2015/02/23

おいしい井戸水の記憶──代田橋〜四谷大木戸

2015.2.7【東京都】──「神田川を歩く_7」

 前回、神田川から外れ旧玉川上水を歩きましたが、この機会に終点まで歩こうと、気合いを入れて寄り道(?)しました。


京王線代田橋駅周辺


 代田橋には父の実家があり、ガキ時分は「田舎のおばあちゃん家」と相模原から上京しました(母の実家も中野)。
 今回の行程で再開発に積極的な隣駅笹塚と比較でき、その違いに愕然とするも、バラックのような駅前商店街(失礼!)に、『モヤモヤさまぁ〜ず』が立ち寄りそうなおもちゃ屋(右)が残る方がうれしかったりします。
 ですが、笹塚〜仙川駅間の連続立体交差事業にともない、再開発の対象とされそうです。

 上は、甲州街道を渡った杉並区和泉明店街「沖縄タウン」で、那覇の牧志公設市場を思わせる一画に、ウチナンチュ(沖縄人)のたくましさを思い出しました。


 代田橋駅下の旧玉川上水にはレンガ造りの水路が再現され(上のゆずり橋は1991年架け替え)、線路をくぐる昇り降りのロケーションは、ドラマの舞台となりそうです。
 水道道路には止水栓を利用した車止め(右)もあり、現在も和田堀給水所から世田谷・渋谷・目黒・港区に送水する、水の要衝であるとアピールしています。

 少し前に宣伝していた「東京水」は、水源の8割近くを利根川・荒川水系に依存するそうで(多摩川水系は2割弱)、神奈川より水道料金が高い! と感じたのは、上流域から取水できない(浄水コスト)のためか?

 右は玉川上水を渡る環状七号線大原橋の下を、流路方向にくぐる地下道で、左右の整備された壁やむき出しの配管の様子から、旧水路を歩道にしたのではないか?
 玉川上水の遺構保存を考える際、主要道路である環七と交差するため着手が難しいならば、このまま維持することが歴史の語り部にふさわしいようにも……





笹塚〜初台橋駅周辺

 付近で断片的に目にする細い流れは付近のわき水らしいが、多摩川から引かれた水よりはるかにキレイとのこと。
 以前、代田橋の実家で飲んだ井戸水はおいしく、台所に水道水とは別に井戸水の蛇口があるほど、生活に密着した存在でした(近ごろは使用しないと聞いた気がする)。
 それは、武蔵野台地が大きな扇状地として形成されたためで、水の質・量は変わったとしても、家康が井の頭池(いのかしら)で汲んだわき水と同じ仕組みに発するものです。

 右は、東京消防庁消防学校の施設で、反対側のグラウンドでは、出動体制の出で立ち(防火服着用)でトラックを駆ける姿を目にします。
 一瞬ハッとしますが訓練には必要で、日々訓練の消防隊員の方には頭が下がる思いですが、緊急時には「全力でお願いします!」と、再度頭を下げてしまいます……

 玉川上水が付近で南に大きく迂回するのは、神田川方面からの谷が切れ込むためで、それを避けるためここしかないという地をぬって、最後の直線へと向かいます。

 右は東京オペラシティの階段。
 ドラマ等の舞台とされるロケーションはカッコよく、絵になる人が歩かないのはもったいないと思うが、土曜日に行き来するのは週末作業の作業服姿ばかり……
 以前アップルジャパンのオフィスがあった時分、「NTTの関連ビルなのに、docomoが通じにくい!」と、イライラする姿を想起しましたが、皆さん退職されました。
 外資系の会社が、現地の都合を考慮せず本社の意向を押し付けようとするのは、どこも同じようです。

 京王線は以前、初台駅付近から甲州街道上を走っていましたが、玉川上水を暗きょ化した上に線路を敷き、後に地下化して水路の中(?)を走るようになります。
 

南新宿〜新宿御苑周辺


 上は文化服装学院前のモニュメントで、モチーフは代田橋付近のような橋か、都立新宿高等学校に展示される玉川上水石樋を逆さにしたものか?
 奥の並木から水路と土手のイメージが伝わるのは、木々の「狭い間隔」を設計した方のおかげで、将来枝がアーチを描くようになった頃、その狙いが実ることでしょう。


 現在の新宿駅南口付近は、駅を越える高架橋があるため坂の印象がありますが、以前の玉川上水は、甲州街道沿いから新宿御苑北端を経て、大木戸門(上)付近にあった「四谷水番所」まで淡々と流れていました。
 江戸時代付近には、甲州街道の江戸の入口とされる「大木戸門:当初夜は閉鎖」があり、水番所では水質(濁り水)や各地域への水量の管理を担うように、「ここから江戸市中」とされる要衝でした(その外側に内藤新宿の宿場があった)。
 現在その地には、東京都水道局の施設と、玉川上水の由来を記す「水道碑記(すいどうのいしぶみのき)」が残されます。


