2019/09/16

歩くたび引かれる──雑司が谷

2019.9.7【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_41

 前回の都電の坂道を上り、雑司が谷に寄り道します(町の空気に引かれます)。
 都電は時折行き先を変更しますが、知らずに乗った外国人旅行者に気遣いで行き先を確かめ、その旨を運転手に伝えるおばさんに、感心しきりです。外国人旅行者を意識したTokyo Sakura Tram(東京さくらトラム)の愛称や、Tokyo2020のボランティアも大切ですが、われわれも笑顔だけでは「おもてなし」にならないと気づかされます……


 雑司が谷 大鳥神社の例大祭は9月9日に近い週末に行われます。江戸時代に定められた五節句、1月7日 人日の節句(七草粥)、3月3日 上巳の節句(桃の節句)、5月5日 端午の節句、7月7日 七夕の節句、9月9日 重陽の節句(知らなかった)は、奇数が重なる縁起のいい日と考えられました。
 七福神の恵比寿様を祀り、社紋は巾着(福包み)(神仏分離で鬼子母神から独立する際、社跡から出てきた)とされますが、商売繁盛ではなく巾着の賽銭箱にお金を吸い取られそうと感じるようでは、お金は貯まりません……

 雑司ヶ谷霊園(古い施設名なので「ヶ」の表記らしい)に夏目漱石の墓があり、故郷近くに落ち着け安堵しているのではないかと。


 神田川の面影橋から鬼子母神表参道(きしもじん:鬼のツノの点は無い)への道は旧鎌倉街道とされますが、右の法明寺は平安時代創建なので、街道は寺や集落に通じる古い道を整備したようにも。
 室町時代に建立された鬼子母神(子供と安産の守り神)を核に門前町が発展したため、地域の中心と感じますが、法明寺飛地境内のお堂になります。
 法明寺は関東大震災で倒壊、空襲で焼失しますが、それらの免れた鬼子母神堂(母たちの祈りが届いたか?)は国の重要文化財とされます(床板のきしみ音に味があります)。
 上は、法明寺 塔頭(たっちゅう)の観静院の香炉。


 鬼子母神境内にある上川口屋(駄菓子屋)は健在です(年配のご夫婦も)。
 祭りの日なので人出は多くても、子どもたちの関心は出店に向くため、閑散としています。ラムネの空き瓶は結構並んでいましたが、普段はもっと多いのかもしれません。


 鬼子母神表参道周辺も大鳥神社の氏子町なので、町神輿を担いで宮入します(上)。
 日蓮宗 法明寺では、毎年10月16日~18日に鬼子母神御会式(おえしき 日蓮の法会:ほうえ)が行われ、最終日には池袋駅前から和紙で飾られた万灯(まんどう)が練り歩きます。行事同様、鬼子母神門前町の風情を守ろうとする姿勢は、地域を愛する地元力と言えそうで、また歩きたくなる町の大きな魅力と(ケヤキ並木が付近のシンボルです)。


 表参道沿いの木造2階建アパート 並木ハウスアネックス(昭和8年)に、雑司が谷案内処があります(奥の並木ハウスには手塚治虫 氏が暮らしたそう)。
 祭りのにぎやかさを耳にしながら、淡々と手作業(何かを作る)を続ける姿が、この町に似合っていると(鬼子母神前にあるレトロな外観の洋装店も健在です)。


 上はのぞき坂とされる都内屈指の急坂。運転席からは足元が見えないでしょうから、当然坂の手前でブレーキをかけます(奈落に落ちるような感じでは?)。
 レジ袋を手にした女性が日常生活の雰囲気で降りていくと、チラホラいる見学者も「すごい坂だなぁ〜」の声が小さくなります。運動のためとしても、少し手加減してくれる坂を希望します……


 この日早稲田周辺でも、水稲荷神社西早稲田天祖神社(上)の祭りが行われています。
 ですが水稲荷氏子地区の大隈通りでは、「うち7人なんだよ」「こっちなんか2人しかいない」と、今後が心配になる声が聞こえます。町内会の小さな神輿でも「結構重いなぁ」(体力不足)ですから、すでに厳しい状況のように。
 日本のハロウィン(収穫祭)? を継続するための知恵を絞らなければ、途絶えてしまうかもしれません……

