2019/06/24

The Imperial Palace(皇居)

2019.6.8【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_29

 城跡&庭園が見事に整備される皇居東御苑(入苑無料)は、年々外国人観光客が増える様子を実感できる場所でもあります。



 われわれが海外旅行先でPalace(宮殿)に立ち寄るように、東京を訪れる多くの外国人観光客が足を運ぶため、皇居東御苑、皇居前広場とも日本人の割合が減ったように感じたりします(混雑する京都では日本人観光客が減ったそう)。
 上の富士見多聞(石垣上の長屋防御施設で、奥は皇居内の乾通り)では、わたし以外は全員外国人観光客だったように。関心を持ってくれる方への説明はパネルだけでなく、数カ国語が流れる音声ガイド等で日本の歴史・文化を伝えるべきかと。

 右は一節おきに緑色の模様が入る金明孟宗竹(キンメイモウソウ)。

 われわれが海外の石を用いた建造物(ヨーロッパのシャトー 等)に驚くように、外国人観光客も石垣に関心を示してくれるのだろうか。石貨(石のお金?)は、作って運ぶ労力に相当する価値が認められたように、巨石を積み上げた石垣に驚いてくれたなら、見飽きた(?)姿にも自信が持てそうと(江戸城の石垣は迫力があります)。
 城跡でよく見かけるレプリカの天守があれば、北の丸公園方面の見晴らしが良くなりそうですが、御所方面を見下ろすため作らないように(現状で十分です)。もしあったとしても、高層化した大手町のビル群から見下ろされますから、将軍気分は味わえません。
 右は天守台の石垣。

 アジア系と思しきおばさんが右の花の中で、昭和のアイドルのように膝を横に折って座りポーズを取る姿を脇から撮りましたが、あとで見たらこちらが恥ずかしくなりボツに。でも、開放的な気分になれた観光客には印象が良かったのだろうと。

 子供は前触れもなく急に動き出すので、狙うのではなく構えた瞬間に撮らないとシャッターチャンスを逃してしまいます。一瞬早ければもっと可愛い写真になったはず、という言い訳を繰り返しています……
 シロツメクサには強い草の印象があるように、土壌浸食防止や緑化資材とされるそう。

 日本庭園の趣は海外にはないでしょうし、屏風絵等に描かれる花菖蒲海外のアイリスの仲間)が見頃なので、気分も上がっているように。品種改良が盛んな様子を披露するため84品種が植えられますが、彼女たちは違いに気づいたか? わたしは遠いので大きな違いしか分からなかったことに……
 菖蒲にはアヤメ科の花菖蒲(右)と、サトイモ科の菖蒲湯・菖蒲葺(あやめふき)に利用されるものがあるそう。

 下の東京駅から皇居に続く日本のメインストリートは、キレイに整備され胸を張れる姿となりました。海外の新任大使を乗せここを走る馬車列を一度見てみたいと調べていて、馬車列の運行予定が公表されることを知りました。


 近頃、外国人観光客がどこを歩いていても違和感を覚えなくなったのは、こちら側の感覚が慣らされたためで、ゾロゾロ押しかける「外圧」の迫力に、島国人も徐々に心を開かされているようにも。
 昭和期に盛んだった団体旅行の経験しかない世代の、拒絶せずとも気後れする人々は、町を歩きづらくなったのではないかと(わたしは通じないとジェスチャーになります)。
 ですが今後は、令和天皇・皇后が通訳なしで海外要人と会話する姿を目にする機会が増えそうなので、コミュニケーション能力を身につけようとする気運が高まりそうと……


追記──東京2020大会オリンピック観戦チケット落選

 残念ながらご希望のチケットをご用意することが出来ませんでした。次の機会にお申込みください

 海外販売分を含めおよそ780万枚が売り出されるらしいが、「TOKYO 2020 ID 登録者数が750万人突破」の連中が、複数枚申し込んだとすれば倍率はグンと高まります。まだチャンスはあると思うので、機を逸しないように……
 右は、当選発表翌日でも約15万人が順番待ち状態の画面表示。

