2019/03/11

水彩都市を演出する──木場

2019.2.23【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_16

 江東区が目指す「隅田川、荒川、東京湾に囲まれた水と緑豊かな水彩都市」の構成要素のひとつである水路は、身近な風景として生活の一部になっていますから、どうアピールするかにかかっているように。




 ここは平久川(へいきゅうがわ)を挟んだ木場の西側地区で、江戸城築城の際の石置き場&加工場とされた歴史が地名に残ります。付近では関東大震災後からたびたび町名が改正されますが、残そうとしたのはよほど思い入れのある名称のためかと。
 旧古石場川(現親水公園)に架かる琴平橋(上)は、石を運ぶ船は事故が多いため、海の神である「琴平神社:こんぴらさん」を建立した名残ではないか、と勝手な想像をしましたが、漁師町の神様だったそう(港には必ず神社があります…)。
 古石場文化センターにある小津安二郎展示コーナー(深川出身の映画監督)を見学してみると、気取って見えたのは下町気質の振る舞いと感じられ、愛すべき庶民だったように。




 区の取り組みとして、殺風景な水路に架けられるトラス橋などの橋をアピールすれば絵になりますし、デザインには下町らしい見栄やこだわりが見られるので、地域文化として注目されることと(上は1984年竣工の白妙橋)。この構造が立地の制限(橋脚を作れない等)によるとしたら立派な売りになるのでは。

 付近は倉庫や工場が並ぶ地域ですが、何と言っても木場駅は地下鉄東西線で大手町(東京)駅まで4駅という便利な場所なので、施設が移転した跡地には次々マンション等が建てられ、人口は増える一方のように(保育園が2つある)。イトーヨーカドー(ギャザリア)は近くても、住宅地としての整備にはまだ時間がかかりそうです。


 上は以前、越中島貨物駅から豊洲・晴海方面へ伸びていた東京都港湾局専用線の遺構(意図的に残されるようなのでモニュメント?)。この先の豊洲方面にも、跡地の形状が分かる駐車場や水路の橋脚が残るらしい。
 周囲の遺構は残しても、本丸の豊洲(旧東京ガス工場→豊洲市場)は「マジやばい」ため、盛り土をしたものの……(小池都知事が引き下がったのはヤバさを学習したためかと)。晴海の埋立地は主に港湾・流通関連会社に売却されたので、建設中の五輪選手村も大丈夫らしい。

 右のしおかぜ橋は汐見運河を渡る人道橋で、その先のJR京葉線、越中島貨物駅を渡るアーチ橋とつながっています。後者の見栄えは立派だが、スペースが無いにしてもやり過ぎの印象と。

 一帯には工場用地向けの広い区画割が多い中、しおかぜ橋周辺だけは町工場向け程度の区画とされ、工場兼住居も入り混じりこまごまとしています。
 工場跡地の再開発に規模の大小はないようで、歯抜けとなった跡地には住宅が建てられ、小さいながらも工場用地に宅地化の波が押し寄せるように見えます。
 そんな状況のためか、右の写真を撮っていると(再生紙を扱う倉庫)、事務所から出てきたおばちゃんが「何を撮っているの?!」と、クレームのような口調で声をかけてきます。周辺では様々な話が飛び交うらしく、神経質になるのも当然で、不審者を目にしたらすぐに追っ払っているようです。
 こんなどうでもいい写真を撮ってれば疑われます。

 右は木場にある、屋形船・釣り船の深川吉野屋の船着場を水門の外から見た絵(前回の逆方向)。
 この門を閉じると奥側が内堀になります。手前側も非常時には、5箇所の水門で東京湾と仕切られ外堀となるので、高潮・津波等の際には二重に守られることになります。しかしそれは、周囲の堤防がきちんと機能した場合の話で、弱い場所が決壊し堤防内部が水没する被害を近頃よく目にします。
 堤防内部には当然排水ポンプが設置されていても、いざという時に役に立たなかったという話も耳にするので、教訓を生かすためにも、念を入れた準備・訓練が必要ではないかと。




