2019/06/03

遺産を生かすのが文化では──丸の内

2019.5.25【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_26

 現政府の経済政策も、数字が大きく国を代表する大企業を支援しているが、以前からそんな企業に蓄えられてきた莫大な遺産を、日本の中心で目にすることができます。


 この日、地下鉄大手町駅のパレスホテル東京出口に向かうと、警官、黒スーツの警護や外国人SPに加え、ホテル従業員も駆り出される状況から、米トランプ大統領の滞在先と見て取れました(ホテルオークラが建て替え中のためか?)。到着の何時間も前から威嚇を続けるのは大変そうでが、日本でテロが起きては困ります……


 和田倉噴水公園は皇居外苑なので、平成天皇の結婚時に大噴水が作られ、令和天皇の結婚時に再整備される等、皇室との関わりがあるため常に手入れが行き届いています。
 公園にあるパレスホテル直営レストランで結婚披露パーティーが開かれるのも、土地が限られる都心らしい活用法ですし、皇居前の会場に人気があることも理解できます(前身は官営ホテル)。

 右の日本工業倶楽部会館(1920年:大正9年)は会員制のため普段は入れないが、パーティなどに貸し出されます(内部はセットのような豪華さ)。一階に三菱UFJ信託銀行 信託博物館があるように、三菱が運営主体のようです。

 右の新丸の内ビルディング(2007年)は、新丸ノ内ビルヂング(1952年)を建て替えたもので、旧ビルの建設は戦争で中断したため、完成済みの基礎部分は防火用貯水池、戦後はプールや資材貯木場とされたそう。
 7階のテラスは、以前都市景観保護のため高さ31mに制限された旧丸の内スカイラインの屋上にあたり、周囲の丸ビルやJPタワー(KITTE)にも名残は見られますが、つぎはぎのようで美しくありません。歴史の上に新時代を積み重ねるにはもう少し工夫があってもいいように。

 下の丸の内仲通りの歩行者天国は、オープンカフェに絶好の立地と思うもテーブルや人が少ないのは、高級ブランド店が並ぶので出店する隙がないためか?


 江戸時代の丸の内に並んだ大名屋敷は、明治期に取り壊され陸軍兵舎・練兵場となりますが、移転後は三菱財閥に払い下げられ、日本の中心地は三菱に牛耳られることになります。当時の財力がどれほどか想像できませんが、重要文化財として残される明治生命館(右 1934年:昭和9年 三菱グループ)には「うわ、すげぇ!」と圧倒されます。
 メールシュート(ビル内のポスト)、掃除用の吸引パイプ、ダムウエーター(配膳用小型エレベーター)、応接室ごとのマントルピース(暖房ではなく排気口とされた)等、当時の最新設備や贅を尽くした装飾は、一度目にすべきかと(見栄でできるものではない)。

 下の三菱1号館美術館は、1968年に解体、2009年に復元されたレプリカで、歴史的建造物保存に非協力的な三菱の姿勢(商売優先)が各方面から非難されました。
 この一角は丸の内ブリックスクエアとされる商業施設で、「おしゃれな中庭」との評判からベンチには女性がビッシリ並ぶ人気ぶりです。上の丸の内仲通りに面したカフェ・レストランの方がオシャレと思うも、お金をかけずに過ごせる観光スポットらしく、美術館の展示はフランスの近代美術が中心で、ベンチの女性たちがターゲット層のように。
 商業的には成功に見えますが、歴史遺産を生かさずに新しい文化は生まれるのだろうかと。


 トランプ氏はあれでも我慢しているらしく、後ろ盾を得た途端に暴言を吐きますが、アメリカ大統領ですから外交儀礼の歓待は必要としても、国技館の大歓声には「日本で人気があるのか?」との違和感を覚えました。あれがサクラだとしたら北朝鮮のようで恥ずかしいし、それが外交(営業)とされたら返す言葉もありませんが、ノーベル平和賞への推薦が日本国民の見解とされては困ります……

2019/05/27

行事が告げる季節感──京橋

2019.5.11【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_25

 日本橋が架けられた江戸時代の下町は神田・日本橋・京橋だけとされますが、町の名は明治期に誕生した京橋区(銀座・築地・佃島等を含む)で広まったそうです。


 右は、旧ブリヂストン本社ビル(ブリヂストン美術館)跡地に建設中のミュージアムタワー京橋(アーティゾン美術館)で、奥にはこれより高いビルが建設中。
 休館前のコレクション展に足を運ぶも、大混雑で諦めたことがあり、2020年開館後もしばらくはゆっくり観られないかも知れません。写真で目にするような絵が数多くあるので人気は当然とも。
 美術館に気後れせずに入れるようになったのは、高校時代の課題で見学に来たおかげと感謝しています。

