2016/08/15

幼きころの記憶──羽根木

2016.7.23【東京都】──「目黒川を歩く_6」 北沢川_3

 今回は井の頭線沿い(明大前〜東松原駅間)を流れ、小田急線 梅ヶ丘駅付近で北沢川に合流する羽根木支流を歩きます。明大前からの流れは玉川上水の分流らしいが、羽根木の流れは湧水(湿地?)に始まったように見えました。




東松原

 近くのアパートに暮らした大学同級生の顔が浮かびます(豪徳寺モスバーガーでバイトの彼:スキューバーで潜った沖縄ケラマの話をよく聞いた)。横須賀からの通学が大変でアパートを借りたいと話すうちに、一緒に住む? と盛り上がるも、結局別の男と暮らすことに。
 一度アパートに行ったが、印象に残るのは掃除機だけというありさまで、彼を選ばなくてよかったと(卒業時にその掃除機をもらった記憶があります)。
 右は、木が倒れ道をふさぐ事態に対処する方々。交通規制が必要なため警察が出動しています。


羽根木


 付近に父の実家があるので積極的に地名は使わないも、上・右の「羽根木の森」とされる一画は地域で胸を張れそうな一画です(わたしには関係ないが)。
 1997年にスタートした農地再開発プロジェクトで、記憶に残る大木を1本も切らず、住宅・オフィス・店舗を配置した、理想的な再開発に見えます。
 通りの印象は変わらないが、何かありそうな雰囲気に誘われ、「中はどうなっているの?」と、ガキ時分からの興味を押さえられず勝手に入っちゃいました。
 そこに広がる「思った通りの光景!」は、軽井沢を想起させる避暑地のようなたたずまいで、夏でも虫除け対策をすれば心地よく過ごせそうです。

 羽根木の流れは、井の頭線(最後の踏切写真)付近の谷は深くなるが、谷頭(こくとう:谷の最上部)周辺はなだらかな地形なので、水源地は池というよりも湿地だったのではないか? いずれにしても水が豊かな地域だったおかげで、広い農地を維持できたように思えます。
 右付近の苔の様子が、しばらく洪水は起きてないように見えたのは、旧農地をはじめ、低層住宅が多いため住宅の庭などの地面に雨水がしみ込むおかげではないか? と。
 そんな半分田舎ともいえる環境が、世田谷区のエコな住みやすさをもたらしている、と再確認できた気がします。




 日本で初めて常設された羽根木公園プレーパークは、開設40年とのこと。
 子どもの遊びは季節に関係なく「火遊び(?)」や「水遊び」が混在するため、たき火の横に簡易プールが並んでいたりします(防火用水のため?)。またプールから排水されたわずかな流れも遊び場と化すので、想像通りみんなドロドロです。
 面倒を見るリーダーのオヤジたちも、ガキ大将というか「エヘヘ、どうだ〜!」と、子ども以上に遊びたい連中が集まるため、どんどんエスカレートするようにも(木製のすべり台を大人が修復中)。遊び方まで指導する必要があるのかと思うが、そこから子どもたちは新しい遊びのヒントを見つけるようです。


羽根木公園周辺の思い出


 ガキの時分、父は世田谷区軟式野球連盟の審判をしており、連れられて区内の球場(砧公園など)に行った覚えがあります。羽根木公園が印象に残るのは、父の実家で祖母・伯母が作る審判団の昼食のおにぎりを運ぶ、伯父の自転車に乗せてもらい球場に向かった思い出によります。
 子どもの目に父の審判姿はカッコ良く見えましたが、活躍する役回りではないし、試合中の選手からアイスをもらい「審判を買収するのか?」とヤジられたことも。
 上は現在の様子で、自分も草野球をしていた時分は審判に敬意を払いましたが(暑い中、ありがとうございます!)、いま思えば小遣い稼ぎだったのだろうと……


 伯父の自転車に乗る際は、荷台におにぎりのトレイを積むため、映画『ニューシネマパラダイス』のようにフレームに乗せられたが、映画同様の至福感を覚えています。
 上の跨線橋と右の踏切は200m程度で、どちらを通っても遠回りにはならないので、「今日はどっちから行く?」と問われ、「踏切!」とせがんだ記憶が残ります。
 いま思えば、ガキを乗せて坂を上るのは大変と反省するも、「そうか」と坂を下り上ってくれた伯父の表情が思い出されます……
 上・右の大木は「羽根木の森」地主の敷地にあり、以前のまま残されることに、感謝したくなります。


追記──目標を見据えた日本選手団が躍動するリオ五輪!