 フジクラ(旧藤倉電線)工場跡地の再開発による複合施設で、オフィスビル6棟、商業施設(イトーヨーカドー、109シネマズ木場等)、レストラン街等のある敷地はかなり広く、この施設のおかげで木場周辺のイメージが格段に上がったことと。
 レストラン街で見かけたキッチンジローに数十年ぶりに入ってみると(場所柄ゆえ店内はこぎれい)、キャベツにかけたソースの変わらない味から、若い時分の食生活の記憶がよみがえりました。年齢とともに好みも変わったと思っていたが、「あっさり好みになった?」と味覚で実感すると、ちょっと驚きます……

 右はフジクラ 木場千年の森(ビオガーデン)のネコヤナギ(後日の絵)。

2019/03/04

背筋が少し伸びるころ──木場公園

2019.2.17【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_15

 まだ冬物は手放せませんが、日差しのもとでジワッと汗ばむ陽気にこわばった体もほぐれ、背筋が少し伸びてきたと感じるように……



 木場公園といえば木場の角乗(水に浮かぶ角材上での妙技披露は10月の区民祭り)で、リンク先のように人出は凄そうですが、近くなったので一度は見なければと。
 「火事と喧嘩は江戸の華」の火災では、材木商の木材が延焼の原因とされ、日本橋界隈から転々とし木場深川町に落ち着きましたが、1969年貯木場が新木場に移転し跡地に公園が整備されました。
 近頃木材を運ぶトラックを目にしないように、流通形式が変わったため、現在新木場の貯木場は使用されないようですが、木材加工工場等は現在もあるため漂う木の香りから、環境省のかおり風景100選に選ばれたそう。


 公園内の都市緑化植物園は、自分たちで手入れ可能な植物・庭の見本が並ぶようなガーデンで、手入れする方々も自分の庭のように愛着を持っているように見えます。庭を持てない人が草木を育てられる施設としたらマニアは集まるとしても、収拾がつかなくなりそうです。
 また、様々な犬&飼い主でにぎわうドッグランで大型犬が走り回る姿を見られないことも、飼育スペースや、庭を持てないためらしいが、この公園のサポートは庶民生活に多少のゆとりを与えてくれるのではないかと。

 今年の梅が遅いように感じたのは気候のせい?(千葉県の気候に近い西葛西は遅いのか)世田谷の羽根木公園は2月の終わりが見ごろだったようです。


 久しぶりに隣接の東京都現代美術館を見学しようと意気込んでいたが、改修工事中のためフェンスで囲われています。これまでは感じなかったが、目の前まで行って休館とされると、途端に「不便な立地」「雨の日には来ない」などと、ネガティブなことを考え始めてしまいます(美術館の建物はトラス橋をイメージしたものかと)。

 付近の水路に多くみられるトラス橋は、関東大震災の復興橋として架けられ頑強さが売りでしたが、周辺が地盤沈下したため橋と数mの高度差が生じます(橋や堤防等の構造物は地下に杭を打つため沈みにくい)。
 右の亀久橋のように、前面にある下町らしい小粋な飾りを見かけると、全部回ってトラス橋カタログを作ったら楽しそうと。

 江戸幕府は、一帯に広がる湿地に水路を通して水運に活用し、周辺住民は水路の土手を足がかりとして周辺を開拓したそうです(たくましき庶民!)。
 旧水路を整備した木場親水公園(右)の水辺が水路の底に作られているのは、地下に下水路を通して周辺の雨水を集めて排水するためではないか。そんな施設のおかげで、排水路を心配せず下写真のように水路が遊歩道より高い場所(肩の高さ)を通せるように。
 湿地だった江戸時代の再現にこだわる姿勢から、水彩都市を自称する江東区の意気込みを理解できましたが、水から町を守れない災害が頻発しているので、余裕を持った対策が必要ではないかと……



