2015/06/29

教会と結婚式場の違い──目白台

2015.5.30【東京都】──「神田川を歩く_24」



日本女子大学

 日本最初の女子高等教育機関として、1901年(明治34年)大隈重信、伊藤博文、近衞篤麿(学習院院長)、西園寺公望(文部大臣)、渋沢栄一、岩崎弥之助等の支援+三井財閥の土地寄贈など、当時のオールジャパンにより設立された教育機関です。
 「良妻賢母」でなく「欧米の貴婦人と対峙できる日本女性の育成」を目指したのは、日本の男はジェントルマンを気取るだけと見透かされたからでは?

 右の成瀬記念講堂は図書館兼講堂として建設されますが、ステンドグラスのある内部はスゴそう!(未見)


目白台運動公園


 「文京区目白台」「田中」の表札がある目白御殿(現在は御殿じゃない?)に隣接するグラウンドには、天然芝のまぶしいグリーンが広がります。
 田中角栄没後、娘の真紀子が相続税として物納した土地が、国から文京区に売却され公園として整備されます(2009年)。
 角栄氏には、錦鯉を泳がせる池より、走り回れるグラウンドの方がどれだけ健康的な活用法か見せたいし、現在政治家だったら何を考えるか、聞いてみたい気もします。


カトリック東京カテドラル関口教会

 「カテドラル:司教座聖堂」とは、教区内の中心教会にある聖堂のことで、世界史授業の「司教座都市:荘園から人や物資が集まった中世の都市」は、かすかに記憶があるような……
 建物の設計は広島平和記念資料館代々木第一体育館東京都庁等を手がけた丹下健三(カトリック信徒)。
 宗教施設ですからスピリチュアルなデザインは当然ですが、魂が吸い取られそうな光景に、不信心者は「ステンドグラスがキレイ」で十分ではないかと思ってしまいます……


蕉雨園〜芭蕉庵


 上は、講談社 野間記念館脇で塀の外から見かけた蔵(未入館)。神田川方面には、一般公開されない蕉雨園(見事な建造物や木々を塀の上からのぞき見るのみ)があり、境界が分からないと思ったら講談社の所有物。

 右は、松尾芭蕉が神田上水改修工事に携わった際に暮らした芭蕉庵にある、名の由来とされる芭蕉の葉
 
 脇を通る胸突坂(名の通り下りでもつま先に体重がかかる)を挟んだ地に、水神社永青文庫(旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料の展示・研究施設:下)があり、じっくり回れば一日過ごせそうな界隈です。



椿山荘

 この日は日柄が悪いのか結婚式は少ないも、「♡型」の目をした下見カップルの女性を多く見かけます。
 日本人が教会から連想するのは「結婚式場」で、求められるバージンロード(未見)、石造り的な鐘の塔と、ライスシャワーを受けるテラス(階段)を備える施設は、式場には必須です。
 和・洋「どっちにしようかなぁ〜」にも対応できる庭園の設計など、「お気に召すまま!」と商売に徹するところはさすがメジャーどころで、要は「ハレの気分を感じさせる場所」でいいんですよね?


追記──「マスコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」って?

 民放のテレビ局には効きそうですし、それでひるむ出版社にはジャーナリズムを語る資格はありません。ですがその裏を読むと、広告料とは別の収入で運営するNHKには「すでにくさびは入っている」とも受け止められます。
 加えて、沖縄の状況を「左翼勢力に完全に乗っ取られている」との認識が自民党若手議員にまかり通るとすれば、自民党内に沖縄軽視を助長する空気の存在が感じられます。
 琉球新報沖縄タイムスの独立性(ヤマトに組しない)が気に入らないとはどういうことか?
 民主党政権時に、希望を抱くも完全にバカにされ、自民党に対しても、もちろん期待できないことをダメ押しされ、沖縄のアイデンティティーを守るには「独立しかない!」ことを再確認します。台湾と同盟を結めば軽視できない存在になりますし、日中双方から飛び出した地域の結束が、緊張緩和の要石となるかも知れません。


