2010/09/27

遊べるうちは遊ぶベシ!──青梅

2010.9.19
【東京都】


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 立川の次が青梅では、少し離れた印象もありますが、福生(ふっさ)や羽村付近は以前歩いたので、今回はスルーしました。


青梅交通公園(Map)

 この施設は、1962年 鉄道開業90年記念事業として旧国鉄により作られました。
 ガキの時分はよろこんで遊びに来たものですが、何で青梅という立地だったんでしょうね?
 当時、蒸気機関車にも興味はあったでしょうが、きっとそれよりも「模型鉄道パノラマ」(80分の1サイズのミニチュア)の模型が走り回る様子にくぎ付けだったことと思われます。この日も子どもたちの人気の的です。
 でもその実演時間が短いと大人でも感じるのですから、子どものころは「ケチ!」などと文句を言ったことでしょう。

 旧国鉄時代の横浜線でも走っていたと、懐かしく思える車両が保存されています(右写真)。
 板張りの床が何か油っぽく、ニオイもしたような記憶があります。そんなころは、新型車両のシートが貼られた平らな床がとてもカッコよく見えたことを思い出します。
 そんなことを懐かしく思う年ごろになってしまいました……


勝沼神社(Map)

 交通公園内まで聞こえたお囃子は、ほど近い勝沼神社の例大祭のものでした。
 9月はこの神社(地区)の例大祭ですが、5月には青梅の町を挙げた「青梅大祭」があり、各町内の山車(だし)が引き回され、勝沼町の山車を右の「勝沼囃子会」が盛り上げるそうです。
 お囃子会紹介のページに「ここ数年来女性会員及び準会員が増え…」とあるように、演奏者に若者が多い印象があり、組織の魅力がうまく伝えられているようです。
 その取り巻きというか、友だちの応援や、その姿に関心を持つ若者たちが群れている雰囲気には、活気に通じるような好印象を受けます。
 地域社会文化がその役割を果たし、世代交代がスムーズに進んでいるように思え、好循環社会(現在の日本にこんな表現できる場所があるのか?)を実現しているような印象を受けました(キツネを踊る子も若者です)。


旧青梅街道付近(Map)

 右写真は以前、繭蔵(かいこの養殖)に使われた建物を、飲食店舗に転用したものです。
 いくらオシャレにしても、この立地ではどうなのか? と思ったのですが、店内には人影が見えるので、流行っているのかも知れません。
 付近にはここと同様に大谷石(のような軽石)を使った蔵が点在しますが、流通を考えると、大谷石の産地である栃木県から運ぶのは大変そうに思います(JR八高線経由?)。
 付近にも産出地があったのか?

 近ごろ、女性のファッションカタログ誌的な仕事もしていて、こんなロケーションにモデルが立ったら絵になるんじゃないか? なんて思ったりしました。似合わないと思いますが、感じれられるようになってきたのか……

 右はテレビで何度か見かけたとんかつ屋で、評判までは覚えていませんが、店内はレトロという表現ではなく「きたなシュラン」に近かった気がします。
 それではあまりにも失礼なので評判を調べてみると、「味は○」「雰囲気は落ち着き過ぎちゃう」など、とても好評のようです。
 外見にも味がありますから、入ってないのに「星三つです!」としておきましょう……

 この辺りがよく知られている、昭和レトロをモチーフにした町おこしの中心になります。
 「昭和幻燈館」:手描きの映画看板や、昭和の生活を再現したジオラマの展示
 「昭和レトロ商品博物館」:昭和期の駄菓子、おもちゃなどの販売。コレクターによる商品デザインを展示
 「青梅赤塚不二夫会館」:赤塚不二夫の漫画ワールド
 そんな施設が旧青梅街道沿いに軒を連ねます。館内では様々な背景を知ることができたのでしょうが、どこも入りませんでした。

 青梅に何で赤塚不二夫かというと、手書きの映画看板で町おこしを目指した青梅市側が赤塚を口説いたそうです。
 彼は満州に生まれ、新潟で生活と絵の仕事にかかわりたいため、映画看板を描く仕事をして漫画家への夢を膨らませていたそうです。

 サザエさんストリートのように、キャラクターがいたるところに見られるのですが、その中にスッカリ忘れていたベシ(モチーフはカエルだそう)を見つけ、ガキの時分に、ニャロメとケムンパスのイラストは描けたのにベシだけはうまく描けなかったことを思い出しました。
 もちろん漫画家なんて目指しておりません(右の看板は『ローマの休日』)。

 青梅駅の駅メロは「ひみつのアッコちゃん」なんだそうですが、気付かないまま帰ってきました……


釜の淵公園(Map)

 多摩川の流れが大きく蛇行する一体を整備した施設で、水の公園と呼ばれ、青梅市郷土博物館、市民プール、かんぽの宿などがあります(下写真は郷土博物館脇に保存される古民家)。
 リゾートではなく、アウトドア的な野趣を楽しむ場所なので、食堂・売店類は無く、みんな自前のバーベキューを楽しんでいます。
 都市近郊のバーベキューサービスを利用するカジュアルなスタイルではなく、完全なアウトドアスタイルの方が「正しいバーベキュー」という気がします(確かに面倒ですがね)。


 この日は暑かったこともあり、子どもだけでなく、大学生くらいの若者たちも水遊びに興じていました。
 そんな光景を見たオッサンは「いくら暑くても、もう9月だぜ」と思うのですが、「まだ全然大丈夫。遊べるうちは遊ばなきゃ!」そんな声が聞こえた気がした瞬間、「遊びたい側の見解」ではなく、世間の親のような「一般概念」を押しつけようとしていることに気付かされました。
 暑さが続くので、営業を延長したプール施設が多いと聞きましたが、それでも足りないと思うほど暑さが続いたのは確かです。

 「遊べるうちは遊ぶべき!」と行動するあなた方は正しい! そこに込められた切実な意味を感じるころには、様々な障害に意欲をくじかれ、遊ぶことすらできなくなっているかも知れないのですから。
 どんな状況でも大切なのは「スキあらば遊んでやる」との意欲であると、虎視眈々と狙ってはいるのですが……

 それにしても近ごろ「飛びます、飛びます!」(坂上二郎さんの引用)という女性を見かけます。
 またの機会に書きたいと思いますが、社会進出した女性たちの「ストレス対策」って、もう商売になっているくらい一般的なんですよね……


金剛寺(Map)

 金剛寺の境内に、「青梅」という地名の由来とされる梅の木があります。
 梅の実は一般的に6月ごろ黄色く熟すそうですが、この木の実は秋になっても青々としているところから、「あお梅」→「青梅」とされたそうです。
 数は少なくも下写真のように、秋分前まで青い実がついているので、同様例が見られる突然変異に含まれるそうです。


 この木には「将門誓いの梅」という伝説があります。
 平将門(たいらのまさかど:9世紀末ころ〜37年の生涯)が、戦勝祈願に馬のむち代わりにしていた梅の枝を地面に突き立て、「わが願いが叶わないのならば、枯れてしまえ」としたものが、現在まで守られているそうです。
 神田明神に祭られるまでの将門には、怨念のようなものがつきまとう印象があるので、この木にも将門の無念さが込められているのかも知れませんが、好意的に扱うこの地には、そこに触れようとする説明文はありません。
 文化継承とは「伝えられてきたことを、そのまま後世に伝えていきましょう」という姿勢でいいんですものね……

 JR青梅線は青梅駅ひとつ手前の東青梅駅から単線となり、そのまま終着駅の奥多摩駅へと続きます。
 以前は、奥多摩地区で採掘される石灰石輸送にも使われましたが、1998年に廃止されます。
 しかし青梅線は現在も、在日米軍横田基地向けのジェット燃料輸送に利用されています(川崎の安善駅から南武線経由で拝島駅まで)。
 2008年に横田ラプコン(航空管制区域)の一部が、米軍から日本に一部返還されたことを調べていて、実家のある相模原市上空300m〜4500mは横田管制下にあると知りちょっとショックを受けました(返還後4501m〜300kmは日本の東京航空管制下に)。
 そりゃ、戦闘機が我がもの顔で低空を飛び回るわけです。事故が無ければいいというものではなく、他の基地周辺と同様の危険にさらされていることを認識すべきと思わされました。

 この先の奥多摩や、拝島駅から分岐する五日市線方面にも見るべき場所は多くあると思いますが、この先まで足を伸ばすと一日がかりになってしまうこともあり、今回の多摩川編はこのあたりで終了にしたいと思います(ここでも片道1時間半かかります)。

2010/09/20

切通しを抜けると……──百草園

2010.9.11
【東京都】


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 急に涼しくなると、衣替え前に押し入れの開け閉めが増える方も多いのではないでしょうか。
 今回訪問日の、坂を登るにも汗だくになる陽気から一転、週が明けるとフリーフォールのような気温低下があり、またサイトアップ日には再び真夏日がやってきました。
 この一週間の気温変化では、健康な体でも体調を崩してしまいそうですし、これでは何を話題にしていいのか困ってしまいます。
 それは、環境がわたしたちを試そうとする、自然淘汰(とうた)の試練ではないか? と思ったりします。
 とは言え、今週には秋分を迎えます。異常気象も、そこで終わりにしてもらいたいものです。


