2017/08/28

旧用水と旧街道──六郷用水遊歩道

2017.8.13【東京都】──「丸子川を歩く_6」番外編

 旧六郷用水の中流部を整備した丸子川は、多摩川浅間神社付近で多摩川に合流しますが、中原街道付近から旧用水沿いにせせらぎと遊歩道が整備されています。



 右は中原街道下のトンネルで、奥のベンチ付近から六郷用水遊歩道が始まります。
 東急多摩川線 多摩川駅・沼部駅の中間付近に、八百屋、電気店やカメラ店等が点在する一画があり、段丘斜面と多摩川に挟まれた住宅地で商売になるのか? と感じたことがあります。
 1934年(昭和9年)現 中原街道と丸子橋ができるまで、旧街道(2枚下)は丸子の渡しに通じており、当時の商店が現役とすれば立派と。

 旧六郷用水は遠くまで水を送る使命から、できるだけ標高の高い崖下沿い(左は斜面)を通されますが、現在も斜面に湧水がある様子から、水を集めて流れる効率的な用水だったと言えそうです。
 沼部の駅名から湿地帯が想起されるように、多摩川の氾濫原(洪水時に浸水する低地)は次々開拓されますが、川辺に近づくほど洪水の危険性が高まるため、用水は多摩川の氾濫をできるだけ避けようと崖下を通されたようにも。
 自然の川と違う不自然な流れには、人々の切実な願いが込められています。



 季節外れのため絵で伝わりませんが、福山雅治「桜坂」(リンク先はYouTube)の舞台とされた地。
 旧中原街道の風情が残るも、切り通しとされたのは大正時代で、それ以前は「沼部の大坂」と呼ばれるキツい坂道だったようです。
 交通量は少ないため、木陰の路肩で休憩する車が何台も見られます。風の通る心地いい木陰で、多摩川を見下ろす眺めはよさそうですが、この季節は葉が茂り見通しが利かないほど、こんもりしています。




 寺院の境内には、カフェのようなオシャレなテーブルセットが置かれます。
 檀家の方が木陰でひと息つくためでしょうが、寺社の木陰は蚊が多いため落ち着けないようにも。

 右下の庚申塔は、傘のように刈られた木と背後の白い壁に、見事にハマっています。
 木を手入れと、白い壁の維持により保たれる光景は、町への愛着から生まれるようで、地域文化はそんな意識から根付くのではないかと……

 右は、鵜の木松山公園を造成中に発掘された横穴墓(おうけつぼ)で、古墳時代末期から奈良時代にかけての有力者の墓とのこと。
 古墳との違いは墳丘の有無によるため、野毛大塚塚古墳(古墳時代中期)のような墳丘は見あたりません。
 一般的には、いくつも墓が集まる横穴墓群として発見されるようで、一族の共同墓地だったとも。

 亡き父は次男なので、墓地を新しく探す必要がありますが、新しい墓の選択って結構難しかったりします……




 以前、七堂伽藍があった大寺院の敷地は広く、地図で目にした大きな池を目指すも墓地区画のようで断念。上は、鐘楼前のコンクリートに埋め込まれた印(?)。
 現在の下丸子駅付近は矢口渡し平間の渡しの分岐で、人の往来が多かったようです。

 旧六郷用水は、この先の東急池上線 千鳥町駅に近い南北引分け(分岐点)で、「北堀」(池上、新井宿、大森方面)と 「南堀」(蒲田、六郷方面)に分かれます。
 水利争いは死活問題になるので、キッチリ2等分するため腐心したようです。


追記──「リトルインド:西葛西」に転居しました。

 前アパート取り壊しによる退去期限まで1年を切り、現実的な選択を迫られ希望を出したところすぐに空き家情報が入り、これも縁かとバタバタと決めました。
 詳細は次回となりますが、散策する余裕はないので1週休みます……

2017/08/21

東京と神奈川の違い──多摩川台公園

2017.8.13【東京都】──「丸子川を歩く_5」

 以前、田園調布周辺の高台には複数の湧水があったようですが、住宅街整備の際に下水とされたようで、現在は単なる谷間の道路に。



田園調布

 田園調布の地位が揺ぎないのは、渋沢栄一が田園都市開発を目指し設立した、田園都市株式会社の鉄道部門が東京急行電鉄の始まりとされるため、東急がシンボルとして支えるためでしょう。
 東五反田周辺の高級住宅街の閉鎖的な印象(個人宅の監視カメラだらけ)と比べると、「町は文化」というプライドのおかげか、部外者も散策を楽しめる町のように(SECOMが守っている?)。
 丘陵地の暮らし=坂のある町を楽しむゆとりとしても、わたしは平坦地(庶民の町)の方が暮らしやすいと。




 古墳群のある高台は上水道施設に最適なため、1918年(大正7年)荏原水道組合が浄水場を建設します。32年東京市への編入以前は、地域で上水道施設を管理していました(35年東京市が組合を買収)。
 右は、旧沈殿池・ろ過池跡を生かした公園ですが(現在地下貯水場に水生植物園の水を貯水)、当時は学校のプール程度の施設でまかなえる世帯数だったのか?