追記──米朝首脳のベトナム観光

 うまくいくとは思っていなかったが、あれが彼らの本気だったんだよね? 「予定通り」「収穫があった」としたらもう少しマシなコメントが出ていたはずと。成果への貢献をアピールすべく動き回った、日・韓・中・ロの取り巻きもシラケてしまいます。
 自国第一主義を掲げる国の代表は「外交シロウト」で当然とされたのでは、世界はどうなるのかと(国内体制の粛清では世界は変わらない)。双方とも外部の見解に耳を傾けないのだから何を言っても仕方ないが、ベトナム観光に付き合わされたマスコミ等の膨大な経費が、無駄遣いとならぬよう願いたいと……

2019/02/25

記憶は薄れても──旧洲崎

2019.2.10【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_14

 事前に情報を知らなければ普通の住宅街のようで、以前の痕跡は見当たりません。あえて言えば、碁盤目状の整然とした町並みから、何かの目的で整備されたのでは? と推測する程度か……


旧深川洲崎弁天町(東陽一丁目)

 この一画は、江戸時代の埋立地のため地盤沈下の影響を顕著に受けており(手前)、新しい基準による奥の埋立地との高低差は3m近くあります。
 当初は「東に房総半島、西は芝浦まで東京湾をぐるりと手に取るように眺められる景勝地」から、初日の出の名所とされたことが、現 東陽町の名称由来ではないかと。
 大正期の付近には海水浴場が開設され(潮干狩りも楽しめた)、季節になると城東電車洲崎線(路面電車)は海に向かう人でにぎわったとのこと。
 洲崎遊郭(1888年:明治21年〜)、戦後 洲崎パラダイス(〜1958年:昭和33年 リンク先Youtubeの記録映画は当時の様子がよくわかる)とされた時分は出島のようで、橋を渡る必要がありました。

 1982年陸地との間を隔てた洲崎川(運河)を埋め立てた場所は、現在も堤防のように高くなっており、右は埋め立てた川の跡に作られた洲崎川緑道のトンネル。
 この上に遊郭へ渡る洲崎橋が架けられ、その入口に設置された洲崎大門(鉄の門柱:女性の逃亡を防ぐためかと)は空襲の被害を受けますが、戦後に洲崎パラダイスのアーチが設置されました(上の記録映画で見られる)。
 運河埋め立て後に橋は不要ないので平坦にすればいいと思うが、旧運河の堤防には現在も両岸の陸地地盤を守る役割があるようで、地盤強度に自信のないゼロメートル地帯では構造物を解体する選択肢はないのかも知れません。
 現在では遊郭時分の痕跡は消え、ここで働いた女性たちの供養碑だけが残されています。


 上の洲崎神社(リンク先の弁天池は駐車場に)は、海難除けの信仰を集めるも高潮の被害を受け、境内には付近を居住禁止とする波除碑(警告の碑)が設置されました。
 当時、神社前に店を構えた伊勢屋というそば屋が、丸い竹ザルにそばを盛って出したのが「ざるそば」の始まりとされるが、その店も高潮で流されたそう。後に描かれた歌川広重の浮世絵「深川洲崎十万坪」は、災害後の周辺を描いたものと解釈されています。
 右は、木場駅から神社へ向かう途中の新田橋(赤い橋)のたもとにある深川吉野屋(釣り船、屋形船)の船着場。周辺での海との関係は、人間の方が圧倒的に不利で肩身がせまそうなので、海の上で発散するためにも船は重要かも知れないと(付近は木場六丁目)。


江東運転免許試験場周辺(新砂一丁目)


 以前試験場周辺には、プロ野球チーム 大東京軍(後の松竹ロビンス〜現在のベイスターズ前身チームに吸収)本拠地の洲崎球場(1936〜43年)があったそうで、選手たちが球場入りする際に、遊郭の2階から手を振る選手がいたとか。また、満潮時に海水が浸入してコールドゲームになった、グラウンドから貝殻が出てきた、スタンドにカニがいたなどの伝説も。現在跡地周辺には、明治や日本デジタル研究所等のオフィスビルが並びます。
 上は西濃運輸 深川支店のかなり年季の入った設備ですが、まだ現役らしい。
 下のスカパー東京メディアセンターは「放送の発信源」らしいが、このアンテナだけで80chある放送を発信しているのだろうか。
 東陽町駅周辺のオフィスビル群から工場用地への切り替わりが急なのは、土地利用の切り替え中のようにも。