百草園(もぐさえん)(Map)

 ずっと意識にあった場所ですが、初めての訪問になります。
 足を運んでみると、これまで立ち寄らなかった理由を、身をもって理解できた気がします。
 施設は丘陵地の頂上付近にあり、最寄りの京王線百草園駅からのアプローチは急坂ですし、車を利用するにも駐車場がないので、目的意識がないと足が向かない立地になります。入口からまた階段を上りますしね……
 それにしても駅からの急坂は、雰囲気も何もない無粋な坂道です。

 後述の帰り道ルートからだと、一筋の谷戸(やと:丘陵地が浸食されてできた谷地形)を登り詰めた頂上付近に位置し、百草八幡神社に隣接するので、地域の象徴となる施設が求められる場所柄になります。
 鎌倉時代に建てられたお寺はさびれますが江戸時代に再建され、明治時代には庭園とされたことを、地域では新たなシンボルとしてよろこんだのではないでしょうか。


 上写真奧の左から続く尾根の裏側には京王線や幹線道路が通る、今どきの見慣れた光景が広がります。
 聖蹟桜ヶ丘の隣駅付近にこんな光景が残されているのですから、まだ守るべき多摩丘陵が残されていることに気付かされます。
 酔っぱらって帰ると心臓が破れそうな「駅からの無粋な急坂」周辺や、本施設のすぐ下まで宅地化されていますが、こんな(急傾斜地崩壊危険箇所とされるような)傾斜地に建てられた家でも欲しいのか? と思える場所まで開発が進められています。

 上写真の撮影場所は園内の展望台で、そこの案内が「新宿高層ビル、池袋サンシャインはこちら」だけなのには、ちょっとガッカリです。
 借景にはできなくとも、見えそうな高尾山くらいは紹介して欲しいと思ってしまいます。

 この庭園は「梅の大木:寿昌梅」が有名で、紅葉も売りとされますが、立地にふさわしい山野草的な花々が可愛らしい姿を見せてくれるようにも思います。
 暑い時期に見るべきモノはないだろうとは思いつつも、庭を管理するおばちゃんの「あら、こんにちは」のあいさつもやはり「花のない季節にようこそ」の意味に聞こえ、花以外の被写体を探す心構えができました。

 右上は池の水面を狙った時、偶然目にした魚(コイ?)が起こしたと思われる波の広がる様子です。
 その主の波の立て方が特殊なのか、狭い池のせいなのか、同心円状になる前にユニークな波が見られました。
 でも昔の歌人のように、こころ静かに周囲を観察できたなら、このような絵はいくらでも見つけられるのかも知れません……


 明治時代には文人が訪れるようになり(北村透谷、徳富蘆花など)、中でも若山牧水は恋人と訪れるほど気に入っていたようです。
 結局その恋は実らず、後にこの地をひとりで訪れ、歌集『独り歌へる』を発表します(未練がましく思えますが、失恋を肥やしとしたのでしょう)。

 この地の来客層は年齢的に高めと思いますが、皆さんあの急坂を登って来るのだろうか?
 施設自体も斜面に造られているため階段ばかりですから、「いい運動になった」と思える方ならいいのですが、歩くのはちょっと大変そうです。
 園内の主な施設付近はバリアフリーになっていますが、介添えの方が大変そうな傾斜地です。

 一方子ども向けのサービスとして(?)、展望台裏の雑木林には「おちばたき会場」とされる一画があります。
 一瞬大丈夫? と思いましたが、林の中でのたき火を許可するからには、防火設備が整っているのでしょう。
 開けた場所のたき火もいいですが、林の中で行われるたき火の合間に、現物を前にした雑木林のレクチャーができれば、生きた知識として伝わることでしょう。


 百草園の門を出た正面に「百草ファーム(牛舎)はこちら」との地図を見かけ、帰りも無粋な坂道を下るのはつまらないので、誘われるままに歩いていくと、来てよかったと思えるのんびりとした里山の光景が広がっています。
 しばらく宅地造成された住宅地を下りますが、傾斜地には栗林が、平地の広い場所には農家の建物があるなど、土地の利用が区分が見てとれ、その生活区域内にテニスコートほどの牛舎があります(家畜は人のそばで暮らします)。
 真夏日に牛たちはみなダラけて寝そべっているので、お腹や乳の様子が立ち姿とは違いダラーっと広がっている迫力には、ちょっと圧倒されました(舎内は暗いため写真は撮れません)。

 そんな里山の谷筋(谷戸)から「駅近道」とされる切り通しを抜けると、普段見慣れた光景が広がっているのですが、世界が変わったと感じるくらいのギャップを体感できます。
 わずかな時間でしたが、里山の空気を味わいながら気持ちよく歩いて汗をかけました。


立川公園付近(Map)

 河川敷のガラクタ置き場のような場所に、人が群れているので近づいてみると、ここはバイクトライアルの練習場で、子どもからオッサンまで幅広い年齢層が集まっています。
 バイクトライアルとは、自転車に乗って岩場等の障害物を足を着けずに越えられるかを競う競技で、常に立った姿勢でこいでいると思ったら、自転車にはサドルがありません。

 後輪で立ち上がる、犬の「チンチンの姿勢」のような姿を目にしたことがあると思いますが、あの姿勢でハンドル位置が高いとじゃまになるため、ハンドルの高さは極限まで低く設計されているそうです。
 脱線しますが、気になったので「チンチンの姿勢」の由来を調べると、「鎮座:どっしりと構えるさま」に由来するそうです。期待を裏切りました?

 基本的に障害物には高さがあると思うので、運転者が恐怖感を克服しいくら防具を付けていても、不安定な姿勢からコケたら痛かろう、と思ってしまいます。
 でも、コースをクリアした瞬間の快感が忘れられないのでしょうね……

2010/09/13

あきらめられないバブルの夢──東京競馬場

2010.9.4
【東京都】


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東京競馬場(Map)

 この夏、この手の屋外施設を管理する人たちには、大変な苦労があったことと思います。
 カンカン照りの猛暑続きで雨も降らず、この広大なグリーンの手入れを考えるだけで途方に暮れてしまいそうです。
 と思ったら台風の大雨では極端に降りました。本来地球のシステムは、もっと効率的に機能していたはずなのに。
 それを人類がコントロールすることは可能かも知れませんが、大変なお金、労力そして規制が必要となることでしょう。
 これまでも人類は困難にチャレンジしてきたのですから、次の世代のためにやってみませんか?


 駅名には「府中競馬」とありますが正式名は東京競馬場で、1907年(明治40年)に開設された目黒競馬場(バス停名に「元競馬場」が残されます)が初代で、1933年(昭和8年)府中に移転します。「目黒記念」とされるレースは目黒競馬場にちなむものです。

 2007年にリニューアルされたスタンドの内部は、アミューズメント施設を想起するような装飾がほどこされ「ここは一体どこ?」と驚かされます。
 子ども連れでも違和感がないばかりか、施設内で撮った写真を「ディズニーランド」と言われても納得してしまいそうな装飾です。
 とはいえ目についたのは、キレイな施設の中でも床に新聞紙を敷いて座り込んだり、寝ころんでいる人が多いことです。
 ベンチが空いていても床に陣取っているので、好きな場所やテリトリーがあるのかも知れません(○○の巣窟的な暗いイメージはありません)。

 ここでレースが開催されなくても、土・日は地方競馬の場外馬券売場として開場しているので、猛暑日の避暑地(暑さを避ける場所)としては、最適かも知れません。
 随時アナウンスは入りますが、図書館以上の真剣さで(?)新聞をにらむ人や、スタンドテーブルで熟慮を重ねる方々は、図書館のように静かです。
 でもモニタに食い入る人には、突然大きなかけ声を発する人がいるので、それも雑音と受け入れられれば、気持ちよく昼寝ができそうな施設です。


 ギャンブルには関心がないので、この手の施設を知らないためどこも珍しく見えてしまい、興味の尽きない子どものように施設内をポコポコ歩き回っていました(ワクワクと楽しんで歩けました)。
 一般人が立ち入れる最上階の指定席ゲートに立つ警備員のおばちゃんが、無線で何やらやり取りしています。
 そこでふと、大きなお金が動く施設ですからバッチリ監視されていて、「明らかに金を使おうとしないヤツがウロウロしている」と、いくつもの監視モニタでチェックされているかも知れない、と思ったりしました(近ごろの繁華街はどこでもそうなのでしょうね)。
 でもそんな映像は、捜査の際には利用されるわけですから、常に下を向いて歩かねば? イヤイヤ、上を向いてやましさのない、アホ面をさらして歩んでいきましょう。

 コースの内側(馬場内)には、入場無料の子ども向け遊戯施設等があり公園感覚で立ち寄れるのですが、見通しが求められる場所柄ゆえ木陰等はありません。
 親にすれば、こんな暑い日には遊びに来たくない場所でしょうね。
 右写真のロボットのような設備は、インフォメーションモニタで「日差しの下で、芝生に寝そべってご観戦下さい」との趣旨なのですが、この猛暑日にもモニタを独り占めにする、太陽がとっても好きな人がいました。
 外野からは、やけくそ? とも見えてしまいます。

