2020/12/28

密とは無縁な──荒川・中川背割堤

2020.12.13【東京都】

 密とは無縁な荒川・中川(放水路)間の背割堤(せわりてい)を歩きます。ここで江東花火大会が見学できたとしても、その日以外は閑散としています(釣り人、自転車乗り程度)。



 朝は絶好の日和でしたが、日本海側に大雪をもたらした寒気が太平洋側まで流れ込むため、空気の暖かい海上から雲が湧いてきました。北風が弱いためと思いますが、風の強い日に吹きさらしのこの場所は歩けません。
 上は、地下鉄東西線 荒川中川橋梁(手前:リンク先は、以前「仮面ライダー」の撮影が行われた様子)と清砂大橋(奥)。


 背割堤(左荒川、右中川)の上には首都高速中央環状線が通され、東西線鉄橋付近に清新町出入口(内陸側だけのハーフインターチェンジ)があります(上)。
 左右の出入路は、単線とはいえ橋脚の間が長く思え、頭上を大型トラックが走る際は、橋が落ちてこないか不安に感じたりします(ドライバーは信頼して走りますが)。
 下のように出入口と線路が近接し複数の接続道路があるため、見通しのきかない交差点付近には、分かりにくそうな案内板が並びます(背後にある一般道の清砂大橋も交差)。


 右は、東西線以南が埋め立てられる以前の、海上に建設された鉄塔(リンク先の手前の鉄塔:2代目だそう)。この江東線は、新京葉変電所(千葉県野田市)と江東変電所(江東区新砂:右奥の鉄塔付近)を結び、江東変電所からは地中線で新宿方面に向かうらしい。
 現在では、埋立地に立ち並んだ高層住宅の間を、高圧線側が避けているように見えます。

 下は背割堤の終点(案内板は背面)で、荒川の0km地点になりますが、法令上の河川区域は埋立地を含むため、ゲートブリッジ近くの海の中とされます。
 首都高速は、中川の合流地点から背割堤上を通され(かつしかハープ橋で渡る)、ここで江戸川区側に渡ります。
 頭上の首都高速からは、ひっきりなしに走行音が響いてきます。滞りなく物流が継続している様子は、前回の危機である東日本大震災当時に比べると、正常な社会活動に思えます。今回は全世界規模の問題なので、それだけで安堵するわけにはいきませんが、物資の流通は「国民生活を守るために欠かせない活動」に違いありません。


年明けに大きなピークがありそう

 12月に入って、やはり忘年会やっちゃったんでしょうね、クリスマス前から連日とんでもない感染者数が続きます。上級国民から平民まで(都市・地方関係なく)、労働には慰労が必要らしく、年末の行事をやらないと年を越せないようです。
 忘年会による感染拡大に加え、年末年始の行事がもたらす大きなピークがありそうですから、帰省や宴会を自粛する人たちには迷惑ですが(年末は実家に帰りません)、年明けはさらに用心する必要がありそうです。
 みなさまも、年末年始は静かに、1月中は用心して過ごされますよう……

2020/12/21

冬支度は春支度──東大島小松川公園

2020.11.28【東京都】

 公園は荒川の西側に位置し、旧中川をはさんで江東区(西側)と江戸川区(東側)にまたがります。歩ける距離ですが、荒川は風当たりが強いため電車(都営新宿線)で渡ります……



 紅葉する樹木でも、褐色になる「褐葉:かつよう」、黄色になる「黄葉:こうよう、おうよう」、赤色になる「紅葉:こうよう」の順で染まるように見えます(上は褐葉樹の名残?)。東京での印象かもしれませんが、タイミングの違いを理解していれば、多様な紅葉を楽しめそうです。


 上は、公園内に保存される旧小松川閘門(こうもん)(荒川・中川放水路と隅田川の水位を調整:昭和5年)の塔に茂るススキ。高台にある塔の上まで種子が飛んできたようで、右側にライバルが見えますが、ススキの生命力の方が強そうです。ここは雨水が排水されずに溜まるようで、湿地に似た環境かもしれません。


 枯れ色に染まる中に、緑の葉が元気そうな木があります。初冬の冷たい風や、短い日照でもはつらつとした鮮やかさに、生命力が感じられます。
 調べても不明なので、ご存知の方がいたら教えてください。


