2013/06/24

意匠(デザイン)を競う──両国〜蔵前

2013.6.8【東京都】──大江戸線を歩く_5



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江戸東京博物館(Map)


 地下鉄大江戸線両国駅は、JR駅と江戸東京博物館(右)をはさんだ反対側に位置し、付近には以前暮らしたとされる葛飾北斎の浮世絵を飾る「北斎通り」が整備されます。
 その通りは、本所南割下水(わりげすい:道の中央に通した下水路)を暗きょ化した道路で「南割下水通り」とされますが、響きがよくないため江戸東京博物館の建設に伴う整備で名が改められます(以前の名をよく付けたと思います)。
 ですが、北斎に関する正確な記録は残らないため、根拠は心細そうです。


 江戸東京博物館の巨大な傘の下(江戸東京ひろば)で、江戸芸かっぽれ(大阪住吉大社の住吉踊りに由来する)家元の、櫻川ぴん助社中の大道芸に遭遇します。
 自己紹介では「東京都知事石原慎太郎に認定された」と、同級生のような口ぶりです。
 年配の踊り手たちが体を張り「ご祝儀を!」とアピールするも、客層が違いすぎて苦戦の様子(右下に認定証を掲示した投げ銭受けのトランクがある)。


東京都慰霊堂(Map)

 関東大震災での身元不明者の遺骨を納める震災記念堂として建てられ、現在も都知事出席で慰霊祭が行われます。
 当時付近には陸軍の施設があり、被服廠跡(縫製工場)の名が通る地です。
 コンクリート製で存在感ある三重の塔(地震・火災に揺るがぬ建物を目指したのでしょう)ですが、内部の質素な様子から教会を想起するのは、祈りの場という性格によるのでしょう。



「駒形どぜう」(Map)


 店内からナオト・インティライミのような姿が出てきます。
 1801年創業当時の駒形は浅草寺参りのメインストリートで、かなり繁盛したようです。
 道路は真っすぐ伸びるも、いまどき門前は「仲見世通り」までの認識でしょうか。
 「どじょう」は当時「どぢやう」or「どじやう」と表記され、それを嫌った店主が看板を「どぜう」としますが、現代でも通じますから英断と言えそうです。
 以前、利根川付近で食べたものはおいしかった記憶があります(ここは未経験)。




バンダイ本社(Map)

 どぜう屋の路地向かいに、ドラえもんやウルトラマンが立ち並びます。著作権使用料だけでも、人気者を並べるにはお金がかかりそうです(奧には仮面ライダーも)。
 ここは玩具メーカー「バンダイ」本社で、お金は払っても「やれるのはウチくらい?」が自負のようです……

 この家族には勢いがあり、他人のカメラを気にすることもなくはしゃいでいたので、撮っちゃいました。

 野球盤ゲームの「エポック社」も近く関連会社と思うも、「ガシャポン:ガチャポンと思ってた」で特許権を争う間柄と。共に玩具問屋が多い地に立地したようです。


 この地に勤めたらアフター5が楽しそうだなぁ〜。



厩橋(うまやばし)周辺(Map)

 右は厩橋のたもとにあり、一見「ピカソ?」の印象もすぐにピンとくる、これぞアートのあるべき姿という公衆トイレです。

 付近には歴史や意匠(の表現が似合う)に関心引かれる建造物が多く、四つ角で見回すと「アレは?」と気になる建物がひとつふたつ目に入るため、横道にそれるばかりでなかなか前に進めません。
 2時間程度の行程を3時間半くらい楽しめました。
 それを「粋を競う町」とするならば、素晴らしい伝統が継承されていると言えそうです。
 付近では倉庫を改装した店舗(Cafe、レストラン、バー)がはやっていて、どこもイイ感じの印象です。
 近ごろの「バイク:自転車」にはスタンドがついてないので、サドルを引っかけて駐輪するようです(右)。
 これって西部劇映画で目にした、店の軒先にある馬をつなぐ柵のようで、カッコ良く見えたりします。
 手前のスタンド付き(左下)は、仲間はずれです……
 今どきの結婚披露パーティは目新しい場所を選ぶらしく、付近でもそんな集団を見かけますし、ウエディングドレス姿の女性が町中を走る姿を見かけました(映画『卒業』のキャサリン・ロスのようでカッコイイ)。
 地方出身の方は地元と生活の場で開くらしく、東京のパーティではじけたくなるのかも知れません。