 朝のピークを過ぎた時間帯に利用していると、運行本数を減らし始める時間らしく時折「東陽町行き」を見かけますが、その車両はここに入ってくるのかと(地下なので引込み線に気づかなかった)。1967年東陽町駅開業時に開設されますが、それまでは旧国鉄 三鷹電車区等で検査を行っていたらしい。広さもありますが、長さが600m以上あり、ひと駅分くらいありそうです(東陽町〜木場駅間はそんな程度では?)。
 東西線の車両って「来たら乗る」だけで関心もないため、違いがわかりません……


追記──沖縄県民投票結果の扱い方を見届けるべき

 異論はあっても、県民投票結果として沖縄県民の意見が発信されました。
 この先は県民だけでなく国民も、議論ではなく沖縄の人々の気持ちを揺さぶって押し付けたことを、どう進めていくのかを見届ける必要があるのではないか。議論の余地がないとするなら、アメリカのように大統領を選出して、拒否権で決定を覆せばいいのか? われわれとしては、どのような進め方なら納得できるのかを考えるべきと。
 同じ日の天皇在位30年式典で歌われた、天皇・皇后による琉歌(沖縄歌謡)に込められた気持ち(尊重しあい島国で生きていく術)にこそ日本人らしさを感じます。

2019/02/18

発展を願って──東陽町

2019.2.2【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_13

 かなり前に見聞のため、わざわざ江東運転免許試験場まで免許更新に来たことがあり、遠かったせいかここではないと感じた記憶があります。ですが引越しの際に、江戸川区の警察署ではゴールド免許の更新もしていないため、江東で更新しろと指定されました……



 仙台堀川は江戸〜明治期に開削され、1982年の埋め立てまで船が往来したため水道管は旧運河上を通され、現在も遊歩道の上空を横断しています(付近は幹線道との立体交差のため高度差がある)。
 自治体は埋め立てた運河を緑地帯とし、ところどころに広場を整備することが自分たちの仕事と考えるようですが、子供達は遊び場が無いためか、付近の遊歩道の傾斜を利用してスケートボードをしてます。
 目の前の環境を工夫して楽しもうとする想像力が、手すり等を滑る競技を生み出したように、どんな場所からも可能性は見出せるとしても、サポートがなければ環境が整備された場所へと若者たちは去ってしまいます。
 年配者でも歩きやすい散歩道は、町のインフラとして重要な施設に違いありませんが……

 植物には詳しくないので、幹がスッとまっすぐに伸び、枝が上方に向き、樹形が円錐形で赤茶に紅葉する木をメタセコイアと思っていましたが、右のように根元から呼吸根(膝根:しっこん)が出てくるのは、ラクウショウ(落羽松←この漢字読めなかった)という杉の仲間(松ではない)なのだそう。
 湿地や沼地を好むくせに、水分があると呼吸できないため地上に根を出すらしい(マングローブと同じ)。新宿御苑で目にした立派な呼吸根を持つ木の樹齢は100年を超えるとのこと。
 旧運河の面影を残すために整備された人工的な水路やせせらぎには、冬場は寒々しさしか感じないが、暖かい季節になるとそのありがたみが実感できそうです。



 ここは旧仙台堀川と旧横十間川の合流地点で(以前水門があった)、付近の中州にアオサギが営巣している絵は以前も撮った記憶があります。
 周辺で目にする鳥の種類も多そうで(ツグミ、コガモ、ダイサギ等々)、バードウォッチングで人気になったのは、周辺の住民に静かに見守る共存生活が浸透したおかげかと。マンションに囲まれた地が、何年も変わらず鳥たちの楽園であり続ける環境は、都心部のお手本にすべきではないかと。
 横十間川は東京スカイツリー近くで北十間川から分岐し南下する運河で、その名称は、江戸城に向かわず城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことに由来するそう。