 上は、紅葉が終わったコキア(ほうき草)と思われ、くさぼうきにするため干されるようです。実は食用のとんぶり(秋田県)、茎はほうきに利用されるように、古くから栽培されてきました。
 同じ一年草のネモフィラと交互に植えられるようで、すでに春に向けてネモフィラが植えられています(国営ひたち海浜公園でも、コキアとネモフィラを植え替えるそう)。付近では菜の花が芽吹いており、本格的な冬を前に「春待ち気分」の準備は着々と進んでいます。
 冬支度と並行して春支度をする季節感を持っていれば、次の季節に思いを馳せることで、厳しい季節を乗り切れるのではないかと……


マスコミに求めること

 現在の世間に漂う緩んだ空気は、言動不一致の政府に起因することは理解していますし、そのしわ寄せにより、医療提供体制が逼迫している様子も伝わっています。自分の身を守るために「これ以上なにができるの?」という方が多い一方、そんなニュース等に関心を示さない人々も確実にいます。それを自主管理せよの態度に、責任放棄と感じる人は多いことと。
 リーダー不在の現状には、草の根から生まれるムーブメントが重要と思われ、医療の知識を持たない人でも貢献が可能な「医療体制の手助け」への、種まき役をマスコミにしてもらいたいと願うところです(軸が必要なのでSNSでは難しそうと)。
 具体的な提案は持っていませんが、「これならできそう」というポジティブな行動で示すことができれば、クールなムーブメントとして、無関心層にも響くのではないか?
 まずは感染しないこと、そして医療従事者に協力することは、無政府状態の現在でも可能ではないかと……

2020/12/14

身近な季節感──行船公園

2020.11.28【東京都】

 近所の行船(ぎょうせん)公園では、これまでタイミングが合わず見頃の紅葉を見たのは初めてで、見事な様子に「十分楽しめる!」と、認識を新たにしました……



 平成庭園の紅葉で有名なようで、天気に恵まれたこの日は、結婚式の前撮りで何組も訪れるように、プロのカメラマンが選んだ日和ですから、バッチリのタイミングと言えそうです。ですが条件が良くても、当人たちの予定や、着付けなどの段取りを合わせるのは大変そうと。

 下は、池の中に段差があり、その堰の上を掃除している様子。普段からそんな場所も掃除するようです。
 ちょうど作業中の雪吊りは、鑑賞用の「化粧雪吊り」とのこと。雪が少ない地域でも、この姿には冬らしさを感じますし、たまに大雪があったりしますから、お願いしておきたいと。


 上は、公共施設(和室・ホール・テラス:月見台)の源心庵で、玄関前には右の枯山水が整備されます(盛砂を作るように気合が入っています)。
 以前ガキがその中を、つま先立ちで駆ける姿を見かけたことがあります。べた足でなかったのは、見えないながらも「水」の気配を感じたとすれば、直感的に伝わるのかもしれないと(単なる罪悪感だけかも)。われわれもそんなことを散々やったんでしょうね。
 心を和ませてくれる白砂ですが、東京で見られる場所が少ないのは仕方ないか……


 上は見事なロケーションですが、ここは庭園外の歩道からの眺めになります。この光景で誘って、庭園に足を運んでもらおうとする狙いは、はまっているようです。
 この奥にあるしだれ桜は、この春には咲きそろわない印象がありましたが、紅葉は十二分に堪能させてもらいました。


他人事との認識が蔓延しているように…

 掛け声だけで「勝負にならなかった3週間」に、「感染者の急増は怖いですね」と、繁華街でインタビューに答える方を責められない気がします。人づてに「〇〇会社でも…」の噂は広まっても、身近に感染者のいない人の方が多いことと。
 そこに、首相答弁から感じる「自分は悪くない」(前任者時分から党幹部の圧力を受けていた)の顔色に加え、専門家の提言を受け入れようとしない態度が、「医者(専門家)の言うことは大げさだから」と受け止められたとしたら、取り返しのつかない間違いを生むのではないかと……

2020/12/07

近所散歩再び──葛西臨海公園

2020.11.21【東京都】

 感染者急増の状況から、11月の3連休は都心に足を運ぶ気になれないため近所を歩きます。花の季節のように、紅葉の季節も近場を再認識しろということらしい……



 紅葉を求めて、バードサンクチュアリとされる鳥類園方面を歩きますが、落葉樹はNG(隠れ場所やエサがなくなる?)なのか、常緑樹が多く植えられるようです。それでも人は少ないのでのんびり散策できます。
 野鳥の姿をほとんど見かけないのは時間帯が悪いようで、観察者もほとんどいません。初老の外国人夫婦ウォッチャーから、ため息が聞こえてきました。