 馬場内にも投票所(馬券の購入窓口)はちゃんとあり、季節がよければ芝生で昼寝しながらトイレに行く感覚で馬券が買えるというんですから、至れり尽くせりというか、とことん巻き上げてやろうという意図のように感じます。


 この日は地方競馬をモニタで観戦するだけなのに、画面に向かって叫ぶ人がいます。
 大きなレースが開催されれば、もの凄い数の人たちが押し寄せ「ウォ〜!」という地響きのような歓声を上げるのですから、一種のお祭りや宗教行事のようにも思われます。
 しかし、負け続けても決してあきらめないその原動力とは何なのでしょう?
 お小遣いを増やしたいお父さんたちの「バブリーな夢」がはじけた後の、「このままでは終われない」未練という気もします。
 よく「銀行に預けてある」と聞きますし、それを取り戻すまではあきらめられない、という気持ちは理解できるところですが、増えてもうれしくない預金残高もあると思うのですが……
 今回のこの豪勢な「夢の殿堂」の建設は、出資者であるをお父さんたちへの還元サービスといえるかも知れません。
 座席の数席分かは出資したかも? と嘆くなかれ。これは立派な(?)次世代への投資なのですから。
 「元本保証無し。ペイオフなんか当たり前」でも、列を作って人が集まる、最もつぶれにくい銀行かも知れません……

 現在、乗馬関連の雑誌制作をしていますが、そんな雑誌をシコシコ作ってる場合じゃないよね。ギャンブルは不滅です!? もの。


 天気はどうすることもできないので、動植物にはとにかく水分補給が必要になりますが、あれだけ日照りが続いても水不足にならないのは自治体のおかげと、少し持ち上げておきましょうね。
 でも先日の台風のような土砂降りの雨を、整然と排水してくれる施設整備にはちょっと時間とお金がかかりそうですから、可能な部分は自己防衛していくしかないのでしょう。

 訪問時にはまだ台風が来てなかったため(台風来襲前の週末)散水の写真を多く撮っていて、訪問時の願望が表れていると、昔を振り返るように感じています。


大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)(Map)

 ここは競馬場近くにある大國魂神社で、特に格式の高い「東京五社」(東京大神宮、靖国神社、日枝神社、明治神宮とここ)のひとつとされます。
 他の四社は、天皇が東京に移った明治以降に造られたので、この神社だけ111年(景行天皇41年) 創建というのがどうもピンときませんが、素盞鳴尊(すさのおのみこと:アマテラスの弟で海の神)などを祭るとされます。
 卑弥呼(175年生?)が作ったとされる集権国家でさえ、限られた地方とされる歴史研究からは、ちょっと飛躍しすぎの感があります。
 伝説では、2世紀頃ヤマトタケル(日本武尊)が「東方の蛮族討伐」に訪れたことになっているので、それを神社側が引き受けたように思われます。


 ですがここの例大祭である「くらやみ祭り」では、関東三大奇祭のひとつとされる「淫靡(いんび)な風習」が江戸時代まで続いたとありますから、源流には土着的な信仰があったようです。
 その風習は「歌垣(うたがき)」とされ、決まった日時に若い男女が集い、求愛の歌を掛け合い気を引き合ってカップリングを目指すもので、同様の風習は中国沿岸部、インドシナ半島、フィリピンやインドネシアにも存在し、沖縄の毛遊び(もうあしび)も同じ流れとされるそうです。
 歌垣はその後日本の、歌合(うたあわせ:優劣を競う)、連歌(れんが:多人数による連作)のルーツとされ、和歌や俳句もその流から生まれたとされます。
 そんな背景を知ると、和歌に感じていた「愛憎の表現手段」との印象が、すんなり納得できる気がします。

 現代でも形は変われど、出会い系サイト等では、歌垣のようなコミュニケーションが求められています。
 そんな歴史を踏まえると、そこには現代の「淫靡なコミュニティ」という性格があっても、しかるべきという気がしてきます(金銭問題や犯罪が絡んだ活動の温床となるのは、現代の大きな問題です)。
 しかし昔の風習も、現代の風潮も、結局は人々が求めているわけですから、決してなくならない普遍的な欲求に違いありません。

2010/09/06

脅かされる無縁仏の安息地──ありがた山

2010.8.28
【東京都】


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 京王よみうりランド駅近くの、遊園地からの歓声が響く谷間には、現在も営業を続けている観光果樹園がありました(ブドウとナシ狩り)。
 ナシには夏後半のイメージがあり、ブドウは秋の味覚ですから、これからがかき入れ時と思いますが、気象庁が「この夏は異常気象でした」と異例の発表するくらいですから、果実のでき具合が気がかりです。
 テレビメディアの影響でしょう、世間では(風説のレベルとして)「異常気象」の表現が以前から使われていましたが、プロの言葉として耳にすると「われわれもお手上げ」と言われているようで、余計不安になってしまいます。
 台風も寄りつかないこの暑さは、一体いつ収まってくれるのでしょう……


 前回よみうりランドの続きかと思われそうですが、付近の情報を調べるうちに、隣接する丘陵地の土地開発(南山東部土地区画整理事業)では、かなり長期にわたり意見の対立が続いていることを知りました。
 そこは映画『平成狸合戦ぽんぽこ』の舞台との記述や、実態を見ることができる散策路もあるようなので、是非歩いてみたいと思い立ち、連チャンで京王よみうりランド駅に降り立ちました。
 がしかし、時すでに遅し……


威光寺(Map)


 弁天洞窟とされれる洞穴(新東京百景)があり、その中には弁財天(大蛇の化身)をはじめいくつもの石仏が祭られています。
 あれ? ここはお寺だから仏としましたが、弁天様は七福神ですから神様ですよね?
 弁天様のルーツはヒンドゥー教の女神「弁才天」で、まず仏教に、そして神道に取り込まれ「弁財天(才=財の音から、お金の神)」となったので、どっちもありのようです。
 この洞窟の起源は横穴式の古墳だったとされ、拝観券に「その昔」とあるくらいで由緒は不明のようですが、江戸時代までは弁財天が洞窟に安置されていたそうです。
 それが、明治政府の神仏分離令(神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教を区別させること)により、本尊をお堂に移したそうですから、仏様なんですね。
 でも神仏の区別なく、弁財天(弁天様)に対するイメージは悪くないと思われるので(嫉妬深いと聞きますが)、日本人には便利な信仰対象のようです。

 この洞窟内に照明は一切なく、渡された1本のローソクだけでは、ほとんど何があるのか識別できない状態なので、写真も出口付近のこんなものしか撮れません。
 胎内めぐりというのは、洞窟等を仏の胎内に見立てて参拝するわけですから、明るさを求めてはいけないのですが、懐中電灯を手にした家族を目にし「その準備は正解」と思ってしまいます……


ありがた山(Map)


 よみうりランドと谷を隔てた丘陵地の斜面に、4,000体を越すとされる無縁仏の石仏群がひっそりとたたずんでいます。
 これは関東大震災の後、当時の東京小石川区・駒込区周辺に放置されていた無縁仏が、1940年〜43年(昭和15年~18年)頃「日徳海」という宗教団体により、この地に運び込まれ安置されたものです。
 営利を目的としない志や、安置場所の開墾や移設作業の労苦には、とても頭が下がる思いですが、それをあえて戦時中に行ったところに彼らの目的があるのかも知れません。
 1941年に第二次世界大戦が始まり、1943年には上野動物園の猛獣たちが、空襲時に逃亡する危険があるため毒殺された時期に、空襲から無縁仏を疎開させたことになります。
 そこには、震災で亡くなった方々を二重苦から救いたいという心情に加え、従事者たちにも差し迫る事情があったようにも思われます。
 奉仕作業後の食事にありつきたい、稲城に行けば食べ物が手に入る、と考える人がいたとの想像は、ちょっとフィルターが曇りすぎでしょうか?
 もしそれが事実でも、非難されるような時代ではなかったと思います。

 彼らは、都内で振り返られなくなった石仏等を、山に運び込むことに功徳があると信じていたため、石を運び込む度に「ありがたや」と唱えた事から、地名に語り継がれるようになったとされます。

 そんな地を、“1970年代特撮番組ロケ地の聖地”と称賛する声もあり、「レインボーマン」「仮面ライダーX」等のロケ地になったという詳細な記述には感心しました(下写真は、もう斜面が崩れてしまい荒々しさが失われた斜面)。


南山地区(Map)


 開発をめぐり意見が衝突する地域は数多くあり、素通りすることの方が多いのですが、ここは何が引っかかったかというと、京王相模原線の車窓から見えた生々しい斜面の記憶に結びついたからです(上写真の崩壊前のがけ。同様の光景はJR南武線でも見られました)。
 それは「稲城砂」とされる良質な砂が採れたため、高度成長期に建設資材として大量に採取された跡で、採取終了後は丘陵がえぐられたままの姿で放置されていました。
 南山地区はそんな崖の上の地域にあたり、今度は横に削られています。

 多摩ニュータウン造成時には、南山地区も含めた開発案が検討されますが、地権者たちは集合住宅ではなく戸建て中心の住宅街を期待したため計画はとん挫します。
 しかし紆余曲折を経た結果、自治体は開発推進の立場から地権者の相続税対策に配慮し、変動する地価相場の中で何度も計画案を作り直して、開発業者と共に地権者を追いつめていったようにも思えます。

