2015/09/28

ジジイがカッコイイ!──根津神社例大祭

2015.9.19【東京都】──「神田川を歩く_36」

 旧谷田川旧藍染川と呼ばれる付近(現在暗きょ)で、根津神社例大祭に遭遇します。
 神輿を担ぐ原動力となる、沿道の人々が作業の手や足を止めて注目する視線が、担ぎ手を「熱くさせる:木を登らせる?」様子が見て取れました。





根津神社例大祭


 2人連れのジジイがカッコイイ! 目指す「粋」とはこんな姿か?
 旦那衆のゆとりあるまなざしが、同伴のビシッと着物で決めたどこぞの女将(?)の心をつかむのでしょう。
 右の「祭」を背負うのが親分格で、「千駄木」を背負う左は取り巻きのように見えますが、幼なじみ的な「マブダチ」としたら、男にとって最高の「ツレ」ではないか?
 男のかっこ良さとは、包み込むような「懐の深さ」がジワッとにじみ出す、貫禄や存在感に違いない! いまからそんなジジイを目指しても、間に合いそうにありません……
 根津神社は1900年前、日本武尊(ヤマトタケル)が建立したと伝わる古い神社で、明治維新で明治天皇が東京に移った際、国家安泰を祈願したとされます。
 境内にはツツジの名所があるなど、格式は高そうでも敷居の低い印象があり、馴染みやすい社と感じます。

 祭のファッションが、男「祭」、女「花と蝶(帯)」など、纏う物が違う時代は役割も明快でしたが、「祭の血が騒ぐ」女性陣は「華神輿(女神輿)」を担ぎ町内を練り歩きます。
 近ごろの子ども神輿の「ファミリーで参加を!」には、若い担い手を確保したい営業的な姿勢が感じられますし、肩で風を切るばかりではいられない現実があるようです。

 秋祭の浴衣は黒地が決まりなの? 夏祭とは別に用意するとしたら、それこそ粋な下町娘と……

 祭では、文京区指定無形民俗文化財「三座ノ舞」が奉納されます(右は「天祖降臨」)。
 内容を理解できないわたしは外国人旅行者同様、踊りに対する表面的な拍手しか送れません。
 実家近所の小規模な神社には、神楽殿の代わりに体育館の舞台のような、イベントスペースがあります。
 そんな施設なら格式を問わず、子どもたちの出し物なども披露できますし、初詣ではおばちゃんたちが大正琴の演奏で迎えてくれます。


 今年は大神輿巡行が行なわれる「神幸祭」でないため(本祭は4年に一度)、盛り上がりはイマイチらしい。
 ここの巡行では本社神輿を台車に乗せて練り歩き、宮入りの際だけ人が担ぐらしい。その後の連合渡御で、9基の町内神輿が不忍通りを練り歩き盛り上げるそうです。
 神幸祭で、付近の町中がそわそわする気分を体感してみたいと……

 氏子町同士が競い合う祭の仕切り方から、和を重んじる国らしい「配慮」が伝わりますし、その取り決めに従い粛々と行事を進めていく行儀よさ(ある種のかっこ良さ)に、この国の「美学」を見るような気がします。
 「しきたり」の表現を使いたがるのは、和を乱さないための警告と受け止めます。
 無関心者をのぞき、この場に集った人々の心がつながることを、みんなで祈る催しとして続けられますことを……



 右は根津神社表参道口前にある、ヨーロッパの絵本や、日本の古本、文具、ポストカード等を扱う店舗。
 わたしが入っても「ふ〜ん」で終わりそうですが、門前町の空気に違和感なくなじみます。
 母体は一旗揚げようと六本木で開業しますが、ネット販売が好調なのか、拠点を下町に移し落ち着いたようです。
 アンティーク雑貨類を扱う店は、六本木より静かな町の方がふさわしいようにも。



 地下鉄千代田線根津駅から弥生坂を上った周辺で、1884年(明治17年)弥生式土器が発見されました。
 付近の地名が時代名称とされるも、現在の東大周辺からは弥生時代のイメージは浮かびません。遺跡が多数発掘された飛鳥山周辺の景色ならイメージしやすいか?