 下のテントはバーベキュー施設で、人が集まるのはアウトドアがベターとはいえ、屋外ヒーターがあっても寒い季節に無理してやらなくても、という気がします(クリスマスも営業するらしい)。


 ここは都立公園ですから、観覧車の感染対策もきちんとしていて、換気・消毒のため定期的に無人でゴンドラを回すそうです。人が乗車時も換気のために窓が開いてそうですから、冬の空中散歩は、日差しのある昼間に限られそうです。
 この冬は、寒さ対策を万全にして外出する必要があると理解していますが、飲み屋ならば「飲んで暖まろう」でいいが、換気バッチリの飲食店で食事をしていると、味わうどころか心まで寒くなるようにも。
 ですが、北海道の感染拡大が換気の問題とすれば、そこから学んだことは生かすべきと……

 レクリエーション施設が整備される公園の中心部には、紅葉する木がポチポチ見られますが、東京湾の奥とはいえ臨海公園なので、海からの風や潮に強く、その影響を防いでくれる、松や常緑樹が多く植えられます。この環境において紅葉する樹木は、装飾用として植えられる様子が見て取れます。

 子供たちは吊橋の揺れを楽しみながら駆け抜けますが(右)、ここを自転車で通る人がいます。歩行では左右に重心が移動しますが、自転車の車輪は前後なので、横揺れは気にならないのかもしれません。ママチャリのお母さんは平然と走り抜けて行きました……



 夜中に中継された映像に向かって拍手しました!
 初代のトラブルを克服し、「100点満点で1万点」「完全にコントロールされた形で計画が完遂された」と振り返る宇宙航空研究開発機構(JAXA)の仕事は、お見事でした! 全面協力してくれたオーストラリアにも感謝を! どんな発見があるのか今後が楽しみです。
 まだ燃料が半分残っている「はやぶさ2」は、すでに次のミッション(11年後に到着予定の小惑星)に向けて旅立ったそう(はやぶさ2からの撮影写真『行ってきます』)。
 あの光の筋を目にした瞬間の感激から、子供たちが新しい夢を生み出してくれることを!


朝が怖い……

 先週水曜日の朝、目覚めた瞬間「熱っぽい?」の感覚にビビるも、体温は37°程度なので気を取り直しますが、翌朝の37.3°を見て一瞬のうちに様々な考えが頭をよぎりました。
 症状もなく、お茶を飲んでも「味覚は大丈夫」ながらも、他人からそんな話を聞いたら「来なくていいよ」と言うだろうと、出勤を自粛しました。普段ならこの程度で会社は休まないと思うも、自信を持てない状況下です。
 翌朝の36.5°を見てホッと胸をなでおろし、こんな状況は早く収まって欲しいと思う反面、そんな感覚を失った人が多いため、毎年インフルエンザが流行するのかもしれないとも。
 11月の3連休でさらに感染者が増えた様子が、見え始めてきました……

2020/11/30

心奪われる職人技──両国

2020.11.14【東京都】

 国技館の裏にまた高層ビルがそびえています(2020年8月開業のアパホテル。勢いがすごい)。大きく変わらなくていいと思うも、総武沿線の町も生きていると……(失礼な!)



 両国駅の普段使用されない3番線ホームへの通路(上)は、ステーションギャラリーとされ、様々な鉄道写真が展示されます(初めて入った)。ホームは、20年1月おでんで熱燗ステーション等のイベント会場とされますが、ホームで飲んだ帰りの電車では寝台車気分にならぬよう……

 両国国技館では大相撲 11月場所が開催中で、観客数は制限されてもワサワサしています。取り組みには見所があっても盛り上がれないのは、人気力士不在や、日本人力士が伸び悩むせいとも。横綱を含め休場者が多いのは、格闘技では仕方ない面もあるが、筋力の向上に関節等が悲鳴をあげるためとも(野球の大谷選手と同様)……
 上・下写真は、なかなか足を運べなかった、16年開館のすみだ北斎美術館
 これまでも北斎の版画とは何度も対面していますが、光の当て方や展示方法の違いか、細やかな線が限りなく並ぶ様子を目にし、これぞ日本の職人技(スゴイ仕事)! と心奪われました。
 北斎漫画(漫画:事物をとりとめもなく気の向くまま漫(そぞ)ろに描いた画)の複製本が展示され、巻末に版元の新刊予告が掲載される体裁は、江戸時代からあったのかと。
 建物は賞をもらったそうで、奇抜な外観に関心を引かれるも、敷地面積が広くないのにデコボコする館内は、わかりづらく狭い印象を受けます。