2019/09/09

先細りの地域文化──西早稲田

2019.8.31【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_40

 江戸時代に西早稲田の高台に整備された高田馬場は、旗本の弓馬術調練や流鏑馬の施設とされ、 8代将軍吉宗から流鏑馬を穴八幡宮に奉納するようになります。


 盆おどりの提灯に導かれた西早稲田 天祖神社へと下る坂道は、大木が立ち並び子供がワクワクする異界入口のようで、そんな一角が残されるのも神社のおかげかと(アプローチにはもっとも雰囲気があるルート)。
 右は木々を守るように見える家屋。

 神社を管理する高田馬場町会ホームページには、「300世帯弱の弱小町会で町会員の寄付金の負担や運営する人の高齢化などで大変です」とあります。
 待ちきれず昼間に訪れた子供たちが「まだやってないや」と楽しみにする行事ですから、地域文化を継承する方策はないかと。下は、準備が整えられた境内。


 下は道路が鋭角に交差する場所で、左側は並行する道もある古い道らしいが、右側は神田川対岸の氷川神社方面に通じる真っ直ぐな道(参道?)。以前の畑(傾斜地なので水田ではないと)を通る道では問題なくても、宅地にすると使い勝手が悪くなります。
 ですが、坂を少し下った家では、尖った土地を公園のように整備してあるため、足を踏み入れそうになります。活用の難しい土地を自治体主導で整備すれば、新たな町の魅力が生まれるかもしれません。


 面影橋付近を歩くと、都電の真っすぐな坂道を眺めたくなります。
 新目白通りからこの専用軌道に入る際の、車道+歩道を横断する踏切には遮断機がないため、アイコンタクトで「電車が進むよ」と合図をしています。
 近頃、自動車運転者の適正性が問題視されますが(誤操作や安全運転する気のない不適正者は別問題)、基本に立ち返ってアイコンタクト(相互の意思確認)の重要さを再確認すべきと。「見えなかった」は、確認する意思を持たない者の言い訳で、歩行者にも信号だけでなく目視の安全確認が必要です。それでも身を守れない事故は起こります……

 徳川家光が造営した高田馬場は約650m × 55mの横長で、旗本の弓馬術調練場、将軍が武芸観覧する奉納馬場とされました。8代将軍 吉宗が世継ぎの疱瘡(ほうそう:天然痘)平癒祈願として穴八幡宮に奉納したことが、小笠原流 流鏑馬の起源とのこと。
 高田とは、神田川沿いの低地(早稲田 等)に対する高台の名称のようで、豊島区側にも高田の地名が残ります。

 夏でも鯛焼きが人気なのは、冷めても美味しいからなのでしょう(甘いもの食べないので推測です)。おやつに限らず焼き上がりを待つ際には、左端のおばさんのように気分が盛り上がってきます(ウキウキのように見えました)。


 早稲田松竹の予告看板(上)に、以前の二番館を思い出し心がざわつきます。高校生時分は2本立て300円程度で何度もハシゴしましたが、もう体力はありません……
 二番館には『真夜中のカーボーイ』『スケアクロウ』『タクシードライバー』(リンク先はどれもYoutube。若い時分は皆さんカワイイ…)等の、アングラな映画が似合うイメージがありましたが、早稲田界隈の雰囲気も変わりましたし、いまどきは雰囲気が明るくなければ敬遠されそうです。

 高田馬場駅近くの結婚式場 セレス高田馬場(右)は、大聖堂が人気だそうです(何の建物かと思いました…)。

2019/09/02

水にゆかりの深い──早稲田

2019.8.24【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_39

 付近に早稲(開花・結実が早い品種)もしくは早い時期に稲を植えたのは、凶作に備える知恵とされ、学府でも難事に備えた人材育成を目指したのか……


 大隈庭園を歩くつもりが休園(大学には入れても庭園公開は授業日のみ)で、地図から神田川対岸が関口芭蕉庵と知り、両岸の位置関係がつながったと足を運ぶも、こちらも休園の案内があり椿山荘まで足を伸ばします。