 オリンピックでの日本選手の活躍は往々にして散発的なため、応援する気持ちはあっても「やっぱりダメかぁ〜」と、いつの間にかフェードアウトしてしまうが、リオ五輪前半は成績だけでなく選手たちの懸命さが伝わってくるので、ついつい見てしまう方も多いのではないか?
 次の東京大会をターゲットとしたロードマップを描く若い選手たちが、リオ大会を「世界にチャレンジする最初のステップ」とし、失敗をおそれず挑んだことが好成績につながったのでしょうし、きっと本番の糧になるはずです。
 後半の躍動からも東京大会に思いを馳せたいと、ついつい見てしまいそうです……

2016/08/08

ふたをしたい分別盛り──下高井戸

2016.7.16【東京都】──「目黒川を歩く_5」 北沢川_2(松原赤堤支流)

 今回は京王線 明大前〜下高井戸駅間を水源とし、小田急線 豪徳寺駅付近で北沢川に合流する松原赤堤支流を歩きます。元の流れは少ないため灌漑用に玉川上水から分流したらしく、世田谷線沿いの流れは、親水施設として整備されました。




日本大学文理学部(出身大学)


 市街地同様キャンパスでも戦後期建築物の建て替えをよく目にするが、ここにもタワークレーンが並ぶため、よりどころがあるうちに確認しておこうと門をくぐります。
 在学時から半分程度建て替えられた状況ながら「道半ば」の意思が感じられるので、近いうちに以前の面影は消えてしまいそうです。中庭をつぶして教室数は確保できたため、上の1号館だけはシンボル(昭和12年:1937年建設)として保存するようです。
 訪問日はオープンキャンパスが開催され、多くの子どもたちが走り回っていましたが、マンモス学校にとって次世代へのアピールは、必修課目に違いありません。
 リオ五輪陸上代表ケンブリッジ飛鳥(卒業生)の垂れ幕を目にし、応援しなきゃと……


下高井戸駅

 昭和の香りが残る下高井戸駅前市場では、「刺身上がったよ!」と威勢のいい魚屋は元気でも、数件あった八百屋は閉店しました。ライバルとの競争ではなく、近々始まる京王線連続立体交差化工事の立ち退きか?
 京王が目指す「カーブ状ホームの解消」には、駅を左側に移設し駅前市場付近を通す必要があります。町は時代と共に移り変わる宿命を持ちますが、今度の駅前は便利になりますことを(現状は不便でも、いい雰囲気でした)。
 駅前市場付近のシャッターには「昭和の青春」がしみ込んでいる(ドラマは夜に生まれるのです)、と感じる人は多いのではないか……


松原赤堤支流の水源付近

 右は、京王線 下高井戸駅から明大前駅を見た絵で、途中の谷地は記憶にありますが、そこにあった水路に関心を抱くまで、数十年かかりました。
 江戸期以前は細いの流れで十分でも、人口増+耕地拡大により、玉川上水の水を引く必要に迫られたようです。
 川というのは、下流に向かうにつれ主流に集まる人間の静脈のような存在ですが、上水は、下流に向かい枝分かれする毛細血管のように、細やかに水を行き渡らせる目的を持つ動脈のような存在です。
 付近ではこの支流のように、耕地との高度差が小さい(浸食力の弱い)流路が灌漑用水として活用されました。

 右は支流沿いにある震災時井戸水提供の家(世田谷区内に2000箇所以上あるそう)。
 場所によっては水流が細くなったり、熊本地震後のように地下水脈が影響を受け、使えなくなる可能性もあるため、平時からそんな事態も想定した備えが必要です。
 人は水に恵まれた地域に集まり(付近の公園が水源だったらしい)、最初は共同で井戸を掘り地域で利用し、後に各家庭用の井戸が掘られたのでしょう。掘っても出ない場所への融通は可能でも、需要の増加から枯渇する地域もあったのではないか?
 水道に頼り切りのわれわれは、緊急時の水問題に対処する術を持たないので、確実に水難民になりそうです……


赤堤(世田谷線 松原駅付近)

 付近で暮らした学生時分、世田谷線沿いの用水路は開きょのどぶ川でしたが、現在はふたがされ歩きやすい親水施設に整備されました。
 大学周辺からよみがえる当時の記憶は、周囲に迷惑をかけた恥ずかしいものばかりで、年齢と共にネガティブな記憶を思い出すことが増え、そこだけふたをしたいと思ったりします(分別がつく年ごろの中年を「分別盛り」と表現するそうです…)。
 当時の生意気な言動を見逃してもらった経験から、若い世代に対し寛容に接するつもりも、世代間ギャップのためか時折イラッとすることがあります。その免疫は子育てから身に付くようで、経験の足りなさと……



 外からは丘陵地のように見える巨木に囲まれた一画は、地元で「六所の森」と自慢げに呼ぶ立派な森です。赤堤地区の鎮守(六所宮とされる府中「大國魂神社」を勧請したもの)で、手水舎(ちょうずや)の亀(カメの甲羅は六角形つながり)は、センサー稼働で驚かされます。
 世田谷城が築かれた時分(1400年前後 室町時代)、付近に「赤堤砦」が設けられ、江戸時代には幕府の天領とされます。江戸期の天領といえば鷹場ですから、玉川上水の水を引いたのは獲物を育てるためか?
 以前世田谷線には六所神社前駅があり、その後移設され現松原駅になったそう。


世田谷線 山下駅


 小田急線 豪徳寺、世田谷線 山下と異なる駅名が隣接するも、山下の山は豪徳寺のことで、両線が立体交差するように、異なる表現で地域のシンボルをアピールしています。
 世田谷線は10編成(各2両編成)で運行され、各編成で異なる車体カラーは、以前のカラフルなiMacのような「多様化時代」の対応を目指すのでしょう。好みが分かれることを前提に、井の頭線のように車体カラーに関心を向けさせた狙いは成功では?