 以前は「どぶ川」呼ばわりされた川が、「リバーサイド」として持てはやされるのですから、「環境資源は再生可能」をキーワードにできれば、さまざまな場所でもっとビジョンが広がるという気がします……(右写真奧の窓は隅田川に面する)


追記──富士山が世界文化遺産に登録されました。

 近ごろは登山者が増え過ぎ、環境保全のために入山料を徴収するらしいが(1,000円程度なら皆よろこんで払いそう)、これ以上登山者が増えても困るような気もします。
 でも周辺地域への観光ツアー誘致には、絶好の起爆剤になりそうです。
 海外からの観光客にも「spiritual」とシンボリックに映るようなので、地元の方々と気持ち同じく、多くの人に「fujiyama」を見てもらいたいと全面的に応援します!

2013/06/10

永遠に不滅の下町文化──森下〜両国

2013.5.25【東京都】──大江戸線を歩く_4


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かき氷屋(Map)


 上は森下駅近くの裏通りにある「岸氷室(ひょうしつ):製氷店」では、夏場だけかき氷を出してくれます。
 全品100円の手頃感や、時間をかけて凍らせた透明で堅い「純氷」(焼酎の名前?)の使用が人気のようです。

 これぞ「下町」の光景で、遊んでいる子どもや、家族で外出の際「寄らない?」の誘いに、全員が「行く行く!」と即決しそうな気安さが感じられます。
 店先の縁台で口にすれば、全身がシャキッとして「もう一汗」いけそうです。

 右奧のビルは、下町文化の銭湯は「永遠に不滅」を織り込んで隣接地に建てたのでは?
 洗濯物も見え「下町の銭湯至近。煙の心配なし!」が売りで、入居者も銭湯に通っているかも知れません。
 それは、ひとつの贅沢です……


江島杉山神社(Map)

 第5代将軍綱吉は、江ノ島弁財天に月参りする杉山検校(けんぎょう:江戸時代は視覚障害者最上級の官名。彼は江ノ島で鍼治療を会得)をふびんに思い、欲しいものを尋ねると「ただ一つ、目が欲しゅうございます」の答え。
 それに対し綱吉は「本所一つ目の地を与え、江ノ島弁財天を勧請した」逸話が残ります(「○つ目」は、隅田川から○番目の橋の意味で、三つ目通りなどに名が残る)。

 江ノ島に祭られる宇賀神は梵語の「ウガヤ:白蛇を意味する人頭蛇身の弁天様」なので、ここの岩屋にも白蛇が供えられるようです。


竪川(たてかわ)(Map)


 森下と両国の間には人工水路の竪川(小名木川と平行に開削された)があり、真っすぐに伸びる水路上には現在首都高小松川線が通ります。
 仙台堀川同様に大横川以東は、公園や親水公園とされます(水路存続には水位調整が必要になる)。

 上は、背後が竪川に面する建物で、以前は材木屋と思われるたたずまい。
 竪川は石材商、大横川には材木商が多かったとされますが、いずれも資材輸送路である水路際に栄えました。
 水路が木材で埋め尽くされ「木場:現木場公園付近」が整備されますが、その後ゴミ埋立地に追い立てられ、新木場に移転します。


吉良邸跡(Map)

 観光名所としたい「吉良邸跡:忠臣蔵の敵役が討ち取られた地」には、なごり程度の区画が確保され、隣接の土産物店が続けられる程度の人出はあるようです。

 右は近所にある「鏡屋」の2階にはられた鏡。
 カメラ位置の向かいのマンションからは、光の反射に苦情がありそうですが、逆に「マンションが建ったせいで、輝きを失った!」の反論もありそうな気がします。

 下の光景から、下町では必要なものは受け入れるが、飾ることなく次の必要に備える、合理性(エコ=倹約)の意識を感じましたが、その印象って伝わります?



回向院(えこういん)(Map)

 ここは1657年「振袖火事:明暦の大火」で亡くなられた方を葬るための「万人塚」に始まります。
 そのためか、江戸時代の義賊(ぎぞく:違法・反社会的行動が大衆に支持される)鼠小僧の墓もあります。
 鼠小僧の墓石のかけらを持つと「賭けに勝つ」「運がつく」とされ、受験生には「するりと入れる:それを縁起担ぎと言えるのか?」で評判らしい。
 現在墓前には「削り墓石」が置かれ、右のように削る手は休みないため、「手タレ」で登場いただきました。

 1781年境内で行われた勧進相撲が現在の大相撲の起源とされ、付近に旧両国国技館が建てられました(1909年)。


両国国技館(Map)


 大相撲期間中の両国国技館に接したのは初めてで、のぼりも番付順に並ぶ様子に納得した次第。
 この日は五月場所(夏場所)14日目で、横綱白鵬 vs. 大関稀勢の里の全勝対決で盛り上がり、便乗も含めて周辺は「ざわざわ」していた印象があります。
 この日負けた稀勢の里も内容は良かったので、次場所でも活躍できればファンの心をつかめると期待しています。


追記──祝 サッカーWカップ出場決定!