 東陽町という響きに下町らしさが感じられないのは、1967年「発展を願って名づけられた」ためで、現在の東陽町駅付近には72年に廃止された城東電車洲崎線(路面電車)の洲崎停留所があり、遊郭で知られた名ではなく明るいイメージの名称にしたかったようです。
 上は東京イースト21として建設された複合商業施設(ショッピングモール、ホテル、イベントスペース、オフィスビル:1992年)のシンボルとされる太陽と月で、以前の水路に挟まれた資材置き場の記憶を消し去り、区役所に近い江東区のランドマークとしてアピールする姿は(鹿島建設による)、東から昇る太陽をイメージしたものか。
 女性専用の喫煙所を見かけたが、これは発展的な取り組みなのか、地域特有の問題なのか?

 右は距離を合わせられなかったので比較できませんが、荒川を挟んだ江東区(左:区役所前)と江戸川区(右:西葛西駅前)に設置される水位標を並べた絵。
 キティ台風は1949年関東地方に上陸した台風で、通過が満潮時と重なった東京湾では、A.P.+3.15mの高潮により江東区や江戸川区など広い範囲が浸水被害に遭い、行徳塩田では製塩業が廃業に追い込まれたそう。
[A.P.(Arakawa Peil):東京湾霊岸島量水標を基準とする基本水準面]
 どうすることもできない境遇で通じるため慰め合うような面もあり、無事だった方は隣人への応援を忘れてはならないと思うも、災害時は双方共に水没しそうなので、お互い逃げるだけで精一杯という気がします……


追記──恩師である中学の先生が亡くなられました

 恩師という響きには、年齢差を内包した遠い存在のイメージがありますが、年齢差がひと回り程度でいとこのお兄さん的な存在ながらも、恩師と思い続けています。
 20代半ばだった立場を自分に置き換えてみると、そんな時分に含蓄のある話などできないと思うし、中学生に語りかけても通じるわけないので、ごくありふれた言葉だったんだと思います。意見に耳を傾け「やってみればいいじゃないか!」と背中を押してくれる言葉に勇気をもらった記憶が残ります。それはわたしに限らず、不安定で自信の持てない年代全般に対する接し方だったため、人気があったのかも知れません。
 人を励ます気持ちを持ち続けたいと……
 ありがとうございました!

2019/02/11

外国人旅行者にも伝わる──砂町

2019.1.11【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_12

 江戸時代に周辺を開拓した砂村氏の名から砂村とされ、後に砂町〜現在も北砂、南砂、新砂、東砂と砂の名が受け継がれるように、砂や泥の湿地が広がっていたことと。




 江戸期に耕地とされ江戸の台所を支えましたが、明治期から小名木川沿いに水運を利用する工場が立ち並びます。東京大空襲で焼け野原となった地に砂町銀座商店街が生まれ、交通は不便な場所ながらも地域の暮らしに活気を与えてきました。
 5m程度の道幅が下町の商店街には丁度いいらしく、ちょっとした人だかりで流れが滞留した時が、モノを売るチャンスと考えているようにも。
 近頃の外国人旅行者にはマニアックな場面が受けるようで、ガイドが焼き鳥屋の前で日本酒を勧めています。昼間っから焼き鳥で一杯が最高の贅沢との説明は、外国人にもきっちり伝わっているように見えますし、お茶屋で試飲する姿には、お茶の味を気に入ってくれたらうれしいだろうとも。

 商店街の総菜店に並ぶ品々はどれもおいしそうで、晩のつまみにしたいものばかり。いまどきは中華系やインド系の店もあり目先が変わって楽しそうですが、じいさん、ばあさんは手を出さないだろうなぁ〜。魚屋はどこも威勢がよく、昼から売り出しのようなにぎわいで、昭和期の商店街の情景を想起します(パチンコ屋も客が入っている)。
 右は独り身と思われるじいさんが、「これ!」と指差しておでんの具をひとつずつ取ってもらう様子。自分が気に入ったモノを買えるシステム(?)こそ買い物の醍醐味なのに、いつしか「おまかせ」を粋と思い込むようになったのは、単に横着になっただけかも知れないと。
 昔はおでんをチビ太のように串に刺してましたが、落っことすヤツは必ずいました(自分を含め)。
 1枚目は近くにある旧質屋の蔵? 下は仙台堀川公園。