追記──甲子園のグラウンドから女子マネージャーをつまみ出す規則

 監督のゲリラ的な計画は排除覚悟のように見えたが、窮屈と感じる野球競技(全般)の取り決めへの、見事な一石となったのでは?
 高野連が説明する「安全面の配慮」とは、各校のグラウンドでの事故は学校の責任だが、甲子園での事故は自分たちに責任が及ぶので困る、と理解していいでしょう。
【学生野球の基本原理】
 学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする。

 とあるが、その後の細則でどんどん理念が狭められていきます。押しつけではなく、疑問を抱く関係者(元球児など)の意見に、耳を傾けるべきと感じた事例です。


追記──ドーピングを排除できないリオ・オリンピック開幕

 近ごろの競技会にドーピング問題は付きもので、バレない不正を目指す側と、検査精度向上により不正をあばく側の、いたちごっこの人体実験場の印象があります。
 不正排除を目指す(?)国際オリンピック委員会(IOC)に影響力を持つ裏の力(金?)が存在することは、ロシア選手のオリンピック出場を可能とするも、パラリンピックを見放す「意思」から見て取れます。
 イベントの看板が腐ってしまったイメージがあるが、「スポーツマンシップを取り戻す東京オリンピックに!」しなければなりません。

 現在携わる乗馬関連の配信動画に出演いただく福島大輔 氏が、障害馬術(ジャンプ)代表に選ばれ応援せねばと思っていますが、期待感や人気の無いことからBSでも放映されないようです(LIVE配信で応援します)。

2016/08/01

ひまわりは見るだけよ!──上北沢

2016.7.10【東京都】──「目黒川を歩く_4」 北沢川_1

 今回から、池尻大橋付近で烏山川に合流する北沢川を歩きます(その下流が目黒川)。
 通った大学(日大文理学部)付近の暗きょを北沢川と認識して歩くのは初めてでも、川沿いの何げない景色から当時の記憶がよみがえります。





将軍池(都立松沢病院)


 北沢川の旧水源とされる将軍池は、都立松沢病院の敷地内で立ち入れません。
 ここは精神科専門病院として設立され、当地移転に際し院長の要請「治療・療養には、患者さん一人に100坪が必要」が受け入れられ、広大な敷地を有します。上の池は治療の一環として患者の手で造られたが、庭園として高い評価を受け海外に紹介されたそう。名称は作業者の患者が自称した「将軍」にちなむ。
 以前から湧水のある湿地帯だったらしく、尾根筋(玉川上水が通された分水嶺)から少し低い場所に湧水があったことは、この先を歩く上のヒントになりそうです(流量が少ないため、玉川上水の水が引かれた)。同級生が付近に暮らしていたような記憶も……




 学生時代に通った自動車教習所では、クランクのバック通過をやらされています。「後部ドアの三角窓に○本目のバーが入ったらハンドルを切る」のような、車種で変わることをマニュアル通りに教えるの? と思ったが、今となれば「説明が難しい」ことも理解できます。いまどきはリアモニター搭載車で、前輪が膨らむ感覚を練習しているのか?
 路上教習では環八通りや246号線をガンガン走らされビビったが、アクセルを思いっきり踏み込ませて「それは踏み過ぎ」の練習で、流れに乗る感覚を理解した覚えがあります。
 当時の車体は全身「ライトグリーン」の派手さで目立つため、余計に緊張した記憶がありますが、この地らしいイメージカラーの印象も。


 教習所周辺には現在も所々に農地が見られます。
 宅地に囲まれた農地は往々にして、後継者不在から老夫婦では手入れできない区画を手放したものらしく、マンションの存在感と比較されると取り残された印象になります。
 農地の一画に設けられた即売所から、客との弾んだ会話が聞こえます。
 狭くなった農地の出荷品目は限られても、手売りでの近所付き合いを楽しめるなら、適度な労働で小遣いも稼げる老後を送れますし、近隣住民にも「地産地消」による互いのメリットを浸透させることができます。
 「今度、ひまわりを分けてよ!」に対し、「ダメ〜、ひまわりは見るだけよ!」の返事は、自然の恵みを糧に生きてきた知恵なのでしょう。みんなで夏のシンボルを楽しめば、子どもの記憶に刻まれ、写真も撮れますから、共有を目指す姿勢こそ本来の「エコ」ではないかと感じます。


