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薬研(やげん)堀(Map)
右の薬研堀不動院は、豊臣秀吉に滅ぼされた現在の和歌山県にある根来(ねごろ)寺の僧侶が逃げ延び建立した寺で、現在は川崎大師の東京別院。
付近がやげん堀だったと知り、浅草「やげん堀 七味唐辛子本舗」を思い浮かべます(付近から浅草へ移転)。
ガキ時分に感じた、ひょうたん型の木製容器から漂う「香りの記憶:山椒+α」はいまも残ります。
使い切っても「香りは残ってる」と別の七味を入れる貧乏くさい心情は、現在でも理解できる気がします。
薬味とは、香りや味の強い香味料の総称で、ハーブやスパイスも含まれるが、東洋でのルーツは漢方の生薬のため、ありがたい「香り」と感じたのかも……
上はゴミではなく、装飾品店のディスプレイに飾られる(?)ファスナーの金具。
近所にある横山町・馬喰町問屋街 (服飾・生活雑貨等)の流れらしいが、その存在を知らないので避けるように歩いていました。
浅草橋から蔵前の問屋街(人形・ディスプレイ等)は楽しめたので、是非とも歩かねばと思っています。
両国橋(Map)
江戸時代の隅田川では千住大橋(日光街道東照宮への道)に次いで架けられ、当初二代目「大橋」の名も、川が武蔵・下総の国境から呼ばれた通称が正式名称とされます。
当時橋の西岸(浅草側)に設けられた「両国広小路:防災用の空き地」では、仮設小屋の営業が認められ、見せ物小屋等が立ち並ぶ江戸一番の盛り場となります。
小屋では曲芸、小芝居(寺社境内等の芝居)、舶来鳥獣等が見物でき、「お代は見てのお帰り:満足してからの後払い」という大道芸の投げ銭方式が人を集めました。
城に近いお膝元ゆえ「いかさま」の取り締まりが厳しいも、客はいかさまも「見せ物」として楽しんだとのこと。
庶民がおおらかなのですから、きっといい時代だったのでしょう……
西岸のテラス壁面に続くモダンな装飾は、外国人旅行者を意識したのか、われわれも「ここ隅田川?」と驚かされます。
自分も「バカ言うなよ!」の口でしたが、「隅田川散策はデートに使える!」現状まで努力された方々は、おそらく「してやったり!」の表情ではないか?
付近の現実的な整備方針は理解できますが、上流同様のスーパー堤防化を理想像として、夢物語(堤防の緑地化)をめざしてもらいたい……レンガ塀の装飾から、上流の「あらかわ遊園」付近にあった煉瓦工場と、関東大震災で半壊した「凌雲閣(浅草十二階:レンガ造りの10階建て+2階分の木造建築物)」という地域の記憶を思い浮かべます(レンガ造りの10階建ては無謀だったか?)。
浅草「神谷バー」のビル(1921年 大正10年)は、関東大震災、東京大空襲(内部は焼けた)も生き延びた鉄筋コンクリート造りで、ビルを建てたオーナーの心意気を讃えたい!(外装はタイル張りか?) 評価は「2011年 国の登録有形文化財登録」のお墨付き。
日本橋町界隈(Map)
新大橋〜清洲橋間の西岸には日本橋消防署の出張所があり、桟橋には消防艇が並びます。
管轄地域に河川や海があれば水上部隊は必要ですが、該当する消防署は多そうなので、設備に加え署員も船舶免許が必須だったりするのか?
船乗りにとって船は第2の生活空間なので、概して生活感ムンムンですが、右の船には貫録があります。
前回オリンピックの際、横浜桜木町付近の水上生活者は一掃されましたが、その間に定着した人は、次のオリンピックの際にはどうなるのか……
追記──皆既月食をチラッと(10月8日)
皆既食が終わるころ、わずかに雲間から顔を見せてくれました。200mmの望遠では十分!(トリミングのみ)
小学生時代の、初めて皆既月食と遭遇した興奮や状況がいまだによみがえるので、ガキ時分の経験の大切さを思い知りますし、この天体ショーのときだけに広がる光景と、今度いつ会えるのだろう? とも……
──日食にも使われる皆既の「既」は尽きるの意で、「光を失う」状態の表現らしい。
追記──祝 ノーベル物理学賞受賞(赤﨑、天野、中村先生)!
世界の研究者が夢見る賞とされますが、方々には「夢の実現」という輝かしい実績が、またたく間に「世界に広まった」こと以上のよろこびはないと思うも、このご褒美を手にして改めて「名を残した」実感がわいてくるのかも知れません。
若者よ「理系に大志を抱け!」です。
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