 付近の弥生美術館に、竹久夢二美術館が併設されます。
 夢二の絵は好き嫌いは別にしても、一目で彼の絵と伝わりますから、後世に認知される成功者と言えます。
 怒られるかも知れませんが、面長の顔を描いた漫画家の滝田ゆうは、夢二の絵を模して恵まれない境遇の女性を、滝田式美人として描こうとしたのでは? とも……


追記──NHK連続テレビ小説『まれ』終了

 受けがよかった近作の少女漫画的路線を目指すため、「キャラ立ち狙い」の演出を押し付けられた若手連中は窮屈そうで、いいとこ出せずじまいの印象が残ります。
 舞台である能登半島の「食材」を持ち上げながらも、それを育む美しくも厳しい冬景色や生活描写を割愛(カッツアイ!)しては、単なる宣伝でしかありません。
 主演の土屋太鳳(たお)は、全方位敵無しの愛されキャラながら、指の太い女性は……
 脇を支える、ダメ親父ピッタリの大泉洋、映画『誰も知らない』でカンヌ国際映画祭主演男優賞の柳楽優弥独特の人恋しさの表現、最も驚いたのが一般人姿の田中泯さん!
 裸体に金粉を塗って踊る、孤高の舞踏家とのイメージだった方が、あんなにもチャーミングなジジイを演じるとは! ダンスで完全燃焼した枯れ姿こそ魅力的と……

2015/09/21

ペンの力は何処に?──旧藍染川

2015.9.12【東京都】──「神田川を歩く_35」

 今回は、旧石神井川が浸食した河道を流れた旧谷田川(現在暗きょ)が、旧藍染川と呼ばれた西日暮里・千駄木付近を歩きます。




開成学園


 東京大学合格者数34年連続首位(1982〜2015年)の無敵ぶりを誇る、進学校の開成学園は西日暮里にあります(関東大震災以前は神田淡路町に所在)。
 2014年度の合格実績は、東京大学:158名(157名進学)、慶應義塾大学:191名(50名進学)、早稲田大学:225名(33名進学)と、早慶を滑り止めにする連中が国の中枢省庁に入るようです。
 上の校章は「ペンは剣に優れり」を示すが、近ごろ「武力には、武力の圧力を」が世界の潮流らしく、ペンの存在感は薄れるばかりです。
 現在幹部の卒業生に失望するわれらは現役の生徒に、政治家の暴挙に「ペンの力」で立ち向かって欲しいと願っても、ペンの力など通じない世界と知った瞬間から、保身的行動に向かってしまうのだろうか……


森鴎外記念館

 右の絵柄から、正岡子規の写真を思い浮かべる方は多いのではないか?(わたしもそうでした)
 この森鴎外記念館は鴎外の旧居観潮楼跡地に建てられ、当時海を望めたであろう開けた高台に位置します。
 鴎外との接点は小説『舞姫』だけで、内容は忘れるも「品のある文章との出会い」との印象が残ります。
 陸軍軍医の側面には暗いが、ドイツ留学では北里柴三郎(日本医師会創立者)と共に行動したとあるので、医学においても国の第一人者だったようです。


千駄木ふれあいの杜付近


 きつい階段や坂道を上る際、なぜか未解決の課題や問題が思い浮かぶのは、肉体的負荷が精神的ストレスを呼び覚ますためではないか? と思うことがあります。
 ストレス解消に肉体運動が効果を示すのは、外的負荷を感じる中枢は一カ所のため、肉体的負荷の解消が精神的ストレスの不安を軽減するためではないか? と考えながら下った石段(鴎外の影響によるもので、課題は山積ながらも特にストレスを抱えているわけではありません)。

 付近の高台に、夏目漱石(猫の館)、高村光太郎等の文人や、寺田寅彦などの学者が多く暮らしたのは、東京大学が学問の府とされた時代背景によるようです。



 石段の下には広くないも「こんな自然林が残されているのか?」という、千駄木ふれあいの杜があります(鴎外の子どもが遊んだらしい)。
 正面の大きな倒木の朽ちる姿や、そこからの新しい芽生えを観察するようで、都内にしては腰の据わった取り組みに見えます。
 先日の千石緑地のように、住宅街にも自然林を残そうとするおかげで、人より寿命の長い樹木たちが、江戸時代の記憶(斜面は緑地帯だった様など)を伝えてくれます。