 手前は旧ツムラビル(津村順天堂)建設時に設置されたキリン像で、キリンは漢方の王様とされるらしい。

 京橋の由来は想像通り、東海道起点の日本橋から「京へ上る最初の橋」によりますが、埋め立てられた京橋川には首都高速が通されています。橋の欄干に擬宝珠(ぎぼし)があったのは日本橋、京橋、新橋だけで、幕府の京都に通じる道への配慮のようです。

 江戸初期の日本橋・京橋周辺には、同業種を集めた職種名を持つ町が城下町(下町)として整備され、京橋川沿いには材木や竹を扱う職人が暮らしました。
 明治期に日本橋の古美術商が評判となったことから、道具屋から美術商となる者が軒を連ね、日本橋〜京橋に続く骨董通りを形成し現在に至ります(右はまたシブ過ぎと言われそう)。

 右は「どれでも7,000円」と階段に絵を並べるギャラリー(?)。売る側もプロなのに、叩き売りの中にお宝が隠れていたりするいい加減さと、価格設定の不透明さが美術品の価値(幻想)を維持しているようで、相場の裏付けが理解できません(株価動向の「気分」的なもの?)。

 ビジネス街の夜間人口は減る一方としても、2017年京橋全体の人口が299人とは驚きました。地域の消防団に居住者はいないため不測の事態に何もできず、防災訓練も企業主体で行われるらしい。
 これでは祭りに担ぎ手の助っ人が必要になるのは当然かと……

 江戸時代から大相撲開催前日には、太鼓を打ち取組を知らせて回る「ふれ太鼓」がひいき筋を巡回してきたそうです(下)。正装で挨拶を受ける姿には、祭事(奉納行事)の使者を迎えるような姿勢が感じられ、大相撲を季節の行事として受け入れる生活の暦が、現在の都心でも受け継がれているように。横綱 鶴竜の名しか見当たらないのは、白鵬が休場の告知らしい。
 ここは旧片倉工業本社ビル跡を再開発した東京スクエアガーデン(2013年)で、片倉工業は富岡製糸場の建物等を富岡市に寄贈した会社。

 右は旧京橋近くの竹河岸通りの年代を感じる建物。


 右の明治屋京橋ビル(中央区指定有形文化財)は、再開発された京橋エドグラン(2013年)の一部として改修されました。明治屋からはジャムしか思い浮かばず、以前三ツ矢サイダーを発売していたそうですが、どちらもかなり前にお付き合いはなくなりました。

 人の出入りが多い場所なのでしばらく待ちましたが、身動きせずスマホに集中する女性の様子から、いまどきは待ち合わせに遅れても心配する必要はなさそうとも(ずーっとこの姿勢のままです)。

 付近の目印となったのは、常々「この場所にふさわしくない」と眺めていた「スーパーホテル」の看板でした……

2019/05/20

八重洲は後回し?

2019.5.3【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_24

 東京駅の駅舎は、江戸期から繁華街のあった八重洲側ではなく、皇居と向かい合う丸の内側に建設され、その後しばらくの間は改札もありませんでした。



 日本銀行脇にある常磐橋(ときわばし:都内に現存するもっとも古い石橋)は、東日本大震災の被害を受け現在も修復中(2013年〜17年完了予定も19年10月に延伸)のため、まだ姿を見られません(地盤が悪かったのか?)。付近に道路橋の常盤橋が架けられ、歩行者専用の旧橋の漢字は「常磐橋」とされます(読みは同じ)。

 隣接地(線路東側にも大手町がある)では、大手町二丁目常盤橋地区再開発事業の地上61階、高さ390m(日本一)ビルの工事中ですが(メインビルの工事はまだ先)、日本最初の超高層ビルとされた霞が関ビル(地上36階、高さ147m)の倍の高さなのにインパクトを感じないのは、自慢できても魅力ではなくなったためかと。上は、大丸から丸の内方面。