 以前から、里山擁護・宅地化の反対運動が継続されていますが、その内容を見ると上記の『〜ぽんぽこ』や「オオタカの活動域」等、周囲から借りた知恵の集約のように思え、地域住民の顔が見えない印象があります。
 この地域に関しては、おぜん立てが整ったところに異を唱たように見え、最低限でも土地を買い取れるだけの資金工面の見通しくらい持たなければ、対抗はできないのではないか、という印象を受けます。

 そんな地域を歩くつもりが、「ありがた山」にはバリケードが設置され、散策路が立ち入り禁止となっていました。もう工事が始まっているようです。
 ちなみに無縁仏石仏群の地も開発予定地に含まれるらしいが、計画案はいくつもあるそうでどうなるか分からないようです……


果樹園(Map)

 こちらは京王線稲城駅に近い開けた場所にある果樹園で、袋が開いています。この袋には、すっぽりとかぶせる袋や、上部だけにかぶせる笠かけ等の種類があるそうです。

 これまで何度か「ガキ時分の多摩川付近にはブドウやナシ狩りのイメージがある」と書きましたが、この付近には当時の光景を想起できる数の果樹園が点々と残されていて、「このイメージだよ!」と心の中で声を上げました。
 自治体の方針は、完全に「宅地化」を目指していますが、その合間にどっこい生き続ける果樹園が点在しています(つぶしたら名産品が無くなってしまいます)。
 この付近にこれだけの果樹園が残されている理由を考えてみると、交通の便の悪さと、ゆるいながらも傾斜地であるため、大規模な開発には適さなかったためと思われます。
 以前紹介した、二ヶ領(にかりょう)用水が引かれた地域は、用水路が引ける場所柄なので平坦地になります。
 そこは多摩川に面した場所で、交通の便もJR南武線、小田急線、田園都市線、東横線等があり、工場誘致がしやすかったため、おそらくあっという間に農地は消えていったことでしょう。
 一方この地は、京王相模原線の延伸(1971年京王よみうりランドまで開通)までは交通の便が悪く、開発からは取り残されたため、果樹園が生き延びられたのだと思います。

 南山地区の開発には、これまで多額の税金が使われてきた「引き返せない状況」であることは分かりますが、個人的な意見としては、果樹園は継続の方向でお願いしたいところです……

2010/08/30

わたし、飛びます!──よみうりランド

2010.8.21
【東京都】


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よみうりランド(Map)

 先日の旧向ヶ丘遊園とは近接していましたが、当時のすみ分けとして、庶民のガキが行く向ヶ丘と、少しませたガキが行くよみうりランドという印象がありました。
 そんな戦略が功を奏し、よみうりが生き残ったと思っていましたが……

 よみうりランドが、遊園地・ゴルフ場・読売ジャイアンツ球場・ヴェルディグラウンド等を運営していることは知ってましたが、競馬場(川崎・船橋)やオートレース場(船橋)等の運営会社(旧川崎競馬倶楽部)が母体だったとは驚きました(公営化されても施設運営を行っているそう)。
 新聞社がギャンブル関連会社に出資することは、渡辺恒夫(ナベツネ:政財界に太いパイプを持ち暗躍したとされる)がトップにいても問題視されないことと、同じくらいうさんくさく感じられます。
 よみうりが取り組んできたスポーツ振興事業(若年層の育成等)とは、社会貢献という皮をかぶった、笹川良一の船舶振興会ばりのカモフラージュのように思えてきます。

 そこで思い出したのが、むかし子どもの好きなモノとして「巨人・大鵬・卵焼き」と言われたことを、大鵬関は「お金を使って強くなったチームと一緒にしないで欲しい」と憤慨していたインタビューです。
 努力一筋に歩んできた人だけに、巨人の背景に見え隠れするうさんくささとは、一線を画したいと考えたのかも知れません。
 それにしても、日本人が精神的に弱くなりつつあることを、近ごろの相撲界は見事に暴露し、日本人力士が横綱になれない訳を、受け手側が想像しながら理解できるよう、言葉少なに説明してくれます……


 隣接するジャイアンツ球場では、イースタンリーグの巨人vs楽天戦が行われています。京王よみうりランド駅からは、283段ある「巨人への道」なる階段を登るそうです。
 以前、同駅からのアクセスには、長〜いエスカレーター(スカイロード)がありましたが、現在はスカイシャトル(ロープウェイ)が運行しており(共に有料)、この写真はそのゴンドラから撮ったものです(夏のゴンドラ内はご想像の通りサウナ状態です)。
 ガキの時分は小田急沿線に住んでいたので(小田急線読売ランド前駅からバス)、その長〜いエスカレーターに乗る機会が無く、あこがれていたことを思い出します。

 庶民的な向ヶ丘遊園派のため、多く来た印象はないのですが、地形の起伏も含めて、敷地はこんなに狭かったかと驚きました。
 現在ではそれを逆手に取り、スカイシャトル等の高さを利用した立体感の演出により、起伏のある立地が生かされてると感心しました。

 写真右の、最も大きなコースター「バンデット」と、下写真の木造コースの「ホワイトキャニオン」は共に、整備のため休業中でした。
 夏休み期間中の土曜日に、目玉と思われる2大コースターがそろって休業とは、乗るつもりはなくてもちょっと驚きです。
 無理して事故を起こすよりも、万全な状態で営業してもらうことが一番です。
 夏は遊園地よりプールのかき入れ時ですから、人員をプールに回しているのかも知れません。
 プール施設は、外部からシャットアウトされていて、のぞくこともできませんが、かなりの人出があるようです。
 ここのプールは「流れるプール」のはしりだったこともあり、当初は「向ヶ丘遊園のプールは流れない」と文句を言ってたような気がします。


 半分逆光だと水アメ細工のようにも見えますが、もう少し建築物としての美しさがあるかと思ったものの(わたしの観察力が足りないのか?)、事故は起こせない使命感から「ガッチリ建てましょう」と、強度が必要な個所に様々な筋交いが入れられているようです。

 施設全般のイメージが以前とは違いすぎるので調べてみると、飽きられないようにリニューアルを繰り返したようで、営業終了した施設の中にむかしの印象を見つけました。
・水中バレエ劇場
 水槽の中で人魚か竜宮城かという舞いを、見てみたいと焦がれていました。
・モノレール
 園内を周回する施設のイメージは、いまの東京ディズニーランドか?
・アイススケート場
 へたっぴでは(入れなかった気もする)滑るのも気後れしそうな、高速スケーターがとばす400mトラックリンクがありました(小学生時代の大会で優秀な成績を残した友人はそこで練習したそうです)。

 変化し続ける施設が目指すものは、来場した「その日」を印象に残すことなのでしょう。でも今回の場合は、関心あっての訪問でも思い出までは作れなかったので、記憶に生き続けるのはガキのころの印象になるのだと思います……
 


 今どきの乗り物って、逆さの状態で静止するんですね。
 それって恐怖感とかじゃなくて、人をいたぶるような「非日常体験施設」との印象があり、「いいセンスとは思えない」と書きたくて撮りました。

 上写真を撮ろうと運転開始をベンチで待っていると、ニコニコ笑顔の可愛らしい30歳前後と思われる女性2人組が、周囲には目もくれない様子で歩いていく姿を目にしました。
 しばらく時間は空いたのですが、次のアトラクション(?)で彼女たちと再会します。

 女性もバンジージャンプで飛び降りるんだ、と思っていたら、先ほどの「ニコニコ笑顔」の彼女でした。
 飛び降りて、ベルトを外してもらった途端、興奮して手が付けられない子どものように、ケラケラ笑い転げてしまい、周囲が引いてしまうような状態でした。きっと普段は分泌されない、物質が出ちゃったんでしょうね。
 その姿を目にして、彼女は発散するためにここを目指していたんだと、先ほどの期待に満ちた表情を理解できた気がしました。

 わたしはNGですが(年と共に高所が苦手になりました)、男が飛ぶ時って、見栄や勢いという気がしますが、女性にはそんな「ストレート」な飛び方があるのかと、ちょっと怖く感じます。
 彼女の相棒はそれほどストレスがないのか、カメラを構えた手がしびれるくらい台の上でためらっていました。
 それでも落下後は、爽快そうな表情で立ち去っていきましたから、クセになるのかも知れません。
 上の写真は、その後に飛んだお母さんですが、何のためらいもなく飛んでいました(下から見上げる子守のお父さんの方がビビッてるようでした)。
 わたしが見ている間に飛んだのは女性ばかり(4人)ですから、ストレス発散の荒技として紹介すれば、もっと流行るのかも知れません。
 でも、彼女や奥さんに「これからちょっと飛んでくるわ」とか言われると、そんなにたまってるのかと、ビビッてしまいそうです……