 早稲田大学は正門脇の1号館以外はビル群のようで、オフィス街同様「どれだけ人が集まるのか」と朝晩のラッシュ時を想像すると、ちょっとゾッとします。
 朝は当然急ぎ足でも帰りはゆったりというか、仲間とつるむ学生はダラダラ歩くためうっとおしく感じますが、自分も学生時代はそうだったかも知れないと……
 大隈庭園前のCafeは営業しています(右)。

 関口芭蕉庵は、松尾芭蕉が神田上水改修にたずさわる3年間暮らした水番屋跡で、後に整備されるも戦災で焼失します。現在は、近隣にある講談社・光文社・キングレコード 等による「関口芭蕉庵保存会」が維持管理しているそう。
 右は、塀の外から見えるバショウ(芭蕉)。

 神田川沿いの傾斜地に広がる森は、斜面から染み出す湧水が育てたもので、江戸時代には高台から斜面まで大名屋敷や庭園とされ、対岸の早稲田の水田を眺めていたようです。
 そんな田んぼに造営された大隈庭園は、戸山側から流れる蟹川の水を引き込んでいました。

 椿山荘ではこの日も、施設を案内してもらうカップルや、いくつもの披露宴が開かれるように、ブランドイメージや安心感から人気のある様子が見て取れます。
 散歩と思われる女性たちも「以前は山縣有朋の屋敷だった」等々の話から下調べは万端らしく、「その時 」の候補のようです。男は「どこにする?」ですから……

 この庭園にも古香井(ここうせい)とされる湧水があり、 関東大震災では被災者に開放されたように、いざという時に水は重要なので、近所の災害時協力井戸や給水場所をチェックしておかねばと。
 右は、茶室の長松(ちょうしょう)亭。


 肥後細川庭園(ひごほそかわていえん:旧称 新江戸川公園←江戸川は神田川中流域の旧称でしたが、これでは分かりづらい)は、幕末期に熊本藩主 細川家下屋敷、明治時代に細川家本邸とされます。隣接する永青(えいせい)文庫では、細川家伝来の美術品、歴史資料 等々の展示・研究が行われ、理事長は18代当主の細川護煕 氏(元内閣総理大臣)。
 上は「ご自由に…」と置かれた日傘で、外国人も喜びそうなサービスです。


 都電荒川線の車両はリニューアルされ、旧型の黄色い車両を見ることはできません(ホームページにも無く博物館入りか? 現在はみなラッピングしています)。
 上は都電側が青信号(路面電車は黄色の矢印信号)のタイミングで、通過を待つ歩行者が線路内に立つ姿が都電らしい。以前荒川車庫付近で目にした、運転手がアイコンタクトで車や歩行者に進む意思のないことを確認する動作こそ、信号に勝る安全確認と。
 余談ですが、車用の青い矢印信号は、路面電車の黄色の矢印を転用したんだそう。黄色の矢印は数が少ない分インパクトがあるので、教習所で習ったことを瞬時に思い出します。


 甘泉園(かんせんえん:茶の湯に適した湧水に由来)は、以前徳川御三卿の清水家下屋敷があった敷地で、昭和初期に早稲田大学の施設とされますが、戦後東京都に売却〜都立公園となり、1969年から新宿区が管理します(隣接地には水稲荷神社)。
 まだ8月なのに赤い葉があるのは台風 等の影響か?(上)

 穴八幡宮は、高台の突端に源義家が八幡神を祀ったことに始まり、江戸期には徳川家光が幕府の祈願所・城北の総鎮護とします(右の派手な獅子同様に社殿も立派)。
 冬至~節分の期間限定「一陽来復御守:陰が極まって陽に転じる。凶事が去り吉事が来たる」は大変な人気らしく、初日の冬至には大行列ができるそうです(飲食店 等で見かけたことがあります)。