 貨物線の踏切=臨海地区というイメージ通り、付近はかつて工場地帯で港湾施設に近い場所柄でした(現在も右の葛西橋通りと永代通りに踏切が残る)。
 以前は沿線工場の製品輸送や、豊洲・晴海(へ伸びていた)で陸揚げされた原料輸送に利用されましたが、現在は越中島貨物駅にある東京レールセンターからの鉄道用レール輸送だけとされます(1日3往復)。
 それだけなら整理できそうだし、南北方向の交通網が心細い江東区ですから、亀戸〜東陽町間に旅客線を走らせればと思うも、豊洲〜住吉間には地下鉄建設計画があるとのことで、この線には何か別の計画があるのかも。
 下は以前、亀戸〜洲崎(現東陽町)間を通された城東電車(路面電車)がくぐる貨物線の鉄橋(廃線後は遊歩道)。路面電車は交通渋滞等を理由に次々廃止されましたが、付近には都市づくりのビジョンから切り捨てられたような不便さを感じます。





 巨大な建物がギュッと集まる共同住宅で、東京都が主体ながらも規模が大きいため分割管理されるらしく、賃貸・分譲等を含め線引きがよく分かりません。
 以前この広大な敷地には旧汽車製造の工場(1972年川崎重工業に吸収合併)があり、旧国鉄、私鉄、地下鉄の車両や、新幹線0系(初代新幹線)車両も製造され、完成車両は隣接の貨物線をD51に牽引され運ばれたそう。
 江戸時代には長州藩主の屋敷があり、ペリー来航(1853年)翌年に、三浦半島の砲台に設置する大砲を鋳造したそうで、後の下関戦争(長州藩 vs. イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)で使用するも歯が立たず、下関を占領したフランスが戦利品として持ち帰り保存しているらしい。
 以前は、物輸の主力であった水運、鉄道の便利な臨海地区で物作りが行われましたが、工場地帯としての役割を終え市街地としての再開発が盛んになると、いたるところで土壌汚染問題に直面することになります。敗戦からの「奇跡の復興」を優先(優遇)した後ろめたさか、国や都は土壌汚染問題に砂をかけて隠そうとしているように感じます。

2019/01/21

低い土地の苦悩──南砂町

2018.12.24【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_11

 南砂町にはショッピングモールSUNAMO(スナモ)やニトリ(PCテーブルを購入)があり、比較的大きなものを買う際に足を運びます。


城東公園

 最初に目に入ったのがロケットや人工衛星のレプリカで、「下町ロケット」に関係する場所か? と思ったら、物語はフィクションでドラマロケも主に大田区で行われたとのこと(本もTVも未見でトンチンカンなことを)。
 ですが案内には「当公園は、宇宙を主題として「太陽系の集い」をテーマに、太陽系9つの惑星広場に、それぞれ特色ある施設を配置しています」(1967年開園)とありますから、以前付近に宇宙に関わる部品工場等があったのではないかと(しつこいね…)。
 メインは交通公園で自転車の貸し出しがあり、スポーツセンター、幼稚園、区民農園等が隣接します。
 近くに元貴乃花部屋があったそうで、ようやく芸能レポーターも姿を消し静けさを取り戻したことと。



 以前、北側の小名木川方面から歩いた際の砂町釣魚場旧大石家住宅(右)の記憶や、にぎやかそうなショッピングセンターはトピレックプラザだったらしいと、南側の南砂町駅との位置関係がつながりました。
 公園に保存される旧大石家住宅(右:江戸時代)は、安政の大地震、大正の大津波、関東大震災、戦災等の被害をまぬがれた建物で、その囲炉裏火で地域の安寧を祈るようにも。
 仙台堀川は江戸時代に作られた運河で、隅田川との合流地点にあった仙台藩の深川蔵屋敷に、水路を経由して仙台から米が送られたことに由来します。
 付近では、大正期に始まり特に戦後の工業化により急速に進んだ地盤沈下が著しいため(地下水、水溶性天然ガス採取が原因)、水害対策として仙台堀川は埋め立てられ公園とされました(1982年)。