2010/08/23

鉄橋のあったころ──登戸

2010.8.7
【神奈川県】


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 川崎市の多摩川に面した地域には、暴れ川とされた多摩川の氾濫原(はんらんげん:洪水時に河道が氾濫する範囲の平野部)が広がっており、以前は農耕地に利用するための用水路が、網の目のように整備されていました。
 現在は下水路とされ、簡易的なフタをした歩道が、住宅地とされた合間をぬうように残されています。
 コンクリート板のフタが安定しない場所を踏むと「ゴン!」と傾くところに、自治体のいい加減さというか、多すぎて手の回らない状況がうかがえます。


久地円筒分水(くじえんとうぶんすい)(Map)

 ここは、多摩川から取水した二ヶ領(にかりょう)用水を各地域に分配する、久地円筒分水という施設です。
 二ヶ領用水は江戸時代(1611年)に完成し、この一帯では「稲毛米」とされる上質な米が作らたそうです(ガキ時分の印象である果実類の農地は、転作後の光景になります)。


 むかしから、農耕を主ななりわいとして生活してきた民族ですから、水をめぐる争いが絶えなかったことは、容易に想像できます。
 江戸時代にも分水施設はありましたが、その配分率に納得できない農民たちの騒動が絶えなかったそうです。
 1941年(昭和16年)に作られたこの施設は、円形のわき出し口から4方向に分流する先の灌漑面積に応じた比率を、円周の角度で分水しています(上写真で、3方向に分水されているのが分かりますが、それ以外は4番目のメインとなる水路に流されます)。
 角度を測った人もいたと思われる、誰が見ても納得できるようにディスプレイしたところが画期的と思います。
 また二ヶ領用水はこのすぐ手前で平瀬川とクロスする際(一部平瀬川に合流)、平瀬川の下をくぐってここにわき出させています。
 現在は国の登録有形文化財とされますが、もう水争いをする農地は残されておらず、周辺住民の憩いの場(桜の名所が多くある)という役目に変わりました。
 以前水路に沿って歩いたことがありますが、近所の水路は下流のJR南武線鹿島田駅付近で下水に流されているのを目にし、「それはないだろ!」とガッカリしたことがあります……(きれいな水ではないので、仕方ないか)


旧向ヶ丘遊園(Map)

 「何これ?」という、記憶に訴える類の写真なのですが、分かる人もいるのでは? 旧向ヶ丘遊園の、入口正面にあった白い階段の現在の姿です。


 てっきり入れると勘違していて、完全な企画倒れとなりました。
 遊園地の営業は2002年終了しますが、名所とされる「バラ園」だけは、川崎市が近くにある生田緑地の一部とすることで、管理を引き継ぎました。
 そこだけなら入場可能と思っていましたが季節限定だそうで、この時期は完全に閉鎖されていました。
 もうモノレールの軌道も撤去され、記憶をたどるきっかけすら無くなっていました(ガキ時分には、夏はプール、冬はスケートとよく通いました)。

 手前のシート部分では「藤子・F・不二雄ミュージアム(仮称)」の建設が進められています。「ドラえもん」なら受けるとは思うも、通りやすそうな企画書を出したものだ、とも。
 ちゃんと調べずに「あの階段を登るぞ」と気合い入れてもね……


登戸(Map)

 ようやく完成(2008年)した印象のある、複々線の小田急線多摩川橋梁です(登戸〜向ヶ丘遊園駅の下り線は未完成)。
 以前、鉄道の橋は鉄橋と決まっていたので、小田急沿線に住んでいたころは、眠りこけていても鉄橋を渡る音で「登戸だ」(まだ寝られる)と察知できたものでした。
 今どきはコンクリートの橋になってしまい、どこを走っているのか判別できません。

 計画当初はすごい橋ができそうだと思っていましたが、気付いてみれば、東横線や田園都市線はすでに複々線の橋が架けられてますから、小田急には連続複々線化工事(代々木上原〜向ヶ丘遊園)の成果として、混雑率の改善で驚かせてもらいましょう(でも、ラッシュ時の小田急線に乗って確認したくないなぁ。混雑するとされる東横線でも、小田急には及ばないと感じます)。
 
 川岸からのんびり眺めていると、ロマンスカー(全席指定の特急車両)の種類が増えたのと、土曜日のせいか本数が多いことに驚きました。
 ガキの時分には、オレンジ色の2型式しかなかったのですが、ミュージックホーン(パン、パン、パン、パ〜ン♪)が聞こえると振り向いたものです。
 近ごろは騒音とされるらしく、市街地では鳴らさないそうですから、いまの子どもたちは静かにロマンスカーを見送っているのだろうか?


 以前は、休日の多摩川に浮かぶボートがとても楽しそうに見えましたが、この日は川面に浮かぶボートはありません。
 炎天下の川岸では、釣り人も橋の下の日影に集まりますから、ボートをこぎ出すには勇気が必要です。夏場の貸しボート屋は、商売にならないでしょうね。
 今どき「多摩川でボート乗ろう!」なんてデートは流行らないようですが、アベックが乗る手こぎボートには、純朴な可愛らしさが感じられました。
 そんな鉄橋のあったころを振り返ってみると、鉄橋ってスカスカなので日よけにならないし、雨宿りもできなかったことを思い出します(あの騒音をよろこんでいたのか?)。
 それに比べ、コンクリートの橋の下は居住性がいいので、自宅近くの橋の下にはホームレスが寄りついてしまいます。
 子どもの脅しに使われてた「お前は橋の下で拾われて……」も、ピンとこなかったのでしょう、川へ行くと橋の下で遊んだ記憶があるので、ホームレスの気持ちも理解できる気がします(バーベキューの連中にも通じるのか?)。

 川岸には、昔ながらのバラックの飲食店が健在です。
 何だか、川沿いを走ってきた自転車乗りのオッサンたちのたまり場になっていました。
 河川敷(堤防の内側)への新たな出店は認められないようで、二子多摩川の店が堤防工事で撤去された現在、多摩川沿いで存続する店はここの3軒だけかも知れません。
 付近の花火大会は1985年で打ち切られたそうです(見に来た覚えある)。
 理由はあるにしても、花火大会がなくなってしまうと、地元住民の元気も奪ってしまうような気がしてなりません……


2010.8.15

丸子日枝神社(ひえじんじゃ) 山王祭(Map)

 土曜日の午前中、近所の丸子日枝神社「山王祭」の「ピーヒャラ」「ワッショイ」というにぎやかな様子に目を覚ましました。祭り自体は前日の金曜日から始まっていたそうです。
 8月13日(金)が宵宮(前夜祭)、14日(土)が例大祭、15日(日)が大神輿渡御(おおみこしとぎょ:巡行)との日程ですから、「子ども神輿の後に、大人の神輿が通ります」などという、自治会的なイベントではありません。
 担ぎ手たちは気合いの入ったいでたちで「粋さ」をアピールしますし、各町内に「休憩所」が設営され、担ぎ手たちをねぎらう準備が整えられます。

 現在の新丸子周辺の土地柄(通勤に便利なため、古くからの家をマンションに建て替える家が多い)ゆえ、マンションの入口に下写真のちょうちんが下げられたりします(ここは道を挟んだおとなりさんの建物で、ここも建て替え準備をしているようです)。


 日枝神社とは、比叡山麓にある日吉大社から分祀された神社の社号になります(日枝は比叡山の旧名にあたる)。
 809年に、桓武天皇の孫に当たる兄弟が、東方地域を治めるためこの地に「丸子山王権現」を開き、大山咋神(おおやまくいのかみ:山王様)と、大物主神(大国主神:出雲神話に登場する大地を象徴する神)が祭られます。
 神輿のルーツとされる「日吉型渡御祭」(ここでも行われる神輿を激しく振る様式)は、豊作や大漁を願う庶民の流儀で、元は天皇の行幸を模した「王朝型神幸祭」とされるそうです。
 「渡御」には、水のみそぎを受けるイメージがあるので、以前は多摩川に入っていたのかも知れません(現在は行われない)。
 
 近ごろは担ぎ手も、見る側も「目立つ部分」に目を奪われがちですが、海外の方には「神輿=Portable Shrine(持ち運び可能な神社)」と、説明されているそうです。
 その表現の方が本質を示しているように思えますし、その理解からは、迫力はあっても「何て野蛮な人種だろう」(エスニック:民族特有の習慣 とは、こんな時に使われる表現なのでしょう)と思われているかも知れません。

 でも、老若男女が「神様お願い!」(テンプターズを想起してしまうわたし)と大騒ぎする姿にこそ、わたしたちのアイデンティティがあるのかも知れない、とも思います……


P.S. 夏の甲子園で、沖縄の興南高校が春夏連覇しました(東海大相模は地元なので、双方応援していました)。
 ウチナー(沖縄人)へのエールのつもりで、意見を書かせてもらいます。

 彼らは、さぼらなかった、のだと思います。
 それができれば、ナイチャー(本土人)に負けないことを彼らが証明してくれた、と考えていいのではないかと思います。
 ウチナーの人たちは、さぼり癖(失礼)を克服すれば(あくせく動き回れの意味ではない)、ポテンシャルは高い人たちと思うので、球児たちの快挙を自分たちに置き換えて、自信を持って立ち上がるべき時ではないかと思います。
 米軍基地の問題はもはや、やる気のないナイチャーに任せるのではなく、自分たちでコツコツと活動していかないと、いつまでも「なめられたままの存在」に甘んじることになってしまいます(ナイチャーとしてもあきれました)。
 ちょっと過激ですが、琉球が独立したら国籍を変えようかしら、と思ったりもします。
 それは、日本で最も平和を求めている地域のひとつだと思えるから……
 いい機会と思い書きました。

