2010/07/12

住人だけを守る町──田園調布、自由が丘

2010.6.26
【東京都】

東急線多摩川駅(Map)

 以前の目蒲線が目黒線とされ(2000年地下鉄南北線・三田線との相互乗り入れ、2008年日吉まで延長)、切り離された多摩川線(多摩川〜蒲田)の乗換駅で、以前紹介した古墳群あじさいの名所の最寄り駅になります。
 さらにさかのぼると、「多摩川園」という遊園地があり(当時は駅名も多摩川園)、郊外の行楽施設としてにぎわいました(1925年(大正14年)〜1979年(昭和54年))。
 閉園後の跡地は現在、テニスコート、公園、着飾ったおばさんが集まる施設(誠成公倫という謎の宗教団体らしく、とても異様な光景です。調べていて、藤原紀香の名前を見かけました)になっています。


 武蔵野台地の崖線(がいせん:台地等が川の流れに浸食された崖)からわき出た水を集める六郷用水は、狛江市から続くそうですが、現在は丸子川として数百メートル上流の調布(田園調布)取水場付近で多摩川に流れ込みます。
 でもまたここから、わき水を集めて下流の六郷水門へと向かいます。
 調布取水場での取水は、1970年多摩川の水質悪化により打ち切られ、現存する堰(せき)は海水の遡上を防ぐ施設となっています。
 東横線の車窓から、雨は降ってないのに、堰の両側(上・下流)の水位共に高い状況をたまに見かけます。
 大潮や気圧の関係等で海面の水位が上がると、この付近まで影響があるのかも知れません(取水されないなら、もう海水を防ぐ必要はないのですが)。

 上写真の地下水のわき出し口がある崖の上で、建築工事が行われています。
 すき間を見つけては建物を作ろうとするこの時代を、後世の人たちはどんな評価をするのだろう、と考えてしまいます。
 ここも何年か後には、「湧水跡」となってしまうのかも知れません。

 ここは、東横線に面している「多摩川浅間神社(せんげんじんじゃ)」になります(東横線は、神社から古墳へと続いた丘陵地を削って通されました)。
 浅間神社(富士山を神格化した神社)の立地には、富士山ビューが求められるのでしょう、この付近からは丹沢山地越しに望めるので、その高さが一段と強調されます(そういえば湘南を歩いたころも含め、ずいぶんと富士山に会っていません)。

 右写真は「茅の輪(ちのわ)」というもので、八の字にくぐって厄を払います。
 京都で見かけたことがありますが、これは常設ではなく季節の神事だそうです。
 大祓(おおはらえ)といい、6月30日(夏越の祓(なごしのはらえ))と12月31日(年越の祓(としこしのはらえ))に行われる厄よけ行事です。
 701年大宝律令で定められ広まります。室町時代にはすたれたものが江戸時代に復活し、明治時代には再興が命じられ(国家神道化による)、全国の神社で行われるようになります。
 そんな命令など知ったこっちゃない、という人のために、お参り方法の説明看板が設置されています。
 それを見ながら「これでいいの?」と、参拝する方を何人も見かけました。


田園調布(Map)

 「鳩山さんが総理大臣公邸から戻られた」というのが、田園調布の土地柄ですから、庶民の感覚では「雲の上の世界はひとくくり」でも、実際は何層にも分かれていそうなことを、理解できた気がします。
 邸宅はメインの通り沿いにあり、何気なく表札が目に入った記憶があります(軽井沢の別荘は、要人を招くことを想定したホテルのような施設です)。

 参議院選挙での民主党敗北は想像できましたし、民意は再度「ガラガラポン」(政界再編)を望んでいることも分かりますが、そんなことやってるうちに、本当に「日本沈没」しちゃいそうで恐ろしくなります……

 この町は渋沢栄一(日本資本主義の父とされる)による、ヨーロッパ(特にイギリス)の田園都市をめざした町作りがひな形とされます。
 開発当時は中流層向けの宅地だったようですが、住環境の良さに評価が高まり高級化へ向かいます(車時代に持てはやされたのでは?)。

 右写真は、旧駅舎を復元したもので、現在はシンボル的な存在です。
 かなり前の、まだ地上駅のころには(現在、地下駅上にショッピングセンター等がある)、ローカル線の接続駅のようにのんびりとした、まさに田園的な雰囲気がありました。
 そんな印象は、かつて駅のそばに田園コロシアム(多目的屋外スタジアム)があったせいかも知れません(緑が多かった印象がある)。
 大正時代に慶應大学の野球場が作られ、その後、後述の田園テニス倶楽部のメインスタジアムとしてリニューアルされてから、テニスだけでなくコンサート、プロレス、ボクシングなどの会場に利用されました(1936〜1989年)。
 跡地には現在、低層ながらもえらく高級そうなマンションが建っています。
 おそらく規制等があるのでしょう、付近ではそのマンション以外の、大規模な開発には歯止めがかけられているようです。


 田園調布といえば、駅を中心として扇状に広がる町並みが思い浮かびます。
 この形状は、どこからでも町の中心を望むことができる、西洋の教会等を中心とした町並みに例えると分かりやすく、暮らしを重視した姿といえます。
 区画が不定形で、外部の訪問者には分かりにくい形状である反面、防御面では優れるとされます(昔の西洋には、町は防御施設との考えがありました)。
 一方、京都など格子状の町並みには、風水思想が反映されているため、どの場所でも方位を知ることができ、町を管理する側には便利な形状と言えます。
 画一的な区画割りが「周囲と同じレベル(中流意識ってまだ健在?)」を実感しやすく、日本人に好まれるのかも知れませんが、攻撃側は作戦を立てやすい形状になります。

 町歩きの際には、太陽が出てない状況での方向を知るすべとして、家並み(玄関の並び)や間取りの構造(光をどこから取り入れようとしているか)が、方向感覚の大切な情報源となります。
 それゆえ、格子状の町は攻め(歩き)やすいのですが、扇状の町では家並みもバラバラで、垣根が高く住宅の間取りも見て取れないので(セコムされているとのぞけない)、歩きづらい印象を受けます。

 「これも権利なのか?」と驚いたのが、バスの速度です。
 田園調布行きのバスは、扇状の町並みに差しかかると、時速20kmの徐行運転になります。道路脇には「住宅街なので時速20km以下の静かな走行をお願いします」の看板があります。
 住宅街を通るバス路線は多々あれど、「ここは特別」という意味が込められているようです。
 「バスは公共の交通手段でしょうが、わたしたちはバスには乗りません」と言われているようで、ちょっとカチンときてしまいます。
 実際、そうなんでしょうけど……


