ね色がくすみ、緑に覆われることで、目指す姿に近づいていくような印象を受ける、存在感のある建築物です) を手がけたそうです。
上写真は、砧公園側の入口にある鬼瓦。ちなみに、 鬼瓦職人のことを「鬼師」と呼ぶそうです。
サザエさん通り(桜新町)(Map)
特に見たいわけでもないのですが、できれば見る態勢を整えたいと思ってしまう「サザエさん」です。
日曜日の18:30〜19:00という時間帯に、テレビの前に座ってサザエさんを見ている事自体に、ホッとするのだと思います。
このように、テレビ番組が生活のタイムテーブルとなり続けているのは、他ではNHK7時のニュースくらいではないか?
なくても困らないが、目にできると落ち着く存在であることは確かです。
こちらも特に期待するモノはない「長谷川町子美術館」ですが、ある程度人が入っていることと、サザエさんがいまの子どもたちにも人気があることに、ホッとしたりしました……
断続的ですが、(記憶はないが)タラちゃん(3歳)くらいの年齢から見はじめ、カツオ(11歳)、マスオさん(28歳)をはるかに超え、次に目指すは 波平さん(54)だなんて、自分だけ年をとってるような気分にさせられます。
そんなキャラクターの年齢設定を調べていると、銭形警部(29歳)、サザエさんとヤッターマンのドロンジョは同じ24歳など、アニメキャラの年齢比較が流行っているとありました。
キャラクターは年をとらないにしても、みんな設定年齢より上に感じられるのは、声優さんが年を重ねているせいかも知れません……
上写真は駅前通の「花沢不動産?」なので、サザエさん通りではないのですが、マッチングのうまさに最もインパクトを受けた光景です。
商店街のいたるところにキャラクターが配され、町の活性化に利用しつつ、サザエさん(美術館)の宣伝にもなる、共栄を実現しています。
でもちょっと危険な組み合わせと思われたのが、サザエさん一家と寿司屋のコラボレーションです。キャラクターがネタにされてもいいの?
きっとサザエさん一家が百歩譲ったのでしょう、店先の目玉メニューに出されていたのは、旬とされる「アナゴ丼」でした。
アナゴさんなら仕方ないかと……
2010/08/09
橋の下に群れる文化──大山街道、二子橋
2010.7.24
【神奈川県】【東京都】
より大きな地図で 多摩川 を表示
溝の口(Map)
JR南武線と田園都市線が交差する駅周辺には、先日の自由が丘にも見られた、昔の風情が感じられる町並みが残されています。
現在では散見する程度ですが、以前は駅前に広がるラビリンスのような存在だったので、再開発後の町並みに驚いた記憶があります。
外部の者には、車窓や駅前で目に入る光景が町の印象として残るので、それが町の看板になってしまいます(キレイならいいってものでもないが)。
以前は南武線沿線の駅前はどこも、うらぶれた印象があったため(東横線の各駅前もゴチャゴチャしてますが、それとは雰囲気がちがう)、どうも好きになれませんでした(ギャンブル電車ですしね)。
駅前再開発事業(写真後方のノクティ、丸井を含む)の完了(1999年)で、地元は「とりあえずキレイになった」と、満足のようです。
駅前だけはようやく生まれ変わったものの、他の地区で計画される再開発は、商業地域の縮小傾向が続くため、踏み出せない状況のようです。
右写真の奧では、狭い路地に商品が広げられ、思うように歩けない状態でフリーマーケットが催されています。
歩く速度が遅くなるほど、商品に目を向ける時間が長くなり、購買機会が増えると考えているのだろうか?