2010/08/16

眺めのいい場所を求めて──岡本、用賀

2010.7.31
【東京都】


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静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)(Map)

 多摩川河川敷にある二子玉川付近から都心へ向かうと、かなり急傾斜の国分寺崖線(がいせん:川が丘陵地を浸食したなごり)が立ちはだかります。
 この付近の河川敷は、多摩川と野川が合流するため広くなっているので、坂の上から見下ろす光景には開放感があり、以前から人気があったことも納得できます。
 二子玉川にできた高層マンションから見下ろすと、付近の地形の様子が手に取るように分かるんだと思います。

 その坂の上(敷地は斜面下まで含む)に、静嘉堂文庫という、三菱財閥2代目総帥の岩崎弥之助(号を静嘉堂と称した)、4代目小弥太父子のコレクションから始まった、図書館・美術館があり、日本・東洋の古典・古美術品を収蔵・公開しています。
 弥之助は、三菱財閥の創設者岩崎弥太郎の弟で、銀行・倉庫・地所・造船など経営の多角化に取り組み、その後第4代日本銀行総裁となります(経済界のリーダー的存在でした)。
 ここでのツッコミどころは、彼の奥さんが土佐藩の要職を務めた、後藤象二郎(吉田東洋の教え子で徳川幕府擁護の立場であったが、龍馬の進言を受け入れ大政奉還を推進し、新政府の要職に就く)の長女であることです。
 大河ドラマ『龍馬伝』ネタですが、現在までの放映では、階級制度の厳しい江戸時代の土佐藩において、後藤の部下である兄の弥太郎は、まだあごで使われる状況が描かれています。
 その当時、弥之助と後藤の長女との結婚は、世間がひっくり返らない限り実現しようもない「ありえない話」だったはずです。
 そんな驚天動地の出来事を、ドラマの巻末にでも添えてもらえればと思っています。
 龍馬は、新しい日本を見ることなく死んでしまいますが、そこで幕引きにしないために、弥太郎をナビゲーターとしているのだと、期待しています……

 ここは、弥之助の墓とされた丘陵地の一画に、文化施設を建てたもので、墓地の区域はそのまま残されています。
 しかし何で成金というか成功者は、偉そうにまつられるのでしょう。財閥の総帥ともなると、周囲がはやし立てるのかも知れません。
 眺めのよさそうな(現在は木がうっそうとしていて展望はない)高台へ向かう石段は、まるで神社仏閣の参道のようですし、そこに鎮座する廟(びょう:先人の霊を祭る建物)の存在感は、昔の賢人をたたえるようでもあります。
 右写真の廟の扉には、人々の暮らしについて描かれているようです(近寄れず詳細不明)。
 これは想像ですが、勤勉の大切さを説く、中国の故事から引用されているような印象を受けました。

 ドラマの弥太郎には、立身出世物語の下地となる、踏みつけられても決してあきらめない姿勢が感じられ、これから巨万の富を築くことにも、納得できる部分があります。
 でも、近ごろの富というものには、うさんくささや、バブリーな印象がつきまとうので、コツコツと努力を積み重ねることを、バカらしく感じてしまう面があるように思います。


岡本公園民家園(Map)

 静嘉堂文庫に隣接する場所に岡本公園民家園がありますが、岩崎家に土地を分けてもらった印象を受けます。
 国分寺崖線と、それに沿って流れる丸子川(上流は仙川)に挟まれた立地なので広くはありませんが、崖線からわき出る水が豊富なので、木々がうっそうと茂っています。
 わき水を利用したホタルの飼育が行われますが、近ごろは数が少なくなったそうです。
 そんな緑地の中に、瀬田に残されていた古民家が移築復元されています。
 東京都とは言え昔の世田谷は、開発前の多摩地区と同様の農村でしたから、のんびりとした光景が広がっていたようです。
 神奈川で古民家を目にしても「またか」と思うのに、川を隔てた東京では「世田谷にもこんな民家があったんだ」と、感心するのはなぜなんでしょう?
 東京は転入者が多すぎて、土地に根付いてきた人たちの割合が極端に低くなり、郷土のあり方も転入者に受けのいい、不動産関連会社の意向に沿ってきたような気がします。
 地元自治体も、ようやく独自カラーを打ち出すようになりましたが、裏返すと「不動産が売れない(転入者が増えない)」ことによる焦りにも思えます。
 これ以上国全体の人口は増えないとすれば、自治体間でも「住民」を奪い合う状況になるかも知れません……

 付近の国分寺崖線の急坂に「岡本三丁目の坂」と呼ばれる坂があります。
 わたしの中では『俺たちの旅』(1975年放映のテレビドラマ)の舞台である、紀子さん宅への坂道の光景に直結します。
 両側の家並みが変わったのは当然ですが、交通の便がよくないせいか付近に高い建物はないので、坂を眺めていると、カースケ、オメダ、グズ六たちが、リヤカーを押している絵がよみがえってきます。
 その坂は、晴れた日の富士山展望が見事なことから「東京富士見坂」のひとつとされています。


用賀プロムナード(Map)

 今回の、用賀〜砧(きぬた)公園〜岡本〜二子玉川(今回は逆ルート)は、まま歩くルートですが、こんなに閑散とした砧公園は初めてと思います。
 いくら緑はキレイでも水遊びはできないので、こんな猛暑の昼間に人が集まる場所ではないと、汗をぬぐいながら納得しました。
 周囲のジョギングできるコースは木陰なので、まばらですが人出があります。
 以前付近の住宅地で、家の通用口からジョギングスタイルで出てくる松任谷正隆氏と出くわしたことがあります。あちらも「あっ、見られちゃった」というタイミングで目が合いました。
 中村雅俊氏(カースケ)も走ると聞いたことがあるので、周囲の目を気にせず走れるコースのようです。

 用賀駅と砧公園・世田谷美術館の間に、用賀プロムナードとされる遊歩道があり、路面に瓦が敷き詰められるので「いらかみち」とも呼ばれます。
 何で瓦なのか? については、淡路島産の瓦を使用している、とあるだけで、その理由までは見当たりません。
 路面に百人一首や絵が描かれることから、丈夫で加工しやすく身近な素材との理由なのかも知れません。近所の方々にも評判はいいようです。
 これをデザインしたのは、象設計集団という建築家集団で、沖縄の名護市役所庁舎(1981年建設。最初は廃虚となった城(グスク)を想起しましたが、年月を重ね色がくすみ、緑に覆われることで、目指す姿に近づいていくような印象を受ける、存在感のある建築物です) を手がけたそうです。
 上写真は、砧公園側の入口にある鬼瓦。ちなみに、 鬼瓦職人のことを「鬼師」と呼ぶそうです。


サザエさん通り(桜新町)(Map)

 特に見たいわけでもないのですが、できれば見る態勢を整えたいと思ってしまう「サザエさん」です。
 日曜日の18:30〜19:00という時間帯に、テレビの前に座ってサザエさんを見ている事自体に、ホッとするのだと思います。
 このように、テレビ番組が生活のタイムテーブルとなり続けているのは、他ではNHK7時のニュースくらいではないか?
 なくても困らないが、目にできると落ち着く存在であることは確かです。
 こちらも特に期待するモノはない「長谷川町子美術館」ですが、ある程度人が入っていることと、サザエさんがいまの子どもたちにも人気があることに、ホッとしたりしました……


 断続的ですが、(記憶はないが)タラちゃん(3歳)くらいの年齢から見はじめ、カツオ(11歳)、マスオさん(28歳)をはるかに超え、次に目指すは 波平さん(54)だなんて、自分だけ年をとってるような気分にさせられます。
 そんなキャラクターの年齢設定を調べていると、銭形警部(29歳)、サザエさんとヤッターマンのドロンジョは同じ24歳など、アニメキャラの年齢比較が流行っているとありました。
 キャラクターは年をとらないにしても、みんな設定年齢より上に感じられるのは、声優さんが年を重ねているせいかも知れません……

 上写真は駅前通の「花沢不動産?」なので、サザエさん通りではないのですが、マッチングのうまさに最もインパクトを受けた光景です。
 商店街のいたるところにキャラクターが配され、町の活性化に利用しつつ、サザエさん(美術館)の宣伝にもなる、共栄を実現しています。
 でもちょっと危険な組み合わせと思われたのが、サザエさん一家と寿司屋のコラボレーションです。キャラクターがネタにされてもいいの?
 きっとサザエさん一家が百歩譲ったのでしょう、店先の目玉メニューに出されていたのは、旬とされる「アナゴ丼」でした。
 アナゴさんなら仕方ないかと……

2010/08/09

橋の下に群れる文化──大山街道、二子橋

2010.7.24
【神奈川県】【東京都】


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溝の口(Map)