 上写真は、東横線の車窓から見える田園テニス倶楽部(1934年〜)で、ホームページには「昭和初期の日本テニスは今では考えられないくらい強かった」とあります(平日会員の、登録料50,000円、月会費18,000円ですって)。
 テニスは、1870年横浜山手の外国人居留地にもたらされます。それから60余年後の1932年ウインブルドン大会で、佐藤次郎がベスト4に入ったのですから、自慢したい気持ちも分かります。
 その時代の日本人は、スポーツに飢えていたというより、エネルギーの発散場所を「野獣の飢餓感」のように渇望していたのではないでしょうか(変な表現でスミマセン)。
 彼の後に好成績を残す者が続くも、戦争に突入していきます……

 年配者が多いからでしょう、この季節には見られませんが、真っ白な長袖・長ズボンという姿でプレーする方が多いことに驚かされます(鎌倉のテニスクラブも同様)。
 自分も小学校時代はそんな体操着を着ていましたが、あれってすごく動きにくかった印象があります。
 中学校からジャージ素材になり、開放感を覚えたような記憶があります。
 でもここでプレーする方々の体には、一番フィットするユニフォーム(体操着)なんでしょうねぇ……


自由が丘(Map)


 現在暮らす新丸子は、渋谷、横浜、川崎、溝の口のいずれも、電車で20分以内という場所柄ですが、最も近い繁華街は5分程度でたどり着く自由が丘なので、よく足を運ぶ町になります。
 上写真は、東横線の線路沿いにウナギの寝床のように伸びる、自由が丘デパートです(2階から上は、駅前なのに場末的な印象の飲み屋街)。
 数年前に外装は一新しましたが、中に入れば「アメ横か?」と思うような小さな商店が軒を並べています。
 ご覧の通りお客さんは年配者ばかりですから、その取り扱い商品は想像がつくと思います。
 実はそれが人気で「今日は自由が丘でお買い物」と、妙なモノを買ってくるお母さんいません?


 空襲で一面焼け野原となった一帯ですが、東横線と大井町線が交差するガード下付近から、露店が並びだしたようです。
 まだ一区画だけ、昔の風情が残されている場所がありますが、他の町と比べてもちょっと汚い(暗い)ように思えます。
 焼け野原からはい上がって生きてきた人たちの、「自由が丘ブランド」への反骨心が息づく一画なのかも知れません……

 季節柄、雨の心配は常にありますが、町中なので何とかなるだろうとの目算も、あえなくギブアップです。アーケードなどは設置しない方針なのでしょう、急な雨には困ってしまう繁華街です。そのくせ、そこで雨用品を売ろうとするのは当然なのかしら?
 そう感じたからでしょうか、ビニール傘すら買わずに帰りました。
 意識として、近所的な気分を持っているようです。実家の相模大野で暮らすころ、隣駅の町田に出かけるようなイメージに近い気がします……(とてもローカルな例えでスミマセン)

2010/07/05

江戸を救った、姫とラストサムライ──池上線

2010.6.19
【東京都】

蒲田(Map)

 ここは京浜急行の京急蒲田駅付近にある、第一京浜国道の通行を頻繁に遮断してしまう、羽田空港線の踏切です。
 慢性的な交通渋滞や、箱根駅伝でも問題視されて久しいですが、待望の高架工事が進められています(箱根駅伝は毎年1月2日・3日に行われ、2日の往路の通過時間は午前中なのでいつも寝ており、工事状況を知りませんでした)。
 この工事はかなり大がかりで、周囲に建造物が迫る場所で、路線の分岐を作り(品川、横浜方面双方から乗り入れる必要がある)、なおかつ、何本もの主要道と立体交差を実現させるため、工事区間が広範囲に及んでいます。
 羽田空港線への分岐付近では、複線を確保するため高架部分を3階建てにしたので、駅も3階建てにする必要があります(下写真左奧が京急蒲田駅)。
 計画を耳にしたとき「どういう構造になるだろう?」と、イメージできずにいました。
 無理やり作っている様子にはちょっとあきれながらも、手のかかる整備事業でも必要性は高いので、早期実現を望む人が多いことと思います。


 現在、京急蒲田駅も工事中なので仕方ないのですが、目的の電車が1階 or 2階のどのホームから出るのか、電車ごとに変わる状況には困ってしまいます。
 時刻案内とホームへの案内看板を見て歩いても、乗り遅れてしまうと、次の電車のためにフロアを移動する必要が生じます。
 早く、これだけ便利になった、という姿を見せてもらいたいものです。


 上写真は、JR・東急線蒲田駅の駅ビルである、蒲田東急プラザ屋上にある小さくて有名な観覧車です。
 ここは、ナムコのアミューズメント施設だそうで、いわれてみれば玄人肌の仕切りというのか、さびれた施設は無く、どこもそこそこ人が群れています。
 裏返すと、それゆえどこの施設も同じ印象を受けるのかも知れません(みなとみらいの幼児用施設と変わらない気がします)。
 まあ、関心が無ければどこも同じに見えてしまいますが……

 何でも、ショッピングセンターが屋上の遊戯施設に力を入れるのは、「シャワー効果」を期待するからだそうです。
 屋上で遊び、レストランで食事をした帰りに、買い物へと誘導する、というシナリオなんだそうです。
 でも、ショッピングセンター等のレストランは値段が高い印象がありますし、近ごろはどこにもファストフード店が入っているので(それも1階)、その効果はあまり望めないかも知れません。
 松屋浅草にあった、日本で初めての屋上遊園地が閉鎖されたのも、そんな理由なのだろうか?
 少子化と言われると、営業努力や工夫では解決できない気もします……


池上本門寺(Map)

 現在では、東急池上線の池上駅が最寄り駅とされますが、「池上線」の命名はお寺から取られたように思われます。
 駅前からの参道には門前町の面影も残るので、以前はかなりのにぎわいだったようです。

 幕末、江戸総攻撃へ攻め込む西郷隆盛率いる官軍(薩摩軍等)は、池上本門寺に陣を敷きます。
 対する徳川家側の勝海舟は、江戸城無血開城を条件にこの地で西郷と談判し、江戸での戦闘が回避されます。
 そこには、敵対関係となってしまった篤姫の、同郷人である西郷説得への祈りが込められていました。
 同郷人の願いゆえか、敵方本陣の要人である姫からの嘆願に、西郷が刀を納めたところにドラマがあります。
 その祈りこそが、現代日本の礎になっていると思えてなりません……

 池上本門寺は日蓮宗の寺になります。
 1282年病身の日蓮は、総本山である身延山(山梨県)を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう途中のこの地で亡くなります(遺灰を納めたとされるお堂もあります)。
 そのため日蓮宗では、重要視される寺院のひとつになります。

 またこの寺でよく見かけるのが、加藤清正(熊本藩初代藩主)の名前です。
 秀吉側近の武将で「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本鎗」や朝鮮出兵における奮闘で名が知られます。
 清正は日蓮宗への信仰心がとてもあつく、旗印にお題目(南無妙法蓮華経)を用いたことなどから、法華教(日蓮宗の根本教義)の守護神と位置付けられたそうです。
 右写真奧は、清正側室の墓石。