 わたしも「思いっきり、ど真ん中にけり込んでやれ〜!」と声援を送っていました(言うのは簡単ですが……)。

2013/06/03

情緒を創出する「庶民力」──森下

2013.5.18【東京都】──大江戸線を歩く_3


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西深川橋(Map)


 小名木川に架かる西深川橋の北側に、シーラカンス像があります。
 江東区の橋梁景観整備事業により設置され、題名は 「ゴンベッサ」。
 コモロ諸島(アフリカ大陸とマダガスカルの間)でのシーラカンスの呼び名で、食用に適さず「役に立たない」に由来するらしい。
 役所は、意味も無い役立たずでも、話題作り(になってる?)でGOしたようです。 
 上写真は「それでいいの?」を伝えるために掲載しました。


高橋(たかばし)のりば(Map)


 「江東水上バス」は2002年に廃止されますが、待合所は以前と変わらず憩いの場としての情緒が保たれています。
 正面の色あせた看板には「高橋のりば」とある。

 ほかの閉鎖施設は荒廃などで立ち入り禁止とされますが、ここは遊歩道に面し、近所の方々も利用するためかとてもきれいで、対岸からは「もうすぐ船が来そう?」な、にぎわいに見えたりします。
 ここは亀戸〜お台場航路の停船港で、ルート設定に疑問も感じますが、前回歩いた扇橋閘門(こうもん)を通ったことを知り、乗ってみたかったなぁ、と……


萬年橋(Map)


 付近は相撲部屋の多い場所柄で、道を歩くゆったりとした相撲取りの動作や、橋のたもとで耳にする三味線の音には、時間の流れ方が違う? との錯覚に陥ります。
 上は江戸市中側の小名木川入口である萬年橋で、当初の川船番所は付近にありましたが、後に旧中川側(前回の水陸両用バスのスプラッシュポイント)へ移されます。
 浮世絵でよく見かける大きな弧を描く太鼓橋の姿は、絵師たちの誇張にも思えますが、川の入口にあたる橋は「門」として派手な造りとされました。

 橋の奧に見える、形状は違うが橋のデザインに倣うような建物は、地図を出版する昭文社のビル。景観への配慮という粋な計らいが、町を楽しいものにしてくれます。


 小名木川が隅田川と接続する北岸には、松尾芭蕉(1644〜94年)が暮らした「芭蕉庵」がありました。
 現在その地には「芭蕉稲荷神社(上)」が祭られ、川岸には「芭蕉庵史跡展望庭園」が整備されます。
 運河と川が接続する付近の水面(みなも)は広く、当時は見通しも利いたことでしょう(現在も風が心地いい)。
 また、「水路の角地」の夜はものさみしかったことも、落ち着けた理由かも知れません。
 芭蕉は蛙の石像を好んだそうで、神社には多くの像がありますが、上はもっともそれらしく見えた蛙。

 付近に配される芭蕉の句に接し、この歳でようやく味わえた? に至るには「年輪」が必要だったようです。
 そんな教材を小・中学校で押しつけられても、理解できるわけがありません。
 でも、それを忘れなかったのはとても大切なことです。

 右は展望庭園脇にあるCafeの装飾。


 隅田川堤防に広がる「緑化プロジェクト」のようで、気持ちよく歩けますし、とてもいい取り組みと実感できます。
 近ごろ多く目にする子どもたちがペイントした壁は、表情が変わらないためほほ笑ましく感じるのは一瞬ですが、季節の変化には無意識に関心が向くことに気づかされます。
 植物に覆われると亀裂点検などの障害となりますが、そこは最新技術でカバーして欲しいと思うところです。


新大橋(Map)


 隅田川に架かる国の重要文化財清洲橋に隣接する「新大橋:斜張橋」は、清洲橋が体現する重厚さの対極を目指したようにシンプルな構造です。
 何事も「シンプルなものほど美しい」を信条としても、これは単純化しすぎに見えてしまい、「主塔やケーブルは飾り?」の間違った印象を与えそうと思ったりします。


 森下の地には、ずいぶん前のプロジェクトがぽしゃった際、仕事の手伝いで訪れて以来か? の記憶をたどると、サッカー日本代表の「ドーハの悲劇」にたどり着きます。
 てことは「Jリーグ開幕20年」と同じ年なので、20年ぶりだったか……
 「安いのにネタがいい!」と驚いた、大人気の居酒屋「魚三」は健在でした。今度行きませんか?

