2015/02/16

水の道、人の道──下高井戸〜代田橋

2015.1.31【東京都】──「神田川を歩く_6」




下高井戸─甲州街道北側の寺町

 学生時代に迷惑をおかけした下高井戸での生活圏は世田谷区内に限られ、甲州街道(杉並区との区界)が北限でした。
 街道を渡った先に並行する玉川上水跡には、公園・遊歩道が整備されています。
 その地に立つと北側は神田川へ、南側もなだらかに下る尾根筋であることに気付きます。
 遠くを目指す使命を受けた、水の道(旧玉川上水)や人の道(甲州街道)を尾根筋に設置したのは、「位置(高さ)エネルギー」を有効利用するためで、自然と付き合いながら町・国づくりを進めた様子が感じ取れます。


 甲州街道北側にある寺町を総じて「永福の寺町」と呼ぶのは、室町時代創建の永福寺によるようです。
 付近の寺院は明治~昭和期に、東京市内の区画整理や関東大震災の被災後に移転したため、街道筋に発展した寺町という歴史を持ちません(永福寺は別の機会に)。
 
 上の栖岸(せいがん)院の出自は三河国(現安城市)のため、江戸幕府から格別の扱いを受けたらしい。
 右は永昌寺の閉ざされた門からのぞいた絵。


明治大学和泉キャンパス~明大前駅


 明治大学和泉キャンパス(上)付近には、以前陸軍の火薬庫(江戸時代の弾薬貯蔵庫)があり、隣接の築地本願寺和田堀廟所と同様、関東大震災後に建設されます。
 墓地に眠る、佐藤栄作、樋口一葉、古賀政男等々の著名人が、火薬庫跡の土地の霊をなだめてくれそうですが、当時、明大前の駅名は「火薬庫前」だったとのこと……

 右は以前、明治大学門前を流れる玉川上水に架けられた橋の欄干ですが、火薬庫への橋だったのか?

 明大前駅周辺は、明大側の一画だけ整備されますが、京王線沿線らしく町並みに息づく「庶民力」は健在のため、再開発には難儀しそうです。
 大変身の際には、下北沢的な覚悟が必要となりそうですが(その様子は未見)、下北沢と並ぶ急行停車・乗り換え駅周辺は結構地味だったりします。
 右は京王線ホーム下の井の頭(いのかしら)線跨線橋で、明大前の町にはこんな下町的な印象があります。


和泉給水所タンク


 東京の上水道は明治期まで、玉川上水等の河川水を分配するだけの不衛生なものでしたが、現都庁周辺に建設された淀橋浄水場(1898年:明治31年)稼働に伴い、上の和泉給水所タンク付近には玉川上水から浄水場へ送水する施設がありました。
 その後の人口急増から水道需要が高まり、境浄水場(武蔵野市)が建設され、和田堀給水所(下)への水道管が敷設され(上写真手前を通る井の頭通りの地下)、付近で新旧水路(東西の玉川上水と南北の水道管)が交差しました。
 この地が「水の道が交差する要衝」とされたのは、都心部を見下ろす配水に適した高台のためではないか?(父方の伯母から「見晴らしの良さ」を聞いた覚えがある)


和田堀給水所

 関東大震災後(1924年:大正13年)の建設で、レトロな建築物でしたが強度不足等の理由から立て替えが始まり、「山のようだった」貯水槽は取り壊されました(東村山浄水場、境浄水場および三郷浄水場からの送水を受け、世田谷区、渋谷区、目黒区、港区に配水する施設)。
 ここは父の実家に近いため、ガキ時分に花見の季節だったか中に入ったことがあり、「遊べる!」と感じた事を覚えています。
 当たり前の景色だったので、記録しようと考えなかったことを悔やむも、ふるさとの記憶はおぼろげに残っていればいいのかも知れません……(工事用フェンスで思うように撮れなかった)


追記──JR東日本 ウルトラマン スタンプラリー

 現在、首都圏のJR各駅で行なわれ、田町駅にはカネゴンのパネルがあるので押してみたら、登場話をイメージした絵柄にガッカリ(これは『ウルトラQ』の話で、列車は小田急のロマンスカーらしい)。
 浜松町駅ホームの小便小僧もウルトラマンの衣装で盛り上げるも、春休みのイベントにした方がいいのでは?