 この寺は武勇に秀でた人物に手厚いのか、墓地内に力道山の墓があります。脇にある銅像の目にはガラス玉が埋め込まれてあり、ちょっと不気味な印象があります。
 また、門からにらみきかせる仁王像のモデルは、アントニオ猪木なんだそうです(意図が理解できない)。
 そこまでくると「闘うお寺」の印象も受けますが、主に勝負事や災難除けを祈る方が多いそうです。


 勤め始めてからは、梅雨の湿度と気温に「あぢぃ」と思うだけで、花をめでるような季節感やゆとりが消失したこと、実感しています。
 京都を歩いた時も勤めていましたが、季節の催しがめじろ押しの土地柄には、日常の暮らしにメリハリを与えてくれる工夫があったようです。
 そんな反省によるあじさいの写真です。


御嶽山(おんたけさん)(Map)


 池上線に御嶽山という駅があり、こんな町中に山があるわけもないと思いつつも、気になっていました。
 駅近くの御嶽神社(おんたけじんじゃ:長野・岐阜県境の木曽御嶽山にある御嶽神社の支社)にちなんだ御嶽山前駅から、改名されたそうです。

 古くからあった祠(ほこら)を、江戸時代の山岳信仰ブーム(富士山信仰等)に便乗して(?)、御嶽山で修行した一山行者(いっさんぎょうじゃ)が盛り立て(1831年)、御嶽山詣でのブームを巻き起こします(三度参拝すれば、木曽御嶽山へ行ったのと同じとされた)。
 富士山信仰同様の、講社(信仰結社・団体)等による参拝が現在でも行われているそうです。
 そんな人出から、富士山詣でにおける富士吉田のように、駅周辺は団体宿泊施設の宿場町として栄えたそうです。


 本殿は江戸時代の建立で、江戸の豪商からの寄付もあり、周囲には大田区の指定文化財とされる彫刻がはめ込まれています(上写真)。

 本殿の裏には、木曽御嶽山に見立てた土盛りがされ、石碑と共に右写真の金属製のかめのようなモノが、逆さに納められています。
 ちょっとその理由までは見当たらなかったのですが、思うに、雨水がたまって困る、福を逃さぬように閉じこめる、などの理由があったのではないでしょうか。
 駅前にあるため敷地は広くありませんが、神社名の彫られた石碑は堂々としており、現在でも胸を張ったたたずまいの印象があります。

 御嶽山駅は、半分新幹線の線路上に作られています。
 新幹線保守の立場からすれば、高速走行するので、できるだけ陸橋等を除いた構造物は作らせたくない方針と思われますが、都内の住宅密集地ということもあり、認めざるを得なかったのかも知れません。
 ゴミを投げるやからもいそうですが、いまどきは防犯カメラで監視されていそうです。
 線路の整備状況にもよりますが、新幹線より併走する横須賀線(湘南新宿ライナー)の騒音の方が、やかましい印象がありました。
 でも近隣住民には、音よりも振動が気になるのかも知れません。
 右写真の、新幹線の上を交差する池上線の赤い線が見えるでしょうか? 電車を待って撮ったんですが……


洗足池(Map)

 付近一帯の「せんぞく」の表記には、「洗足」や「千束」がありますが、平安時代の文献には「千束」とあるそうなので、由来は後者のようです。
 しかし、隣接しているにもかかわらず目黒区は「洗足」、大田区は「千束」と表記する方針を貫きますが、洗足池は大田区にあってもこの表記です。
 「洗足:汚れた足を洗うこと」と「千束:多くのたば」を、関連させたり、対立させる伝説や歴史があったのかも知れません。
 流入する川はありませんが、付近一帯には大小の湧水が多くあり、用水路等を通じて集まり池となったそうです。


 上述の勝海舟は、池上本門寺へ向かう途中にこの池のほとりで休息したそうで、それが縁で勝はこの地に居を構え、後年、夫妻の墓も池のほとりに建てられます(花が供えられてました)。
 また、西郷が勝の家を訪ねた縁から、勝夫妻の墓の隣に西郷の碑が並びます(当時の東京府南葛飾郡から移設)。
 かつてにらみ合った敵同士も、和解の後にはひざを交える仲となる「潔さ」に、彼らこそ「ラストサムライ」(特に西郷の心意気に対して)ではないか、との印象を持っています。

 NHK大河ドラマにおける勝海舟のイメージとして、2008年『篤姫』の北大路欣也には風格が感じられましたが、2010年『龍馬伝』の武田鉄矢は、どうもホラ吹きオヤジのように見えてしまいます……

2010/06/28

非日常とリアルの表裏──浮島、川崎

2010.6.12
【神奈川県】

浮島(Map)

 浮島は、羽田空港の多摩川を挟んだ対岸にある埋め立て地で、神奈川県側の多摩川河口になります。
 東京湾アクアラインはこの付近から海底トンネルに突入していきます。

 右写真の建物は、首都高速湾岸線の多摩川トンネル第一換気所で、多摩川の下を通る海底トンネルの出口付近にあります。
 大仏の目のような切れ長の窓から、空気を取り込んでいるのだろうか?

 早速脱線しますが、昔のTVアニメ「黄金バット」の敵であるナゾー(そんな名前なぞ忘れており調べました)を想起するような建物です。
 ナゾーは黒ずきんをかぶったいでたちで、四つある目が、赤、青、黄、緑(Windowsロゴと同じカラーリング)で、かぎのような手を持ちます(いま見ると、リスのように立った耳が「トトロ」のように見えたりします)。
 これは勝手な想像ですが、白ずきんをかぶったKKK団(クー・クラックス・クラン:アメリカの白人至上主義を主張する、残虐性を持った人種差別団体)の、黒ずきん版的な意味が込められていたようにも思えます。

 浮島釣り公園は現在も健在ですが、以前となりには、川崎〜木更津、川崎〜日向(宮崎)航路のフェリーさん橋がありました。
 木更津航路は、東京湾アクアライン開通により1997年廃止。日向航路も原油価格高騰などの影響から2005年に廃止されたため、浮島のフェリーさん橋は閉鎖され、跡地は物流センターとなりました。
 以前仕事で、宮崎までフェリーで行ったこともあり、前回訪問時までは懐かしんでいましたが、現在は跡形も無く、場所の特定すらできませんでした。


 建設中の羽田空港D滑走路のさん橋方式部分は、対岸からこのように見えます。
 埋め立てでは、周辺環境への影響が懸念されるので、この方式が採用されましたが、結局何年かたつと、柱付近から土砂が堆積しそうに思えます。
 それを見こして、埋め立てるよりは、干潟となる方がいい、としたのかも知れませんが、日が当たらなければ光合成もできず、微生物は繁殖できない気もします。
 でも、一日中日の当たらない干潟というのも珍しいと思うので、普段見かけない生物に出会えるようになるかも知れません。