 一帯はシンボリックな高台ですから、古墳に埋葬された方はかなりの権力者だったようです。



 神社の展望台や、東急線の車窓から見事な富士山が見えましたが、近ごろの武蔵小杉高層ビル群はじゃましてないですよね?(この日は視界不良で確認できず)
 富士山を信仰する神社のため、右の参道は富士塚のような疑似登山道とされます。
 北条政子に始まったとされる信仰を重要と考えたようで、古墳の上に神社が建てられました。

 以前から古墳は、副葬品が盗掘される事例が多い上、付近の丘陵地は利用価値が高いこともあり、粗末な扱いを受けたように見えます。

 門前にあるバラックのような釣具屋は、まさに昭和遺産! 取水堰付近に(最後の写真)魚が滞留するためか、商売できる程度の需要はあるらしい。
 以前付近で釣り竿を抱えた故 立川談志氏を見かけました。釣り好きらしいも職業柄、庶民の生活感リサーチの場としては最適な環境に思えます。

 旧六郷用水のうち、丸子川とされる流れは付近で多摩川に合流します。下は付近に残る当時の施設。
 その下流、中原街道の先から旧六郷用水沿いに、せせらぎと遊歩道が整備されています。


 多摩川を境に接する東京都と神奈川県では、岸辺の利用方針に違いが見て取れます。
 東京都にとって多摩川は、水資源・運動場の確保に欠かせない存在なので、有効活用が求められます。
 一方、神奈川県の水源は丹沢や相模川ですし、近くの等々力緑地にグラウンドがあるので、河川敷運動場は整備費を削減する分ハードルを下げ、自由に利用できる広場としたいようです。
 堤の上に道路を通した東京より、歩道が整備されている神奈川の方が散策も楽しく、岸辺にゆとりが感じられるのは仕方ないのでしょう(右は神奈川県側)。

2017/08/14

風の通り道──多摩川河川敷

2017.7.22【東京都】──「丸子川を歩く_4」

 わたしが草野球をしていた相模原市は、グラウンド環境に恵まれていたようで(土地だけはあった?)、河川敷グラウンドを利用した記憶は無いため、灼熱の河川敷グラウンドを走り回る姿がたくましく見えます。



矢沢川との交差地点

 この日は等々力駅から出発したので、等々力渓谷(矢沢川)を歩く間は涼めるなんて期待すると、「こんなに短かったっけ?」と感じるようです(右)。

 丸子川(旧六郷用水)は下流に水を運ぶ役目から、以前は矢沢川の上を横断していましたが、役目を終えた現在は矢沢川に合流しています(下左:矢沢川 右:丸子川)。
 丸子川下流には水質保全のため、付近から汲み上げた水が流されており、見た目には透明度のある水なので、流域の住民も納得するのでは。


 東急大井町線 尾山台〜九品仏付近の段丘斜面はなだらかなため、ヒルズ的住宅街のイメージに近そうと。

 旧武蔵工業大学は、2009年東横学園女子短期大学との合併で東京都市大学とされ、キレイになっていました。
 お似合いのペアか分からないが、東急系列内での立て直し策らしい。
 先日、青山学院女子短期大学が学生募集を停止しましたが、学校法人はどこも先細りが予測されるので、四年制大学の生き残り競争も待ったなしではないか。


田園調布八幡神社

 神社にある手水(ちょうず)の水は、いかつい表情の龍の口から流れるものを多く目にしますが、背後から見るとカワイイ姿だったりします。
 多摩川の両岸に同じ地名が残るのは、流路の定まらない暴れ川だったためですが、江戸期から玉川上水等の取水が始まり、明治期からの砂利採取により環境が激変したため、龍神は棲めなくなったようにも。
 多摩川の管理は資源利用推進が主体で、防災意識が欠如していたため、ドラマ『岸辺のアルバム』の題材とされた、多摩川堤防決壊の水害を引き起こすことになります。
 堰堤爆破のニュース映像は強く印象に残ります。

 ここは守ろうとする水路なので結びつかなかったが、用水路ならば育った地域にいく筋もありました。
 近所の用水路跡(水は流れない)には柵がないため子どもの遊び場となり、所々にある線路等のアンダーパス用の深みに落ちる事故を何度か耳にしましたが、どこの水路にもそんな記憶がありそうです(防止対策が後手となる行政の過失)。

 写真右手には、住宅街に隣接した調整池があり、夏どきは虫が多そうで近隣の家は大変なのではないか? とも。


多摩川河川敷


 炎天下の多摩川河川敷グラウンドで、テニスや野球に汗するのは無理でも、付近での日差しの避け方を思い出したので日陰から観戦します。
 川っぷちには立派な木が並ぶので日差しを避けられますし、川は心地いい風の通り道なのでひと息つけます。
 試合を眺めていればセンスのいい選手は分かりますし、まぐれのヒット(?)や、好プレーを応援するだけでも、結構楽しかったりします。
 プレーしていた時分はギャラリーに「ヒマですね〜」と言いたかったが、見る側になると「ここ涼しくて気持ちいいよ〜!」と、伝えたくなったりも。
 炎天下での試合の後に木陰で飲むビールは最高でした!