桜上水 周辺

 右の荒玉水道道路は、多摩川の砧きぬた浄水場から板橋区大谷口へ送水する地下水道管上の歩道が車道とされたため、水道管保護用の車両規制ゲートや、両側の電柱も障害物として残され、直線なのに走りにくくモヤモヤする道。
 付近にはタクシー運転手も走りづらいと嘆く、あぜ道を道路としたような迷路が続くため、結局この道を選択するしかなかった記憶があります。
 住民のモヤモヤ解消に向けた取り組みは、世田谷線松原駅前の道路拡張に見られるも、途切れた先には住宅街が広がり、区画整理には「なが〜い目」が必要なようです……


桜上水ガーデンズ(旧桜上水団地)


 現在の施設は「ぬけられません!」。
 至る所で「私有地」と差別化を主張する様に、入ってやるもんか! と思うような、高級分譲マンションに生まれ変わりました(古くは牧場)。
 近隣に商業施設は無いが、買い物は下高井戸商店街というスタイルは結構いけそう。
 桜上水団地(リンク先は懐かしい写真)当時は学生がご迷惑をおかけしたと思いますが、桜並木の通り抜けは見事でした。卒論の担当教授が団地にお住まいで、ウイスキーの瓶を冷蔵庫で冷やす様子に「飲んべえのいじらしさ」を感じたことも。
 手前は日大のグラウンド。右端の大木付近に弓道場があり、脇を通る際「シュッ」「ポス」(矢を射り、的中した音。確か外した音も区別できた)の音を耳にした瞬間「変わらない!」と、当時の空気感がよみがえりました。


小田急線 豪徳寺駅・世田谷線 山下駅 周辺

 豪徳寺駅前を通ると『男たちの旅路 車輪の一歩:山田太一脚本 1979年 NHK』を想起します。──車椅子生活者は周囲へのサポート依頼を尻込みしてしまうが、社会はその勇気を無視しないはずである。
 舞台とされた豪徳寺駅前の階段は、高架工事に伴う駅改築の際にバリアフリー化されました。
 まだ町中には不便な箇所が多いと思うも、公共施設のバリアフリー化が一気に進んだように、国は自治体の要請に耳を傾け、きちんと旗を振るべきと感じた事例です。
 YouTube動画に車輪の一歩のラストシーンがあります。右は宮坂側の路地。

 上のYouTube動画の背景に映る「モスバーガー」の店で同級生がバイトしており、テリヤキバーガー初体験の衝撃を思い出しました(現在閉店)。
 付近にある右の「満来:まんらい」は200円ラーメンで知られ、TVで「自分が生きている間は値上げはしない」と宣言した先代は101歳の大往生。
 二代目の値上げも250円(2012年)と心意気を受け継いだが、現在「しばらくお休みします」の張り紙と、メニューにラーメン300円とある様子から、二代目の苦労が察せられます……(以前100円は勘違いか?)


追記──元千代の富士(九重親方)が亡くなられました

 以前、六本木ヒルズですれ違った際、Z軸(身長)以外のXY軸(肩幅、胸の厚み:お腹ではない)のガッシリした体に見入ったことがあります。背のない体で格闘技の頂点に立つための努力は並大抵とは思えないし、「小よく大を制す」の体現者として人気を博したことを再確認しました。
 売り出し中だった若手の貴乃花に負け、引退した情景は「世代交代」の儀式のように、印象に残っています。
 お疲れ様でした……


追記──「メーヴェ」が飛んだ!

 宮崎駿さんのアニメ作品『風の谷のナウシカ』に登場する「凧(たこ:劇中表現)」をモデルとした、小型飛行機が空を舞いました(タイトルリンクに動画があります)。
 夢を実現させた努力は賞賛しますが、あまりにも無謀な挑戦という印象を受けます(落ちたらOUT)。ですが、ライト兄弟に対する周囲の目も同様だったと考えれば、人類におけるエポックとなるかもしれません……

2016/07/25

走るタイムカプセル──世田谷

2016.7.2【東京都】──「目黒川を歩く_3」 烏山川_3

 世田谷のボロ市は、室町時代の世田谷城前を通る鎌倉街道宿場町の楽市に始まり、北条氏が秀吉に滅ぼされてからは農具市、明治期には古着・つぎ用のボロの扱いが増えたため、現在の名称とされます。






 世田谷区には古墳が多く残るため、展示品は区の施設とは思えないほど豊富で多岐に及びます(歴史年表を作れそう)。現在野毛大塚古墳からの出土品を、国の重要文化財指定に答申中とのこと。
 また古い写真展示も印象的で、三軒茶屋のにぎわいや、未舗装の環七通りを自転車が走る絵には、当時の自慢を残したい心情がうかがえ、そのインパクトは現代にも伝わったと撮影者に伝えたい。上は保存される旧世田谷代官屋敷で、入口前がボロ市通り。

