2012.2.18
【東京都】──「山手線を歩く! ⑥」
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長者丸踏切(Map)
この日は目黒駅から歩き出すも、10年ほど通った地に立つと思い出すことが多く(あの店はまだあるか? 等の関心で)ウロウロするため、なかなか先に進めません(一見さんお断りの立ち飲み屋はなくなったように見えます)。
山手線の車窓から「踏切が見えた」記憶をたどり線路際を初めて歩きましたが、「アレ? 山手線の踏切じゃなかった……」です。
きちんと記憶を整理すれば現実の絵が思い浮かぶのに、勝手に「山手線の踏切」にすり替えてしまい、「数少ない山手線の踏切を渡る」気分でいました。
そこは、ちょうど山手線が埼京線(貨物線)を立体交差で越える付近で、歩道は山手線のガードをくぐり、踏切で渡るのは埼京線(貨物線)だけです。
記憶を自分が都合いいようにすり替え、とぼけられるようになれば、もう立派なオヤジです。しかしこれは自分を信用できなくなる症状ですから、ちょっとショックです。
ですが、そのように逆らえない積み重ねから、心中のこだわりが消え「そんなこともあるさ」と思えれば、笠智衆(りゅうちしゅう:御前様)さんのような心穏やかな生活が送れるようになるのかも知れません……
巣鴨〜田端間にあると思っている踏切を、このシリーズで確かめてきます。
長者丸は古い地名で現在は(五反田・目黒駅より北なのに)品川区上大崎とされます。
長者とは、前回触れた自然教育園周辺の白金長者のようですが、「太田道灌のひ孫である新六郎」説と、豪族「柳下上総之助」説を伝えるだけで確からしい記述は見当たらず、調べる焦点がずれているのか、ちょっと不明です。
現在でも区画の広い大きな家が並ぶので、長者町であるのは確かです。
ここは山手線車窓から見える「 日の丸自動車学校」で、脇の道から見上げました。
かなり前ですが、この球体は空洞の飾りであり、フジテレビの球体の建造物よりかなり小さいことを、TVで見た覚えがあります。
横から見ても設計の意気込みが感じられますが、その後「教習生増えました?」の成果について聞いてみたい気がします。
この坂道は、自動車学校前から目黒川に下る道で、以前米国からの客人を歩かせちゃったことがあり「サンフランシスコのようだ」と言われ、後悔した記憶があります。
ここをよく歩いた覚えはあっても自分の習性として、ディンプル(滑り止めのくぼみ)があるような急坂は避けるはず! でも、思い出せずにガーデンプレイスに向かい歩いていると答えが見えてきました。「そうそう、ガーデンプレイスのTSUTAYAによく通ったんだ」と。
1994年の開館時分は「ここに無ければどこにもない」品ぞろえが豊富な印象があり、「古い日本映画までよくぞそろえたものだ」と、小津安二郎、成瀬巳喜男、木下恵介さんの作品や、旅行先が舞台とされる作品のビデオを借りに通っていました。
出店のコンセプトに「ないビデオはない」を掲げていたそうで、その意図はユーザーにしっかり伝わったことになります。
せっせと通った際は当然、行きは傾斜の緩やかな権之助坂を上り、帰りにこの急坂を下りました(坂の名称は見つかりませんでした)……
恵比寿ガーデンプレイス(Map)
右は、恵比寿ガーデンプレイスのレンガ敷きを照らす陽光です。
ビール好きの認識は「やっぱ、ここの生ビールはうまいよな〜!」なのですが、以前は3店舗ほどあったビールを飲ませてくれる店が、昨夏訪問時は1店だけになっていました。
現在でも生ビールのおいしさは変わらないと思うのですが、来客数の減少(ブームの収束)とともに店舗も消えていったようです。
飲料の中でもビールの価格は高いので、デフレ時代に持てはやされる発泡酒とともに「ノンアルコールでいいや」という「バーチャル派?」が増えたのかも知れません。
若者は酒を飲まなくなったとも聞きますが、「うまい生ビール!」の求心力は弱まったのだろうか?
ガーデンプレイス以前の、1985年にオープンした「ビヤステーション恵比寿」では、ブルートレイン車内で旅情(?)を楽しめたり、東京では初登場? 天井が高く広いビアホールがあり、線路沿いに長い行列ができました。
ちょうどそんな時分に恵比寿の会社に数ヶ月通っていて、行列の様子に腰が引けたものの「今日こそ行くぞ!」と、「席取り隊」を16時に派遣して、ようやく19時くらいに入れた覚えがあります。
そのかいあって、大きなビアホールで、おいしいビールを楽しんだ記憶が現在も残っています。
わたしは「その瞬間のために!」と、夕方から水分を取らないというストイックなこだわり方はしませんが、ひとくち目の「カァ〜!」の瞬間に感じる「至福!」を目指して日々の仕事をしていることは、多くのお父さんと同じ様に否定できません……
茶屋坂(Map)
恵比寿駅から見てガーデンプレイス手前右手に、線路を渡るアメリカ橋があります(そんな曲もありました)。米国セントルイス万博の展示品を買い取り(橋を売ってたの?)、鉄橋のモデルとして1906年に設置されます。
その橋を渡った先の交差点は以前T字路でしたが、現在十字路とされ真っすぐに目黒川(山手通り)方面へ抜けられる道路が新設されました(2009年開通)。知らなかったので、もちろんその道を歩きます。
まだ新しさが感じられる坂を下ると、バス停に「茶屋坂」の表示があります(上写真は道沿いのヘアサロン)。ここはバイパス的な道なので厳密な茶屋坂ではありませんが、そこにあった茶屋が落語「目黒のサンマ」の舞台だったとされます(場所は特定できないそう)。
目黒に勤めていた頃、「目黒のサンマ祭り」当日の駅前には、もうもうとした煙が立ちこめ、嫌いな人には大迷惑な青魚のにおいが充満し、大好きな人には「食いて〜!」と思わせるような「これ以上ないアピールの場」だったこと思い出します。
起源は落語の作り話で、誕生から百年以上の年月を経て「新たな庶民文化」が芽ばえました。東北地方(宮古と気仙沼)との連携から生まれた「新しい文化」として、続いて欲しいと願います。
産地を宮古・気仙沼としたのは祭りは2つあったためで調べてみると、目黒にはもう一つあり、恵比寿では「となりの恵比寿サンマ祭り」が、東京タワーでは「三陸・大船渡東京タワーさんままつり」など、「家では焼きにくい魚を外で焼いて振る舞う」催しが全国的に広まっているようです。
昨年は継続されることで勇気づけられましたが、今年は本格的に盛り上げて「みんなで食べてるよ〜!」と、漁業関係者にエールを送りましょう。
めぐろ歴史資料館(Map)
右写真は「ジロー人形イサムサン」で、戦前に作られた「二本足で歩行する人形」になります。最近の撮影と思われる歩く様子が、横のモニタに映されていました。
現代のASIMOのルーツと思える、生物の進化をなぞるような「二足歩行」を目指す試みは、戦前から大きなテーマだったことがうかがえます。
資料館の展示物で力を入れていたのが、上目黒にある「目黒新富士発掘」に関する展示です。
新富士(=富士塚)とは富士講(富士山信仰の集団)により、人工的に築山された信仰のための盛り土で、広重の浮世絵にも描かれる江戸名所でした。
その内部発掘から、納められていた仏像が発見されます。富士山=浅間神社の印象があるので「仏像?」とも感じますが、神道だけでなくさまざまな信仰があったようです。
ここは、めぐろ歴史資料館近くの正覚寺で、日蓮宗のお寺になります。
現在では中目黒駅に近い場所柄ながらも「駐車場はこちら」の案内があるほどの土地を所有しています。
想像ですが、昔から氾らんを繰り返した目黒川沿いのため農民は困窮し、農地を寺に寄進したのではないか? とも思える土地柄です。
墓地の入口に門があり中はうかがえませんが、まま広そうな印象があります。