2019/06/17

スマートになったビジネス街──大手町

2019.6.1【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_28

 再開発で街並みがキレイになったと感じるのは、ビルの足元をすぼめて高層化したことにより空いた土地に歩道や緑地帯を整備したためで、とても歩きやすい町になったと。



 大手町タワー(みずほフィナンシャルグループ本社)の裏には、大手町の森とされる緑地(千葉県から土壌ごと森を移植)が整備されており、周辺の再開発ではもっとも気合が入っているように。緑地内にアメリカ同時多発テロで犠牲となった旧富士銀行職員の慰霊碑があります。
 深い森のように見えるのはビルの陰で光が差さないためですが、この環境で緑を守れたら都会のオアシスです。

 大手町フィナンシャルシティ(以前の日経ビル、経団連会館、JAビル周辺の再開発)にも木々を植えますが、右のように見えたります(ちょっとイジワル?)。緑にはホッとできるが、ビル風の強い日はそれどころではなさそう。

 右は「風呂敷は大きく広げるべき」をコンセプトとする(?)星野リゾートの星のや東京で、高級旅館にしては客室数が多いと感じるも(84室)ホテルと考えると少なめか。大手町という立地ですから、窓の外はビルばかりで、屋上の露天風呂も空しか見えないらしい。
 われわれは旅館に対して風情を求めてしまうが、外国人ビジネスマン・観光客にとって、都心のホテルで和風のサービスを味わえることは魅力的とすれば、それもありなのかと。
 売りとされる大手町温泉の泉質が良ければなおさら、星のない東京の空を眺めて入るのは寂しく感じそうです。

 カメラ位置は、旧逓信総合博物館、旧東京国際郵便局舎跡地を再開発した大手町プレイス(2018年)で、手前のモニュメントは、ルーツである旧逓信省にちなむアンテナのような日時計らしいが、何時間くらい日が差すのか?
 旧逓信総合博物館(ていぱーく)(←懐かしい!)は、旧郵政省、日本電信電話公社(→NTT)、国際電信電話株式会社(→KDDI)、日本放送協会(NHK)の共同運営で、休み期間中は子供たちで賑わっていました。

 東京国際郵便局が都心を離れ江東区新砂(地下鉄東西線の車窓から見える)に移転したのは、窓口業務ではなく各郵便局から持ち込まれる郵便物を扱う施設だからか。

 上写真左は東京サンケイビル、右は大手町フィナンシャルシティで、左側にある交差点の反対側には改修工事中の大手町ビルヂング(1958年 東京タワーと同年)があります。9階建の古いビルが建て替えられなかったのは、細長い敷地(200m × 50m程度)に高層ビルは無理とそろばんをはじいたのか、三菱地所本店が入っていたためか。
 付近の地下鉄出入り口工事も含めキレイ・便利になることを楽しみに(以前の出入り口はどこも狭かった)。

 残るNTTコミュニケーションズ大手町ビルからの移転も終わったようなので、ビル前の狭い上に傾斜があって歩きにくい歩道もようやくリニューアルされるようです。


 大手町牧場(人材派遣会社パソナ)は、日本一高いビル建設のため一部解体された日本ビルヂングにあり、歯抜け状態の空き部屋をパソナが様々に使用しています。ビルの空室で動物を飼育する状況は、他のオフィスで働く人の気分を害しそうだし、派遣に向けた研修の人も「家畜と同じ扱い?」と脱力するのではないかと。酪農人材の育成目的には他にふさわしい場所もありそうだが、派遣先のどんな環境にも耐えるための訓練だったりするのか?
 注意! 入場の際に渡された入場証は退場時に返却のこと。後日電話があり「スミマセン、捨てちゃいました」と謝ることに…… 展示会とは違うのでご注意ください。


 江戸時代このビル付近には道三堀(江戸城 和田倉門橋〜呉服橋門)が通されており、その様子がNHK大河ドラマ「いだてん」で使われるタイトルバック絵図で確認できます。時代設定はデタラメですが眺めて楽しい絵なので、全体をじっくり眺めてみたいと。
 上はビルのバルコニーから東京駅方面。