したたかではあっても、再開発後の場所では店の前も融通し合えなくなりますから、なあなあの通じる場所に人が集まるところに、庶民生活の実情が表れているのかも知れません。
これまでの再開発が目指したものは、「キレイに整備したので少々家賃はお高くなりますが、これまで以上の集客力が期待できます」というものでした。
右肩が上がっている時は引く手あまたでも、今どきの中堅都市ではそんな再開発モデルは通用しない、とした自治体の判断は、賢明だったように思います(近ごろ川崎駅周辺は「大きな買い物(高価)」ができる町となり、それには対抗できないと考えたのか)。
きれいに見えなくとも、衛生や治安面が保たれていれば問題ない、と考えてもいいのではないでしょうか。
それが「南武線的発想」とか言われたら、返す言葉が無いのですが……
「みぞのくち」の表記について、自治体や公共団体は「溝口」、JRは「溝ノ口」、東急は「溝の口」なんだそう。統一した方が、美しいと思いますが、基本的に日本語は「通じればいい」といういい加減な表記なので仕方ないのでしょう……(字面が好きなので、この表記を使用しました) ちなみに略称は「のくち」と呼ばれます。
大山街道(おおやまかいどう)(Map)
上写真奧に見える、丸井の看板があるビルの最上階付近に、高津市民館があります。以前その廊下の壁に並べられた、悠々カメラマン(高齢者の意)によると思われる「大山街道めぐり」の写真展を目にしたことがあります。
その時は「こんな石仏写真なんか絶対撮らねえぞ!」と思ったものですが、今回は何のためらいもなく「街道をゆく」です。
京都をかじってから、興味対象がジジ臭くなったと自覚しています……
大山街道の歴史は奈良時代までさかのぼり、当時の東海道(箱根の足柄峠を越える道)とされ、鎌倉時代には鎌倉古道に組み込まれ、江戸時代に現在の国道1号(箱根駅伝の走路)沿いに東海道が整備されるまで、本道とされました。
江戸時代この道は「矢倉沢往還(やぐらざわおうかん:街道に準じる官道)」として整備されますが、当時盛んになった山岳信仰「大山講」(大山詣での組織)の参詣者が増えたため、「大山街道」と呼ばれるようになります。
赤坂を起点とし、現在の国道246号の起源になるため、青山付近では「青山通り大山道」と呼ばれます。
大山は、実家が近いこともあり何度か登りましたが、階段が続く急斜面なので下山時に「足が笑っちゃう」という声を、よく耳にした覚えがあります。
上写真は、街道沿いにある光明寺の境内で、水槽に使われる大きな釜です。
また近くの街道沿いの店先には、NHK大河ドラマ『黄金の日々』(1978年)で、石川五右衛門(根津甚八)の釜ゆでのシーンに使われたとされる大釜が展示されています。
この地は大釜にゆかりがあるのかと、調べても何も見当たらないので、お寺の境内にある大釜の出どころも同じ店かも知れません。
大山街道沿いに古くからある商店の店先には、昔ながらの木板の口上書きが立てられ、店の歴史などが書き記されています。
それは自信の表れですから、もうひとつの看板として店の信頼感につながります。こんなblogですが、少しでも認知度が高まればと思います。
説明されても分からない部分もありますが、店の歴史は財産であることは伝わってきます。
街道沿いにある「大山街道ふるさと館」には、南北に延びる府中街道との十字路にあった古い道標が残されていて(移設保存)、そこには「至る高幡不動」の表記があります。
当時の道標に有名な神社仏閣名が用いられるのは、わかりやすさのためですが、現在高幡不動と書かれたら「それってどこの町に近いの?」となりそうです……
この石仏は二子神社の境内に、社殿とは逆向きに置かれてあり、あまり大切にされていなようにも見えます(何か理由があるのか?)。
すっかり摩耗していますが、街道筋に多く見られる馬頭観音(物資輸送に欠かせない牛・馬を祭る)ではないかと思われます。
その下は三猿(見ざる聞かざる言わざる)のようで、むかしは猿が厩(馬小屋)の守り神とされた地方もあったそうです。
二子橋(Map)
江戸幕府は、多摩川を江戸の防衛線とするため架橋を制限したので、大山街道がにぎわった時代、この地には「二子の渡し」がありました。
それにしても、この地に架橋されたのが1925年(大正時代)というのは遅すぎる気もしますが、関東大震災が1923年に発生したので、その前に作らなかったのは賢明と言えるのかも知れません(工事中に壊れたのかも?)。
少し前に川崎市が、2010年9月から「川辺のバーベキューを有料化する」と発表しました。ゴミの量が半端でないことによります。
でないと、われわれの税金(川崎市在住)がこいつらの尻ぬぐいに使われてしまいます。
多摩川に架かる二子橋の東京岸は「世田谷区」「二子玉川」というセレブが集う町ですが、神奈川岸の川崎市は「二子町」にある「二子新地駅」(ネーミングも安っぽい)というローカルな町ですし、わたしの暮らす新丸子付近は「田園調布の川向こう」とされるような、「自治体格差」が存在しています(ひがむつもりはないが、そう聞こえてしまいますよね)。
そんな住民意識でしょうか、東京岸は風紀管理のためBBQは禁止ですが、神奈川岸はウエルカムとしています。
そうなればヤツらは神奈川岸に集まりますし、いまどきは「手ぶらでBBQ」を可能にするサービス業者も多くあり、機材を積んだトラックが河川敷の駐車場に並んでいます。
そんなサービスでにぎわったとしても、県外(主に東京方面)から来た客と業者が、ゴミだけを残して帰るのであれば、地元が潤うこともありません。
一度のぞいてみようと思っていましたが、人出の密度は繁華街的でもここはアウトドアの開放感から、ルールもへったくれも無さそうなところが、周辺住民の不満につながるように思えました。
近ごろ若者が集まる場所には、大出力のオーディオ設備が持ち込まれ、大音響で音楽がたれ流されたりします。
しかしそこに、暑い昼下がりが似合うボブ・マーリーの曲が流れると、暑く、けだるいながらも、ゆるく体が動き出す心地よさがあり、「OFF」を実感した途端、ビールが飲みたくなります……
でもここで問題なのは、そう感じたのが対岸である二子玉川岸の土手であることです。
これじゃ、どっちの川岸からも苦情が出るのは当たり前だよ、としか言いようがありません……
旧多摩堤(Map)【東京都】
ここは二子玉川に残される旧堤防です。
以前羽田で紹介した多摩川レンガ堤の上流部分で、この付近で合流する野川(国分寺市が源流)の影響を考慮したようです。
現在、二子玉川駅付近(東京岸)は堤防改修の工事中で、古くからあったと思われる売店も撤去されました(一度おでん食べとけばよかった……)。
しかし、その堤防改修工事に対し近隣住民は「景観」を盾に反対運動をしているそうです(堤防のかさ上げで川が見えなくなる)。
住民の意識までは分かりませんが、決壊して周囲が水浸しになることよりも、自宅からの景観を守りたいとする主張には、少し身勝手な印象を受けます(家が流れちゃったらおしまいじゃないの?)。
近ごろでは、100年に一度と想定される大雨や洪水が10年程度で頻発しますから、この工事に感謝する状況は案外早く訪れそうな気もします(「スーパー堤防」という考え方は間違ってない気がします)。
駅周辺には、空き地があるはずもなく仕方ないのでしょうが、国道246号の高架下に、盆踊りの舞台と飾り付けが準備されていました。
雨でも盆踊りは可能としても、ご先祖様は落ち着けないのではあるまいか。
でも盆踊りの音楽って、どうしてあんなに大音量なのでしょう?
