2016/05/30

広島スピーチの理解者は日本人だけ?──南麻布

2016.5.7【東京都】──「渋谷川水系を歩く_12」 古川

 渋谷川は、笄川(こうがいがわ)と合流する天現寺橋から下流は、古川に名称が変わります。「古くからの流れ」の由来は、古くから人が暮らしたという意味のようです。




 交通情報で耳にするイメージしかない天現寺は、徳川家康の持仏だった毘沙門天像を本尊とすることから、三つ葉葵を寺の紋とします。
 付近は将軍家の鷹狩り地とされたので、狩りの成功を祈願した? では怒られるか…… 
 茗荷谷付近から移転した臨済宗の禅寺で、現在は敷地内に「天現寺スクエア:オフィス、イベントスペース、撮影スタジオ、ラウンジ、コンサートホール、会議室等」を経営しています(寺側は会館と表現する)。


慶応義塾幼稚舎

 明治期、付近にある狸橋のたもとに蕎麦屋があり、福沢諭吉は蕎麦屋+水車営業権を買い取り別荘とします(米つき水車による収入を塾生の食費の足しにしたそう)。
 その後も付近で買い増した土地は、北里柴三郎の結核患者治療施設に貸与されます。その北里研究所は、大隈重信内閣の政策に反発した北里に対する福沢の支援に始まったもので、これが早慶戦の起源となるのか?
 幼稚舎は、天現寺橋付近の寄宿舎跡に移転したもの。

 狸橋とは、江戸期にあった蕎麦屋の売上金が翌朝葉っぱになったことから、この辺りが「狸蕎麦」と呼ばれたことに由来するそうで、のどかな風景が浮かんできます。



 付近にある在日米軍施設「ニュー山王ホテル」、フランス大使館周辺は、サミットの警備でピリピリしてます。
 元の山王ホテルは赤坂山王日枝神社前にあり、二・二六事件ではクーデター側の司令部とされた施設で、戦後はアメリカ軍に接収されます。現在の土地・建物は、代替として日本がアメリカ軍に提供するもの。
 施設内立ち入りは米軍関係者に限られ、言語は英語、通貨は米ドルで、日米地位協定の協議はここで行なわれる。これは思いやりでなく、占領軍に対するへつらいです。
 それはともかく、サミットの無事終了は何よりです。


光林禅寺

 意匠を凝らした境内に引きつけられる寺院は、京都妙心寺の住職が創建した禅寺で、ヒュースケン(オランダ人)の墓があることで有名らしい(知りませんでした)。
 初代駐日アメリカ公使タウンゼント・ハリスに雇われ秘書兼通訳として来日するも、攘夷派の浪士に襲われ命を落とします。その地は通勤で利用するバス路線の「中の橋」付近とことで、今度調べてみます。
  日本に向う南方航路、外交折衝や日本での見聞を記した『ヒュースケン日本日記』は貴重な資料とのこと。
 右の立派な桜には、一目惚れです。

 門前に架かる五ノ橋は、下流の四ノ橋付近に将軍家白金御殿(麻布御殿) 造営の際、麻布十番付近の一ノ橋から上流に向け連番で整備されたもの。
 御殿は後に麻布薬園とされ、小石川移転後に赤ひげ診療譚が生まれ、現在の小石川植物園に受け継がれます。
 また付近の斜面には、縄文時代前期とされる本村(ほんむら)町貝塚があり、土器(黒浜式諸磯式)の出土などが、古くから人が暮らした古川の名称由来のようです。


古川橋


 恵比寿駅付近から東に向かった流れは、慶應義塾大学の丘陵地に行く手を阻まれ、付近で北に方向を変えます。目黒、五反田、品川方面から丘陵地を越える交通路は付近で交わり、そこを走る都電の乗換ターミナルとしてにぎわいました(映画で目にした記憶がある。明治通りの起点)。
 付近で高層の慶応大学校舎を目にし、初めて三田・田町が近いことに気付くほど、川が大きく蛇行しています。上は橋に併設される水道管。