 以前は巨人軍多摩川グラウンド(上はB面)でしたが、1998年河川敷を管理する国との借用契約満了をもって返還されます(対岸には日ハムのグラウンドもあった)。
 以前は手っ取り早くグラウンドを確保するため、河川敷の利用が多かったようですが(国や自治体も誘致したのでしょう)、大雨で水没すれば多大な改修費がかかりました。
 川崎側にあった独身寮にジャイアント馬場・王さんが暮らしたことや、「巨人の星」に描かれたことなど、ガキ時分の伝説がいまもよみがえります……


追記──8月9日

 この日は、一般的に「長崎に原爆が投下された日」として認識されますが、事務所移転先のロシア大使館周辺は、別の認識により物々しい雰囲気に包まれます。
 太平洋戦争末期に日ソ中立条約を破棄したソ連が、南樺太・千島列島・満州国等に侵攻を開始した日にあたるため、右翼系団体の抗議活動を抑止する警備体制がスゴイことに。
 朝から警官、機動隊に加え広報等が集結し、道路には複数のバリケードが設置され、路肩には警察車両が並び車線を狭めて、車の流れを完全にコントロールしています。
 街宣車は近寄れないため、代表者が門前まで徒歩で歩み寄り声明文を読み上げますが、団体はいくつもあるためスケジュール調整するらしく、入れ替わり立ち替わりで一日中続きます(17時頃に終わるのは、迷惑条例等に抵触するためか?)。
 やらねば日本の右翼がなめられる(?)パフォーマンスの遂行は、彼らが請け負った「仕事」のようにも……

2017/08/07

リバーサイドヒル──二子玉川公園

2017.7.8【東京都】──「丸子川を歩く_3」

 汗が止まらぬ暑さに加え、新しい公園の木々は若く日陰が少ないため人影はまばらですが、ヒルズカフェだけ盛況なのは It's so Cool ってやつかと……




 ここは、二子玉川駅東側の再開発地区に隣接する、旧自動車教習所、ゴルフ練習所跡地に2013年整備された世田谷区立公園。上野毛駅の方が近そうですが、二子玉川は通称なので(付近の玉川と対岸の二子に由来)、玉川の地名=二子玉川として使われるらしい。
 また、段丘上の上野毛駅へ向かう坂はキツイので、二子玉川駅から○分とした方が印象はよさそうです。
 右のように低木は多数植えられていますが、この季節に欲しい木陰が皆無のため、まだ丸坊主の公園と表現したくなります。

 公園内の日本庭園 帰真園(きしんえん:多摩川の流れ、自然や文化をテーマとする)にある池の畔に、旧清水邸書院(元 清水組→現 清水建設 副社長宅の離れで世田谷区登録有形文化財)があります。
 以前紹介した静嘉堂(せいかどう)文庫のように、段丘上の高台に建てられた建築物を移築したもの。
 ずっと解体されたまま保管されていたそうで、どちらかというと「ちょうどいい公園」に再建しておこうとの、自治体都合であてがわれたようにも。

 書院からは、庭や池より奥のビル群に目が向きます。
 山の無い土地ゆえビル群を逆手に取り、水墨画に描かれる急峻な岩山のイメージを狙ったようにも見えるが、それにしてはビルが少ないようにも。
 かといって、汐留や品川のような巨大ビル群の圧迫感では息苦しくなります。
 高層ビルの少ない世田谷区ではインパクトがありますし、土地活用には有効な手段と言えそうですが、本当に高層ビルは地震で崩れないのか、疑問を感じるようになってきました……


 本公園と多摩川河川敷の間を通る多摩堤通りの上に緑地が整備され、川を見渡せ道路を横断せずにアクセス可能な丘が生まれました。道路にトンネルを新設し上部に公園を作る大がかりなもので、自治体の力の入れようがうかがえます。
 ヒルトップに、スターバックス コーヒーを誘致したのは見事ですし、ヒルズカフェからの景色は心地よさそうです。
 散歩+飲食+ロケーションを楽しめる立地は受けそうですし、雨の日の風情も楽しめるのではないかと……


 上は公園近くに健在の、以前目にしたぶどう畑。
 対岸にも残るように、以前の多摩川沿いにはぶどう・梨・桃畑が広がっていました(亡き父がぶどう好きだったことを四十九日の際に初めて知りました)。
 専業で成り立つ規模ではないので、代替わりは難しそうとも。

 右の上野毛自然公園は、段丘上〜斜面〜段丘下に続く高低差のある施設(江戸期の名主庭園)。段丘の高低には野趣があるので、以前の高台物件は、段丘下までを垂直に切り取る区画で分譲されたようにも。
 見ての通り、ここが段丘のキツイ坂になります。