追記──東京マラソン2015 2015.2.22


 今回の狙いは、テロ対策で登場の「ランニングポリス」ですが、3万6000人から64人を探そうなんて無謀と実感しました。上はたまたまで、その後は発見できず……
 箱根駅伝に出場経験のあるランニングポリスのインタビュー、「これまで警備のおかげで安全に走る事ができたので、守る側としての任務を果たしたい」の言葉から、スポーツの素晴らしさが伝わるようで、声援と拍手を送ります!

2015/02/16

水の道、人の道──下高井戸〜代田橋

2015.1.31【東京都】──「神田川を歩く_6」




下高井戸─甲州街道北側の寺町

 学生時代に迷惑をおかけした下高井戸での生活圏は世田谷区内に限られ、甲州街道(杉並区との区界)が北限でした。
 街道を渡った先に並行する玉川上水跡には、公園・遊歩道が整備されています。
 その地に立つと北側は神田川へ、南側もなだらかに下る尾根筋であることに気付きます。
 遠くを目指す使命を受けた、水の道(旧玉川上水)や人の道(甲州街道)を尾根筋に設置したのは、「位置(高さ)エネルギー」を有効利用するためで、自然と付き合いながら町・国づくりを進めた様子が感じ取れます。


 甲州街道北側にある寺町を総じて「永福の寺町」と呼ぶのは、室町時代創建の永福寺によるようです。
 付近の寺院は明治~昭和期に、東京市内の区画整理や関東大震災の被災後に移転したため、街道筋に発展した寺町という歴史を持ちません(永福寺は別の機会に)。
 
 上の栖岸(せいがん)院の出自は三河国(現安城市)のため、江戸幕府から格別の扱いを受けたらしい。
 右は永昌寺の閉ざされた門からのぞいた絵。


明治大学和泉キャンパス~明大前駅


 明治大学和泉キャンパス(上)付近には、以前陸軍の火薬庫(江戸時代の弾薬貯蔵庫)があり、隣接の築地本願寺和田堀廟所と同様、関東大震災後に建設されます。
 墓地に眠る、佐藤栄作、樋口一葉、古賀政男等々の著名人が、火薬庫跡の土地の霊をなだめてくれそうですが、当時、明大前の駅名は「火薬庫前」だったとのこと……

 右は以前、明治大学門前を流れる玉川上水に架けられた橋の欄干ですが、火薬庫への橋だったのか?

 明大前駅周辺は、明大側の一画だけ整備されますが、京王線沿線らしく町並みに息づく「庶民力」は健在のため、再開発には難儀しそうです。
 大変身の際には、下北沢的な覚悟が必要となりそうですが(その様子は未見)、下北沢と並ぶ急行停車・乗り換え駅周辺は結構地味だったりします。
 右は京王線ホーム下の井の頭(いのかしら)線跨線橋で、明大前の町にはこんな下町的な印象があります。


和泉給水所タンク


 東京の上水道は明治期まで、玉川上水等の河川水を分配するだけの不衛生なものでしたが、現都庁周辺に建設された淀橋浄水場(1898年:明治31年)稼働に伴い、上の和泉給水所タンク付近には玉川上水から浄水場へ送水する施設がありました。
 その後の人口急増から水道需要が高まり、境浄水場(武蔵野市)が建設され、和田堀給水所(下)への水道管が敷設され(上写真手前を通る井の頭通りの地下)、付近で新旧水路(東西の玉川上水と南北の水道管)が交差しました。
 この地が「水の道が交差する要衝」とされたのは、都心部を見下ろす配水に適した高台のためではないか?(父方の伯母から「見晴らしの良さ」を聞いた覚えがある)


和田堀給水所

 関東大震災後(1924年:大正13年)の建設で、レトロな建築物でしたが強度不足等の理由から立て替えが始まり、「山のようだった」貯水槽は取り壊されました(東村山浄水場、境浄水場および三郷浄水場からの送水を受け、世田谷区、渋谷区、目黒区、港区に配水する施設)。
 ここは父の実家に近いため、ガキ時分に花見の季節だったか中に入ったことがあり、「遊べる!」と感じた事を覚えています。
 当たり前の景色だったので、記録しようと考えなかったことを悔やむも、ふるさとの記憶はおぼろげに残っていればいいのかも知れません……(工事用フェンスで思うように撮れなかった)


追記──JR東日本 ウルトラマン スタンプラリー

 現在、首都圏のJR各駅で行なわれ、田町駅にはカネゴンのパネルがあるので押してみたら、登場話をイメージした絵柄にガッカリ(これは『ウルトラQ』の話で、列車は小田急のロマンスカーらしい)。
 浜松町駅ホームの小便小僧もウルトラマンの衣装で盛り上げるも、春休みのイベントにした方がいいのでは?