 近ごろ、ライトに照らされたプラントの夜景撮影や見物が、ひそかな人気だとテレビで目にしました。
 確かに無機質ではあっても、パイプなどには曲線美が感じられたり、光線の具合で面白い光景と出会えるのかも知れません。
 普通に撮っても絵になる光景はありそうですから、はまる人もいるのでしょう。

 浮島は、工場誘致を目的に埋め立て造成された土地ですから、ここでの主役は工場になります。
 右写真のような工場への引き込み線って、さびれているようでも意外と現役だったりして驚くことがあります。
 上ものである高所の架線部分は、高圧の送電線として現在も利用されているように見えます。
 設備には維持費がかかるので、不要なモノは残さないと考えると、やはり、線路があるところには貨物列車が通行しているのでしょう。
 目の前にあったフェリーターミナルが廃止され、鉄道の需要が高まりそうな気もしますが、いまどきはトラック輸送がメインなのかも知れませんし、貨物列車を見かけることはありませんでした。


川崎球場(Map)

 川崎球場は現在、アメリカンフットボールのグランドとされ、この日も社会人大会が行われていていました(軟式野球でも使用可能だが、マウンドはない)。
 試合終了後でも、部外者は立ち入り禁止だったかも知れませんが、とぼけて観覧席まで潜入して撮りました。
 試合後の場外は、なごやかな舞台裏という印象で、選手、チアリーダーとサポーターが歓談しています(みんな仲間内のようです)。
 うなだれる選手もいる中、派手な衣装のチアリーダーたちは、まだテンションが高ぶってるように見えます。
 「さぁ、打ち上げで、イケメンをタッチダウンするわよ!」と、ここからが本番? のようにも感じられました……(こんな品のないセリフもスラスラ書けてしまうのは、川崎という土地柄でしょうか?)

 ここは以前プロ野球で使用され、1957年〜1977年に大洋ホエールズが、1978年〜1991年にはロッテオリオンズが、フランチャイズとしていました。
 川崎球場で印象に残るのは、近鉄バファローズがリーグ優勝マジックを2としてのぞんだ、「ロッテー近鉄」戦のダブルヘッダーの記憶です(1988年)。
 テレビ中継で目にした、満員の球場に入場できない人たちが、球場に隣接した建物の廊下や屋上で、鈴なりになって観戦している姿が、強烈に焼き付いています。
 当時パリーグの試合は、ほとんどテレビ放映されないにもかかわらず、あの関心の高さには、純粋な野球ファンの気持ちが表れていたように思います(タダ見禁止でもおとがめ無し、とされる関心の高さでした)。
 結局近鉄は、第一試合に勝つも、第二試合は時間切れの引き分けとなり、最終戦で優勝を逃しますが、アウエーの敵側チームにも、あたたかい声援が送られていたと記憶しています(当時は近鉄を応援していました)。


川崎競輪場、川崎競馬場(Map)


 上が川崎競輪場、右下が川崎競馬場になりますが、この地は、この手の施設が似合う町のイメージとしては、全国でも有数な町といえるでしょう。
 川崎駅は、工場名を行き先としたバス路線が数多く運行される、工場地帯のターミナル駅ですから、周辺には飲食店、歓楽街等、労働者の疲れを癒す施設は、オール完備(?)されています。

 また脱線しますが、川崎の歓楽街といえば堀之内と耳にしながらも場所を知らなかったのですが、競馬場の近くなんですね。
 夕時だったので、面倒を避けるため中は通りませんでしたが、出勤のお姉様方とすれ違いました。
 期待されるコメントは、ございません……

 競馬場はJRAの方針なのか、結構洗練されてキレイな印象がありますが、競輪場のセンスは昭和期のままとの印象を受けました(門前からの印象)。
 いまどきはパチンコ店でも「オシャレ」を目指していますが、どう転んでも競輪場に女性客は引き寄せられない、と腹をくくっているのかも知れません。
 オヤジギャル(古い?)も近寄らない、「男の世界」を守ろうという姿勢ならば、「それもありかな?」と、理解できる気がします。
 でもそのうち「輪女」(競輪マニア女子)なる存在が、注目を集めるようになるかも知れませんよ。
 「夢を買う」などと言いますが、結果は「リアル」ですから、女性の方が堅実に「夢」を膨らましそうな気もします。
 でも、ギャンブル好きの女性の思考回路って、男性的だったりするんですよね……

2010/06/21

バラックに人を集めるバイタリティ──羽田

2010.6.5
【東京都】

羽田(Map)


 前回紹介した、羽田空港の新管制塔を望む多摩川河川敷に、バラックとしかいえない船着き場が並んでいます。
 主に、釣り船用さん橋のようですが、国際空港脇の光景ですから、そのギャップにとても興味引かれる場所です。
 鉄パイプを組んだだけの簡易的なさん橋で、どこの入口にも、仮設さん橋の設置許可証が掲示されているので、チェックが頻繁なのかも知れません。
 堤防を挟んだ陸側に、船宿(宿泊、飲食、入浴ができそうな施設)があるので、昔からその場所に船を着けていたようです。
 恒常的に利用できるさん橋を作れないのは、堤防等の護岸整備に関する法律があるのでしょう。
 護岸の外側に構造物の設置を認めない役所から、商売への支障を盾に住民が勝ち取った状況のようで、そこには生活者のバイタリティが感じられる気がします。

 ここから出ていく釣り船は狙う魚によって、観音崎や東京湾の対岸である木更津まで船を飛ばすそうです。
 そんな様子を知ると、おおよそ8,000円〜の料金(サービス内容で異なる)も納得できるところですが、『釣りバカ日誌』のハマちゃんに、そんなおこづかいがあったのか、なんて思ってしまいます……(貸し切りは10万円〜)


 かつて江戸幕府は魚介類を献上させるため、この地域に「漁猟特権」を与え、それをきっかけに羽田は、漁業の町として発展していきます。
 その当時、漁業従事者は「猟師」と呼ばれていたそうです(捕るのは魚だけじゃなかったのか?)。
 おそらくそんな頃から、江戸庶民の間でも魚介類(鮮魚)の人気が高まり、羽田沖で捕れる鮮魚類が「江戸前」と呼ばれるようになったのでしょう。
 この付近で捕れ「絶品」とされる、穴子やシャコを食べた印象がないので判断できませんが、食べ過ぎると危ない(ダイオキシン等を含む)逸品でないことを祈ります……(怒られそうですが、自分にはそんなイメージがあります)


 この付近には昔の堤防である、レンガ堤が残されています。
 上写真のカメラ位置は車道になり、レンガ堤の奧が住宅地で、その先に現在の堤防があるので、住宅は以前の河川敷に建っていることになります。
 その地域は、堤防の内側なので洪水にはある程度安心でも、地盤の強度には不安がある場所なのに、住宅建築許可が与えられたようです。
 でも、そんなことをいったら、大田区の低地部分には家が建てられなくなってしまいそうです……(下写真は河川側から)