2019/08/26

ふるさとへの思い──神楽坂、早稲田

2019.8.10【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_38

 以前は神田川沿いを歩いたので、東西線南側を中心に歩きます。付近は高台の縁にあたり、北側の神田川水系に向かう谷筋が多く平坦ではありません。



 駅が後付けとしても駅前の神社には挨拶しておかねばと。
 鎌倉時代に、群馬県赤城山付近からの移住者(牛込氏)が創建し、牛込地区の鎮守とされます(以前は牛込区)。
 社殿建て替え+マンション建設のプロジェクトにより、ホールやカフェ 等を併設するモダンな社となっています(デザイン監修は同神社氏子の隈 研吾 氏)。

 スフィンクスを想起した狛犬は江戸時代に流行した加賀白山犬で、女性の「クレオパトラみたい」の声も、髪の毛(?)パッツンなのでイメージは分かります。ここも神楽坂上(駅周辺)の散策ルートに入るようです(こぎれいであれば人は立ち寄ります)。



 以前の新潮社書庫を再利用したla kagu(ラカグ:2014年)には、リニューアル(19年)したばかりのにぎわいがあります(周辺散策の要チェックスポット?)。
 お米専門店+ライフスタイルショップらしいが、お米よりも周辺商品の方が目につく印象があります。Afternoon Tea(生活雑貨+ティールームの融合)運営会社の目先を変えた展開で、ここはアンテナショップ的な性格らしく、気に入った商品をネットで注文、という業態のようです。
 おいしいお米の「しあわせ感」は知っていても、家で食べる回数や量が少なくなった主婦に向けての提案らしい(少し高くても一度買うと、また食べたくなりそう……)。



 以前の寺町と思うような地域で、建物に水玉模様を配して存在を主張しています(2017年)。なぜこの場所に? の意外さがあの方らしさなのか、付近にゆかりがあるのか(長野県出身)。

 近くに残される弁天堂(下:社務所とした民家が残されているようにも)が弁天町(旧牛込弁天町)の由来で、弁天堂を管理する宗参寺には牛込氏(赤城神社を創建)の墓があるように、歴史が残される地域です。
 地図で細長い区画を目にし足を運ぶと、旧水路と思われる低地に細長い都営住宅が伸びています。危険な場所に見えますが、排水路はしっかり整備されているのでしょう。





 新宿区に生まれた夏目漱石は、家の没落から数奇な運命・様々な経験を経た後、晩年に漱石山房の地に戻りますが、そこは弟子や知人が集うサロンと化します。創作活動のため面会日を定め「木曜会」と称したように多くの人に慕われたのは、教職で培った面倒見の良さによるらしい(上:わが家をイメージしたような外観)。
 終焉の地に置かれる猫塚のレプリカ(右:漱石没後、遺族が飼っていた犬、猫、小鳥を供養した)には、「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」の猫は含まれないと思うが、小説の顛末が思い出せません……

 漱石ゆかりの地として根津神社近くにある、壁の上を歩く猫のオブジェが思い出されます(夏目漱石旧居跡「猫の家」は『我輩は猫である』を執筆した作品の舞台)。



 森のような佇まいに導かれて、足を踏み入れます。
 ここは臨済宗の寺院で、三代将軍 家光に仕えた祖心尼(そしんに 名は おなあ)の寺として知られます。戦国時代を生きた女性で、家光の母となった、家光の乳母となった春日局と同様、波乱万丈の末、春日局から補佐役を依頼され大奥で家光に仕え慕われたそう。女性に選択の自由がない戦国・江戸時代に、与えられた立場を全うし評価を得たことは大変なことと。
 そんな経緯を知らずに入ったが、広大な森のような境内が守られる様子から、人々から敬われる存在であったことが偲ばれます。

 鶴巻南公園近くで「革マル派の機関紙…」の表記や公安の監視パトカーを目にし、健在なのかと驚きます。

2019/08/19

様々な祈りの地──九段下、飯田橋

2019.8.3【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_37

 ピーカンの猛暑の中を日差しを避けながら歩くも、熱中症対策として(?)2度もカフェに自主ピットインします。結構バテバテ……


築土神社(つくど)