麻布十番


 上は、麻布通り(2014年承認の名称)と首都高速2号目黒線に挟まれたマンション。
 麻布十番駅前の立地でも、川っぷちの場所柄や古さ(1959年)から、都営住宅と思っていたら、結構人気のある物件らしい(失礼)。

 古川では現在もサギの姿が見られ、近所の人も眺めていたりします。
 福沢諭吉もそんな光景に引かれたのだろうと、かつての田園風景を思い浮かべました。


追記──現役アメリカ大統領の広島スピーチを後押しするのは日本人だけ?

 オバマ大統領の米国内での評価は右肩下がりでも、任期の最初(プラハ演説)と最後(広島スピーチ)の年に信念をアピールしたことで、記憶に残る存在となりました(実現は遠そうだが)。米大統領の立場ゆえ、周囲から懸念される行動を押し通すには、並々ならぬ勇気が必要だったことでしょう。
 その機会を待ち望んだ被爆者および関係者の方々が、憎しみでなく未来を見据えて握手する姿に、苦しみ続けてきた年月と、残された年月で果たすべき使命にわずかでも光が差し、「生き残ってしまった」理由を納得できますように、と願わずにはいられません。
 後押ししたいとの感情を抱くのは日本人だけかも知れないが、オバマ大統領の言葉が世界に響くことを祈るところです。

2016/05/23

格差を実感する──広尾

2016.5.1【東京都】──「渋谷川水系を歩く_11」 笄川(こうがいがわ)

 江戸時代、西外れの丘陵地に並んだ武家屋敷は、明治期に皇族・華族の屋敷とされます。また、元麻布にアメリカ公使館が置かれてからは、警備上の理由(近くに集めたい)により周辺を大使館候補地としたそうです。




 丘の上に鎮座する超高額の「ヴィンテージ・マンション:1984〜86年建設」の中はのぞけそうもないが、こちらも「べつにいいか」ってところです(右は駅への道)。
 以前は隣接の日本赤十字社医療センター所有地で、相場の半額で売却されるなど、不可解な点があったそう(元は久邇宮(くにのみや)家所有地:昭和天皇の皇后生家)。
 赤十字社は戦争傷病者救護を目的に発足しますが、日本では天皇の軍隊(皇軍)救護目的に発足し、皇室が援助したため、名誉総裁は代々皇后、副総裁も皇族とされます。
 そのような組織では、民間企業と不動産取引を行なう際に、監査役を置かないことが慣例なのか?


 日赤医療センターに向かう「ちぃばす:港区の地域コミュニティバス」が通る、狭いバス通りが付近のメインストリートらしく、個人的には好感を抱くも、自治体の地域再開発ビジョン(古い家屋や区画整理)は、ヴィンテージ・マンションのようなイメージ(1枚目写真)を目指したいのでは?
 夢で若者を踊らせるにも、肝心の頭数が増える見込みはありません。そんな時代なのにアベノミクスがアピールするのは、大きな金が動くビジネスの環境整備だけで、はなから庶民そっちのけの政策が、格差拡大を後押ししていると感じる場所柄です。
 上は、外苑西通り沿いのレストラン。




 園内には、旧笄川(こうがいがわ)水源のひとつとされた森が残されています。
 森や水辺をかける子どもには絶好ですが、限られた運動場でボール遊びをする子どもたちは、密集のためもうもうと上がる砂埃の中でボールを追いかけています。ガキ時分って、砂をジャリジャリ味わいながら走り回りましたっけ……
 隣接地にあるテニスコートや野球場も付近では貴重な施設と思われ、起伏ある地域での遊び場確保の難しさがうかがえます。
 また、限られた緑地にママ友や外国人の輪が点在する光景は、イヤミなくなじむ地域色の印象はあるが、いずれにせよ窮屈さがつきまといます。