 美術館前の北斎通り沿いには、下町っ子のセンスが見て取れる、シャレた店舗が多く見られます。
 右の温浴施設両国湯屋 江戸遊の外観はのれんのイメージで、浴場の壁には北斎の赤富士(凱風快晴:がいふうかいせい)が描かれるらしく、そんな富士山を眺めながら入ってみたいと。

 近くのMERIKOTIに並ぶカラフルな商品に、ソックスの店かと思ったら、わらじの形状をした「布ぞうり」を扱う店舗で、スリッパのような室内ばきだそう(手作りワークショップも開催している)。両国という場所柄に似合う商品ですし、慣れたらハマりそうな気がします。


 上は、両国訪問時は寄らねばならない東京都慰霊堂(関東大震災、東京大空襲の身元不明の遺骨を納める)の、入口の上に飾られるオブジェ(魂ここにあり、の表現では?)。
 江戸時代には、御竹蔵(おたけぐら:「置いてけぼり」の言葉が生まれた地らしい)とされる貯木場があり、明治期に陸軍被服廠とされ、震災・空襲後に慰霊堂、昭和期に両国国技館、平成期に江戸東京博物館 等が整備されます。

 隣接地の旧安田庭園(大名屋敷〜安田財閥創始者本邸)にあった両国公会堂は、震災復興で建造され空襲をまぬがれますが、老朽化から民間の管理・運営事業者を募るも、見つからないため取り壊され、刀剣博物館(右)とされました。味のある建物だったのですが……


NHK連続テレビ小説『エール』終了

 古関裕而の楽曲をテーマに据え、目まぐるしく変化した激動の昭和期を、「歌は世につれ、世は歌につれ」とつづろうとする狙いは、成功したのではないか。
 「福島三羽ガラス」作曲家(窪田正孝)、作詞家(中村 蒼:熱男!)、歌手(山崎育三郎)たちの、熱き友情を描く物語は朝ドラにはなかったかと(『俺たちの旅』を想起した)。本作で、もっともいい役をもらったのが森山直太朗で、三羽ガラスの恩師(音楽教師役)として、演技・歌唱とも強く印象に残った。一方、残念だったのが志村けんさんで、才能をねたみイビリ続ける師が、ラストで賞賛する難しそうな表現を見てみたかったと……
 美声ぞろいの出演者たち(舞台俳優を多く起用)の歌声に酔いしれたが、気合の入っていた柴咲コウのオペラ、思いが込められた薬師丸ひろ子の賛美歌には、心揺さぶられた。

 世代的に離れていても、古関裕而の楽曲に身近な印象を抱くのは、「スポーツ=野球」の時代に育った野球少年だからかと。戦前・戦中の意識は想像もできないが、戦後の社会に満ちていた「希望」は記憶の片隅にあるので、現在の閉塞感からの脱却、二度目のオリンピック開催に向けての「エール」となることを!


説得力のない判断が混乱を招きそう

 政治家は専門知識を持つ必要はない反面、聞く耳を持つことが重要なはずです。そのために各方面の専門家委員会が設置されているのに、都合が悪い提言に耳を貸さず下す判断(学術会議を含め)に、説得力があるわけもありません。前任者と「詭弁を押し通す盟約」があったとすれば、大きな混乱を招くのではないか。
 すでに国民は、「感染予防対策はちゃんとやってるのに」と息苦しさを感じ始め、気持ちが沈み始めています……

2020/11/23

川も町の一部──本所

2020.10.31【東京都】

 業平橋(なりひらばし)から本所を歩きますが、隅田川沿いの「隅田川テラス」では工事中のため、階段がいくつも閉鎖され堤防を越えられず、延々と川沿いを歩くことに……


 とうきょうスカイツリー(旧 業平橋)駅前の北十間川に架かる橋は東武橋(東武鉄道本社があった)で、業平橋は現在の大横川親水公園に架かる橋(右写真の鏡像では左上側)。
 公園にあるスカイツリーへの道を映す大きな鏡は、このように利用するようで、子供連れでにぎわいます。