2019/06/10

日本の中心にて──東京駅

2019.5.25【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_27

 東京駅丸の内駅舎周辺の整備が終わり人の流れも新しくなり、人々の動き回る様子が見渡せるようになったことで、改めて日本の中心であることを確認できた気がします。


 下はJPタワー(KITTE:2013年 旧東京中央郵便局舎の一部を保存・再生した商業施設)に復元された旧郵便局長室で、東京駅を背負うロケーションに威厳を感じるように現場の最高職とされる立場で、JRで例えると東京駅長に相当したそうです。


 2007年郵政民営化時分に始まった建て替え工事は、文化財として残すべきと国から待ったがかかり計画は変更されますが、結局残された部分だけでは文化財に指定されませんでした。
 取り壊し〜全面建て替えの計画は、文化財として保存を求められた三菱一号館美術館を取り壊した三菱地所による画策とのこと。


 上のKITTE内部は、柱や床で仕切られた店舗をのぞく光景が切手シートのようで、元郵便局らしい気取らない雰囲気があります。暑い日でもカフェに誘うばかりでなく飲料水を販売するコンビニがあり、子供連れを多く見かけるように、周囲の商業施設とは客層の違いが見て取れます。
 ビル裏側のオープンな場にある長椅子には人がビッシリ並び、舞台のように少し高い場所で子供達がはしゃぐように、東京駅前のオープンな場が好評らしい。
 景色や建物に気を取られたせいか、帰ってから「郵便局はどこにあった?」と、当の郵便局見学を忘れていたことに気づきました。まだ営業中と思うのに大変失礼……


 はとバスのコース設定は以前から奇抜だったようで(1948年 新日本観光として設立)、50年代から「外人コース」「陸海空立体コース」等が設定され、完成した東京タワー(58年)を組み込みんだコースが評判となり、利用者・知名度とも格段に伸びたそう。
 よく見かける2階建てオープンバス オー・ソラ・ミオ(’O Sola mio)は、良くも悪くも東京を肌で感じられそうなので一度はと思っていますが、その際はこの乗り場からと。


 KITTE 6階テラスから眺める駅前広場(2017年リニューアル)はヨーロッパの街のようで、ミニチュアのような人影が思い思いに動き回る姿は見ていて飽きないし、修学旅行生の列ができても広さにゆとりがある様子に、これって重要! と感じたりします。
 以前の映画で目にした、車から降りてすぐ駅に駆け込めるような車の利便性優先(車と鉄道が連携し高度成長を目指す方針)から、人の往来を尊重する構造とされた姿に、これまで国が推進してきたことは、国民に便利そうと感じさせ企業の成長を後押しするもので、生活しやすさの向上ではなかったように思えてきます。


 背景を狙って駅前広場の真ん中で結婚式の前撮りをしています(こんな時のカメラマンはポーズをいくつも要求するのでこちらも撮りやすい)。大勢が見る中で緊張しながらも、祝福の声をかけられ乗ってきた様子の新婦さん(素敵です!)を掲載しちゃいましたが、嬉しい表情なので大丈夫ですよね? Good Luck !

 右は旧国鉄〜JR東日本本社ビル等を再開発した丸の内オアゾ(2004年)。駅舎の両脇で国の発展を支えてきた鉄道と郵便の国営組織が共に民営化され、国の負担は軽くなったにもかかわらずその後も国の借金は増大したように、消費税増収分も食いつくされてしまうのだろうか……


追記──「ここにいてはダメです」江戸川区 水害ハザードマップ

 これまでも自分なりにシミュレーションしてきたので、先日配布された冊子内容は自治体として正しい姿勢(資産価値下落、住民減少、税収減でも人命優先)と感じたし、メディアで取り上げられ多くの人の考えるきっかけになったことは大きな成果と。
 ですが現実的な想定をしてみると、避難警報が前日に出ればさっさと避難しますが、豪雨のピーク時に区内全域に警報が出されても、いっときに大勢がゾロゾロ移動できませんし、電車が止まり、荒川・江戸川の増水で橋が通行止になれば逃げ場はありませんから、あきらめて部屋に籠城し救助を待つことになりそうと……