2015/02/09

土地が歴史を生む──高井戸〜下高井戸

2015.1.24【東京都】──「神田川を歩く_5」




高井戸


 奥は高井戸のランドマークとされる杉並清掃工場の煙突ですが、環状八号線の反対側に偽装農地の代名詞とされる「栗畑」(手の掛からない農地で、売り時を探れる)が広がるとは知りませんでした。
 旬の季節には、敷地内にある「くりのないとう」店頭に行列ができるとのことで、失礼なことを……(リンク先の栗は立派でおいしそう)
 周囲には、土地の切り売りで建てたと思われる住宅街やマンション、温浴施設+フィットネス+スイミングスクール、高井戸小学校(寄付ではないにせよ)等々が隣接しており、所有地はどこまで広がっていたのか? というサイズ感です。


 上は、井の頭(いのかしら)線の車窓から見える「東京ゴルフ専門学校」で、のぞいてみればガキが遊ぶような声が聞こえます。
 なるほど! ガキ時分から英才教育で、将来の石川遼、松山秀樹を目指す夢はチャレンジの価値ありそうですし、子どもに期待しちゃう親の気持ちも理解できます。
 隣接のゴルフ練習所が親会社で、代表者は内藤性ですから、一族の所有地はまだまだ続きそうです……(清掃工場の敷地も含まれたのでしょう)


 神田川は高井戸付近から蛇行を始めるため、川岸に狭いながらも平坦地が生まれます。
 以前は、水田に利用されたであろう川岸の土地は、現在グラウンドやテニスコートとして整備されます。
 近ごろの錦織フィーバーにより、これまで何度かあったテニスブームで踊った人々が、テニスコートに戻ったとの話しをよく耳にします。
 テニスに縁のないわたしも、ライバル選手の名前覚えるのですから、すごい事です……(記憶にあるのは、ボルグ、マッケンロー程度)


浜田山

 高台にある雑木林が気になり足を運ぶと、「三井の森」の看板があります。
 以前付近にあった、三井上高井戸運動場を宅地開発した「パークシティ浜田山」の残骸のようです。
 宅地は、残された森、右のケヤキ並木と下の柏の宮公園に囲まれた立地で、緑に囲まれた環境は演出だけでなく、静かで暮らしやすそうに見えます。

 浜田山の地名は、旧内藤新宿(江戸時代新宿三丁目付近にあった甲州街道の宿場で、元は信濃国高遠藩 内藤家所有地のため名が残る)の商人、浜田屋の所有地によると知り、上の栗畑はその内藤家とつながるのか? とも……



塚山公園

 右は、縄文時代の竪穴式住居のレプリカ(モルタル製)ですが、立ち止まるきっかけとなった Good Job!
 以前石神井川沿いで奈良時代の遺跡を見かけましたが、神田川沿いには縄文時代の遺跡が多いらしく、三鷹市には「縄文の川 神田川」という展示施設があります。
 公園脇には旧鎌倉街道も通っており、並べると、縄文・奈良・鎌倉・江戸から現代まで、狩猟(江戸まで)や植林栽培(木の実など)に適した地域だったようです。
 点や線でなく面の視点を目指す中で、「歴史は土地に育まれる」痕跡に触れられた気がしました。


下高井戸(杉並区)

 神田川沿いにある下高井戸八幡神社(上)に接し、下高井戸は杉並区の地名であることを思い出します。
 通った大学最寄りの京王線下高井戸駅(世田谷区松原)、大学(世田谷区桜上水)や、借りたアパート(世田谷区赤堤)等の印象から、勝手に「下高井戸=世田谷区」の認識がありました。
 甲州街道(区界)を越えた杉並区下高井戸を歩いてみると、勝手な思い込みの無礼からか、居心地の悪さを感じたりしますが、青かった学生時代の思い出は「下高井戸=世田谷区」としてこれからも残り続けます……


追記──地域限定の報告

●下高井戸(世田谷区)通信
 DEN、東秀は消滅。マクドナルドはバーガーキングに。
 下高井戸シネマは健在。松沢小学校は明るくモダンになりました。

●桜上水通信
 桜上水団地(←懐かしい!)は「桜上水ガーデンズ」へと生まれ変わるため、旧グラウンド沿いの道まで閉鎖して高層住宅を建設中(便利な場所なので人気ありそう)。
 桜上水駅の改札は地下から橋上駅舎(2008年)となりました。
 進京亭(ラーメン屋:太いブリブリの自家製卵入り麺)は健在ですが、臨時休業でありつけず…… 再挑戦します!