右写真は弁天堂(?)脇にある井戸で現役のようです。
海外の写真にこの手のモノを目にしますが、ここは日本。バックの赤は朱塗りのお堂になります。
2012.2.26
速報?「東京マラソン 2012」
あいにくの曇り空でしたが予想された風は弱く、マラソン日和と言えるでしょう。
TVでは目にしていましたが、実際目にすると口がポカンと開いちゃう「カラフルなイモ洗い」のようでした。
ここ田町駅前の国道15号線は、正月の箱根駅伝ばかりか、東京マラソンのコースでもある催し多き場所なので、「日曜は昼まで寝てたい」ところをむち打ち起き出して見学に。
コースは都心側から来て品川で折り返してまた戻るため、道路両方の車線一杯に人の群れが1時間以上続くので、駅伝のように見逃すことはありません。箱根駅伝は往路・復路の2日間楽しめますが、往路などはスタート直後なので、アッという間に走り去ってしまいそうです。
応援の人たちは、参加者36,000人の中から目的の人を見つけるわけですから、その目つきは真剣そのものです。
写真のような「色見本状態」ですから、目立つ色のウエアを着ていてもこのカラフルな群衆の中では埋もれそうです。
上写真左のオッサンの「カッパ?」のようなコスプレは、見逃されないための工夫なのかも知れません。
応援の人たちも気合いが入っていて、片手に電車路線図を持ち「次の銀座は地下鉄がいい」と、駆けていきます。
日曜日とはいえ道路の占有時間はかなり長いため、生産活動にも影響が及ぶと思われますが、応援を含めた驚くべき集客力にはそれを黙らせる力があります(金銭の問題ではなく、これだけの人が集まる祭りには反対できない)。
東京都は「スゴイ仕掛けをしたもんだ」と、感心しきりです……
国外の方も多く参加しているので、応援も国際色豊かですし、走るのはキツイにしても参加者が楽しんでいる様子が、沿道からも見て取れますから、年に一日くらいは車道に人を走らせてもいいのでは、と納得させられました。
2012/02/27
2012/02/20
おいしかった目黒の記憶──五反田〜目黒 ②
2012.2.4
【東京都】──「山手線を歩く! ⑤」
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東京大学医科学研究所付属病院(Map)
ここは、2000年開業の地下鉄南北・三田線「白金台駅」に隣接する東京大学医科学研究所付属病院です。これまでその存在を知らず、前々回「大崎〜五反田」を歩いた足で駅に入ろうとした際目に入り、夕暮れ時で写真は撮れずとも誘われるままに、裏にある聖心女子学院まで歩きました。
道の反対側には北里研究所病院があり、広い土地が必要な施設が並ぶ様子から、各施設が設立された当時は人の少ない地域だったと想像されます。
隣接して、宗教団体「幸福の科学」総本山のようなムラがあり、怖いモノ見たさに? 足を踏み入れ、妙な川の暗きょの行き止まりに突き当たった時分には辺りも暗くなり、「早々に退散しなければ!」と、ちょっとビビリました……
右は東大付属病院敷地内の大木ですが、あまりの立派さに口をポカンと開け見上げてしまう雄姿です。後述の自然教育園に通じるかと思うも、この木はヒマラヤスギ(明治初期に導入され、病気を治す力があるとされる)なので、病院建設時に植えられたのでしょう(生長がはやそう)。
ヒマラヤスギの印象としては、京都府立植物園で目にした「すぎぼっくり?」が強く残っています。
この研究施設は、福沢諭吉が北里柴三郎(ペスト菌を発見した医学・細菌学者、北里大学の源)の研究のために私費で設立した「大日本私立衛生会附属伝染病研究所:1892年開設」を起源とします。
スゴイ人物の組み合わせと驚くも、ドイツ留学中に発表した柴三郎の論文が、母校である東大医学部教授を批判したと受け止められ、帰国後は村八分とされ研究場所にも窮する事態に、諭吉が助け船を出したそうです。
その後には、国の機関とされる際に東大の組織に組み込まれることとなり、これまでの不仲もあり柴三郎は「私立北里研究所:現北里研究所病院の母体」を設立します。
車内広告で知った「北里研究所病院はこの辺らしい」程度の認識でしたが、この場所が伝記物や偉人伝の舞台だったんですね。
柴三郎は諭吉の没後、恩義に報いるため慶應義塾大学医学部を創設し初代の医学部長を無給で務め、初の全国規模の医師会である「大日本医師会」を初代会長としてまとめあげます。
昨年末の検診で「要再検査」とされ、引っ越したばかりでどこに病院があるのかも分からず探した際、「東京都済生会中央病院は、北里柴三郎先生を初代の院長として大正4年に開設されました」を読んで、即決めちゃいました……
自分で判断できない時とは、こんなにもか細いイメージを頼るのかと(通った高校の隣に北里大学病院があっただけ)、自分で情けなく思うも、検査でしたしね(「所見なし」で無罪放免です)。
施設の印象から、映画『外科室』(坂東玉三郎監督、1992年)の情景を想起しましたが、ここが撮影に使われたかについては見つかりませんでした。
自然教育園(Map)
都心で暮らすにあたり、近くに緑が無いことは織り込み済みなので不自由は感じないにしても、久しぶりに「武蔵野の雑木林」が広がる緑の回廊を歩くと、厳冬期で縮こまっていた体内の細胞が刺激を受け、大きく伸びをして深呼吸いている印象すら感じます(上写真の池には氷が張っている)。
門は目黒通りに、西側は首都高に接しているため車の音が耳に入る場所もありますが、鳥の声が聞こえる場所では自分の耳に「騒音フィルター」が備わっていたのか? と驚くほど、鳥の声に集中できたりします。
室町時代に豪族がこの地に館を構え、現在も残る土塁(土を盛った砦)は太田道灌のひ孫である新六郎が築いたもので、彼が伝説の「白金長者」(昔は銀を「しろかね」と読んだ)との説が伝えられます。
江戸時代の大名(松平家)下屋敷の名残とされる右写真の老松の樹皮は、樹齢か、保護のおかげか、非常にぶ厚いウロコや甲羅のようで、ガキ時分のように樹皮をはがしたい衝動に駆られますが、この木でそんなことやったら警備員がすっ飛んできそうです……
明治時代には火薬庫とされますが、1917年(大正6年)から宮内省の所管となり白金御料地とされます。戦後の1949年「旧白金御料地」として天然記念物および史跡の指定と同時に、「国立自然教育園」として一般公開され現在に至ります。
白金御料地の中心と思われる旧朝香宮邸は外務大臣公邸とされた後、西武鉄道に払い下げられ西武管理下で迎賓館として使用されます(西武が管理する必然性が理解できませんから、政界との癒着の現れだったのでしょう)。
その後当然(!)東京都が買い取り、美術館に仕立て美術品と共に建造物を公開する施設が、1983年「東京都庭園美術館」としてオープンします。
目黒では「目玉」的な施設なので楽しみにしていたのですが、改修工事及び管理棟新設工事のため「2016年リニューアル開館予定」とのことです。
それを知っていれば、以前の姿をもっと見ておきたかったと後悔するも、現在目にできるのは門だけです……
この門を見て、大地震の日にこの道を歩いて帰ったことを思い出しました。歩くのはあの時以来と思うと、ずいぶん前のような気がしますが、もうすぐ一年になるんですね。
それ以来暗さはぬぐえなかったけれど、人々の気持ちは確実に切り替わっていると確信しています。「さぁ、これからぞ!」
大鳥神社(Map)
ここは山手線外側の、山手通りと目黒通りの交差点に面する大鳥神社で、年末の「酉の市」には多くの人でにぎわいます。
目黒区で最も古い神社(江戸九社のひとつ)ということもあり、「伝説を具現化する施設」という性格に受け止められます。