 創建時は津久戸村(現 大手町)で平 将門の首(首塚)を祀るも、江戸城築城のため田安郷(現 北の丸公園)に、城の拡張工事により筑土八幡神社隣接地に(新宿区筑土八幡町には神楽坂 白銀町と同時か)、空襲を受け現在の九段北に移転し、ようやく落ち着けたように。
 この地へのこだわりは、武道館の氏神とされるためらしく、将門の黒馬に由来する勝守(かちまもり)は、武道(柔道・剣道 等)を志す人々に人気があるそう。戦いに敗れた人物でも坂東(箱根より東の関東)では誇りのようです。
 九段北地区は靖国神社で東西に分断されるため、東側は築土神社、西側は日枝神社の氏子地域になるそう。



 大鳥居からの参拝が正しい様が見て取れます(右)。
 軍人、軍属 等を主な祭神として祀る神社で、中央の大村益次郎の像から起源が明治期であることが分かります。彼は日本陸軍創始者との評価からこの神社に祀られますが、初代の陸軍大将である西郷隆盛は西南戦争での反乱により、それまでの功績や名誉は消し去られたようです(庶民に親しまれる人柄ゆえ、銅像の立地は上野公園がふさわしいと)。
 戊辰戦争における新政府軍側の戦没者を合祀し、幕末の志士 吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作 等々も維新殉難者として合祀したのは官軍側の論理で、評価というものは立場によって変わります。異を唱えるつもりはないが(慰霊する気持ちはある)、近代日本史については、各自が評価できる程度に学ぶ必要があるように。

 現在、天皇の存在を支える神道が強制されないように、靖国神社の戦没者を祀る方針もひとつの宗教活動とすれば、閣僚の個人的な信仰による支持者へのアピール(政治利用)は可能としても、近隣諸国の揚げ足を取るような批判に対しては、各個人の信念に基づいた説明をきちんとすべきと。
 国が管理する千鳥ケ淵戦没者墓苑には、朝鮮半島・台湾出身者で遺族に引き渡せない遺骨も納骨されています(アメリカはここを慰霊します)。

 下の神池庭園(しんち)の池が、底の石までピッカピカなのは、清掃が終わったばかりのためか。以前、濁った水を泳ぐ鯉を目にした記憶があります。


 現在桜の名所とされる外濠公園(江戸城外濠の土手)は、明治期以降も「この土手、登るべからず」とされますが、1921年(大正10年)法政大学の移転以来、土手に入り込む学生があとを絶たず問題視されたため、大学が東京市(当時)に「土手の開放」を求め、27年(昭和2年)外濠公園として開放されます。それって法大生の自慢になるのか?


 上の飯田橋グラン・ブルームは、以前の東京警察病院、富士見町教会 等を再開発した施設で、オフィス・商業棟、住宅棟や教会棟があり、足下に外濠を望みます。

 現在、飯田橋駅はホーム移設工事中で(カーブにあるホームは傾斜があり、ドアとの隙間も広く危険)、西口(新宿側)の長い通路付近がホームになるそうです(新しいホーム付近には旧牛込駅があった)。旧飯田町駅(貨物駅)と旧牛込駅が飯田橋駅として統合される際、中間のカーブにホームが作られたのは、東口の目白通りに都電が通っていたためか。




 ここは都内最強の「縁結びパワースポット」とされ、参拝に並ぶ若い(?)女性から「このオヤジ何?」という目で見られていたように。
 伊勢神宮の分霊が祀られる「東京のお伊勢さま」とされ、以前の日比谷から関東大震災後に移転します(大正天皇の結婚式が行われ、それを契機に神前結婚式が創始されます)。
 上は境内で育て祭祀に使用すると思われる稲。

 飯田橋駅付近は九段から続く丘陵地の縁にあたるため、傾斜地の裏道には階段の路地が健在です。どんなに急でも坂道は車を通すためのものですから、こんな路地の方がのんびり歩けるように……