 スカイツリー、ミズマチ、浅草 等の観光地に足を運ぶ人たちは、マスクをしていれば密は気にならないようで、マスク越しに笑顔がうかがえますが、感染が急速に拡大したのはこの時分ではないかと(遊びに来ていればゆるむのも当然か?)。
 ゆるゆるの人混みをかわしながら隅田川へ向かいます。
 吾妻橋(上:リンク先はきれいな夜景)は、雷門前を横切る道と、アサヒビールのビルのたもとを結びます。浅草の対岸で人も少ないため、まばゆい川面をまったりと眺められます。
 明治期の洪水では、上流の千住大橋から流された橋桁が橋脚に衝突し、一緒に流失してしまったそう。少し前までは、木造の橋だからと思ったでしょうが、集中豪雨で鉄橋が流される状況を目にした現在は、当時のショックを理解できる気がします。

 川沿いに整備された隅田川テラスの人出は、普段と変わらない様子に見えます(散歩やジョギングする人はパラパラ程度で密ではない)。午後の散策には、日の当たる墨田区側(東側)が心地よく、いい感じに陰る駒形橋(上)はグッドタイミング!
 普段から隅田川に感じるのが橋の多さで、川・橋と同様に、川向こうも身近に感じられるまちづくりは、近隣に暮らす住民にとても大切な環境ではないかと。
 右の厩橋(うまやばし)の本来の色は、もっとシックな深緑です。架橋前(1874年:明治7年)の渡し舟は転覆事故が多く、「三途の渡し」と呼ばれたとか……

 本所の名称は、幕末期に韮山反射炉(日本最初の溶鉱炉:静岡県伊豆の国市)や、お台場を建造した江川太郎左衛門の屋敷(本所)があったことに由来するそう(古くは荘園制度の「ほんじょう」)。
 以前は本所区(墨田区南部)とされ、関東大震災の火災でほぼ全滅、空襲でも甚大な被害を受けた印象が強く残ります。それゆえ街区はきれいに整備され、見通しのいい町並みになりますが、各家の区画は以前同様の狭いままに見えます。暮らしやすそうなので、部外者が意見するものではないと。
 右は、使われてない倉庫の扉のようですが、シャレています。



 世代的にアポロ計画時代の、モコモコの宇宙服や、無数のボタンが並ぶ制御ボードに心踊ったものですが(ウルトラマン世代)、最新の宇宙スーツ(スターマンと呼ばれるそう)や、タッチパネルのディスプレイ制御のスマートさに、「映画のようなカッコよさ」と目を奪われました(スターウォーズ公開時分は、インベーダーゲームのような画面に熱狂していた)。
 最新の宇宙船はこうでなくちゃと、若い世代は当然のように受け止めるでしょうから、ウルトラマン世代と違いスターマン世代は、きっとスマートな大人になるのだろうと……


「Go To トラブル見直しのスピード感

 彼らが好んで用いる「迅速」「スピード感」が、連休明けをターゲットとしたのは、目標とする売り上げ達成のために、「連休営業で巻き返し!」と考える企業と同じではないかと。内閣評価に重視される数字挽回に、譲れない期間と考えたように感じます。
 評価は本来国民がすべきですが、不安の声に耳を傾けようとしない態度は、前任者から受け継いだようで、「国難」の表現も次の後継者へたらい回しにするつもりだろうか。
 国民の関心は、忘年会・クリスマスではなく年末年始を見据えているのに、「これじゃ、今年は難しそう…」との落胆が広がったのではないか……

2020/11/16

オヤジの居場所は?──錦糸町

2020.10.24【東京都】

 押上駅から錦糸町方面に向かいますが、以前歩いたかも、と思いながら同じ道を辿っています。同じ雰囲気に引かれる嗅覚は進歩しないようです……



 城のようなお城 森八本舖本店の建物は(上)、城好きの先代の意向によるもので(2年がかりだそう)、19時までライトアップされるサービス精神はきっと伝わるし、和菓子で建てた城を題材にした童話が生まれそうとも。
 栗入最中に入っている栗の大きさは評判らしいが、目にした途端に甘さが口に広がってくるので、ゴメンナサイ……


 右は閉鎖されたアパートの傾斜が急な木製階段で、幅、踏み面(ふみづら:奥行き)が狭く、裏板に隙間がある(ホコリを裏に落とすため?)見事な昭和の痕跡です。
 現在も多いアパートの鉄骨階段を駆け上がる音は、「カンカンカン」(響くんだよね)ですが、木製階段の「ギシギシギシ」は、やましくなくても忍び足(お化けの足音)のように聞こえたことを思い出します。