日本武尊(ヤマトタケル:72年頃〜113年頃没とされる)が東征(東方蛮族の討伐は100年前後か?)の際に立ち寄ったとされ、後に「霊が白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」ことから、社紋(鳳凰:上写真)や名称も現在のようになったのでしょう。
露店も並び周辺が最もにぎわう「酉の日」の神前には、「八つ頭の芋:日本武尊が八族を平定したの意→出世」と「熊手:焼き討ちに遭った際に草をかき集め火を防ぎ、逆に相手を火攻めした(意味は理解できませんが)→宝を掃き込む」が祭られ、人々の心をつかんできたのですから、庶民の願いは時代を問わず変わっていないようです。
酉の市は、江戸時代に浅草の受け売りから始まったともされますが、由緒よりも「あやかりたい信心」により年末の風物詩として定着した、「活気」を大切にすべき催しなのでしょう。
目黒新橋(Map)
右写真はアルコタワー(ゴタゴタが多い目黒雅叙園から売りに出された)で、以前目黒に勤めた時分昼食でよく通ったイタリアンの店では、ランチタイムにもパンを焼いているので、焼きたてで「ホッカホカ」のパンがおいしかったことを、いまでも思い出します。
撮りたかったのはアルコタワーではなく、日影にくすむ目黒川に架かる目黒新橋です。
始めて「新橋」の響きと、石造りの欄干に出会った時、パリのセーヌ川に架かる「ポンヌフ」(「新橋」の意だが、パリに現存する最古の橋)を想起したことを、いまも渡る度に思い浮かべます。
最初に渡った印象があるのは、目黒区美術館の「ロシア正教のイコン展(タイトル不明)」観賞時で、その動機となったのはアンドレイ・タルコフスキー(ソ連時代の映画監督)映画であり、ポンヌフは映画『ポンヌフの恋人』(レオス・カラックス:フランスの映画監督)の印象による映画つながりから、「ここでもドラマが生まれるはず!」なんて思ったことが残っているのかも知れません。
わたし自身には、何も起こりませんでしたが……
目黒駅周辺(Map)
目黒はB級グルメ(エスニック料理)の町としてとても好きな地域でした。
パイオニアが2009年の本社移転に伴い現在大規模な工事中ですが、戦後から駅前に生き続けたバラック街を再開発した「サンフェリスタ」にはよくもぐり込みましたし、小さくても個性的な店が多かった印象があります。
ですが、駅の東側にあったタイ宮廷料理「ゲウチャイ」がない! 大使館が近いため目黒店だけが宮廷料理とされたそうで、だからシルバーの食器だったのか(アルミ?)と、印象に残ります。
注文時に警戒心からどうしても聞いてしまう「辛い?」の質問に、タイのお姉さんはうんざりしたように「カラクナイトオイシクナイヨ!」は、その通りで、ヒーヒーいいながらもおいしゅうございました。
韓国料理、インド料理等々「おいしい話」は尽きません……
目黒周辺は、モニター調査に向く土地柄なのだろうか? 評判が高く人気のある店が、突然閉店する様子をしばしば見かけました。おそらく、この地で得た自信を胸に、勝負の地に向かったのでしょう。
確かに店舗の出入りは激しいのですが、新しい店への期待感は常に保たれていた印象があります。ですが現在は「ラーメン屋が増えすぎ」でしょう……
目黒通り沿いには「TVチャンピオン」で優勝(?)と胸を張るラーメン屋「勝丸」(ここは好き)があります。系列店が六本木にありますが味の違いに驚かされます(勝丸風という感じ)。
目黒ではたまにチャンピオンが作ってくれるのですが、それが格段にウマイ! んです。同じ材料を使っていると思うのですが、まるっきり違うラーメンと感じさせるところが「プロフェッショナル」なんでしょうね……
目黒のプロを「☆☆☆」とすれば、六本木は「─」も仕方ないでしょう。
それでも周辺の店よりマシという表現から、六本木の昼食事情を理解していただければと思います。
目黒はおいしかったなぁ〜。
【東京都】──「山手線を歩く! ⑤」
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東京大学医科学研究所付属病院(Map)
ここは、2000年開業の地下鉄南北・三田線「白金台駅」に隣接する東京大学医科学研究所付属病院です。これまでその存在を知らず、前々回「大崎〜五反田」を歩いた足で駅に入ろうとした際目に入り、夕暮れ時で写真は撮れずとも誘われるままに、裏にある聖心女子学院まで歩きました。
道の反対側には北里研究所病院があり、広い土地が必要な施設が並ぶ様子から、各施設が設立された当時は人の少ない地域だったと想像されます。
隣接して、宗教団体「幸福の科学」総本山のようなムラがあり、怖いモノ見たさに? 足を踏み入れ、妙な川の暗きょの行き止まりに突き当たった時分には辺りも暗くなり、「早々に退散しなければ!」と、ちょっとビビリました……
右は東大付属病院敷地内の大木ですが、あまりの立派さに口をポカンと開け見上げてしまう雄姿です。後述の自然教育園に通じるかと思うも、この木はヒマラヤスギ(明治初期に導入され、病気を治す力があるとされる)なので、病院建設時に植えられたのでしょう(生長がはやそう)。
ヒマラヤスギの印象としては、京都府立植物園で目にした「すぎぼっくり?」が強く残っています。
この研究施設は、福沢諭吉が北里柴三郎(ペスト菌を発見した医学・細菌学者、北里大学の源)の研究のために私費で設立した「大日本私立衛生会附属伝染病研究所:1892年開設」を起源とします。
スゴイ人物の組み合わせと驚くも、ドイツ留学中に発表した柴三郎の論文が、母校である東大医学部教授を批判したと受け止められ、帰国後は村八分とされ研究場所にも窮する事態に、諭吉が助け船を出したそうです。
その後には、国の機関とされる際に東大の組織に組み込まれることとなり、これまでの不仲もあり柴三郎は「私立北里研究所:現北里研究所病院の母体」を設立します。
車内広告で知った「北里研究所病院はこの辺らしい」程度の認識でしたが、この場所が伝記物や偉人伝の舞台だったんですね。
柴三郎は諭吉の没後、恩義に報いるため慶應義塾大学医学部を創設し初代の医学部長を無給で務め、初の全国規模の医師会である「大日本医師会」を初代会長としてまとめあげます。
昨年末の検診で「要再検査」とされ、引っ越したばかりでどこに病院があるのかも分からず探した際、「東京都済生会中央病院は、北里柴三郎先生を初代の院長として大正4年に開設されました」を読んで、即決めちゃいました……
自分で判断できない時とは、こんなにもか細いイメージを頼るのかと(通った高校の隣に北里大学病院があっただけ)、自分で情けなく思うも、検査でしたしね(「所見なし」で無罪放免です)。
施設の印象から、映画『外科室』(坂東玉三郎監督、1992年)の情景を想起しましたが、ここが撮影に使われたかについては見つかりませんでした。
自然教育園(Map)
都心で暮らすにあたり、近くに緑が無いことは織り込み済みなので不自由は感じないにしても、久しぶりに「武蔵野の雑木林」が広がる緑の回廊を歩くと、厳冬期で縮こまっていた体内の細胞が刺激を受け、大きく伸びをして深呼吸いている印象すら感じます(上写真の池には氷が張っている)。
門は目黒通りに、西側は首都高に接しているため車の音が耳に入る場所もありますが、鳥の声が聞こえる場所では自分の耳に「騒音フィルター」が備わっていたのか? と驚くほど、鳥の声に集中できたりします。
室町時代に豪族がこの地に館を構え、現在も残る土塁(土を盛った砦)は太田道灌のひ孫である新六郎が築いたもので、彼が伝説の「白金長者」(昔は銀を「しろかね」と読んだ)との説が伝えられます。
江戸時代の大名(松平家)下屋敷の名残とされる右写真の老松の樹皮は、樹齢か、保護のおかげか、非常にぶ厚いウロコや甲羅のようで、ガキ時分のように樹皮をはがしたい衝動に駆られますが、この木でそんなことやったら警備員がすっ飛んできそうです……