2019/08/12

夏の風情を伝える──神楽坂

2019.7.27【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_36

 この日は、神楽坂まつり「阿波おどり大会」があると知り訪問順を変更しましたが、19:00開始のため阿波おどりは未見です。


 神楽坂駅周辺の裏通りには、民家等を利用する小さな店舗が軒を連ねています。そんな街並みは認知されるらしく、店をのぞき界隈を散策する目的で足を運ぶ人も多いようで、飲食店も結構にぎわっています(町にお客がついた印象)。
 以前は、旧花街のあった善國寺周辺が隠れ家とされましたが、近頃は坂の上にもいい感じの店が並んでいます。
 付近の白銀町(しろがね)は、田安台(現 武道館付近)築城の際に農民を移住させた地で、芝白金台のような発展を願った命名とか。

 右の白銀公園で服のまま水を浴びる二人は、顔だけのつもりが徐々にエスカレートしたようにも……(暑い日でした)

 神楽坂まつりは、前半2日間 ほおずき市、後半2日間 阿波おどり大会が行われ、最終日には近隣店舗の軒先にほおずきが飾られています。鉢の下で揺れる風鈴の音色が、周辺の夏の風情に感じられます。
 季節感を大切にする町の姿勢は訪問者に好印象を与えますから、「来年はほおずきを見に来ようか」につながるのではないか。
 お盆では、ほおずきを死者の霊を導く提灯に見立てたそうで(漢字は鬼灯)、ガキ時分に供養のためと教えられたためか、母や祖母が実を揉みほぐし口に含んで鳴らしていた姿が、いまも記憶に残ります(わたしはすぐに破れてしまった)……

 神楽坂通り(早稲田通り)は、江戸時代の牛込御門と現神楽坂駅南側にあった若狭小浜藩主 酒井家屋敷(牛込矢来屋敷)を結ぶ道で、外堀の飯田橋駅付近に神楽河岸が設けられ、物流拠点として発展します。
 まつりの中心となる善国寺が麹町から移転し、寄席や花街がにぎわうようになり、関東大震災の被害が軽微だった周辺に銀座 等から店舗が集まるも、坂下には華やかさとは無縁な河岸の流れを残す(?)一角が健在です。昼間からご機嫌なオヤジたちは、近くにある東京理科大 等の同窓生? 店は変わっても町の雰囲気で十分飲めそうです。
 神楽坂の名称由来は、理科大付近の若宮八幡神社の神楽が聞こえる地、によるそう。

 善國寺付近は、店舗単位の出入りはあっても大きく変わってないように見えますが(以前写真を撮るなと文句を言われた店は見当たらない)、神楽坂通りの観光地のような混雑ぶりから、昼だけでなく夜の顔も趣が変わりつつあるのではないかと。

 店舗裏の通路(右)を目にし、現代のサブちゃん(『前略おふくろ様』の萩原健一:リンク先Youtube 田中絹代さんの手紙朗読!)なら、こんな場所でスマホをいじっていそうと(舞台は深川ですが、神楽坂でも成り立ちそう)。
 ショーケン最後の出演と思われる『いだてん』高橋是清役の存在感は、見事な演技として記憶に残ることと……


 梅雨明け前の暑い日でしたが、久しぶりに日差しを浴びたいと足を運んだ小石川後楽園の緑はまぶしく映ります。
 儒教(孔子が始祖)の趣向を取り入れた庭園や、名称も中国書の「天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」によるためか、日中友好会館が隣接します(旧 満州国日本留学生寮として始まる)。

 隅田川花火大会(←失敗作が面白い)は予定通り行われましたが、夏ムードを一気に盛り上げたい7月末に台風がくると、店舗・客側とも夏の計画に不安を感じそうです。
 それとこれとは別! と叫ぶかのような、東京ドーム 巨人×阪神戦の歓声が地響きのように聞こえてきます……