へび道


 旧谷田川がこの付近で旧藍染川と呼ばれたのは、以前藍染めが盛んだった旧藍染町に由来します。
 藍染めを身近に感じるのは、色鮮やかな染め物の着用を禁じられた庶民(身分の低い者)の色だったからか?
 差別のキーワードとされる藍染め(脱線しますが、リンク先は映画監督篠田正浩さんのエピソード)ですが、過去として切り離せる東京人は、そんな歴史を乗り越え新たな芽を育てています。
 上は路地裏の藍染の店舗。右はイベントスペース。

 数年ぶりのへび道(蛇行する旧藍染川上の道)にはオシャレな店が増え驚きますが、名称と共に人気が広まればより楽しい散歩道になりそうです。


追記──戦争法案成立

 「何としても成立させる」与党の方針に従った議員連中に、自主性はあったのか?
 経済疲弊の著しい地方から「武力活動範囲を広げて欲しい」の声があるとは思えない。
 党の方針に従った連中の態度は保身行動であり、戦時中の軍上層部に逆らえない現場指揮官と変わらないのではないか?
 国民の半数を越える異議を無視し、「説明は十分出来た」として押し切った連中に主権者のパワーを見せつけねば、戦時中のような暗黒時代となってしまいます。
 結果はいずれにしても決するのは国民ですから、まずは情けない野党を「主権者の旗の元」に結集させ、「国民の意見を尊重する政治」を取り戻す必要があります。


追記──ラグビーワールドカップ日本代表のチャレンジ精神!

 終了間際の相手の反則で、コーチの指示である引き分け狙いのフリーキックではなく、逆転勝利を目指すスクラム攻撃を選択した選手の判断に、観る者は驚きます(レフリーも驚いていた)。実力では格上の南アフリカに挑む姿勢に、スタジアムも「こんなチャレンジが見たかった」と盛り上がったことでしょう。
 テレビ解説者も突進する姿に「行け〜!」と叫びましたが、スタジアム全体が「Gooo!」と叫んでいたのではないか?
 日本代表の魅力をアピールする見事な戦いぶりでした。次の試合でも周囲を驚かせるパフォーマンスを期待しています!

2015/09/14

人のふり見て我がふり直せ──旧谷田川

2015.9.5【東京都】──「神田川を歩く_34」

 今回は、旧石神井川が浸食した河床の最後の流れとなった、旧谷田川(現在暗きょ)沿いの、駒込〜西日暮里付近を歩きます。




駒込駅


 この駅は旧石神井川の浸食地形の縁に建設されたため、西口は高台を掘り込み、東口は低地の河床に盛り土されています。
 上の東口通路は旧谷田川の暗きょで、駅両側の旧水路沿いに商店街が伸びています。
 1910年(明治43年)の開業当時から町の中心で、通路入口の両側に門のような飾りがありますから、どちらからもWelcom!のにぎわいだったようです。


田端の切り通し


 駒込側(旧石神井川)と田端駅側(隅田川)の間には、両河川からの浸食に耐えた(?)堤防のような高台が、上野の山まで続きます。
 王子駅前の谷とは異なり、付近では道路だけのために鋭角な切り通しが刻まれます。
 高台を道路方向に横断すると、両側の川の水量と浸食力の違いが体感できます。
 旧石神井川は水量が少ないため、ゆるやかで浅い浸食ですが、暴れ川の隅田川は容赦ない力により急峻で深い浸食の痕跡を残します(江戸期以前は利根川も流れ込んでいた)。
 現在の山手線は、日本鉄道の上野〜熊谷間(東北・高崎線)建設に始まりますが、隅田川に浸食された崖下を通したのは、工事がたやすく費用も安価だったためらしい。