明治時代には火薬庫とされますが、1917年(大正6年)から宮内省の所管となり白金御料地とされます。戦後の1949年「旧白金御料地」として天然記念物および史跡の指定と同時に、「国立自然教育園」として一般公開され現在に至ります。
白金御料地の中心と思われる旧朝香宮邸は外務大臣公邸とされた後、西武鉄道に払い下げられ西武管理下で迎賓館として使用されます(西武が管理する必然性が理解できませんから、政界との癒着の現れだったのでしょう)。
その後当然(!)東京都が買い取り、美術館に仕立て美術品と共に建造物を公開する施設が、1983年「東京都庭園美術館」としてオープンします。
目黒では「目玉」的な施設なので楽しみにしていたのですが、改修工事及び管理棟新設工事のため「2016年リニューアル開館予定」とのことです。
それを知っていれば、以前の姿をもっと見ておきたかったと後悔するも、現在目にできるのは門だけです……
この門を見て、大地震の日にこの道を歩いて帰ったことを思い出しました。歩くのはあの時以来と思うと、ずいぶん前のような気がしますが、もうすぐ一年になるんですね。
それ以来暗さはぬぐえなかったけれど、人々の気持ちは確実に切り替わっていると確信しています。「さぁ、これからぞ!」
大鳥神社(Map)
ここは山手線外側の、山手通りと目黒通りの交差点に面する大鳥神社で、年末の「酉の市」には多くの人でにぎわいます。
目黒区で最も古い神社(江戸九社のひとつ)ということもあり、「伝説を具現化する施設」という性格に受け止められます。
日本武尊(ヤマトタケル:72年頃〜113年頃没とされる)が東征(東方蛮族の討伐は100年前後か?)の際に立ち寄ったとされ、後に「霊が白鳥としてあらわれ給い、鳥明神として祀る」ことから、社紋(鳳凰:上写真)や名称も現在のようになったのでしょう。
露店も並び周辺が最もにぎわう「酉の日」の神前には、「八つ頭の芋:日本武尊が八族を平定したの意→出世」と「熊手:焼き討ちに遭った際に草をかき集め火を防ぎ、逆に相手を火攻めした(意味は理解できませんが)→宝を掃き込む」が祭られ、人々の心をつかんできたのですから、庶民の願いは時代を問わず変わっていないようです。
酉の市は、江戸時代に浅草の受け売りから始まったともされますが、由緒よりも「あやかりたい信心」により年末の風物詩として定着した、「活気」を大切にすべき催しなのでしょう。
目黒新橋(Map)
右写真はアルコタワー(ゴタゴタが多い目黒雅叙園から売りに出された)で、以前目黒に勤めた時分昼食でよく通ったイタリアンの店では、ランチタイムにもパンを焼いているので、焼きたてで「ホッカホカ」のパンがおいしかったことを、いまでも思い出します。
撮りたかったのはアルコタワーではなく、日影にくすむ目黒川に架かる目黒新橋です。
始めて「新橋」の響きと、石造りの欄干に出会った時、パリのセーヌ川に架かる「ポンヌフ」(「新橋」の意だが、パリに現存する最古の橋)を想起したことを、いまも渡る度に思い浮かべます。
最初に渡った印象があるのは、目黒区美術館の「ロシア正教のイコン展(タイトル不明)」観賞時で、その動機となったのはアンドレイ・タルコフスキー(ソ連時代の映画監督)映画であり、ポンヌフは映画『ポンヌフの恋人』(レオス・カラックス:フランスの映画監督)の印象による映画つながりから、「ここでもドラマが生まれるはず!」なんて思ったことが残っているのかも知れません。
わたし自身には、何も起こりませんでしたが……
目黒駅周辺(Map)
目黒はB級グルメ(エスニック料理)の町としてとても好きな地域でした。
パイオニアが2009年の本社移転に伴い現在大規模な工事中ですが、戦後から駅前に生き続けたバラック街を再開発した「サンフェリスタ」にはよくもぐり込みましたし、小さくても個性的な店が多かった印象があります。
ですが、駅の東側にあったタイ宮廷料理「ゲウチャイ」がない! 大使館が近いため目黒店だけが宮廷料理とされたそうで、だからシルバーの食器だったのか(アルミ?)と、印象に残ります。
注文時に警戒心からどうしても聞いてしまう「辛い?」の質問に、タイのお姉さんはうんざりしたように「カラクナイトオイシクナイヨ!」は、その通りで、ヒーヒーいいながらもおいしゅうございました。
韓国料理、インド料理等々「おいしい話」は尽きません……
目黒周辺は、モニター調査に向く土地柄なのだろうか? 評判が高く人気のある店が、突然閉店する様子をしばしば見かけました。おそらく、この地で得た自信を胸に、勝負の地に向かったのでしょう。
確かに店舗の出入りは激しいのですが、新しい店への期待感は常に保たれていた印象があります。ですが現在は「ラーメン屋が増えすぎ」でしょう……
目黒通り沿いには「TVチャンピオン」で優勝(?)と胸を張るラーメン屋「勝丸」(ここは好き)があります。系列店が六本木にありますが味の違いに驚かされます(勝丸風という感じ)。
目黒ではたまにチャンピオンが作ってくれるのですが、それが格段にウマイ! んです。同じ材料を使っていると思うのですが、まるっきり違うラーメンと感じさせるところが「プロフェッショナル」なんでしょうね……
目黒のプロを「☆☆☆」とすれば、六本木は「─」も仕方ないでしょう。
それでも周辺の店よりマシという表現から、六本木の昼食事情を理解していただければと思います。
目黒はおいしかったなぁ〜。
2012/02/13
関心がなかった白金・高輪へ──五反田〜目黒 ①
2012.1.28
【東京都】──「山手線を歩く! ④」
今回は歩くにつれ、関心がどんどん山手線を外れてしまい、だいぶ内側にくい込んでしまいました。
これまで「関係ねえや」とまるで関心の無かった白金・高輪周辺ですが、近所に越してきてアクセスがいいこともあり、歩くタイミングが訪れたという印象から足を運びました。
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ねむの木の庭(Map)
五反田・目黒付近地図の山手線内側には、公園施設とは思えない狭い区画に「ねむの木の庭」という表示が見られます。
ここには皇后美智子さんの生家である正田家(元日清製粉社長宅)があり、1999年家長の死去による相続税の一部として2001年国に物納されました。
建物保存運動の様子も目にしましたが、皇后の意志もあり2002年に解体されます。
その後品川区が国からその土地を取得し、2004年に区立公園「ねむの木の庭」とします(皇后が高校時代の作詩「ねむの木の子守歌」に由来)。
「いまは何も撮るモノはないでしょう」と、庭を管理する方のお話しのとおりで、季節ごとの花を植えていても冬場に華やかさはありません。
「5月にはプリンセス・ミチコ(バラの品種)も咲きますから」
「その時期にまた来ます」としか言いようがありません。
以前「プリンセス・ダイアナ」「プリンセス・マサコ」という品種を目にした際、「プリンセス・ミチコ」に思いが及ばなかったことを皇后は「いいんですよ」と言ってくれそうなだけに、申し訳なく思ったりしました……(上写真は垣根にはわせたバラなので、品種は違うと思います。)
天皇が心臓の手術を受けることになりました。来年で80歳ですから(昭和天皇は87歳で逝去)そんな心配が近いことも確かです。
ここは上の場所からほど近い「池田山公園」で、2度目の訪問になります。
江戸時代に岡山城主池田氏の下屋敷があったため、付近の高台が「池田山」とされたことにちなみます(訪問は東京で雪の降った週末でした)。
ここは斜面を利用した光景を楽しむ庭ですが、その上には比較的平坦な丘陵地が広がっており、現在では(上述の正田家が建てられたころとは違い)区画が広くなり高い壁に囲まれ、上からカメラがにらみを利かせるようなもう一つ上の(?)高級住宅街となっています。