2019/06/03

遺産を生かすのが文化では──丸の内

2019.5.25【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_26

 現政府の経済政策も、数字が大きく国を代表する大企業を支援しているが、以前からそんな企業に蓄えられてきた莫大な遺産を、日本の中心で目にすることができます。


 この日、地下鉄大手町駅のパレスホテル東京出口に向かうと、警官、黒スーツの警護や外国人SPに加え、ホテル従業員も駆り出される状況から、米トランプ大統領の滞在先と見て取れました(ホテルオークラが建て替え中のためか?)。到着の何時間も前から威嚇を続けるのは大変そうでが、日本でテロが起きては困ります……


 和田倉噴水公園は皇居外苑なので、平成天皇の結婚時に大噴水が作られ、令和天皇の結婚時に再整備される等、皇室との関わりがあるため常に手入れが行き届いています。
 公園にあるパレスホテル直営レストランで結婚披露パーティーが開かれるのも、土地が限られる都心らしい活用法ですし、皇居前の会場に人気があることも理解できます(前身は官営ホテル)。

 右の日本工業倶楽部会館(1920年:大正9年)は会員制のため普段は入れないが、パーティなどに貸し出されます(内部はセットのような豪華さ)。一階に三菱UFJ信託銀行 信託博物館があるように、三菱が運営主体のようです。

 右の新丸の内ビルディング(2007年)は、新丸ノ内ビルヂング(1952年)を建て替えたもので、旧ビルの建設は戦争で中断したため、完成済みの基礎部分は防火用貯水池、戦後はプールや資材貯木場とされたそう。
 7階のテラスは、以前都市景観保護のため高さ31mに制限された旧丸の内スカイラインの屋上にあたり、周囲の丸ビルJPタワー(KITTE)にも名残は見られますが、つぎはぎのようで美しくありません。歴史の上に新時代を積み重ねるにはもう少し工夫があってもいいように。

 下の丸の内仲通りの歩行者天国は、オープンカフェに絶好の立地と思うもテーブルや人が少ないのは、高級ブランド店が並ぶので出店する隙がないためか?


 江戸時代の丸の内に並んだ大名屋敷は、明治期に取り壊され陸軍兵舎・練兵場となりますが、移転後は三菱財閥に払い下げられ、日本の中心地は三菱に牛耳られることになります。当時の財力がどれほどか想像できませんが、重要文化財として残される明治生命館(右 1934年:昭和9年 三菱グループ)には「うわ、すげぇ!」と圧倒されます。
 メールシュート(ビル内のポスト)、掃除用の吸引パイプ、ダムウエーター(配膳用小型エレベーター)、応接室ごとのマントルピース(暖房ではなく排気口とされた)等、当時の最新設備や贅を尽くした装飾は、一度目にすべきかと(見栄でできるものではない)。

 下の三菱1号館美術館は、1968年に解体、2009年に復元されたレプリカで、歴史的建造物保存に非協力的な三菱の姿勢(商売優先)が各方面から非難されました。
 この一角は丸の内ブリックスクエアとされる商業施設で、「おしゃれな中庭」との評判からベンチには女性がビッシリ並ぶ人気ぶりです。上の丸の内仲通りに面したカフェ・レストランの方がオシャレと思うも、お金をかけずに過ごせる観光スポットらしく、美術館の展示はフランスの近代美術が中心で、ベンチの女性たちがターゲット層のように。
 商業的には成功に見えますが、歴史遺産を生かさずに新しい文化は生まれるのだろうかと。


 トランプ氏はあれでも我慢しているらしく、後ろ盾を得た途端に暴言を吐きますが、アメリカ大統領ですから外交儀礼の歓待は必要としても、国技館の大歓声には「日本で人気があるのか?」との違和感を覚えました。あれがサクラだとしたら北朝鮮のようで恥ずかしいし、それが外交(営業)とされたら返す言葉もありませんが、ノーベル平和賞への推薦が日本国民の見解とされては困ります……