追記──ギリシャ財政破綻の崖っぷち

 日本では、国民の意思を確認することなく「戦争法案」の審議が進められますが、ギリシャは逆に、財政緊縮策反対の声に選出された政府が、政策の判断を国民投票に「丸投げ」しようとしています。政治の基本とは? に回答できない連中による国の運営が、世界を揺るがしかねない時代であると理解しているのか?
 コツコツまじめにやっていても、影響を受けるのは庶民ですし、国の舵取りをする政治家の未熟さが世界に影響を及ぼす例とならないことを祈ります……

2015/06/22

素通りできない鬼子母神(きしもじん)

2015.5.30【東京都】──「神田川を歩く_23」

 目白を歩くのに「雑司ヶ谷 鬼子母神は素通りできない!」と機をうかがい、今回は裏からアプローチします。




雑司ヶ谷 鬼子母神

 鬼子母神の背後には妙見菩薩の拝礼所があり、土鈴の絵馬がかけられます。
 右の絵柄はザクロで、たくさんの実が詰まることから子孫繁栄の象徴として図案化されたもの。
 鬼子母神自身は子だくさんで、我が子を育てるために近所の子どもを食べたという言い伝えは疑問ながらも、「安産・子育の神」とされます。
 正式には「鬼」の上の点が無い「角の無い鬼」の文字を使うのは、改心した鬼を表すとのこと。
 改心した鬼は人を裏切るまいとの安心感か、境内の駄菓子屋を含め、精神安定剤のような一画に引かれます。

 境内を「唐十郎の紅テント」(右)に提供するのは、祭礼時に出店や見世物小屋を招致する流れなのか?
 新宿花園神社に出没した「状況劇場」から「唐組」に看板を替えましたが、実物を目にしたのは初めてか?
 昭和遺産という印象があるも、「出る杭は打たれても納まらない」と、現在も体を張っているようです。
 「汚ない」「中は暑そう」と感じるも、場内が冷暖房完備だったら入らないだろうと、生身が向き合う状況を想像したりします(演劇は未見)。

 普段は寺社の参道並木を、聖域に入る際のお清めと感じますが、この並木の印象は「ただいま」「久しぶり!」と知人に再会し、「変わらずで何より」とホッとする気分に似ています。
 その先は人々の暮らしに通じるので、生活感の多様さを未知との遭遇として受け止められれば、とても楽しめそうな空間に思えます。
 参道並木の大木が残され、人の落ち着ける道幅(間合い)が昔と変わらないおかげで、下町より少し距離感を保つ町並みには、人ごみとは違う「活気」が感じられます。



 並木が絵になるのは微妙な起伏によると気付きましたし、都電の線路も平坦でない方が絵になります(上は「鬼子母神前停留場」付近)。
 都電の沿線風景はどこも落ち着く印象があり(下町方面のゴチャゴチャにも味がある)、今度は都電荒川線を「各駅停車の旅」で踏破してみたい、と……


日無坂&富士見坂


 自転車を押して左の日無坂を上り、右の富士見坂を2人乗りで下る、映画『東京兄妹(YouTube)』(1995年 市川準監督)の舞台。2014年7月初DVD化を知り早速借りました。
 両親を亡くした兄妹が鬼子母神近くでひっそりと暮らす日々の物語。
 近所の人々に見守られながら、両親の暮らしぶりをなぞり役割を果たす二人だが、成長と共に妹は巣立ちの準備をはじめ、夫婦のような兄妹の暮らしに終わりが近づく……
 市川監督への思いを馳せながら(亡くなられた監督の公式ページがある)、「冷奴は木綿豆腐にかぎる!」を再認識します。


水稲荷神社

 右は早稲田大学隣接の「水稲荷神社」裏のお稲荷様。
 由緒に神木の根元から水が湧き出したとあり、甘泉園公園(元徳川御三卿の清水家庭園)に隣接するため湧水がありそうだが、移転してきたためこの地のことではない。
(暗くて使えない写真ながら…)

 対岸の目白台側にある芭蕉庵隣の「水神社:すいじんじゃ」は、神田川に設けられた堰(関口の由来)と取水した神田上水の安全祈願として祭られるなど、川の両岸とも水への関心の高い地域だったようです。


早稲田大学

 大隈講堂前では、演劇関連サークルとおぼしき連中がヒーロー物的なコスプレ衣装で騒いでいます。
 理解不能+情けなくも見えるので、ここは総長に「大魔神」になっていただきたい! と思ったり……