2013/05/27

水都江戸をたどる──小名木川、仙台堀川

2013.4.28【東京都】──大江戸線から、ちょいと(?)寄り道

 門前仲町〜清澄白河付近の人工水路「小名木川」と「仙台堀川」を歩きたく、連休中に「荒川ロックゲート」からブラブラですが、結構歩きました……


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荒川ロックゲート(Map)

 ロックゲート閘門(こうもん)とされる二つの門を持つ施設で、水位が異なる荒川(奧)と旧中川(手前)の水の高さを調整し船を航行させます。
 手前の海抜ゼロメートル地帯の水害を防ぐ要の施設で、
この日の水位差は陸地側-2.1mとのこと。

 相互航行可能な一方通行で、1サイクル20分程度を目指すため、水の出し入れはかなり速いようです。
 門内はエンジン停止のため、右の小舟はロープにつかまっても流れに翻弄されますが、その後反対側から入ってきたシーカヤックのオール使用はOKらしい。
 独り占めとは言え両側は観覧席のようで、舞台でひとり踊る「さらし者」的な心境かも知れません……


水陸両用バスのスプラッシュポイント(Map)


 一般道でも見かけた奇妙なバスは、都内初とされる水陸両用バス「SKY Duck」で、船首に車両ナンバープレートが見えます(2013年運行開始)。
 現在「東京スカイツリーコース」「亀戸コース」があり、どちらも「旧中川・川の駅」付近の「スプラッシュポイント」から川へダイブします。
 遠い場所でも「ズドーン」の音と、水しぶきの迫力が感じられます(撮れなかった)。
 このまま荒川ロックゲートへ向かうと思ったら、この水路でじゃぶじゃぶするだけらしい(確かにゲート往復だけで40分かかります)。

 足を運ぶ機会の少ない東大島付近ですが、アトラクション的な楽しさがあり、水辺から経験してみたい気持ちが高まります。


小名木川 クローバー橋(Map)


 1590年秀吉の命で駿河から関東に国替えさせられた徳川家康は、江戸城を中心としたインフラ整備に着手します。
 現在千葉県行徳付近の塩田から塩を運ぶ際、当時の東京湾には浅瀬が広がり座礁する船が多いため、小名木四郎兵衛に建設を命じた運河が小名木川の由来となります。
 後に年貢米の運搬路として栄え「スプラッシュポイント」付近に船番所が置かれます。

 上は小名木川と横十間川交差地に架けられるクローバー橋で、船舶用の交差点ミラーが設置されています。
 歩行者・自転車には非常に便利な橋で、同じ道を戻りたくないと考えると、元の場所に戻るには遠回り&迷いそうで、架橋前は不便以前に川向こうを知らなかったのでは?


小名木川 扇橋閘門(Map)

 高度成長期以前は、物輸主力の船舶で水路はにぎわいますが、地盤沈下による1976年荒川側の水門閉鎖から、2005年荒川ロックゲート完成まで水路は閉鎖されます。
 荒川ロックゲートは、海水流入を防ぐ施設ですが、この扇橋閘門(PDF)は、西の隅田川と東の荒川側で最大3mある高低差を調整するための閘門になります。
 ゼロメートル地帯の中にも高低差があり、その間を行き来するために水位調整が必要とは驚きました。考えてみれば、全体が一様に沈下するわけもありません。


旧仙台堀川(Map)


 小名木川の海側に平行する仙台堀川(付近にあった仙台藩邸に由来)も利用されなくなりますが、高潮被害のため1982年埋め立て〜仙台堀川親水公園とされます。
 江東区マップ(PDF)の、水路を埋め立てたと思われる公園施設は、不要のためではなく防災対策のようです。

 公園内「野鳥の島」には、サギの姿が見られます。
 清澄庭園では毎回目にするので、住み着いているのかと思いましたが、水路沿いに多く見かけます。
 人間には分からないも、鳥には「干潟の断片」として暮らせる環境が、数多く残されているのかも知れません。