地域住民の参加を促すため、ご先祖様が迷わないため、などの理由があるのでしょうが、どの会場でも踊りの輪に加わらない者には、やかましく感じられます。
でも、ここでは頭上にある道路の騒音に負けないために、さらに大きな音で対抗しているのかも知れません。
なぁ〜んだ、二子玉の住民も橋の下で大きな音を出して騒いでるんだと思うと、これまでとは違った「橋の下文化」の事情もあるもんだと、ちょっと切なくなりました……
【神奈川県】【東京都】
より大きな地図で 多摩川 を表示
溝の口(Map)
JR南武線と田園都市線が交差する駅周辺には、先日の自由が丘にも見られた、昔の風情が感じられる町並みが残されています。
現在では散見する程度ですが、以前は駅前に広がるラビリンスのような存在だったので、再開発後の町並みに驚いた記憶があります。
外部の者には、車窓や駅前で目に入る光景が町の印象として残るので、それが町の看板になってしまいます(キレイならいいってものでもないが)。
以前は南武線沿線の駅前はどこも、うらぶれた印象があったため(東横線の各駅前もゴチャゴチャしてますが、それとは雰囲気がちがう)、どうも好きになれませんでした(ギャンブル電車ですしね)。
駅前再開発事業(写真後方のノクティ、丸井を含む)の完了(1999年)で、地元は「とりあえずキレイになった」と、満足のようです。
駅前だけはようやく生まれ変わったものの、他の地区で計画される再開発は、商業地域の縮小傾向が続くため、踏み出せない状況のようです。
右写真の奧では、狭い路地に商品が広げられ、思うように歩けない状態でフリーマーケットが催されています。
歩く速度が遅くなるほど、商品に目を向ける時間が長くなり、購買機会が増えると考えているのだろうか?
したたかではあっても、再開発後の場所では店の前も融通し合えなくなりますから、なあなあの通じる場所に人が集まるところに、庶民生活の実情が表れているのかも知れません。
これまでの再開発が目指したものは、「キレイに整備したので少々家賃はお高くなりますが、これまで以上の集客力が期待できます」というものでした。
右肩が上がっている時は引く手あまたでも、今どきの中堅都市ではそんな再開発モデルは通用しない、とした自治体の判断は、賢明だったように思います(近ごろ川崎駅周辺は「大きな買い物(高価)」ができる町となり、それには対抗できないと考えたのか)。
きれいに見えなくとも、衛生や治安面が保たれていれば問題ない、と考えてもいいのではないでしょうか。
それが「南武線的発想」とか言われたら、返す言葉が無いのですが……
「みぞのくち」の表記について、自治体や公共団体は「溝口」、JRは「溝ノ口」、東急は「溝の口」なんだそう。統一した方が、美しいと思いますが、基本的に日本語は「通じればいい」といういい加減な表記なので仕方ないのでしょう……(字面が好きなので、この表記を使用しました) ちなみに略称は「のくち」と呼ばれます。
大山街道(おおやまかいどう)(Map)
上写真奧に見える、丸井の看板があるビルの最上階付近に、高津市民館があります。以前その廊下の壁に並べられた、悠々カメラマン(高齢者の意)によると思われる「大山街道めぐり」の写真展を目にしたことがあります。
その時は「こんな石仏写真なんか絶対撮らねえぞ!」と思ったものですが、今回は何のためらいもなく「街道をゆく」です。
京都をかじってから、興味対象がジジ臭くなったと自覚しています……
大山街道の歴史は奈良時代までさかのぼり、当時の東海道(箱根の足柄峠を越える道)とされ、鎌倉時代には鎌倉古道に組み込まれ、江戸時代に現在の国道1号(箱根駅伝の走路)沿いに東海道が整備されるまで、本道とされました。
江戸時代この道は「矢倉沢往還(やぐらざわおうかん:街道に準じる官道)」として整備されますが、当時盛んになった山岳信仰「大山講」(大山詣での組織)の参詣者が増えたため、「大山街道」と呼ばれるようになります。
赤坂を起点とし、現在の国道246号の起源になるため、青山付近では「青山通り大山道」と呼ばれます。
大山は、実家が近いこともあり何度か登りましたが、階段が続く急斜面なので下山時に「足が笑っちゃう」という声を、よく耳にした覚えがあります。
上写真は、街道沿いにある光明寺の境内で、水槽に使われる大きな釜です。
また近くの街道沿いの店先には、NHK大河ドラマ『黄金の日々』(1978年)で、石川五右衛門(根津甚八)の釜ゆでのシーンに使われたとされる大釜が展示されています。
この地は大釜にゆかりがあるのかと、調べても何も見当たらないので、お寺の境内にある大釜の出どころも同じ店かも知れません。