追記──NHK 木曜時代劇「かぶき者 慶次」終了

 「かぶき者」として取り上げられる戦国武将の前田慶次に関心はあれど、大河ドラマ等の表舞台に登場しないため、機会を待っていました。
 設定を老境とし藤竜也を据えたのは大正解で、奥方の江波杏子からも老い先短い「覚悟」の空気感が伝わります。
 「かぶき者」の本質は武士の根幹である「義」にあるようです。「義」を貫く姿勢は、奇妙に見えても道理が通れば納得できるもので、それを自己流で通したことが「かぶき者」と受け止められたのではないか?
 市中を歌舞伎役者の如き「かぶき者」姿で歩く藤竜也の様は、「道理」を越えた「度量」で挑む「武士の美学」のようで、スカッとするカッコ良さがあった。
 現在「度量勝負」から生まれるものは限られそうですが、男なら挑むべきではないかとも……

2015/06/15

品格を失った資産家の町──目白

2015.6.7【東京都】──「神田川を歩く_22」

 今回は、これまで脇を歩くも素通りしてきた、目白を語るには欠かせない場所を巡ります。これまでは、見るべきと感じない場所と言ったら失礼か?




目白聖公会


 日本聖公会に属するキリスト教会で、立教大学聖路加国際病院と同じ教派。
 クリスマスに目白駅前で「キャロリング(クリスマスキャロルを歌う)」を行なう姿をニュース映像で目にした記憶があります。
 調べれば教会外での「キャロリング」はめずらしくなく、近所でも接する機会はありそうなのに、年末でバタバタする仕事のせいにするのは、クリスマスに関心が無いってことですよね……(上は聖堂にあるステンドグラス「聖家族」)


目白不動尊〜目白地域の変遷について

 江戸時代、現在の江戸川橋〜椿山荘間にあった新長谷寺(しんちょうこくじ)の不動明王像が、江戸五色不動のひとつ目白不動と名付けられ、一帯は目白と呼ばれるようになります。
 空襲の被害から廃寺とされたため、現在学習院下付近の金乗院内に祭られます。
 右は金乗院の片隅にある目白不動尊(奥)。

 東京の五色不動(白・黒・赤・青・黄)で現在もメジャーな目黒不動尊は、立地に恵まれたようです。


近衛町(このえまち)

 江戸時代に大名別邸や旗本屋敷が並んだ一帯は、明治維新後に国の所有とされ、山縣有朋が西南戦争の褒美で購入した土地が「椿山荘」のルーツなど、華族や資産家等に売り払われます。
 1900年(明治33年)学習院院長(1895〜1904年在職)の近江篤麿(このえあつまろ)が、周辺の広大な土地を購入しますが、子の近衛文麿(ふみまろ:第34・38・39代内閣総理大臣)の代に、父の借金のため売却されます。
 当時は「近衛町」とされ、往時は「馬車ロータリー」だったケヤキ等に面影が残ります(右)。
 カメラ背後にある交番(警官不在)は、屋敷門前警備の名残りとも。

 上の正面突き当たりにある日立目白クラブ(右)は、1928年(昭和3年)学習院旧制高等科の男子寄宿舎「昭和寮」として建設され、平成天皇も滞在経験があるらしい。
 現在、日立製作所の福利厚生施設で、社員の結婚式等に利用されるそう。以前は、山手線から煙突部分が見えたような気がします。
 所有者は変わっても、利用しながら維持管理する姿勢の大切さを感じます(利用する社員もうれしいのでは?)。



学習院大学


 上は学習院大学構内にある旧皇族学生寮で、玄関に馬車用の車寄せがあります。
 近衛篤麿院長指揮の下、1908年(明治41年)皇族・華族学校である学習院(ルーツは京都御所内にあった朝廷の教育機関)は現在地に移転します。
 近衛家の土地購入との関連は不明ながらも、近衛家(元公家の筆頭)の威光が発揮できる地域だったようです。


 戦後(1949年) 新制大学「学習院大学」となっても皇族が通う慣習は続いたが、以前の「資産家≒社会的責務」の精神は失われ、単なる金持ちの「資産家ヅラ」による品格の低下や、愛子ちゃんのいじめ問題、佳子ちゃん(カワイイ!)中退〜別大学入学等で、皇室の学習院離れが進んでいるように感じます。 

 上は図書館として建造された建物で、現在は大学史料館。
 また、神田川に浸食された低地には、忠臣蔵の堀部安兵衛が高田馬場の決闘後に刀を洗ったとされる「血洗いの池」があります。言い伝えでも、その名称が残るとはスゴイ!