東京都現代美術館・木場公園(Map)


 東京都現代美術館(上)は新緑とも違和感なく、季節感を取り込む日本家屋がコンセプト? とても好きです。
 
 右は木場公園付近の仙台堀川ですが、このすぐ先から埋め立てられています。
 川の埋立とはいえ、3枚上の旧堤防から見える公園の高さまで埋め立てるのはかなり大変な工事と思われます。

 自分が暮らす地域と変わらないように見えても、地域全体が水面下に置かれる実態を目にし、「危機に囲まれて暮らす」様の一端を理解できたような気がします。
 そこに暮らす人々が、他の地域と変わらない日常を過ごす様子には、政府・自治体の注力を感じます。

 若葉の隣で真っ赤な葉をつける木があります。
 「春もみじ」という園芸品種のようで、さまざまに改良された品種があるらしいと知り、切りがなさそうと調べる手が止まりました……

2013/05/20

過去に学ぶべき震災復興の意識──下谷

2013.5.12【東京都】──大江戸線を歩く スピンオフ企画 「最後の同潤会アパート」


 先日の清澄白河付近で目にした、関東大震災直後に建設された鉄筋コンクリート住宅の文章を書くさなか、テレビで「最後の同潤会アパートが今月末に取り壊される」と知り、急ぎその週末に足を運びました。


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下谷神社(Map)

 上野駅正面玄関口に整備された高架歩道の昭和通りを渡った先で、裏道へ下るエスカレーターに誘われ、そのまま進むうちに祭礼の町に出くわしました。
 下町で最も早い夏祭り「下谷神社大祭」ですが、今年は本社神輿渡御(みこしとぎょ:町内巡行)が行われない「陰祭り」とのこと。
 とはいえ氏子衆が「陰」のわけもなく、神輿の休憩所や車が通る路上の二次会会場(?)では、道路で寝るやからもいる始末。
 周囲の目には危なっかしいも、それが「この日のために働いている」人たちの祭りなのでしょう。

 以前暮らした新丸子(川崎市)でも目にしましたが、参加表明である祭り提灯をつるす習慣には、子どもにも伝わるかわいらしさがあります。

 出店のメニューでは、少し前にトレンドだった牛串焼きの次を狙う(?)「チキンソテー」が目につきます。
 祭りの高揚感でガブッと、男を草食から肉食に豹変させる手助けになったりして?
 でも、鉄板の上で売れ残るとパサパサになりそう……




 上は現在もレトロな雰囲気が漂う、地下鉄銀座線稲荷町駅入口。
 稲荷町の由来は、元は伏見稲荷を勧請した下谷稲荷(現下谷神社)によります。

 関東大震災(1923年:大正12年)を受け、付近の都市計画は大きく揺らぎました。
 そのさなか、日本最初の地下鉄銀座線(浅草〜上野間)開業(1927年:昭和2年)、下谷小学校(1928年:昭和3年)や同潤会アパート(1929年:昭和4年)が竣工します。
 当時、地下鉄の先行開業区間とされた上野〜浅草間は、現在の銀座のような人気スポットだったため、復興のシンボルとすべく注力されたようです。


震災復興施設──同潤会「上野下アパート」(Map)

 ここは、関東大震災の復興事業で建設された同潤会アパートの中で、最後まで残された建物になります。
 当時の震災復興義援金などを元手とし、東京や横浜に16棟が建設されるも多くが戦禍で焼失しただけに、戦禍を乗り越え80年以上利用された姿は、当時託された「希望の大きさ」をしっかと後世に伝えたように見えます……

 テレビで5月末の取り壊しを知り、急ぎ足を運ぶと、同様の動機で集まったと思われる人だかりがあります(タクシーで乗り付けるお年寄りもいる)。






 防火・耐震対策や、再開発が求められることも理解できますが、右写真のように下町の景観になじむ姿は「下町文化遺産」ではないかと思ったりします。
 カメラ位置の道路に、祭り後の氏子衆が横たわる「今日だけは勘弁してくれ!」の醜態を、大目に見ようと「ゆるさ」が芽ばえるのは、文化への理解かも知れません。
 この日は「しょうがねぇなぁ〜」と許すも「明日からしゃんと働けよ!」が、下町気質なのでしょう。
 自分にもそれでいいと思う気持ちがあります……