南砂町駅 2a出入口

 人物との比較でも地盤から2m近い高さに防水扉があり、初めて見たときはシェルターの入口かとギョッとしました。
 この背後に残る直線的な構造物は、洲崎川(旧海岸線沿いに残された運河で現在は埋め立てられた:1982年)の堤防跡で、当初の駅は運河地下に作られました。埋立地には沈下分を補正した基準高に土が盛られますが、地盤が沈下した陸側では出入口だけがかさ上げされています。
 都心でも古い地下鉄の出入口は、水の流入を防ぐため数段高くなっているが、高低差がこれだけ必要な駅付近に暮らすのはちょっと……
 現在、駅の大規模な改良工事が行われているので、この出入口は廃止されるかも知れません(いい印象にはならない)。


新砂地区(駅海側の埋立地)


 砂町水再生センターは先立って島のように埋め立てられ、残された入江を埋め立てた地に並ぶマンション群、ショッピングモールSUNAMO等は工場に囲まれる格好となるため、もう少し緩衝地帯が欲しかったように。
 付近の水路にある東京湾マリーナを楽しみにしていたが、IHIが運営する会員制施設のため追い返されます。夢の島マリーナが近いことから、以前造船所等で使用した水路をリニューアルしたように。
 上は隣接のセメント工場に整列するミキサー車。他にもセメント工場があるので、砂町運河を大きめの運搬船が航行するようです。




 ここは都内で2番目に古い施設(1930年:昭和5年 運用開始)で、もっとも古いのは三河島水再生センター
 下水処理場には、時間をかけてゴミを沈殿させるプール設置に広大な敷地が必要で(森ヶ崎水再生センターも広い)、沈殿した汚泥はここに送られ(三河島等からも)、東部スラッジプラント(前回の荒川沿いの高い煙突のある施設)で炭化・焼却されます。
 有害物質がほとんど取り除かれていても、それを焼却するのは目立たない場所(?)の川のほとりとされます。川は風の通り道ですから、上流側の自宅方面にも流れてくる可能性があるということに……
 地中からそそり立つ巨大煙突は、下の赤白煙突の根元。


 上は、海側施設の屋上にある新砂運動場(サッカー場、テニスコート、グラウンド等)へのアプローチ道路からの光景。運動場のリンク先に撮影利用料金表があるように、周囲の建造物が映り込まないため撮影に適していそう。
 訪問の目的として、海側に広がる砂町運河(対岸は夢の島)を眺めたかったのですが、周辺には重要な施設があるためか、端まで立ち入れないよう遮断されており運河を見ることはできません。排水口を見せたくないため? 森ヶ崎水再生センター排水口のように海鳥は集まらず(魚がいないということ)、見るものもないということか。


2019.1.14

 会場の総合文化センターにはバス利用が必要ですが、バス停の時刻表には運行遅延の張り紙があります。交通が不便なため、晴れ着女性の送り迎えで道路が混雑することも年中行事らしい。
 会場には足を運んだことがあり、前の広場でゆっくり撮れると思っていたら、そこが出席者たちの溜まり場となっているため入り込めません。懐かしい顔との再会の場には適していても、周辺に散策する場所がないのはちとかわいそう(こちらも残念)。

 駐車場入り口で交通整理をする警官が急に走り出した先には、高い場所が好きらしく自販機の上で酒をがぶ飲みする輩がいます(その前に登っていた振袖姿の女子は、降りるのに難渋していた)。駆けつけた警官(失笑を抑えている雰囲気)が10名以上いるのは、昨年までの「実績?」から人数を決めたように。
 印象のよかった千代田区、港区、浦安市では、警官の姿は見かけなかったが(気づかなかっただけ?)、新宿区では部隊並みの警官が配置されていましたから、警官の数で地域での問題の深刻さが計れるようにも。