 上は、大横川親水公園脇の立派な緑をまとった倉庫で、向かいにあるエアリアル・アート・ダンス・プロジェクト(空中演技ジム)では、みんなロープにぶら下がっています。

 すみだ江戸切子館は、江戸末期から続くガラス細工の展示販売、体験製作ができる施設で、右は扉の装飾。棚に並ぶ商品はどれもキラキラですが、手が出る品ではありません。

 大学同級生の奥さんは陶芸家で、彼女の「壊れるモノを作っている」という覚悟は、われわれが抱く常識的な観念から、一歩踏み込んでいる印象を受けたことを想起しました。
 身の回りは「はかなきもの」に囲まれていますし、自身もいつ壊れるか予測できないことを、常に自覚しておくべきではないかと……(そんな意識を持つことが、年をとるということかも)

 上は錦糸町のランドマークだった楽天地の現在の看板です(以前の看板写真はこちら)。
 阪急阪神東宝グループながらも改築時に西友を誘致し、リニューアルに伴い錦糸町パルコとなりました(2019年)。楽天地スパ(男性専用:最上階のガラス窓部分)、近くのウインズ錦糸町(誘致した楽天地のロゴがある)は健在ながら、かつての「オヤジの楽天地」というマイナスイメージが払拭され、地元には明るいニュースだったかもしれません。
 駅周辺はいまどきの町になりつつあり、錦糸町から締め出されたオヤジはどこへ向かうのだろうか……(新小岩はまだ「昔の名前で出ています」という感じかも)


「Go To ◯◯」を利用するのはみなさんの判断
 by 西村経済再生相

 近頃の急速な感染拡大は、「マスクをし、手洗いを徹底し、密を避け、人と会わないようにしていても、これ以上なにをすれば……」と実践しながらも、「大丈夫だろう」の気の緩みが広まった結果ではないかと。それは「Go To ◯◯」施策が、「少し安心かも」との間違ったメッセージとして受け止められたためで、「旅行は問題ない」→「少し楽しんでいいんだ」との受け止め方は、責められない気がします。
 第2波、3波といわれるものは、政府の施策に生み出されたもので、都合のいい言葉になびくことを利用する政治家のやり方に、国民が乗せられ生じた危機ではないか。状況は変わらないと繰り返す専門家(医師)の「苦い」言葉に耳を貸さず、甘い言葉になびいたことを反省すべき時ではないかと。

2020/11/09

昭和感が漂う──田原町

2020.10.18【東京都】

 前回の続きを、稲荷町から浅草へ向かいます(地下鉄 銀座線の稲荷町〜田原町〜浅草)。
 周辺は東本願寺を中心とした寺町で、浅草通り北側に寺が集まり、南側に神仏具店が並ぶのは、仏壇が日やけしないよう南を背にするためらしいが、向かいのビルに反射した日が差し込むようになったそう……



 背の高いマンションに建て替えられた旧同潤会アパートの向かいに、二軒長屋(?)がポツンと残されています(周囲は更地)。前回の「下谷育ちオヤジ情報」から、五代目 志ん生(池波志乃の祖父)が暮らした家ではないかと。取り壊しの話を知った近隣住民は「志ん生の家は残すべき!」と即決し、すぐ「金の都合はどうする?」と、動き出したのではないか?
 「そんなの当たりめぇじゃねぇか!」だとしたら、下町らしさに惚れちゃいます……

 そのマンションの裏には銭湯が健在で(下)、「こんなところに銭湯あるの?」という仲間を連れてきた若者が、「ほらほら、いい香りがしてきたろ!」(下町っ子らしく声が大きい)の表現に、「わかる!」とうなずきましたが、わかる人も減ってるんでしょうね。
 同潤会アパートがあった時分は、昭和が薫る一角でした。


 かっぱ橋道具街は観光地ではないため、日曜休みの店が多く(土曜は営業らしい)人通りも閑散としています(当然外国人観光客は不在)。
 右の食品サンプルは、工芸品のような繊細さに目を引かれますが、これは「売り物」なのでカバーがかけられています(うまく撮れませんでした)。
 日常を考えてみれば、写真の方がイメージしやすく食欲が喚起されるので、店頭を明るく見せるための装飾、という気もします。ですが、ホコリだらけのサンプルには、別の意味で関心が高まる、不思議な心理(探究心・冒険心?)も働きます。冷やかし半分なので、覚悟の上でチャレンジしたりも……
 田原町から浅草へと続く繁華街の、国際通り・雷門通り沿いには、昔からの店舗で営業する「花家:焼そば、甘味喫茶」、小型の神輿が飾られる「岡田屋布施:太鼓、神輿」、もくもく煙る「八ッ目鰻本舗:漢方薬とされ、蒲焼はあるがご飯はない、薬味酒はあるがビールはない」が健在です(ヤツメウナギは鰻とは別種)。眺めながら歩くだけでも楽しめます。