2015/02/02

欲が消えていく……──烏山寺町

2015.1.17【東京都】──「神田川を歩く_4」



烏山寺町

 前回、國學院久我山付近の看板地図で「烏山寺町」が近いことに気付き、以前久我山在住の方に薦められたことを思い出し、ちょっと寄り道です。
 何で久我山の人が烏山を知っているの? と思ったが、住所は北烏山でも久我山駅の方が近い隣町だからのようです(この日は千歳烏山→久我山へ)。
 千歳烏山は学生時代以来と思いますが、わたしが幼少時分の家族は駅前の借家で暮らしたと聞いており、記憶はなくても親近感を覚える土地だったりします。


 寺町の誕生は関東大震災で被災後の移転とされますが、すでに東京市内の都市整備計画で墓地の郊外移転が決まっていたそうで、現在も26の仏教寺院が立ち並びます。
 上は多聞院の釈迦の足跡で、これで両足分らしい。

 右の玄照寺は絵として京都に負けてないと思いますが、勝てるとすれば「人の少ない静寂さ」になりそうです。
 それゆえ落ち着く枯れたたたずまいでは、時の流れがまどろむため「欲が消えていく」(この瞬間だけで十分)心境を経験することができます。
 魂を持っていかれそう……


 上は、200体あるとされる常福寺のタヌキ。その説明はありませんが、ゴルフクラブやサッカーボールを持つなど、分かりやすい願いだったりします。
 そんな姿から、京都の愛宕(おたぎ)念仏寺(こちらは石仏)を想起したように、思いを込めやすい造形物が作られたのではないか?
 願いを込めるのはタヌキでもかまわないはずです。


 寺町の寺院は、石神井川沿いに点在する真言宗寺院(空海の教え)のように地域に根付いたものでなく、移転希望寺の集まりなので宗派は様々ながらも、伝えんとする世界観に接していると、こころ穏やかになる変化を自覚できるようになります。
 そのこころは?「共鳴」であると感じました。
 善し悪しではなく、響き合えるか? ではないかと。

 歩を進めるごとに、上空の風音(北風が強く寒い日だった)と、カラスの鳴き声しか聞こえない「彼岸のふち?」に近づけるような印象も……(上は宗福寺)

 烏山の由来は、烏が群生する森、烏色(養分の乏しい黒土)の山があった、などとされる。(右は妙寿寺)




 広大な敷地を持つ妙寿寺の客殿(上)は、蓮池藩鍋島家(佐賀藩)屋敷(飯倉狸穴(まみあな)町所在)を移設したもので、敷地内で存在感を示します。
 この日のように参拝者もおらずひっそりとした中で、静かに内部を見せてもらえるとうれしいのですが……(世田谷区指定有形文化財)
 

 上は高源院の弁天池で、マガモが飛来することから「鴨池」とされ寺町のシンボル的な存在でしたが、いまではその姿は見られません。
 この池は目黒川支流(烏山川)源泉のひとつとされ、井の頭(いのかしら)池の水位と同様の変化をすることから、地下水脈が同じ面ではないかとされました。
 分水嶺付近を通る玉川上水に近い尾根筋にあたるので、可能性はあったかも知れません。


 久我山に住んでいた方とは、一昨年秋に亡くなった元同僚(同い年)で、わたしの趣味に合いそうと紹介してくれた心情をようやく理解できました。
 遅くなりましたが、彼に導かれたことに感謝し、こころ穏やかになる烏山寺町の記憶を、故 田波健一氏に捧ぐ。


追記──「ポール、“リベンジ”来日公演決定!」

 そんなメールが届きましたが、どうも熱くなるものがありません。
 わたしの中では、昨年の全公演中止で燃え尽きてしまったようです……


追記──祝 伊良部大橋開通!