「外から見られたくない」心理から塀を高くすることは理解できますが、それが高じて「外には見せられない」状況が生まれる怖さもあるのでは? と思ったりします……
そんな町の雰囲気から離れたいと白金台方面に向かう路地には、おばちゃんがせわしく魚を調理している店舗があったりします。
付近は以前も何度か歩いたことがあり、記憶に残る空気感がよみがえるようで、何だかホッとできる印象があります。
ここから八芳園に向かいますが、前回「大崎〜五反田」を歩いた足のため日も陰ってしまい、撮影は翌週とします。
2012.2.4
高輪、明治学院大学(Map)
この日は田町から、港区の地域コミュニティバス「ちぃばす」(渋谷区を走る「ハチ公バス」のようなもの)の「高輪ルート」で「高輪警察署前」まで移動しました。
他の区も同等と思われますが港区「ちぃばす」の場合は、路線や区間を問わず「1乗車100円」という分かりやすさと、都営と区営という母体の違いによるルート設定の細やかさに、その運営姿勢が見て取れます。
ご想像の通りお年寄りの足、補助器具を必要とされる方をサポートすることが目的のひとつですから、中型未満の小回りの効く車両を使用して、結構狭い道までフォローするため通勤目的には使いづらい(目的が異なる)交通手段です。
現在通勤に利用可能な「田町ルート:田町〜六本木」は25分程度かかり、同経路の地下鉄は12〜3分で着き時間は半分ですが、値段は倍になります。
利用はその時の条件次第(時間がない、お金がない)で使い分けています。
バスを降りた高輪警察署は、品川駅の背後に迫る高輪の丘陵上にあります。
高輪の地名は戦国時代の記録「高縄原:高台を通る道」の由来とされ、丘陵の中心を縦断する二本榎(えのき)通りがそれに当たるようです。
この通りは、慶應義塾の門前辺りから丘陵地に上り、三田寺町背後の尾根道として御殿山方面に続いたようです。
街道というものは昔から「歩きやすい場所」に作られたと考えれば、この尾根道は江戸時代(参勤交代に道幅が必要とされるため)海沿いに東海道が整備されるまでの主要道だったのかも知れません。
二本榎通りの中ほどに、海側に下れば泉岳寺、陸側に下れば魚籃寺(坂)に至る交差点に「伊皿子」の看板があります。当てずっぽうで「いさらご」と読んでも、何のこっちゃ? です。
明時代(室町〜江戸時代だが、江戸時代か?)の中国人「伊皿子」(いんべいす)という方が住んだとされますが、他にも「へぇ〜」程度の関連を見つけました。
江戸時代の三井財閥に「伊皿子家」という家系があり、その家系からトヨタ自動車2代目の豊田章一郎に嫁いだ女性がいたとのこと。「へぇ〜」は以上。
上写真は、高輪警察署と道をはさんだ高輪消防署二本榎出張所で、1933年(昭和8年)の落成当初は「火の見櫓から東京市が一望できた」そうです。
高輪警察署がその敷地の一部を利用させてもらうように見えるその背後には、立派ながらちょっと近代的過ぎ(?)の高野山東京別院があります。
その違和感は、地下に東京電力の変電所があるためのようです。
官・民・宗教などの協力による土地の有効活用は、平地より意識の高い丘陵地では今後も増えていくのでしょうね。
現在までこの付近で足を運んだことがあるのは後述の八芳園だけで、地図を眺め明治学院大学が隣接することを知り、礼拝堂を見に行こうというのが今回の動機のようなものでした(上写真)。
ここは1863年ジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」に始まり、男子部は明治学院、女子部はフェリス女学院へと発展します。
わたしには「ヘボン式ローマ字」の提唱者(それも大学の車内広告で知った)との認識しかありませんが、本来の名前は「Hepburn:オードリー・ヘプバーンと同じ」(ヘップバーンじゃないらしい)なので日本人に発声しづらいことを認識し、みずから「逆ヘボン式?」で日本向けの表記(ニックネーム)とします。
この日はタイミング悪く「入学試験日」にあたり、門が閉められています。もちろん邪魔しないように門の外をウロウロしておりました。
右の建物は接近して、木材で描かれた模様をアップで撮りたかったのですが、3枚並んだ「高輪尖塔(せんとう)コレクション」と受け止めてもらえれば、というところです。
八芳園(はっぽうえん)(Map)
ここは八芳園(結婚式場・宴会場)の庭園で、古くは大久保彦左衛門(徳川家康の家臣ですが、「天下のご意見番」は当時の講談による創作のようです)の屋敷があったらしく、大正期に久原房之助(鉱山王と呼ばれ日立製作所の創設者とされる)の手で整備され、1950年(昭和25年)に「八芳園」として創業します。
──以前、スパリゾートハワイアンズのルーツが日立製作所と書いた覚えがあり調べると、スパ経営会社の常磐興産(株)が採掘した常磐炭田には、日立銅山も含まれることから混同したようです。訂正させてください。
八芳園の名には「この庭は裏・表なく八方から眺めて美しい」等の意味があるそうです。
広い敷地確保が難しいこの国の庭園では、空間の広がりを表現するために高低差や遠近法などの演出が用いられますが、解決法のひとつに「傾斜地」の利用があります。
広さを要求できない日本の事情から生まれた「箱庭的表現」として、受け手側にも伝わる手段ですし、狭い国土をいかに「豊かに見せる工夫をするか」という課題は、われわれの中にも確実に流れる「島国民族の意識」のように思ったりします。
ずいぶん前になりますが、大学時代の後輩の結婚披露宴に出席の際(と思う)「立派な庭だこと」の記憶をたどりたく足が向きました。
ですが庭園入口には「当施設ご利用の方以外はご遠慮下さい」とあります。
「庭と再会したかったんだ!」と、自分のいい訳を作って潜り込みました(これ読まれたら怒られそうですが、宣伝するのでご勘弁を……)。
上写真は宴会・披露宴用の建物を垣根越しにのぞきましたが、赤毛氈(もうせん)には暖かみが感じられますし、手前の梅にはまだ硬そうですがつぼみが見られます。寒さももう少しの辛抱です!
この壁を作る際には、装飾のため材料が集められたのだと思われます。
ですがもともとこの手の装飾は、「手元にあるものを使って飾れないものか?」との創意工夫から生まれたのでしょう。
ルーツは京都ではなかったとしても、「日本的:京風」なもてなしを感じた際には、質素ながらも相手を和ませる「粋」な気づかいが大切と理解するのですが、実践するのはとても難しかったりします……
実はこの写真を撮り直したかったので、前週の夕方に撮った写真は全部ボツにしました(計2回もぐり込んだことになります)。
慶事等で利用されることが多いため、池には紅白の錦鯉が多く、たまに金の鯉も見られるように、利用客は「わがままの群れ」ですから、その要求を受け止める側には相当な覚悟が必要になります。
施設側の目標として「お客様全員に120%の満足を!」を掲げるにせよ、その実現は並大抵のことではありません。
困難ではあっても「めでたい席」をそれなりにサポートできたなら、満足を感じた人たちは惜しみなくお金を使ってくれるのでしょうね……
久しぶりに見事な庭園を散歩させてもらい大満足でした(利用者でないと分かりながらもとがめようとしない八芳園に感謝!)。
土地を買い足し現在の敷地を確保し、地形を生かした庭園造営を目指した久原房之助が抱いた「自分は庭づくりなどはしない。自然を整えるのだ」の理念が現在でも受け継がれているからこそ、その空間に接したわれわれの心が動くのだと思います。
写真も文章も多くなってしまい「五反田〜目黒」の回は
TO BE CONTINUED...