 東京駅は、丸の内口に皇居へと続く行幸道路が整備され、反対側に雑然とした八重洲繁華街があることで、トータル的にバランスが保たれる印象がありましたが、丸の内側再開発に目処が立った時分に八重洲側のヤンマービルが消えた光景を目にすると、「後回しにされただけ?」と、優先度の格差を感じたりします。
 上の八重洲口グランルーフの地には、以前大丸が入る旧鉄道会館ビル(東京駅八重洲口駅ビル←リンク先写真が懐かしい!)があり、東京駅のシンボル的な印象がありました。
 下は、ヤンマー東京支社ビル跡地に期間限定(2019年4〜10月)でオープンしたTHE FARM TOKYO で、空が少し広くなった八重洲を楽しむ場所のように。


 明治時代の地図(中央の八重洲橋が八重洲中央口前交差点付近)から、外堀を挟んだ丸の内側の旧大名屋敷の広い区画と、八重洲側の庶民が暮らす狭い区画の格差から、再開発の困難さが見て取れます。
 八重洲側の駅周辺だけが先行して再開発されたのは、丸の内駅舎+駅前広場リニューアルに合わせて、背景の古い建物の「汚れ消す」ためとも。八重洲側の再開発計画はいくつもあるようなので、見納めは早めの方がいいかも知れません。

 同地図で旧常磐橋が外堀内の堤(人工物)に架けられる様子から、やはり地盤がよくなかったように。

 付近や有楽町周辺では、各地方から直送される地の物を扱う居酒屋を多く見かけますが、焼き魚の匂いに誘われ九州 五島列島の店に。
 九州の醤油には個性的なものが多く、「あご(トビウオ)だし醤油」を口にした瞬間、五島の方には申し訳ないが屋久島の空気感がよみがえりました(以前は毎日鯖ばかりでしたが、もう捕れないらしい)。近所ではおいしい魚を食べられず、久しぶりにズドンと主張する魚の風味を口にし、初体験の島が浮かんだように。
 右はからくさホテルの外壁(チェーンホテル)ですが、唐草模様って昭和を最後に遺産となったように。

 以前の八重洲町は丸ビル南側の地域でしたが、1954年町名変更で丸の内を追われ(東京駅は丸の内)、外堀通り沿いの細長い地域とされます。東西の幅は狭いため、歩くうちに日本橋に入ってしまうので混同してそうです。

 八重洲地下街は1958年開業から拡張されてきましたが、とても分かりやすい印象があります(出口も大体の見当がつく)。また地下街の下に地下駐車場があるため、駅前や八重洲通りの分離帯に換気塔が並びます。
 八重洲では前述の旧鉄道会館ビルと、下の換気塔が昭和のイメージとして残りますが、ここは八重洲ではありません。


 八重洲口の東京駅高速バスターミナルからは、各地に向けてひっきりなしにバスが出て行きますが、そこに並ぶ人たちも途切れないのはさすが東京駅(再開発で新ターミナルができるそう)。
 と思ったが、ここ以上に新宿高速バスターミナル(バスタ新宿)は大変な混雑で、待合所に人が入りきれないとのこと。いまどきは外国人旅行者も安価な交通手段として利用するため盛況なようですが、運転手争奪戦のしわ寄せが弱小会社に集中してしまうと、事故はなくならないように……

2019/05/13

下町色残る日本の中心地──室町

2019.4.27【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_23

 三井グループは総本山である地下鉄 三越前駅周辺の足場固めに余念がないようですが、江戸っ子たちは狭い土地ながらも、流行りに敏感なフットワークで奮闘しているように。


 徳川家康は江戸時代、日本橋を五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点として周辺に人・物資を集め日本の中心地としますが、もてはやされた京都へ向かう東海道側は日本橋の町名でも、北側の土蔵(室)が立ち並んだ地域は室町とされます(京都の室町にならったとも)。現在では橋を中心とした一帯が日本橋とされますが、江戸時代は「ウラ日本橋」的なイメージだったようにも。
 現在の中央通りは上下水道整備のため、本郷台地(神田 昌平橋付近)から江戸前島の尾根上を新橋まで通された通り町筋(とおりちょうすじ)に始まり、日本橋以西は東海道となります。
 右はベトナム料理店のランタン。


 中央通りを挟み三越の反対側には以前からの狭い区画が残され、戸口が向かい合うような路地に飲食店が軒を連ねる、のんべえワンダーランドのような迷路が健在です。付近には江戸期から日本橋魚市場があったため人の出入りが多く、市場関係者相手の店舗が相当数並んでいたことと(市場は関東大震災を受け築地へ移転)。空襲で焼け野原となるも戦後復興で区画整理をせずに整備を急いだのは、中心地の繁華街復活を早期にアピールするためか?
 近頃は、店主の代替わりに伴いオヤジの聖地は衰退する一方で、キレイ目な店では土曜の昼どきに若い女性やアベックの行列を見かけますから、いまどきの日本橋ブランドを活用する店が増えているようです。