広尾駅周辺

 以前歩いた駅西側の商店街同様、東側にも古い町並みが残ります。戦渦を逃れた地区もあるらしいが、おそらく焼け野原の川沿いに建ち並んだのではないか。
 高台の武家屋敷跡に建てられた外国大使館の中に、ドイツ大使館があり、戦争中は同盟国でしたが、降伏後には大使館・領事館の職務執行停止を通告したそう。敵の配下となれば当然の対応だが、数ヶ月後に日本も降伏します。
 1990年ドイツ再統一後は、大使館も再統一されました。

 聖心女子大学は戦後久邇宮邸跡に建てられ、皇后 美智子さん、元国連難民高等弁務官 緒方貞子さん(第一期生)の母校で、何ものぞけない「鉄壁の花園」の印象です。
 右は大木を取り込んだ外観のフラワーショップ、下は駅近くの民家。


 江戸時代の天現寺橋付近は「広尾の原」と呼ばれ、将軍の鷹狩に利用される低地でしたが、東京市〜都が河川整備により、自治体が利用可能な土地を造成します。
 右のカメラ背後に、都営広尾アパート(以前は都電の車庫)が、渋谷川を挟んだ地に都立広尾病院があります。
 丘の上にある日赤医療センターとの違いに驚くも、前身の東京市避(ひ)病院(1889年:明治22年)は、伝染病専門病院(隔離病舎)のためこの地が選定されました。
 放送中の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』で、片岡鶴太郎が強調する東京弁(「ひ」→「し」の発音)のため、当時は避(ひ)病院が、死(し)病院と誤解されたそう……
 右は、目をこすりたくなるような曇りガラスが貼られる「広尾コンプレックス」。


追記──沖縄在日米軍の犯罪を防ぐには、退場のシナリオしかない。

 繰り返される米軍関係者による事件に接し、沖縄の人々がアメリカや日本からも「なめられている」と感じるのは当然です。自浄作用が機能しない連中に何を求めても無理なので、退場のシナリオを考えるべきではないか。
 自国で対処する場合の予算と、防衛計画の見直し(持ちこたえる日数の設定)等を、全国民で議論する必要性を感じます。

2016/05/16

「風街」に吹く風とは?──西麻布

2016.4.30【東京都】──「渋谷川水系を歩く_10」 笄川(こうがいがわ)



西麻布

 青山霊園南端の低地には、外苑西通り沿いの流れや根津美術館庭園の流れ等が合流する場所柄から、水田が広がっていたとのこと。
 霊園とされる(1872年:明治5年)以前は青山家の下屋敷でしたから、庭園だったのではないか。
 右は、以前の川筋や町並みの面影が残る一画にあるレストランですが、そのようななごりがマンション等の建物にバッサリ断ち切られる光景は、仕方ないと思うも寂しさを覚えます。

 少し下流側にある、生活道(上)と流路(下)の段差が見られる場所から、本郷の谷筋を想起しました。
 以前は土手だった斜面も宅地化され(左側、右側は空き地)、旧土手に並ぶ住宅列を挟んだ二筋の道路が、寄り添って続きます。
 土手の所有権は以前から明確だったのか? 空襲を受けた焼け野原では、空き地と見れば勝手に家を建てたとしても、それを商売としたやからもいたのではないか。
 たくましさは理解できますが、旧川筋は「地質的な弱線」なので、補強や万が一の備えを忘れずに(熊本地震では、地盤の液状化現象は川筋に発生しました)。

 六本木通りと外苑西通りの西麻布交差点には、アイスクリームのホブソンズ日本1号店(西麻布店)があります。
 若い時分目にした際に、デートで使えるとインプットしましたが、結局役立つ機会はありませんでした。

 右は、はす向かいにある蔵をイメージした飲み屋で、外国人には受けるようでも、雰囲気だけとの印象です。
 と感じるのはわたしがズレているためで、この界隈で口コミを目指すには、内容ではなく話題性の方が重要なようです。