2015/02/09

土地が歴史を生む──高井戸〜下高井戸

2015.1.24【東京都】──「神田川を歩く_5」




高井戸


 奥は高井戸のランドマークとされる杉並清掃工場の煙突ですが、環状八号線の反対側に偽装農地の代名詞とされる「栗畑」(手の掛からない農地で、売り時を探れる)が広がるとは知りませんでした。
 旬の季節には、敷地内にある「くりのないとう」店頭に行列ができるとのことで、失礼なことを……(リンク先の栗は立派でおいしそう)
 周囲には、土地の切り売りで建てたと思われる住宅街やマンション、温浴施設+フィットネス+スイミングスクール、高井戸小学校(寄付ではないにせよ)等々が隣接しており、所有地はどこまで広がっていたのか? というサイズ感です。


 上は、井の頭(いのかしら)線の車窓から見える「東京ゴルフ専門学校」で、のぞいてみればガキが遊ぶような声が聞こえます。
 なるほど! ガキ時分から英才教育で、将来の石川遼、松山秀樹を目指す夢はチャレンジの価値ありそうですし、子どもに期待しちゃう親の気持ちも理解できます。
 隣接のゴルフ練習所が親会社で、代表者は内藤性ですから、一族の所有地はまだまだ続きそうです……(清掃工場の敷地も含まれたのでしょう)


 神田川は高井戸付近から蛇行を始めるため、川岸に狭いながらも平坦地が生まれます。
 以前は、水田に利用されたであろう川岸の土地は、現在グラウンドやテニスコートとして整備されます。
 近ごろの錦織フィーバーにより、これまで何度かあったテニスブームで踊った人々が、テニスコートに戻ったとの話しをよく耳にします。
 テニスに縁のないわたしも、ライバル選手の名前覚えるのですから、すごい事です……(記憶にあるのは、ボルグ、マッケンロー程度)


浜田山

 高台にある雑木林が気になり足を運ぶと、「三井の森」の看板があります。
 以前付近にあった、三井上高井戸運動場を宅地開発した「パークシティ浜田山」の残骸のようです。
 宅地は、残された森、右のケヤキ並木と下の柏の宮公園に囲まれた立地で、緑に囲まれた環境は演出だけでなく、静かで暮らしやすそうに見えます。

 浜田山の地名は、旧内藤新宿(江戸時代新宿三丁目付近にあった甲州街道の宿場で、元は信濃国高遠藩 内藤家所有地のため名が残る)の商人、浜田屋の所有地によると知り、上の栗畑はその内藤家とつながるのか? とも……



塚山公園

 右は、縄文時代の竪穴式住居のレプリカ(モルタル製)ですが、立ち止まるきっかけとなった Good Job!
 以前石神井川沿いで奈良時代の遺跡を見かけましたが、神田川沿いには縄文時代の遺跡が多いらしく、三鷹市には「縄文の川 神田川」という展示施設があります。
 公園脇には旧鎌倉街道も通っており、並べると、縄文・奈良・鎌倉・江戸から現代まで、狩猟(江戸まで)や植林栽培(木の実など)に適した地域だったようです。
 点や線でなく面の視点を目指す中で、「歴史は土地に育まれる」痕跡に触れられた気がしました。


下高井戸(杉並区)

 神田川沿いにある下高井戸八幡神社(上)に接し、下高井戸は杉並区の地名であることを思い出します。
 通った大学最寄りの京王線下高井戸駅(世田谷区松原)、大学(世田谷区桜上水)や、借りたアパート(世田谷区赤堤)等の印象から、勝手に「下高井戸=世田谷区」の認識がありました。
 甲州街道(区界)を越えた杉並区下高井戸を歩いてみると、勝手な思い込みの無礼からか、居心地の悪さを感じたりしますが、青かった学生時代の思い出は「下高井戸=世田谷区」としてこれからも残り続けます……


追記──地域限定の報告

●下高井戸(世田谷区)通信
 DEN、東秀は消滅。マクドナルドはバーガーキングに。
 下高井戸シネマは健在。松沢小学校は明るくモダンになりました。

●桜上水通信
 桜上水団地(←懐かしい!)は「桜上水ガーデンズ」へと生まれ変わるため、旧グラウンド沿いの道まで閉鎖して高層住宅を建設中(便利な場所なので人気ありそう)。
 桜上水駅の改札は地下から橋上駅舎(2008年)となりました。
 進京亭(ラーメン屋:太いブリブリの自家製卵入り麺)は健在ですが、臨時休業でありつけず…… 再挑戦します!