 ガキの時分、近所の家族が付近(上町)のマンションに転居し、遊びに行った際「これがマンションか!?」と驚いた記憶だけ残っています。


世田谷区役所


 上は、地下売店への階段。東大の安田講堂前のように、広場地下の有効活用がトレンドとされた時代の懐かしさがあります。
 以前、わたしの本籍は父の実家に置かれたため証明発行に何度か訪れましたし、大学時分に「16ミリ発声映写機操作資格:16ミリ映画フィルムの貸与・上映資格」の講習に通ったこともあり(結局、使うことはなかった…)、懐かしさを覚える区役所で何か撮っておこうと……(建物は当時のまま)



 山口県萩市の松陰神社は、吉田松陰が開設した松下村塾が祭られる本家。本施設は、刑死後小塚原の回向院に葬られた亡がらを、高杉晋作たちが改葬した墓の側に創建されたもので、境内にある松下村塾のレプリカは、現在修復中。右は夏越の祓(なごしのはらえ)の茅の輪。
 吉田松陰という人の表現や行動には疑問を感じる面もあるが、死してなお「革命家」として輝きを放った存在感に、否定する余地はありません。
 旧烏山川を挟んだ丘には、安政の大獄で松蔭を追いつめた井伊直弼(日米修好通商条約、徳川家茂の将軍指名を朝廷の許し無く断行し、抵抗勢力を弾圧した)の眠る豪徳寺がありますが、現在も松蔭の揺るぎない信念(井伊直弼が敵ではない)が感じられるよう……


信号待ちの東急世田谷線(若林駅付近)


 世田谷線は専用軌道を走るので路面電車ではないと思ったら、信号待ちをする上の環状七号線との交差部分が併用軌道とされ、路面電車に区分されるそう。
 都営荒川線同様「走るタイムカプセル:乗車した瞬間に懐かしい記憶がよみがえる」のようで、若い時分をふりかえると、近ごろ見失った謙虚さや心がけを再認識し、初心を忘れずに行動せねばと引き締められる思いがします。
  新車両の座席は前後を向く個別シートとされ、狭くて足が収まらない人は「潔く立ってなさい!」にも、自覚を持ってシャキッと立てます。 世田谷線ですもの……

 世田谷では珍しいノッポビル「キャロットタワー:27階建ての文化施設、商業施設、行政窓口」は、目印に格好のランドマークです(右)。




 太子堂とは聖徳太子像を祭るお堂の名で全国に存在します(付近では地名とされる)。
 聖徳太子に抱く学問の神様的なイメージは、日本に仏教を広めた功績により宗派を問わず慕われるためのようです。
 伝説のヒーローを1万円札(1958年〜1986年発行)として崇める信仰心が、高度成長期のモーレツな向上心を生み、この国を豊かにしました(発行停止後バブル期に突入)。
 現在肖像は「伝・聖徳太子」と信ぴょう性を疑われるも、「鰯の頭も信心から」で、「日本人はやる気になればスゴいんです!」を証明したのだから、結果オーライでは?
 当地には、明治4年(1871年)世田谷区内初めての学校「太子堂郷学所」が開かれます。


 上は太子堂に近い「したのやばし公園」。
 最初に「おもちゃのかたずけ場所」の看板を目にしたので、この自転車や遊具は公園の備品と思ったら、「家庭で使用しなくなった物(三輪車など)を公園に置いていかないで下さい」とあるので、不要品の捨て場とされている様子。
 ガキはガラクタでも遊べますが、トラブルを自治体に持ち込まれては困ります。


追記──「ポケモンGO ゾンビ」から身を守るには?

 世界中に増殖する「ポケモンGO ゾンビ:心を奪われ熱中する姿」が事故に遭うのは勝手だが、事故渋滞や線路転落事故による遅延などに遭遇したら大迷惑! ですが、集客が期待できるので営業サイドとしては有効活用を考えたくなるのも確かです。
 いっそのこと、歓迎する施設は「ポケモンGO!」、迷惑ならば「ポケモンNO!」とすれば施設の性格がひと目で分かるので、「NO」を選べば一安心という気もします……


追記──祝200勝! 黒田博樹投手

 達成目前でもたもたした姿に「相当しんどいんだろうなぁ」との印象を受けました。
 とはいえ、今年は25年ぶりの優勝に向けこれからが正念場ですし、日本シリーズでの勇姿を見せてもらいたい!
 結果はどうであれ日本シリーズ終了後には、心から賞賛の拍手を贈る心づもりなので、燃え尽きるまで挑む姿、心に刻まれる闘志を、是非!(勝手を申してスミマセン…)

2016/07/18

欲を忘れませんか?──豪徳寺

2016.6.25【東京都】──「目黒川を歩く_2」 烏山川_2

 小田急線の高架後から電車を利用した人たちには、現在車窓から見える景色が沿線風景として記憶されるでしょうが、以前の風景が焼き付いた利用者には(ポイントの通過音も変わり)、どこを走っているのかさっぱり分からなくなりました……






 線路の高架に伴い、改札が地下だった地上駅、踏み切りや車両基地も消え、当時の記憶とつながるのは、農大・すずらん通り商店街+裏路地や、美登利寿司(梅丘の「寿司の美登利」とは違うそう)だけとなっては、すっかりお手上げです。
 大学に通う道に利用したすずらん通りにあった、わたしと同姓の豆腐屋も姿を消してしまい、年を数えてみれば「あれから35年」とは……