 付近を調べるうちに、忘却の彼方に消えていた「風街」というイメージに再会します。
 作詞家の松本 隆が「はっぴいえんど」時代(2ndアルバム『風街ろまん:1971年』)から表現し続けるもので、彼が生まれ育った西麻布界隈を思い描いたものらしい。
 周辺には、いまもバブル期の遺構のような装飾過多な建物が目に付きますし、そこで働く連中には『風をあつめて(リンク先はYouTube)』? 「金を」じゃないの? と返ってきそうな空気が漂います。
 谷筋で風があつまる場所柄は変わらないとしても、現在この町には、どんな風が吹いているのだろうか。

 右のような装飾をよろこびそうな顔には、お騒がせな連中(清H、海老Z)しか思い浮かびませんし、商売する側も一般常識とはかけ離れていそう。

 学校や公園に残る、笄橋(こうがいばし)の由来は色街と思い込んでいたが、東京オリンピック(1964年)に際して外苑西通りが建設されるまで片田舎だったと知り、調べ直しました。
 江戸時代の武士は、髪の乱れを整えるために太刀に笄を差し、江戸市中に入る際はこの橋付近で髪を整え身支度したことから、橋の名が広まったようです。
 人影が少なかった地ゆえ説得力があるようにも。


追記──第68回 東京みなと祭 晴海ふ頭 5月14日

 前回目にした消防艇の放水練習はこの祭のためですが、「水の消防ページェント」(リンク先は動画)とされる催しは翌15日のため、目にできませんでした。

 レインボーブリッジを背にした舞台では、子どもたちが踊りまくっています。われわれの若い時分は、極少数派のバレエか、ピンクレディーの振り付けをまねる程度でしたが、ガキ時分からレッスンする時代ですから、世界で活躍するダンサーが続々誕生すること楽しみに!


 上は、サンダーバード装備のような移動式のタラップ。こんな年になってもサンダーバードを想起するのですから、幼少期に受けたインパクトはいくつになっても消えないようです。

 右は、数m下のクッションに飛び降りる遊具施設の台上で、なかなか飛べない娘の様子。「飛びにきたんでしょ?」と、背後に立ちプレッシャーをかけるお姉さんに「押しちゃダメだよ!」とハラハラしたが、マニュアル通りの説得もむなしく、結局NGのサイン。
 そもそもこんな遊具施設は無くていいようにも……


追記──賭けの対象にもならない、都知事辞任の動向

 国際政治学者が金にルーズなのは勝手だが、都知事としての政治資金を我が家の財産のように流用する人物に、都政を任せられないと都民が考えるのは当然です。
 前知事に続く金銭のだらしなさには呆れますが、そもそも東京都自体が腐っていると受け止められては、リオに続いて東京五輪も不安視されてしまいます。
 海外からの視線は冷徹で、日本という国は信用ならないが、メガシティ東京は沈まないだろう、と猶予されていることを肝に銘じるべきではないか。

2016/05/09

墓地と基地──南青山〜六本木

2016.4.30【東京都】──「渋谷川水系を歩く_9」 笄川(こうがいがわ)

 青山霊園の立地は南向きに開けた丘陵地のため、現代人の目には「宅地にしたら一等地」ですが、開設当時の庶民は「日当りのいい墓地」を望んでいたようです……




青山霊園

 奥の伊藤忠商事ビル(純利益が初めて業界トップとなった)は、これまで神宮外苑側から眺めるばかりでしたが、南側からは、青山霊園を南北に縦断する道路の正面にそびえる巨大な墓標のように……
 戦後に発展した会社の多くは、戦没者に対して襟を正す必要があったのではないか?