 沖縄 宮古島〜伊良部島を結ぶ、全長3540mの橋が完成しました(通行無料)。
 池間大橋、来間大橋に続く架橋プロジェクトで、これで宮古島周辺の主な島々は橋で結ばれました。
 本島(屋我地島:やがじしま)と橋で結ばれ、人の出入りが盛んになった古宇利島のように活気づきますよう。
 沖縄から届いた久しぶりのラブレターを目にし、是非行かねば! と……

2015/01/26

まるっと残る旧軍用地──久我山〜高井戸

2015.1.11【東京都】──「神田川を歩く_3」



國學院久我山


 久我山といえば國學院久我山と、玉川上水の先まで足を伸ばします。
 全国大会常連の部活動が多いため報告の横断幕も慣れたもので、先頭の「全国大会出場」が1枚で、後ろに出場する各部の幕が付け加えられていきます。
 本学は、隣接する岩崎通信機(株)が設立した「岩崎学園」をルーツとし、戦後に國學院大学と合併後は中高一貫校(男女別学:男子部・女子部に分かれる)となり、進学校として評価されます。
 スポーツで名を広める進学校とは、まさに理想的です。 下校時の姿は可愛いものですが……

 右は、すぐ左に建物があるため道路側に伸びた枝を、丸く刈った木。


井の頭(いのかしら)線車両基地付近

 右は、久我山〜富士見ヶ丘駅間にある井の頭線車両基地対岸の川岸で、神田川が水源地の吉祥寺から駅3つの間に削り込んだ高度差の様子。
 武蔵野台地上の軟弱な関東ローム層を浸食したため、付近では農業用水に利用できなかったのではないか。
 川の北側には吉祥寺周辺でも目にした、短冊状の区割りが見られ計画的に開拓されたようですが、南側(國學院側)にその痕跡が無いのは、玉川上水開設以来、早くから農耕が盛んだった名残りと思われます。

 上の、井の頭線車両基地で「パステルカラーの車両」を撮ろうとしたのに、何で同じ色が並ぶかなぁ〜。
 現在のカラーバリエーションは、7色のレインボーカラーとのこと。
 ガキ時分に電車を待つ際「次の電車の色は?」と、色当てごっこをしましたし、そんな親近感を現在も持ちますから、カラフルさが好印象を与える成功例と言えそうです。


「高井戸公園」整備計画地


 現在まで残される広大なグラウンド群(旧NHK富士見ヶ丘運動場、王子製紙グラウンド、印刷局久我山運動場(上))は、一見して旧軍用地の払い下げと見てとれます。
 そこには「この姿のまま残すよう:バラ売りするな」の条項があったのではないか? と思うほど、見事に広大な土地が維持されています。
 終戦間際のこの地には、米軍機B-29迎撃用の高射砲が2門(だけ?)設置されました(久我山陣地)。
 当時の三鷹市方面は、中島飛行機(エンジン工場)などがある要所でしたが、時すでに遅しで、間もなく終戦となります(隣接の岩崎通信機も攻撃対象だったのでは?)。


 その一帯を、まるっと『高井戸公園(pdf)』とする整備計画は、付近の道路整備計画を抱え込んで動き出します。
 便乗するのは、隣接する玉川上水沿いに「放射第5号線」を建設するものと、中央自動車道が開通し首都高速道路と接続(1976年)当時から、地元の反対により着工できなかった「高井戸IC下り線入口」建設です。
 反対理由とされた高速道に面する富士見丘小学校の移転話の浮上から、転がり始めます。
 大気汚染が深刻な当時は「交通量が増えるのは困る!」でしたが、周辺の慢性的渋滞による不便さや、排気ガス規制強化等により、意識が変わったのかも知れません。
 整備後はかなり広い公園になりそうですが、隣接の畑(上)も飲み込まれてしまいそうです……

 右は、付近(中央自動車道との合流地点:浅間橋)から暗きょとされる玉川上水。


追記──やはりタイトルのリンク先を指定できなくなったらしい……

 前回は、自分のミスかと思いましたが、やはり機能としてNGになったようです。
 確かにわたしのリンクの使い方は一般的なブログとは違いますが、別ページへのリンクを許さないというのは、自由度が低すぎます。
 もう、いい加減に考え時と思えてきました……