大山街道沿いに古くからある商店の店先には、昔ながらの木板の口上書きが立てられ、店の歴史などが書き記されています。
それは自信の表れですから、もうひとつの看板として店の信頼感につながります。こんなblogですが、少しでも認知度が高まればと思います。
説明されても分からない部分もありますが、店の歴史は財産であることは伝わってきます。
街道沿いにある「大山街道ふるさと館」には、南北に延びる府中街道との十字路にあった古い道標が残されていて(移設保存)、そこには「至る高幡不動」の表記があります。
当時の道標に有名な神社仏閣名が用いられるのは、わかりやすさのためですが、現在高幡不動と書かれたら「それってどこの町に近いの?」となりそうです……
この石仏は二子神社の境内に、社殿とは逆向きに置かれてあり、あまり大切にされていなようにも見えます(何か理由があるのか?)。
すっかり摩耗していますが、街道筋に多く見られる馬頭観音(物資輸送に欠かせない牛・馬を祭る)ではないかと思われます。
その下は三猿(見ざる聞かざる言わざる)のようで、むかしは猿が厩(馬小屋)の守り神とされた地方もあったそうです。
二子橋(Map)
江戸幕府は、多摩川を江戸の防衛線とするため架橋を制限したので、大山街道がにぎわった時代、この地には「二子の渡し」がありました。
それにしても、この地に架橋されたのが1925年(大正時代)というのは遅すぎる気もしますが、関東大震災が1923年に発生したので、その前に作らなかったのは賢明と言えるのかも知れません(工事中に壊れたのかも?)。
少し前に川崎市が、2010年9月から「川辺のバーベキューを有料化する」と発表しました。ゴミの量が半端でないことによります。
でないと、われわれの税金(川崎市在住)がこいつらの尻ぬぐいに使われてしまいます。
多摩川に架かる二子橋の東京岸は「世田谷区」「二子玉川」というセレブが集う町ですが、神奈川岸の川崎市は「二子町」にある「二子新地駅」(ネーミングも安っぽい)というローカルな町ですし、わたしの暮らす新丸子付近は「田園調布の川向こう」とされるような、「自治体格差」が存在しています(ひがむつもりはないが、そう聞こえてしまいますよね)。
そんな住民意識でしょうか、東京岸は風紀管理のためBBQは禁止ですが、神奈川岸はウエルカムとしています。
そうなればヤツらは神奈川岸に集まりますし、いまどきは「手ぶらでBBQ」を可能にするサービス業者も多くあり、機材を積んだトラックが河川敷の駐車場に並んでいます。
そんなサービスでにぎわったとしても、県外(主に東京方面)から来た客と業者が、ゴミだけを残して帰るのであれば、地元が潤うこともありません。
一度のぞいてみようと思っていましたが、人出の密度は繁華街的でもここはアウトドアの開放感から、ルールもへったくれも無さそうなところが、周辺住民の不満につながるように思えました。
近ごろ若者が集まる場所には、大出力のオーディオ設備が持ち込まれ、大音響で音楽がたれ流されたりします。
しかしそこに、暑い昼下がりが似合うボブ・マーリーの曲が流れると、暑く、けだるいながらも、ゆるく体が動き出す心地よさがあり、「OFF」を実感した途端、ビールが飲みたくなります……
でもここで問題なのは、そう感じたのが対岸である二子玉川岸の土手であることです。
これじゃ、どっちの川岸からも苦情が出るのは当たり前だよ、としか言いようがありません……
旧多摩堤(Map)【東京都】
ここは二子玉川に残される旧堤防です。
以前羽田で紹介した多摩川レンガ堤の上流部分で、この付近で合流する野川(国分寺市が源流)の影響を考慮したようです。
現在、二子玉川駅付近(東京岸)は堤防改修の工事中で、古くからあったと思われる売店も撤去されました(一度おでん食べとけばよかった……)。
しかし、その堤防改修工事に対し近隣住民は「景観」を盾に反対運動をしているそうです(堤防のかさ上げで川が見えなくなる)。
住民の意識までは分かりませんが、決壊して周囲が水浸しになることよりも、自宅からの景観を守りたいとする主張には、少し身勝手な印象を受けます(家が流れちゃったらおしまいじゃないの?)。
近ごろでは、100年に一度と想定される大雨や洪水が10年程度で頻発しますから、この工事に感謝する状況は案外早く訪れそうな気もします(「スーパー堤防」という考え方は間違ってない気がします)。
駅周辺には、空き地があるはずもなく仕方ないのでしょうが、国道246号の高架下に、盆踊りの舞台と飾り付けが準備されていました。
雨でも盆踊りは可能としても、ご先祖様は落ち着けないのではあるまいか。
でも盆踊りの音楽って、どうしてあんなに大音量なのでしょう?