 上は、旧経堂ジョイフル&経堂アパート跡地に建てられた経堂コルティ。旧施設は10階建てで、1972年建設時はとても高い印象だったが、現在の施設は4階建て。
 小田急による、旧車両基地の住宅建設+本商業施設の複合的な再開発で誕生します。自治体の建築制限とすれば、再訪者に「世田谷らしさは変わらない」印象を与える狙いは成功と言えそうです。

 当時の旧経堂ジョイフル前で、TV『俺たちの旅』出演の金沢碧さん(当時のマドンナ)にサインしてもらった情景がよみがえります!(あれは棄てられません…)
 右は、緑道にある「石仏公園」のかわいらしい石仏。




 境内にある劇場のような土俵では、例大祭に東京農業大学相撲部の奉納相撲が行なわれます(真剣勝負らしい)。江戸三大相撲の中でも、毎年定期的に開催されるのはここだけとのこと。
 地域文化の継承には若い力が必要で、多くの地域が協力者集めに腐心しますから、「援農」として単位を与える制度があれば、地方遠征も可能になるのではないか? 農大の学生にとっては、いい経験になるはずです。
 神社脇の「宮の坂」が、地名「宮坂」、世田谷線「宮の坂駅」の由来。




 近ごろ「開運良縁のパワースポット」として若い女性に人気らしく、ひとりで訪れる方を目にしますが、それを標的とする? 年配の「自称ボランティア」が、カサカサと近寄っていきます(良心的な方だったらゴメンナサイ…)。
 説明に感謝しつつも「ジジイとの出会いを求めて来たんじゃない!」し、ご利益を使い果たしては参拝の意味がありません。
 猫は良縁を招こうとしても、仏様が考え込んでいるのは「坐禅して欲を忘れませんか」ということか?(ここは曹洞宗の禅寺)


 有名になった招き猫(寺では招福猫児:まねぎねこ)は、寺と井伊家(菩提寺とした)の出会いに由来します。
 彦根藩主 井伊直孝が鷹狩の帰りに、寺の飼い猫の手招きに誘われ一休みすると、急な雷雨となり「猫の招きで濡れずに済み、縁起がいい」をきっかけに縁が深まったそうで(桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の墓もある)、井伊家が城主だった彦根城「ひこにゃん」も仲間らしい。
 以前より猫の数が増えたと感じたのは、祭事の時期による変化のようです。



 室町時代初期(南北朝時代)に、足利氏と同族の吉良氏により築城され、後に北条氏直轄となるも、秀吉の小田原攻めに伴い廃城とされます。吉良氏は「忠臣蔵」の吉良上野介の家系。
 東京において(と断っておきます)吉良・井伊家に対する好感度が低い印象は、名門の家柄に対する江戸庶民の「判官びいき:弱い立場への思い入れ」によるのではないか? われわれが「てやんでぇー!」な江戸っ子を憎めないのは、その心情を理解できる庶民だから? と思ったりします。


追記──天皇の「生前退位」

 「隠居の選択」という「人間性の回復」を求める意思が報じられました。自身の発言前に舞台を整える段取りは、国民に心の準備を促す配慮のようです。
 平成天皇は皇太子時代に戦争を経験しており、自身も責任を感じるためか、昭和天皇の遺志によるためか、戦地への慰霊を繰り返しました。
 すでにドクターストップがかかっているのかも知れませんし、責任感の強い方が体調に自信を持てない状況とすれば、「死ぬまで天皇」を求めるべきではないと思います。
 そんな気持ちを国民に芽生えさせた平成天皇は、着実に皇室のあり方を変革したと言えるのではないか?

2016/07/11

熱中症予防は緑の木陰で──烏山

2016.6.18【東京都】──「目黒川を歩く_1」 烏山川_1

 今回から目黒川水系をたどります。
 目黒川は、池尻大橋付近の烏山川と北沢川(共に暗きょ)合流地点から下流側の名称とされるので(中目黒付近で蛇崩川が流入)、最上流である烏山川水源付近から下ります。



 標高図の色の濃さから、前回の三田周辺との高度差が分かります。




 烏山川の水源は、以前立ち寄った烏山寺町にある高源院(弁天池)とされ、池には流入下水が無いおかげで、湧水や雨水だけの澄んだ水で満たされています。
 寺は、久留米藩 有馬家藩主により品川に建立されますが、震災により荒廃した寺をこの地に移転させたのも、15代当主 有馬頼寧(よりやす:伯爵)とのこと(「なさけありまの水天宮」は健在!)。JRA理事長時代には、出走馬をファン投票で選ぶ「有馬記念」を創設し名を残す方で、一族には直木賞作家や、水天宮の神職を輩出する名家。
 味方かは分からないが、庶民サービスを率先する家柄だったようです。