 昔から「暴れ川」とされた多摩川流域では、台風等の水害を繰り返し被ってきました。
 川岸を歩くと、水害の脅威は海だけではなく川にもあることが見て取れ、前回紹介した、穴守稲荷神社への祈りの切実さが、とてもよく理解できます。
 神奈川県側では、1907年、10年(明治40年、43年)に大洪水が続けて起こり、困り果てた流域の住民たちが、アミガサ姿で県庁に詰め寄り「多摩川に堤防を!」と嘆願します。
 これは「アミガサ事件」と呼ばれ、それを機に多摩川の下流部(二子橋より下流)の、多摩川改修工事が始まったそうです。
 しかし1923年(大正12年)の関東大震災によって、一帯に作られた堤防等の公共施設および、工場施設等は全滅してしまいます。
 その復興の礎として、このレンガ堤が作られたそうです。
 当時の町並みは、このレンガ堤(川の流れ)に沿って区画されたため、堤は当たり前のように存在し続けています。
 この遺構を壊す必要に迫られる大きな再開発等が無い限り、部外者ながら残して欲しいと思ってしまいます。


 川岸で目につくのが、アサリ採りに夢中な人たちです。
 先日目にした地域の話題に、川崎市の埋め立て地にある「かわさきの浜」の潮干狩りに、予想を超える数の人が押し寄せ、解禁から10日足らずで一時禁漁の事態になった、とありました。
 そこも、この場所も、無料であることが人気の理由のようですが、潮干狩りという「採集作業」には、本能的に没頭してしまう民族性や、労働成果が目に見えることから、人気があるのかも知れません。
 それを、都心近くで商売にできるような砂浜があれば、人は集まると思われますが、そんな場所が無いから集中しちゃうんですよね……

 上写真は一般人のようですが、大きな貝採り用のカゴで採るプロ(?)のおばあさんもいます。
 近所で売られてるのかも知れませんが、果たしておいしいのだろうか?
 でも、ガキの時分に潮干狩りに行った1970年前後の、幕張、船橋、金沢八景の海と比べると、現在の方がはるかに安全という気がします。
 公害で騒がれていた時代の貝を食べても、まだ生きているのですから、現在の貝も大丈夫なのでしょう……


 この付近にはかなり広い湿地帯があり、草の茂みから普段聞き慣れない鳥の鳴き声が聞こえてきます。
 でもここでは、バードウォッチャーの姿を見かけません(マニアが求める鳥がいない、観察の時間帯が違う、観察ポイントが違う、のか?)。
 われわれ素人は、聞き慣れない鳥の鳴き声を耳にすると、即「バードサンクチュアリ」と考えがちですが、そう単純なものではないのかも知れません。

 多摩川下流で「子どもたちが素足で遊べる干潟づくり」を目指して活動するNPOが、環境保全活動に取り組んでいます。
 川を取り巻く周辺環境を、川岸に立地する企業の協力を得て、子どもたちに体験学習させています。
 目指すところは、素晴らしいと思えるのですが、下流域だけが頑張っても難しい面がありそうです。
 理想としては、多摩川流域の各地域で、それぞれの目標を掲げる団体が地域活動を広めた上で、流域全体という視点での連携が生まれることではないでしょうか。

 前述のレンガ堤のような、古い施設として目にとまるのが、石造りの「六郷水門」で、昭和6年完成のプレートがあります。
 この施設は現役で稼働していますが、水門の内側には狭い船だまりしか残されていません。
 かつては六郷用水の終端で、雑色(ぞうしき)運河の水門としての役割がありましたが、現在その用水路や運河は存在しません。
 現在も水門付近に六郷排水場があるので、生活排水路(下水)とされているようです。

 そんな水門付近は、テナガエビやハゼ釣りのポイントのようです。
 河口に近いので、潮の影響をかなり受ける場所ですが、どう考えても下水からの栄養分に群がっているように思えます。
 ある意味それは「栄養連鎖」と言えるのかも知れません。
 でもわたしが想起するのは、発電所(原子力・火力)の排水溝から流れ出す「暖かい排水」に群がり、異常に巨大化した貝類等のイメージになってしまいます。
 近場で「釣る」「採る」ことの楽しみは理解できますが、あまり口に入れたいとは思えません。
 でも、自分で釣ったり、採った魚介類というのは、リリースも食べるも自由ですが、その安全性は自分のお腹で確かめるしかないんですよね?
 海の幸には保証がない、と考えてしまうと、食べるモノが無くなってしまいそうなので、忘れることにします……

2010/06/14

海へと広がる、空の港──羽田空港

2010.5.29
【東京都】

 今回から、多摩川沿いを歩こうと考えています。
 厳密な川沿いでは見所が少ない気もするので、川周辺のスポット等を探しながら歩こうと考えています(本シリーズでは神奈川県も歩くと思いますが、@東京に含めます)。
 ということで、まずは河口に面した羽田空港からスタートします。


羽田空港(Map)


 旅行で空港を利用する時というのは、出発時間が気がかりですから、余裕があっても食事やお茶する程度で、空港施設を見て回ることはできなかったりします。そんな関心よりも、心はすでに旅先に飛んでますしね……
 「空港まで見送り」なんてことも無いので、飛行機搭乗の目的以外でこの地を訪れたのは初めてという気がします。
 時間に余裕のある視線で見回すと、空港機能以外の余計な施設ばかりが目につき、ショッピングモールのような印象を受けます。
 最低限必要と思われるのは、準備し忘れたモノを扱うコンビニ、急な体調不良等に備えてドラッグストア、その場から発送してくれる特産品の土産物店と、立ち食いそば屋があればいいでは? と思ったりします。
 でも、目的地がローカル空港だったりすると、飲食店が営業していない場合もあるので、腹ごしらえは大切かも知れません……


 わたしは全日空(ANA)派なので、2004年開業した第二旅客ターミナルへANAが引っ越してからは、当初ビッグバード(現在は両ターミナルの総称)と呼ばれた第一旅客ターミナルに立ち入ることが無くなりました。
 久しぶりなので細かな記憶は薄れていますが、京急線出口から上がった正面にあるフードコート的な飲食スペースで、よく食事した事を思い出しました(どこもおいしくはないんですが……)。
 また、搭乗手続きを済ませた出発ロビー内には、第一ターミナルの方が飲食店は多かったのでは? との記憶もよみがえります。
 中まで入れないので分かりませんが、喫煙所とトイレの場所はキッチリ覚えていそうな気がします……(下写真まで3点は第二旅客ターミナル)


 羽田空港4本目の滑走路となる、D滑走路の運用に向けて管制塔が新設され、2010年に運用が始まりました。
 管制業務には全滑走路を一望する必要があるので、高さは116m(世界第3位)あります。
 下に見えるこれまでの管制塔は、埋め立て拡張後の運用開始(1993年)には、かなり注目された最新鋭の施設で、TV等で紹介されましたが、16年で役目を終えたことになります。
 空港の建設や拡張には長期の準備・工事期間が必要ですから、航空業界の情勢変化に対応することは、とても難しそうです。
 でも、このデザインもへったくれもない容姿は、役所的ではあっても「可及的速やかに(高い管制塔を造ればいいんでしょ!)」準備が進められた様子が、見て取れるような気がします……

 1984年から始まった、沖合埋め立て事業により新たに生まれた広大な土地は、すべて大田区に組み込まれたので、「東京23区最大の面積」を長年保った世田谷区は、その地位を大田区に譲ることになります。
 エーッ、知らなかった。世田谷区がずっと一番だと思っていました。
 D滑走路の建設でまた広がりますが、さん橋方式部分(全面埋め立てではない)はどんな扱いになるのだろう?