地域住民の参加を促すため、ご先祖様が迷わないため、などの理由があるのでしょうが、どの会場でも踊りの輪に加わらない者には、やかましく感じられます。
でも、ここでは頭上にある道路の騒音に負けないために、さらに大きな音で対抗しているのかも知れません。
なぁ〜んだ、二子玉の住民も橋の下で大きな音を出して騒いでるんだと思うと、これまでとは違った「橋の下文化」の事情もあるもんだと、ちょっと切なくなりました……
2010/08/02
古くから地域の中心だった?──センター南・北
2010.7.17
【神奈川県】
より大きな地図で 多摩川 を表示
この地訪問の動機は、先日の日吉で横浜市営地下鉄グリーンラインの案内を目にし、「たまには乗るか!」という単純な勢いによるものです。
現在は「多摩川沿いを歩く」企画のつもりですが、ちょっと寄り道です。
ここでは「Discover 神奈川」(再認識)のような場所に出会えたので、次はそんなシリーズを考えようかと思い始めました。
センター北(Map)
ここは港北ニュータウンとされる新しく造成された町で、開発に際して横浜市営地下鉄ブルーライン(あざみ野〜湘南台:1972年部分開業、1999年全線開通)と、グリーンライン(日吉〜中山:2008年開業)が建設され、都心への交通手段が確保されました。
中心部である、センター北駅前には阪急(下写真は屋上の観覧車。関西系は回りモノ好き)、センター南駅前には東急(映画館を併設)が立地し、身近なショッピングモールとしてすみ分けています。
それぞれに集客力はあるものの中途半端に感じられ、肝心の(大きな)買い物には、大都市(横浜や渋谷等)へ流れてしまいそうな印象を受けます。
いつもこの「センター」という名称が引っかかり、「どこのセンターなのか分からない」と思ってしまいます。
これは、港北ニュータウンの土地区画整理事業における「タウンセンター地区」に由来するそうですが、ならば「多摩センター」のように「港北センター」などとすべきではなかったか?
地形的には同じ多摩丘陵に位置するので、決して成功だったとは思えない多摩地区の開発とは、目先を変えたい意図があったのかも知れません。
できるだけ自然との一体感を保とうとする姿勢は見て取れますが、これからの高齢化社会では傾斜地の利用は不便ですし、この先それを援助するための費用は増大するばかりです。
東急田園都市線の沿線同様、開発当初に若い家族を呼び込んだ明るい雰囲気は、次第に不便な町という認識に変わってしまいそうな気がしてなりません……
大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡公園(Map)
弥生時代の集落には、右写真のような木の柵に囲まれているイメージがあります。
おそらく教科書の挿絵などにあったのでしょう、自分の中では勝手に「この復元イメージは正しい」なんて思ったりします(発掘・研究の成果が教科書に載ってるはずなのですが)。
そんな様子を撮ったつもりが、牢屋の中で暮らしていたように見えてしまいます……
ここは、「大塚・歳勝土遺跡公園」とされる、国の史跡になります。
大塚遺跡は弥生時代中期の環濠集落跡(周囲に堀をめぐらせた集落:ムラ)、歳勝土遺跡は、大塚遺跡で生活した人の墓地とされます。
横浜市歴史博物館が隣接しているので、夏休みの自由研究も半日で片付けられそうな連携ぶりです。
夏休みの課題って、一日かからないと思っていても、なかなか取りかかれないあの腰の重さって、何だったんでしょうね?