 下の旧下谷小学校の建設は1928年(昭和3年)で、中央区明石小学校(1926年:大正15年)などと共に、震災復興小学校として建てられました。
 1990年統合による廃校後は、使い道が決まらず廃虚のような姿ですが、現在も校庭は区の駐車場とされ人の出入りもあるので、建物も利用されているようです。
 このような存続を目指す扱いは珍しく、何とか再利用の道が見つかりますよう。


 関東大震災復興の際は、震災4年後に日本最初の地下鉄が開通し、小学校再建に+1年、アパート建設には+2年を要しました。
 時代や環境は違えど、復興の優先順位は変わらないでしょうから、過去の経験から学ぶ姿勢があれば、今回の復興も時間を要する認識と、その間必要となる避難民のケアを予測できたのではないか、という気がしてなりません。

 一方で、いまも古い建造物が残される上野付近には、行政力が及ばない地域があった? 「におい」がします。
 調べてみると、空襲で焼け野原とされた後、現在の東京メトロ車庫付近の旧下谷万年町周辺に、スラム街が広がっていたとあります。
 「におい」の元を探ろうとする気持ちは大切でも、知った途端に気分が沈むこともあります。
 教えてもらえないことは自分で学び、可能な限り正確な理解と発言を心がけねばなりません。
 右は合羽橋(かっぱばし)の顔。

追記──琉球? 程度の反応をされる「琉球民族独立総合研究学会」設立

 この学会は、琉球(沖縄)諸島に民族的ルーツを持つ人々が自治独立を目指し、学際的(分野を越えた)調査研究を進め「現在沖縄で繰り広げられる問題解決には独立しかない」と訴える団体で、わたしにも「やっときた!」の思いがあります。
 米軍の隣人として育った神奈川ですが、基地が減る度に「開放感」がありました。
 沖縄の米軍基地周辺を可能なだけ見て回りましたが、周辺には現在も改善の希望を見いだせない閉そく感が漂っています。
 本土人(やまとんちゅ)でさえ「沖縄をなめ過ぎ」と感じるも、その解決には沖縄人(うちなんちゅ)自身の行動が必要と思っていました。

 中国が沖縄に揺さぶりをかけるタイミングでの発足には、後ろにスポンサーが見え隠れする気もしますが、元もと琉球王国は大陸と大和の間に位置する島々に、外交処世術のバランス感覚によって成立した「非武装」の「知恵の国」でした。
 最大の課題は「経済力」ですが、両国との交渉で好条件を引き出せれば、独立国としての予算が組めるかも知れません(その際、米軍基地も優良収入に計上されるやも?)。
 「琉球は大陸との外交における『緩衝地域』だった」という、教科書には載っていないことを学習した政治家がどれだけいるのでしょう。
 これは沖縄の利益(立場)に立つ意見で、日本の不利益を含むため多くの日本人には受け入れられないことでしょう。それを裏返すと、沖縄の孤立が浮き彫りになります……

 それくらいの揺さぶりをかけないと、日本政府は本気で取り組もうとしないでしょうから、まさに「今でしょう!」の、いいタイミングと思えます。

2013/05/13

戦禍をくぐり抜けた建物たち──清澄白河

2013.4.27【東京都】──大江戸線を歩く_2


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清澄白河(Map)


 清澄通りと清澄庭園に挟まれた細長い土地に、関東大震災復興住宅の「東京市営店舗向住宅:1928年(昭和3年)建設」が現存し、営業中の店舗もあるので、現時点で85年現役ということになります。
 鉄筋コンクリート建築の少ない当時でも、外壁装飾(上写真右下)があることは、模様の意味は不明でも、装飾の意義を心得た人に作られた様子がうかがえます。

 上写真の階段構造は、狭い土地で踊り場を作れないためか?
 以前はこんな階段を見かけた印象もあり、防犯面では有効そうに思えます。


霊巌寺(Map)

 江戸時代霊岸島に名を残した霊巌寺は、大火で焼き出されこの地に移転します。8代将軍徳川吉宗の孫で、老中を務めた松平定信の墓があります。
 幕府の都市防火対策で多くの寺社が移転させられ、現在付近に残る寺町が生まれました。
 隣接する「深川江戸資料館」の一服処で、来館者のおばちゃんが近所の人にスーパーの場所を尋ねると、「この辺は寺町だから何もないけど、(隣駅)森下や門仲の店には歩いていけますよ」という意識で暮らしているようです。