2019/05/27

行事が告げる季節感──京橋

2019.5.11【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_25

 日本橋が架けられた江戸時代の下町は神田・日本橋・京橋だけとされますが、町の名は明治期に誕生した京橋区(銀座・築地・佃島等を含む)で広まったそうです。


 右は、旧ブリヂストン本社ビル(ブリヂストン美術館)跡地に建設中のミュージアムタワー京橋(アーティゾン美術館)で、奥にはこれより高いビルが建設中。
 休館前のコレクション展に足を運ぶも、大混雑で諦めたことがあり、2020年開館後もしばらくはゆっくり観られないかも知れません。写真で目にするような絵が数多くあるので人気は当然とも。
 美術館に気後れせずに入れるようになったのは、高校時代の課題で見学に来たおかげと感謝しています。

 手前は旧ツムラビル(津村順天堂)建設時に設置されたキリン像で、キリンは漢方の王様とされるらしい。

 京橋の由来は想像通り、東海道起点の日本橋から「京へ上る最初の橋」によりますが、埋め立てられた京橋川には首都高速が通されています。橋の欄干に擬宝珠(ぎぼし)があったのは日本橋、京橋、新橋だけで、幕府の京都に通じる道への配慮のようです。

 江戸初期の日本橋・京橋周辺には、同業種を集めた職種名を持つ町が城下町(下町)として整備され、京橋川沿いには材木や竹を扱う職人が暮らしました。
 明治期に日本橋の古美術商が評判となったことから、道具屋から美術商となる者が軒を連ね、日本橋〜京橋に続く骨董通りを形成し現在に至ります(右はまたシブ過ぎと言われそう)。

 右は「どれでも7,000円」と階段に絵を並べるギャラリー(?)。売る側もプロなのに、叩き売りの中にお宝が隠れていたりするいい加減さと、価格設定の不透明さが美術品の価値(幻想)を維持しているようで、相場の裏付けが理解できません(株価動向の「気分」的なもの?)。

 ビジネス街の夜間人口は減る一方としても、2017年京橋全体の人口が299人とは驚きました。地域の消防団に居住者はいないため不測の事態に何もできず、防災訓練も企業主体で行われるらしい。
 これでは祭りに担ぎ手の助っ人が必要になるのは当然かと……

 江戸時代から大相撲開催前日には、太鼓を打ち取組を知らせて回る「ふれ太鼓」がひいき筋を巡回してきたそうです(下)。正装で挨拶を受ける姿には、祭事(奉納行事)の使者を迎えるような姿勢が感じられ、大相撲を季節の行事として受け入れる生活の暦が、現在の都心でも受け継がれているように。横綱 鶴竜の名しか見当たらないのは、白鵬が休場の告知らしい。
 ここは旧片倉工業本社ビル跡を再開発した東京スクエアガーデン(2013年)で、片倉工業は富岡製糸場の建物等を富岡市に寄贈した会社。

 右は旧京橋近くの竹河岸通りの年代を感じる建物。


 右の明治屋京橋ビル(中央区指定有形文化財)は、再開発された京橋エドグラン(2013年)の一部として改修されました。明治屋からはジャムしか思い浮かばず、以前三ツ矢サイダーを発売していたそうですが、どちらもかなり前にお付き合いはなくなりました。

 人の出入りが多い場所なのでしばらく待ちましたが、身動きせずスマホに集中する女性の様子から、いまどきは待ち合わせに遅れても心配する必要はなさそうとも(ずーっとこの姿勢のままです)。

 付近の目印となったのは、常々「この場所にふさわしくない」と眺めていた「スーパーホテル」の看板でした……

2019/05/20

八重洲は後回し?