【東京都】──「山手線を歩く! ④」
今回は歩くにつれ、関心がどんどん山手線を外れてしまい、だいぶ内側にくい込んでしまいました。
これまで「関係ねえや」とまるで関心の無かった白金・高輪周辺ですが、近所に越してきてアクセスがいいこともあり、歩くタイミングが訪れたという印象から足を運びました。
より大きな地図で 山手線を歩く を表示
ねむの木の庭(Map)
五反田・目黒付近地図の山手線内側には、公園施設とは思えない狭い区画に「ねむの木の庭」という表示が見られます。
ここには皇后美智子さんの生家である正田家(元日清製粉社長宅)があり、1999年家長の死去による相続税の一部として2001年国に物納されました。
建物保存運動の様子も目にしましたが、皇后の意志もあり2002年に解体されます。
その後品川区が国からその土地を取得し、2004年に区立公園「ねむの木の庭」とします(皇后が高校時代の作詩「ねむの木の子守歌」に由来)。
「いまは何も撮るモノはないでしょう」と、庭を管理する方のお話しのとおりで、季節ごとの花を植えていても冬場に華やかさはありません。
「5月にはプリンセス・ミチコ(バラの品種)も咲きますから」
「その時期にまた来ます」としか言いようがありません。
以前「プリンセス・ダイアナ」「プリンセス・マサコ」という品種を目にした際、「プリンセス・ミチコ」に思いが及ばなかったことを皇后は「いいんですよ」と言ってくれそうなだけに、申し訳なく思ったりしました……(上写真は垣根にはわせたバラなので、品種は違うと思います。)
天皇が心臓の手術を受けることになりました。来年で80歳ですから(昭和天皇は87歳で逝去)そんな心配が近いことも確かです。
ここは上の場所からほど近い「池田山公園」で、2度目の訪問になります。
江戸時代に岡山城主池田氏の下屋敷があったため、付近の高台が「池田山」とされたことにちなみます(訪問は東京で雪の降った週末でした)。
ここは斜面を利用した光景を楽しむ庭ですが、その上には比較的平坦な丘陵地が広がっており、現在では(上述の正田家が建てられたころとは違い)区画が広くなり高い壁に囲まれ、上からカメラがにらみを利かせるようなもう一つ上の(?)高級住宅街となっています。
「外から見られたくない」心理から塀を高くすることは理解できますが、それが高じて「外には見せられない」状況が生まれる怖さもあるのでは? と思ったりします……
そんな町の雰囲気から離れたいと白金台方面に向かう路地には、おばちゃんがせわしく魚を調理している店舗があったりします。
付近は以前も何度か歩いたことがあり、記憶に残る空気感がよみがえるようで、何だかホッとできる印象があります。
ここから八芳園に向かいますが、前回「大崎〜五反田」を歩いた足のため日も陰ってしまい、撮影は翌週とします。
2012.2.4
高輪、明治学院大学(Map)
この日は田町から、港区の地域コミュニティバス「ちぃばす」(渋谷区を走る「ハチ公バス」のようなもの)の「高輪ルート」で「高輪警察署前」まで移動しました。
他の区も同等と思われますが港区「ちぃばす」の場合は、路線や区間を問わず「1乗車100円」という分かりやすさと、都営と区営という母体の違いによるルート設定の細やかさに、その運営姿勢が見て取れます。
ご想像の通りお年寄りの足、補助器具を必要とされる方をサポートすることが目的のひとつですから、中型未満の小回りの効く車両を使用して、結構狭い道までフォローするため通勤目的には使いづらい(目的が異なる)交通手段です。
現在通勤に利用可能な「田町ルート:田町〜六本木」は25分程度かかり、同経路の地下鉄は12〜3分で着き時間は半分ですが、値段は倍になります。
利用はその時の条件次第(時間がない、お金がない)で使い分けています。
バスを降りた高輪警察署は、品川駅の背後に迫る高輪の丘陵上にあります。
高輪の地名は戦国時代の記録「高縄原:高台を通る道」の由来とされ、丘陵の中心を縦断する二本榎(えのき)通りがそれに当たるようです。
この通りは、慶應義塾の門前辺りから丘陵地に上り、三田寺町背後の尾根道として御殿山方面に続いたようです。
街道というものは昔から「歩きやすい場所」に作られたと考えれば、この尾根道は江戸時代(参勤交代に道幅が必要とされるため)海沿いに東海道が整備されるまでの主要道だったのかも知れません。
二本榎通りの中ほどに、海側に下れば泉岳寺、陸側に下れば魚籃寺(坂)に至る交差点に「伊皿子」の看板があります。当てずっぽうで「いさらご」と読んでも、何のこっちゃ? です。
明時代(室町〜江戸時代だが、江戸時代か?)の中国人「伊皿子」(いんべいす)という方が住んだとされますが、他にも「へぇ〜」程度の関連を見つけました。
江戸時代の三井財閥に「伊皿子家」という家系があり、その家系からトヨタ自動車2代目の豊田章一郎に嫁いだ女性がいたとのこと。「へぇ〜」は以上。
上写真は、高輪警察署と道をはさんだ高輪消防署二本榎出張所で、1933年(昭和8年)の落成当初は「火の見櫓から東京市が一望できた」そうです。
高輪警察署がその敷地の一部を利用させてもらうように見えるその背後には、立派ながらちょっと近代的過ぎ(?)の高野山東京別院があります。
その違和感は、地下に東京電力の変電所があるためのようです。
官・民・宗教などの協力による土地の有効活用は、平地より意識の高い丘陵地では今後も増えていくのでしょうね。
現在までこの付近で足を運んだことがあるのは後述の八芳園だけで、地図を眺め明治学院大学が隣接することを知り、礼拝堂を見に行こうというのが今回の動機のようなものでした(上写真)。
ここは1863年ジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」に始まり、男子部は明治学院、女子部はフェリス女学院へと発展します。
わたしには「ヘボン式ローマ字」の提唱者(それも大学の車内広告で知った)との認識しかありませんが、本来の名前は「Hepburn:オードリー・ヘプバーンと同じ」(ヘップバーンじゃないらしい)なので日本人に発声しづらいことを認識し、みずから「逆ヘボン式?」で日本向けの表記(ニックネーム)とします。
この日はタイミング悪く「入学試験日」にあたり、門が閉められています。もちろん邪魔しないように門の外をウロウロしておりました。
右の建物は接近して、木材で描かれた模様をアップで撮りたかったのですが、3枚並んだ「高輪尖塔(せんとう)コレクション」と受け止めてもらえれば、というところです。
八芳園(はっぽうえん)(Map)
ここは八芳園(結婚式場・宴会場)の庭園で、古くは大久保彦左衛門(徳川家康の家臣ですが、「天下のご意見番」は当時の講談による創作のようです)の屋敷があったらしく、大正期に久原房之助(鉱山王と呼ばれ日立製作所の創設者とされる)の手で整備され、1950年(昭和25年)に「八芳園」として創業します。
──以前、スパリゾートハワイアンズのルーツが日立製作所と書いた覚えがあり調べると、スパ経営会社の常磐興産(株)が採掘した常磐炭田には、日立銅山も含まれることから混同したようです。訂正させてください。
八芳園の名には「この庭は裏・表なく八方から眺めて美しい」等の意味があるそうです。
広い敷地確保が難しいこの国の庭園では、空間の広がりを表現するために高低差や遠近法などの演出が用いられますが、解決法のひとつに「傾斜地」の利用があります。
広さを要求できない日本の事情から生まれた「箱庭的表現」として、受け手側にも伝わる手段ですし、狭い国土をいかに「豊かに見せる工夫をするか」という課題は、われわれの中にも確実に流れる「島国民族の意識」のように思ったりします。
ずいぶん前になりますが、大学時代の後輩の結婚披露宴に出席の際(と思う)「立派な庭だこと」の記憶をたどりたく足が向きました。
ですが庭園入口には「当施設ご利用の方以外はご遠慮下さい」とあります。
「庭と再会したかったんだ!」と、自分のいい訳を作って潜り込みました(これ読まれたら怒られそうですが、宣伝するのでご勘弁を……)。
上写真は宴会・披露宴用の建物を垣根越しにのぞきましたが、赤毛氈(もうせん)には暖かみが感じられますし、手前の梅にはまだ硬そうですがつぼみが見られます。寒さももう少しの辛抱です!
この壁を作る際には、装飾のため材料が集められたのだと思われます。
ですがもともとこの手の装飾は、「手元にあるものを使って飾れないものか?」との創意工夫から生まれたのでしょう。
ルーツは京都ではなかったとしても、「日本的:京風」なもてなしを感じた際には、質素ながらも相手を和ませる「粋」な気づかいが大切と理解するのですが、実践するのはとても難しかったりします……
実はこの写真を撮り直したかったので、前週の夕方に撮った写真は全部ボツにしました(計2回もぐり込んだことになります)。
慶事等で利用されることが多いため、池には紅白の錦鯉が多く、たまに金の鯉も見られるように、利用客は「わがままの群れ」ですから、その要求を受け止める側には相当な覚悟が必要になります。
施設側の目標として「お客様全員に120%の満足を!」を掲げるにせよ、その実現は並大抵のことではありません。
困難ではあっても「めでたい席」をそれなりにサポートできたなら、満足を感じた人たちは惜しみなくお金を使ってくれるのでしょうね……
久しぶりに見事な庭園を散歩させてもらい大満足でした(利用者でないと分かりながらもとがめようとしない八芳園に感謝!)。
土地を買い足し現在の敷地を確保し、地形を生かした庭園造営を目指した久原房之助が抱いた「自分は庭づくりなどはしない。自然を整えるのだ」の理念が現在でも受け継がれているからこそ、その空間に接したわれわれの心が動くのだと思います。
写真も文章も多くなってしまい「五反田〜目黒」の回は
TO BE CONTINUED...