 右は霊巌寺門前にある「深川の出世不動尊:長専院」で、霊岸島からの移転組です。
 出世不動と聞いても「自分には関係ない」と気持ちがなえるのですが、それじゃダメの忠告を思い出しました。
 宝くじの話しで、「買わなきゃ当たらないから買う」に対し、「当てるつもりで買わなきゃ当たらない!」の意見に、その通りと納得させられました。
 運(運命)は自分で切り開かねば! ですが、結局買いそびれました……



 ここは、1933年(昭和8年)に建設された鉄筋コンクリート4階建ての民間アパートです。→外部写真
 霊巌寺本堂裏手に見え、外壁は今風に塗装されるも一目で古さが伝わるため、要チェック物件と誘われます。

 空襲で火の海になったと聞く地域で、上述の市営店舗とこのアパートが焼け残ったのはコンクリート製のおかげと思いがちですが、地域の人は「ここを守りたい」の意識から、バケツリレーで延焼を防いだそうです。

 手のかかる配管補修は、露出配管(室内・外に下水管が通る邪魔な構造:現在の部屋も同じ)のおかげで繰り返し行えたことが、建造物長持ちのポイントとのこと。
 ってことは、1966年に完成した現在暮らす建物もまだまだ使えるということかも知れません……


清澄庭園(Map)


ここは江戸時代の豪商・紀伊國屋文左衛門屋敷(紀伊國屋書店とは無関係)〜武家屋敷だった敷地を、明治期に三菱創業者岩崎弥太郎が買い取り、二代目弥之助が手を入れ庭園を整備しました。

 右は、連休で繰り出したアマチュア(?)モデルとカメラウーマン2人組の撮影風景で、遠慮無く石橋を占領しています。
 図々しさは女の特権(?)と勘違いさせたのは先達に違いありませんが、それをけ散らしていくのもおばちゃんたちと決まっています……



 清澄公園隣接地には、1875年(明治8年)日本で初めてセメント製造に成功した官営の深川セメント製造所(現太平洋セメント)があります。
 当時外来語のセメントを「摂綿篤」と表記したそう。

 付近には思った以上に工場が多く、その様子から過剰な地下水くみ上げによる地盤沈下を想起します。
 取り返しのつかない状況なので、いまさら蒸し返さないにしても、住民の「産業不在は困る」要望に対する謝罪と、「共に生きる覚悟」の表れと受け止めるのは、美談的な解釈に過ぎるか?



 清洲橋は鉄骨構造の吊り橋で、遠くからの「優美さ」と、間近での「力強さ」のギャップに、不器用なオヤジが「ロマンを目指した成果」の印象があります。
 当時には、ワイヤーを利用した曲線を描く技術はなくとも、「曲線らしさ」に挑む武骨な力業が感じられ「お見事!」と、エールを送りたくなります。

 国の重要文化財とされますから、これからも「武骨な美しさ」を楽しませてもらいましょう……


 ここに掲載するつもりだった、最後の同潤会アパート「上野下アパート」は、思いのほか楽しく膨らんじゃったので、次回報告します。


 追記──錦織圭の躍進!

 テニスのムチュア・マドリッド・オープンで、錦織圭(世界ランク16位)が、元世界ランキング1位のロジャー・フェデラー(現在世界ランク2位)を破りました!
 素人目には「あんなヤツらに、どうやって勝つんだ?」と、勝機すら思い描けないくせに、「近いうちにやってくれる」という期待感を抱いていました。
 強化育成プログラムから力をつけ、身の丈にあったスタイルを磨くことで、世界トップと互角に戦う姿を見せてくれます。
 彼はもちろん、後進に開かれた夢にも期待が膨らみます(応援団長の松岡修造もはりきって〜!)

2013/04/29

「路地の魔法」に覚える郷愁──門前仲町

2013.4.14【東京都】──大江戸線を歩く_1

 今回から都営地下鉄「大江戸線」沿線を歩きます。
 以前越中島を歩いた際、付近は門前仲町の生活圏内と知り足を延ばそうとするも、またの機会にゆっくりと考え「ならば次は大江戸線沿いを歩く?」がきっかけです。
 自分も含め、新宿〜汐留間は乗ってもその先は…… という方への案内が目標です。

 本来は最寄りの大門駅からスタートですが、大門汐留築地市場勝どき月島は先日歩いたので、門前仲町駅からスタートします。


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門前仲町(Map)

 門前仲町の街灯上には「纒:まとい」が飾られます。
 派手ではないので、地元の人々が「祭りまであと○○日」と、街灯を見上げて発奮するための存在、という気がしてきます。

