2018/01/29

食欲を喚起するグリーン野菜──小岩

2018.1.6【東京都】──江戸川区探訪_12

 小岩の地名は耳にするも関心を持てず(失礼!)初めての訪問ですが、江戸川区北東端に位置し、柴又から江戸川沿いに下った場所としてもイメージしにくいか……



 駅南口にある歓楽街の地蔵通り(リンク先は飲み屋の紹介)に地蔵は見当たらず、長く伸びる商店街には「営業してるの?」と、やる気が感じられない店舗があるなど、モヤモヤさまぁ〜ずがやって来そうな町との印象を。
 近ごろ町の判断基準とされる(?)、エスニック系店舗の数や多様さから、暮らしやすくオープンな町の様子がうかがえます。
 バレエ教室の看板を多く見かけるので盛んらしいも、理由については不明。
 下の店は営業してないが、ガキ時分は金魚や小鳥を飼う家が多かった記憶があります。


 小岩周辺は、前回歩いた江戸川対岸の下総国国府(市川市 国府台)に近いため早くから開発が進み、高台では育たない作物を栽培していたようです。
 下の小岩神社は地域の総鎮守で、訪問の1月6日は何かのお参りの日(寒の入り?)なのか、家族連れの参拝客が多いことから、地域に根付いた様が見て取れます。





 ここは室町時代創建(真言宗豊山派:総本山は奈良県の長谷寺)とされるが、上の影向(ようごう)のマツ(樹齢600年以上とされ、約30m四方に枝を広げる)はそれ以前に植えられたと伝わる(影向:神仏がこの世に仮の姿で現れること)。
 江戸時代の浅間山大噴火で犠牲になった人や馬の遺体が江戸川沿いに流れ着き、本寺の無縁墓地に葬られたそう。
 別名 小岩不動尊としても知られる立派な構えは、周辺が豊かな農耕地だった時分のなごりのように。


 江戸川沿いには現在も地に足をつけた農業従事者が健在で、まとまった耕地やビニールハウスが多く残るのは、若い世代が夢を抱ける土地の豊かさ・便利さがあるためと。
 ビニールハウスでは小松菜栽培が盛んで、グリーン野菜は目にするだけで和めますし、食欲喚起は生命力を活性化してくれそうです。それがこの町のアイデンティティと浸透するためか、点在する市民農園の緑も元気です。
 上はハボタン(花キャベツ)


 江戸川土手沿いに通される篠崎街道(手前)の停留所は堤防に張り付いています。
 土手周辺には逃げ場がないので、小さな屋根でも雨が避けられればホッとできそう。
 以前周辺では耕作地に水を供給するため、江戸川からいく筋もの灌漑用水が引かれましたが、現在は付近の興農用水なども親水緑道として整備されます。



 この都立公園は、1940年 紀元2600年事業(神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝う:砧公園小金井公園も同事業による)の計画があったが、戦争突入後は高射砲陣地や飛行場が建設されました(国府台の軍施設に近い)。
 戦後は農地として開放されたため、公園整備再開時には宅地化が進んでしまい、当初計画の半分程度の面積に。場所は分かれるが、野球場、テニスコート、競技場、ドッグラン、バーベキュー広場 等の施設には活気があります。

 付近の鹿骨(ししぼね)の地名は、奈良 春日大社創建時に、茨城 鹿島神宮から神鹿を運ぶ際、死んだ鹿を葬ったことに由来するため、大切にしているようです。


追記──地下鉄 東西線利用者のたくましさ

 先日の大雪の際は早めに帰宅するも地下鉄は大混雑で、茅場町駅では電車1本につき各ドア数人程度しか乗り込めない状況に。
 わたしの体は入らないとあきらめた瞬間、隣にいた小柄な女性がわずかな隙間に、ジグソーパズルのピースのようにスポッとはまり、乗り込んでいきました。
 ラッシュでは小柄な方は息苦しかろうと思っていたが、力ではかなわない人の対処法に感心しました。


追記──草津白根山噴火

 スキー場のカメラや、スキーヤーが撮影した戦場のような映像(雪上に降り注ぐ噴石は、まるで爆弾のよう)には、背筋が凍りました。
 監視対象外地域の噴火で犠牲者が出たことは大きなショックながら、閉鎖と思っていた草津国際スキー場は警戒範囲外のゲレンデ営業を再開しました。
 全国には火山に隣接する観光・レジャー施設は数多く、すべてを監視対象とするために巨額の費用が必要になった際は、入湯税の増額や火山地域入場税(私案)が徴収されても納得できるし、安心・安全の実現こそが火山列島での暮らしには大切と。

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