 上のコレド室町(三井不動産等が主体)の仲通りは右の福徳神社参道とされ、ビル群の谷間にある憩いの場に隣接する社への参拝客も増え神様も喜びそうですが、ここは安息の地となるのだろうか(以前はビルの屋上暮らしもあったらしい)。
 コレド室町にシネコン(TOHOシネマズ)が入るのは、日本橋には映画を観るためにわざわざ足を運ばせる魅力があるとの考えなのでしょう。日本橋の映画館は平成元年に閉館した三越映画劇場以来。
 COREDOは英語の「核:CORE」と「江戸:EDO」をつなげた造語で、意味は通じなくても覚えやすければいいようです。

 日本橋川以北は神田明神の氏子地域(丸の内・大手町も含まれる)なので、飾られる提灯は神田祭(5月9〜15日)のもの。日本橋を境に神田明神と日枝神社(赤坂)の氏子地域が分かれるのは、京都側とその反対側という線引きによるもの?(神田明神は伊勢神宮、日枝神社は大津 日吉大社がルーツ)

 右はうなぎ割烹 大江戸の玄関で、土曜限定の「いかだ」(1匹を切らずに焼いたものを重に乗せるので、端がめくれ上がる!)の案内が出ています。以前何度かご馳走になりましたが、自腹で食べられるのは何年先か……(ふっくら、やわらかな食感でした)


 上は5月11日神田祭の神幸祭(しんこうさい)「一の宮鳳輦(ほうれん)」巡行の様子。この祭は家康が関ヶ原合戦の際、神田明神に戦勝祈祷を命じ勝利したことから、盛大に行われるようになったとされます。
 神輿を担ぐのではなく山車を引く巡行のため、行列が間延びしても10分程度で通過しますから、交通規制ではなく交通整理で対応しています。三越周辺では道路脇に人垣ができる人気ぶりで、現在も下町時分の心意気を持つことをアピールするには絶好の行事と。
 行列に参加する馬と乗り手は相馬野馬追関係者に依頼するようで(マイクロバスが待機)、人混みに慣れた馬・人を手配する配慮はさすがと。

2019/05/06

「10連休」は最強の呪文──葛西臨海公園

2019.4.28【東京都】

 日本全体がこれほど浮かれた気分になるのは初めての経験という気がします。おそらくTOKYO 2020でもここまでの高揚感は生まれないだろうと。


 「10連休」の言葉には「言った者勝ち」的な力があり、「もちろん休みます!」「国民の権利ですよね!」など、日の丸を後ろ盾とした(?)強気な主張のため受ける側は窮してしまい、その言葉が発せられる前に釘を刺さねばと腐心された方も多いのでは?
 休むためなら前倒しの仕事がきつくても我慢できますが、休日だから働く人(繁忙期)、休めない人、休みたくない人もいますから、今回のような祝祭であっても分散して休めるような受け皿を用意すべきではないか(混雑を避けられれば遠出も選択肢になる)。
 とはいえ、機を逃すと休めないのも確かで、「10連休」という呪文に乗っかった方も多いのではないか……

 葛西臨海公園の海辺には、渚橋(右奥が橋の支柱)を渡った沖に葛西海浜公園の人工干潟があります。荒川と旧江戸川の河口に広がる三枚洲とされる干潟を整備し、「西なぎさ」は出入り自由ですが、陸地とつながらない「東なぎさ」は立入禁止の自然環境保全エリアで、2018年ラムサール条約湿地に登録されました。

 手前のテントはバーベキュー場の炊事場で、これからの季節はにぎわいそうですが、駐車場からは丘を越える必要があり、ちょっと遠いかも。
 ランドマークの観覧車(日本で2番目の大きさ)が、砂浜を転がってきそうなところが臨海公園らしさと。


 中学・高校生時分に10連休があったら何をやってただろうか? ずっと遊べるほど小遣いはないので、仲間と海辺へ繰り出してはしゃぐのは現実的な選択とも。
 先生たちも、明確な目標を持つ部活の顧問以外は休ませてあげたいと思うも、家で残務作業をしているかも……
 この浜辺で潮干狩りは可能ですが(無料)、自然のままで貝をまいてないためほとんど採れないらしい(「アサリはほとんどいません」by 東京都公園協会)。