 先日歩いた永代橋の対岸に立つと、江戸市中からは隅田川の「川向う」ですが、自分には下町側の意識の方が理解しやすいようで、川向うから都心を見上げる方が「地に足が付く」ような印象を受けます。

 でもこの日を振り返ってみると、町に降り立った瞬間から「路地の魔法」に引き込まれていたようです……

 本日のメインである「名も無き路地」に足を踏み入れた途端、緊張が解き放たれ、またたく間に風景にとけ込むような感覚があります。

 住宅の建て替えはあるも、以前と変わらず間口の狭い土地で窮屈そうに並ぶ家並みに安どするようです。
 人の尺度の基本は「身の丈」ですから、家・敷地・道路のサイズが、両腕を広げた単位で採寸できそうな場所には親近感が持てる、という説明で伝わるだろうか?

 そんな心象は海外の人も同じようで、全国展開らしい「Sakura House:海外の方向けのシェアハウス─バス・トイレ共同」が立地します(右は別の建物)。
 また、「明るいうちは外出禁止!」のオカマが平然と歩く、下町の居心地のよさに甘える連中が群がる「猥雑な町」の印象は、江戸時代と変わりないようです……


 門仲らしい辰巳新道の横丁で想起したのが、映画『異人たちとの夏:1988年大林宣彦監督 山田太一原作』で、脇道から故人がひょっこり顔を出したら「久しぶり!」「飲もう!」の呼吸で、ちょいと一杯行けそうな幻想を抱きます。

 気軽そうな横丁でも個性があり、こちらも「横丁モード」にスイッチを切り替えます。
 最初は周囲の様子をうかがいながら、盛り上がっても飲み過ぎるな、程度のものですが、店・客共に「To be continued…」程度がころ合いなんでしょう……


深川不動堂(Map)


 上は2011年完成の本堂で、外壁に梵字(ぼんじ:不動明王御真言)の装飾があります。
 読めないせいでカッコイイと感じるにしても、金文字以外は文字が重なるため判別できず、カラスの羽が舞うように見えます(それが狙いだったりして?)。

 本堂内の護摩祈祷では、密教系(真言宗:空海)の派手なパフォーマンスで大太鼓が打ち鳴らされ、全身を揺るがす振動で邪気が払われるような心地よさがあります。
 読経もパーカッション付きの「音楽」と考えると、心の支えを求める方にはとても魅力的に響き、心をとらえるのでしょう。


富岡八幡宮(Map)


 富岡八幡宮の祭礼で、江戸三大祭りのひとつともされる深川祭ですが、江戸時代には見物客の重みで永代橋が崩れ落ちたとの記録があります。
 また近年では、日本最大の神輿を作ったものの大きすぎて表に出たのは一度きり(1991年)で、それ以後は展示品とされる大神輿があったりします。
 氏子衆は「粋ってのは、花火みたいに上げりゃ気が済むもんよ」と納得し、「ビジョンの欠如」などとは考えず、「日本一に、何か文句あるか?」なのでしょう……

 この地で思い浮かぶのが、東京大空襲後の焼け跡を訪れた昭和天皇の「これで東京もとうとう焦土になったね」の言葉です。
 その思いは、これからの天皇も心に留めてもらわねばなりません……

 注:ここはフジの花の名所ではありません(近くでは亀戸天神が有名)。


 上は、富岡八幡宮近くにある「弾正橋(だんじょうばし)」で、日本最古の鉄橋として国の重要文化財に指定されます。
 カメラの背後にはマンションが並びますが、八幡宮側(橋の奧)のこだわりがあるような日本家屋に、ホッとしたりします(店舗的な建物か?)。

 以前付近には、京都の三十三間堂を模した建造物があったそうですが、火事の多い江戸では灰に帰した後、再建されることはありませんでした。


 奧で大通りに接する路地で遊ぶ姿。
 広場と違い路地遊びでは近所仲間と遊ぶため、路地仲間とのつながりが強い地域ほど、将来の町内会活動が活性化しそうに思えます(少子化から女の子も実家に残りそう)。
 成長に伴い、この先に出会う仲間たちが世界を広げてくれたとしても、路地で近所の仲間と遊んだ記憶は「社会の原点」として忘れられません。
 「何が楽しい?」の問に「路地遊びが楽しい」の答えでしょうから、次の世代にも伝えたい思いは受け継がれることでしょう。

 さまざまな理由で以前の景色が失われてしまいますが、奇跡的に記憶と符合する景色と再会した際には、「残して欲しいなぁ」と思う年齢となりました……