2017/07/03

世田谷のヒルトップ──砧(きぬた)

2017.6.10【東京都】──「谷戸川を歩く_1」

 谷戸川は、世田谷区最高標高地 砧の丘(小田急線 千歳船橋〜祖師ケ谷大蔵駅間にある56mの丘)北側に始まり、江戸時代に開削された六郷用水(現 丸子川)へと流れます。





 「スミレの咲く原っぱに」との願いを込めた名称で、2003年個人の邸宅・庭園跡地に開設され、市民や一般財団法人 世田谷トラストまちづくりが管理運営する区立公園。
 子どもたちが自然とふれあえる場は、広さよりも身近にあることの大切さを感じますが、スミレの開花時期(3月下旬~5月上旬)にはちと遅かった。



 小田急線から見上げていた、世田谷のヒルトップには給水場があります(以前実相寺の看板が見えた付近)。
 1932年(昭和7年)大東京市への大合併(東京35区)の際、町営・組合・民間水道は東京市水道と合併し(駒沢給水所は渋谷町営水道)、本施設(日本水道(株))は、空襲被害による水不足の際、緊急的に買収されますが、都内全体の漏水率は約80%にも及んだそう。

 大学の同級生が付近のアパートで半同棲的な生活をしていたこと、中村雅俊邸や植木等邸があったなど、当時にすれば刺激的な地域だった印象があります(五十嵐淳子さんも暮らす…)。


 上の小田急線と環状八号線の立体交差(1972年)は、車が急増した時代の踏切渋滞解消が目的でしたが、ガキの目には立体交差がめずらしいため、キョロキョロ眺めていた記憶があります。
 車を運転し始めた時分の、踏切(関所)だらけだった環八を振り返るとゾッとしますが(西武線の対応の遅さはヒンシュクものでした)、立体交差が実現した現在も車の列が続くように見えます。渋滞はどれくらい解消されたのだろうか?

 付近が谷戸川水源地で、線路沿いに水路があった記憶も(経堂方面の勘違い?)




 2005年まで付近に円谷プロダクションがあったことから、商店街の名称とされます。
 駅前広場のウルトラマン像を撮るつもりが、「宇宙のパトロール中で不在(改修中)」の貼り紙が。電線には気をつけてね……
 街灯などのデザインには、ウルトラマン関連キャラクターが隠れており、バルタン星人の目が光る町では治安がよくなりそう、とも。
 ウルトラセブンだったか、クレジットの「キヌタ ラボラトリー:映画『七人の侍』の現像所だったそう」の名称から、この付近をイメージしましたが、東宝撮影所の城下町だったようです。「コメットさん:九重佑三子(リンク先YouTube)」等は、周辺の商店街で撮影されたそう。




 1972年開設の青果市場周辺には生産緑地が多く残るので、地場産野菜せたがやそだちなどの扱いは売りですし、地産地消の人気がありそうと。
 上は市場前にある、現在も食を支えている業者の事務所。
 テレビCMをよく目にし、ガキ時分はフレーズを口ずさみましたが、近ごろ見ないのは主婦向けに昼間流されるためで、その時間帯にテレビを見ないためかと。



 美術館併設レストランの結婚披露パーティーのため、屋外に椅子が並べられています(室内にドレス姿が見える)。虫も少なくベストな新緑の季節を選んだことと。

 砧の地名は、7世紀頃から上納する布のつやを出すため、衣板(きぬいた)で打った、道具や行為に由来するそう。
 丘陵地なので開墾しやすいも、谷戸川の水だけでは作物も限られたのではないか。
 ガキの感性では「砧≒タヌキ?」が関の山でも、記憶に残っているんだから認めてもらいたいとも……(きっと現在のガキも同じでしょう)

 一般的に、集客を目指す施設はアクセスを重視しますが、ここは最寄りの東急田園都市線 用賀駅から徒歩17分の案内があります。
 1986年開館以来、用賀プロムナード「いらか道」や砧公園を含め「美術館を散策する」イメージを定着させたことは、見事な成果と。
 近くを歩きながらスルーしてしまった、向井潤吉アトリエ館(分館)を含め、都心近くに残る郊外の風景をアピールする姿勢こそ、世田谷らしさと。


追記──父の、危篤から臨終

危篤:脳が機能していない状態
 意識は無いが、体の機能だけで命が保たれる状態。
臨終:死を迎える瞬間
 体の機能が停止する(呼吸が止まる)瞬間。
を、初めて間近にしました。
 人が死にゆく姿を、先達である父を直視し学ばせてもらいました。
 お疲れ様でした……
 

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