 下は、ビーチ・フラッグスのような遊びをする様子で、われわれの時代にそんな遊び方はなかったが、男はどうして砂浜を走りたくなるのだろうか……


 隣接地にTOKYO 2020で使用されるカヌー・スラロームセンターが整備中で、注水が始まってもまだコンクリートがむき出しらしく、試運転というところか。
 競技内容は知らないが混雑しても歩いて行けるので、ここで五輪競技を観戦しようと考えています。せっかくなので近々始まる予約受付から参加したいと。

 右は外国人の集団がパラシュートのような大きな布で遊ぶ様子で、収納場所を考えてしまう日本人には発想できない遊びのように。
 下の荒川最下流に架かる荒川河口橋は、海風をまともに受けるのでJR京葉線がよく止まるのも仕方なさそう。


 平成生まれのファミリーが、令和天皇の即位を祝う一般参賀に「子供たちの時代の幕開けを見せにきた」と、新しい時代への期待を語っていました。評価は別にしても、負のイメージを持たない平成世代は素直に希望を抱くことができるようです。
 われわれが引きずってきた昭和の陰は過去のものとし、新しい時代を迎えることが「いい時代の積み重ね方」となり、未来への希望につながることを理解できた気がします……

2019/04/29

時代──日本橋

2019.4.13【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_22

 平成の幕開けは昭和天皇崩御に伴うもので厳粛さがありましたが、令和の始まりは平成天皇の配慮のおかげもあり、歓迎の気持ちを持って迎えられそうです。


 メディアは(金をかけず持ちネタで構成できるため)こぞって平成史を振り返らせようとしますが、それを見ずとも兜町を歩けば、バブル崩壊時の証券取引所の光景や、山一証券の破綻会見がよみがえりますし、銀行への公的資金(税金)投入や借金棒引きなど、金融大手には社会のルールが適用されず驚いたことが思い浮かびます。
 現在の景気対策とされる政策も、景気の良さそうな話は耳にするばかりで実感はないのに、雲行きが怪しくなった途端に庶民が煽りを食わされた経験から、政治パフォーマンスの宣伝としか受け止められません。
 統計不正が問題視されるように、判断基準に透明性・分かりやすさがなければ納得は得られないのではないか。


 日本橋高島屋の玄関には平成天皇・皇后の成婚パレードで使用と同型の儀装馬車が展示されており、この日お二人で見学された様子をニュースで目にしました。
 同時代で知る天皇は二人ですが、ひとり矢面に立たされた(背負ったのかも知れないが)昭和天皇以上に、人々と同じ目線で対話するよう努めた平成天皇からは、象徴天皇を模索する強い意思が感じられました。もちろん天皇の努力に違いないが、皇后のサポートや助言が大きな役割を果たしたことと(嫁ぐ際の心意気を貫いた姿勢は立派)。
 大きな災害は多かったが、戦争のない時代として終えられたことを昭和天皇に報告することが、平成天皇の使命だったのかも知れないと……

 令和天皇にはその志を引き継いでもらいたいし、皇后の存在は今後ますます重要になるので、周囲(国民を含め)が不安を感じるのであれば、無理をしないようサポートする関係があってもいいのではないかと。

 その一方で、天皇の配慮による準備期間をいいことに、はしゃぐ政府の様にはうんざりさせられました。
 上奏(天皇に事情などを申し上げる)に何度も皇居へ足を運んだ首相は行きたがったように見えたし、「令和おじさん」への期待感から事前の会見でニヤニヤする官房長官の表情は、見ている方が恥ずかしくなりました。おそらく記憶に残るのは、手話通訳の方になるのではないか……


 日本橋一丁目の神輿に「日本一」と記し自慢したことを、京橋地区はうらやましがったようです。
 江戸時代に鳶で編成された町火消し(自治消防団)の中でも、八重洲・日本橋・京橋を管轄した二番組の ろ組、せ組は競い合う存在で、子どもたちは他地区の子ども神輿に参加できても、勢いづいて日本橋地区に入った京橋の町神輿は、日本橋の鳶頭(かしら)に潰されたんだとか。
 近頃地域活性のため、連合渡御(地域を越えた合同の神輿巡行)が実現すると、京橋の人々は日本橋の橋上で御輿を差せた(上に差し上げる)ことを喜んだとのこと。
 いまどきは人材不足で神輿の担ぎ手も周辺からの助っ人が必要なため、不審者の侵入を防ぐために半纏を揃えるそうで、半纏のプライドも変わりつつあるように……