2019.5.3【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_24

 東京駅の駅舎は、江戸期から繁華街のあった八重洲側ではなく、皇居と向かい合う丸の内側に建設され、その後しばらくの間は改札もありませんでした。



 日本銀行脇にある常磐橋(ときわばし:都内に現存するもっとも古い石橋)は、東日本大震災の被害を受け現在も修復中(2013年〜17年完了予定も19年10月に延伸)のため、まだ姿を見られません(地盤が悪かったのか?)。付近に道路橋の常盤橋が架けられ、歩行者専用の旧橋の漢字は「常磐橋」とされます(読みは同じ)。

 隣接地(線路東側にも大手町がある)では、大手町二丁目常盤橋地区再開発事業の地上61階、高さ390m(日本一)ビルの工事中ですが(メインビルの工事はまだ先)、日本最初の超高層ビルとされた霞が関ビル(地上36階、高さ147m)の倍の高さなのにインパクトを感じないのは、自慢できても魅力ではなくなったためかと。上は、大丸から丸の内方面。


 東京駅は、丸の内口に皇居へと続く行幸道路が整備され、反対側に雑然とした八重洲繁華街があることで、トータル的にバランスが保たれる印象がありましたが、丸の内側再開発に目処が立った時分に八重洲側のヤンマービルが消えた光景を目にすると、「後回しにされただけ?」と、優先度の格差を感じたりします。
 上の八重洲口グランルーフの地には、以前大丸が入る旧鉄道会館ビル(東京駅八重洲口駅ビル←リンク先写真が懐かしい!)があり、東京駅のシンボル的な印象がありました。
 下は、ヤンマー東京支社ビル跡地に期間限定(2019年4〜10月)でオープンしたTHE FARM TOKYO で、空が少し広くなった八重洲を楽しむ場所のように。


 明治時代の地図(中央の八重洲橋が八重洲中央口前交差点付近)から、外堀を挟んだ丸の内側の旧大名屋敷の広い区画と、八重洲側の庶民が暮らす狭い区画の格差から、再開発の困難さが見て取れます。
 八重洲側の駅周辺だけが先行して再開発されたのは、丸の内駅舎+駅前広場リニューアルに合わせて、背景の古い建物の「汚れ消す」ためとも。八重洲側の再開発計画はいくつもあるようなので、見納めは早めの方がいいかも知れません。

 同地図で旧常磐橋が外堀内の堤(人工物)に架けられる様子から、やはり地盤がよくなかったように。

 付近や有楽町周辺では、各地方から直送される地の物を扱う居酒屋を多く見かけますが、焼き魚の匂いに誘われ九州 五島列島の店に。
 九州の醤油には個性的なものが多く、「あご(トビウオ)だし醤油」を口にした瞬間、五島の方には申し訳ないが屋久島の空気感がよみがえりました(以前は毎日鯖ばかりでしたが、もう捕れないらしい)。近所ではおいしい魚を食べられず、久しぶりにズドンと主張する魚の風味を口にし、初体験の島が浮かんだように。
 右はからくさホテルの外壁(チェーンホテル)ですが、唐草模様って昭和を最後に遺産となったように。

 以前の八重洲町は丸ビル南側の地域でしたが、1954年町名変更で丸の内を追われ(東京駅は丸の内)、外堀通り沿いの細長い地域とされます。東西の幅は狭いため、歩くうちに日本橋に入ってしまうので混同してそうです。

 八重洲地下街は1958年開業から拡張されてきましたが、とても分かりやすい印象があります(出口も大体の見当がつく)。また地下街の下に地下駐車場があるため、駅前や八重洲通りの分離帯に換気塔が並びます。
 八重洲では前述の旧鉄道会館ビルと、下の換気塔が昭和のイメージとして残りますが、ここは八重洲ではありません。


 八重洲口の東京駅高速バスターミナルからは、各地に向けてひっきりなしにバスが出て行きますが、そこに並ぶ人たちも途切れないのはさすが東京駅(再開発で新ターミナルができるそう)。
 と思ったが、ここ以上に新宿高速バスターミナル(バスタ新宿)は大変な混雑で、待合所に人が入りきれないとのこと。いまどきは外国人旅行者も安価な交通手段として利用するため盛況なようですが、運転手争奪戦のしわ寄せが弱小会社に集中してしまうと、事故はなくならないように……