旧穴守稲荷鳥居(Map)

 羽田空港は1931年(昭和6年)、日本初の国営民間航空専用空港(軍は使用しないの意)として開港します。
 第二次世界大戦後(1945年)米軍に接収され、ハネダ・アーミー・エアベースとなり、拡張工事の際には、周辺住民に48時間以内の強制退去が命じられます(米軍の横暴ぶりは沖縄と同じ)。
 区域内の住民や、穴守稲荷の社殿(おそらくご神体等)だけはからくも移転しますが、鳥居は米軍も壊しづらかったようで、基地内にポツンと残されることになります。
 返還後も移設工事の度、工事関係者に事故や不幸があったりするいわく付きの鳥居とされます(テレビで紹介されると「心霊スポット」にされてしまいます)。
 現在は、東京モノレール・京急線「天空橋駅」近くに移設されています。
 もう元の神社とは切り離されたのでしょうか、現在は「平和」という額が掲げられています。
 そこには、米軍に接収された当時の思いが込められているようです。


穴守稲荷神社(Map)


 地域住民の思いが込められた神社であることはうかがえるのですが、でも、何の「穴」を守ったの?
 「堤防に開いた穴の水害から、水田や人々を守る」ことなんだそうです。
 アシ等の茂る湿地帯が、江戸時代(1804年)に開墾され堤防が築かれるも、嵐で決壊し海水による大きな被害を受けたため、住民が堤防の上に稲荷大神を祭り、水害が起きぬよう祈ったことがこの神社の起こりとされます。
 上写真は、賽銭箱にしるされた神社の紋で、描かれるのは稲穂と米俵(?)ですから(五円玉の穴を埋めたよう?)、豊作祈願とされたようです。
 湿地だった羽田一帯には、川からもたらされた栄養分もあり、水の管理ができればいい水田だったように思います。


 京浜急行空港線「大鳥居駅」の名称は、穴守稲荷が現羽田空港内にあった時分、この付近に「一の鳥居」(一番外側の鳥居)があったことによりますが、その鳥居は現存しません。
 現在の天空橋駅近くに移設され現存する鳥居は、1929年に京浜急行(当時京浜電鉄)が、当時の社殿近くに奉納したそうです。
 ということは、現在の「穴守稲荷駅」の名称は、神社の移転後に改名されたことになります。
 何でも、以前の穴守稲荷付近(現羽田空港内)まで路線があったらしい記述もあるので、京急はこの地域に力を入れていた分、米軍占領の影響も大きかったようです……

 そんな苦難を乗り越えてもらったおかげで、神奈川方面から空港へのアクセスがとても便利になったことを実感しております。
 「京急川崎」〜「京急蒲田」〜「羽田空港」という、とても有り難い列車があるのですが、現在早朝には運行されません(早朝便は、運賃の安さや、乗り継ぎ等の関係で、結構利用することがあります)。
 この先、D滑走路の運用開始(2010年10月31日)と同時に、24時間国際線化されると聞きます。
 バスやタクシー業界は歓迎でしょうが、鉄道系はどう対応するのだろうか?
 モノレールと京急線が運行するだけでは、その先が困ってしまうので、東京全体の対応が必要になります。
 でも、鉄道が24時間営業されると「終電だから帰る」と言えなくなりそうで、そっちの方が困るかも知れません。
 夜中まで飲んでも帰りの心配がないのは結構ですが、次の日が大変そうです……

2009/12/14

落ち葉から、クリーンエネルギーを!

2009.12.6
【東京都】

 都内では、紅葉の見頃も終わりに近づいてきたので、今回は落ち葉をテーマに歩きました。
 「葉っぱがお金に化ける」昔話ではありませんが、膨大な量の落ち葉を目にすると今どきの願望として、この落ち葉を燃やすのではなく、クリーンエネルギーとして活用する技術が生まれないだろうか? そんな空想をしたくなります。
 落ち葉がエネルギー源となったなら、皆こぞって樹木を育てるようになるでしょうから、温暖化対策のひとつの柱となるようにも思えます。
 だなんて、小学生の夢物語の作文のようですが、近い将来に実現するかも知れませんから、期待を込めて待ちたいと思います……


 新宿御苑(Map)


 人が多いことは仕方ないのですが、ついでに立ち寄れる公園として、都心にこれだけ立派な施設があるのですから、利用しない手はありません(入園料200円)。
 それでも近ごろ訪問回数が減ってきた理由を考えると、新宿に映画を観に来なくなり「ついでの元」が減ったからのようです。
 近ごろでは、都心周辺の中核都市に「シネコン(シネマコンプレックス:同一の施設に複数のスクリーンがある映画館)」が増殖し、スクリーン数も多いので、マイナーな作品も都心以外で観られるようになりました。
 最近は、川崎、横浜の映画館で、観たい作品の95%くらいは観られるようになりました(都心に比べれば混雑してませんし)。

 個性や雰囲気を持つ、かつては「劇場」と呼ばれた施設が次々姿を消した今どきでは、都心の映画館はステータスでは無くなってしまったようです(日比谷シャンテ付近にあった「有楽座」のロビーにあったシャンデリアや、反対側にあった「スカラ座」の石造りの階段等が、強いインパクトとして残っています)。
 渋谷はメジャーからミニシアター系作品まで、守備範囲が幅広いのでたまに行ったりしますが、銀座方面は皆無となりつつあります。
 なので、新宿御苑にも増して、日比谷公園はずいぶんとご無沙汰です。


 ここは、フランス式整形庭園とされるプラタナスの並木になります。
 勝手な思い込みですが、ここは映画『第三の男』のラストシーンを想起する場所で、この季節には大きな落ち葉をバリバリと、踏みしめて歩くのが好きだったりします。
 絵になる景色の中を、トレンチコートを着た女性が、映画のヒロインのように歩いていました。
 これはシャッターチャンスと思ったのですが、「何でここにそんな人種がいるの?」と思ってしまう様な、アキバ系的な若者たちに雰囲気を壊され(女性も遠ざかりますわね)チャンスを逸してしまい、ちょっと声を上げたくなりました。「枯葉は、萌え〜じゃないでしょ!?」
 ──アジアからの観光客が多かったので、ひょっとするとそんな人たちだったかも知れません。