「いまやろうと思ってたのに〜」とも違う気がするし、何をやったらいいのか分からず、自信を持てなかったような気がします。
戦前までの神奈川は、国や軍部の押しつけには逆らえない、田舎的な(田園風景が広がる)土地柄でしたから、歴史を振り返る施設には必ず古民家が鎮座しています(他に展示するモノは無い)。
でも、居合わせた外国人家族の関心が暖炉に集まっており(日本人がレンガ作りの暖炉に引かれるように)、国籍を問わず家族団らんの空気は伝わるものかと、ちょっとうれしくなりました。
小学生くらいの女の子は、この鉄瓶にとても興味があるようで、おままごとが終わるまでかなり待たされました……
汗をふいて休みながら「確かに落ち着く空間だ」と見回したとき、これまでとは異なる感じ方をしていることに気付きました。
猛暑が続く時期に「エアコン無しでは…」と思うも、時間の流れがゆったりとしていれば、「少し風が出てきたようだね」と、笠智衆(りゅうちしゅう)さん(寅さん映画の御前様)のように過ごせるのではあるまいか? などと感じた次第です……(もう、オヤジ世代も卒業して、老境の入口か?)
笠さんの話題ついでに脱線しますが、先日発行された、原節子さんについての本『原節子 あるがままに生きて』(本人の著書ではない)を購入しました。現在もベールの中でご健在らしく(本も売れてるそうで)、スタアの存在感は色あせてないようです。
ずいぶん前になりますが、笠さんの本(インタビュー形式)にも『あるがままに』というタイトルが使われていました。
これは単に小津安二郎監督の影響だけではなく、欲を持たず、襟を正して生きようとした、お二人の姿勢を表現する言葉、なのだと思います。
銀幕のお二人の姿が、よみがえってくるようです……
ここは歴史博物館屋上からの光景で、右写真のカメラは正面の駐車場を向いていますが、その両脇には同じ目線の高さに、窓やベランダが視野に入るマンションが隣接しています。
傾斜地が多いこの付近では、高架橋等の目線の高さが、住居での生活目線と同じ場所が多く見られ、住人も暮らしづらいと思われます。
1974年から造成が開始された港北ニュータウン建設地は、かつて港北区・緑区に属しますが、人口増加に伴い(1994年)ニュータウンを中心とする地域が都筑区として分区され、1996年に建設計画は完了とされます。
この地は古くから「つつき」と呼ばれ、その読みに「都筑」の字が当てられたそうです。
横浜市のビジョンには「住居・職場・農業が一体となった町作りを行う」とあります。
市内で最も農家が多いのは都筑区なので、以前から土地に暮らしてきた方への配慮と、都市開発が両立したと、アピールしたいのかも知れません。
自治体の手を離れたこれからが、町作りの正念場と思われますが、現在の経済状況には、一帯をはげ山にするような勢いはありません(そうすべきとは申しません)。
どうしても比較してしまう多摩ニュータウンでは、風呂敷を広げすぎたせいで、町として機能しないままゴーストタウン化した地区もあるそうです。
プロジェクトの規模が大きくなるほど、時代の読み方が難しくなる、という失敗例にならないことを祈ります……
茅ヶ崎城跡(Map)
下写真は、雰囲気のある峠道のように見えますが、この道は付近の構造物にはNGの存在になります。
ここは茅ヶ崎城跡で、左右にある高台の城郭をつなぐ「土橋」(通路)とされる場所なので(立ち位置は堀の底)、ここからの進入者を撃退すべき場所になります。
茅ヶ崎城は14世紀末~15世紀前半(室町時代)の築城とされ、その時期に影響を及ぼしたのは関東管領上杉氏とされますが、16世紀中頃(戦国時代)の改築跡には、後北条氏(小田原北条氏)の影響が見られることから、北条氏の勢力下に置かれていたようです。
しかし1590年秀吉の「小田原征伐」では、本丸(小田原城)攻撃に先立ち、関東各地の支城を攻めて小田原城を孤立させる際、秀吉軍に打ち破られた城のひとつのようです。
石垣を用いない山城の築城方法について、現物の前に具体的な説明の看板が数多く設置されており、とっても勉強になりましたし、この日一番の収穫だった印象があります(特に城好きではありませんが、そんな時代の城跡を見てみたいと思うようになりました)。
茅ヶ崎という地名には「小高い丘の突き出た所」の意味があり、なるほどそのような地形にも見えますが、周囲にも同様の地形はいくらでも見受けられるので、この地を限定する名称ではないのかも知れません。
イメージとしては、現在の湘南茅ヶ崎は「何となく丘っぽい?」というイメージの方が近しい気がしています……
近くには、鎌倉時代の鎌倉道「中の道」(鎌倉と関東各地を結ぶ道)が通され、江戸時代の中原街道や矢倉沢往還(大山街道)に加え、武蔵国府(東京都府中市)への道もあったそうです(ここからも新たな関心が目覚めそう)。
時代は様々でも、ムラ、城、街道が集まる場所には人が暮らしていたわけで、むかしはトトロの舞台のような、丘陵地帯の縁に人が集まったことがよく分かりますし、以前から地域のセンターだったと言えるのかも知れません。
この地域の中心は江田駅付近にあったそうですが、詳しくはまたの機会に……
