2016/07/25

走るタイムカプセル──世田谷

2016.7.2【東京都】──「目黒川を歩く_3」 烏山川_3

 世田谷のボロ市は、室町時代の世田谷城前を通る鎌倉街道宿場町の楽市に始まり、北条氏が秀吉に滅ぼされてからは農具市、明治期には古着・つぎ用のボロの扱いが増えたため、現在の名称とされます。






 世田谷区には古墳が多く残るため、展示品は区の施設とは思えないほど豊富で多岐に及びます(歴史年表を作れそう)。現在野毛大塚古墳からの出土品を、国の重要文化財指定に答申中とのこと。
 また古い写真展示も印象的で、三軒茶屋のにぎわいや、未舗装の環七通りを自転車が走る絵には、当時の自慢を残したい心情がうかがえ、そのインパクトは現代にも伝わったと撮影者に伝えたい。上は保存される旧世田谷代官屋敷で、入口前がボロ市通り。

 ガキの時分、近所の家族が付近(上町)のマンションに転居し、遊びに行った際「これがマンションか!?」と驚いた記憶だけ残っています。


世田谷区役所


 上は、地下売店への階段。東大の安田講堂前のように、広場地下の有効活用がトレンドとされた時代の懐かしさがあります。
 以前、わたしの本籍は父の実家に置かれたため証明発行に何度か訪れましたし、大学時分に「16ミリ発声映写機操作資格:16ミリ映画フィルムの貸与・上映資格」の講習に通ったこともあり(結局、使うことはなかった…)、懐かしさを覚える区役所で何か撮っておこうと……(建物は当時のまま)



 山口県萩市の松陰神社は、吉田松陰が開設した松下村塾が祭られる本家。本施設は、刑死後小塚原の回向院に葬られた亡がらを、高杉晋作たちが改葬した墓の側に創建されたもので、境内にある松下村塾のレプリカは、現在修復中。右は夏越の祓(なごしのはらえ)の茅の輪。
 吉田松陰という人の表現や行動には疑問を感じる面もあるが、死してなお「革命家」として輝きを放った存在感に、否定する余地はありません。
 旧烏山川を挟んだ丘には、安政の大獄で松蔭を追いつめた井伊直弼(日米修好通商条約、徳川家茂の将軍指名を朝廷の許し無く断行し、抵抗勢力を弾圧した)の眠る豪徳寺がありますが、現在も松蔭の揺るぎない信念(井伊直弼が敵ではない)が感じられるよう……


信号待ちの東急世田谷線(若林駅付近)


 世田谷線は専用軌道を走るので路面電車ではないと思ったら、信号待ちをする上の環状七号線との交差部分が併用軌道とされ、路面電車に区分されるそう。
 都営荒川線同様「走るタイムカプセル:乗車した瞬間に懐かしい記憶がよみがえる」のようで、若い時分をふりかえると、近ごろ見失った謙虚さや心がけを再認識し、初心を忘れずに行動せねばと引き締められる思いがします。
  新車両の座席は前後を向く個別シートとされ、狭くて足が収まらない人は「潔く立ってなさい!」にも、自覚を持ってシャキッと立てます。 世田谷線ですもの……

 世田谷では珍しいノッポビル「キャロットタワー:27階建ての文化施設、商業施設、行政窓口」は、目印に格好のランドマークです(右)。




 太子堂とは聖徳太子像を祭るお堂の名で全国に存在します(付近では地名とされる)。
 聖徳太子に抱く学問の神様的なイメージは、日本に仏教を広めた功績により宗派を問わず慕われるためのようです。
 伝説のヒーローを1万円札(1958年〜1986年発行)として崇める信仰心が、高度成長期のモーレツな向上心を生み、この国を豊かにしました(発行停止後バブル期に突入)。
 現在肖像は「伝・聖徳太子」と信ぴょう性を疑われるも、「鰯の頭も信心から」で、「日本人はやる気になればスゴいんです!」を証明したのだから、結果オーライでは?
 当地には、明治4年(1871年)世田谷区内初めての学校「太子堂郷学所」が開かれます。


 上は太子堂に近い「したのやばし公園」。
 最初に「おもちゃのかたずけ場所」の看板を目にしたので、この自転車や遊具は公園の備品と思ったら、「家庭で使用しなくなった物(三輪車など)を公園に置いていかないで下さい」とあるので、不要品の捨て場とされている様子。
 ガキはガラクタでも遊べますが、トラブルを自治体に持ち込まれては困ります。


追記──「ポケモンGO ゾンビ」から身を守るには?