 右の形容しがたい物体は東覚寺にある仁王像で、参拝者が治したい患部に赤紙を貼り願いが託された姿。
 貼られた赤紙すべての祈りが成就した際には、中から生まれ変わった仁王が出てきそうです。
 願いがかなったお礼には、仁王が履くための草履を奉納する習わしがあるも、この姿で動いたら赤紙が落ちてしまいそうで、庶民を救済したくても歩き回れない、仁王のジレンマを感じたりします。


田端八幡神社


 瓦屋根の神輿庫が並ぶ様は壮観で、付近の根津神社、神田明神に対抗する(?)祭への意気込みが感じられます。
 境内に残る石橋の遺構は、旧谷田川に架けられた橋を移設したもので、暗きょとされた現在でも川とのつながりを大切にしているようです。

 田端〜西日暮里にかけての旧谷田川周辺には、以前の姿で区画ごとマルッと残される地域があります。
 西日暮里駅開業(1969年千代田線、71年山手線)まで閉ざされた地を、以前江戸時代の被差別地区と記しました
 差別意識の根強い関西では、拡散防止用のリストが出回るらしく、移転もできず居住地区が残されるようです。
 一方、東京の意識の薄さは、町の歴史の浅さ加え、地方出身者の寄り合い所帯のため「根が浅い」のではないか?
 この国の歩みを振り返り、過去から負の歴史を引きずらないのは東京だけと気付けば、再開発が動き出せばあっという間に痕跡は消え去りそう、とも……


 遠いので詳しく分かりませんが、右は近所のばあちゃんに何かを説明する姿に見えます。
 下町っ子の心情には「おせっかい=思いやり」の勝手な思い込みがあるようですが、受け手側の気遣いも含めて「下町人情」と言うのでは? と感じた光景です。
 おばちゃんの説明は延々と続きばあちゃんは、ありがたいけど「もう少しゆっくり話してくれ…」の様子と思えたのは、自分も母親に説明する際、反応の鈍さにイラつき矢継ぎ早に話していたことを思い出したからです。
 人のふり見て我がふり直せと、反省です……

 以前、谷根千(谷中・根津・千駄木)を歩き目にしたよみせ通り商店街のアーチを、反対の駒込側から目にした瞬間「おぉ、つながった!」の感慨がありました。
 これが散歩の楽しみであり、この土地にも「自分なりの筋を通せた」とでも言いましょうか……


追記──雨の印象が残る今年の夏

 「暑くなるの早すぎ!」から「涼しいのは楽だけど極端」と共に、「雨降り過ぎ…(日照不足)」の印象が残る夏でした。
 台風18号の豪雨で堤防を乗り越え決壊させる水の勢いを目にすると、防災対策でどこまで守れるのか? と、不安を覚えます(100%の安心は不可能でしょう)。
 近ごろの極端な自然現象による災害を目にするたび、守ってもらう意識ではなく、個人の危機意識とその準備(シュミレーション)の必要性を実感させられます……

2015/09/07

人が流れ込む旧川筋──旧石神井川

2015.8.29【東京都】──「神田川を歩く_33」

 今回は、かなり昔に流路が変わり水路は途絶えるも、地形に痕跡を残す旧石神井川(不忍池に至る谷田川)沿いの王子〜駒込を歩きます。





 右は、標高図丸印付近の切り通しのような谷間で、以前の石神井川は南に湾曲しましたが、現在は谷を下り隅田川に注ぎます(1969年から飛鳥山地下のバイパスを経由)。
 この流路変化には「自然の力」「人為的開削」等諸説あり、江戸時代の治水対策(お茶の水付近の手掘り水路と同じ)と考えたくなるが、江戸初期にはすでに現在の流路だったとのこと。
 それ以前の資料は極端に少なくなりますが、飛鳥山の丘陵地一帯には縄文期以来の遺跡が多数見つかるように、太古から水に恵まれる土地だったようです。