徳川ビレッジ

 現在「徳川ビレッジ」とされる地域は、尾張徳川家の侯爵 徳川義親(よしちか)が1930年(昭和5年)に土地を購入し、本邸を建築した場所になります。
 ここは「エリート外国人専用の高級賃貸住宅街」らしく、外国の言われるままに条約を締結し崩壊した徳川幕府の仕返しなのか、家賃は月100万円以上とも。
 管理会社八雲産業ホームページにはうさん臭さが漂い、徳川家の閉鎖性は変わらない? とも。

 右は隣接する徳川黎明会の門で、尾張徳川家所蔵美術品などの管理・一般公開を手がけるらしい。


 氾濫を繰り返した神田川(左)と妙正寺川(右)の合流地を、下落合駅付近から高田橋・高戸橋(都電が神田川を渡る)付近に付け替える分水路が設置されますが、単独での成果は見られず、結局は上流調整池での制御が必要だったらしい。
 浸食作用で深い谷底となった川沿いには、地中にしみ込めない雨水が集中するため、常時洪水対策に追われる流域となっています。

 今回はルート順ではなく、目白の歴史に登場した年代順の並びとしました。


追記──「サッカー女子W杯」開幕&「W杯アジア2次予選」スタート

 女子サッカー界の「レジェンド」とされる澤 穂希選手は、今回の活躍を心に期すも、おそらくピッチ上に限らず「なでしこが大会を戦い抜く戦力になりたい」との、心づもりなのではないか? そんな「なでしこ」を応援しましょう!
 彼女たちの活躍に刺激を受け、野郎どもも発奮せねば!


報告──近頃、動画編集に明け暮れています

 昨年、乗馬関連の雑誌は休刊となりましたが、ネットで続けられないかと、素人カメラマン(営業担当者)が撮ってくるビデオを編集しています。
 下手なカメラワークはフォローできませんが、楽しさが伝わればというところです。

 「三浦海岸を馬で駈けられるんです!」の紹介ビデオ(下)


 などを紹介するホームページ作成をしています。

2015/06/08

のれんの花咲く川辺──中井〜目白

2015.5.23【東京都】──「神田川を歩く_21」

 今回は、江古田(えごた)川との合流地点下流の妙正寺川を歩きます。



妙正寺川第二調整池


 江古田川との合流地点すぐ下流に、以前歩いた妙正寺川第一、第二調整池があります(哲学堂公園の対岸)。
 住宅街を流れる川の合流地点では豪雨時に雨水が集中するため、氾濫に備える調整池が運動場や公団住宅の階下にまで設けられます。
 前回は「限られた土地の有効活用」と感じたが、今回川沿いを歩き各地区の洪水被害に接してみると、これじゃ足りないのでは? とも。
 当初、都の計画「30mm/h:1時間あたり30ミリの降雨」対応中に、50mm/hを求める声が高まるも、2005年には112mm/hの集中豪雨に襲われました。
 当面の課題対処で精一杯の現状では余裕を持つことは難しいため、流域住民に備えが求められるのは仕方ないのか?


林芙美子記念館


 林芙美子と言えば『放浪記』=森光子さんのでんぐり返しですが、ニュース等で拝見するにとどまります。
 映画『浮雲』(1955年 成瀬巳喜男監督)では、高峰秀子さんの「誰かおやりになれるんでしたら、やってごらんなさい」という演技にブッ飛び、小説にも女性の「生命力」が注ぎ込まれた文章に圧倒され、現在も手放せず本棚に並びます。
 ちょうど蔵の中で朗読会が開かれていたが、執筆された家で感情を込めて語られたら立ち上がれなくなりそうと、腰が引けました……


染めの街(西武新宿線 中井駅周辺)