 世界中に増殖する「ポケモンGO ゾンビ:心を奪われ熱中する姿」が事故に遭うのは勝手だが、事故渋滞や線路転落事故による遅延などに遭遇したら大迷惑! ですが、集客が期待できるので営業サイドとしては有効活用を考えたくなるのも確かです。
 いっそのこと、歓迎する施設は「ポケモンGO!」、迷惑ならば「ポケモンNO!」とすれば施設の性格がひと目で分かるので、「NO」を選べば一安心という気もします……


追記──祝200勝! 黒田博樹投手

 達成目前でもたもたした姿に「相当しんどいんだろうなぁ」との印象を受けました。
 とはいえ、今年は25年ぶりの優勝に向けこれからが正念場ですし、日本シリーズでの勇姿を見せてもらいたい!
 結果はどうであれ日本シリーズ終了後には、心から賞賛の拍手を贈る心づもりなので、燃え尽きるまで挑む姿、心に刻まれる闘志を、是非!(勝手を申してスミマセン…)

2016/07/18

欲を忘れませんか?──豪徳寺

2016.6.25【東京都】──「目黒川を歩く_2」 烏山川_2

 小田急線の高架後から電車を利用した人たちには、現在車窓から見える景色が沿線風景として記憶されるでしょうが、以前の風景が焼き付いた利用者には(ポイントの通過音も変わり)、どこを走っているのかさっぱり分からなくなりました……






 線路の高架に伴い、改札が地下だった地上駅、踏み切りや車両基地も消え、当時の記憶とつながるのは、農大・すずらん通り商店街+裏路地や、美登利寿司(梅丘の「寿司の美登利」とは違うそう)だけとなっては、すっかりお手上げです。
 大学に通う道に利用したすずらん通りにあった、わたしと同姓の豆腐屋も姿を消してしまい、年を数えてみれば「あれから35年」とは……

 上は、旧経堂ジョイフル&経堂アパート跡地に建てられた経堂コルティ。旧施設は10階建てで、1972年建設時はとても高い印象だったが、現在の施設は4階建て。
 小田急による、旧車両基地の住宅建設+本商業施設の複合的な再開発で誕生します。自治体の建築制限とすれば、再訪者に「世田谷らしさは変わらない」印象を与える狙いは成功と言えそうです。

 当時の旧経堂ジョイフル前で、TV『俺たちの旅』出演の金沢碧さん(当時のマドンナ)にサインしてもらった情景がよみがえります!(あれは棄てられません…)
 右は、緑道にある「石仏公園」のかわいらしい石仏。




 境内にある劇場のような土俵では、例大祭に東京農業大学相撲部の奉納相撲が行なわれます(真剣勝負らしい)。江戸三大相撲の中でも、毎年定期的に開催されるのはここだけとのこと。
 地域文化の継承には若い力が必要で、多くの地域が協力者集めに腐心しますから、「援農」として単位を与える制度があれば、地方遠征も可能になるのではないか? 農大の学生にとっては、いい経験になるはずです。
 神社脇の「宮の坂」が、地名「宮坂」、世田谷線「宮の坂駅」の由来。




 近ごろ「開運良縁のパワースポット」として若い女性に人気らしく、ひとりで訪れる方を目にしますが、それを標的とする? 年配の「自称ボランティア」が、カサカサと近寄っていきます(良心的な方だったらゴメンナサイ…)。
 説明に感謝しつつも「ジジイとの出会いを求めて来たんじゃない!」し、ご利益を使い果たしては参拝の意味がありません。
 猫は良縁を招こうとしても、仏様が考え込んでいるのは「坐禅して欲を忘れませんか」ということか?(ここは曹洞宗の禅寺)