センター南駅に近い都筑中央公園は、近ごろよく耳にする「里山公園」なので、起伏に富んだ丘陵地の森をそのまま利用しているため、開けた場所は上写真のステージ広場(イベント広場)程度になります。
ここでは炭焼き小屋(?)や、田んぼなどで実地体験ができるようですが、周辺に農業従事者の多い場所柄ですから、実際の田んぼでの実地体験へと広げるべきとも思います(知らないだけか?)。
先日目にした配信記事に「グリーンは好きだが、虫は嫌い」という人が多いとありました。
虫を好きにならなくとも、そんな実地体験から「身近にいろんな虫がいた」ことを、子ども時代の記憶に残すべきとも思います。
出典は忘れましたが、「地球は虫の惑星」(生息個体数では圧倒的に多い)であることは確かなのですから、逃れることはできません。
せっかく里山の近くに住んだのですから、それを楽しみながら暮らさないと、ただの不便な町になってしまうかも知れません……
【神奈川県】
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この地訪問の動機は、先日の日吉で横浜市営地下鉄グリーンラインの案内を目にし、「たまには乗るか!」という単純な勢いによるものです。
現在は「多摩川沿いを歩く」企画のつもりですが、ちょっと寄り道です。
ここでは「Discover 神奈川」(再認識)のような場所に出会えたので、次はそんなシリーズを考えようかと思い始めました。
センター北(Map)
ここは港北ニュータウンとされる新しく造成された町で、開発に際して横浜市営地下鉄ブルーライン(あざみ野〜湘南台:1972年部分開業、1999年全線開通)と、グリーンライン(日吉〜中山:2008年開業)が建設され、都心への交通手段が確保されました。
中心部である、センター北駅前には阪急(下写真は屋上の観覧車。関西系は回りモノ好き)、センター南駅前には東急(映画館を併設)が立地し、身近なショッピングモールとしてすみ分けています。
それぞれに集客力はあるものの中途半端に感じられ、肝心の(大きな)買い物には、大都市(横浜や渋谷等)へ流れてしまいそうな印象を受けます。
いつもこの「センター」という名称が引っかかり、「どこのセンターなのか分からない」と思ってしまいます。
これは、港北ニュータウンの土地区画整理事業における「タウンセンター地区」に由来するそうですが、ならば「多摩センター」のように「港北センター」などとすべきではなかったか?
地形的には同じ多摩丘陵に位置するので、決して成功だったとは思えない多摩地区の開発とは、目先を変えたい意図があったのかも知れません。
できるだけ自然との一体感を保とうとする姿勢は見て取れますが、これからの高齢化社会では傾斜地の利用は不便ですし、この先それを援助するための費用は増大するばかりです。
東急田園都市線の沿線同様、開発当初に若い家族を呼び込んだ明るい雰囲気は、次第に不便な町という認識に変わってしまいそうな気がしてなりません……
大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡公園(Map)
弥生時代の集落には、右写真のような木の柵に囲まれているイメージがあります。
おそらく教科書の挿絵などにあったのでしょう、自分の中では勝手に「この復元イメージは正しい」なんて思ったりします(発掘・研究の成果が教科書に載ってるはずなのですが)。
そんな様子を撮ったつもりが、牢屋の中で暮らしていたように見えてしまいます……
ここは、「大塚・歳勝土遺跡公園」とされる、国の史跡になります。
大塚遺跡は弥生時代中期の環濠集落跡(周囲に堀をめぐらせた集落:ムラ)、歳勝土遺跡は、大塚遺跡で生活した人の墓地とされます。
横浜市歴史博物館が隣接しているので、夏休みの自由研究も半日で片付けられそうな連携ぶりです。
夏休みの課題って、一日かからないと思っていても、なかなか取りかかれないあの腰の重さって、何だったんでしょうね?
「いまやろうと思ってたのに〜」とも違う気がするし、何をやったらいいのか分からず、自信を持てなかったような気がします。
戦前までの神奈川は、国や軍部の押しつけには逆らえない、田舎的な(田園風景が広がる)土地柄でしたから、歴史を振り返る施設には必ず古民家が鎮座しています(他に展示するモノは無い)。
でも、居合わせた外国人家族の関心が暖炉に集まっており(日本人がレンガ作りの暖炉に引かれるように)、国籍を問わず家族団らんの空気は伝わるものかと、ちょっとうれしくなりました。
小学生くらいの女の子は、この鉄瓶にとても興味があるようで、おままごとが終わるまでかなり待たされました……
汗をふいて休みながら「確かに落ち着く空間だ」と見回したとき、これまでとは異なる感じ方をしていることに気付きました。
猛暑が続く時期に「エアコン無しでは…」と思うも、時間の流れがゆったりとしていれば、「少し風が出てきたようだね」と、笠智衆(りゅうちしゅう)さん(寅さん映画の御前様)のように過ごせるのではあるまいか? などと感じた次第です……(もう、オヤジ世代も卒業して、老境の入口か?)