 JR南武線と田園都市線が交差する駅周辺には、先日の自由が丘にも見られた、昔の風情が感じられる町並みが残されています。
 現在では散見する程度ですが、以前は駅前に広がるラビリンスのような存在だったので、再開発後の町並みに驚いた記憶があります。
 外部の者には、車窓や駅前で目に入る光景が町の印象として残るので、それが町の看板になってしまいます(キレイならいいってものでもないが)。
 以前は南武線沿線の駅前はどこも、うらぶれた印象があったため(東横線の各駅前もゴチャゴチャしてますが、それとは雰囲気がちがう)、どうも好きになれませんでした(ギャンブル電車ですしね)。

 駅前再開発事業(写真後方のノクティ、丸井を含む)の完了(1999年)で、地元は「とりあえずキレイになった」と、満足のようです。
 駅前だけはようやく生まれ変わったものの、他の地区で計画される再開発は、商業地域の縮小傾向が続くため、踏み出せない状況のようです。

 右写真の奧では、狭い路地に商品が広げられ、思うように歩けない状態でフリーマーケットが催されています。
 歩く速度が遅くなるほど、商品に目を向ける時間が長くなり、購買機会が増えると考えているのだろうか?
 したたかではあっても、再開発後の場所では店の前も融通し合えなくなりますから、なあなあの通じる場所に人が集まるところに、庶民生活の実情が表れているのかも知れません。
 これまでの再開発が目指したものは、「キレイに整備したので少々家賃はお高くなりますが、これまで以上の集客力が期待できます」というものでした。
 右肩が上がっている時は引く手あまたでも、今どきの中堅都市ではそんな再開発モデルは通用しない、とした自治体の判断は、賢明だったように思います(近ごろ川崎駅周辺は「大きな買い物(高価)」ができる町となり、それには対抗できないと考えたのか)。
 きれいに見えなくとも、衛生や治安面が保たれていれば問題ない、と考えてもいいのではないでしょうか。
 それが「南武線的発想」とか言われたら、返す言葉が無いのですが……

 「みぞのくち」の表記について、自治体や公共団体は「溝口」、JRは「溝ノ口」、東急は「溝の口」なんだそう。統一した方が、美しいと思いますが、基本的に日本語は「通じればいい」といういい加減な表記なので仕方ないのでしょう……(字面が好きなので、この表記を使用しました) ちなみに略称は「のくち」と呼ばれます。


大山街道(おおやまかいどう)(Map)

 上写真奧に見える、丸井の看板があるビルの最上階付近に、高津市民館があります。以前その廊下の壁に並べられた、悠々カメラマン(高齢者の意)によると思われる「大山街道めぐり」の写真展を目にしたことがあります。
 その時は「こんな石仏写真なんか絶対撮らねえぞ!」と思ったものですが、今回は何のためらいもなく「街道をゆく」です。
 京都をかじってから、興味対象がジジ臭くなったと自覚しています……

 大山街道の歴史は奈良時代までさかのぼり、当時の東海道(箱根の足柄峠を越える道)とされ、鎌倉時代には鎌倉古道に組み込まれ、江戸時代に現在の国道1号(箱根駅伝の走路)沿いに東海道が整備されるまで、本道とされました。
 江戸時代この道は「矢倉沢往還(やぐらざわおうかん:街道に準じる官道)」として整備されますが、当時盛んになった山岳信仰「大山講」(大山詣での組織)の参詣者が増えたため、「大山街道」と呼ばれるようになります。
 赤坂を起点とし、現在の国道246号の起源になるため、青山付近では「青山通り大山道」と呼ばれます。

 大山は、実家が近いこともあり何度か登りましたが、階段が続く急斜面なので下山時に「足が笑っちゃう」という声を、よく耳にした覚えがあります。

 上写真は、街道沿いにある光明寺の境内で、水槽に使われる大きな釜です。
 また近くの街道沿いの店先には、NHK大河ドラマ『黄金の日々』(1978年)で、石川五右衛門(根津甚八)の釜ゆでのシーンに使われたとされる大釜が展示されています。
 この地は大釜にゆかりがあるのかと、調べても何も見当たらないので、お寺の境内にある大釜の出どころも同じ店かも知れません。

 大山街道沿いに古くからある商店の店先には、昔ながらの木板の口上書きが立てられ、店の歴史などが書き記されています。
 それは自信の表れですから、もうひとつの看板として店の信頼感につながります。こんなblogですが、少しでも認知度が高まればと思います。
 説明されても分からない部分もありますが、店の歴史は財産であることは伝わってきます。

 街道沿いにある「大山街道ふるさと館」には、南北に延びる府中街道との十字路にあった古い道標が残されていて(移設保存)、そこには「至る高幡不動」の表記があります。
 当時の道標に有名な神社仏閣名が用いられるのは、わかりやすさのためですが、現在高幡不動と書かれたら「それってどこの町に近いの?」となりそうです……

 この石仏は二子神社の境内に、社殿とは逆向きに置かれてあり、あまり大切にされていなようにも見えます(何か理由があるのか?)。
 すっかり摩耗していますが、街道筋に多く見られる馬頭観音(物資輸送に欠かせない牛・馬を祭る)ではないかと思われます。
 その下は三猿(見ざる聞かざる言わざる)のようで、むかしは猿が厩(馬小屋)の守り神とされた地方もあったそうです。


二子橋(Map)

 江戸幕府は、多摩川を江戸の防衛線とするため架橋を制限したので、大山街道がにぎわった時代、この地には「二子の渡し」がありました。
 それにしても、この地に架橋されたのが1925年(大正時代)というのは遅すぎる気もしますが、関東大震災が1923年に発生したので、その前に作らなかったのは賢明と言えるのかも知れません(工事中に壊れたのかも?)。

 少し前に川崎市が、2010年9月から「川辺のバーベキューを有料化する」と発表しました。ゴミの量が半端でないことによります。
 でないと、われわれの税金(川崎市在住)がこいつらの尻ぬぐいに使われてしまいます。

 多摩川に架かる二子橋の東京岸は「世田谷区」「二子玉川」というセレブが集う町ですが、神奈川岸の川崎市は「二子町」にある「二子新地駅」(ネーミングも安っぽい)というローカルな町ですし、わたしの暮らす新丸子付近は「田園調布の川向こう」とされるような、「自治体格差」が存在しています(ひがむつもりはないが、そう聞こえてしまいますよね)。
 そんな住民意識でしょうか、東京岸は風紀管理のためBBQは禁止ですが、神奈川岸はウエルカムとしています。
 そうなればヤツらは神奈川岸に集まりますし、いまどきは「手ぶらでBBQ」を可能にするサービス業者も多くあり、機材を積んだトラックが河川敷の駐車場に並んでいます。
 そんなサービスでにぎわったとしても、県外(主に東京方面)から来た客と業者が、ゴミだけを残して帰るのであれば、地元が潤うこともありません。

 一度のぞいてみようと思っていましたが、人出の密度は繁華街的でもここはアウトドアの開放感から、ルールもへったくれも無さそうなところが、周辺住民の不満につながるように思えました。


 近ごろ若者が集まる場所には、大出力のオーディオ設備が持ち込まれ、大音響で音楽がたれ流されたりします。
 しかしそこに、暑い昼下がりが似合うボブ・マーリーの曲が流れると、暑く、けだるいながらも、ゆるく体が動き出す心地よさがあり、「OFF」を実感した途端、ビールが飲みたくなります……
 でもここで問題なのは、そう感じたのが対岸である二子玉川岸の土手であることです。
 これじゃ、どっちの川岸からも苦情が出るのは当たり前だよ、としか言いようがありません……


旧多摩堤(Map)【東京都】

 ここは二子玉川に残される旧堤防です。
 以前羽田で紹介した多摩川レンガ堤の上流部分で、この付近で合流する野川(国分寺市が源流)の影響を考慮したようです。
 現在、二子玉川駅付近(東京岸)は堤防改修の工事中で、古くからあったと思われる売店も撤去されました(一度おでん食べとけばよかった……)。


 しかし、その堤防改修工事に対し近隣住民は「景観」を盾に反対運動をしているそうです(堤防のかさ上げで川が見えなくなる)。
 住民の意識までは分かりませんが、決壊して周囲が水浸しになることよりも、自宅からの景観を守りたいとする主張には、少し身勝手な印象を受けます(家が流れちゃったらおしまいじゃないの?)。
 近ごろでは、100年に一度と想定される大雨や洪水が10年程度で頻発しますから、この工事に感謝する状況は案外早く訪れそうな気もします(「スーパー堤防」という考え方は間違ってない気がします)。

 駅周辺には、空き地があるはずもなく仕方ないのでしょうが、国道246号の高架下に、盆踊りの舞台と飾り付けが準備されていました。
 雨でも盆踊りは可能としても、ご先祖様は落ち着けないのではあるまいか。
 でも盆踊りの音楽って、どうしてあんなに大音量なのでしょう?
 地域住民の参加を促すため、ご先祖様が迷わないため、などの理由があるのでしょうが、どの会場でも踊りの輪に加わらない者には、やかましく感じられます。
 でも、ここでは頭上にある道路の騒音に負けないために、さらに大きな音で対抗しているのかも知れません。
 なぁ〜んだ、二子玉の住民も橋の下で大きな音を出して騒いでるんだと思うと、これまでとは違った「橋の下文化」の事情もあるもんだと、ちょっと切なくなりました……