2012/02/06
「ついてねぇ、大崎止まりだ!」──大崎〜五反田
2012.1.28
【東京都】──「山手線を歩く! ③」
このところ東京では「この冬一番の寒さ」が日々更新されている印象がありますが、ひと息つける陽気が一日でもあると「この辺が底であって欲しい」と思うと同時に、春への期待感が芽ばえてきます。
全国的にインフルエンザは「警戒レベル」とされますから、まだしばらくは気を緩めぬようお気をつけ下さい。
より大きな地図で 山手線を歩く を表示
大崎駅(Map)
これまで大崎駅にはあまり縁がなかったため、少し前にでっかいビルが建ったことと、以前なぜか「キャッツシアター」があった程度の印象と言ったら、住民の方に怒られるか?
そうそう、山手線には「大崎止まり」ってやつがありますが、目的地が大崎より先の場合、あなたは乗りますか? 次を待ちますか? 普段から遅刻のいい訳に使いますか?
自分は乗る派ですが、他で車両故障があり「このまま運行します」の○もあるが、大崎駅で次の電車が来ないと地下鉄がないため、埼京線・りんかい線の開通以前には、ホームで立ち往生した×もあるので、悩ましい選択肢ではあります。
それは車両基地があるためで、山手線の運転ダイヤは始終点である大崎駅が基準とされます。
そんなのどうでもいいけど「ついてねぇ、大崎止まりだ!」と、憎まれ役としての認知度が高い気がします……
上写真は、山手線、新幹線・横須賀線と、湘南新宿ライナー・りんかい線・車庫線の交わるトライアングル地帯なので、鉄道マニアがいそうと思うも人影はなく、車両が通る度にほえる電車好きな犬(って結構いますよね)の姿しかありませんでした。
居木(いるき)神社(Map)
ここは丘の上にたたずむ居木神社で、創建年代は不明ですが現在の山手通り居木橋付近にあったとされます。
室町時代に品川宿から多摩方面への街道整備に伴い、目黒川に居木橋がかけられます。
古い地図は見てませんが、現在の地形からもおそらく目黒付近から川の周辺では氾らんが繰り返されたように思えますし、大崎から河口に広がる三角州のような場所に八つ山を削った土砂を利用して品川宿が整備された絵が思い浮かびます。
「浮浪雲:はぐれぐも(ビックコミックオリジナルに現在も掲載中らしい)」はそんな場所に出没したのでしょう……
上写真は門前にある、居木橋貝塚から掘り出された石で作られた灯ろうですが(ガサガサした表面は貝殻等のせい)、結構しっかりした石なので、貝塚ではないような気もします。
大崎という地名は、山手線内側にある御殿山とは目黒川をはさんだ西側に位置し、戸越や馬込の仲間である下町に属します。
それら集落の広がる丘陵地が東京湾に大きく突き出した姿は想像できるので、古くから住みやすい土地柄だったようです(地名由来には他説もある)。ちょうどこの辺りに江戸市中との境界線が引かれました。
この神社に奉納される絵馬には文字がくり抜かれた、厄除、八方ふさがり除、病門除、鬼門除、災難除の5種類があります。
「先を見通す」等の意味かと思ったら、手にした時点では抜かれる部分に彩色された「文字:災い」があるので、それを「落として」祈るそうです。
自分の手で不安を落とす行為には、きっとプラスαの実感が得られることでしょう。いいアイディアと納得です。
ゲートシティ大崎(Map)
でかい建物なのに山手線の車窓から見えないこともあり、「できたらしい」(1999年オーブン)印象のまま現在に至り、今回初めて足を踏み入れその施設の立派さに驚きました。
計画段階でバブル崩壊の影響を受け、見直し後の建造物がこれですから「バブルの後ろ髪を引かれる」印象が強く、運営が成り立つのか疑問に感じたりします。
以前はソニー・明電舎等の工場があった目黒川沿いの土地柄から周辺の再開発は進みませんが、2002年の埼京線・りんかい線・湘南新宿ライン開通から開発が加速されます(目黒川の洪水対策はクリアできたんですよね?)。
土曜日訪問のためビジネス街の日常風景はうかがえませんが、飲食店街には「参ったなぁ、いつまでもつやら」の声が聞こえそうな印象がありました。
その一方、誰でも利用可能なフリースペースは盛況で、かなり広い円弧状のガラス越しに景色を眺められる座席は、全部埋まっています。
大規模再開発には、自治体や住民の意向を取り入れるよう定めた条例等があるのでしょうね、ここでの勝者は周辺住民ではないか、という気がします。
施設内には長めの動く歩道が複線であり、それをよろこぶ幼児が両親を引き連れて何度も往復してたりします。人の少ない土日の楽しみなのでしょう。
外は寒いですし、施設内で遊べば省エネになりますから……
大崎ニューシティ(Map)
ここは上述施設より早い1987年に完成した「大崎ニューシティ」で、名称は「?」ですが「ゲートシティ大崎」よりはるかにコンセプトが明確な再開発地区です(以前星製薬・日本精工の工場があった場所)。
オフィス棟と共に、ホテルニューオータニイン東京の宿泊施設、美術館、飲食店街が上写真の「O歩道橋:英字Oの形状による」で駅と結ばれ、ここにはサンリオ本社などが入居しています。
なぜ大崎の再開発が大規模かというと、1958年東京都が都心の機能分散を目的に池袋、新宿、渋谷を副都心に指定したことに始まり、1982年に上野・浅草、錦糸町・亀戸、大崎が、1995年には臨海副都心が追加され、7カ所が副都心(業務指定地区)に指定されたことによります。
当時耳にしたら、上野・浅草や錦糸町・亀戸と大崎が並ぶの? と思ったでしょうが、当局側には、りんかい線や湘南新宿ライナー開通のビジョンがあったようです。
いまどきでは、品川の方がふさわしいように思いますが、あの一帯は都が旗を振らずも民間企業主導で再開発が成立する、との読みは正しかったようで、メインの開発は民間主導に任せ、余り物(売れない土地)を都が面倒を見るようなスタンスに見えてきます。
アートヴィレッジ大崎(Map)
映画『スタートレック』に登場した宇宙船のような構造物が迎えてくれるのが「アートヴィレッジ大崎」で、ホームページを見てもよく分からないオフィスビルと、賃料月20万円以上の賃貸マンション棟があります(手前のビルには「日立システムズ」の看板がありそこだけは分かりやすかった)。
上写真も一環なのでしょう、ゲートシティも含めて周囲を「アート作品で飾ろう」とする、「アートで島おこし:生口島、直島、佐久島」的なコンセプトがあるようです。
田舎町であれば、多少気に入らない作品でも周囲のロケーションが借景として助けてくれますが、ビルの谷間では和ませようとする意図も伝わらず、「邪魔くせえ」と感じる「アート?」が結構多かったりしませんか?