 有名になった招き猫(寺では招福猫児:まねぎねこ)は、寺と井伊家(菩提寺とした)の出会いに由来します。
 彦根藩主 井伊直孝が鷹狩の帰りに、寺の飼い猫の手招きに誘われ一休みすると、急な雷雨となり「猫の招きで濡れずに済み、縁起がいい」をきっかけに縁が深まったそうで(桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓もある)、井伊家が城主だった彦根城「ひこにゃん」も仲間らしい。
 以前より猫の数が増えたと感じたのは、祭事の時期による変化のようです。



 室町時代初期(南北朝時代)に、足利氏と同族の吉良氏により築城され、後に北条氏直轄となるも、秀吉の小田原攻めに伴い廃城とされます。吉良氏は「忠臣蔵」の吉良上野介の家系。
 東京において(と断っておきます)吉良・井伊家に対する好感度が低い印象は、名門の家柄に対する江戸庶民の「判官びいき:弱い立場への思い入れ」によるのではないか? われわれが「てやんでぇー!」な江戸っ子を憎めないのは、その心情を理解できる庶民だから? と思ったりします。


追記──天皇の「生前退位」

 「隠居の選択」という「人間性の回復」を求める意思が報じられました。自身の発言前に舞台を整える段取りは、国民に心の準備を促す配慮のようです。
 平成天皇は皇太子時代に戦争を経験しており、自身も責任を感じるためか、昭和天皇の遺志によるためか、戦地への慰霊を繰り返しました。
 すでにドクターストップがかかっているのかも知れませんし、責任感の強い方が体調に自信を持てない状況とすれば、「死ぬまで天皇」を求めるべきではないと思います。
 そんな気持ちを国民に芽生えさせた平成天皇は、着実に皇室のあり方を変革したと言えるのではないか?

2016/07/11

熱中症予防は緑の木陰で──烏山

2016.6.18【東京都】──「目黒川を歩く_1」 烏山川_1

 今回から目黒川水系をたどります。
 目黒川は、池尻大橋付近の烏山川と北沢川(共に暗きょ)合流地点から下流側の名称とされるので(中目黒付近で蛇崩川が流入)、最上流である烏山川水源付近から下ります。



 標高図の色の濃さから、前回の三田周辺との高度差が分かります。




 烏山川の水源は、以前立ち寄った烏山寺町にある高源院(弁天池)とされ、池には流入下水が無いおかげで、湧水や雨水だけの澄んだ水で満たされています。
 寺は、久留米藩 有馬家藩主により品川に建立されますが、震災により荒廃した寺をこの地に移転させたのも、15代当主 有馬頼寧(よりやす:伯爵)とのこと(「なさけありまの水天宮」は健在!)。JRA理事長時代には、出走馬をファン投票で選ぶ「有馬記念」を創設し名を残す方で、一族には直木賞作家や、水天宮の神職を輩出する名家。
 味方かは分からないが、庶民サービスを率先する家柄だったようです。




 熱中症関連で耳にする「暑さに慣れてない体」を慣らそうと挑むも、当初は「クラ〜ッ」とくる瞬間もあるわけで、それを救ってくれたのは以前も訪れた竹林の木陰でした。
 自然との距離感はなるべく近い方がいいと考える、日本人の絶妙なさじ加減を実感します(来る者は拒まず介抱してやる、のようにも……)。
 都心のビル風でひと息つくことと、寺町での深呼吸は別物で、木々がやわらげてくれる空気こそ、熱中症を予防してくれるように感じます。



 施設は、ウテナ本社および創設者 久保政吉旧邸(右)の隣接地を貸借し建てられたもの(1995年開館)。
 自治体側としては、駅・学校や蘆花恒春園にも近い好立地ですし、企業側にも地域貢献としてこの上ない、ベストマッチの印象を受けます。
 この手の施設では「コレクション」として、間口を広げたがるもので、「キネマ旬報バックナンバー揃う(全巻は無理)」は、区内在住の方からの寄付だったりします。ちなみに第一号を刊行したのは、東京高等工業学校(現・東京工業大学)の学生なので目黒区がルーツ。


都営八幡山アパート

 右は付近に健在の都営住宅で、号棟の字体がガキ時分に暮らした公団とそっくりなのが懐かしく……
 現在ランドマークの座は、清掃工場の煙突に奪われるも、環八通り沿いの給水塔も健在です。
 若い時分の、車に乗りたい盛りは車窓からよく目にしたものですが、オートバイを手放してからは都心の幹線道を走ることは皆無となり、散歩でも大通りを避け裏道を歩きたいため、幹線道沿いが弱点と気付かされます。
 久しぶりの「昭和遺産」を懐かしく見上げました。