 元は1872年(明治5年)開設の神道葬儀墓地で、1926年(大正15年)東京市に寄附され(1923年関東大震災の影響もありそう)、日本で初めての公営墓地とされます。
 荒れた墓も目に付くが、立ち退きは難しそう。

 右は、霊園と道を挟んで接するレストラン。
 欧米の墓地には公園のような明るさがあり、近くのレストランで故人を偲ぶ会食に涙はあっても、カラッとしてそうなイメージがあります。
 一方、日本の墓地は狭い敷地を石で囲うため、日陰に湿っぽさがつきまとい(家を守る意識?)、法事には酒の力で場を明るくしようとする印象があります。
 何でこんな場所に? と思ったが、ひょっとしてこのレストランは、そんな慣習に一石を投じようとしているのか? と思ったりも……

 旧笄川は、外苑西通り沿いの流れ(いもり川同様、国道246号線付近に始まる:右の高架橋の下)、霊園東側の流れ(上レストラン付近の旧蛇ヶ池:じゃがいけ)、根津美術館の流れ等が集まり、西麻布〜広尾を経て天現寺橋付近で渋谷川に合流します。
 現在確認できる水源は、根津美術館・有栖川宮記念公園にある池だけらしい。

 西麻布にある笄橋が由来らしいも、笄(こうがい:髪結い用具)なんて読めないし、かんざしとの違いもピンときません。


赤坂プレスセンター

 現在の米軍施設は、2.26事件の拠点が戦後接収されたもので、アメリカ大使館や米軍宿泊施設「ニュー山王ホテル」に近いため、キャロライン・ケネディ大使も利用していそうです。
 1985年ヘリポート地下のトンネル工事の際、代替地として提供した青山公園の一部は工事後も返却されず、新旧のヘリポート用地を総取りされます。
 そんな状況に「アメリカ側は応じない」と手をこまねいた日本という国は、何という「おひとよし」かと呆れます(墓地の上は障害物が少なく飛びやすいんですと)。
 名称は「星条旗新聞」の存在によるらしい。

 横田基地を民間機に開放する「軍民共用化」を目指した石原慎太郎元都知事も、災害時にこのヘリポートの共同使用を認めさせるのが精一杯でした。
 基地内の建物や光熱費は日本の思いやり予算によるため、米軍の紹介があれば一般の日本人も1泊25ドルで宿泊可能とすることが、返礼のつもりらしい。
 その上、戦争法案で海外に出費するとは、アメリカの言いなりと受け止められて当然です。ここは、ドナルド・トランプの「米軍駐留経費負担」発言を機に、一度すべて洗い直してみるべきと思うが、いかがか?
 右は、六本木ヒルズなど「まるっとお見通し?」の絵。

 隣接の青山公園では、外国人たちがペタンク(金属ボールを投げ、目標に近づけるゲーム)に興じています。
 この光景はのどかですが、別の日にマリファナの合法化を目指す集会「マリファナマーチ東京2016:リンクしません」には驚きました(タイトル自体がおかしい)。
 まさかここで吸ってないと思うが、数十人いる取り巻きの雰囲気に違和感を覚え、そそくさと後にします。
 外国大使館が六本木を「旅行者の危険地域」としたのは、裏情報から判断したのでは? チャラチャラ歩いているのは、日本人だけかもしれない、とも……

 六本木に右の国立新美術館を誘致したのは、陸軍〜米軍門前町のイメージを払しょくしたかったのでしょう。
 六本木ヒルズ:森美術館、東京ミッドタウン:サントリー美術館、泉ガーデンタワー:泉屋博古館分館等により、新たな客層を獲得するも、米軍施設は存在し続けます。

 トランプ発言に対しては、われわれの心に引っ掛かる「米軍占領下の延長上に生きるような圧迫感」への反発を含め、「この施設は不要なので、金は払わない」(アメリカは選択権を認めず金を払えと恫喝するのか?)と言ってやればいい!
 彼の発言にかかわらず、次期フィリピン大統領の出方次第で、ASEAN(東南アジア諸国連合)地域とアメリカの関わり方が変わるかも知れません。

 今回「青山霊園」を検索した際にハマったらしく、検索結果ページ周囲の広告が墓地案内だらけになりました……


追記──唯一、ゴールデンウイークらしい絵


 今年のG.W.は、レインボーウォーク(レインボーブリッジを歩いて渡る)程度でしたが、晴海方面の消防艇放水パフォーマンスの練習風景に出会いました(上)。
 本番は、5月14日(土)・15日(日)の「東京みなと祭」とのこと。
 晴海への交通手段はバスになるため、イベント見学は大変そうですが、反対側の豊洲ならまだましか?