 右は、会席料理 「茶寮 一松」“はなれ”(手土産・生菓子販売店)で、オープンしたばかりらしいが、ひっきりなしに客が出入りする人気店。
 寺町周辺の繁華街は、世代・性別を問わない店の多いことが強みではないかと。

 9月まで閑散としていた雷門前には観光客が戻り、通りに人力車が並ぶようになりました。
 普段の雰囲気に戻りつつあり、人混みでは全員マスクをしていますが、完全にオフ・モードなのでそそくさと地下鉄へ向かいますが、休日の車内はゆるゆるです……
 上は、駐車禁止標識の「人力車を除く」を撮りたかったもの。


ススキノを守る戦い

 北海道知事の「ススキノを守る戦い」発言を、NHK ドキュメント72時間「札幌・サンドイッチ店 24時間営業は続く」を見て、理解できた気がしました。ススキノに近い店を利用する人の多くは歓楽街に関わりがあり、地場産業(?)とも言える広い裾野を持つ町のロックダウンは、札幌に限らず北海道全体に影響が及ぶ恐れのあることが、伝わってきました。
 自分や家族を守る行動が社会を守ることにつながると、再認識すべき時ではないかと……


大人のアメリカに戻ってもらわなければ 

 「失われた4年間」の出口には、反対票を投じた半数近い国民に加え、多大な被害を及ぼし続ける疫病が待ち受けています。かなり困難な道のりですが、ここで立て直してもらわなければ、世界の混迷が深まってしまいます。
 まずは「子供の時間」に終止符を!

2020/11/02

下町育ちの清々しさ──稲荷町

2020.10.18【東京都】

 地下鉄銀座線 稲荷町の駅名・旧町名の由来は、以前下谷稲荷明神社とされた下谷神社によりますが、町名は変更され東上野とされます。


 以前上野駅に近い昭和通り沿いには、オートバイ関連店が軒を連ねるバイク街がありましたが、現在は数えるほどしかありません(バイク人気は1980〜90年代がピーク)。
 わたしも86年オフロードバイクに乗る際、ヘルメットやジャンバーを買った記憶があります(バイク通勤ができなくなり、5年程度でフェードアウト)。
 バイクは確かに危険ですが、車では味わえない「叫びたくなる瞬間」を体感できます。その分、体への負担も大きいため、よくカゼをひいた記憶があります。
 オヤジたちが、ゆったりと走る姿はカッコイイと感じますが、「体力あるなぁ〜」と……

 右は、地下鉄銀座線の車両基地で、カメラ位置の道路を横断して地下に入ります。線路脇から電気を供給するため(パンタグラフは無い)、感電事故防止のため地下鉄側に踏切がある軌道遮断式は、日本ではここだけらしい。
 日本で初めての本格的な地下鉄で、線路幅の広い標準軌が採用されたのは、東京メトロでは銀座線と丸ノ内線だけ。

 線路脇で電車が来ないと不満げな子どもに、母親が「上野始発の電車じゃないと通らないのよ〜」と、スマホで時刻表を調べる姿に、さすが地元の方はわかってらっしゃると……(お母さんも以前はそうだったのかも?)


 上の旧下谷小学校は、関東大震災(大正12年:1923年)後の復興期(昭和3年:28年)に建てられ、地下鉄銀座線(27年)、解体された同潤会アパート(29年)、旧下谷区役所(現 台東区役所:30年)が竣工したように、町全体が同時期に再建されました。
 90年に清島小学校と合併し上野小学校(清島小学校敷地に移転)となりますが、現在も校庭は駐車場、建物は倉庫(?)に利用されています(中をのぞいてみたい)。この先も、建物を活用しながら残されればいいのですが……


 右の下谷神社前で突然「さっき比留間歯科(上)の写真撮ってたでしょ!」と、下谷育ちの方に声をかけられます(旧下谷小学校卒業生だそう)。圧倒するような大きな声ですが、ひとなつっこい話し方に引き込まれ、様々な情報を(天海祐希の実家がある:下町育ちに納得。ビートきよしが住んでいた:それも自慢らしい)。
 前回訪問時は祭礼だったと話すと、今年の中止を膝を叩いて悔しがり、ちょうど縮小開催される三社祭の雰囲気だけでもと見学に来る、チャキチャキの祭り好きでした。
 思いをすべて表現する習慣を身につけると、肩がこらないというか、清々しくも感じられ、それが下町育ちの魅力かと……