2019/05/13

下町色残る日本の中心地──室町

2019.4.27【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_23

 三井グループは総本山である地下鉄 三越前駅周辺の足場固めに余念がないようですが、江戸っ子たちは狭い土地ながらも、流行りに敏感なフットワークで奮闘しているように。


 徳川家康は江戸時代、日本橋を五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点として周辺に人・物資を集め日本の中心地としますが、もてはやされた京都へ向かう東海道側は日本橋の町名でも、北側の土蔵(室)が立ち並んだ地域は室町とされます(京都の室町にならったとも)。現在では橋を中心とした一帯が日本橋とされますが、江戸時代は「ウラ日本橋」的なイメージだったようにも。
 現在の中央通りは上下水道整備のため、本郷台地(神田 昌平橋付近)から江戸前島の尾根上を新橋まで通された通り町筋(とおりちょうすじ)に始まり、日本橋以西は東海道となります。
 右はベトナム料理店のランタン。


 中央通りを挟み三越の反対側には以前からの狭い区画が残され、戸口が向かい合うような路地に飲食店が軒を連ねる、のんべえワンダーランドのような迷路が健在です。付近には江戸期から日本橋魚市場があったため人の出入りが多く、市場関係者相手の店舗が相当数並んでいたことと(市場は関東大震災を受け築地へ移転)。空襲で焼け野原となるも戦後復興で区画整理をせずに整備を急いだのは、中心地の繁華街復活を早期にアピールするためか?
 近頃は、店主の代替わりに伴いオヤジの聖地は衰退する一方で、キレイ目な店では土曜の昼どきに若い女性やアベックの行列を見かけますから、いまどきの日本橋ブランドを活用する店が増えているようです。


 上のコレド室町(三井不動産等が主体)の仲通りは右の福徳神社参道とされ、ビル群の谷間にある憩いの場に隣接する社への参拝客も増え神様も喜びそうですが、ここは安息の地となるのだろうか(以前はビルの屋上暮らしもあったらしい)。
 コレド室町にシネコン(TOHOシネマズ)が入るのは、日本橋には映画を観るためにわざわざ足を運ばせる魅力があるとの考えなのでしょう。日本橋の映画館は平成元年に閉館した三越映画劇場以来。
 COREDOは英語の「核:CORE」と「江戸:EDO」をつなげた造語で、意味は通じなくても覚えやすければいいようです。

 日本橋川以北は神田明神の氏子地域(丸の内・大手町も含まれる)なので、飾られる提灯は神田祭(5月9〜15日)のもの。日本橋を境に神田明神と日枝神社(赤坂)の氏子地域が分かれるのは、京都側とその反対側という線引きによるもの?(神田明神は伊勢神宮、日枝神社は大津 日吉大社がルーツ)

 右はうなぎ割烹 大江戸の玄関で、土曜限定の「いかだ」(1匹を切らずに焼いたものを重に乗せるので、端がめくれ上がる!)の案内が出ています。以前何度かご馳走になりましたが、自腹で食べられるのは何年先か……(ふっくら、やわらかな食感でした)


 上は5月11日神田祭の神幸祭(しんこうさい)「一の宮鳳輦(ほうれん)」巡行の様子。この祭は家康が関ヶ原合戦の際、神田明神に戦勝祈祷を命じ勝利したことから、盛大に行われるようになったとされます。
 神輿を担ぐのではなく山車を引く巡行のため、行列が間延びしても10分程度で通過しますから、交通規制ではなく交通整理で対応しています。三越周辺では道路脇に人垣ができる人気ぶりで、現在も下町時分の心意気を持つことをアピールするには絶好の行事と。
 行列に参加する馬と乗り手は相馬野馬追関係者に依頼するようで(マイクロバスが待機)、人混みに慣れた馬・人を手配する配慮はさすがと。