2015/01/19

2つの水路──井の頭公園〜久我山

2015.1.3【東京都】──「神田川を歩く_2」



井の頭(いのかしら)公園駅


 TVドラマ『俺たちの旅(YouTube):1975〜76年』では、この駅に降り立つ人がその回の中心人物となる設定がよくあり、八千草薫さんの登場が楽しみだった事を思い出します。
 動画との違いをどう表現しようか考えたが、こんな絵でスミマセン。登場時は必ず吉祥寺行きの下りホームなのは、「こんな東京の外れで…」的な演出だったのでしょう。
 「井の頭公園駅=俺たちの旅」のイメージが染み込んでおり、久しぶりの訪問では、通った大学の最寄り駅に降り立つ懐かしさに似た感慨がありました。


 上は、駅のすぐ脇で神田川をまたぐ鉄橋で、以前アーチ型だった橋脚の補強として、空洞部分に詰め物をした様子。
 これでも以前の記憶をたどれますから、架け替えられるよりはまし、というところか?
 開通時の構造物とすると80歳を超えます。


 井の頭池の水辺では遊べませんが、池から流れ出した水路は格好の遊び場で、寒い中でも子供たちが流れの中に目を凝らしています。
 神田川に面した通称「三角広場」付近ではペット連れが目につきますが、付近に来るとリードを手放す人が多いのは、三角広場流?(ペット連れ可の店があるらしい)
 広場には以前、井の頭線の車両基地があったような場所柄・形状に見えます。


牟礼(むれ)〜三鷹台駅

 三鷹台という地名はなく、井の頭線三鷹台駅(三鷹市井の頭)や高台に作られた三鷹台団地(三鷹市牟礼)は、急速に都市化が進んだ時代の、三鷹市のイメージ戦略らしい(確かに「牟礼」では地味な気もする)。
 昭和30年代の牟礼団地(全国で2番目)建設以降、人口急増への対応でインフラ整備が加速され、全国で最初に「公共下水道普及率100%」を達成します(1973年)。
 大学時代に世田谷区内で借りたアパートでは、汲取式トイレ(2階から「ポッチャン」)が現役で、それを見た三鷹に暮らす同級生に自慢されましたっけ……

 都市化以前は農地が広がっており、付近で多々見かける水路跡には、玉川上水の恩恵を受け豊かだった様子がうかがえます。
 上は、丘の上に築かれた歴史を感じる豪農(の表現が浮かんだ)屋敷の、玄関先に並ぶ大木。
 右は、上の豪農に提供されたと思われる牟礼の里公園(一部に小学校が利用する農地もある)。
 水利により得た豊かさを「地元還元」する様子には、そんなことでは揺るがない、余裕すら感じられます(車の出入口を、公園の入口と間違えて入っちゃいました…)。


玉川上水

 水源地(井の頭池)をわき出た水は低地へ向かうため、河川の場所(神田川)は周辺の谷底にあたり、海(流れ込む隅田川)までの標高の低い地点を結ぶ最短の線と言えます。  一方、江戸時代に建設された玉川上水は、多摩川の水を市中の飲料水として運ぶため、取水口(羽村)〜目的地(四谷大木戸:新宿御苑の東端)間の最も標高の高い地点を結ぶ分水嶺(れい)付近を通されました。
 性格の異なる2つの水路(谷底と分水嶺)が、井の頭公園付近で直線距離300m、高度差10m程度に近接しています。
 これは、井の頭池水源の地下水脈が浅い場所にあることを意味し、大きな建造物を建てたら地下水脈はひとたまりもない、ことを示しています。
 土地の開墾に水が渇望された江戸時代は、玉川上水から周辺への供給にも、武蔵野台地の「分水嶺」を考慮した水路建設など知恵を働かせましたが、現在は、土地としか見てない連中に踏み荒らされてしまいました……

 玉川上水には、流量が多かった時分の橋が残されています(右)。とうとうと水が流れた往時への思いは、太宰治が最期に選んだ流れを想起させます……


久我山稲荷神社

 鳥居前の道路も泥だらけなのは? と、階段を上がると、右の「茅の輪:ちのわ」を回る際に、石畳脇の湿った土の上を歩くためのようです。
 靴を泥だらけにすることが「お祓い」の証となるの? と実践してみると、神社の外まで足跡が残る様は、ご利益がまだ続いているようで、結構気分良かったりします……