 明治期の小説家 徳冨蘆花(とくとみろか)の旧宅・耕地・墓地(も残る)を整備したもので、周囲の施設も含め芦花公園(京王線駅名も同じ)と呼ばれます。
 蘆花とは「蘆(あし)の花:紅色」で、目にしたことはあっても、ススキとの違いを意識してないことに気付かされたので、次回はちゃんと観察します。
 右はスズメのお宿のようでいい雰囲気と思うが、以前は田舎だったイメージを払しょくしたいのか、自動車の世田谷ナンバーには自負を持てないようです。
 わたしには、ちょうどいい生活環境の印象があります。



 旧流路は、芦花公園付近から緑道として整備され、岸辺に並んだと思われる並木が残る右写真周辺には、ひと息つける安堵感があります。

 京王線沿線には、父の実家や、通った大学があるため、些細なきっかけから懐かしさがよみがえります。
 大学の野球大会に向け、芦花公園で練習したことを思い出した際、3人しかいない同級生女子全員で試合の応援をしてくれたのに、「少な…」と感じた寂しさがよみがえるのは、当時の素直な印象だったようです……(感謝すべきなのにね)


追悼──アッバス・キアロスタミ(イランの映画監督)

 大好きな監督が亡くなりました。
 人の生き様はまどろっこしく、面倒くさいほど遠回りを強いられ、つづら折れの道を歩くようでも、着実に前進しているはずである、と諭してくれた。
 『友だちのうちはどこ?:1987年』の宿題ノートの押し花が忘れられないのは、間違いをやり直そうとする努力は報われるはず、とのメッセージを応援したいからである。
 1990年の大地震以降も繰り返される地震からの復興や、光が差し始めた欧米との関係修復に注がれる努力が報われることを祈り、『そして人生はつづく:1992年』のでしょう……
 ありがとうございました!

2016/07/04

丘の上が似合う学府──三田

2016.6.11【東京都】──「旧入間川(いりあいがわ)を歩く」

 旧入間川は渋谷川(古川)の下流と並行する流れで、海水の影響を受ける場所柄から、縦横に作られた運河(水路)の、海とつながる幹線だったのではないか?




かんぽ生命東京サービスセンター(旧簡易保険局)

 「かんぽ」にはお世話になるので身近と感じるも、このサービスセンターは敷居が高すぎです。
 ルーツの逓信省(交通・通信・電気を管轄)は、戦後に通信事業だけの官庁となり、1948年二省分離(郵電分離)で郵政省(2001年廃止→日本郵政へ)と電気通信省(1952年日本電信電話公社→1985年NTTへ)に分割され廃止。
 残された、国営銀行(旧貯金局庁舎:現麻布郵便局)、国営生命保険(旧簡易保険局:右)の資産(震災後に移転した建物)は、日本郵政が引き継ぎます。
 サービス低下の迷惑を被ったのは、郵政民営化を急いだ政治家のせいではなく、資産にあぐらをかく体質としたら、利用者が声をあげる必要があります。




 門から結婚披露宴の出席者と思われる一行が出てきます。日立目白クラブ同様、関連社員は利用可能と聞くと、のぞいてみたい気も。
 ジョサイア・コンドルの設計により、三井財閥の迎賓館( 1913年:大正2年竣工)として建てられたが、戦後は米軍オフィサーズ(士官)クラブとされた時期も。
 旧佐土原藩(さどわらはん:現宮﨑県)屋敷跡に建てられたもので、明治期の伯爵を輩出した名家への配慮か、少し前まで佐土原藩藩邸の長屋が保存されていたらしく、名士とされる勢力の変遷を伝えていたようです。




 震災後の復興計画により大使館が転入した1932年(昭和7年)当時の付近は、旧簡易保険局等も受け入れられる、ゆとりを持つ郊外(田舎)だったようです。
 旧公爵邸跡の精神を引き継いだのか、派手さを抑えたイタリアの田舎風というか、日本に配慮した佇まいで、1965年に建てられた施設内部には和風を意識したシックな印象があり、イタリア人のセンスに好感を抱きます。
 敷地内の池は、旧入間川水源の位置としてはピッタリですが、流れを生むほどの水量ではななかったようにも(近くのマンホールから聞こえる流れの音は、一般の下水か?)。



