2014.10.4【東京都】──「隅田川を歩く_30」
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明石町周辺(Map)
明治初期に外国人居留地とされた明石町周辺は、その恩恵により文明開化の中心地とされ、電信、大学(慶応、立教、明学)、活字等々の日本発祥地とされます。
居留地廃止後も聖路加国際病院が残されたおかげで、周辺は空襲被害を免れました。
再開発地区の川岸は、スーパー堤防化によりゆとりある緩衝帯が設けられるも、未完の地域には浅草付近同様のレンガ装飾が残ります(雰囲気はとてもいい)。
月島(Map)
右は建築デザイナーの思いつきとしても「月島の月」に見えるのは、島の形から三日月を想起するせいか?
ですが島の名称由来は、月見名所の「月の岬」(三田魚籃寺付近の高台)によるとは驚きました。
高層マンション建設ラッシュの現在では月も隠れそうですが、月見の席では、月明かりの海に浮かぶ船影を酒の肴にしたようです……
上は再開発の波に覚悟を決めたらしい住宅ですが、右は新しいビルの角地に居座り続ける飲食店長屋で、根性は見上げるもこの対比には笑ってしまう(勝ちどき付近)。
そんな心意気が受けるのか、どの店も夕方から人が集まる人気店らしい。
しかしハマり過ぎで、大資本相手にも「どっこい生きる勝ちどき衆!」、などの地域アピール的施設ではないか? と、勘ぐりたくなります……
勝鬨橋(かちどきばし)(Map)
上流から数々の橋を見てきましたが、隅田川に架かる橋の「大とり」的な存在で、重厚な姿には現在も背負わされた重みが感じられます。
明治期に埋め立てられた月島は臨海工業地とされるも、橋の無い離れ島でした。
月島で開催予定の日本万国博覧会(結局中止)を契機に架橋され、外国の手を借りず日本の力で「格式」「技術」を示すべく、当時の最高技術が注がれた橋です。
しかし、完成の1940年は第二次世界大戦開戦の前年で、世界から孤立した国の自己満足的な存在となります。
空襲で攻撃されなかったのは、近くの聖路加病院のおかげではなく、占領後に橋は必要と考えたからでしょう。
環状2号線 隅田川橋りょう(Map)
最初のレンガ塀以降は月島側の写真ばかりなのは、再開発が加速される中も散策を楽しめ、隅田川を隔てた「下町側の色を失わない」魅力を伝えたかったためですが、オリンピックは敵になるのか? 6年後はいかに……
上は現在工事中の環状2号線 隅田川橋りょうで、オリンピック会場の晴海・豊洲・有明と築地・新橋を結びます(まだMapも未更新のため、イメージも中途半端)。
空に向かい翼を広げるような印象を、万歳と受け止める方もいそうですが、これは平和に対する感謝の表現です……
隅田川河口付近で工事中の新橋が中央にアーチ持つのは、背後にある勝鬨橋が両脇にアーチを持つ姿への配慮で、河口側からの波が重なるような姿はエレガントです(竹芝桟橋より)。
橋を渡る道路の先、豊洲〜有明にも橋桁の低い橋が架けられており、陸地側への大型船航行の門が閉ざされました。
それは、勝鬨橋はもう開かないことのアピールで、今後は工場ではなく商業・宅地利用を進める宣言となります。
また、勝鬨橋が隅田川第1橋梁(最も河口側)の座を追われたことで、「かちどき:日露戦争勝利の雄叫び」も封印されます……
隅田川河口(Map)
隅田川は、荒川から分岐する新岩淵水門から全長23.5kmとされ、河口は竹芝桟橋付近らしいと地図を眺めると、役所仕事っぽい線が見えてきます。
上の白線は豊海・晴海桟橋前面を結んだラインで、その延長上の竹芝桟橋からの絵。
国土交通省は陸上の建造物から物事をはかる役所とすれば、荒川の管理範囲を新岩淵水門〜豊海・晴海桟橋で区切れそうですし、ストンと腑に落ちます。
以上で、全長23.5kmにしては寄り道で長々歩いた「隅田川を歩く」シリーズは終了となります(両国〜門前仲町・越中島は「大江戸線を歩く」で歩いたので立ち寄らず)。
これまで「人情」ばかりに目が向いていましたが、それは震災や戦後の焼け野原から立ち上がり、「隅田川工業地帯」を支え合う人々の生きるすべであることを学びました。
後回しのまま忘れてしまった、映画『下町の太陽』(リンク先YouTubeの倍賞さんには見とれちゃいます)については何かの機会に。
追記──ドクターイエローを目にしたが……
ドクターイエローとは、新幹線の軌道・電気設備・信号設備等を調べる検査車両で、黄色い車体からの愛称。
近所の跨線橋(札の辻橋)で、架線とパンタグラフの接触部分に照明を当てながら走る車両を目にし「彼にちがいない!」と。
「ドクターイエローを目にすると幸せになれる」らしいも、「べつに〜」……
幸せの黄色い新幹線よ! 設備点検だけはしっかり頼みます。
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