2015/02/02

欲が消えていく……──烏山寺町

2015.1.17【東京都】──「神田川を歩く_4」



烏山寺町

 前回、國學院久我山付近の看板地図で「烏山寺町」が近いことに気付き、以前久我山在住の方に薦められたことを思い出し、ちょっと寄り道です。
 何で久我山の人が烏山を知っているの? と思ったが、住所は北烏山でも久我山駅の方が近い隣町だからのようです(この日は千歳烏山→久我山へ)。
 千歳烏山は学生時代以来と思いますが、わたしが幼少時分の家族は駅前の借家で暮らしたと聞いており、記憶はなくても親近感を覚える土地だったりします。


 寺町の誕生は関東大震災で被災後の移転とされますが、すでに東京市内の都市整備計画で墓地の郊外移転が決まっていたそうで、現在も26の仏教寺院が立ち並びます。
 上は多聞院の釈迦の足跡で、これで両足分らしい。

 右の玄照寺は絵として京都に負けてないと思いますが、勝てるとすれば「人の少ない静寂さ」になりそうです。
 それゆえ落ち着く枯れたたたずまいでは、時の流れがまどろむため「欲が消えていく」(この瞬間だけで十分)心境を経験することができます。
 魂を持っていかれそう……


 上は、200体あるとされる常福寺のタヌキ。その説明はありませんが、ゴルフクラブやサッカーボールを持つなど、分かりやすい願いだったりします。
 そんな姿から、京都の愛宕(おたぎ)念仏寺(こちらは石仏)を想起したように、思いを込めやすい造形物が作られたのではないか?
 願いを込めるのはタヌキでもかまわないはずです。


 寺町の寺院は、石神井川沿いに点在する真言宗寺院(空海の教え)のように地域に根付いたものでなく、移転希望寺の集まりなので宗派は様々ながらも、伝えんとする世界観に接していると、こころ穏やかになる変化を自覚できるようになります。
 そのこころは?「共鳴」であると感じました。
 善し悪しではなく、響き合えるか? ではないかと。

 歩を進めるごとに、上空の風音(北風が強く寒い日だった)と、カラスの鳴き声しか聞こえない「彼岸のふち?」に近づけるような印象も……(上は宗福寺)

 烏山の由来は、烏が群生する森、烏色(養分の乏しい黒土)の山があった、などとされる。(右は妙寿寺)




 広大な敷地を持つ妙寿寺の客殿(上)は、蓮池藩鍋島家(佐賀藩)屋敷(飯倉狸穴(まみあな)町所在)を移設したもので、敷地内で存在感を示します。
 この日のように参拝者もおらずひっそりとした中で、静かに内部を見せてもらえるとうれしいのですが……(世田谷区指定有形文化財)
 

 上は高源院の弁天池で、マガモが飛来することから「鴨池」とされ寺町のシンボル的な存在でしたが、いまではその姿は見られません。
 この池は目黒川支流(烏山川)源泉のひとつとされ、井の頭(いのかしら)池の水位と同様の変化をすることから、地下水脈が同じ面ではないかとされました。
 分水嶺付近を通る玉川上水に近い尾根筋にあたるので、可能性はあったかも知れません。


 久我山に住んでいた方とは、一昨年秋に亡くなった元同僚(同い年)で、わたしの趣味に合いそうと紹介してくれた心情をようやく理解できました。
 遅くなりましたが、彼に導かれたことに感謝し、こころ穏やかになる烏山寺町の記憶を、故 田波健一氏に捧ぐ。


追記──「ポール、“リベンジ”来日公演決定!」

 そんなメールが届きましたが、どうも熱くなるものがありません。
 わたしの中では、昨年の全公演中止で燃え尽きてしまったようです……


追記──祝 伊良部大橋開通!

 沖縄 宮古島〜伊良部島を結ぶ、全長3540mの橋が完成しました(通行無料)。
 池間大橋、来間大橋に続く架橋プロジェクトで、これで宮古島周辺の主な島々は橋で結ばれました。
 本島(屋我地島:やがじしま)と橋で結ばれ、人の出入りが盛んになった古宇利島のように活気づきますよう。
 沖縄から届いた久しぶりのラブレターを目にし、是非行かねば! と……