 熱中症関連で耳にする「暑さに慣れてない体」を慣らそうと挑むも、当初は「クラ〜ッ」とくる瞬間もあるわけで、それを救ってくれたのは以前も訪れた竹林の木陰でした。
 自然との距離感はなるべく近い方がいいと考える、日本人の絶妙なさじ加減を実感します(来る者は拒まず介抱してやる、のようにも……)。
 都心のビル風でひと息つくことと、寺町での深呼吸は別物で、木々がやわらげてくれる空気こそ、熱中症を予防してくれるように感じます。



 施設は、ウテナ本社および創設者 久保政吉旧邸(右)の隣接地を貸借し建てられたもの(1995年開館)。
 自治体側としては、駅・学校や蘆花恒春園にも近い好立地ですし、企業側にも地域貢献としてこの上ない、ベストマッチの印象を受けます。
 この手の施設では「コレクション」として、間口を広げたがるもので、「キネマ旬報バックナンバー揃う(全巻は無理)」は、区内在住の方からの寄付だったりします。ちなみに第一号を刊行したのは、東京高等工業学校(現・東京工業大学)の学生なので目黒区がルーツ。


都営八幡山アパート

 右は付近に健在の都営住宅で、号棟の字体がガキ時分に暮らした公団とそっくりなのが懐かしく……
 現在ランドマークの座は、清掃工場の煙突に奪われるも、環八通り沿いの給水塔も健在です。
 若い時分の、車に乗りたい盛りは車窓からよく目にしたものですが、オートバイを手放してからは都心の幹線道を走ることは皆無となり、散歩でも大通りを避け裏道を歩きたいため、幹線道沿いが弱点と気付かされます。
 久しぶりの「昭和遺産」を懐かしく見上げました。




 明治期の小説家 徳冨蘆花(とくとみろか)の旧宅・耕地・墓地(も残る)を整備したもので、周囲の施設も含め芦花公園(京王線駅名も同じ)と呼ばれます。
 蘆花とは「蘆(あし)の花:紅色」で、目にしたことはあっても、ススキとの違いを意識してないことに気付かされたので、次回はちゃんと観察します。
 右はスズメのお宿のようでいい雰囲気と思うが、以前は田舎だったイメージを払しょくしたいのか、自動車の世田谷ナンバーには自負を持てないようです。
 わたしには、ちょうどいい生活環境の印象があります。



 旧流路は、芦花公園付近から緑道として整備され、岸辺に並んだと思われる並木が残る右写真周辺には、ひと息つける安堵感があります。

 京王線沿線には、父の実家や、通った大学があるため、些細なきっかけから懐かしさがよみがえります。
 大学の野球大会に向け、芦花公園で練習したことを思い出した際、3人しかいない同級生女子全員で試合の応援をしてくれたのに、「少な…」と感じた寂しさがよみがえるのは、当時の素直な印象だったようです……(感謝すべきなのにね)


追悼──アッバス・キアロスタミ(イランの映画監督)

 大好きな監督が亡くなりました。
 人の生き様はまどろっこしく、面倒くさいほど遠回りを強いられ、つづら折れの道を歩くようでも、着実に前進しているはずである、と諭してくれた。
 『友だちのうちはどこ?:1987年』の宿題ノートの押し花が忘れられないのは、間違いをやり直そうとする努力は報われるはず、とのメッセージを応援したいからである。
 1990年の大地震以降も繰り返される地震からの復興や、光が差し始めた欧米との関係修復に注がれる努力が報われることを祈り、『そして人生はつづく:1992年』のでしょう……
 ありがとうございました!

2016/07/04

丘の上が似合う学府──三田

2016.6.11【東京都】──「旧入間川(いりあいがわ)を歩く」

 旧入間川は渋谷川(古川)の下流と並行する流れで、海水の影響を受ける場所柄から、縦横に作られた運河(水路)の、海とつながる幹線だったのではないか?




かんぽ生命東京サービスセンター(旧簡易保険局)

 「かんぽ」にはお世話になるので身近と感じるも、このサービスセンターは敷居が高すぎです。
 ルーツの逓信省(交通・通信・電気を管轄)は、戦後に通信事業だけの官庁となり、1948年二省分離(郵電分離)で郵政省(2001年廃止→日本郵政へ)と電気通信省(1952年日本電信電話公社→1985年NTTへ)に分割され廃止。
 残された、国営銀行(旧貯金局庁舎:現麻布郵便局)、国営生命保険(旧簡易保険局:右)の資産(震災後に移転した建物)は、日本郵政が引き継ぎます。
 サービス低下の迷惑を被ったのは、郵政民営化を急いだ政治家のせいではなく、資産にあぐらをかく体質としたら、利用者が声をあげる必要があります。