 本学のルーツは、中津藩士 福澤諭吉が藩命により築地鉄砲洲(中央区明石町:聖路加病院近く)の藩屋敷に開校した蘭学塾(1858年:安政5年)で、1868年(慶應4年・明治元年)に年号から名称を定め、1871年(明治4年)に現所在地に移転します。
 三田の丘(三田段丘)に現存する施設としては最古参。キャンパスへの道はどこも坂道と「丘の上:応援歌」で歌い、右の東館アーケード上部には、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を意味するラテン語が記され、門前からも学府(丘の上)への坂道に威厳を感じます。

 丘の下に広がる慶應仲通り商店街の迷宮には、戦後から変わらぬような町並みが残ります。学生街というよりビジネスマンの溜まり場的な印象は、慶応のお坊ちゃま・お嬢ちゃま方は、路地には近寄らないとの思い込みか?
 ですが、週末にリーズナブルな店の前に並ぶ姿は、「社会経験から身につけた嗅覚」に違いありません。

 三田の由来とされる「献上米を作る屯田:みた」「伊勢神宮または御田八幡神社の神田:みた」は、一ノ橋方面にあったのではないか? 付近の水田地帯は潮の影響を受けるため、いい米は上流側で作られたように思えます。


Topが腐った企業の方程式?


 以前よく耳にした「腐ったミカンの方程式:金八先生」の表現には、箱の底でつぶされたミカンが腐り始め、それが周囲に広がるイメージを持っていたが、そもそもTopが腐っていたら下のミカンは「君たちも腐るのだ!」と、強要されるようでおそろしくなります。
 近所で「ゲスな会社:こんな使い方にはピッタリ」を目にするのは(三菱自動車はアパートの並び、東芝は第一京浜から見える)気分がいいものではありません。
 それでも、「浦和レッズ問題」は何とかしないと(三菱が日産の子会社になると、マリノスとレッズが同じ会社のチームとなり、Jリーグ規定に抵触する)、一帯がレッズサポーターに取り囲まれそうです。
 他にも、軽自動車S社のラジオCMで、アイドルたちが燃費の優位性を強調させられる様には、言わされる側の気持ちを察してしまう……


芝浦にあった海水浴場

 明治期の付近には、病気療養、健康増進の目的で開設された海水浴場がありました。
 波の穏やかな付近は、江戸期から観月の景勝地(海に映る月を楽しむ)でしたが、1872年(明治5年)防波堤上の鉄道敷設を契機に、埋め立てが本格的に始まります。
 手前のツインタワーは、1991年建設のシーバンス、右端は東芝ビルディング。
 不正会計問題後、白物家電を手放しても『サザエさん』は継続らしいが、アニメの主人公がスポンサーによるイメージ低下を不安視するって、なかなかありません……


 渋谷川(古川)と田町間には、現在も整然とした町並み(格子状)や、あぜ道 or 水路跡のように見える場所が残るので、ルーツをひも解くヒントを得た気がします。
 今回の旧入間川は、一話で完結です。


追記──新おがさわら丸 就航!(リンク先はPDF)

 本土(竹芝桟橋)と小笠原諸島 父島を結ぶ船旅が、片道1時間30分短縮され「24時間」となり、小笠原村村長は「短くなった1時間30分をどう使うか。その余裕ができることで、小笠原にやってくる関東圏中心の観光客層が、さらに中京圏や関西圏にも広がることを期待する」と語るが、「行くぞ!」と決心する側にとって1時間30分は誤差範囲ではないか?
 「日本一贅沢な船旅」とされる、島影も見えない「孤高な船旅」を味わえるが、3食同じ食堂で、同じオヤジ(乗組員が兼務のため仕方ない)の顔を見て食べる状況から逃げられないことに、息が詰まった印象が残ります(もちろん、帰りも同じ顔……)。
 それだけの時間をかけても、訪れる価値のある島であるとの応援は続けますが、島に暮らす大学の同級生には申し訳ないが、もう「行くぞ!」の気力は無さそうです……