 古くから久我山村の鎮守様で続く行事こそ本来の姿で、高級住宅地のイメージは最近のモノと感じさせてくれる異空間でした……


追記──阪神淡路大震災 20年(2015年1月17日)

 あのショックから、もう20年とは……
 1995年1月初めから『ニューズウィーク日本版』に勤務し始め、大震災の取材にも編集部内には地震についての知識を持つ人がおらず、新参者ながら編集会議でレクチャーしたことを思い出します。
 また、地震・地質屋(わたし)と、土木・建築屋(中学の同級生)は、互いに刺激し合う「車の両輪」のような立場であるも、双方とも「根底から引っ繰り返された!」の衝撃を受けたと、嘆き合った事も忘れられません。
 あの「衝撃的な出来事」を知らない若者がこれからも増えますから、戦争体験を伝える大切さのように、震災について自分なりの記憶を整理しておくべきと感じ始めました。
 「がんばろうKOBE」のユニフォーム姿でイチローが優勝してから20年になります……

2015/01/12

住民自慢の森──井の頭公園

2014.12.27【東京都】──「神田川を歩く_1」

 若い時分、井の頭(いのかしら:学生時代地方出身の同級生に読めないと言われた記憶が残ります)公園にはあこがれ的なイメージがありましたが、ようやく周辺環境・地域文化アピールの場であると、理解できるようになりました。




井の頭自然文化園

 入園の際「アジアゾウ『はな子』の公開は15時で終了します」の案内は、高齢による健康を気遣うためですが、エサを口まで運べてないように見えました。
 思い入れのある方は、早めに会いに行かれますよう(2月1日「はな子68歳のお祝い会」があります)。
 1947年タイ生まれ。49年に戦後初めて来日したゾウで、戦争中に餓死させられたゾウ「花子」の名前を継ぎ、現在日本では最長寿とのこと。
 右は室内(頑丈な鉄格子の中)にいる、はな子の耳。

 元は井の頭御殿山御料地(皇室財産)で、1905年(明治38年)渋沢栄一が東京市養育院感化部(非行少年収容施設)を開設し、その跡地に設置された「中之島小動物園」が、井の頭自然文化園のルーツになります(その経緯から一帯は恩賜(おんし:天皇から賜った)公園とされる)。
 青少年教育を目指す取り組みが、地域の進むべき道を示した好例と言えそうです。

 右は「リスの小径:檻の中を歩ける施設」で、それぞれの動物たちとのふさわしい接し方が用意できれば、パンダがいなくても楽しめるはず、と……


 動物園とせず文化園とするのは、一画の彫刻園に北村西望(せいぼう:長崎平和祈念像の作者)の展示館と旧アトリエがあるためのようです。
 公園の土地を借り建設したアトリエで、5年かけて長崎平和祈念像を製作したそう。
 彼の作品には独特の暖かみが感じられるので、初見の飛鳥山公園平和の女神像でも、あの作者と「ピンッ!」と伝わってきました。
 アトリエには上のような、切り出した板を鎹(かすがい)で止めた、板の貼り絵(?)が並んでいますが、大作製作の合間に作られたものか?
 これまで見過ごしたため初めてですが、動物園よりこちらのファンに……


井の頭恩賜公園

 様々な公園を歩いてみると、人工的に整備された施設と、可能な限り手を加えない「ありがたさ」を感じる公園の違いが、見えてくる気がします。
 付近にあるジブリ美術館の冠「三鷹の森」は、この公園そのものですから、地域住民の自慢に違いありません。
 武蔵野地区屈指の繁華街吉祥寺近くに、これだけの森と公園施設が維持されていれば、住みたい町ランキングで人気が高いことも納得ですし、町づくりの方針が正しかったと言えそうです(武蔵野市・三鷹市にまたがる)。
 歩くたび新たな魅力に出会える印象は、水辺が映す季節感によるものか……