笠さんの話題ついでに脱線しますが、先日発行された、原節子さんについての本『原節子 あるがままに生きて』(本人の著書ではない)を購入しました。現在もベールの中でご健在らしく(本も売れてるそうで)、スタアの存在感は色あせてないようです。
ずいぶん前になりますが、笠さんの本(インタビュー形式)にも『あるがままに』というタイトルが使われていました。
これは単に小津安二郎監督の影響だけではなく、欲を持たず、襟を正して生きようとした、お二人の姿勢を表現する言葉、なのだと思います。
銀幕のお二人の姿が、よみがえってくるようです……
ここは歴史博物館屋上からの光景で、右写真のカメラは正面の駐車場を向いていますが、その両脇には同じ目線の高さに、窓やベランダが視野に入るマンションが隣接しています。
傾斜地が多いこの付近では、高架橋等の目線の高さが、住居での生活目線と同じ場所が多く見られ、住人も暮らしづらいと思われます。
1974年から造成が開始された港北ニュータウン建設地は、かつて港北区・緑区に属しますが、人口増加に伴い(1994年)ニュータウンを中心とする地域が都筑区として分区され、1996年に建設計画は完了とされます。
この地は古くから「つつき」と呼ばれ、その読みに「都筑」の字が当てられたそうです。
横浜市のビジョンには「住居・職場・農業が一体となった町作りを行う」とあります。
市内で最も農家が多いのは都筑区なので、以前から土地に暮らしてきた方への配慮と、都市開発が両立したと、アピールしたいのかも知れません。
自治体の手を離れたこれからが、町作りの正念場と思われますが、現在の経済状況には、一帯をはげ山にするような勢いはありません(そうすべきとは申しません)。
どうしても比較してしまう多摩ニュータウンでは、風呂敷を広げすぎたせいで、町として機能しないままゴーストタウン化した地区もあるそうです。
プロジェクトの規模が大きくなるほど、時代の読み方が難しくなる、という失敗例にならないことを祈ります……
茅ヶ崎城跡(Map)
下写真は、雰囲気のある峠道のように見えますが、この道は付近の構造物にはNGの存在になります。
ここは茅ヶ崎城跡で、左右にある高台の城郭をつなぐ「土橋」(通路)とされる場所なので(立ち位置は堀の底)、ここからの進入者を撃退すべき場所になります。
茅ヶ崎城は14世紀末~15世紀前半(室町時代)の築城とされ、その時期に影響を及ぼしたのは関東管領上杉氏とされますが、16世紀中頃(戦国時代)の改築跡には、後北条氏(小田原北条氏)の影響が見られることから、北条氏の勢力下に置かれていたようです。
しかし1590年秀吉の「小田原征伐」では、本丸(小田原城)攻撃に先立ち、関東各地の支城を攻めて小田原城を孤立させる際、秀吉軍に打ち破られた城のひとつのようです。
石垣を用いない山城の築城方法について、現物の前に具体的な説明の看板が数多く設置されており、とっても勉強になりましたし、この日一番の収穫だった印象があります(特に城好きではありませんが、そんな時代の城跡を見てみたいと思うようになりました)。
茅ヶ崎という地名には「小高い丘の突き出た所」の意味があり、なるほどそのような地形にも見えますが、周囲にも同様の地形はいくらでも見受けられるので、この地を限定する名称ではないのかも知れません。
イメージとしては、現在の湘南茅ヶ崎は「何となく丘っぽい?」というイメージの方が近しい気がしています……
近くには、鎌倉時代の鎌倉道「中の道」(鎌倉と関東各地を結ぶ道)が通され、江戸時代の中原街道や矢倉沢往還(大山街道)に加え、武蔵国府(東京都府中市)への道もあったそうです(ここからも新たな関心が目覚めそう)。
時代は様々でも、ムラ、城、街道が集まる場所には人が暮らしていたわけで、むかしはトトロの舞台のような、丘陵地帯の縁に人が集まったことがよく分かりますし、以前から地域のセンターだったと言えるのかも知れません。
この地域の中心は江田駅付近にあったそうですが、詳しくはまたの機会に……
センター南駅に近い都筑中央公園は、近ごろよく耳にする「里山公園」なので、起伏に富んだ丘陵地の森をそのまま利用しているため、開けた場所は上写真のステージ広場(イベント広場)程度になります。
ここでは炭焼き小屋(?)や、田んぼなどで実地体験ができるようですが、周辺に農業従事者の多い場所柄ですから、実際の田んぼでの実地体験へと広げるべきとも思います(知らないだけか?)。
先日目にした配信記事に「グリーンは好きだが、虫は嫌い」という人が多いとありました。
虫を好きにならなくとも、そんな実地体験から「身近にいろんな虫がいた」ことを、子ども時代の記憶に残すべきとも思います。
出典は忘れましたが、「地球は虫の惑星」(生息個体数では圧倒的に多い)であることは確かなのですから、逃れることはできません。
せっかく里山の近くに住んだのですから、それを楽しみながら暮らさないと、ただの不便な町になってしまうかも知れません……
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