2010/08/02

古くから地域の中心だった?──センター南・北

2010.7.17
【神奈川県】


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 この地訪問の動機は、先日の日吉で横浜市営地下鉄グリーンラインの案内を目にし、「たまには乗るか!」という単純な勢いによるものです。
 現在は「多摩川沿いを歩く」企画のつもりですが、ちょっと寄り道です。
 ここでは「Discover 神奈川」(再認識)のような場所に出会えたので、次はそんなシリーズを考えようかと思い始めました。


センター北(Map)

 ここは港北ニュータウンとされる新しく造成された町で、開発に際して横浜市営地下鉄ブルーライン(あざみ野〜湘南台:1972年部分開業、1999年全線開通)と、グリーンライン(日吉〜中山:2008年開業)が建設され、都心への交通手段が確保されました。
 中心部である、センター北駅前には阪急(下写真は屋上の観覧車。関西系は回りモノ好き)、センター南駅前には東急(映画館を併設)が立地し、身近なショッピングモールとしてすみ分けています。
 それぞれに集客力はあるものの中途半端に感じられ、肝心の(大きな)買い物には、大都市(横浜や渋谷等)へ流れてしまいそうな印象を受けます。


 いつもこの「センター」という名称が引っかかり、「どこのセンターなのか分からない」と思ってしまいます。
 これは、港北ニュータウンの土地区画整理事業における「タウンセンター地区」に由来するそうですが、ならば「多摩センター」のように「港北センター」などとすべきではなかったか?
 地形的には同じ多摩丘陵に位置するので、決して成功だったとは思えない多摩地区の開発とは、目先を変えたい意図があったのかも知れません。

 できるだけ自然との一体感を保とうとする姿勢は見て取れますが、これからの高齢化社会では傾斜地の利用は不便ですし、この先それを援助するための費用は増大するばかりです。
 東急田園都市線の沿線同様、開発当初に若い家族を呼び込んだ明るい雰囲気は、次第に不便な町という認識に変わってしまいそうな気がしてなりません……


大塚・歳勝土(さいかちど)遺跡公園(Map)

 弥生時代の集落には、右写真のような木の柵に囲まれているイメージがあります。
 おそらく教科書の挿絵などにあったのでしょう、自分の中では勝手に「この復元イメージは正しい」なんて思ったりします(発掘・研究の成果が教科書に載ってるはずなのですが)。
 そんな様子を撮ったつもりが、牢屋の中で暮らしていたように見えてしまいます……

 ここは、「大塚・歳勝土遺跡公園」とされる、国の史跡になります。
 大塚遺跡は弥生時代中期の環濠集落跡(周囲に堀をめぐらせた集落:ムラ)、歳勝土遺跡は、大塚遺跡で生活した人の墓地とされます。
 横浜市歴史博物館が隣接しているので、夏休みの自由研究も半日で片付けられそうな連携ぶりです。
 夏休みの課題って、一日かからないと思っていても、なかなか取りかかれないあの腰の重さって、何だったんでしょうね?
 「いまやろうと思ってたのに〜」とも違う気がするし、何をやったらいいのか分からず、自信を持てなかったような気がします。

 戦前までの神奈川は、国や軍部の押しつけには逆らえない、田舎的な(田園風景が広がる)土地柄でしたから、歴史を振り返る施設には必ず古民家が鎮座しています(他に展示するモノは無い)。
 でも、居合わせた外国人家族の関心が暖炉に集まっており(日本人がレンガ作りの暖炉に引かれるように)、国籍を問わず家族団らんの空気は伝わるものかと、ちょっとうれしくなりました。
 小学生くらいの女の子は、この鉄瓶にとても興味があるようで、おままごとが終わるまでかなり待たされました……

 汗をふいて休みながら「確かに落ち着く空間だ」と見回したとき、これまでとは異なる感じ方をしていることに気付きました。
 猛暑が続く時期に「エアコン無しでは…」と思うも、時間の流れがゆったりとしていれば、「少し風が出てきたようだね」と、笠智衆(りゅうちしゅう)さん(寅さん映画の御前様)のように過ごせるのではあるまいか? などと感じた次第です……(もう、オヤジ世代も卒業して、老境の入口か?)

 笠さんの話題ついでに脱線しますが、先日発行された、原節子さんについての本『原節子 あるがままに生きて』(本人の著書ではない)を購入しました。現在もベールの中でご健在らしく(本も売れてるそうで)、スタアの存在感は色あせてないようです。
 ずいぶん前になりますが、笠さんの本(インタビュー形式)にも『あるがままに』というタイトルが使われていました。
 これは単に小津安二郎監督の影響だけではなく、欲を持たず、襟を正して生きようとした、お二人の姿勢を表現する言葉、なのだと思います。
 銀幕のお二人の姿が、よみがえってくるようです……

 ここは歴史博物館屋上からの光景で、右写真のカメラは正面の駐車場を向いていますが、その両脇には同じ目線の高さに、窓やベランダが視野に入るマンションが隣接しています。
 傾斜地が多いこの付近では、高架橋等の目線の高さが、住居での生活目線と同じ場所が多く見られ、住人も暮らしづらいと思われます。

 1974年から造成が開始された港北ニュータウン建設地は、かつて港北区・緑区に属しますが、人口増加に伴い(1994年)ニュータウンを中心とする地域が都筑区として分区され、1996年に建設計画は完了とされます。
 この地は古くから「つつき」と呼ばれ、その読みに「都筑」の字が当てられたそうです。

 横浜市のビジョンには「住居・職場・農業が一体となった町作りを行う」とあります。
 市内で最も農家が多いのは都筑区なので、以前から土地に暮らしてきた方への配慮と、都市開発が両立したと、アピールしたいのかも知れません。
 自治体の手を離れたこれからが、町作りの正念場と思われますが、現在の経済状況には、一帯をはげ山にするような勢いはありません(そうすべきとは申しません)。
 どうしても比較してしまう多摩ニュータウンでは、風呂敷を広げすぎたせいで、町として機能しないままゴーストタウン化した地区もあるそうです。
 プロジェクトの規模が大きくなるほど、時代の読み方が難しくなる、という失敗例にならないことを祈ります……


茅ヶ崎城跡(Map)

 下写真は、雰囲気のある峠道のように見えますが、この道は付近の構造物にはNGの存在になります。
 ここは茅ヶ崎城跡で、左右にある高台の城郭をつなぐ「土橋」(通路)とされる場所なので(立ち位置は堀の底)、ここからの進入者を撃退すべき場所になります。

 茅ヶ崎城は14世紀末~15世紀前半(室町時代)の築城とされ、その時期に影響を及ぼしたのは関東管領上杉氏とされますが、16世紀中頃(戦国時代)の改築跡には、後北条氏(小田原北条氏)の影響が見られることから、北条氏の勢力下に置かれていたようです。
 しかし1590年秀吉の「小田原征伐」では、本丸(小田原城)攻撃に先立ち、関東各地の支城を攻めて小田原城を孤立させる際、秀吉軍に打ち破られた城のひとつのようです。
 石垣を用いない山城の築城方法について、現物の前に具体的な説明の看板が数多く設置されており、とっても勉強になりましたし、この日一番の収穫だった印象があります(特に城好きではありませんが、そんな時代の城跡を見てみたいと思うようになりました)。

 茅ヶ崎という地名には「小高い丘の突き出た所」の意味があり、なるほどそのような地形にも見えますが、周囲にも同様の地形はいくらでも見受けられるので、この地を限定する名称ではないのかも知れません。
 イメージとしては、現在の湘南茅ヶ崎は「何となく丘っぽい?」というイメージの方が近しい気がしています……

 近くには、鎌倉時代の鎌倉道「中の道」(鎌倉と関東各地を結ぶ道)が通され、江戸時代の中原街道や矢倉沢往還(大山街道)に加え、武蔵国府(東京都府中市)への道もあったそうです(ここからも新たな関心が目覚めそう)。
 時代は様々でも、ムラ、城、街道が集まる場所には人が暮らしていたわけで、むかしはトトロの舞台のような、丘陵地帯の縁に人が集まったことがよく分かりますし、以前から地域のセンターだったと言えるのかも知れません。
 この地域の中心は江田駅付近にあったそうですが、詳しくはまたの機会に……


 センター南駅に近い都筑中央公園は、近ごろよく耳にする「里山公園」なので、起伏に富んだ丘陵地の森をそのまま利用しているため、開けた場所は上写真のステージ広場(イベント広場)程度になります。
 ここでは炭焼き小屋(?)や、田んぼなどで実地体験ができるようですが、周辺に農業従事者の多い場所柄ですから、実際の田んぼでの実地体験へと広げるべきとも思います(知らないだけか?)。

 先日目にした配信記事に「グリーンは好きだが、虫は嫌い」という人が多いとありました。
 虫を好きにならなくとも、そんな実地体験から「身近にいろんな虫がいた」ことを、子ども時代の記憶に残すべきとも思います。
 出典は忘れましたが、「地球は虫の惑星」(生息個体数では圧倒的に多い)であることは確かなのですから、逃れることはできません。
 せっかく里山の近くに住んだのですから、それを楽しみながら暮らさないと、ただの不便な町になってしまうかも知れません……