 神田川・妙正寺川流域には江戸時代からの染色技術が伝えられ、昭和30年代まで京都・金沢に並ぶ染色関連業の三大産地とされました。中井駅付近の妙正寺川沿いでは、いまも技術を受け継ぐ職人・作家たちが活動を続けています。
 その地場産業を盛り立て、 落合・中井を「染めの街」として発信する「染の小道プロジェクト(PDF 見事です)」が2011年に立ち上がります。
 反物が妙正寺川を飾り、商店街店舗の軒先に「のれん」の花が咲く姿を想像すると、一度足を運ばなきゃ、と思いはじめています……



 アトリエ跡が復元され、2013年にオープンした施設。
 記憶に無い名前ですが、新宿中村屋主人の相馬愛蔵に気に入られ、現在も中村屋サロンに作品が残されます。
 当時の画家は夭折(ようせつ:早死に)が多く(享年37歳)、彼の絵にもエキセントリックな印象を受けたのは、欧米化を目指す時代の重圧まで、芸術家は内面に抱え込んでいたからでは、とも。

 佐伯祐三のアトリエ同様、明かり取りのある部屋に暮らしたら、「何かやりたい!」と思えるかも?



目白の土地開発について

 現在の中落合付近は、箱根土地(株)(現(株)コクド:創業者の堤康次郎は、西武流通グループ代表 堤清二、西武鉄道会長の堤義明の父)により「目白文化村」として開発されます。
 当時「東急 vs 西武戦争」とされ、東急の五島慶太が手がけた田園調布開発とほぼ同時期だった事からも、ライバル関係だった様子がうかがえます。
 両者の開発を後押ししたのが関東大震災で、地盤が安定した高台では震災被害が軽微だったことが、東京の「ヒルズ信奉」の始まりとなったようです。

 「目白の森」(上)は、開発から取り残された森のマンション建設計画を、地域住民の緑地保存運動が中止に追い込み、公園とされます。
 右の「目白庭園」は、1990年公立学校共済組合住宅跡に整備された庭園で、どちらも豊島区の施設。

 調べるうちに触れるべき場所を見つけたので、再度目白を歩いてきます。


追記──「戦争法案」に憲法専門家が「違憲認識」表明

 パンピー(一般ピープル)にも分かることを、憲法専門家3人に説明してもらっても理解できない内閣の連中には、理解しようとしない「意思」があるようです。
 振り返れば、世論の意思に「YES!」と従い、戦争に向かったことがあります。
 現在は「大丈夫」「戦争はしない!」とする気持ちが大勢を占めると思うも、果たして自身で判断できる国民がどれだけいるのか? 一度意識調査的な国民投票の結果を見てみたい気もします。
 そう思うのは、国際情勢の変化を感じているからだと思います……

2015/06/01

鎮守の森と文化財の価値──練馬〜江古田

2015.5.16【東京都】──「神田川を歩く_20」

 今回は、神田川支流の妙正寺川支流である江古田(えごた)川水源付近を歩きます。



学田(がくでん)公園付近

 西武池袋線練馬駅周辺のデザインコンセプト「三角」&「とんがり屋根」は、「樹木」がモチーフとすぐ分かるほど、緑の多さがいい感じの練馬です。
 やはり外部者の目にも杉並と練馬の違いは一目瞭然などと、ナンバープレートの件を蒸し返しては怒られそう……


 江古田川水源とされる「学田公園:現在野球場+公園」付近に痕跡は残りません。
 隣接する畑(上)左には、練馬区の「7館構想:人口10万人当たり1館の区民体育館整備」のひとつ「中村南スポーツ交流センター」が建てられるなど、周辺のスポーツ施設不足解消のために埋め立てられたようです。
 江戸時代、千川上水(石神井川と神田川水系の間に通された玉川上水の分水)から引かれた水路跡の立派な並木に、名残りが感じられます。

 明治時代、南蔵院(後述)を間借りし小学校を開校させるが、当時の学校経費は村負担で運営が苦しいため、付近の官有沼地を開墾し収穫を学校経費にあてたことから、「田んぼは学田(まなびた→がくでん)」と呼ばれるように。
 湧水の畔に寺院が建てられる場所柄は、他の支流水源池と同じだったようです。