 ここからようやく本題「神田川」のスタートです。
 上は源泉のひとつとされる「お茶の水」で、この水で徳川家康が茶を点てたことから、3代将軍家光が「井の頭」と命名したらしい。
 しかし現状は「目の前のマンション建設で水脈が枯れてしまい、以来水道水を流してる」と、そのレクチャーが日課のような近所のオヤジが解説してくれます。
 池を横断する橋は「七井橋(なないばし:下)」とされるように、以前は複数あったわき水も現在ほとんど涸れてしまい、池の水は井戸水で補給しているとのこと。
 環境回復は無理でも、わき水も地下水ですから現状で可能な手当はできているとも……


 2014年1月に、池の水を抜いて底を天日干しする「かいぼり」が行なわれ、期待にたがわぬ大モノが続々あげられたそうです(自転車ばかりかオートバイも…)。
 花見の季節にはたががゆるみ、花見名所では気持ちも満開になりがちですが、無礼講(何をやっても許される)ではないことを肝に銘じましょうね!

 以前、七井橋の中央部は階段でしたが、バリアフリー化により外観も変わりました。


駅前バス通り


 東京の西側で生活する者は、駅前の狭い道で「こんな道をバスが通るのか」の様を、「吉祥寺みたい!」と表現しますよね? 上は、その光景は変わらないという絵。
 道幅は狭くないが人が多いため、誘導員が人の流れを制御する必要があります。
 これは悪口ではなく、バスと歩行者がお互いを尊重し、折り合いを付けて共存する「町の風景」の表現で、雑多ながら住みやすそうな町、の印象によるものです。
 ちなみに、駅周辺は慢性的な渋滞のため地元の人々は、ひとつ手前のバス停で降り歩いて駅に向かいます。それが吉祥寺流。

 オヤジとしても楽しめたのでまた行こうと思うも、ここは結構遠いことを初めて実感しました……


追記──祝復活『ブラタモリ』!

 2012年の放送終了時点で東京を歩き尽くした感があり、「『笑っていいとも』が続く限り地方ロケは無理だが、希望としてはぜひ京都を!」の願いが通じ、スペシャル番組『ブラタモリ 〜京都〜』が放映されました。
 京都にもいる、地元をアピールしたい郷土研究家(オタクっぽい人々)を「乗せる」タモリが見事で、教養と共に楽しめました(テレビ朝日『タモリ倶楽部』の手法ながら「NHKさんなら…」と重い扉を開かせる様が実に痛快!)。2015年4月レギュラー番組開始予定。
 今回道連れの首藤奈知子さんは、仕切ろうとし過ぎ(まじめ)で、ライブ感を伝えたいタモリとはかみ合っていない様子。
 やはり、仕切ろうとして「ボケる」久保田祐佳ちゃんの「天然ぶり」がベストマッチ!
 そんな散策を目指しても無理なので、こちらはボチボチ歩きます……


おまけ──成人の日(1月12日)at ホテルニューオータニ


 千代田区「成人の日のつどい」が行われたホテルニューオータニでは、自治体の催しだけでなく短大等の催しも開かれ(短大卒業時はちょうど成人の年齢)、百花繚乱(りょうらん)お花畑のようでした。
 ですが、阪神淡路大震災の年生まれの彼女たちは、大災害の様子を知りません。当時覚えた衝撃を「大災害を知らない大人たち」に伝えねばならない立場となりました。

 世界中でフランスでのテロに抗議するデモが行われた日に、着飾ってお祝いできるのはこの国らしいが(中止もできないし)、思い出の片隅に刻まれれば、国の将来も少しは明るくなる? と思うのですが……

 右は、出合い頭の衝突のように出会った笑顔ですが、暗い場所だったのが残念。

2015/01/05

懐かしのジョージタウン──吉祥寺

2014.12.23【東京都】──「神田川を歩く_序」

 今回から、隅田川に流れ込む川(水系)第2弾として、神田川を歩くつもりで吉祥寺に降り立つも、「青かった時代」の痕跡を確認しようと、水源地「井の頭(いのかしら)公園」とは反対側の繁華街を歩きました。




吉祥寺

 江戸時代の周辺は、幕府の萱場(かやば:茅の茂る地=荒れ地)でしたが、江戸市中の大火で焼けだされた現 本郷、水道橋周辺住民の移転先として開拓されます。
 縁深い吉祥寺が駒込に移転し、寺と離れる無念さから移転先に寺の地名を残します(寺は無い)。