 門から結婚披露宴の出席者と思われる一行が出てきます。日立目白クラブ同様、関連社員は利用可能と聞くと、のぞいてみたい気も。
 ジョサイア・コンドルの設計により、三井財閥の迎賓館( 1913年:大正2年竣工)として建てられたが、戦後は米軍オフィサーズ(士官)クラブとされた時期も。
 旧佐土原藩(さどわらはん:現宮﨑県)屋敷跡に建てられたもので、明治期の伯爵を輩出した名家への配慮か、少し前まで佐土原藩藩邸の長屋が保存されていたらしく、名士とされる勢力の変遷を伝えていたようです。




 震災後の復興計画により大使館が転入した1932年(昭和7年)当時の付近は、旧簡易保険局等も受け入れられる、ゆとりを持つ郊外(田舎)だったようです。
 旧公爵邸跡の精神を引き継いだのか、派手さを抑えたイタリアの田舎風というか、日本に配慮した佇まいで、1965年に建てられた施設内部には和風を意識したシックな印象があり、イタリア人のセンスに好感を抱きます。
 敷地内の池は、旧入間川水源の位置としてはピッタリですが、流れを生むほどの水量ではななかったようにも(近くのマンホールから聞こえる流れの音は、一般の下水か?)。



 本学のルーツは、中津藩士 福澤諭吉が藩命により築地鉄砲洲(中央区明石町:聖路加病院近く)の藩屋敷に開校した蘭学塾(1858年:安政5年)で、1868年(慶應4年・明治元年)に年号から名称を定め、1871年(明治4年)に現所在地に移転します。
 三田の丘(三田段丘)に現存する施設としては最古参。キャンパスへの道はどこも坂道と「丘の上:応援歌」で歌い、右の東館アーケード上部には、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」を意味するラテン語が記され、門前からも学府(丘の上)への坂道に威厳を感じます。

 丘の下に広がる慶應仲通り商店街の迷宮には、戦後から変わらぬような町並みが残ります。学生街というよりビジネスマンの溜まり場的な印象は、慶応のお坊ちゃま・お嬢ちゃま方は、路地には近寄らないとの思い込みか?
 ですが、週末にリーズナブルな店の前に並ぶ姿は、「社会経験から身につけた嗅覚」に違いありません。

 三田の由来とされる「献上米を作る屯田:みた」「伊勢神宮または御田八幡神社の神田:みた」は、一ノ橋方面にあったのではないか? 付近の水田地帯は潮の影響を受けるため、いい米は上流側で作られたように思えます。


Topが腐った企業の方程式?


 以前よく耳にした「腐ったミカンの方程式:金八先生」の表現には、箱の底でつぶされたミカンが腐り始め、それが周囲に広がるイメージを持っていたが、そもそもTopが腐っていたら下のミカンは「君たちも腐るのだ!」と、強要されるようでおそろしくなります。
 近所で「ゲスな会社:こんな使い方にはピッタリ」を目にするのは(三菱自動車はアパートの並び、東芝は第一京浜から見える)気分がいいものではありません。
 それでも、「浦和レッズ問題」は何とかしないと(三菱が日産の子会社になると、マリノスとレッズが同じ会社のチームとなり、Jリーグ規定に抵触する)、一帯がレッズサポーターに取り囲まれそうです。
 他にも、軽自動車S社のラジオCMで、アイドルたちが燃費の優位性を強調させられる様には、言わされる側の気持ちを察してしまう……


芝浦にあった海水浴場

 明治期の付近には、病気療養、健康増進の目的で開設された海水浴場がありました。
 波の穏やかな付近は、江戸期から観月の景勝地(海に映る月を楽しむ)でしたが、1872年(明治5年)防波堤上の鉄道敷設を契機に、埋め立てが本格的に始まります。
 手前のツインタワーは、1991年建設のシーバンス、右端は東芝ビルディング。
 不正会計問題後、白物家電を手放しても『サザエさん』は継続らしいが、アニメの主人公がスポンサーによるイメージ低下を不安視するって、なかなかありません……


 渋谷川(古川)と田町間には、現在も整然とした町並み(格子状)や、あぜ道 or 水路跡のように見える場所が残るので、ルーツをひも解くヒントを得た気がします。
 今回の旧入間川は、一話で完結です。


追記──新おがさわら丸 就航!(リンク先はPDF)

 本土(竹芝桟橋)と小笠原諸島 父島を結ぶ船旅が、片道1時間30分短縮され「24時間」となり、小笠原村村長は「短くなった1時間30分をどう使うか。その余裕ができることで、小笠原にやってくる関東圏中心の観光客層が、さらに中京圏や関西圏にも広がることを期待する」と語るが、「行くぞ!」と決心する側にとって1時間30分は誤差範囲ではないか?
 「日本一贅沢な船旅」とされる、島影も見えない「孤高な船旅」を味わえるが、3食同じ食堂で、同じオヤジ(乗組員が兼務のため仕方ない)の顔を見て食べる状況から逃げられないことに、息が詰まった印象が残ります(もちろん、帰りも同じ顔……)。
 それだけの時間をかけても、訪れる価値のある島であるとの応援は続けますが、島に暮らす大学の同級生には申し訳ないが、もう「行くぞ!」の気力は無さそうです……