 上の稲荷町駅の出入り口は開業当初のデザインだそうで、いまどきの街並みでもひときわ目を引く存在です(寅さんの背広のような柄とも)。

 以前の空気感が残る地域として開発への抵抗は可能でも、建築物には老朽化が迫ってきます。存続を願っても補助してもらえない建物は、櫛の歯が欠けるように失われていく様子を、指をくわえて見ているしかないのでしょうか……

2020/10/26

入谷と下谷

2020.10.3【東京都】

 入谷と下谷はどちらも「上野周辺」の認識なので、ちゃんと区別できるようにと歩きましたが……


 東京15区・35区の時分は、下谷区(現 台東区西部)内に入谷町がありましたが、現在台東区の二つの町として昭和通りで接し、地下を通る日比谷線の駅名は入谷とされました。入谷朝顔市のネームバリューか?
 付近に広がっていた千束池、姫ヶ池や湿地帯は、家康の命で埋め立てられ、上野山から見下ろした平地を「下谷」、付近の田んぼを「入谷」としたのは、低地のイメージでひとくくりにすると、下町っ子のプライドが許さなかったのか?

 右の大正小学校(大正5年開校)は、旧校舎の曲線デザインを踏襲し建て替えられ(1994年)、外観が円筒形の階段にも柔らかな印象があります。

 上・右写真前の道に残る金美館(きんびかん)通りの名称は、旧映画館によるもので、現 川崎チネチッタ親会社の母体となったそう。地域の映画館は人気低迷時分に、バタバタと閉館に追い込まれましたが、チネチッタにつなげたことは成功例と言えそうです(興行の世界は怪しげです)。
 この通りは「吉原への道」として知られ(川崎を目指した理由も同じ?)、「夜の雑学 金美館通りの藤村さん」なんてYoutubeも目にします(紹介はしません)。

 右の水上酒本店(創業明治33年、昭和4年 木造3階建て)の迫力ある姿には、見とれてしまいます。

 右の小野照崎(おのてるさき)神社は、上野照崎(寛永寺隣接の輪王寺付近)に小野 篁(おののたかむら)を祀りましたが、寛永寺建立(1625年)のためこの地に移転します。篁は平安期の公卿(くぎょう)ながらも、夜間は冥府で閻魔大王の裁判の補佐をしていたと伝えられます。
 境内にある、重要有形民俗文化財の下谷坂本の富士塚(富士山を模した人工の山)は、富士開山の6月30日と7月1日に一般登拝が可能だそう。
 右は、まゆ玉みくじ(まゆの中におみくじが入っている)の結び処ですが、さわりごこちがいいので持ち帰る人も多いそう(ここは菅原道真も祀られる、芸能・学問・仕事の神様)。


 上は、入谷朝顔市が開かれ「恐れ入谷の鬼子母神:きしもじん、きしぼじん」でも知られる、真源寺賽銭箱の紋。両脇は作物、巾着の中は魚のウロコのようで、五穀豊穣・豊漁祈願が込められるようです。安産と子育ての守護神とされるので、子どもの成長を支える糧を守る、ということでしょうか。
 右は、釈迦が鬼子母神にザクロを勧めた、との話から植えられたようですが、それは日本での作り話らしい。

 入谷朝顔市は、境内に農家が展示(奉納?)したことに始まり、明治期に周辺の朝顔が評判となり、にぎわうようになったそう。


最後の映画育ち?

 NHK連続テレビ小説『エール』で注目された戦禍描写で、映画出身の二人が育ちの違いを見せてくれました。
 讃美歌独唱が評判となった薬師丸ひろ子には、空襲場面で「この目力は高倉健さん仕込み?」と驚嘆させられ、吉岡秀隆には、『男はつらいよ』の「おいちゃん:下條正巳」の姿が重なり、「寅さんが目標でも、まずはまっとうな役から」の表現力に、引き込まれました。
 子ども時分から映画で育った「戦争を知らない子どもたち」が、戦時下の人々を演じ感銘を与えられたのは、素晴らしい大先輩(先生)から学んだ「姿勢」によるのではないかと。
 ですが、そんな彼らが最後の映画育ちとなりそうな状況には、さみしさを感じます……