2019/01/14

橋は立派になっても──荒川

2018.12.15【東京都】──地下鉄 東西線を歩く_10

 今回から「東西線を歩く」の後編として、西葛西駅から都心方面を歩こうと思います。
 東西線は西葛西駅を出ると中川〜荒川(放水路)を渡り、南砂町駅の手前で地下に潜ります。対岸の江東区は江東ゼロメートル地帯ともされますが、江戸川区も境遇は同じです。


荒川河川敷(江東区側)


 荒川放水路は、関東大水害(1910年:明治43年)で大きな被害を受けた首都の水害対策として、岩淵水門から中川河口までを開削した人工河川(1930年:昭和5年)で、その際上写真付近に旧葛西橋が架けられました。
 当時は江東区南砂、江戸川区西葛西は埋め立て前のため付近が河口で、ハゼ釣りの名所だった時分からの釣具店や桟橋(釣り船や屋形船等が係留される)が健在です。
 木製の旧葛西橋の老朽化により、1963年右の葛西橋(当初は都内最長の橋:727.4m)が建設されます。
 川幅が広いため風の影響をまともに受けますが、近隣の女子高生は制服の下にジャージを履き、力強く自転車をこいで風に向かっていきます。
 黄色の花は菜の花に似ている(葉もシワシワしてる)ように見えたが、まだ季節には早いので別の花かと。


 上の江東変電所は、発電所からの電気を都心(新宿、城南変電所)に中継する施設で、ここから電線を地中に通すためスッキリした外観になっています(都心側には鉄塔や送電線はない)。
 変電所建設当時の江東区側は埋め立てられいたが、江戸川区側は埋め立て前のため海上に送電線が通されます(リンク先の絵は印象的で、この海に町が作られ人が暮らしているのかと、何度見ても感心させられます)。

 この下流側で砂町運河を渡り、夢の島東京ゲートブリッジにつながる道路計画があるらしいが、付近にはまだ気配は感じられません。埋立て地は水路を渡る道路(橋)が限られているので、完成すれば便利になりそうですが、トラックの交通量も増えそうと。

 荒川を挟んだ江東区側と江戸川区側の埋め立て地には、造成年代と目的の違いがハッキリ見て取れます。
 江東区側は、明治〜大正期の埋め立てにより多くの工場が立ち並び、1958年(昭和33年)貨物線が通され越中島貨物駅が開業します。上の砂町水再生センターは1923年(大正12年)完成。
 江戸川区側は1972年から土地区画整理(地盤沈下による水没民有地の区画整理)や都市整備(住宅建設、流通センター建設)など、生活系インフラ整備目的で埋め立てられます。
 その間には川の隔たりだけでなく、人工河川のルートを選定した時代の線引き(東京市内と隣接郡部の境界)が、現在も残っているように感じられます。
 ですが、江戸川区側にある(右写真手前から)首都高速中央環状線(1983年)、葛西水再生センター煙突(1981年)、葛西臨海公園 ダイヤと花の大観覧車(2001年)は、新しい土地に作られた新しい施設として、その立地条件を生かしているように。


 上の清砂大橋(2004年)は、災害時の東京都 一般緊急輸送道路(重要施設)のため、路面が非常に高い場所を通ります(上のように、東西線 荒川中川橋梁(1969年)の上部より高い)。そのため葛西橋以上に風当たりが強く、歩いて渡ると風にあおられ真っ直ぐ歩けないので、緊急時以外には歩いて渡らないことに(高所も苦手だし)。
 ですが、洪水・高潮等の際には、両岸のゼロメートル地帯を結ぶ立派な橋だけが水面上に浮かんでいても、そこまでたどり着けないようにも。失礼に聞こえるかも知れませんが、洪水時の都心側は水浸しと思われるので、西船橋や市川方面の高台を目指して避難すべきと考えています。