2016/05/02

陽光のいざない──根津美術館庭園

2016.4.16【東京都】──「渋谷川水系を歩く_8」 笄川(こうがいがわ)

 春の陽光を浴びる新緑がまぶしい根津美術館庭園を堪能したので、今回はその庭園の様子を掲載します。




根津美術館+庭園


 根津美術館へは東京メトロ表参道駅から向かいますが、表参道沿いに設置された喫煙所のさりげなさに、これが本来のあり方ではないかと感じます。
 分煙の方針として、互いに気を使う意識を持った「まちづくり」を目指す姿勢は、大人の対応を根付かせるにはふさわしいし、この地にはまっているように見えます。
 ですが、時計の奴隷であるサラリーマンがいっせいに同じ行動をする町では、「仕事を言い訳」にするやからが多いため難しそうです……
 上は藤の花のつぼみ。


 この時季に公開される美術館所蔵「国宝 燕子花図屏風:尾形光琳」(燕子花:かきつばたの読みには自信が無いため、クイズ番組の回答者のような苦し紛れに…)は、伊勢物語の一節を描く作品のため、同時に伊勢物語絵巻も展示されます。
 前座のような伊勢物語絵巻の「雲の細くたなびきたる」もしくは背景省略表現の、端が「⊂」の形をした雲(?)が描かれる屏風絵の、のんびりとした空気感にハマります。
 でもそれは上流階級に限られたことで、庶民は生活を守るために、現代よりも厳しい条件下で自然と格闘していたのでしょう。


 上は燕子花の緑が密集した池の様子で、花が開く前から「燕子花図屏風:国宝」を公開する、季節感先取りの演出は申し分ないものの、花の時季は人気のあまり、庭も絵も落ち着いて見ていられないようです(散策路は交通整理が必要な人出となるらしい)。
 確実に増えたと実感する海外からの見学者に、桜が散った後の新緑の楽しみ方を伝えられれば、四季の中で生きる日本人の理解につながるのでは? とも。

 改築工事を経て2009年新装開館した美術館は、新国立競技場のデザイン案(今度は大丈夫?)に採用された、隈研吾(くまけんご)さんによるもの。
 交差点のすぐ先にあるエントランスながら、竹に囲まれた異空間のような回廊には、足を踏み入れた瞬間に俗世を忘れさせるようなインパクトがあります。
 近くにも、改修中で写真はないが「クマさんの設計」と店員さんが説明する、角材を組んだ建物があります。
 大胆なデザインでも木材を使用すると、受け止める側に印象を和らげる作用が働くようなので、新国立競技場を楽しみに!

 現在も庭園内には、少量ながらもいくつか湧水があるそうで、以前は笄川(こうがいがわ:青山〜広尾は次回レポートします)水源のひとつとされました。
 湧水の豊かな地に、邸宅・庭園造成〜保存されたおかげで、以前の面影に接することができます(東武鉄道元社長 根津嘉一郎の私立美術館)。
 それが、成功者の社会還元なんですね……


追記──ゴールデンウィークも容赦ない熊本地震

 G.W.までに、九州の南北を結ぶ新幹線、高速道が復旧し、被災地復興に欠かせないボランティアや観光等の、人・物資の輸送路が確保されたことは何よりですが、根源たる地震活動が静まらなければ、何も始められません。
 これまでに経験のない地震活動ですが、「小さな断層の集まりが断層帯を形成する地域」「各断層の余震がいくつも重なって発生しているのでは」「震源が浅く押さえつける力が弱いため地盤が割れやすくなる」等により、原因整理の道筋は見えそうですが、地震活動を止めることはできません。とにかく早期の収束を願うばかりです……