 玉川上水が開通するも、水田にできない土地柄のため、現在も残る短冊形の区割りには畑が広がりました。
 後年、関東大震災(1923年:大正12年)の被災者や、成蹊学園、東京女子大学が移転(1924年)した時代から宅地化が始まります。

 町に根付くサブカルチャーは、戦前(1937年)前進座(YouTube)(歌舞伎劇団)の進出で芽吹き、様々な大学の移転等で広まったとされます。
 中央線沿線のヒッピー的カルチャーは、関東大震災以降の地方出身者が壊滅した下町を避け山の手に向い、歴史の浅い地域で新しい庶民文化を構築する際の、すき間に入り込み定着したのではないか?
 伝統文化やしがらみも無く自由に活動できる地域でしたが、傍流とされる状況に異を唱えたかったのかも知れません。
 そんな心情をドラマとしたのが『俺たちの旅(YouTube):1975〜76年』で、「落ちこぼれ」でも輝ける姿に、あこがれや勇気を与えてもらいました……


 1枚目:ハモニカ横町の店舗はどこもいい雰囲気。「さとう」のメンチカツの行列は相変わらずも、付近のたい焼き屋に全部行列ができているのは、ブームなのか?
 2枚目:以前よく行ったジャズバー「Funky:パルコ裏」は健在でした。マスターがやかましかった印象があるも、それが長寿の秘訣か?
 3枚目:名物の焼き鳥「いせや」はビルになっても、道沿いの立ち飲みスペースは健在。
 以上、夜の部は昼間から暗い、というレポートでした。

 ほんの数十m程度の路地を「プチロード」と命名した気概が現在も感じられるのは、各店舗の努力や店舗を選択するプロデュース力によるのでしょう。
 前回訪問時、店のオムライスを「吉祥寺らしい大人の味」と感じたように、こころざしが町を育てています。
 ──儲けなければ淘汰されるとおびえる六本木の連中とは、人種も、精神も、仕事も、明らかに違います!(新しい店に入る度に「ひどいね↓」という町で働いています)


 駅前のアーケード街「サンロード」沿いの、四軒寺(しけんでら:4軒の寺が集まる寺町)はいまも健在。
 と言うか、繁華街は寺の借地で吉祥寺の大地主とは驚きました(右はサンロードに面した月窓寺)。

 吉祥寺と言えば「ホープ軒」という世代で、タイミングよく空席があり入りました。「ギトギト系」の印象(で敬遠気味)も、ルーツはあっさり目でおいしゅうございました。

 閉店後のアーケード入口に出店するおでん屋台に、わざわざ飲みにいったこと思い出しました。言い出しっぺの職場の先輩も『俺たちの旅』かぶれだったようです……

 学生時代、成蹊学園のけやき並木付近(右)にある先輩のアパートで、8mm映画の撮影をしたことを思い出しますが、1度で霧散するようなガキの戯れでした……(無念)

 マイナー映画の拠点、吉祥寺バウスシアター閉鎖(2014年)を目にしますが、かつて武蔵野の希望を喚起した「伊勢丹:1971〜2010年」「近鉄(東京近鉄百貨店):1974〜2001年」閉店は、地域に暗い影を落としたことでしょう。
 ですが現在、東急裏に若者向けブランドショップが軒を連ね、若者の町への転身という希望が感じられます。

 京王の駅ビル改築(2014年開業)に伴い、駅の横断通路が真っすぐに広くなり便利になりましたし、パァーッと明るい印象を受けました!(これが一番驚いた)

 2013年、イギリス王室ウィリアム王子夫妻の長男が「ジョージ」と命名され、中原理恵『懐かしのジョージタウン(YouTube):1980年』が注目されたらしいが、地元では「ジョージタウンなんて聞いたことない!」の声が多かったそう。
 改めて聞いてみると、70〜80年代にこの地で青春期を過ごした者には響く歌詞なので、タイトルとしました。

 そんなことを一度まとめておきたかった、吉祥寺です。


追記──第91回箱根駅伝 復路 2015.01.03(右)

 青山学院がぶっちぎりのため、待てどやってこない後続ランナーに「来るんだよね?」の声も聞こえるような、応援に力を入れにくいレース展開でした……
 青山学院の選手たちは見事でした!