アートは主張ですから、それがうるさいと感じるのでしょうね……
このビル群が建つ前に山手線から見えた「何でこの地に?」のキャッツシアターは、横浜みなとみらいに移転しました(跡地には大きなビルが建っているようです)。
大崎広小路(Map)
山手通りを五反田方面に向かうと、道路脇のバリケードの中に、巨大なタイヤを片側に8本も付けた(計16本以上?)クレーン車が止められています。
通り沿いの地下を通される「首都高の建設現場」と思うも、東急池上線「大崎広小路駅」付近の路上に巨大な橋桁が置かれる姿(上写真)を目にすると、「これを持ち上げるためか!」に結びつくので、かけ替え作業直前だったようです。
古い橋桁を外し、新しい橋桁をのせるのですから、通りを通行止めにできる深夜の作業になるのでしょう。
その付近の橋脚を見ると、年月を経てヒビだらけの頼りない姿に見えますから、東急沿線では大きな工事が続いたこともありますが、後回しとされたローカル線(?)でも、ようやく重い腰をあげたような印象を受けます……
【東京都】──「山手線を歩く! ③」
このところ東京では「この冬一番の寒さ」が日々更新されている印象がありますが、ひと息つける陽気が一日でもあると「この辺が底であって欲しい」と思うと同時に、春への期待感が芽ばえてきます。
全国的にインフルエンザは「警戒レベル」とされますから、まだしばらくは気を緩めぬようお気をつけ下さい。
より大きな地図で 山手線を歩く を表示
大崎駅(Map)
これまで大崎駅にはあまり縁がなかったため、少し前にでっかいビルが建ったことと、以前なぜか「キャッツシアター」があった程度の印象と言ったら、住民の方に怒られるか?
そうそう、山手線には「大崎止まり」ってやつがありますが、目的地が大崎より先の場合、あなたは乗りますか? 次を待ちますか? 普段から遅刻のいい訳に使いますか?
自分は乗る派ですが、他で車両故障があり「このまま運行します」の○もあるが、大崎駅で次の電車が来ないと地下鉄がないため、埼京線・りんかい線の開通以前には、ホームで立ち往生した×もあるので、悩ましい選択肢ではあります。
それは車両基地があるためで、山手線の運転ダイヤは始終点である大崎駅が基準とされます。
そんなのどうでもいいけど「ついてねぇ、大崎止まりだ!」と、憎まれ役としての認知度が高い気がします……
上写真は、山手線、新幹線・横須賀線と、湘南新宿ライナー・りんかい線・車庫線の交わるトライアングル地帯なので、鉄道マニアがいそうと思うも人影はなく、車両が通る度にほえる電車好きな犬(って結構いますよね)の姿しかありませんでした。
居木(いるき)神社(Map)
ここは丘の上にたたずむ居木神社で、創建年代は不明ですが現在の山手通り居木橋付近にあったとされます。
室町時代に品川宿から多摩方面への街道整備に伴い、目黒川に居木橋がかけられます。
古い地図は見てませんが、現在の地形からもおそらく目黒付近から川の周辺では氾らんが繰り返されたように思えますし、大崎から河口に広がる三角州のような場所に八つ山を削った土砂を利用して品川宿が整備された絵が思い浮かびます。
「浮浪雲:はぐれぐも(ビックコミックオリジナルに現在も掲載中らしい)」はそんな場所に出没したのでしょう……
上写真は門前にある、居木橋貝塚から掘り出された石で作られた灯ろうですが(ガサガサした表面は貝殻等のせい)、結構しっかりした石なので、貝塚ではないような気もします。
大崎という地名は、山手線内側にある御殿山とは目黒川をはさんだ西側に位置し、戸越や馬込の仲間である下町に属します。
それら集落の広がる丘陵地が東京湾に大きく突き出した姿は想像できるので、古くから住みやすい土地柄だったようです(地名由来には他説もある)。ちょうどこの辺りに江戸市中との境界線が引かれました。
この神社に奉納される絵馬には文字がくり抜かれた、厄除、八方ふさがり除、病門除、鬼門除、災難除の5種類があります。
「先を見通す」等の意味かと思ったら、手にした時点では抜かれる部分に彩色された「文字:災い」があるので、それを「落として」祈るそうです。
自分の手で不安を落とす行為には、きっとプラスαの実感が得られることでしょう。いいアイディアと納得です。
ゲートシティ大崎(Map)
でかい建物なのに山手線の車窓から見えないこともあり、「できたらしい」(1999年オーブン)印象のまま現在に至り、今回初めて足を踏み入れその施設の立派さに驚きました。
計画段階でバブル崩壊の影響を受け、見直し後の建造物がこれですから「バブルの後ろ髪を引かれる」印象が強く、運営が成り立つのか疑問に感じたりします。
以前はソニー・明電舎等の工場があった目黒川沿いの土地柄から周辺の再開発は進みませんが、2002年の埼京線・りんかい線・湘南新宿ライン開通から開発が加速されます(目黒川の洪水対策はクリアできたんですよね?)。
土曜日訪問のためビジネス街の日常風景はうかがえませんが、飲食店街には「参ったなぁ、いつまでもつやら」の声が聞こえそうな印象がありました。
その一方、誰でも利用可能なフリースペースは盛況で、かなり広い円弧状のガラス越しに景色を眺められる座席は、全部埋まっています。
大規模再開発には、自治体や住民の意向を取り入れるよう定めた条例等があるのでしょうね、ここでの勝者は周辺住民ではないか、という気がします。
施設内には長めの動く歩道が複線であり、それをよろこぶ幼児が両親を引き連れて何度も往復してたりします。人の少ない土日の楽しみなのでしょう。
外は寒いですし、施設内で遊べば省エネになりますから……
大崎ニューシティ(Map)
ここは上述施設より早い1987年に完成した「大崎ニューシティ」で、名称は「?」ですが「ゲートシティ大崎」よりはるかにコンセプトが明確な再開発地区です(以前星製薬・日本精工の工場があった場所)。
オフィス棟と共に、ホテルニューオータニイン東京の宿泊施設、美術館、飲食店街が上写真の「O歩道橋:英字Oの形状による」で駅と結ばれ、ここにはサンリオ本社などが入居しています。
なぜ大崎の再開発が大規模かというと、1958年東京都が都心の機能分散を目的に池袋、新宿、渋谷を副都心に指定したことに始まり、1982年に上野・浅草、錦糸町・亀戸、大崎が、1995年には臨海副都心が追加され、7カ所が副都心(業務指定地区)に指定されたことによります。
当時耳にしたら、上野・浅草や錦糸町・亀戸と大崎が並ぶの? と思ったでしょうが、当局側には、りんかい線や湘南新宿ライナー開通のビジョンがあったようです。
いまどきでは、品川の方がふさわしいように思いますが、あの一帯は都が旗を振らずも民間企業主導で再開発が成立する、との読みは正しかったようで、メインの開発は民間主導に任せ、余り物(売れない土地)を都が面倒を見るようなスタンスに見えてきます。
アートヴィレッジ大崎(Map)
映画『スタートレック』に登場した宇宙船のような構造物が迎えてくれるのが「アートヴィレッジ大崎」で、ホームページを見てもよく分からないオフィスビルと、賃料月20万円以上の賃貸マンション棟があります(手前のビルには「日立システムズ」の看板がありそこだけは分かりやすかった)。
上写真も一環なのでしょう、ゲートシティも含めて周囲を「アート作品で飾ろう」とする、「アートで島おこし:生口島、直島、佐久島」的なコンセプトがあるようです。
田舎町であれば、多少気に入らない作品でも周囲のロケーションが借景として助けてくれますが、ビルの谷間では和ませようとする意図も伝わらず、「邪魔くせえ」と感じる「アート?」が結構多かったりしませんか?
アートは主張ですから、それがうるさいと感じるのでしょうね……
このビル群が建つ前に山手線から見えた「何でこの地に?」のキャッツシアターは、横浜みなとみらいに移転しました(跡地には大きなビルが建っているようです)。
大崎広小路(Map)
山手通りを五反田方面に向かうと、道路脇のバリケードの中に、巨大なタイヤを片側に8本も付けた(計16本以上?)クレーン車が止められています。
通り沿いの地下を通される「首都高の建設現場」と思うも、東急池上線「大崎広小路駅」付近の路上に巨大な橋桁が置かれる姿(上写真)を目にすると、「これを持ち上げるためか!」に結びつくので、かけ替え作業直前だったようです。
古い橋桁を外し、新しい橋桁をのせるのですから、通りを通行止めにできる深夜の作業になるのでしょう。
その付近の橋脚を見ると、年月を経てヒビだらけの頼りない姿に見えますから、東急沿線では大きな工事が続いたこともありますが、後回しとされたローカル線(?)でも、ようやく重い腰をあげたような印象を受けます……
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