 緑のオアシスなので当然ですが、落ち葉はもの凄い量に見えます。
 落ち葉を量る単位があるのか知りませんが、トラックだと何台分くらいになるのだろうか?(運び出さなくていいのですが)
 でも、冷静に考えてみれば、枯葉は落ちる場所を選ばないので、散らかった印象を受けるものの、東京ドーム何杯分まではないような気がします。
 すると、近ごろCMに登場の「レレレのおじさん」(松平健)が、何人いれば1日で掃きおわるか? というような、身近な単位になってくるのかも知れません(くだらん例えでスミマセン……)。
 でも今どきは、強力な風で落ち葉を吹き飛ばすハンディマシンがあったりします。
 確かに便利だとは思うのですが、ほこりも巻き上げるので、こっちに来ないでと思ってしまいます……


 今回テーマとしたかった「落ち葉をクリーンエネルギーにできないか?」について調べてみました。
 最も多かったのが「腐葉土作り」で、それ以外では「落ち葉プール」「カブトムシの幼虫を育てる」などで、革新的なものは見当たりませんでした。
 現状では、数年かけて堆肥化したものを、販売する等の利用法が現実的なようです。
 ちなみにカナダでは、落ち葉を指定されたゴミの日に出すと、落ち葉専用の収集トラックで堆肥処理場に運ばれ、数年後、堆肥化された土は「リサイクルされた土」の表示がされ、販売されているそうです。
 まずはそこからのスタートでも、将来的には映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に登場した、タイムマシンの燃料(映画ではバナナの皮などの生ゴミでした)のような利用法を目標に、研究してもらいたいと勝手に思っています。


 代々木公園(Map)


 前日の雨のおかげで、いつもほこりっぽい印象の公園を、気持ちよく歩けたと思える本日ですが、落ち葉遊びとしては「Good Idea !」と思える光景を目にしました。
 代々木公園の足下には、地下鉄千代田線が通っているため、その通気口が点在しています。
 その上に、イチョウの落ち葉を山のように積み上げて、地下鉄が通過するときの風(マリリン・モンローのスカートが舞い上がる風と同じ)によって、落ち葉を舞い上げようとする遊びです。
 電車が来るたびに子どもたちは、大はしゃぎで踊り出しますが、前日の雨のせいでしょう、葉っぱが湿っていてキレイに舞い上がらないようでした。
 ──地下鉄沿線に数ある通気口の中でも、公園一帯にある通気口の清掃は、ちょっと大変かも知れません……


 明治神宮(Map)

 何だか少女趣味的な絵柄になりましたが、被写体に手は加えていません。
 腰をかがめてウロウロと、怪しまれながら(?)結構探しました。


 仮に、落ち葉からクリーンエネルギーが生み出されたとすると、その時点から、山中の落ち葉が消えてしまうかも知れません。
 「おじいさんも、おばあさんも山へ落ち葉を集めに行きました」どころの騒ぎではなく、積極的に木を植えても供給が間に合わなくなるかも知れません。
 そんな時代には、杉を切った場所に落葉樹を植えるようになり、花粉症は減るのかも知れませんが、枯葉を根こそぎ持って行かれては、山の土壌がやせてしまい、植物の生育が悪くなり、水害が増える等の心配があります。

 近ごろわたしたちの自然との付き合い方は、「ここまでは大丈夫だが、これ以上はダメージを与える」という、「さじ加減」(付き合い方)ができなくなっているようにも思われます。
 そのしっぺ返しに「圧倒的な自然の力」である、自然災害(土砂崩れ、鉄砲水等)に見舞われてしまいます。
 それは、何でもお金に換算して考えようとする、現代社会の風潮そのものに思えてきます。
 お金に見えてしまうから、何でもしてしまい、揚げ句の果てには「○○ショック」のように、はじけて混乱を招いてしまいます。
 地球環境がはじけてしまったらどうするのか? 世界で話し合うはずの「COP15」の序盤は、非難の応酬のようですが、何とか知恵を出し合い、取りまとめてもらいたいものです。

 ならばやっぱり「お金に化けるのが一番イイ」なんて、海を挟んだ隣国の様なことを考えていると、いつか化けの皮がはがれて「お金が葉っぱに戻ってしまう」かも知れません。
 やはり現在は(いつの時代も)、将来にクリーンエネルギー化の夢を抱きつつも、次世代の草木に栄養が行き渡るような、土壌を育てていくべきなのでしょう。
 それが、れっきとしたクリーンエネルギーであることは、先人たちに育てられたわたしたちが証しとなるのだと思います。

2009/12/07

江戸庶民の行楽地──滝野川

2009.11.28
【東京都】

 現在滝野川という名称は、地名(北区滝野川)に対して使われています(概略として、JR王子駅・板橋駅・地下鉄西巣鴨駅に囲まれる地域)。
 室町時代以前には、現在の石神井川は滝野川と呼ばれていたそうです。
 当時の石神井付近は、人影もまばらだったと思われるので、「王子七滝」(現在のJR王子駅周辺)と呼ばれ滝の名所とされた、この付近での名称が定着したと想像されます。
 この付近は、明治時代に滝野川村、その後滝野川町となり、昭和には滝野川区とされたこともあるそうです。

 地下鉄南北線の、駒込と王子の間にある西ヶ原駅はピッタリと、独立行政法人国立印刷局滝野川工場の前に作られてあります(建設に融通の利く場所だったのかも知れませんが)。
 パフォーマンス的と思えた事業仕分けでの、「お札などは、都会で印刷する必要があるのか?」とのやり取りを思い出したりしました。
 確かに、新聞や週刊誌ではないのだから(搬入が数時間遅れただけで始末書などにはならないでしょうし)、そういう機能はできるだけ地方に移していくべきとも思われました。


 旧古河庭園(Map)

 この庭園は駒込に近く、地名は西ヶ原になります。
 1917年(大正6年)に造られた、古河虎之助男爵(古河財閥の3代目当主)の邸宅を、保存した施設になります。
 男爵とは、明治時代に制定された華族制度の最下位で、財閥家にも与えられたそうです。
 ちなみに後述の渋沢栄一は、公共への奉仕が評価され、その上の子爵を与えられます。
 それは、天皇(国家)から「あんたはエライ!」(古いギャグの引用で通じなかったらゴメンナサイ)と言われたことになるのでしょうから、現代では文化勲章か? とも思いましたが、比較対象とできる社会構造ではありませんでしたよね……

 この庭園の特徴としては、ジョサイア・コンドル(久々の登場ですが、東大の校舎旧岩崎邸、鹿鳴館等、西洋建築技術を日本に伝えた人物)設計による洋館(右上下写真のバック)と、前庭に広がるバラ園になると思います。
 花については全般的にうといのですが、バラという植物は園芸品種として、品種改良等がしやすい植物のようで、品種名表記だけではその意図が理解できない名称を見かけたりします(南半球には自生しないそうです)。
 ここには「プリンセスマサコ」という品種のバラがあるそうですが、最近は人気無いんだろうなぁ〜(失礼)。