 右は、足を運ぶたびに立ち寄る、旧渋沢庭園「晩香廬(ばんこうろ)」の、ゆがんだ窓ガラスからのぞいた絵ですが、ただのブレた写真のよう……
 手作りによるゆがみのため、同じものは出来ないらしいが、今どきは懐かしさから作る人がいるのではないか?
 ガキ時分にゆがむ景色を楽しんだ記憶を振り返ると、滝田ゆうさんの漫画の世界が思い浮かび、アンニュイな空気感に引かれた時分を思い出したりします。
 年代的にゆがんだ窓ガラスは、記憶を巻き戻す「トリガー:きっかけ」のようです。


七社神社


 霧雨が降る日でも開かれている神楽殿に並ぶ干支の土鈴(売れ残り?)。
 雑司ヶ谷鬼子母神でも見かけましたから、都内にもまだ根付いていそうです。
 見た目や音の暖かみに「ほっこり」するのは、土のぬくもりが遺伝子レベルで記憶されているからでは? 映画『もののけ姫』の「こだまの音」を想起したのも、なごみ系の音色として分類された記憶によりそうです……


旧古河庭園


 ここは、1917年(大正6年)古河財閥三代目の邸宅として建てられ、財産税で物納された国有財産を東京都が無償で借り都立公園として公開しています。洋風庭園のバラは有名で、左右対称に整えられた植え込みの行き届いた手入れにはいつも感心します。
 管理職員の見回りと同じルート、タイミングで歩いたので、彼のチェック項目をチェックしました。
 彼は植物担当らしく(植物オタクっぽい兄ちゃん)、葉先・枝先や根元を観察するのは、異常を見つけやすい箇所だからのようです。何度も別の株との間を行き来して比較していたのは、気になる個体だったのかも知れません。
 そんな愛情が植物から伝わり「整備された施設」の評判を広めるのでしょう。


 庭園は一枚上のような斜面を利用していますが、そこが旧石神井川に浸食されたことを今回認識しました。低い平坦面にある日本庭園は、旧河道面に位置するようです。

 今年の夏は「蚊が少ない」印象があります。
 昨年のデング熱騒動以来、防虫スプレーを習慣としますが、人が集まりやすい場所では蚊の駆除に力を入れているように感じました。
 刺されやすい体質と思っていたが、虫に好かれなくなったのは「加齢臭」の兆しか?


霜降橋

 この橋は、染井霊園付近を水源とした谷田川に架けられますが、1931年(昭和6年)暗きょ化から店舗が集まり始め「しもふり:霜降銀座商店街」となります。
 商店街は旧水路に並び、名前を変えながら「染井銀座商店街」「西ヶ原銀座商店街」と続きます。
 町は水辺に栄え、水路を新たな道路に利用できるのは便利ですから、旧川筋に人が流れ込むようになります。
 かつて旧石神井川本流の流路でしたが、途絶えた年月の長さから支流が流れの主となりました。

 昭和の空気漂う真っ赤な金魚+ホテイアオイの水槽を維持する店や、店先にパラソルを開く肉屋など、流れ込む水のごとく様々な人を受け止めるための工夫に加え、若者にアピールする飲食店も目に付きますから、「地元で事足りる」下町商店街ここにあり! の印象です。

 霜降橋周辺を調べていると、ドナルド・キーンさんの名前に目が止まります。「私は日本人」の言葉通り、初めて立ち寄った日本人でも魅力を感じる商店街を好む心は、ネイティブと変わりません。


 ここは駒込駅前メインストリートに面した銭湯(駅から3分程度)で、この町に漂う空気を表すと感じた絵。
 地下鉄南北線は開通するも、山手線沿線ではローカルな駅の印象のままですが、我が道を歩まれますことを!


追記──野球のU-18ワールドカップ準優勝

 選手たちは甲子園に続き今大会でも、試合ごとに成長していったように見えました。
 予選で勝った相手でも決勝の舞台では、前回チャンピオンが放つ圧力を相当感じたのではないか?(決勝って別ものなんだろうなぁ)
 6回満塁の1塁ヘッドスライディングで、審判はランナーを見ておらずアウトの判定とされましたが、総合力では米国が上回っていたようにも。
 夏の甲子園優勝投手も「甲子園で負けた」ことを胸に刻んでこれからに取り組み、高校野球を引っ張ってもらいたいと…… 素晴らしい戦いぶりでした!