 この寺には歴史を感じさせる建造物が多く、江戸時代中期の建築とされる鐘楼門(上:階上中央に鐘がある)には、枯れてなお力強さが感じられます。
 寺に古くから伝わる「白龍丸:万病の良薬」が、世間から「南蔵院の投込み:まがい物」とされ販売差し止めとなるまで、南蔵院の財政を支えました。
 これは想像ですが、その反省から枯淡の道を歩む寺を地元民が支え現在に至るのでは、と考えると、そんな姿こそ寺本来のあり様と思えてきます……



 寺の要望通り(?)「川の流れのように〜♪」のようなオブジェ(?)を撮りました。説明は無いので曲のタイトルを「そのこころ」としていいのでは?(部分的な苔が全面を覆ったら、いい絵になりそう)
 寺の問いかけに対する答えは千差万別が当然で、言葉を交わさないやり取り(自問自答)を楽しみました(ここは禅寺でなく真言宗)。
 庭は広くないが、様々な植物が密集する様子から世話の手間がうかがえ、来訪者へのもてなしと受け止め楽しめましたし、いい出会いだったと門を後にします。


徳殿公園


 また渦巻き(?)の上は、仰向けで回転を続ける虫の波紋。
 立ち去る際、暗かったので「ちゃんと撮れたかなぁ?」が心配で、彼を助ける気持ちがみじんも無かったと反省します。
 ですが以前、手助けしたつもりのカナブンが何度もひっくり返る姿に、「余計なお世話!」と感じたことがあるので、「虫の波紋には意味がある」との解釈はありか?

 大名屋敷跡のような名称ですが、年貢を免れて得をした田んぼ(川沿いの湿地帯だったから?)で徳田→徳殿とは、自分も含めガッカリでゴメンナサイ……



 隣接する旧国立療養所中野病院(主に結核患者の養生所)跡地には、現在「江古田の森」公園施設(後述)+福祉保健施設の老人ホーム等が整備されます。
 旧療養所時代、退院を強いられた患者を受け入れるため、隣接地での「ベタニアの家」建設が、徳田教会(社会福祉法人慈生会)の始まりになります。
 現在は隣接地の病院運営から手を引き、介護等の支援に注力するそうです。
 内部事情はあるかも知れないが、身近な手助けの要請を重要視した判断は、教会らしい立ち位置と感じます。


江古田 氷川神社


 上の絵馬奉納所に漂う「森を敬う」空気感は、古来の「八百万の神」から続く精神として、肌で感じられます。
 背後に旧国立療養所中野病院建設前は、樹木がこんもりとした丘陵地で「鎮守の森」にふさわしい環境だったようですが、現在この裏は造成され「はげ山」とされます。
 その森に育まれたであろう江古田獅子舞(YouTube)(鎌倉時代から続く)を、中野区指定無形民俗文化財に指定しながら「鎮守の森」を「公園の森」と同様に境界線で区切る行政の姿勢は、地域文化を衰退させる危険性をはらんでいるように思えます。


江古田の森公園


 この森には、日差しを避けたい木陰、立派な大木、うっそうとした雑木林、広々とした芝生、花を楽しめる樹木など、テレビや映画で目にする療養所の庭の雰囲気があります。
 Plus(いまどきのアピール表現)防災公園として、「かまどベンチ」「耐震性貯水槽」「災害用トイレ」「調整池」等々が設置される、震災時に頼りになる森でもあります。
 ネパールの大地震で、屋内に戻れない人々が広場に集まったが、災害時に「あの公園に行けば何とかなる」と思えるだけで、どれだけ安心感があることか……


 追記──口永良部島、火山噴火時の避難に学ぶ事

 現在は、リアルタイム映像を見られる監視カメラが増えたおかげで、噴火時の様子を目にすることができ、その迫力に声を上げてしまいました。
 2014年8月の噴火経験を元にした準備により、迅速に全島民無事避難(けが数人)ができた行動を手本とすべきと感じました。
 噴火時には「番屋ヶ峰(避難所)へ」と小学生も認識し、町営フェリーは100人乗りだが緊急時には全島民+来訪者含め150人の乗船を認める許可を取っていた、などの事前準備が功を奏したが、離れた集落との連絡手段が無かったなどの課題も浮かび上がります。
 大小にかかわらず島はどこも「日本の縮図」ですから、今回の事例を教材に広域災害に備えるべきと感じました。
 学生時代にアルバイトで訪問したことがあり(記憶は薄れたが)、応援しています!