 ここは何度も来ているのに、洋館内に入った覚えが無いと思ったら、往復葉書で事前の予約が必要なんだそうです。
 まあ、桂離宮(京都)ほどの倍率ではないにしても、日時を決められると行きづらく感じてしまいます。


 この庭園のもうひとつの特徴は、斜面を下った木立の中に日本庭園があることです。
 この庭園は、近代日本庭園の先駆者とされる小川治兵衛(おがわじへえ:幕末生まれで昭和まで活躍)によるものだそうです。
 平安神宮、円山公園(共に京都)などを手がけたそうで、この名前を記憶しておきたいと思い、書きとめました。
 これも治兵衛さんが持ち込んだのだろうか、大きな灯籠が点在しており、それぞれの存在感がとても印象に残ります。
 上写真は、どこかで目にしたような絵ですが、やはりその場に立つと撮ってしまうし、それが絵になるというのは、まさに庭師の術中ということなのでしょう……


 飛鳥山公園(Map)

 右写真からは趣旨が伝わらないとの反省から、説明させてもらいます。
 状況としては、このちょっと前に、もう少しお姉ちゃんの2人組がこの噴水のてっぺんで、水遊びをしていました。
 オイオイと思いながらも、シャッターを切ったわたしと同じように、興味を感じてしまった彼は、噴水に向かって行きます。
 お母さんは止めますが、言うことを聞く気配がないので、仕方なく靴を脱がせ、ズボンをまくり上げて噴水に入らせた、という状況になります。
 でも、お母さんの選択としては、どうなんでしょうねぇ? その後、風邪をひいてなければいいのですが……
 自分もガキの時分、そんなことをやっていたのだろうか?

 こちらには、自分の彼女か知り合いの女性をモデルにして、撮影をしているお兄さんがいました。
 雲が出てきてしまったのですが、レフ板(光を反射させて対象物を照らす板)を取りだして準備をしています。
 助手もいないのにどうするかと思ったら、あぐらをかいた自分の足で方向を調整していました。
 「必要は発明の母」と言うのか、表情の硬かった女性も、そんな滑稽な姿勢に笑いだし、緊張もほぐれていたようです。

 下写真は、以前訪れた旧渋沢栄一邸になります。
 日本資本主義の父と呼ばれる方ですが、当初は尊皇攘夷(反徳川幕府)側の考えを持っていながら、徳川慶喜の家臣となってさまざまな経験を重ねたようです。
 新しい会社が次々と作られた時代ですから、500以上の企業設立に関わったそうですが、財閥(上述の古河を含め)を作らず「私利を追わず公益を図る」との姿勢を貫いたそうです。
 初代紙幣頭(後の国立印刷局長)となった彼の志は、独立行政法人国立印刷局の組織を守ることに受け継がれているように見えてしまい、反公益的と思えてしまうのは、とてもおかしなことです。
 印刷所に隣接して大きな付属病院があります。病院が悪いとは言いませんが、経営・運営の実態(税金の使われ方)について明らかにされているのだろうか? そんな「いいがかり」的な疑いを持つ視線が、今どきの世間の見方と思います。
 渋沢栄一の生きた「希望の持てる時代」とは社会情勢は異なりますが、現代にも「私利を追わず公益を図る」人物が出現して欲しい気もします……
 ──期待は大きかったのに、何億ものお小遣いをもらっても「知らなかった」というお坊ちゃま感覚では、いくら耳が大きくてもこちらの声が届くとは思えません……(でも、頑張ってもらわないと)


 これまでは、駒込地域、王子地域という線引きで散策することが多かったので、駒込から王子までを、歩いてつなぐことがひとつの目的でもありました。


 金剛寺(紅葉寺)(Map)


 東京周辺の紅葉情報を調べていて、この寺の存在を知りました。
 都内にも紅葉寺と呼ばれるお寺があるのかと、期待を膨らませて門前に立ちましたが、瞬時に「過去の名声」であったことに気付かされます。
 金剛寺の名称通り、弘法大師(空海)の教えである真言宗のお寺で、源頼朝が鎌倉幕府を開く前に、この地に陣取ったとされています。
 江戸時代には、第八代将軍吉宗の命によってカエデが植えられ、そこから紅葉寺と呼ばれるようになりました。
 前述の飛鳥山公園、後述の弁天様と合わせて、江戸の観光名所とされたそうです。
 吉宗は、飛鳥山には桜を、この地にはカエデを植林したそうで、そこだけ見ると、何とも粋な殿様と感心させられますが、これは「享保の改革(きょうほうのかいかく):江戸時代の三大改革の一つ」の一環なんだそうです。
 ──分かりやすいところでは、庶民の声に耳を傾けるための目安箱の設置などがあります。


 岩屋弁天跡(Map)

 むかし、石神井川がわん曲して流れていたころ(江戸時代の以前のことと思います)、流れに削られたガケに「弁天の滝」が見られたようです。
 石神井川は、十数メートルの渓谷を刻み滝も数多く見られたそうなので、住宅が密集し河川改修される以前の姿は、現在の等々力渓谷的なイメージでしょうか。
 どうも明確な資料は見当たりませんが、江戸時代の古地図には、金剛寺の「松橋弁天」と、近くに「岩屋弁天」が表記されています。
 滝沢馬琴『南総里見八犬伝』(江戸時代)には、「滝野川なる岩屋殿」として登場しているそうです。
 八犬伝の記述は、岩屋弁天のようですが、古地図サイトに掲載されている広重の浮世絵を見ると、松橋弁天のようにも見えます。
 いずれにせよ、江戸時代この付近が大変にぎわっていたことは、確かなようです。


 上写真は、王子駅近くの音無橋になります。
 これまで、橋上の道と交差する本郷通り(都電の通る道)しか歩いたことがなかったので、深く刻まれた川面に続く橋下の光景に出会えて、とても新鮮な印象を受けました。
 隣接する飛鳥山公園との高低差は結構ありますし、この地形を生かして、桜やカエデが配された江戸の時代に、行楽地として持てはやされたことは、とても納得できる気がしました。

 飛鳥山というのは、滝野川のある「山の手」と、王子駅のある「川の手」の境にありながら、丘のような高台になっていますから、王子駅側から登るにはちょっと息が切れます。
 そこでこの7月に登場したのが「飛鳥山公園モノレール」です(無料)。
 16人乗りと、サイズは小さめですが、かなりの急勾配を登っていきます。
 瀬戸内や四国のミカン畑でよく見られる、果実運搬用のモノレール(と呼ばれること初めて知りました)の上に、ゴンドラが乗っているようなイメージ。
 あれなら、エレベーターの方が安く作れたのでは? とも思いましたが、景色が良かったりするのかも知れません。
 今度は乗るつもりで来たいと思っています。