追記──TOKYO 2020への夢

 渋野日向子ちゃんの「全英女子オープン勝ってしまいました」は、正直な気持ちと思うが、「TOKYO 2020を目指します!」と口にした瞬間から、新たなチャレンジが始まります。
 こちらは1年前にチケット購入を諦めましたが、これからチャレンジできるのだから権利を獲得して、上野投手のような感動を与えて欲しい! と(以前はソフトボール選手)。
 タラタラしてんじゃねーよは、誰にも通じる見事なネーミング。

2019/08/05

未来を育てる──北の丸公園

2019.7.20【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_35

 北の丸公園周辺は、濠の内側が庶民向けに解放される地域で(環境省管理の国民公園)、日本武道館、科学技術館、東京国立近代美術館など、未来を育てる施設が整備されます。



 いまにも雨が降り出しそうな空模様なので、千鳥ヶ淵のボートに乗る人は皆無です。天気が良ければ水面にも緑が映り圧倒される景色になります。

 観覧自由に誘われ入った武道館(何十年ぶり?)では、全日本少年少女武道錬成大会が行われています。コンサートに足を運ぶばかりで、目的とされる「心身錬磨の大道場」の活気・熱気を初めて体感しました。武道には合気道・弓道・空手道・柔道・銃剣道・少林寺拳法・なぎなたが含まれます。
 右は、掛かり稽古(掛かり手が一方的に攻め、元立ちの師匠はあまり隙を作らない)を採点する様子。

 1964年東京オリンピック柔道競技会場として建設されて以来、様々なイベントに利用されますが、武道に限らず様々な聖地として記憶されることから、若人の育成という面では目的は達成されているように。


 昨秋訪問時に紅葉の名所と知ったもみじ山の緑は鮮やかで、近頃京都で売りにしている青もみじの季節もキレイそうなので、新緑の時期にも訪れたいと。

 以前付近は関東の守護神 築土神社(つくど)の敷地でしたが、家康に関東代官屋敷とされ、明治期には近衛師団(天皇を守る部隊)の兵営地となり、現在も残る旧司令部の建物は東京国立近代美術館工芸館に利用されます。下は敷地にあるオブジェ。
 1969年昭和天皇の還暦にあわせ開園されたもので、公園としての歴史は浅いようです。


 右はオブジェではなく、2014年大手町の気象庁から公園内に移転した「東京」の気象観測施設(降水量、気温 等々)。東京の気象観測は明治8年赤坂に始まり、皇居内、竹橋を経由し、1964年から大手町で行われました。
 気象庁移転に伴うとはいえ(移転先は2020年完成予定)、大手町と比べるとこちらの方が涼しそうで、その差は北の丸公園の年平均気温は0.9℃低く、湿度は5%高くなるため、その傾向から算出した数値を補正し記録に残すそうです。
 肌で補正値を超える差異を感じ、「実際はもっと暑い」と口にする人が増えたと感じるのは、自分もそのひとりだからか……

 科学・技術系の展示好きには、科学技術館の誘いは無視できません。子供たちの反応は正直で、関心の高低がわかりやすいので(右の錯覚体感は不思議さが人気)、展示の工夫にもやりがいがありそう。

 現在の自動車に搭載される制御用の電子部品(下)は、熱・振動に弱いため障害による誤動作の恐れがあり、パーツ数が格段に増える自動運転車では危険性も高まるため、事故を防ぐための安全装置が重要になります。
 社会問題化し、今後も増えそうなヒューマンエラーを防いでもらいたいとの、SF的な願いがAIにより実現しそうですが、その時点でAIにナメられていそうと。SF的な世界に潜む恐ろしさの一端を、リアルに感じ始める時代かも……





 荒川の砂町水辺公園(東西線鉄橋近く)で行われるため、帰宅の電車で「今日はやけに混んでる」と感じた方は多いのではないか。ですが、車窓から大きな花火が見えると嬉しかったりします。1時間程度なので場所柄に合った規模とも。
 来年は、TOKYO 2020開催中のため6月に開催するそうで、季節感の違う花火はどう見えるのか楽しみに(上は玄関前の廊下からスマホで)。