 上は、日本橋たいめいけんに近い洋食店ビストロ デ ノンキ(以前はうなぎ割烹店)で、以前も玄関前の鉢を撮ったことがあり波長が合うようなので、今度ぜひ。看板メニューは「生うにのスパゲッティ」とのこと。

写真 上から
 街路樹の新芽が芽吹き始めた野村證券脇の歩道
 高島屋 玄関に展示の儀装馬車
 高島屋 屋上
 日本橋一丁目神輿が展示されるコレド日本橋
 日本橋一丁目神輿
 ビストロ デ ノンキ
 日本橋

2019/04/22

身の危険を感じる──茅場町

2019.3.24【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_21

 茅場町駅で乗り換えるようになり、町ではなく駅のホームのイメージが浮かぶようになったのは、朝に夕に緊張を強いられるためかと……




 門前仲町から永代橋で隅田川を渡ると、川岸に続く隅田川テラスを歩きたくなります。
 前方にそびえる異様な佃島の高層マンション群は、上海に立ち並ぶディスプレイ的なビル群のようで、人が暮らす様子は思い浮かばないが、「高層マンションは子育てに向かない」ことは想像できます。
 上は中央大橋の裏側で、橋のカーブに沿って吊り下げられた作業用の足場(?)もデザインのように見えます。構造も贅沢な造りで、建設当初(1993年)は化粧板で隠されたらしいが、バブル後は「どうせ見てないでしょ」と、化粧もしなくなったのか?




 上は日本水準原点を定める際に使用された霊岸島水位観測所ですが、その役割は三浦半島 油壺に移管され、現在はモニュメント的存在に(観測は継続中)。
 付近に江戸幕府が築いた江戸湊があり、開削された新川(現在埋め立てられた)沿いに酒問屋、亀島川沿いに米穀問屋が並んだように、地の利を求める業種が集まる地域でした。渋沢栄一が尽力した東京湾汽船(現 東海汽船)もこの地に始まります。

 現在は埋め立てが進み隅田川の一部とされますが、河口だった雰囲気が残るようで落ち着ける場所です。

 上の中央区立明正(めいしょう)小学校(明治期創立の学校が合併)は、明石小学校同様、関東大震災後に整備された復興小学校で、旧建物のモダンなデザインを踏襲し改築されたもの(上のリンク先)。卒業後は築地の先の銀座中学校まで通うそう。
 右はかなり味のある(?)、亀島川の八丁堀側にある設備会社の事務所。区画整理は行われないため、周囲には狭い区画に建て替えられた新しい家屋が並びます。

 新川地区は旧京橋区に含まれますが、箱崎や深川とのつながりが強く富岡八幡宮の氏子地域に属するため、深川八幡祭に参加しています。台場、有明、豊洲地区も富岡八幡宮の氏子地域だそう。


日本橋茅場町

 江戸城の築城当時は茅が生い茂る湿地で、家康が茅商人を移住させたことが地名由来とされます。当時の家は屋根に茅が使われたため、またたく間に発展したそう。
 付近は町名の通り旧日本橋区に含まれる永田町 日枝神社の氏子地域で(日本橋周辺は氏子地域)、祭礼時の御旅所(神輿の休息所)とされた神社が、後に日枝神社 日本橋摂社(境外の小規模な神社)とされます(下)。

 右の亀島川沿いにある歴史を感じる建物(1927年:昭和2年)は、水運が盛んだった様子を見ていたかも知れません。外車は絵になると分かっているのに、何で日本車のデザインはスマートにならないのか……


 茅場町駅は地下鉄 東西線と日比谷線の接続駅で、乗り換えの階段は西船橋(北千住)側しかないため、朝夕のラッシュ時には大渋滞します。混雑は仕方ないも、狭いホームですれ違う際には、転んだ巻き添えで線路に転落する身の危険を感じます。注意を促すための人間ホームドア(ホームの端で両手を広げて並ぶ)を考えた人は、自分でその場に立ったことがあるのだろうか?
 日本一の混雑路線解消への改良工事とされる、ホーム延伸と階段・エスカレーター新設は2022年度供用開始予定とありますが、ホームドア設置が25年予定というのは順番が違うような気がします……
(左は東葉高速鉄道の車両)